日曜日は大抵夜の 6 時から NHK 第 2 を聴いている.
福祉や文化講演会, カルチャーラジオや英語の練習などの番組があって楽しい.
多分, 文化講演会ではないかと思うのだが, 宮沢賢治の話とドストエフスキーの話をしていて面白かった (†1).
半分まどろみながら聴いたのだが, こんな内容.
宮沢賢治の『無声慟哭』という詩の中に妹トシの臨終の床での描写がある (†2).
トシが私のからだは匂うだろうと賢治に言う.
それに対して賢治が, 夏の野原の白い花のような香りだと答える場面.
評者がこの描写について話していたことが興味深かった.
私たちは直接見える光景とは別に, もう一つの目で見た光景を持っている.
これはもう一つの目で見た光景である, と.
これは共感できる.
自分ではうまく表現できないが, 確かに直接見た光景とは別の風景を誰しもが見ていると思うのだ.
続いてドストエフスキーの話.
ドストエフスキーにとっての大きな心の傷が 2 つある.
1 つは彼の父親が何物かに殺されているということ. つまり父親殺し.
もう 1 つは彼自身が空想的社会主義の挫折からの死刑執行直前にロシア皇帝による恩赦で助かったこと. 死んでいた筈が生きてしまったこと.
『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至る 5 大長編にはこの 2 つの出来事が大きく影響している.
そこで, 彼自身が延々と考え続けていたこと.
彼がそれまで持っていた深い倫理観が, 工業化による社会の急激な変化・貧困と犯罪の蔓延・自然災害・ロシアとトルコの戦争などの混乱・彼自身の世界終末観によって, ほとんど何の意味も持たないまでに破壊される.
神による救済を信じようとしても, 神は何もしてくれない.
なぜ神は救いを求める人びとを無視 (講演者は「黙過」という言葉を使っていた) するのか.
神に救済を求めることができないならば何が人を救済し得るのか. そもそも救済などというものがあり得るのか.
ドストエフスキーが辿り着いたのは, 神ではなく自らの生命とひたすらに向き合うことしかないという結論だった.
これは最終的にドストエフスキーがそのような結論に至るまでの議論が非常にドラマチックで聴いていて興奮した.
†1: これは次の 2 つの番組で取り上げられた内容である. 3 月 19 日 (日), NHK 第 2 放送:
8:00 PM - 9:00 PM:『かなしみの哲学・死者と共に生きること ── 宮沢賢治と須賀淳子』若松英輔
9:00 PM - 10:00 PM:『ドストエフスキーと現代 ── 黙過と想像力』亀山郁夫
†2: 宮沢賢治『無声慟哭』より抜粋
(それでもからだがくさえがべ?)
(うんにゃ いっこう)
ほんたうにそんなことはない
かへってここはなつののはらの
ちいさな白い花の匂でいっぱいだから
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