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2024年08月12日

 1016 パンの耳




ひかる19歳。パスポート持参で貧しい中での上京。
頼る人とて無く、バイトに夜学。
バイトの金が入るとラーメンを箱ごと買い込み、コッペパンとの連続。
食べ物さえ確保するのが大変な時期でした。
何時ものパン屋へ行った、ある日の出来事。
顔色は浅黒く頬は痩せこけ、明らかに上京したての田舎顔。
手はズボンのポケットへ入れ、十円玉を数え、買えるかどうか思案中。
目は卑しくも買えるはずのない、美味しそうなケーキの方へ行ってしまいます。
一度でいいから、ケーキなる物を食べてみたい・・
しかし金がない。
空腹、みじめ・・
飢えた目で周りのパンをキョロキョロ見ている姿、気の毒に思えたのでしょう。
店のおばちゃんが、他の客がいないのを見計らい、紙袋をそっと渡してくれました。
部屋へ帰り開けると、食パンの耳でした。
他人様から始めて貰った食べ物、心から有難いと感謝したのは言うまでもありません。
早速、コップに水を入れパンの耳を浸して食べる。
これで一食分助かった。
翌日もパンの耳が貰え、コッペパンを買わずに済んだ分、今度は牛乳を買いました。
牛乳にパンの耳を浸して食べるのです。
更に初めての冬は心身共に堪えました。
常夏育ち、冬用の下着や衣類はなく、敷布や毛布も有りません。
畳の上に、掛け布団一枚で寝る始末。
安アパートの為、隙間風は自由に往来。
明け方はとても寒くて眠れません。
少しでも体温を逃さないよう膝を抱え込み、体の表面積を最小限にし、ガタガタ震えているだけ。
猫の気持ちがよく分かりました。

 1015 テレビ初対面




大勢の人が行き来し、ビルへ吸い込まれていく様子を見た時、これはアリンコの世界だと直感。
家の庭に数えられないくらいのアリ達が、それぞれの巣を作り、せっせせっせかと働き、食べ物を蓄えていた姿にそっくり。
東京の人々が一段と小さく見え、何んで人間がアりンコになってしまうのだろうか、と考えさせられました。
そして翌日、魔法の箱としか思えないテレビを一刻も早く見たいと、早速新橋駅前の街頭テレビを見に行きました。
黒山の人だかりで、全ての人がテレビの力道山プロレス中継一点に集中。
確かに、プロレスは別の場所で行われ、テレビにはそれが写っているのです。
夢にまで見続けたテレビ、魔法の箱ではなかった。
そして力道山の空手チョップに群衆が熱中、地響きを起こし興奮している姿を見た時、テレビに挑戦しても間違いではないと確信。夢は大きく膨らんでいったのです。
見果てぬ夢がある限り、命を張って生きてみよう。
何時の日か、我が家で映画が観られる時が来る・・と。
(若い人には、街頭テレビが理解出来ないかと思いますが、60年前、テレビは超高価で各家庭にはまだ普及しておらず、大きな駅前に競馬場の場外モニターの如く設置され、庶民はそれでテレビを楽しんでいたのです、当時はブラウン管で画像が薄く昼は周りが明るく見えません、暗い夜街頭テレビは見えます)

1014大パニック




急に走り出す事を全く想定していなかったので、心の準備が出来ておりません。
いきなりバランスを崩し「どう成っているんだ! あー あ〜!」と見事に転倒。
瞬間、恐怖と驚きで頭の中は大パニック、「止めろ! 止めろー!」と絶叫してしまったのだ。
周りは何事が起きたのか、と一斉に注目、総立ちになりました。
昔の電車、急発進、オーバーランは日常茶飯事。
電車は何事もなく走り出しているのです。
四つん這いになり、起き上がる時、総立ちで見ている人々の視線の冷たさ。
田舎者! バカ! トンマ! いい加減にしろ! と言いたげな視線は、今でも忘れられません。
車内の今にも吹き出したい気持ち、我慢しながら見ている視線を一身に受け続ける事は、なんとも気まずいもので、恥ずかしさを通り越し、居たたまれない雰囲気。
追われるように次の駅で飛び降り、後続電車に乗り換えました。
また、右を向いても目、後ろを向いても目、だらけ。
東京の人の多さには、これまたびっくり、超たまげ〜
島の住人は、二百数十人程度で殆んどの人が顔見知り。
例え知らない人でも、道ですれ違う時は挨拶を交わしながら、すれ違います。
東京の人、一人一人に挨拶をしていたのでは前へ進めません。
挨拶は止めました。

1013 画像

a13 発電車.jpg

発電車
(徳島の読者より我が県に電車が無い、沖縄にはモノレールが有るとの指摘。ひかるが上京時、沖縄本島にでもモノレールは無かった)

 1012 初! 自動ドア




昭和38年4月、一週間も船に揺られやっと東京晴海港着。
当時の沖縄は米国統治下、パスポート持参、勿論飛行機は飛んでおりません。
上京にはどうあがいても一週間必要でした。
沖縄は電車のない県ですが、島には車や耕運機すら無く自転車すら数台しかありませんでした。
当然お金持ちしか自転車は持てなかった。
電車という乗り物は初めての体験。
けたたましく責め立てるベルに、前の人に連られ急いで乗り込みました。
すると、あまりにもタイミング良く待っていたかのように、ゴロゴロとドアが背後で閉まったのです。
生まれて初めて見る自動ドア。
好奇心旺盛な少年は、ドアに目が付いているはずだ・・
ドアの目がどこに付いているのか、と探しておりました。
次の瞬間、電車は走り出したのです。
自然の息吹と共に伸び伸びと育った、少年の初めての電車。

1011 生き別れ




今更、船から飛び降り戻る訳にはいかない・・
戻れない・・
親子の全てを断ち切った!
木の葉のような橋渡船の父に、最後の別れを一言。
「許してくれ! 息子は亡き者と諦めてくれ・・!」
心底絞り出す言葉は、声になりません。
千切れんばかりに手を振り、今後の無事をひたすら願うしかありませんでした。
船は全ての未練を断ち切り、一路北へ・・・
この船の進む先に、ロマンがある・・
そしてテレビがある・・
過酷な試練が、刻々と近付いているのも露知らず・・
ひかる少年は帆先へ立ち、目を大きく見開き、未来を見つめるだけでした。
(これから先、ひかるはテレビ界で縦横無尽に活躍、結果的に両親の死水は取れなかった)

1010 夕陽の涙




年老いた両親と体の不自由な妹を島に残し、旅立つ息子は親不幸なのだろうか・
10歳の遊び盛りに、足の不自由な妹の遊び相手は誰がするのだろうか・・
何時迄も、何時までも元気に暮らして欲しい・・・
夕陽は周り一面を真っ赤に染め、西の海へ深々と物悲しく沈んでいきます。
なびく髪、風さえも赤く染められ、心に滲み渡る蛍の光。
大海原に落とす夕陽の涙は、今生の別れを惜しんでいるのだろうか・・
無常にも二度目の汽笛は空と海へ途切れ、鳴り渡るドラの音に一段と激しく身を揺するエンジン振動。
溢れる涙に視界はこぼれ落ちて行きます。
未練の糸なのだろうか、夕日に赤く染まった海面に尾を引く白い航跡。
橋渡船の父と本船の少年は、縋る甲斐なく引き離され、大きな人生の別れをするのでした。
この先、妹は兄の帰りを待ち切れなかった。
東京がどんなに厳しい戦場なのかつゆ知らず、松葉杖を突いて着の身着のまま兄を頼りに上京。
地を這う生活苦の中、独学にて国家試験縫製技能一級、更に特級を取得。
東京都の身障者教育に身を捧げる事に成る。

1008 別れの杯




空路が開かれた今では想像出来ませんが、当時、上京するには黒島から朝一便の船で石垣島迄行き、夕方石垣を出港し翌日の昼頃那覇港着、夕方那覇港を出、東京の晴海埠頭まで3泊4日、便数も週2便しかなく更にパスポート持参での上京。
もし危篤の知らせがあったとしても、帰郷するには最低一週間は必要。
ニキビだらけのあどけない顔の少年ながら、決して死に水は取れないだろうと、覚悟しました。
両親を前に生き別れの杯を交わさせてくれと頼み、別れの杯を交わしての旅立ちと成りました。
杯を交わす時、父は決して目を合わせまい、としていました。
拗ねているように視線を外し、何かを必死で耐えている様子。
多分、視線が合えば、上京は取りやめなさい、と口から出るのを耐えていたのでしょう。
両親にとって一番辛い時だったのかも知れません。
ひかる少年は、心から寂しがる両親の横顔を見せつけられ、白髪の様子や禿げ具合、シワの数までしっかりと瞼に焼き付け、刻々と迫る別れが辛く、この世で一番長い夜を過ごしました。
当時、石垣島の港は遠浅の為、沖縄本島行きの大型船が港に入れません。
7、8隻の橋渡船が沖の本船まで荷物や人を運び、最後に見送り人を運びます。
本船は一度目の汽笛でゆっくりと走り出し、見送り船は別れを惜しむかのように、周りを追走。
覚悟の上とはいえ、親との生き別れは、これが最後で2度と会う事が出来ないのかと思うと、あまりにも切なく、身を引き裂かれる程辛いものがあります。
妹は棒切れを突いてピコタン,ピコタン追いかけ「兄ちゃん、行かないで・・」と泣きじゃくる。
「兄ちゃん必ず帰るから」と諭し心を鬼にする。
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