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BSアーカイブスにて視聴

満州に移住していた多くの日本人は終戦後ほどなくして帰国したが、一部は中国に留まり様々な分野の仕事に従事した。

それは国民党と内戦を繰り広げていた共産党の「留用」という方針により半ば強制的であったりもした。(要請に対して自らの判断で残った人達も当然いる。)

その留用がいかなるものであったか、そしてそれが日中関係においてどのような意味を持っていったのか、日中国交正常化30周年を記念して2002年に作られた作品。

留用の範囲はかなり広く、医師や看護婦などの医療面、炭鉱などの一次産業労働力として、空軍設立におけるパイロット養成教官として一部隊まるごと、鉄道建設における技術者達と、日本の技術、力をくまなく吸収しようという貪欲なものであった。

しかし驚くべきは当の留用された日本人達の対応である。

つい先日まで親族友人を殺した敵国の人であった日本人に対して、当初は当然風当たりが強かった。

それでも、いや、それが故か、日本人達は必死に働く。

ある者は爆撃で皆が避難する中それでも残り手術を続け、ある者は未知の病の発見に尽力しやがてこれを発見し大勢を救う。

そしてある者は「日本が犯した罪の償いの為」と事故の相次ぐ炭鉱奥深くに挑み、ある者は破壊された戦闘機をかき集めて練習用飛行機を作る。

そんな彼、彼女等の姿に次第に中国人達の態度も変わり、やがては友情で固く結ばれるまでに至る。

内戦後は朝鮮戦争、そして日中間の対立と、実に8年もの間政治的な問題に振り回されながら帰国はおろか本国への連絡すらできない状態が続いた。

いざ帰国の際も、外務省からスパイが紛れ込んでいるのではないか、洗脳されたものが多いのではないかと一悶着あり、やっとの帰国を果たした後もいらぬ詮索や偏見による就職差別など受ける事になる。

この辺りはシベリア帰りの人々が受けた苦労と似ている。

その後も一部の人達は中国人との友情を崩さず交流を続け、日中友好の架け橋となった。

そして国交正常化の一翼を担い、今も留学生受け入れや技術交流、教育などなど友好に尽力しているという話であった。

この作品から読み取れる視点はいくつかある。

一つは戦争が持つ悲劇の一つの形。
終戦後も敵国で苦労を強いられ、帰国後も受け入れられないというやるせない実情。

一つはそれでも己が力で道を切り開き、友情や愛を育み、「良い経験だった。」と言い切る事ができる日本人の強さ。

特に昨日までの敵国からの要請に必死で応えるという愚直さ、いかなる状況でも目の前の仕事に真面目に取り組むという誠実さには一言二言申し上げたい事もあるがまあ今回は何も言うまいと思えるほど敬意を持った。

自分にはちっともない特性なので自分の事のように誇らしく思う事はできないのがなんだが。

一つは人は分かり合える可能性があるという事。
敵であっても、いや、敵であるからこそ顔を突き合わせる事で何かが変わるかもしれない。

政府や一部の人達に惑わされる事なく、人々の直接的な交流が真の国家間の友好に繋がるという事であり、それは個人レベルで関与可能なのであるという事。

そしてもう一つは人にはそれぞれ歴史があるという事。特にこのような異常な状況下ではそこらの陳腐な感動系ドラマよりはるかに感動的な個人史で溢れている。

インタビューに答えた一人一人の話はそれぞれ映画一本作れる程に濃厚なストーリーであったので、次の投稿でいくつか紹介する。

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