2024年06月14日
1049 神さま・・・
片方の足でペダルをこぐ乗り方を必死に練習。
遊び盛りの姿を見、何んでこんな目に会うのか。
完全にマヒした足、妹は、いつも男の子のように、ズボンを履くしかありません。
他の女の子同様、スカートを履かせてやりたい・・
何んで、スカートが履けない体になったんだ!
何んで3歳の女の子が、杖をついて歩かなければならないんだ!
何んの罪も犯していないのに・・・
何んで幼い女の子に、過酷な試練を背負わせるんだ・・・
何んで、不公平な扱いをされなければならないのか・・・
神様がいるなら助けて欲しい・・・
妹のマヒした足を見るたび、動作を見るたび、涙が止まりませんでした。
ひかるより妹のほうが、悔しい思いを数千、数万倍した事でしょう。
不自由な体での行動範囲はわずが、車を自由に乗り回し、本当の足代わり、見聞きする喜びは、人生最大の喜びだった事でしょう。
免許取得から数年後、妹の友人から連絡があり、電話は通じるけど、部屋には来ないで欲しい。
来ても、絶対に、中に入れない、との事。
ひかるが電話をしても、同じ返事。
でも大事な時は、必ず相談をしてきたので、こんどのことは、たいした事はないだろう、とあまり心配はしませんでした。
数ヶ月経過後、妹が、縫製技能検定試験、国家試験に合格したので、祝ってやって欲しいと、友人からの連絡。
受験のため、部屋中問題を張り、教材などで、足の踏み場もなく、人を部屋に入れる状況でなかったとの事でした。
その内、母校の東京都身体障害者職業訓練校から、後輩達のため、週二日の実技指導と講義を引き受けて欲しい、と言われている、との相談。
10年以上もお世話になっている縫製制会社だけど、最悪の場合は、やめる事を覚悟し、講師の仕事を受けるべきだ、とアドバイス。
学校側からも縫製会社に口添えがあり、会社勤めと講師の仕事を両立。
一級縫製技能者、という事で、会社や得意先からも信頼され、サンプル品や高級品の縫製からサイズ直し、後輩達の指導、と忙しい日々を送っております。
1048 杖つく少女
やはり数年もの間、その一言が、忘れられなかったのでしょう。
「障害者が免許を取得する場合、東京都には奨励制度があるし、大丈夫だ」と説得すると、長期休暇が取れそうにもない、との事。
会社の方には、兄からお願いしよう。長年働き、休暇の目的もはっきりしている事だし、理解してもらえるはずだと。
妹は最後に、全ての段取りは、自分一人でやってみる、と言って納得しました。
数ヶ月後、「取れた! 免許が取れた!」と、弾んだ声で連絡があり、祝ってやりました。
よほど嬉しかったのでしょう。
無口で必要な事以外はしゃべらない、兄にすら一度も笑顔を見せなかった妹が、車庫入れで失敗した事や、S字カーブで踏み外した事など、笑顔でしゃべりまくっており、30年以上も背負って来た何かが吹っ切れた様子。
このきっかけが自信となり、妹の人生は大きく展開していきました。
車を購入、地方出身の同僚達と、お盆やお正月に友人の田舎へ同行。
色々な土地や人との出会いや、見聞あり。
車が本当の足代わりとなり、あっという間に、日本全国が行動範囲になったのです。
やっと走り回れる3歳時、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけていた姿が、思い出されます。
突然、引き付けを起こす程の高熱にうなされ発病。
妹は自分の2本の足で、元気に歩いた記憶は無いでしょう。
小さな島には松葉杖とてなく、竹すらありません。
まっすぐな木を与えると、船の櫂を漕ぐようについて、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけて来るようになりました。
負けず嫌いで意地っ張りな性格、擦り傷やアザだらけになりながらも、右手で自転車のサドルにしがみ付き、左手でハンドルを操作。
1047 乙女心
ひかる24歳。妹が上京するとの事。
友人、及び親戚がなく、優しい言葉をかけてくれる人も居ない、厳しい東京で生きて行けるのだろうか。
片方の足は完全に麻痺しており、パスポート持参。15歳の少女である。
しかし、妹は余り干渉されない東京で、ひっそり生活したかったのでしょう。
小さな島、偏見の中で育ち、生きる全て、唯一の頼りは、兄だったのでしょう。
幸いにも東京都の身体障害者職業訓練校へ入学、卒業後、訓練校の紹介で縫製会社へ就職。会社の寮へ入れました。
数年後、同業他社へ転職した同僚から、「今までより条件が良いので来ないか、との誘いに乗りたい」との件で、相談。
無計画で、衝動的な行動に、思いっ切り叱ってやりました。
元気な友達は、あっちこっち転職するかも知れない。お前は障害者なのだから、他人の真似事はするな! じっと我慢しろ! と。
妹は寂しそうな、そして芯から怒っている、射抜く眼差しで睨みつけているだけ。
まさか兄から身体障害者扱いされるとは、思っても見なかった事でしょう。
夢見る少女心のショックは大きく、お互い気まずい無言の一時があり、「帰る!」と一言残し、トコトコ出て行きました。
その後、数年間の音信不通があり、ひかるの方から連絡、「運転免許を取ったらどうだ」と持ちかけると、どうせ「障害者なのでしょ」と、蚊の泣くような小さな声での返事。
1046 火風
単純過ぎる答えの様ですが、登山者に、何んで山に登るのかと聞いたとしても、山が有るからだという答えの如く、岩と波がある限り、千年先も、1万年先も、只、「これしかない!」と繰り返す。
自然の摂理だったのです。
そして、台風が過ぎ去った翌日、父が畑を見回るのについて行きました。
大切に丹精込め、育て上げた作物は、揺さぶられ、薙ぎ倒されています。
うつろな眼差しで、何やらブツブツ呟き、根本に盛土する父の姿を見た時、哀れで、かわいそうに見え、反面、怒りを覚えました。
台風は、間違いなく毎年来る。近所の人達は、このような生活に見切りをつけ、歯が抜けるように、島から出ていく中、何んで父もそのような生活を求めないんだろうか。
この父は、馬鹿じゃなかろうか、と言いようのない失望感に襲われました。
しかし上京後、必死に生きる中で、父の本当の気持ちが、理解出来るようになったのです。
当時は、妹の小児マヒが治せるものと信じ、手術の為 、全財産を使い果たし、日々の生計を維持する事すら必死だったのでした。
台風に嫌という程痛めつけられようとも、島を出たくとも出れない。
引っ越しをする事など、とても考えられず、前にも行けず、後へも引けない、極限の状態にあり、ただ只、じっと時を過ごすしかない。
これしかない!
幼い頃抱いた失望感が無くなり、以後、立派な父に見えるようになりました。
また台風は、殆んど雨を伴いますが、子供の頃、雨のない、からっ風台風が襲いました。
台風通過後、しぶきで覆われた島全体が焼け野原の如く枯れてしまい、家畜はおろか、人間さえも生存が危ぶまれる状況。
もし、本土を雨を伴わない台風が襲った場合、しぶきは風に乗り、海岸線より数キロ内陸部まで運ばれ、枯れ野原化、膨大な塩害が出る事でしょう。
台風の雨は、しぶきを洗い流してくれる、人間や自然にとっては、大事な恵みの雨なのです。
この地方では、島全体を焦土と化す、からっ風台風は、ピーカジ(火風)と呼ばれ、大きな自然災害をもたらすものとして、恐れられています。
1045 異様な音
人工的に作られた防波堤に叩きつける波は、30メートルものしぶきをあげ、音も想像出来るかと思いますが、大自然の熾烈な戦いは、えぐれた岩の横腹に、下からしゃくり上げる時、しぶきは粉末状に、前方へ飛び散るだけ。
搾り出れる音も、これまた想像も出来ない、炸裂、唸り声の異様な合体音。
巨大な鯨が、押し潰され、もがき苦しみ、訳の分からない、悲痛の叫び声を出している様にも聞こえます。
「ドキューン」 「ドズーン」、言葉では表現のしようがありません。
そして台風通過後、一面に油を流し込んだような穏やかな水平線。
嵐の前の静けさ、という諺がありますが、嵐の後の静けさの方が、はるかに静かです。
なぜ、あれだけ熾烈な戦いをするのか?
静かにしていればいいのに・・・
なぜ無意味な戦いをするのか?
普段は遊園地であり、色とりどりの熱帯魚達が見せてくれる、アニメの世界。
穏やかで、母のように優しい海が、何んで異様な音を出し、激しく、恐ろしい海に変わるのだろうか?
激しさと静寂さが目の前に繰り広げられる時、静と動、鬼の顔と母の顔。
この相反する変化に疑問を感じ、この二つの顔の持つ意味が、どうしても理解出来ませんでした。
しかし後日、過酷な試練を味わった時、自分なりの答えが出せたのです。
本当に苦しい時にとれる方法は、背を向けるか、前へ進むか、この二つしかないはずだ。
背を向ける事は簡単ですが、しゃにむに前へ進むしかない。「これしかない!」と、自身に確認出来た時、二つの顔に対し、自分なりの結論が出ました。
そうです。二つの顔には、何ら意味がなく、ただ、「これしかない!」
1044 難問
ひかるが中学生の頃、人生最大の難問にぶつかりました。
島の生活や子供達にとって、海は切っても切り離せない重要な存在。
都会の子供達が、公園や遊園地で遊ぶように、海と魚は、遊園地や動物園であり、熱帯魚と戯れ、遊んで育ちました。
しかし、一度台風が荒れ狂うと、恐ろしい海に変化します。
瞬間最大風速、70メートルの台風が暴れ狂った時の事を想像してみてください。
普段は、波と岩が何気なく、仲よく調和しており、さざ波が、えぐれた岩の横腹をくすぐり、今は、眠たいから、くすぐるのはやめてくれよ、と戯れているように見えますが、
一度台風が襲い暴れだす時、目の前に現れた姿は、凄まじいものでした。
木々は否応なしに揺さぶり、ねじ伏せられ、風雲は、摩擦のあまり、雷音稲妻と化し、
海は、怒涛のうねりを片時も休む事なく送り続け、攻撃の手を緩めません。
海鳴りは耳をつん裂き、雨は天から降らず、横から殴りつけ、風雲波は三つ巴となり、
巨大な洗濯機が渦巻き、暴走するが如く、自然の猛威を見せつけ、荒れ狂い、小さな島は恐れ慄き、震えているかのよう。
人間の存在は、あまりにも小さく、地面を這い、神とて何んら頼りになりません。
そして三つ巴となった風雲波の怒りの挑戦を受けて立つのもまた、大自然で、
どれ程痛めつけられようとも、負けるものか、と受けて立つのは、岩でした。
1043 VTR
ロケーションを多用した番組作り、ひかるにとって、それ自体は朝飯前の仕事だ。
並行して、大きな壁が目の前に立ちはだかったのである。
それは、VTRの問題だ。
当時日本では、アメリカアンペックス社のテープ幅2インチVTRが導入され、独占していた。
勿論、ローカル局では買えない代物で、キー局に5、6台納入されていたから、NHKも含め、国内には30台前後が導入されていたであろう。
なんといっても、目玉が飛び出る程の値段で、日本のメーカーでは、パテントなどがあって、真似の出来ない。
極めつけは、可搬型のVR3000という、旅行トランク大の機種で、アンペックス社とNASAが軍事偵察機搭載用に開発したという、当時の最先端技術が集約された機械だ。
キー局すら持てず、パビックという会社とひかるの八峯テレビしか持っていないため、ドラマロケやスタートしたVCM等で重宝されていた。
ひかるはこの機械で稼げば稼ぐほど、将来の後継機種を考えずにはいられなかった。
たぶん防衛庁やNHKも含め、国内には5台前後が導入されていたであろう。
このままいけば、日本の放送業界は、儲けの大半をごっそり、アメリカへ上納する事になる。
反米感情の激しいひかるにとって、とても許しておけるものではない。
早速立ちあがったが、とても一人の力で太刀打ち出来るようなものではない。
それこそ、死闘と呼ぶにふさわしい試練が待ち構えている。
しかしひかるは、3年をもって、日本からアメリカ製VTRの影を抹殺する。
そして、5年後には、日本のVTRが、全世界の放送局を独占したのである。
また、日本のVTRが軌道に乗るやいなや、「日本の野球中継を、アメリカ大リーグ野球中継に負けない番組にしたい」という話が、ひかるに持ち込まれた。
アメリカと聞くだけで、「やってやろうではないか!」と即座に行動開始。
やっと野球にスローVTRが一台導入された時期だと言うのに、一気にスローVTR6台を導入し、当時、誰もが想像出来ない番組を作り上げたのである。
現在の野球放送の原点を、あっと言う間に作り上げ、業界人のど肝を抜いたのである。
2024年06月13日
1042 熱意
どうせなら、半端でない覚悟を持って、一気に攻めよう、それしか道はない」 と説いたのである。
いや、間違いなく、説教だった。
あまりの熱意に社長は、反省をした。
飛び出した連中は、折あらば、更に社の弱体化をさせよう、取って代わるべく、虎視眈々と狙っている。
それに比べ、注目もされず、黙々と仕事をし、管理職の機会を与えられなかったこの男が、本気で社を憂い、例へどのような事があっても、最後まで残って踏ん張ると言い切る。
「飛び出したい人は、飛び出せ! 自分は最後まで残る、看板は俺がはずす!」と不動の姿を見せるひかるを見直したのである。
逞しく、一回りも二回りも大きく脱皮した姿で、全社員に号令を発したのである。
社長は、自分の人材登用が間違っていた・・と
そして最後に言った。
責任は、すべて社長である自分がとる、社長の采配すべて任せる、存分に暴れてみろ・・と
ひかるが思い切った、電光石火の行動が採れたのには、この暴走があったのだ。
1041 パスポートから解放
そして沖縄の本土復帰、パスポートを焼き捨てた時、本土の同期の連中と論争も出来る、ケンカも対等に出来る、と目に見えない鎖の呪縛から解放されたのである。
そんな事は多分、体験した人にしか分からない事であろう。
そんな時、窓外族から、社の中心へ戻るはめになったのだ。
そしてひかるは暴走した。今度はいい意味での暴走だ。
同期の連中は先に管理職として登用され、会社の経営にまで携わり、後輩達からは一目もニ目もおかれていた。
それが、徒党を組んで会社に反旗を翻したのである。
ひかるにとって、その行為は許せなかった。
今まで従いて来た後輩たち、女房子供もいるだろうに・・
自分の利益ばかり考えていいものか! と頭へ来たのである。
社の中心に座ると、ひかるは重役や社長を論破した。
そして社長には、三日三晩、いやと言われても追いかけ回し。
「取り巻く状況は最悪だ、しかし守りに回っていると、さらに社員は、歯が抜けるように引き抜かれていく、現在、3分の2の社員が残っているが、5割を切れば、なだれ現象になり、もう持たない。
1040 360円時代
ひかるは、入社早々ある事件を起こした。
友人、上司と府中駅前の飲み屋へ行った時の事である。
スナック風の飲み屋で、4人で楽しく飲んでいた。
店はママさんと、若い女の子が一人手伝っているだけで、小ぢんまりした店であった。
かなりアルコールも回った頃、米兵のお客が二人入って来た。
近くに調府基地があり、その近辺は結構米兵がいたらしい。
思春期を沖縄で過ごし、敗戦後、米兵はやりたい放題。
勝ち誇った米軍による犯罪、本土では報じられない事が日常茶飯事起きていた。
犯人は沖縄の裁判所で裁く訳にはいかない。勿論、日本の法律も通用しない。
米国へ送還され、どういう処罰が下されたか知る権利もなかったのだ。
当然、この地区で青春時代を過ごした連中は、否応なしに反米感情が叩き込まれていたのである。
米兵が入ってくると、ママさんの態度は一変、目いっぱい色気、愛想を振りまいているのである。
当時は1ドル360円時代。ドル紙幣で払ってくれる米兵は特上のお客なのである。
その内ママさんも女の子も米兵のテーブルへ、ドル紙幣を胸へ入れ、きゃっきゃ、と騒いでいるのである。
そのはしゃぎぶりを聞いていると、ムラムラと反米感情が湧きあがってきた。
日本の女も女だ、お前ら売春婦か!、とどなりつけたかったが、その怒りは米兵へ向かった。
いきなり米兵の所へ行き、胸ぐらをつかみ、「ヤンキー ゴーホーム!」、と怒鳴り付けたのである。
上司がいたので、壊した備品代は払ってくれた。
そして翌日から 「この男は、外人の居る所に、決して出入りさせるべからず、外人に近づけるな」という、お振れが社内へ回った。
そういう事があってから、ひかるは自分の感情がコントロール出来なくなる事を恐れ、極力部下はいない方がいい、と一人黙々仕事をしていたのである。
事実、酒の席で喧嘩、空手のヌンチャクを振り回し、相手を怪我させ、即ブタバコ、即会社をクビ、なんていう例を何度も見てきている。