2024年06月13日
1039 おいタケシ! ヤバかったぜ2
年齢的にはタケシとテリー伊藤君の間、番組作りはベテラン中のベテランで、不慣れなテリー君のフォローとタケシの間を取り持て、と指示。
またMカメラマンはフジテレビ日曜日ゴールデンタイム8時からの萩本欽一「オールスター家族対抗歌合戦」のチーフカメラをやっていた人物で同時進行中。
収録日程を確認し、民放キー局8チャンネルの裏番組4チャンネル、ゴールデンタイム同時間帯に同一チーフカメラマンを起用したのである。
ひかるはお笑い番組もやっていたのでタケシとは顔見知りだ。
これといった印象はないが関西に対抗する東京のお笑い界の起爆剤人になるのではないかと見ていた。
ひかるは毎日平均して15本前後のスタジオ番組や中継、ロケやニュースの取材等忙しい思いをしていたがMカメラマンにタケシの番組、細かに報告するよう指示してあった。
ロケが終わると必ずMカメラマンとは時間を取り状況報告は受けると同時にMカメラマンには不慣れなテリー伊藤君、タケシとの間をうまフォローするよう、その都度指示していたのだ。
タケシの事故後、雨傘番組が次々とお蔵入り状況時、会社の近くの小料理屋でMカメラマンと報告を聞きながら話をしていると時々首をくねらせるヒュック突き現象が出る。
Mカメラマンに注意すると、全く感じていないし自分は何もしていないと言い張る。
これはタケシが事故の後、首をくるんくるんとヒュック突かせる現象が出、カメラのファインダーを見ていて、そのカメラマンが無意識のうちに移ってしまった職業病である。
ひかるがMカメラマンを番組担当にしている都合上あまり強硬に止めろと言えなかった。
そのうち色んな事が起きた。
飲み屋のママが「あんた達2人何をやってんの?? 首をくるんくるんヒュック突く、気持ちが悪いね」と言う。
な なんとひかるに移ってしまったのだ〜
ヒュック突きをひかるとMカメラマンが交互にくねる・・笑い話だ。
その内、何んという事だ! ママに移ってしまったのだ。
料理をしながら、あるいは、いらっしゃいませ、と言いながらくるんくるんとヒュック突きをやっている。
恐るべし・・その内お客までがくるんくるんとヒュック突きをやっている。
店中大騒ぎだ。
これはもうタケシに責任を取って貰うしかないだろうという事になる。
ところがひょんな事にMカメラマンがトイレへ入って居なくなると、全員納まってしまう。
出てくると全員がまた、くるんくるん。
止めろ〜タケシ〜
裁判にしてもMカメラマンが証言台に立たないと実証出来ない。
とんでもないタケシ伝染病、ワクチンのないコロナ以上だ!!
本物タケシのヒュック突き病が放送されると、全国でヒュック突きが蔓延し放送局自体がやり玉に挙げられ社会問題化するのでは、と心配した。
このタケシ騒動、タケシ! 責任を取れ! と言いたかったがその内タケシも番組お蔵入り中、徐々に収まりMカメラマンも収まった。
それで一件落着、タケシは人騒がせな奴じゃ。
1038 おいタケシ! ヤバかったぜ!
話はタケシの話に戻す。
タケシは20代ツービートで漫才をやっていたがチョボチョボでヒットしなかった。
当時は大阪の上方漫才、西川ヤスキヨがブームで、東京では萩本欽一と坂上二郎のコント55号、伊東四朗のテンプクトリオやドリフターズが人気。
テレビ界で影の薄くなったタケシを起用し、大雨で中止になる野球中継番組の代替え、フィラーの雨傘番組企画が持ち上がった。当時後楽園球場はドーム化されていなかった。
王選手と長嶋茂雄の属する巨人軍大ブーム、読売日本テレビの野球中継が雨で中止になった場合に流す、いわゆる雨傘番組「天才タケシの元気が出るTV」での起用。売れているタレントなら断るだろうがタケシは、雨傘番組だとしても初めてタケシの名前が番組の冠に付くタイトル、鬼瓦権蔵役だ。
この番組はスタジオメインでロケの映像、話題をどれだけ取り込めるかにポイントがあった。
ひかるはそのロケの部分を請け負ったのである。
しかし毎週雨傘番組を作るが、多少の雨ではブームの巨人軍野球中継の視聴率が良い為中止にしない。
どしゃ降りの雨が降らない限り、タケシの出番は無い。
スタッフは毎週番組を作って編集するが、また流れてお蔵入りだが、使い回しが出来ない為また作る。
当時読売日本テレビの野球中継が絶好調、視聴率が良く雨傘番組だとしてもお金は予定通り値切る事なく全額支払う。
番組作る側からすれば気が抜けてしまうがお金の為だと言い聞かせ頑張るしかない。
そんな最中、タケシがとんでもない事件を起こしてしまう。
バイクで交通事故を起こし、とんでもない顔面に成ってしまったのである。
どうあがいてもタケシの顔はテレビに出せる状態では無い。
しかし初めて番組でタイトルに自分の名前が出たタケシは、何が何でも続行したい強い意志を示した。
雨傘番組が良かったのだろうか、かなりひどかったタケシの顔はお蔵入りし、なかなか放送されなかったのである。
実はこの時ロケーションディレクターをしていたのが、今のタレント テリー伊藤君であった。
大学を出て間もない27歳前後だったと思うが、ど素人で初めての番組作り、色々苦労させられた。
ひかるは当時カメラマン、音響や映像、VTR、編集など150人の部下を持ち統括部長をしていた。
タケシのロケ担当には当時ロケではナンバーワンと言って良いだろう、Mカメラマンを担当させた。
1037 番組、ねるとん紅鯨団
タケシの番組でロケを担当させたMカメラマンを、ねるとんに起用、ロケの経験が豊富で、他のカメラマンとの連携がスムーズに行ったのである。
勿論オールロケで、これ程充実した内容の番組が出来る、という事で、業界では予想以上の評価を得る事になったのである。
労使問題で青息吐息だった会社が、誰もが目を疑う活況ぶりだ。
当然、業界では注目され、後にフジテレビ100%子会社と成って行く。
アナウンサーの早稲田出身、露木氏はじめ、東大、慶応出身者が周りにゴロゴロいるが、ひかるは益々異彩を発揮していく。
威張る事なく、腰が低い、テレビの命は番組だ!、と茶の間を意識。
人間として生まれ、一番愚かな事、一番の不幸は、せっかく親から貰った知恵を、使う事なく、墓場へ持っていく事だ!
とひかるの口癖は響き渡っていた。
当時、テレビ局はカラー放送、ネット局充実へと殆んどの資金、人材が当てられ、番組の内容がスタジオ中心で、マンネリ化している事に気が付く人はいなかった。
ひかるにとって、テレビは単なるテレビでなく、何時までも魔法の箱であって欲しい。
テレビには、団欒があり、子供達はテレビで育ち、教育にまで影響しかねない。
新しい知識を得る場でもあり、遥か彼方の山や川、望遠鏡ですら見えない風景や景色がある。
行った事もない、国や場所で営まれる人々の生活も垣間見られる。
ふるさとがあり、夢があったり、人々は生涯、どれくらいテレビと対面するのだろうか・・
子供の頃見た、魔法の箱、テレビは未来永劫、魔法の箱だ。
テレビの、命は番組です。
知性、感性、人間性にあふれる番組を作り、感動、興奮を、お茶の間へ届けよう。
そして、テレビに恋した男が贈る言葉。
テレビは、いかに視聴者の目となり得るか、越えられるか、知覚足らんか・・・
1036 不毛の時間帯
この番組の放送時間帯は、不毛の時間帯と言われ、なかなか視聴率がとれない売り物にならない時間帯だったが、一変したのだ。
この番組が放送されると、業界の人達から見ると、中継車を持ち込んで、かなりケーブルを引き回し、番組が作られていると、思ったらしい。
コスト的に中継車をキープすれば、キープしただけで一日百万以上はかかってしまう。
こんな時間帯に、中継車を使って、番組を作るなんて、とても考えられない・・・・といわれたのである。
この番組は、スタジオで番組を作る以上の、素晴らしい画が、低コストで、茶の間に届けられたのである。
ロケの場合、だいたいバッテリーは5、6個持っていく。
ねるとんは、4チェーン必要なので、照明やVTRなどを含めても、30個前後あれば十分だ。
他にも、海外や国内ロケがあるが、トータル的には問題なし。
このシステムは、威力を発揮したのである。
スタジオの音楽番組やドラマなどは、台本があって、ディレクターが、カット割りを決めていく。
重要な仕事である。
ロケの場合、いちいちカット割りなぞ言っていられない。
カメラマンが、全体的な画の構成、流れを把握していく必要がある。
かなり高度な能力を必要とされるが、バッテリーの問題が解決され、番組内容に集中出来るため、いい番組が出来るという訳だ。
1035 多重ロケ方式
ねるとんでは、今迄にない、全く新しい多重ロケ方式が採り入れられた。
常に、4台のカメラとVTRが対になっており、同時にスタートさせ、テープが終わるまで、一切ストップをさせない。
4台のカメラVTRが回っている状態で、映画で使われていたガチィンコを撮りスタートマークにする。
4台のカメラは、自由に動き回り、あらゆる角度から収録。例えばグラスを落として割るシーンなど、手元と落ちる床面を撮るカメラを決め撮影。
編集時に、スタートマークを揃え、同時にスタート、4分割画面に、それぞれの画をはめ込んで編集ポイントをチェックする。
早い話が、4画面を見て、タッチをしていけば、面白い表情が、リアルに編集出来るというシステムだ。
もちろん、素人相手なので、従来のストップ、スタートを繰り返していたのでは、とても表情が硬く画像にならない。
まかり間違い、演技をつければ、完璧なやらせになってしまう。
勿論、常に当時では、最高倍率の望遠レンズ、高感度のカメラを用意、かなり離れた距離から、カップルをねらう。
カップルは、近くに人もいなければ、カメラの影もないので、普通の恋人が恋を語るように語る。
皆さんが、テレビを見、その状況は知っているだろう。
編集も、例えば、プロポーズシーンで、別の男が、まった!
誰が見たとしても、生放送、あるいは、それ以上の内容だったのだ。
1034 フローティングシステム
ロケを採り入れた番組を作りたい、誰もが考えうる発想だが、具体化するには何らかの着想が不可欠だ。
当時のロケ、一番の難点はバッテリー問題だった。ひかるもカーバッテリー等、あらゆるバッテリーを考え、実験したが、やはり無理だった。
試行錯誤、明けても暮れても実験中、小型弁当箱大、きゃしゃに見えるが、ビニール樹脂でコーティングされた物が目に止まった。
テストをすると十分行ける代物だ。ひかるは、これで放送業界を一変させられる、と小躍りした。
BP90という型名で、早速チャージャーを分解、誰もが驚く75連のフローティング式チャージャーを部下を動因し、一月もたたない内に完成させたのである。
メーカーが四個チャージ出来る4連式を得意になって売り込みに来たが、75連を見せると、腰を抜かさんばかりに驚いた。
こんな事をする人など、想像も出来なかったであろう。
タケシの番組で威力を発揮したが、さらに多重ロケという「ねるとん紅鯨団」、当時では考えられない番組手法で、このフローティングシステムが成否を分けたと言える。
ひかるはタケシの番組でロケの真髄を得とくした、Mカメラマンを起用し、本格的なロケ時代の幕開けを確実な形にしていったのである。
現在、秘境番組、NHKの家族に乾杯などオールロケ花盛りだが、40年以上も前にそれ以上の番組が作られていたのだ。
恐るべきは、このBP90なるバッテリイー、あらゆるロケの電源として使われ、なおかつ40年を経た今でも活躍中。
ひかるの着想、電光石火の決断がロケの電源を統一、安定させたのだ。
このバッテリーは照明やVTR,音響機材など全てのロケ機材の電源に使われ、各メーカーが統一電源で機材開発、設計が出来、日本の映像業界が世界の先駆者に成ったのは言うまでもない。
いち早く電源を統一、投資リスクを軽減できた業界は五十年以上もアメリカの放送NTSC方式から脱却。デジタルのスカイツリー時代を築いて行ったのである。
世界の放送方式はアメリカ、ヨーロッパ、共産圏、日本の4方式で放送されている。
2024年06月12日
1033 窓外族
20代後半、沖縄が本土復帰をする。
ひかるは大事にしていたパスポートを焼き捨てた。
ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。
そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。
第一期入社の同期の連中は、管理職として各部門を統括していたが、よりによってその連中が束になって、会社を辞め別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。
組合が出来労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。明らかに契約違反であり、フジテレビは、ひかるの所属する子会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。
取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは社のど真ん中へ担ぎ出されてしまったのである。
しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。
次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。
四度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員が殆んど組合員、会社の存亡すら危惧され混乱。
当然、沈静化する迄待とう、何んとか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。
しかし、ひかるは全く逆の発想だ。
こういう時だからこそ打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。
攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。
当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。
ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。
技術プロダクションとしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。
ひかるが手始めにトライしたのが、タケシのデビュー番組「天才タケシの元気が出るテレビ」だった。
兵頭ユキや高田順次の映像は、お茶の間に大いに受けた。
そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの集団お見合い番組「ねるとん紅鯨団」だった。
勿論この番組はとんねるずのデビュー番組だ。
この二つの番組でスタジオ中心から強引に外の映像を茶の間へ届ける。
並行して海外ロケ機材開発、海外の電源事情や電波問題などデータを確立。
30年後ノーベル賞に輝くリチュームバッテリーの初期商品BP-90を開発。
その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。
次回、裏話など・・・ご期待を。
1032 倒産
東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。
第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所が、フジテレビ内に置かれた。
頭が良く入社試験の成績の良い人がTBS内第一事業所に配属されたと言れたが、たぶん事実であろう。
TBSはドラマ制作に力を入れ、ドラマのTBSというイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。
そして、お互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。
バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産した。
新聞紙上を賑わせ、昨日まで社長と崇めた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。
第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。
勿論、会社更生法が適用されているとの事だ。
ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと胸をなでおろした。
カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。
しかしひかるは、冷暖房完備、皆んなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。
たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが一番の楽しみだ。
年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには全く蚊帳の外だった。
窓際族というよりは、むしろ窓外族だ。
課会や部会、全体会議があっても外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめそのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。
しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。
1031 巨人戦
野球放送は、巨人戦を中心に編成されている事は言うまでもない。
野球ファンの5割は巨人ファンと言われ、アンチ巨人が2割いるとすれば、7割が巨人戦、観戦という事になる。
同時間帯に、巨人戦以外のカードを放送しても、なかなか視聴率が取れないのである。
巨人戦は、資本関係にある、日本テレビが過半数の放送権を持っている。
年間、140試合とすると、70試合は、日本テレビが放送する。
残りの70試合が、五つの球団、14試合ずつ分割されるという事だ。
横浜は、TBSと資本関係にあり、横浜対巨人戦14試合は、必然的に放送する。
フジテレビは、ヤクルトとの資本関係で、ヤクルト巨人戦14試合を、必然的に放送する。
それ以外に中日、阪神、広島もそれぞれ14試合ずつ権利がある。
例えばフジテレビだと、ネット系列の関西テレビが、阪神や広島などと交渉し、放送権を獲得する。
それを、関西テレビ発、フジテレビ系列で全国放送するという訳だ。
勿論、名古屋にもネット系列の局があるので、そこ経由で放送するという事。
TBSと、フジテレビ系列で、年間、だいたい55本くらい、半々で放送する。
残りの15試合をテレビ朝日やNHK、はたまた日本テレビの系列局で争奪戦するという形になる。
だから日本テレビは、70試合以上の放送枠を確保し、巨人が低迷すると大変だ。
1030 TV界、就職状況
昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。
NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。
世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。
当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。
夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。
民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。
TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。
そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。
その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。
その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。
昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。
ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。
テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。
ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。
(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)
求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。
待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。
クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。
15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。
会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。
ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であったと、しみじみ感じたのである。
また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。