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2014年08月07日
吉永小百合20年ぶり“登板” ライアンばり!?フォームで魅了
吉永小百合20年ぶり“登板”
ライアンばり!?
フォームで魅了
野球好きで知られる吉永小百合(69)が
最新主演映画で見事なピッチングを披露している。
55年に及ぶ女優人生で初めて企画にも名前を連ねる
「ふしぎな岬の物語」(監督成島出)
の一コマだ。
岬の先端に立つカフェに集う人々と吉永扮する店主との心温まる交流を描く感動作。
劇中、
客の一人で吉永に恋心を抱く笑福亭鶴瓶(62)とのキャッチボールのシーンが
カメラに収められた。
ライオンズ党の吉永は94年4月9日、
西武―近鉄(西武球場)で始球式を務めた経験を持つ。
「あの時は郭泰源さんからボールを受け取りましたが、
もう頭が真っ白になりました」
と述懐。
あれから20年ぶりとなる今回の撮影に備え、
自宅近くの公園で300球を投げ込む自主トレ。
左足を高く上げるヤクルトのライアン小川ばりのフォームで魅了し、
鶴瓶も
「ちゃんと僕が構えたところに投げられるのは凄い。
西武のドラフトにかかるんじゃないですか」
と舌を巻いた。
甲子園も9日に開幕。
吉永は
「早実のハンカチ王子(斎藤佑樹=現日本ハム)と
駒大苫小牧のマー君(田中将大=現ヤンキース)の試合などは、
テレビの前で手に汗握って見ていました。
今年もいよいよ始まりますが、
暑さに負けず、
記憶に残るプレーを期待しています」
と球児にエールを送った。
作品は21日に開幕する第38回モントリオール世界映画祭での
ワールドプレミアを経て10月11日に公開される。
女優の岸惠子(81)と
吉永小百合(69)が7日、
東京・内幸町の日本記者クラブで会見した。
3日に発売された共著
「歩いて行く二人」(世界文化社)の刊行記念で、
七夕の大物そろい踏みに会場も沸いた。
共演作は「細雪」(83年)の1本だけだが、
互いに「大好き」と公言。
岸が
「私はおっちょこちょいですが、
小百合ちゃんはぶれない。
映画一筋は立派」
と称えれば、
吉永は
「桐島洋子さんの原作を岸さんの監督でやる予定がありました。
実現せず残念でした」
と秘話も披露した。
同書は09年秋から昨年秋まで、
横浜とパリで3回に及んだ対談を1冊にまとめた。
2人の恩人の市川崑監督への思いから恋バナ、
原発問題まで幅広いテーマでつづられている。
歌手の吉幾三(61)が、
27年ぶりに映画出演を果たした。
吉永小百合(69)が主演、
初プロデュースする
「ふしぎな岬の物語」(監督成島出、10月11日公開)に、
中学校の先生役で登場。
87年公開の「ドン松五郎の大冒険」に、
ダンプカーの運転手役で出演して以来の銀幕となった。
千葉県明鐘岬に実在する喫茶店を舞台に、
吉永演じる店主と客の交流を描く作品。
吉は近くの中学校に勤める定年間近の先生で、
喫茶店の常連客。
成島監督が
「軽妙な雰囲気に優しい存在感を持った、
田舎の先生」
というイメージを具現化できる人として、
青森出身の吉を抜てき。
監督は
「小津安二郎監督作品に欠かせない名優、
笠智衆のような存在になってほしい」
と要望を伝えた。
撮影は2月上旬。
当初は久々の現場に緊張気味で、
旧知の仲である共演者の笑福亭鶴瓶(62)からも
「緊張してはるやん」
とからかわれるほどだった。
ただ、
徐々に慣れると、
中学校でのシーンでは元教え子役の阿部寛(49)と
息の合ったアドリブでの演技も披露。
2日間の撮影を楽しみ、
「映画独特の雰囲気を楽しませてもらいました」
と笑顔で話した。
吉永とは初共演。
「ずっと変わらない憧れの方なので、
良い緊張感がありました。
今度またじっくりお芝居できれば」
と再共演を熱望。
さらに
「なんだか、
また演技にはまってきましたね」
と話し、
役者業に意欲を示した。
一方の吉永は、
ダジャレを交えて
「撮影初日からご一緒して
“よし、行くぞ!”、
という気持ちになれました」
と、
吉に活気づけられたことを明かした。
演技に関しては
「温かなお人柄がそのまま役に出ていらして、
とても優しい雰囲気のシーンになった」
と話し、
プロデューサーとしても大満足していた。
ecar
ライアンばり!?
フォームで魅了
野球好きで知られる吉永小百合(69)が
最新主演映画で見事なピッチングを披露している。
55年に及ぶ女優人生で初めて企画にも名前を連ねる
「ふしぎな岬の物語」(監督成島出)
の一コマだ。
岬の先端に立つカフェに集う人々と吉永扮する店主との心温まる交流を描く感動作。
劇中、
客の一人で吉永に恋心を抱く笑福亭鶴瓶(62)とのキャッチボールのシーンが
カメラに収められた。
ライオンズ党の吉永は94年4月9日、
西武―近鉄(西武球場)で始球式を務めた経験を持つ。
「あの時は郭泰源さんからボールを受け取りましたが、
もう頭が真っ白になりました」
と述懐。
あれから20年ぶりとなる今回の撮影に備え、
自宅近くの公園で300球を投げ込む自主トレ。
左足を高く上げるヤクルトのライアン小川ばりのフォームで魅了し、
鶴瓶も
「ちゃんと僕が構えたところに投げられるのは凄い。
西武のドラフトにかかるんじゃないですか」
と舌を巻いた。
甲子園も9日に開幕。
吉永は
「早実のハンカチ王子(斎藤佑樹=現日本ハム)と
駒大苫小牧のマー君(田中将大=現ヤンキース)の試合などは、
テレビの前で手に汗握って見ていました。
今年もいよいよ始まりますが、
暑さに負けず、
記憶に残るプレーを期待しています」
と球児にエールを送った。
作品は21日に開幕する第38回モントリオール世界映画祭での
ワールドプレミアを経て10月11日に公開される。
女優の岸惠子(81)と
吉永小百合(69)が7日、
東京・内幸町の日本記者クラブで会見した。
3日に発売された共著
「歩いて行く二人」(世界文化社)の刊行記念で、
七夕の大物そろい踏みに会場も沸いた。
共演作は「細雪」(83年)の1本だけだが、
互いに「大好き」と公言。
岸が
「私はおっちょこちょいですが、
小百合ちゃんはぶれない。
映画一筋は立派」
と称えれば、
吉永は
「桐島洋子さんの原作を岸さんの監督でやる予定がありました。
実現せず残念でした」
と秘話も披露した。
同書は09年秋から昨年秋まで、
横浜とパリで3回に及んだ対談を1冊にまとめた。
2人の恩人の市川崑監督への思いから恋バナ、
原発問題まで幅広いテーマでつづられている。
歌手の吉幾三(61)が、
27年ぶりに映画出演を果たした。
吉永小百合(69)が主演、
初プロデュースする
「ふしぎな岬の物語」(監督成島出、10月11日公開)に、
中学校の先生役で登場。
87年公開の「ドン松五郎の大冒険」に、
ダンプカーの運転手役で出演して以来の銀幕となった。
千葉県明鐘岬に実在する喫茶店を舞台に、
吉永演じる店主と客の交流を描く作品。
吉は近くの中学校に勤める定年間近の先生で、
喫茶店の常連客。
成島監督が
「軽妙な雰囲気に優しい存在感を持った、
田舎の先生」
というイメージを具現化できる人として、
青森出身の吉を抜てき。
監督は
「小津安二郎監督作品に欠かせない名優、
笠智衆のような存在になってほしい」
と要望を伝えた。
撮影は2月上旬。
当初は久々の現場に緊張気味で、
旧知の仲である共演者の笑福亭鶴瓶(62)からも
「緊張してはるやん」
とからかわれるほどだった。
ただ、
徐々に慣れると、
中学校でのシーンでは元教え子役の阿部寛(49)と
息の合ったアドリブでの演技も披露。
2日間の撮影を楽しみ、
「映画独特の雰囲気を楽しませてもらいました」
と笑顔で話した。
吉永とは初共演。
「ずっと変わらない憧れの方なので、
良い緊張感がありました。
今度またじっくりお芝居できれば」
と再共演を熱望。
さらに
「なんだか、
また演技にはまってきましたね」
と話し、
役者業に意欲を示した。
一方の吉永は、
ダジャレを交えて
「撮影初日からご一緒して
“よし、行くぞ!”、
という気持ちになれました」
と、
吉に活気づけられたことを明かした。
演技に関しては
「温かなお人柄がそのまま役に出ていらして、
とても優しい雰囲気のシーンになった」
と話し、
プロデューサーとしても大満足していた。
ecar
2014年08月06日
被爆69年の夏に―核兵器の違法化・禁止を
被爆69年の夏に―核兵器の違法化・禁止を
♪リメンバー ヒロシマ・ナガサキ
声楽家の佐藤しのぶさんが、
昨年発表した曲
「リメンバー」
(なかにし礼作詞、鈴木キサブロー作曲)を
各地のコンサートで歌っている。
なぜ、
リメンバー
(覚えておこう)なのか。
被爆69年の夏に―核兵器の違法化・禁止を
ノーモアと言う前に、
世界の人々に原爆の悲惨さを知ってほしい。
思い起こしてほしい。
それは、
被爆者らが長年、
世界に訴え続けてきた痛切な思いと重なる。
国際政治の冷徹なかけひきや核軍縮をめぐる綱引きのなかで、
ともすると、
かき消されがちだった声でもある。
だが、
被爆69年の今、
核の非道が改めて注目されている。
「人道に反する兵器であることを根拠に、
核兵器を禁止できないか」。
核廃絶を求める国々による、
そんな動きが急速に高まっているからである。
救援が不可能な破壊
ウクライナ、
イラク、
パレスチナ自治区ガザ……。
今も戦いで多くの命が失われている。
殺すのは、
核も、
化学兵器やミサイル、
銃も同じ、
兵器は一様に非人道的と考える人もいるだろう。
だが、
やはり、
核は別に考えるべき兵器なのである。
過去2年間、
核を巡る国際会議が4回開かれた。
非人道性に関する共同声明がその都度、
提案され、
賛同国は16、34、80、125と膨らんだ。
そして今年2月、
メキシコのナヤリット。
核の非人道性を問うこの会議に5大国は参加しなかったが、
146もの国が集まった。
席上、
議長は核兵器の特徴と現状をこう表現した。
核爆発の影響は国境を越えるほど広がり、
インフラ破壊や放射線障害の影響は極めて長く続く。
救援がいくら必要でも、
どこの国も国際機関も対処しきれない。
なのに核兵器を持とうとする国やテロ集団は後を絶たず、
ミスやテロによる核爆発の危険は増す一方だ――。
甚大な被害をもたらす核が、
気が遠くなるほど多く存在する。
何を根拠に、
この危うさを抱えたままで人類が生きながらえると言えるだろうか。
そんな問いかけが、
そこにはある。
廃絶めざし原点回帰
20世紀後半、
人類は資源の大量消費と枯渇、
地球温暖化といった難題に直面した。
人類が生き延びるには、
日々の活動が一部制約されてもやむを得ないと考えられるようになってきた。
安全保障にも同様な感覚が必要だろう。
人類と文明を滅亡のふちに追いやるに十分な核兵器が、
依然として頭の上にぶら下がっているのは放置できない。
核兵器に関しては、
核不拡散条約(NPT)が保有国を5大国に限り、
5大国は誠実に核軍縮を進めることを定めている。
だが、
思うような成果は上がってこなかった。
核で国の安全を確保する「核抑止」
の考え方が染みついているからだ。
ならば原点に返り、
非人道性を根拠に核兵器を違法化していくことだ。
たとえば核の先制使用の禁止から入り、
さらに使用全般を人道法上違法化して、
将来の廃絶につなげる。
化学兵器が使用禁止から、
全面禁止へと進んだことを思い起こしたい。
市井から決める未来
ナヤリット会議では冒頭、
被爆者ら5人に1時間以上の発言機会が確保された。
外交の舞台では画期的なことだ。
69年前の今日、
広島で13歳で被爆したサーロー・節子さん=カナダ在住=は、
同級生や親類らの死にゆく姿を英語で生々しく語った。
一般討論に立った70人以上の代表の大半が、
被爆者らの発言に共感を表明した。
議長は総括で、
核兵器禁止条約づくりなどを念頭に、
具体的に動き出そうと呼びかけた。
ここ5年ほどの核の非人道性をめぐる議論をまとめ、
核に頼り続ける保有国への対抗軸を明確に打ち出したものとして、
注目を集めた。
今年12月、
ナヤリットを受けた国際会議がウィーンで開かれる。
1カ国でも多く、
5大国も参加して、
議論に耳を傾けるべきである。
日本政府は核の非人道性を批判する共同声明について、
賛同を3度見送った。
広島、
長崎両市長をはじめ、
市民の側が
「被爆国の立場、
核廃絶を求める政策と矛盾しているではないか」
と政府の対応を強く非難した。
4度目にやっと姿勢を変えた。
広島市長が会長を務める平和首長会議には今、
世界で6千を超す首長が参加する。
非人道性の国際会議に限らず、
核リスクへの危惧は確実に強まっている。
多くの首長たちが参加するのは、
市井に広がるそうした危惧を感じとってのことだろう。
安全保障の問題だからと国任せにはしない。
人の道に外れているかどうかを決めるのは、
普通に暮らす私たちである。
そこを強く自覚していきたい。
歌で、
核廃絶を訴えてください。
ecar
♪リメンバー ヒロシマ・ナガサキ
声楽家の佐藤しのぶさんが、
昨年発表した曲
「リメンバー」
(なかにし礼作詞、鈴木キサブロー作曲)を
各地のコンサートで歌っている。
なぜ、
リメンバー
(覚えておこう)なのか。
被爆69年の夏に―核兵器の違法化・禁止を
ノーモアと言う前に、
世界の人々に原爆の悲惨さを知ってほしい。
思い起こしてほしい。
それは、
被爆者らが長年、
世界に訴え続けてきた痛切な思いと重なる。
国際政治の冷徹なかけひきや核軍縮をめぐる綱引きのなかで、
ともすると、
かき消されがちだった声でもある。
だが、
被爆69年の今、
核の非道が改めて注目されている。
「人道に反する兵器であることを根拠に、
核兵器を禁止できないか」。
核廃絶を求める国々による、
そんな動きが急速に高まっているからである。
救援が不可能な破壊
ウクライナ、
イラク、
パレスチナ自治区ガザ……。
今も戦いで多くの命が失われている。
殺すのは、
核も、
化学兵器やミサイル、
銃も同じ、
兵器は一様に非人道的と考える人もいるだろう。
だが、
やはり、
核は別に考えるべき兵器なのである。
過去2年間、
核を巡る国際会議が4回開かれた。
非人道性に関する共同声明がその都度、
提案され、
賛同国は16、34、80、125と膨らんだ。
そして今年2月、
メキシコのナヤリット。
核の非人道性を問うこの会議に5大国は参加しなかったが、
146もの国が集まった。
席上、
議長は核兵器の特徴と現状をこう表現した。
核爆発の影響は国境を越えるほど広がり、
インフラ破壊や放射線障害の影響は極めて長く続く。
救援がいくら必要でも、
どこの国も国際機関も対処しきれない。
なのに核兵器を持とうとする国やテロ集団は後を絶たず、
ミスやテロによる核爆発の危険は増す一方だ――。
甚大な被害をもたらす核が、
気が遠くなるほど多く存在する。
何を根拠に、
この危うさを抱えたままで人類が生きながらえると言えるだろうか。
そんな問いかけが、
そこにはある。
廃絶めざし原点回帰
20世紀後半、
人類は資源の大量消費と枯渇、
地球温暖化といった難題に直面した。
人類が生き延びるには、
日々の活動が一部制約されてもやむを得ないと考えられるようになってきた。
安全保障にも同様な感覚が必要だろう。
人類と文明を滅亡のふちに追いやるに十分な核兵器が、
依然として頭の上にぶら下がっているのは放置できない。
核兵器に関しては、
核不拡散条約(NPT)が保有国を5大国に限り、
5大国は誠実に核軍縮を進めることを定めている。
だが、
思うような成果は上がってこなかった。
核で国の安全を確保する「核抑止」
の考え方が染みついているからだ。
ならば原点に返り、
非人道性を根拠に核兵器を違法化していくことだ。
たとえば核の先制使用の禁止から入り、
さらに使用全般を人道法上違法化して、
将来の廃絶につなげる。
化学兵器が使用禁止から、
全面禁止へと進んだことを思い起こしたい。
市井から決める未来
ナヤリット会議では冒頭、
被爆者ら5人に1時間以上の発言機会が確保された。
外交の舞台では画期的なことだ。
69年前の今日、
広島で13歳で被爆したサーロー・節子さん=カナダ在住=は、
同級生や親類らの死にゆく姿を英語で生々しく語った。
一般討論に立った70人以上の代表の大半が、
被爆者らの発言に共感を表明した。
議長は総括で、
核兵器禁止条約づくりなどを念頭に、
具体的に動き出そうと呼びかけた。
ここ5年ほどの核の非人道性をめぐる議論をまとめ、
核に頼り続ける保有国への対抗軸を明確に打ち出したものとして、
注目を集めた。
今年12月、
ナヤリットを受けた国際会議がウィーンで開かれる。
1カ国でも多く、
5大国も参加して、
議論に耳を傾けるべきである。
日本政府は核の非人道性を批判する共同声明について、
賛同を3度見送った。
広島、
長崎両市長をはじめ、
市民の側が
「被爆国の立場、
核廃絶を求める政策と矛盾しているではないか」
と政府の対応を強く非難した。
4度目にやっと姿勢を変えた。
広島市長が会長を務める平和首長会議には今、
世界で6千を超す首長が参加する。
非人道性の国際会議に限らず、
核リスクへの危惧は確実に強まっている。
多くの首長たちが参加するのは、
市井に広がるそうした危惧を感じとってのことだろう。
安全保障の問題だからと国任せにはしない。
人の道に外れているかどうかを決めるのは、
普通に暮らす私たちである。
そこを強く自覚していきたい。
歌で、
核廃絶を訴えてください。
ecar
小泉進次郎氏、原発再稼働に疑義 「事故から学んだか」
小泉進次郎氏、
原発再稼働に疑義
「事故から学んだか」
小泉進次郎復興政務官は4日、
福島県会津若松市で講演し、
安倍政権が進める原発の再稼働について
「2回、
事故を起こしたらおしまいだ。
はたしてもう一度、
同じような事故を起こさないと自信を持って言えるか」
と疑義を呈した。
安倍政権は再稼働を審査する原子力規制委員会の基準を
「世界最高水準」
とし、
基準に
「合格」した原発の再稼働を認める方針だ。
小泉氏は、
こうした政権の進め方について、
「本当にあの事故から学んでいるかと思うことがいっぱいある」
と指摘した。
小泉氏は講演後、
記者団に、
政権が原発問題に
「もっともっと強い危機感と、
日本の最重要課題という認識で取り組む必要がある」
と述べ、
具体例として福島第一原発の汚染水問題などを挙げた。
小泉氏は
「事故を起こして、多くの方が人生を変えざるを得ない様々な決断を強いられ、
犠牲を強いられた。
それだけの重みと危機感を持って、
2011年後の時代を本当に進んでいるのか」
とも語った。
福島県沖を震源とする地震で、
東京電力は12日午前5時15分現在、
福島第一原発、第二原発で
「異常は確認されていない」
としている。
念のため、
当直の作業員らに高台への退避指示を出したとしている。
原子力規制庁によると、
12日午前6時現在で、
福島県の東京電力福島第一原発、
福島第二原発、
宮城県の女川原発、
茨城県内の東海第二原発など原子力関係5施設から
「地震での異常はない」
と報告があったという。
広島市内の被爆者団体による体験を伝える活動数が近年、
高い水準で推移している。
19団体でつくる
「被爆体験証言者交流の集い」
は2013年度、計2623回を数え、
20年前に比べ4割(約千回)増えた。
同市の被爆者の平均年齢は78・93歳と高齢化が進むが、
「次世代に伝えたい」
の思いが支えている。
交流の集いは、
広島平和文化センター(同市)が事務局を務める。
市内外での証言活動は11年度に過去最高の2949回に上り、
12年度も2900回を超えた。
がん手術を経て病気を抱えながら語る人も多いという。
また広島平和記念資料館は被爆者44人を証言者として委嘱。
平均年齢81歳だが、
年間活動数は約1500回に上る。
同館啓発課は
「被爆者が少なくなり、
いま聞いておかなければと思う人も多いのではないか」
とする。
神戸で体験を語り続ける
「神戸市原爆被害者の会」
も会員数がピーク時の約4割まで減り、
3月末で644人。
そのうち約590人の被爆者の平均年齢は80歳を超す。
立川重則会長(70)=同市灘区備後町=は
「息子や娘ら『被爆2世』に、
体験をいかに引き継ぐかも大切だ」
と話した。
原爆はいろいろな出来事を思い起こさせてくれます。
・・やはり、核を無くす以外に無いのかも・・
eca
原発再稼働に疑義
「事故から学んだか」
小泉進次郎復興政務官は4日、
福島県会津若松市で講演し、
安倍政権が進める原発の再稼働について
「2回、
事故を起こしたらおしまいだ。
はたしてもう一度、
同じような事故を起こさないと自信を持って言えるか」
と疑義を呈した。
安倍政権は再稼働を審査する原子力規制委員会の基準を
「世界最高水準」
とし、
基準に
「合格」した原発の再稼働を認める方針だ。
小泉氏は、
こうした政権の進め方について、
「本当にあの事故から学んでいるかと思うことがいっぱいある」
と指摘した。
小泉氏は講演後、
記者団に、
政権が原発問題に
「もっともっと強い危機感と、
日本の最重要課題という認識で取り組む必要がある」
と述べ、
具体例として福島第一原発の汚染水問題などを挙げた。
小泉氏は
「事故を起こして、多くの方が人生を変えざるを得ない様々な決断を強いられ、
犠牲を強いられた。
それだけの重みと危機感を持って、
2011年後の時代を本当に進んでいるのか」
とも語った。
福島県沖を震源とする地震で、
東京電力は12日午前5時15分現在、
福島第一原発、第二原発で
「異常は確認されていない」
としている。
念のため、
当直の作業員らに高台への退避指示を出したとしている。
原子力規制庁によると、
12日午前6時現在で、
福島県の東京電力福島第一原発、
福島第二原発、
宮城県の女川原発、
茨城県内の東海第二原発など原子力関係5施設から
「地震での異常はない」
と報告があったという。
広島市内の被爆者団体による体験を伝える活動数が近年、
高い水準で推移している。
19団体でつくる
「被爆体験証言者交流の集い」
は2013年度、計2623回を数え、
20年前に比べ4割(約千回)増えた。
同市の被爆者の平均年齢は78・93歳と高齢化が進むが、
「次世代に伝えたい」
の思いが支えている。
交流の集いは、
広島平和文化センター(同市)が事務局を務める。
市内外での証言活動は11年度に過去最高の2949回に上り、
12年度も2900回を超えた。
がん手術を経て病気を抱えながら語る人も多いという。
また広島平和記念資料館は被爆者44人を証言者として委嘱。
平均年齢81歳だが、
年間活動数は約1500回に上る。
同館啓発課は
「被爆者が少なくなり、
いま聞いておかなければと思う人も多いのではないか」
とする。
神戸で体験を語り続ける
「神戸市原爆被害者の会」
も会員数がピーク時の約4割まで減り、
3月末で644人。
そのうち約590人の被爆者の平均年齢は80歳を超す。
立川重則会長(70)=同市灘区備後町=は
「息子や娘ら『被爆2世』に、
体験をいかに引き継ぐかも大切だ」
と話した。
原爆はいろいろな出来事を思い起こさせてくれます。
・・やはり、核を無くす以外に無いのかも・・
eca
どんな状況でも核兵器にノーを 原爆詩、朗読続ける吉永小百合さん
どんな状況でも核兵器にノーを
原爆詩、
朗読続ける吉永小百合さん
きょう広島原爆69年
広島への原爆投下から6日で69年。
原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、
朝日新聞のインタビューに応じた。
終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、
広島、
長崎への原爆投下で幕を開けた
「核の時代」
と日本の戦後の歩みに重なる。
吉永さんは
「日本人だけはずっと、未来永劫、核に対してアレルギーを持ってほしい」
と求めた。
唯一の戦争被爆国・日本はいま、
核兵器廃絶を唱える一方で米国の
「核の傘」
に頼るジレンマを抱える。
吉永さんは
「どういう形にせよ、
核の傘に入っているにせよ、
あれだけひどい広島、
長崎の原爆被害があったんだから、
それをみんなしっかり勉強して、
どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしい」
と述べた。
2011年3月の東京電力福島第一原発事故で、
日本は
「核と人類は共存できるか」
という課題とも向き合う。
吉永さんは
「本当の核の威力というものが私にはまだ分かっていない」
としつつ、
こう語った。
「でも、
原子力の発電というのは、
特に日本ではやめなくてはいけない。
これだけ地震の多い国で、
まったく安全ではない造り方、
管理の仕方をしているわけですから。
どうやって廃炉にしていくかを考えないと」
原発の再稼働や輸出の動きがあることには
「『さよなら原発』と私は声を出していきたい。
みんなの命を守るために、
今、
せっかく原発が止まっているのだから、
今やめましょうと」。
そして「まだ毎日、
汚染水など現場で苦しい思いの中で作業していらっしゃる方がたくさんいる。
そういう中で、
外国に原発を売るというのは、
とても考えられないことです」
と述べた。
被爆・戦後69年となる今年、
日本では戦争放棄をうたう憲法9条の解釈が変えられ、
自衛隊が他国を守るために海外で戦う
集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。
吉永さんは
「今の流れはとても怖い。
大変なことになりそうな気がしているんです」
と懸念を示しながら続けた。
「政治が悪いから、
と言っている段階ではない気がします。
一人一人の権利を大事にし、
しっかり考え、
自分はどう思うかを語らなければいけない」
核のない世界をめざし、
吉永さんは原爆詩の朗読CD
「第二楽章」
の広島版と長崎版を作ってきた。
「私は俳優だから、
詩を読むことが一番伝わる」
と述べ、
「次は福島の第二楽章を作りたい」
と語った。
日本の原発輸出、
なぜ推進するの?
日本の原子力技術をトルコとUAE(アラブ首長国連邦)に
輸出するための原子力協定が国会で承認されました。
安倍政権は原発輸出に非常に積極的ですが、
これはどう考えればよいのでしょうか?
日本には三菱重工、
東芝、
日立製作所という3つの原発メーカーがありますが、
各社は、
もともと原発の輸出にあまり積極的ではありませんでした。
日本は国内で多数の原発を稼働させてきたので、
海外に輸出する必要がなかったからです。
しかし2000年代に入って国内市場の縮小傾向がはっきりしてきたことから、
日本のメーカー各社は国際的な展開を検討せざるを得なくなってきました。
日本が原発の輸出に本腰を入れ始めたのはこの頃からです。
この状況に追い打ちをかけたのが福島原発の事故です。
国内で新規の原発建設の見込みが立たなくなったことから、
各社の事業計画は大きく狂ってしまいました。
特に三菱と東芝は原発への依存度が高く、
何としても原発を輸出する必要に迫られています。
安倍政権が、
原子力分野への支援を積極的に行っているのはこのような事情があるわけです。
日本の原発メーカー各社は、
もともと米国企業からの技術導入で事業をスタートさせています。
このうち、
三菱はウェスチングハウス社から、
東芝と日立は、
GE(ゼネラル・エレクトリック)社からそれぞれ技術提供を受けました。
現在では米国メーカーと日本メーカーの力関係はほぼ対等となり、
東芝は逆にウェスチングハウスを買収するまでになっています。
日米には、三菱、東芝ウェスチングハウスグループ、
日立、
GEの4大メーカーが存在しているわけですが、
これにフランスのアレバ社を含めた5社が
世界の原発市場における主な事業者となっています。
最近では、
ウェスチングハウスから技術提供を受けた韓国メーカーや、
ロシアのメーカーがかなりの安値で市場に参入してきています。
GEは原発の輸出にそれほど積極的ではありませんから、
日本勢と韓国勢、そしてロシア勢が主に受注を争う状況となっています。
今回の原子力協定に関する採決では、
民主党の一部議員などが、
福島原発の事故処理も不完全な状況では、
到底原発の輸出は許可できないとして投票を棄権しています。
倫理的な面はともかくとして、
当初は、
福島原発の事故が原発輸出の障害になるとの懸念もあったのですが、
今のところ受注合戦には大きな影響は出ていないようです。
しかし、
あの大事故が世界中の人々に強い衝撃を与えたことは事実です。
仮に大きな事故ではなくても、
日本製の原発がトラブルを起こすようなことがあれば、
日本メーカーは二度と信頼を回復することができなくなってしまう可能性があります。
その意味で、
日本メーカーや安倍政権は非常に大きなリスクを抱えたといってよいでしょう。
トルコやUAEは途上国ですから、
あらゆる面におけるインフラの水準が日本とは異なります。
日本メーカーはこうした途上国での稼働経験はそれほど豊富ではありません。
国内での納入とは比較にならない水準の慎重さが要求されることになるでしょう。
ecar
原爆詩、
朗読続ける吉永小百合さん
きょう広島原爆69年
広島への原爆投下から6日で69年。
原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、
朝日新聞のインタビューに応じた。
終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、
広島、
長崎への原爆投下で幕を開けた
「核の時代」
と日本の戦後の歩みに重なる。
吉永さんは
「日本人だけはずっと、未来永劫、核に対してアレルギーを持ってほしい」
と求めた。
唯一の戦争被爆国・日本はいま、
核兵器廃絶を唱える一方で米国の
「核の傘」
に頼るジレンマを抱える。
吉永さんは
「どういう形にせよ、
核の傘に入っているにせよ、
あれだけひどい広島、
長崎の原爆被害があったんだから、
それをみんなしっかり勉強して、
どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしい」
と述べた。
2011年3月の東京電力福島第一原発事故で、
日本は
「核と人類は共存できるか」
という課題とも向き合う。
吉永さんは
「本当の核の威力というものが私にはまだ分かっていない」
としつつ、
こう語った。
「でも、
原子力の発電というのは、
特に日本ではやめなくてはいけない。
これだけ地震の多い国で、
まったく安全ではない造り方、
管理の仕方をしているわけですから。
どうやって廃炉にしていくかを考えないと」
原発の再稼働や輸出の動きがあることには
「『さよなら原発』と私は声を出していきたい。
みんなの命を守るために、
今、
せっかく原発が止まっているのだから、
今やめましょうと」。
そして「まだ毎日、
汚染水など現場で苦しい思いの中で作業していらっしゃる方がたくさんいる。
そういう中で、
外国に原発を売るというのは、
とても考えられないことです」
と述べた。
被爆・戦後69年となる今年、
日本では戦争放棄をうたう憲法9条の解釈が変えられ、
自衛隊が他国を守るために海外で戦う
集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。
吉永さんは
「今の流れはとても怖い。
大変なことになりそうな気がしているんです」
と懸念を示しながら続けた。
「政治が悪いから、
と言っている段階ではない気がします。
一人一人の権利を大事にし、
しっかり考え、
自分はどう思うかを語らなければいけない」
核のない世界をめざし、
吉永さんは原爆詩の朗読CD
「第二楽章」
の広島版と長崎版を作ってきた。
「私は俳優だから、
詩を読むことが一番伝わる」
と述べ、
「次は福島の第二楽章を作りたい」
と語った。
日本の原発輸出、
なぜ推進するの?
日本の原子力技術をトルコとUAE(アラブ首長国連邦)に
輸出するための原子力協定が国会で承認されました。
安倍政権は原発輸出に非常に積極的ですが、
これはどう考えればよいのでしょうか?
日本には三菱重工、
東芝、
日立製作所という3つの原発メーカーがありますが、
各社は、
もともと原発の輸出にあまり積極的ではありませんでした。
日本は国内で多数の原発を稼働させてきたので、
海外に輸出する必要がなかったからです。
しかし2000年代に入って国内市場の縮小傾向がはっきりしてきたことから、
日本のメーカー各社は国際的な展開を検討せざるを得なくなってきました。
日本が原発の輸出に本腰を入れ始めたのはこの頃からです。
この状況に追い打ちをかけたのが福島原発の事故です。
国内で新規の原発建設の見込みが立たなくなったことから、
各社の事業計画は大きく狂ってしまいました。
特に三菱と東芝は原発への依存度が高く、
何としても原発を輸出する必要に迫られています。
安倍政権が、
原子力分野への支援を積極的に行っているのはこのような事情があるわけです。
日本の原発メーカー各社は、
もともと米国企業からの技術導入で事業をスタートさせています。
このうち、
三菱はウェスチングハウス社から、
東芝と日立は、
GE(ゼネラル・エレクトリック)社からそれぞれ技術提供を受けました。
現在では米国メーカーと日本メーカーの力関係はほぼ対等となり、
東芝は逆にウェスチングハウスを買収するまでになっています。
日米には、三菱、東芝ウェスチングハウスグループ、
日立、
GEの4大メーカーが存在しているわけですが、
これにフランスのアレバ社を含めた5社が
世界の原発市場における主な事業者となっています。
最近では、
ウェスチングハウスから技術提供を受けた韓国メーカーや、
ロシアのメーカーがかなりの安値で市場に参入してきています。
GEは原発の輸出にそれほど積極的ではありませんから、
日本勢と韓国勢、そしてロシア勢が主に受注を争う状況となっています。
今回の原子力協定に関する採決では、
民主党の一部議員などが、
福島原発の事故処理も不完全な状況では、
到底原発の輸出は許可できないとして投票を棄権しています。
倫理的な面はともかくとして、
当初は、
福島原発の事故が原発輸出の障害になるとの懸念もあったのですが、
今のところ受注合戦には大きな影響は出ていないようです。
しかし、
あの大事故が世界中の人々に強い衝撃を与えたことは事実です。
仮に大きな事故ではなくても、
日本製の原発がトラブルを起こすようなことがあれば、
日本メーカーは二度と信頼を回復することができなくなってしまう可能性があります。
その意味で、
日本メーカーや安倍政権は非常に大きなリスクを抱えたといってよいでしょう。
トルコやUAEは途上国ですから、
あらゆる面におけるインフラの水準が日本とは異なります。
日本メーカーはこうした途上国での稼働経験はそれほど豊富ではありません。
国内での納入とは比較にならない水準の慎重さが要求されることになるでしょう。
ecar
広島で69回目の「原爆の日」
広島で69回目の「原爆の日」
平和記念式典に安倍首相ら出席へ
人類史上初めて、
原爆が投下された広島は6日、
69回目の「原爆の日」を迎えた。
広島市の平和公園では、
平和記念式典が行われる。
8月6日の朝を迎えた広島市の平和公園。
早朝から、
強い雨が降り続いているが、
原爆慰霊碑には、
祈りをささげる人が多く訪れている。
午前8時から始まる平和記念式典中に雨が降れば、
1971年以来43年ぶりの雨の中の式典となる。
2014年の式典には、
安倍首相やアメリカのケネディ駐日大使などが出席する。
広島市の松井市長は「平和宣言」で、
集団的自衛権の行使容認については触れず、
憲法のもとで69年間、
戦争がなかった事実を受け止め、
平和国家の道を歩み続けるよう、
政府に要望する。
広島は6日、
静かにそして強く、
世界へ平和を訴える。
集団的自衛権容認に懸念表明へ
長崎市長が平和宣言で
長崎市の田上富久市長は1日、
長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典で読み上げる平和宣言で、
安倍政権による集団的自衛権の行使容認について懸念を示す文言を入れることを明らかにした。
田上市長は会見で
「(安全保障の)
現状を明確に伝えるために集団的自衛権という言葉を入れた方が伝わりやすいと思う」
と話した。
一方、
広島市の松井一実市長が広島原爆の日(8月6日)に読み上げる平和宣言では、
集団的自衛権の行使を認めるとした安倍政権の閣議決定には直接言及しないという。
長崎の平和宣言は、
田上市長を委員長に、
被爆者や大学教授ら14人が委員を務める起草委員会での議論をふまえて市が作る。
今年の起草委は3回開かれ、
委員から集団的自衛権の行使容認について「戦争につながる」などと懸念を表明する文言を盛り込むよう求める意見が相次いでいた。
(核といのちを考える遺す)
刻み込まれた恐怖、
次代へ
広島と長崎に原爆が落とされてから6日及び9日で69年。
高齢の被爆者は次々と亡くなり、
3月には被爆者健康手帳を持つ人の数は20万人を割り込んだ。
被爆者はどんな記憶と次代へのメッセージを遺そうとしているのか。
当時20歳以上だった人の言葉に耳を傾けると、
世界で共有するべき「核の非人道性」が改めて浮き彫りになる。
あの時、救えなかった命
「おかげで長生きできとります。
けさもラジオ体操したけん」。
6畳ほどの診察室。
肩が痛いと言う男性(81)の表情が和らいでいった。
白衣をはおった田口正秋(90)はほほ笑み、
男性の胸に聴診器をあてた。
核といのちを考える 遺す
真夏の日差しが照りつける先月23日の朝。
69年前とほぼ同じ時刻。
田口は広島から約200キロ離れた福岡で命と向き合う。
消せない思いを胸にしまいながら。
――あの時、あまりに多くの命を救えなかった――。
1945年8月6日午前8時15分。
米軍のB29爆撃機が投下した原爆が広島で炸裂した。
軍医になったばかりの田口は、
爆心地から約3キロ離れた陸軍兵器補給廠の食堂にいた。
見たこともない閃光と爆風、
熱線。
とっさに身を伏せ、
テーブルの下へ。
窓ガラスは全て割れ、
食堂も倒れかかったが、
床との間にできたわずかな空間で助かった。
「洞窟へ」。
多くのけが人が出たと直感した田口は補給廠から約500メートル西の比治山(ひじやま)へ走った。
山といっても標高70メートルほどの小高い丘で、
斜面には緊急救護所となる洞窟(長さ50メートル、
幅10メートル、
高さ2メートル)が掘られていた。
穴には10人ほどの看護婦と衛生兵がいたが、
医者は田口だけだった。
手を引き合い、
急ごしらえの杖にすがりながら被爆者が丘を上がってきた。
髪の毛は焦げ、
衣服はぼろぼろ。
赤黒く腫れた唇、
つぶれた目。
皮膚は焼け、
腕からぶらりと下がっていた。
地獄だった。
洞窟はすぐに被爆した人で埋まった。
「子どもが暴れているんじゃ」
「ぐったりした母をみてくれ」。
負傷者の血で染まった白衣のまま、
田口は裸電球が照らす洞窟内を駆け回った。
油薬を綿の玉につけ、
ピンセットでやけどの患部に塗る。
丁寧な治療は最初だけ。
手が回らず、
薬もなくなった。
炊事班の食用油を両手で傷に塗りたくった。
処置をした人は補給廠の倉庫にトラックで運んだ。
翌7日の朝。
倉庫へ行くと、
セーラー服を着た女の子が水道の蛇口付近で死んでいた。
水を求めたのか、
顔にはひどいやけどをしていた。
その近くには息絶えた母親の乳房をまさぐりながら泣く乳児がいた。
自分が手当てをした人だった。
約1300人。
田口が3日間、
1人で治療した人の数だ。
手帳に亡くなった人を記していたが、
60人を超えたところで止まった。
終戦からしばらくして、
爆弾が原爆という核兵器だと知った。
1発で何十万もの市民を殺傷し、
医療施設を破壊する。
放射線は助かった人の体をむしばむ。
田口も被爆から約1カ月後、
40度の高熱と体にできた斑点で苦しんだ。
「核が使われると、
治療なんてできない」。
田口は感じた。
被爆から2年半後。
北九州の病院で外科医として勤め始め、
66年に福岡で開業した。
それから48年。
90歳になった今も毎朝、
白衣に袖を通す。
「あの日を生き延びた私にすべきことがあるなら、
医師として人を救うことでしょう」
ナイチンゲールのような従軍看護婦になるつもりだった。
だが、
原爆には夢も理想も無力だった。
原爆投下時、
内田千寿子(91)は郷里の広島県有磨村(現・福山市)にいた。
広島赤十字病院で臨時救護看護婦の訓練を終え、
待機中だった。
5日後に招集がかかり、
爆心地から約1・6キロ離れた病院へ。
玄関ホールには、
負傷した被爆者が並べられていた。
「とっさに顔を背けた。
見たくないとの思いで」。
先月15日、
内田はまなざしを遠くに向けて明かした。
病院には3週間で延べ約3万1千人が運び込まれたが、
包帯も薬も少ない。
やけどをした患者から「肩がかゆい」と言われ、
「治りかけでしょう」と声をかけた。
傷口を見ると、
無数のウジがわいていた。
当時は原爆が落とされたとは知らず、
どう治療していいか、
みんな分からなかった。
「戦争が終わったのに、
僕らはなんで死ななくちゃならんのか」。
終戦の日の8月15日、
ある患者が言った。
1カ月後、
病院にいた患者の大半が死んだ。
戦後も残留放射線による被爆に苦しみながら看護の道を歩み、
今は広島市から約70キロ東の府中市に住む。
被爆30年の75年から体験をつづる文集
「地下水」
は7月号で352号を数えた。
「死んだ人々のため、
残さないといけない」。
使い込んだパソコンに1文字ずつ打ち込む。
広島が被爆した3日後の8月9日午前11時2分、
米軍は長崎市にも原爆を落とした。
海と山に囲まれ、
異国情緒あふれる街は一瞬にして焦土と化した。
爆心地から20キロほど離れた長崎県諫早市にも多数の被爆者が運ばれてきた。
だが、
馬場すづ子(93)は言う。
「何もできなかった」
「長崎のけが人が来たけん!」。
9日夕方、
自治会長がメガホンで叫び、
近くの旧制中学に毛布や食料を持ってくるよう求めた。
出征した夫の帰りを2歳の娘と待つ身だった馬場。
娘を実母に託して向かうと、
諫早駅に着いた列車からリヤカーに乗せられた被爆者が続々と運び込まれていた。
身ごもった女性もいた。
血だらけで寝かされた被爆者が講堂を埋めた。
治療を手伝おうにも薬はない。
渡された黒い液体を筆で傷に塗ったり、
わいてくるウジを割り箸で取り除いたり……。
外の蛇口の周りには水を求めながら死んだ人たちが折り重なっていた。
「軽傷」の人を任されたはずだったが、
次々と息を引き取った。
救えない命ばかり。
講堂に詰めた約2週間で、
自らも救護中に被爆していた。
「戦争も、
原爆もあわれなだけ
。絶対に繰り返しちゃだめ」
証言の詳細は特集ページで
69年前の8月6日と9日。
広島、
長崎に落とされた原爆は一瞬にして街を破壊し、
20万人以上の命を奪った。
「核の非人道性」
が世界的に共有されつつある中、
日本は「戦争のできる国」に踏み出し、
原発再稼働も近づく。
平和へ、
不戦へ、
どう歩めばいいのか。
原爆投下時に成人だった被爆者の記憶とメッセージから考えていく。
今回の取材は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
に2010年から掲載されている被爆者で、
原爆投下時に20歳以上だった334人を対象とした。
現在の連絡先がわかり、
面談が可能とした59人に取材。
アンケート用紙を送った16人のうち13人が返送した。
成人だった人たちは様々な社会的立場で被爆した。
命と向き合う看護婦は
「ガーゼを替えるとウジ虫がわいていた。
救える命は少なかった」
(福岡県の石橋ヨソノさん、
90歳、
被爆地・広島)と証言。
衛生兵は
「治療しても大半が死んだ」
(和歌山県の松山義一さん、90歳、同)と言い、
あまりに多くの人を一瞬のうちに殺傷する核兵器のむごさを指摘する。
核兵器がもたらす壮絶な光景の記憶と放射線への恐怖は、
被爆者を長く苦しめた。
軍人は
「水を求めるうめき声がずっと耳から離れなかった」
(佐賀県の岸川巖(いわお)さん、89歳、被爆地・長崎)とし、
学校職員は
「悪夢と健康不安、差別を背負って生きてきた」
(神奈川県の樫村従子(よりこ)さん、90歳、同・広島)と振り返る。
取材に応じた被爆者は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
(http://www.asahi.com/hibakusha/)の掲載者。
被爆時に成人だった334人のうち連絡先がわかり、
面談やアンケート用紙のやり取りを通じて計71人が主な質問に答えた。
日本の現状と未来に警鐘を鳴らす声もあった。
原発再稼働には7割にあたる52人が反対か否定的だった。
自衛隊が他国を守るために海外で戦う集団的自衛権の行使を認めることに対しても51人が反対を明言。
陸軍通信兵は
「海外の戦争に関われば攻撃される対象になる」
(大分県の鱧永(はもなが)秀一さん、89歳、被爆地・広島)
と自身の経験から語った。
〈核の非人道性〉
一度に多数の人を殺傷して街を破壊するほか、
長期にわたって健康や環境に悪影響をもたらすといった
「人道的に取り返しのつかない惨事」
を招く核兵器の特性を指す。
日本原水爆被害者団体協議会が1956年の結成時から訴えてきた。
昨秋に国連総会第1委員会に出された
「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」には、
日本を含む125カ国が賛同。
今春に広島市で開かれた非核保有12カ国の核軍縮・不拡散イニシアチブ外相会合でも、
核兵器の使用は壊滅的で非人道的な結末を招くとした広島宣言を採択した。
ecar
平和記念式典に安倍首相ら出席へ
人類史上初めて、
原爆が投下された広島は6日、
69回目の「原爆の日」を迎えた。
広島市の平和公園では、
平和記念式典が行われる。
8月6日の朝を迎えた広島市の平和公園。
早朝から、
強い雨が降り続いているが、
原爆慰霊碑には、
祈りをささげる人が多く訪れている。
午前8時から始まる平和記念式典中に雨が降れば、
1971年以来43年ぶりの雨の中の式典となる。
2014年の式典には、
安倍首相やアメリカのケネディ駐日大使などが出席する。
広島市の松井市長は「平和宣言」で、
集団的自衛権の行使容認については触れず、
憲法のもとで69年間、
戦争がなかった事実を受け止め、
平和国家の道を歩み続けるよう、
政府に要望する。
広島は6日、
静かにそして強く、
世界へ平和を訴える。
集団的自衛権容認に懸念表明へ
長崎市長が平和宣言で
長崎市の田上富久市長は1日、
長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典で読み上げる平和宣言で、
安倍政権による集団的自衛権の行使容認について懸念を示す文言を入れることを明らかにした。
田上市長は会見で
「(安全保障の)
現状を明確に伝えるために集団的自衛権という言葉を入れた方が伝わりやすいと思う」
と話した。
一方、
広島市の松井一実市長が広島原爆の日(8月6日)に読み上げる平和宣言では、
集団的自衛権の行使を認めるとした安倍政権の閣議決定には直接言及しないという。
長崎の平和宣言は、
田上市長を委員長に、
被爆者や大学教授ら14人が委員を務める起草委員会での議論をふまえて市が作る。
今年の起草委は3回開かれ、
委員から集団的自衛権の行使容認について「戦争につながる」などと懸念を表明する文言を盛り込むよう求める意見が相次いでいた。
(核といのちを考える遺す)
刻み込まれた恐怖、
次代へ
広島と長崎に原爆が落とされてから6日及び9日で69年。
高齢の被爆者は次々と亡くなり、
3月には被爆者健康手帳を持つ人の数は20万人を割り込んだ。
被爆者はどんな記憶と次代へのメッセージを遺そうとしているのか。
当時20歳以上だった人の言葉に耳を傾けると、
世界で共有するべき「核の非人道性」が改めて浮き彫りになる。
あの時、救えなかった命
「おかげで長生きできとります。
けさもラジオ体操したけん」。
6畳ほどの診察室。
肩が痛いと言う男性(81)の表情が和らいでいった。
白衣をはおった田口正秋(90)はほほ笑み、
男性の胸に聴診器をあてた。
核といのちを考える 遺す
真夏の日差しが照りつける先月23日の朝。
69年前とほぼ同じ時刻。
田口は広島から約200キロ離れた福岡で命と向き合う。
消せない思いを胸にしまいながら。
――あの時、あまりに多くの命を救えなかった――。
1945年8月6日午前8時15分。
米軍のB29爆撃機が投下した原爆が広島で炸裂した。
軍医になったばかりの田口は、
爆心地から約3キロ離れた陸軍兵器補給廠の食堂にいた。
見たこともない閃光と爆風、
熱線。
とっさに身を伏せ、
テーブルの下へ。
窓ガラスは全て割れ、
食堂も倒れかかったが、
床との間にできたわずかな空間で助かった。
「洞窟へ」。
多くのけが人が出たと直感した田口は補給廠から約500メートル西の比治山(ひじやま)へ走った。
山といっても標高70メートルほどの小高い丘で、
斜面には緊急救護所となる洞窟(長さ50メートル、
幅10メートル、
高さ2メートル)が掘られていた。
穴には10人ほどの看護婦と衛生兵がいたが、
医者は田口だけだった。
手を引き合い、
急ごしらえの杖にすがりながら被爆者が丘を上がってきた。
髪の毛は焦げ、
衣服はぼろぼろ。
赤黒く腫れた唇、
つぶれた目。
皮膚は焼け、
腕からぶらりと下がっていた。
地獄だった。
洞窟はすぐに被爆した人で埋まった。
「子どもが暴れているんじゃ」
「ぐったりした母をみてくれ」。
負傷者の血で染まった白衣のまま、
田口は裸電球が照らす洞窟内を駆け回った。
油薬を綿の玉につけ、
ピンセットでやけどの患部に塗る。
丁寧な治療は最初だけ。
手が回らず、
薬もなくなった。
炊事班の食用油を両手で傷に塗りたくった。
処置をした人は補給廠の倉庫にトラックで運んだ。
翌7日の朝。
倉庫へ行くと、
セーラー服を着た女の子が水道の蛇口付近で死んでいた。
水を求めたのか、
顔にはひどいやけどをしていた。
その近くには息絶えた母親の乳房をまさぐりながら泣く乳児がいた。
自分が手当てをした人だった。
約1300人。
田口が3日間、
1人で治療した人の数だ。
手帳に亡くなった人を記していたが、
60人を超えたところで止まった。
終戦からしばらくして、
爆弾が原爆という核兵器だと知った。
1発で何十万もの市民を殺傷し、
医療施設を破壊する。
放射線は助かった人の体をむしばむ。
田口も被爆から約1カ月後、
40度の高熱と体にできた斑点で苦しんだ。
「核が使われると、
治療なんてできない」。
田口は感じた。
被爆から2年半後。
北九州の病院で外科医として勤め始め、
66年に福岡で開業した。
それから48年。
90歳になった今も毎朝、
白衣に袖を通す。
「あの日を生き延びた私にすべきことがあるなら、
医師として人を救うことでしょう」
ナイチンゲールのような従軍看護婦になるつもりだった。
だが、
原爆には夢も理想も無力だった。
原爆投下時、
内田千寿子(91)は郷里の広島県有磨村(現・福山市)にいた。
広島赤十字病院で臨時救護看護婦の訓練を終え、
待機中だった。
5日後に招集がかかり、
爆心地から約1・6キロ離れた病院へ。
玄関ホールには、
負傷した被爆者が並べられていた。
「とっさに顔を背けた。
見たくないとの思いで」。
先月15日、
内田はまなざしを遠くに向けて明かした。
病院には3週間で延べ約3万1千人が運び込まれたが、
包帯も薬も少ない。
やけどをした患者から「肩がかゆい」と言われ、
「治りかけでしょう」と声をかけた。
傷口を見ると、
無数のウジがわいていた。
当時は原爆が落とされたとは知らず、
どう治療していいか、
みんな分からなかった。
「戦争が終わったのに、
僕らはなんで死ななくちゃならんのか」。
終戦の日の8月15日、
ある患者が言った。
1カ月後、
病院にいた患者の大半が死んだ。
戦後も残留放射線による被爆に苦しみながら看護の道を歩み、
今は広島市から約70キロ東の府中市に住む。
被爆30年の75年から体験をつづる文集
「地下水」
は7月号で352号を数えた。
「死んだ人々のため、
残さないといけない」。
使い込んだパソコンに1文字ずつ打ち込む。
広島が被爆した3日後の8月9日午前11時2分、
米軍は長崎市にも原爆を落とした。
海と山に囲まれ、
異国情緒あふれる街は一瞬にして焦土と化した。
爆心地から20キロほど離れた長崎県諫早市にも多数の被爆者が運ばれてきた。
だが、
馬場すづ子(93)は言う。
「何もできなかった」
「長崎のけが人が来たけん!」。
9日夕方、
自治会長がメガホンで叫び、
近くの旧制中学に毛布や食料を持ってくるよう求めた。
出征した夫の帰りを2歳の娘と待つ身だった馬場。
娘を実母に託して向かうと、
諫早駅に着いた列車からリヤカーに乗せられた被爆者が続々と運び込まれていた。
身ごもった女性もいた。
血だらけで寝かされた被爆者が講堂を埋めた。
治療を手伝おうにも薬はない。
渡された黒い液体を筆で傷に塗ったり、
わいてくるウジを割り箸で取り除いたり……。
外の蛇口の周りには水を求めながら死んだ人たちが折り重なっていた。
「軽傷」の人を任されたはずだったが、
次々と息を引き取った。
救えない命ばかり。
講堂に詰めた約2週間で、
自らも救護中に被爆していた。
「戦争も、
原爆もあわれなだけ
。絶対に繰り返しちゃだめ」
証言の詳細は特集ページで
69年前の8月6日と9日。
広島、
長崎に落とされた原爆は一瞬にして街を破壊し、
20万人以上の命を奪った。
「核の非人道性」
が世界的に共有されつつある中、
日本は「戦争のできる国」に踏み出し、
原発再稼働も近づく。
平和へ、
不戦へ、
どう歩めばいいのか。
原爆投下時に成人だった被爆者の記憶とメッセージから考えていく。
今回の取材は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
に2010年から掲載されている被爆者で、
原爆投下時に20歳以上だった334人を対象とした。
現在の連絡先がわかり、
面談が可能とした59人に取材。
アンケート用紙を送った16人のうち13人が返送した。
成人だった人たちは様々な社会的立場で被爆した。
命と向き合う看護婦は
「ガーゼを替えるとウジ虫がわいていた。
救える命は少なかった」
(福岡県の石橋ヨソノさん、
90歳、
被爆地・広島)と証言。
衛生兵は
「治療しても大半が死んだ」
(和歌山県の松山義一さん、90歳、同)と言い、
あまりに多くの人を一瞬のうちに殺傷する核兵器のむごさを指摘する。
核兵器がもたらす壮絶な光景の記憶と放射線への恐怖は、
被爆者を長く苦しめた。
軍人は
「水を求めるうめき声がずっと耳から離れなかった」
(佐賀県の岸川巖(いわお)さん、89歳、被爆地・長崎)とし、
学校職員は
「悪夢と健康不安、差別を背負って生きてきた」
(神奈川県の樫村従子(よりこ)さん、90歳、同・広島)と振り返る。
取材に応じた被爆者は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
(http://www.asahi.com/hibakusha/)の掲載者。
被爆時に成人だった334人のうち連絡先がわかり、
面談やアンケート用紙のやり取りを通じて計71人が主な質問に答えた。
日本の現状と未来に警鐘を鳴らす声もあった。
原発再稼働には7割にあたる52人が反対か否定的だった。
自衛隊が他国を守るために海外で戦う集団的自衛権の行使を認めることに対しても51人が反対を明言。
陸軍通信兵は
「海外の戦争に関われば攻撃される対象になる」
(大分県の鱧永(はもなが)秀一さん、89歳、被爆地・広島)
と自身の経験から語った。
〈核の非人道性〉
一度に多数の人を殺傷して街を破壊するほか、
長期にわたって健康や環境に悪影響をもたらすといった
「人道的に取り返しのつかない惨事」
を招く核兵器の特性を指す。
日本原水爆被害者団体協議会が1956年の結成時から訴えてきた。
昨秋に国連総会第1委員会に出された
「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」には、
日本を含む125カ国が賛同。
今春に広島市で開かれた非核保有12カ国の核軍縮・不拡散イニシアチブ外相会合でも、
核兵器の使用は壊滅的で非人道的な結末を招くとした広島宣言を採択した。
ecar
2014年08月05日
「親日・台湾シフト」強まる関空、USJ人気も追い風
中韓に替わり
「親日・台湾シフト」
強まる関空、
USJ人気も追い風
日中関係の冷え込みなどで、
これまで日本への観光の牽引役を務めてきた中国人観光客が減少傾向に転じる中、
非常に親日感情の強い台湾からの観光客が急増している。
特に東アジアからの観光客が多い関西国際空港では今年夏、
航空各社が相次いで台湾便の増便を決定。
関空内にも台湾人観光客を意識した日本ブランド店や100円ショップなどが相次いで出店している。
テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ、
大阪市此花区)に人気映画「ハリー・ポッター」の新エリアがオープンした効果も加わり、
関係者は「まだまだ台湾からの観光客は増える」と
“台湾シフト”を強めている。(吉村剛史)
観光客続々…台湾から年225万人
USJにハリー・ポッターの新エリアがオープンした7月15日以降、
関空第2ターミナルでは、
格安航空会社(LCC)、
ピーチ・アビエーションの台北便の出国エリアが連日、
USJ帰りの大量の土産物を抱えた台湾人観光客の親子連れらで混雑している。
「暑かったし、
長時間の行列には疲れたけど、
子供たちが喜んでくれたので満足です」。
台北市の荘麗児さん(30)は、
中学生のめいや小学生のおいら親族7人で10日間の日本観光を楽しんだという。
「日本は物価が高いので、
食事や土産物の出費も小さくないが、
サービスの質が高い。
台湾からも近いし、
日本に親類もいるので、
また別の季節に来たい」
と笑顔をみせた。
日中や日韓の間に領土や慰安婦をめぐる問題が影を落とす中、
最近は中国・韓国からの観光客に代わり、
台湾からの観光客が急増している。
法務省入国管理局によると、
昨年1年間に台湾から約225万人が来日。
うち約51万人が関空を利用していた。
その前年の平成24年には、
台湾からの関空利用は約30万人。
23年は約19万人だったことをみれば、
その急増ぶりが分かる。
一方、
関空を利用した中国人は、
23年の約28万人から24年には約37万人に増えたものの、
25年には約35万人と減少に転じている。
航空会社も相次ぎ増便
新関西国際空港会社が今年3月に発表した国際線の
夏期(3月30日〜10月25日)スケジュールでは、
便数がピークとなる8月に週919便と、
開港以来初めて週900便を超えた。
就航先を都市別でみると、
やはりトップは週99便の台北。
台湾便は、
台湾南部の高雄や台中でも増便が目立っている。
その後も航空会社は、
相次いで台湾便の増便を発表している。
7月1日には、
台湾の航空会社「エバー航空」が台北便を、
これまでの毎日2便に加え、
さらに火・金・日曜に3便増便した。
また、
同じ台湾の中華航空(チャイナエアライン)も8月17日から台北便を、
これまでの現行の週24便から31便に増やす。
さらに10月にも台中便を、
これまでの週5便から7便に増やす計画だ。
日本への台湾人観光客について、
広報担当者は
「空前の伸び。
USJ効果はもちろんですが、
日本から台湾を訪れるリピーターも増えており、
思い切った増便につながっています」
と自信をみせる。
新関西国際空港会社の担当者も「台湾便の増加で、
さらに台湾からの旅行者が増えるのは間違いない。
利用者全体に占める比率もアップしそうだ」
と強気の見通しだ。
施設もリニューアル
台湾人を中心とする観光客の増加を受け、
関空では各種施設もリニューアルを強化している。
9月に開港20周年を迎える関空では、
国際線の出国エリアで、
外貨両替やビジネスセンター、
銀行のATM(現金自動預払機)などを4階の
国際線出発フロアの中央に集める大規模な改装を進めている。
すでに6月には、
台湾などからの観光客に人気の100円ショップ
「ザ・ダイソー関西エアポート店」が
店舗面積を拡充してリニューアルオープンした。
また、
フランスの名門ファッションブランド
「クロエ」やイギリスのブランド
「バーバリー」などと並び、
台湾人観光客などの興味をひきそうな日本の有名ブランドの和洋菓子や日本酒、
キャラクター雑貨、
工芸品、
電化製品を販売する商業施設
「和−NAGOMI−」が
9月にオープンする予定だ。
意識した品ぞろえ
新関西国際空港会社の直営店で、
運営を委託されている関西国際空港産業の担当者は
「もちろん台湾便利用者向けの売れ筋も意識した品ぞろえで展開します」
と言い切る。
すでに出国エリア内に出店し、
同じく日本の各種商品を販売している商業施設
「彩−IRODORI−」では、
台湾でインターネットを利用した販売詐欺事件も起きるほど
大流行した日本の菓子商品
「ブラックサンダー」
(永楽製菓)をはじめ、
日本生まれのキャラクター
「ハローキティ」
の各種グッズなどを取りそろえている。
店の担当者は
「台湾人観光客などに好まれる品を意識的に増やしている」
と話す。
一方、
この店で職場の同僚らに配るため、
大量の日本製の菓子を買い込んだという台湾の大学研究員、
陳永旭さん(33)は
「そろそろ(同僚らに)ブラックサンダーは飽きられてきたので、
今回は別のお菓子にしました」
と満足そうに話した。
ecar
「親日・台湾シフト」
強まる関空、
USJ人気も追い風
日中関係の冷え込みなどで、
これまで日本への観光の牽引役を務めてきた中国人観光客が減少傾向に転じる中、
非常に親日感情の強い台湾からの観光客が急増している。
特に東アジアからの観光客が多い関西国際空港では今年夏、
航空各社が相次いで台湾便の増便を決定。
関空内にも台湾人観光客を意識した日本ブランド店や100円ショップなどが相次いで出店している。
テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ、
大阪市此花区)に人気映画「ハリー・ポッター」の新エリアがオープンした効果も加わり、
関係者は「まだまだ台湾からの観光客は増える」と
“台湾シフト”を強めている。(吉村剛史)
観光客続々…台湾から年225万人
USJにハリー・ポッターの新エリアがオープンした7月15日以降、
関空第2ターミナルでは、
格安航空会社(LCC)、
ピーチ・アビエーションの台北便の出国エリアが連日、
USJ帰りの大量の土産物を抱えた台湾人観光客の親子連れらで混雑している。
「暑かったし、
長時間の行列には疲れたけど、
子供たちが喜んでくれたので満足です」。
台北市の荘麗児さん(30)は、
中学生のめいや小学生のおいら親族7人で10日間の日本観光を楽しんだという。
「日本は物価が高いので、
食事や土産物の出費も小さくないが、
サービスの質が高い。
台湾からも近いし、
日本に親類もいるので、
また別の季節に来たい」
と笑顔をみせた。
日中や日韓の間に領土や慰安婦をめぐる問題が影を落とす中、
最近は中国・韓国からの観光客に代わり、
台湾からの観光客が急増している。
法務省入国管理局によると、
昨年1年間に台湾から約225万人が来日。
うち約51万人が関空を利用していた。
その前年の平成24年には、
台湾からの関空利用は約30万人。
23年は約19万人だったことをみれば、
その急増ぶりが分かる。
一方、
関空を利用した中国人は、
23年の約28万人から24年には約37万人に増えたものの、
25年には約35万人と減少に転じている。
航空会社も相次ぎ増便
新関西国際空港会社が今年3月に発表した国際線の
夏期(3月30日〜10月25日)スケジュールでは、
便数がピークとなる8月に週919便と、
開港以来初めて週900便を超えた。
就航先を都市別でみると、
やはりトップは週99便の台北。
台湾便は、
台湾南部の高雄や台中でも増便が目立っている。
その後も航空会社は、
相次いで台湾便の増便を発表している。
7月1日には、
台湾の航空会社「エバー航空」が台北便を、
これまでの毎日2便に加え、
さらに火・金・日曜に3便増便した。
また、
同じ台湾の中華航空(チャイナエアライン)も8月17日から台北便を、
これまでの現行の週24便から31便に増やす。
さらに10月にも台中便を、
これまでの週5便から7便に増やす計画だ。
日本への台湾人観光客について、
広報担当者は
「空前の伸び。
USJ効果はもちろんですが、
日本から台湾を訪れるリピーターも増えており、
思い切った増便につながっています」
と自信をみせる。
新関西国際空港会社の担当者も「台湾便の増加で、
さらに台湾からの旅行者が増えるのは間違いない。
利用者全体に占める比率もアップしそうだ」
と強気の見通しだ。
施設もリニューアル
台湾人を中心とする観光客の増加を受け、
関空では各種施設もリニューアルを強化している。
9月に開港20周年を迎える関空では、
国際線の出国エリアで、
外貨両替やビジネスセンター、
銀行のATM(現金自動預払機)などを4階の
国際線出発フロアの中央に集める大規模な改装を進めている。
すでに6月には、
台湾などからの観光客に人気の100円ショップ
「ザ・ダイソー関西エアポート店」が
店舗面積を拡充してリニューアルオープンした。
また、
フランスの名門ファッションブランド
「クロエ」やイギリスのブランド
「バーバリー」などと並び、
台湾人観光客などの興味をひきそうな日本の有名ブランドの和洋菓子や日本酒、
キャラクター雑貨、
工芸品、
電化製品を販売する商業施設
「和−NAGOMI−」が
9月にオープンする予定だ。
意識した品ぞろえ
新関西国際空港会社の直営店で、
運営を委託されている関西国際空港産業の担当者は
「もちろん台湾便利用者向けの売れ筋も意識した品ぞろえで展開します」
と言い切る。
すでに出国エリア内に出店し、
同じく日本の各種商品を販売している商業施設
「彩−IRODORI−」では、
台湾でインターネットを利用した販売詐欺事件も起きるほど
大流行した日本の菓子商品
「ブラックサンダー」
(永楽製菓)をはじめ、
日本生まれのキャラクター
「ハローキティ」
の各種グッズなどを取りそろえている。
店の担当者は
「台湾人観光客などに好まれる品を意識的に増やしている」
と話す。
一方、
この店で職場の同僚らに配るため、
大量の日本製の菓子を買い込んだという台湾の大学研究員、
陳永旭さん(33)は
「そろそろ(同僚らに)ブラックサンダーは飽きられてきたので、
今回は別のお菓子にしました」
と満足そうに話した。
ecar
少子高齢時代 毎年20万人の移民…やがて日本人が“少数派”に
少子高齢時代
毎年20万人の移民…
やがて日本人が“少数派”に
避けられる人口減少
今のままならば、
日本の21世紀は、
未来の歴史学者たちから
「人口激減の世紀」
と呼ばれるだろう。
国立社会保障・人口問題研究所(社人研)は、
現在約1億2750万人の総人口が、
2060年に8674万人、
2110年には4286万人まで減ると推計している。
こうした未来図を変える方策はないのか。
2月に内閣府が「移民の大量受け入れ」という選択肢を示した。
受け入れ規模は2015年から毎年20万人。
2030年以降の合計特殊出生率が「2・07」に回復するのが前提である。
この2条件を達成すれば、
2060年は1億989万人、
2110年には1億1404万人となり、
ほぼ1億1千万人水準を維持できるというのが結論だ。
20〜74歳の「新生産年齢人口」も試算しているが、
2012年の8973万人が、
それぞれ6699万人、
7227万人となる。
こうして数字を示されると、
移民も「有力な選択肢」に見えてくる。
だが、
実現へのハードルは低くはない。
まず整理しておきたいのが、
「移民」と
「外国人労働者」の違いだ。
移民は日本国籍を付与し永住が前提だ。
一方、外国人労働者は企業が一時的な戦力として雇用する人たちで、
景気動向によって帰国するし、
よりよい条件を求めて他国に移ることもある。
外国人の受け入れではこれらを混同した議論が多い。
これまで企業が想定したのは低賃金で働く20〜30代の外国人労働者だ。
不況になれば解雇すればよいとの発想である。
だが、
若い労働者を次々と入れ替えたのでは人口減少には対応できない。
税で膨大コスト負担
内閣府の試算は人口減少対策の位置づけである。
この点を踏まえて課題を考えたい。
まず毎年20万人という数字の妥当性だ。
100年間で2千万人。
試算通り総人口1億1千万人で維持できたとしても、
2110年には約5人に1人が移民の計算となる。
しかし、
1億1千万人は出生率2・07という希望的な数値をクリアしなければ実現しない。
出生率が回復せず、
社人研が予測する4286万人となれば、
2千万人の移民は日本社会において極めてインパクトのある存在となる。
それ以上に衝撃的なのは、
「日本人」が少数派になることだ。
内閣府の資料には明記されていないが、
出生率2・07への回復は、
多産文化の国から来た移民が日本でも多く出産することを想定した
“押し上げ効果”
を織り込んでいると考えるのが自然だろう。
2・07まで回復しなくとも、
やがて移民と日本で生まれたその2世のほうが多くなる日が訪れる。
われわれは、
日本社会の大変貌を許容するかどうかを問われているのである。
移民の大量受け入れとなれば言葉の壁や文化の摩擦も生じる。
天皇への尊敬の念や古来の文化や伝統が変質する可能性もある。
住宅や社会保障、
子供の教育などにも膨大なコストを要するが、
税負担増でまかなうしかない。
とりわけ問題は長期の加入を要する年金だ。
移民の年齢によっては支払期間が不足するだろう。
将来的な低年金や無年金者の対策コストが増えることにもなる。
さらに、
年老いた両親を母国から呼び寄せようとする人が増えれば、
移民政策とは異なる問題を迫られる。
途中でやめられない
ゴミ出しや騒音トラブルが話題になってきたが、
大量の移民受け入れには、
治安悪化や社会モラルの崩壊を不安視する人も少なくない。
多くの国で移民排斥事件が起こっている。
治安コストを過小評価することはできない。
人間というのは、
出身国への思いをそう簡単に断ち切れるものでもない。
万が一、
大量に受け入れた相手国と日本が緊張関係に陥れば、
国論が割れることもあり得る。
場合によっては、
安全保障に直結する問題に発展する。
毎年20万人もがコンスタントに来るかは疑問だが、
「数が増えすぎたから」
といって打ち切ることも困難だ。
「毎年20万人」
を前提として社会は出来上がるからである。
それを突然やめれば、
ビジネスは混乱し、
マーケットや社会保障制度への影響も出る。
移民は人口問題の解決策として語られることが多いが、
このように課題は多面的だ。
女性や高齢者の活用を優先すべきだとの意見も強い。
戦略なくして大量に受け入れれば国を誤ることになる。
ecar
毎年20万人の移民…
やがて日本人が“少数派”に
避けられる人口減少
今のままならば、
日本の21世紀は、
未来の歴史学者たちから
「人口激減の世紀」
と呼ばれるだろう。
国立社会保障・人口問題研究所(社人研)は、
現在約1億2750万人の総人口が、
2060年に8674万人、
2110年には4286万人まで減ると推計している。
こうした未来図を変える方策はないのか。
2月に内閣府が「移民の大量受け入れ」という選択肢を示した。
受け入れ規模は2015年から毎年20万人。
2030年以降の合計特殊出生率が「2・07」に回復するのが前提である。
この2条件を達成すれば、
2060年は1億989万人、
2110年には1億1404万人となり、
ほぼ1億1千万人水準を維持できるというのが結論だ。
20〜74歳の「新生産年齢人口」も試算しているが、
2012年の8973万人が、
それぞれ6699万人、
7227万人となる。
こうして数字を示されると、
移民も「有力な選択肢」に見えてくる。
だが、
実現へのハードルは低くはない。
まず整理しておきたいのが、
「移民」と
「外国人労働者」の違いだ。
移民は日本国籍を付与し永住が前提だ。
一方、外国人労働者は企業が一時的な戦力として雇用する人たちで、
景気動向によって帰国するし、
よりよい条件を求めて他国に移ることもある。
外国人の受け入れではこれらを混同した議論が多い。
これまで企業が想定したのは低賃金で働く20〜30代の外国人労働者だ。
不況になれば解雇すればよいとの発想である。
だが、
若い労働者を次々と入れ替えたのでは人口減少には対応できない。
税で膨大コスト負担
内閣府の試算は人口減少対策の位置づけである。
この点を踏まえて課題を考えたい。
まず毎年20万人という数字の妥当性だ。
100年間で2千万人。
試算通り総人口1億1千万人で維持できたとしても、
2110年には約5人に1人が移民の計算となる。
しかし、
1億1千万人は出生率2・07という希望的な数値をクリアしなければ実現しない。
出生率が回復せず、
社人研が予測する4286万人となれば、
2千万人の移民は日本社会において極めてインパクトのある存在となる。
それ以上に衝撃的なのは、
「日本人」が少数派になることだ。
内閣府の資料には明記されていないが、
出生率2・07への回復は、
多産文化の国から来た移民が日本でも多く出産することを想定した
“押し上げ効果”
を織り込んでいると考えるのが自然だろう。
2・07まで回復しなくとも、
やがて移民と日本で生まれたその2世のほうが多くなる日が訪れる。
われわれは、
日本社会の大変貌を許容するかどうかを問われているのである。
移民の大量受け入れとなれば言葉の壁や文化の摩擦も生じる。
天皇への尊敬の念や古来の文化や伝統が変質する可能性もある。
住宅や社会保障、
子供の教育などにも膨大なコストを要するが、
税負担増でまかなうしかない。
とりわけ問題は長期の加入を要する年金だ。
移民の年齢によっては支払期間が不足するだろう。
将来的な低年金や無年金者の対策コストが増えることにもなる。
さらに、
年老いた両親を母国から呼び寄せようとする人が増えれば、
移民政策とは異なる問題を迫られる。
途中でやめられない
ゴミ出しや騒音トラブルが話題になってきたが、
大量の移民受け入れには、
治安悪化や社会モラルの崩壊を不安視する人も少なくない。
多くの国で移民排斥事件が起こっている。
治安コストを過小評価することはできない。
人間というのは、
出身国への思いをそう簡単に断ち切れるものでもない。
万が一、
大量に受け入れた相手国と日本が緊張関係に陥れば、
国論が割れることもあり得る。
場合によっては、
安全保障に直結する問題に発展する。
毎年20万人もがコンスタントに来るかは疑問だが、
「数が増えすぎたから」
といって打ち切ることも困難だ。
「毎年20万人」
を前提として社会は出来上がるからである。
それを突然やめれば、
ビジネスは混乱し、
マーケットや社会保障制度への影響も出る。
移民は人口問題の解決策として語られることが多いが、
このように課題は多面的だ。
女性や高齢者の活用を優先すべきだとの意見も強い。
戦略なくして大量に受け入れれば国を誤ることになる。
ecar
政府検討、五輪に伴う建設需要高まり見据え
外国人労働者受け入れ拡大 政府検討、五輪に伴う建設需要高まり見据え
政府は24日、
とび職や鉄筋工など建設業の技能労働者不足を補うため、
外国人労働者の受け入れ拡大を検討する関係閣僚会議の初会合を首相官邸で開いた。
2020年の東京五輪開催に伴う建設需要の高まりを見据えた動きで、
外国人向けの技能実習生の受け入れ拡大や滞在期間の延長などの具体策を3月までにまとめ、
来年春からの実施を目指す。
技能労働者は平成9年のピーク時に455万人いたが、
高齢化などを理由に24年には335万人に減少している。
「外国人労働者・移民大量受け入れ」
は時期尚早、
日本人の低賃金化招く愚策である
【国際ビジネスマンの日本千思万考】
「人口問題」はもっと慎重に
日本において人口問題は、
国家・産業の盛衰や食糧・住宅事情などに応じて、
昔から論議を呼んできました。
総じて戦前は過剰対策としてハワイやブラジルなどへの移民が奨励され、
戦後の経済成長期は、
産業間の移動と農漁村から商工業都市への移住が比較的機能してきたようです。
しかしここへきて、
少子高齢化の行き着く先を短絡的に労働力不足に結び付けて、
海外から労働者を招くとか、
移民受け入れの法制化の提議までとみにかまびすしくなってきつつあり、
いささか冷静さや長期展望施策を欠く尚早論が目立ってきています。
人口構造に関しては、
静態・動態両学問を踏まえた人口理論と政治・経済・科学・文化各界の長期戦略が、
総合的観点から打ち立てられるべきものだと考えます。
総務省や厚生省の提示するほんの一部のデータだけを鵜呑みにし、
しかも中身を読み違えているとしか思えないような論点を掲げて騒ぐだけのジャーナリズムや、
それらに踊らされる一部政治家に、
わが国の未来を託してよいのだろうか。
特に
「人口動態学」
の専門家の提示する多角的観点からの諸々のデータをほとんど目にできないこと、
さらにそうしたデータを対比分析した深みのある論評に出くわしたことがないことに、
一抹の危惧を抱いています。
「生産年齢人口」数値のとらえ方に大誤算あり
まず、
生産年齢人口(15〜64歳)の取り上げ方に大きな誤謬があることを痛感します。
1960年代には、
中学卒で就業した人は半数はいたでしょうし、
進学した人も8割は高校卒で就職していたでしょう。
つまり15〜18歳の就業率は、
ざっくり見ても9割近かったわけです。
ところが、
きょうこのごろ、
中卒後の高校進学者が90%以上、
高卒後の大学(短大・専門学校含む)進学者が60%弱ともいいますから、
同じ15〜18歳の就業率は、
ざっくり見て約3分の1と激減しているのです。
しかも、
通年で55%にも及ぶ大学卒や中退者のうち何割かは就職浪人と称して、
海外や遠隔地へ
「自分探しの旅」
に出たり、
あるいは希望の職種に出合わないといってニートや家庭待機の道をゆく人も多く、あるいは、
大学院進学や海外留学などの道を選んで、
22歳を過ぎても就業していない人が急増しているといわれています。
また、
64歳と言う区切りに関しても、
60年代頃は、
ほとんどの会社で55歳とか60歳定年でしたから、
当時の実生産年齢は10年分もゲタをはいている、
といっても過言ではないでしょう。
従って、
もし昔と今と、
より正確な数字で生産年齢を計算するなら、
60年代は15〜57歳でカウントした数字と、
現代なら20〜67歳で計算した数字を対比すべきだろうかと思われます。
実際に計算してみると、
現代の方がかなり生産年齢人口の数字は大きいことがわかります。
しかも10〜20年後を予測すると、
60年代では女性の寿退社が多かったのに対し、
これからは女性労働力(一説に数百万人の余力といわれています)がますます活用されていくでしょう。さらに、
健康でもっと働き続けられる定年退職者も増えているので、
そうした労働力(一説に1千万人以上)をもっと活用すれば、
生産年齢人口は当面維持できると考えるのが妥当ではないでしょうか。
政治もジャーナリズムも、
もっと現実に即した数字をとらえた上で冷静かつ知的な論議を展開していただきたいものです。
人口減でも生産性は落ちない
一方、
社会文化的な時代の転換にも留意すべきかと思います。
産業別の労働力人口の移動を見ると、
60年代は第一次産業から第二次産業への急激なシフトが起こりました。
それに対し、
現代では製造業の生産性向上や機械化の進展もあって、
主要労働力が大きく第三次産業へとシフト中です。
しかも、
その過程で産業間の労働者過不足が一時的に生じています。
つまり、
人手を食う産業構造の時代から、
製造ラインの自動化やロボット・IT機器の活用が進み、
人手が効率化・高度化された時代への大きな流れを読み解いておく必要もあるのです。
また、
人口が減少しても、
1人あたりの生産性は落ちないという説が有力で、
需要が減っても労働者1人当たりの価値は増し、
賃金は安定し続けるともいわれています。
人口減=消費減の結果、
無理な生産増の必要性もなくなり、
労働時間が短縮することで十分な余暇が発生し、
逆に消費を増やす効果も考えられるのです。
経済成長論者の仮定は、
人口が多いと労働賃金を低く抑えることができるとしますが、
それは、
現代米国の悲劇でもある貧富格差を大きくするだけで、
好ましい未来図ではなさそうです。
さらに、
少子高齢化を社会保障面から問題視して、
短絡的に
「若者に過大な負担がかかる」
との論議が多いようですが、これも疑問です。
すでに論じてきたように、
昔は15歳から(18歳からは大半が)働いて納税していたのに、
今は20歳すぎまでほとんど就労しないわけで、
負担どころか、
60代でも元気で働き、
納税している方々(一部は親)に(子が)養ってもらっているという逆転事象にこそ、
注目すべきではないでしょうか。
治安悪化、人権問題招く
こうした観点からみても医療介護分野とか、
オリンピック特需対策などをあげ、
安易な外国人労働者受け入れ拡大とか、
一足飛びに大量移民受け入れ制度まで課題にするのは、
あまりにも性急です。
近視眼的な愚策で、
長期的な観点から日本人の低賃金化まで強いるどころか、
雇用をも奪ってしまうことになりかねません。
ひいては治安の悪化、
人権問題を招き、
それが風俗文化や社会システムの崩壊につながる…といった国家的損耗を招く恐れもあります。
こうしたことを事前に吟味することが重要です。
重大な影響が国柄にまで及びそうな政策こそ、
国民を挙げての慎重な議論を重ねてからにしてほしいものです。
東京が世界でも最大規模の都市でありながら清潔さと治安の良さ、
加えて高い文化・文明力を評価されている裏には、
日本特有の文化的同質性があることを忘れてはなりません。
カナダは「中国人締め出し」に
また、
これまで移民を是として経済成長と雇用の弥縫策を講じてきた欧米先進諸国が、
大きな岐路にさしかかっていることも指摘しておきましょう。
所得や教育格差の拡大、
貧民人口急増と社会福祉問題、
宗教対立、
治安悪化などが国家的命題にまで及んでいるのが現実です。
英独仏における労働市場対策と移民制度見直しが功を奏し始めている一方で、
スペイン・イタリアなど南欧の手遅れが社会問題を惹起し、
経済まで損傷しているのが目立ちます。
このところ、
もともと移民国家である米国やカナダでも新たな規制とか移民法修正が政治課題となりつつあります。
たとえば語学力の検定や、
申請条件を厳しく改定(投資額・財産保有額を高くし、居住歴を長く)するなど、
移民対策を強化しています。
特にこれまで移民に寛容だったカナダでは、
急増する中国系移民(バンクーバー圏の18%、
市内は29%が中国系とか)に対する国内反発が激化し、
これまでフリーパスだった投資移民が、
昨年度は申請の8割以上も却下されるなど中国人締め出しが表面化し、
論議を呼んでいる始末です。
「女性」がカギ
そのように禍根を将来に残すような大罪を犯す前に熟慮断行すべきことが多々あります。
少子化に歯止めさえかかれば、
人口減少の仮定論はまず崩れるわけですが、
それ以前に、
わが国では、
労働生産性を上げてゆく施策すら十分に検討しているようには見受けられません。
ましてや長期育児休暇制度と保育園や介護施設などの整備・充実による女性労働力の活用や、
健康な高齢者の活用(米国では70歳まで雇用義務があります)など人事労政の抜本改革策も、
話題に上るだけで具現化の施策がほとんど打たれていないのが現状ではないでしょうか。
特に、
女性の活躍水準が国際的に極めて劣等なランク(世界経済フォーラムの男女格差報告で136カ国中の105位。
管理職女性比率平均は2%前後)にあることを踏まえて、
より柔軟な働き方を許容する方向へ導くことが急務といえましょう。
人口減福祉のモデルはスイス・ドイツに
企業の生産サービス活力を維持するには、
市場のみならず資本も働き手も海外の現場で求めるという方式も考慮すべきだと考えます。
すでに円高対策としての海外進出がかなり進んでいる中、
現在のビジネスモデルを見直し企業自らが変身することで、
人口減に備えることも重要となってくるでしょう。
国内の社会システムの改良面からも、
外国にすばらしい模範事例が増えてきています。
たとえばスイスには、
高齢者と身障者が一緒に暮らし、
幼少児校、
ホテル、
イベント会場などが計画的に配置されている多世代複合型居住コミュニティがあります。
ドイツにも高齢者と若い世代が趣味を共有したり育児をしたりして、
支え合い交流できる集合住宅があります。
これらに注目し学ぶべきでしょう。
従来の福祉といえば、
身障者や高齢者の支援の拡充と分配だけが進められてきましたが、
少子化で支え手となるべき世代が減少する中、
多世代が地域の歴史・風習などを共有し、
支え合う住まい方への関心が世界的に高まっていることにも注目すべきで、
産業型福祉ビジネスの出番でもあります。
政官民とマスコミ界の早期覚醒を期待・切望する次第です。
ecar
政府は24日、
とび職や鉄筋工など建設業の技能労働者不足を補うため、
外国人労働者の受け入れ拡大を検討する関係閣僚会議の初会合を首相官邸で開いた。
2020年の東京五輪開催に伴う建設需要の高まりを見据えた動きで、
外国人向けの技能実習生の受け入れ拡大や滞在期間の延長などの具体策を3月までにまとめ、
来年春からの実施を目指す。
技能労働者は平成9年のピーク時に455万人いたが、
高齢化などを理由に24年には335万人に減少している。
「外国人労働者・移民大量受け入れ」
は時期尚早、
日本人の低賃金化招く愚策である
【国際ビジネスマンの日本千思万考】
「人口問題」はもっと慎重に
日本において人口問題は、
国家・産業の盛衰や食糧・住宅事情などに応じて、
昔から論議を呼んできました。
総じて戦前は過剰対策としてハワイやブラジルなどへの移民が奨励され、
戦後の経済成長期は、
産業間の移動と農漁村から商工業都市への移住が比較的機能してきたようです。
しかしここへきて、
少子高齢化の行き着く先を短絡的に労働力不足に結び付けて、
海外から労働者を招くとか、
移民受け入れの法制化の提議までとみにかまびすしくなってきつつあり、
いささか冷静さや長期展望施策を欠く尚早論が目立ってきています。
人口構造に関しては、
静態・動態両学問を踏まえた人口理論と政治・経済・科学・文化各界の長期戦略が、
総合的観点から打ち立てられるべきものだと考えます。
総務省や厚生省の提示するほんの一部のデータだけを鵜呑みにし、
しかも中身を読み違えているとしか思えないような論点を掲げて騒ぐだけのジャーナリズムや、
それらに踊らされる一部政治家に、
わが国の未来を託してよいのだろうか。
特に
「人口動態学」
の専門家の提示する多角的観点からの諸々のデータをほとんど目にできないこと、
さらにそうしたデータを対比分析した深みのある論評に出くわしたことがないことに、
一抹の危惧を抱いています。
「生産年齢人口」数値のとらえ方に大誤算あり
まず、
生産年齢人口(15〜64歳)の取り上げ方に大きな誤謬があることを痛感します。
1960年代には、
中学卒で就業した人は半数はいたでしょうし、
進学した人も8割は高校卒で就職していたでしょう。
つまり15〜18歳の就業率は、
ざっくり見ても9割近かったわけです。
ところが、
きょうこのごろ、
中卒後の高校進学者が90%以上、
高卒後の大学(短大・専門学校含む)進学者が60%弱ともいいますから、
同じ15〜18歳の就業率は、
ざっくり見て約3分の1と激減しているのです。
しかも、
通年で55%にも及ぶ大学卒や中退者のうち何割かは就職浪人と称して、
海外や遠隔地へ
「自分探しの旅」
に出たり、
あるいは希望の職種に出合わないといってニートや家庭待機の道をゆく人も多く、あるいは、
大学院進学や海外留学などの道を選んで、
22歳を過ぎても就業していない人が急増しているといわれています。
また、
64歳と言う区切りに関しても、
60年代頃は、
ほとんどの会社で55歳とか60歳定年でしたから、
当時の実生産年齢は10年分もゲタをはいている、
といっても過言ではないでしょう。
従って、
もし昔と今と、
より正確な数字で生産年齢を計算するなら、
60年代は15〜57歳でカウントした数字と、
現代なら20〜67歳で計算した数字を対比すべきだろうかと思われます。
実際に計算してみると、
現代の方がかなり生産年齢人口の数字は大きいことがわかります。
しかも10〜20年後を予測すると、
60年代では女性の寿退社が多かったのに対し、
これからは女性労働力(一説に数百万人の余力といわれています)がますます活用されていくでしょう。さらに、
健康でもっと働き続けられる定年退職者も増えているので、
そうした労働力(一説に1千万人以上)をもっと活用すれば、
生産年齢人口は当面維持できると考えるのが妥当ではないでしょうか。
政治もジャーナリズムも、
もっと現実に即した数字をとらえた上で冷静かつ知的な論議を展開していただきたいものです。
人口減でも生産性は落ちない
一方、
社会文化的な時代の転換にも留意すべきかと思います。
産業別の労働力人口の移動を見ると、
60年代は第一次産業から第二次産業への急激なシフトが起こりました。
それに対し、
現代では製造業の生産性向上や機械化の進展もあって、
主要労働力が大きく第三次産業へとシフト中です。
しかも、
その過程で産業間の労働者過不足が一時的に生じています。
つまり、
人手を食う産業構造の時代から、
製造ラインの自動化やロボット・IT機器の活用が進み、
人手が効率化・高度化された時代への大きな流れを読み解いておく必要もあるのです。
また、
人口が減少しても、
1人あたりの生産性は落ちないという説が有力で、
需要が減っても労働者1人当たりの価値は増し、
賃金は安定し続けるともいわれています。
人口減=消費減の結果、
無理な生産増の必要性もなくなり、
労働時間が短縮することで十分な余暇が発生し、
逆に消費を増やす効果も考えられるのです。
経済成長論者の仮定は、
人口が多いと労働賃金を低く抑えることができるとしますが、
それは、
現代米国の悲劇でもある貧富格差を大きくするだけで、
好ましい未来図ではなさそうです。
さらに、
少子高齢化を社会保障面から問題視して、
短絡的に
「若者に過大な負担がかかる」
との論議が多いようですが、これも疑問です。
すでに論じてきたように、
昔は15歳から(18歳からは大半が)働いて納税していたのに、
今は20歳すぎまでほとんど就労しないわけで、
負担どころか、
60代でも元気で働き、
納税している方々(一部は親)に(子が)養ってもらっているという逆転事象にこそ、
注目すべきではないでしょうか。
治安悪化、人権問題招く
こうした観点からみても医療介護分野とか、
オリンピック特需対策などをあげ、
安易な外国人労働者受け入れ拡大とか、
一足飛びに大量移民受け入れ制度まで課題にするのは、
あまりにも性急です。
近視眼的な愚策で、
長期的な観点から日本人の低賃金化まで強いるどころか、
雇用をも奪ってしまうことになりかねません。
ひいては治安の悪化、
人権問題を招き、
それが風俗文化や社会システムの崩壊につながる…といった国家的損耗を招く恐れもあります。
こうしたことを事前に吟味することが重要です。
重大な影響が国柄にまで及びそうな政策こそ、
国民を挙げての慎重な議論を重ねてからにしてほしいものです。
東京が世界でも最大規模の都市でありながら清潔さと治安の良さ、
加えて高い文化・文明力を評価されている裏には、
日本特有の文化的同質性があることを忘れてはなりません。
カナダは「中国人締め出し」に
また、
これまで移民を是として経済成長と雇用の弥縫策を講じてきた欧米先進諸国が、
大きな岐路にさしかかっていることも指摘しておきましょう。
所得や教育格差の拡大、
貧民人口急増と社会福祉問題、
宗教対立、
治安悪化などが国家的命題にまで及んでいるのが現実です。
英独仏における労働市場対策と移民制度見直しが功を奏し始めている一方で、
スペイン・イタリアなど南欧の手遅れが社会問題を惹起し、
経済まで損傷しているのが目立ちます。
このところ、
もともと移民国家である米国やカナダでも新たな規制とか移民法修正が政治課題となりつつあります。
たとえば語学力の検定や、
申請条件を厳しく改定(投資額・財産保有額を高くし、居住歴を長く)するなど、
移民対策を強化しています。
特にこれまで移民に寛容だったカナダでは、
急増する中国系移民(バンクーバー圏の18%、
市内は29%が中国系とか)に対する国内反発が激化し、
これまでフリーパスだった投資移民が、
昨年度は申請の8割以上も却下されるなど中国人締め出しが表面化し、
論議を呼んでいる始末です。
「女性」がカギ
そのように禍根を将来に残すような大罪を犯す前に熟慮断行すべきことが多々あります。
少子化に歯止めさえかかれば、
人口減少の仮定論はまず崩れるわけですが、
それ以前に、
わが国では、
労働生産性を上げてゆく施策すら十分に検討しているようには見受けられません。
ましてや長期育児休暇制度と保育園や介護施設などの整備・充実による女性労働力の活用や、
健康な高齢者の活用(米国では70歳まで雇用義務があります)など人事労政の抜本改革策も、
話題に上るだけで具現化の施策がほとんど打たれていないのが現状ではないでしょうか。
特に、
女性の活躍水準が国際的に極めて劣等なランク(世界経済フォーラムの男女格差報告で136カ国中の105位。
管理職女性比率平均は2%前後)にあることを踏まえて、
より柔軟な働き方を許容する方向へ導くことが急務といえましょう。
人口減福祉のモデルはスイス・ドイツに
企業の生産サービス活力を維持するには、
市場のみならず資本も働き手も海外の現場で求めるという方式も考慮すべきだと考えます。
すでに円高対策としての海外進出がかなり進んでいる中、
現在のビジネスモデルを見直し企業自らが変身することで、
人口減に備えることも重要となってくるでしょう。
国内の社会システムの改良面からも、
外国にすばらしい模範事例が増えてきています。
たとえばスイスには、
高齢者と身障者が一緒に暮らし、
幼少児校、
ホテル、
イベント会場などが計画的に配置されている多世代複合型居住コミュニティがあります。
ドイツにも高齢者と若い世代が趣味を共有したり育児をしたりして、
支え合い交流できる集合住宅があります。
これらに注目し学ぶべきでしょう。
従来の福祉といえば、
身障者や高齢者の支援の拡充と分配だけが進められてきましたが、
少子化で支え手となるべき世代が減少する中、
多世代が地域の歴史・風習などを共有し、
支え合う住まい方への関心が世界的に高まっていることにも注目すべきで、
産業型福祉ビジネスの出番でもあります。
政官民とマスコミ界の早期覚醒を期待・切望する次第です。
ecar
年明けにも外国人解禁
年明けにも外国人解禁
家事代行の普及に壁…業界、効果を疑問視
政府は、
経済活性化に向けた女性の活躍支援策の一つとして、
年明けにも一部地域で家事代行サービスへの外国人労働者の受け入れに踏み切る。
家事代行の担い手を増やし、
家事や介護、
育児などの過重負担で家庭内にとどまっている女性の就業を後押しするなどの狙いだ。
だが、
家事代行サービスは割高な料金や他人を家に入れることへの不安感などが障壁となって一般の利用が進んでいない。
政府の思惑とは裏腹に、
サービス事業者には単に外国人を受け入れても需要は広がらないとの戸惑いが広がっている。
国内では現在、
家事労働目的で外国から人を呼んで雇用することはできない。
例外として外交官や一部企業の経営者など駐在員が
「帯同」
として雇うことは認めているが、
雇用主以外の家事はできず、
企業関係者は月額20万円以上の報酬を支払うこと、
13歳未満の子供がいるなどの厳しい制約もつく。
これに対し、
政府は年明けにも関西の国家戦略特区でフィリピンやインドネシアから家事従事者を受け入れる方針だ。
受け入れは、
18歳以上で単身の来日、
5年程度の期間上限を設け、
フルタイムで企業による雇用を想定。
賃金体系は日本人と同様にする。
家事代行サービスの業界各社と自治体でつくる推進協議会で指針をつくり、
管理・監督を行うという。
しかし、
外国人受け入れの効果について、
業界内からは疑問の声が上がる。
創業30年を迎える業界草分けのミニメイド・サービス(東京都渋谷区)の山田長司社長は
「教育コストや日本人家庭の需要が伴うかを考えるとハードルは高い」
と指摘する。
都市部の住居費や交通費、
日本語教育費など受け入れに伴う費用をすべて事業者が負担することになれば、
割高とされるサービス料金がさらに上がりかねないからだ。
また、
永住権を持つフィリピン人女性スタッフらも活用し、
外国人駐在員や富裕層向けに家事代行サービスを提供するシェヴ(東京都港区)の柳基善社長も
「日本は家事代行サービス自体にまだまだ抵抗がある。
外国人受け入れは一般家庭というより共働きの高所得者層向けになるのでは」
とみる。
業界の関係者からは
「来日する海外企業関係者の家事使用人のため、
米国から(規制緩和の)プレッシャーがあったようだ。
政府は対日直接投資を呼び込むために(受け入れを)急いだ」
との声も漏れる。
野村総合研究所が25〜44歳の女性2千人を対象に行った調査によると、
料金や心理的な不安などを理由に家事代行サービスの国内での利用率はわずか2%にとどまっている。
代行サービスの信用度向上に向けた認定制度などを検討している政府主催の協議会に参加する事業者、
ベアーズ(東京都中央区)の高橋ゆき専務は
「利用者や企業に国が補助金を出すなど市場開拓と産業基盤づくりが本来なら先」と述べ、
見切り発車的な外国人受け入れの解禁を牽制。
「少なくとも受け入れのスキームづくりに業界関係者ら専門家を入れるべきでは」と、
政府に注文をつける。
「代行サービスは、
仕事も、
育児も、
家事もと抱え込みがちな日本女性や介護家庭の支援になり得る」。
野村総研の武田佳奈主任コンサルタントは政府の方針に理解を示すが、
やはり外国人受け入れは
「信頼性の向上、
費用の負担軽減策など利用者が安心して利用できる環境が整ってから」
と、
強調する。
政府が狙いとする女性の活躍支援の効果を上げるには、
代行サービス自体の産業育成の戦略が求められている。
国論を二分する移民政策について、
政府が正面から取り上げたのは異例だ。
ただ、
内閣府の試算は希望的数値を前提としており、
今回は人口減少対策の
「1つの選択肢」
になり得ることを国民に印象付ける意味合いが強そうだ。
政府は世論喚起によって国民の
“移民アレルギー”
を薄めながら、
他方で外国人の単純労働を段階的に解禁し、
なし崩しに
「事実上の移民」
を拡大する作戦に出ようとしている。
「50年間で1千万人というのは、
相当インパクトのある移民という話だ」
「全体として10人に1人ぐらいはアコモデート
(許容)
できる範囲ではないか」
2月24日に行われた経済財政諮問会議の専門調査会では、
内閣府が示した移民試算について活発な議論が交わされた。
安倍晋三首相も同月13日の衆院予算委員会で
「国の将来の形や国民生活全体に関する問題として、
国民的議論を経た上で多様な角度から検討する必要がある」
と答弁しており、
移民議論の機運が急速に盛り上がりをみせ始めている。
だが、
内閣府の試算には現在1・41の合計特殊出生率が2・07に回復するとの楽観的な前提が置かれている。
しかも、
出生率回復には、
移民として来日した人が子供をもうけることを織り込んでいる。
前提そのものへの批判も予想され、
「実現へのハードルは高い」(
自民党反対派議員)などの受け止めが多い。
しかし、
「100年後まで1億1千万人の総人口を維持し、
労働力人口の減少幅も抑えられることを示した意味は大きい」
(自民党中堅)との評価もあり、
印象付けは一定の成果を収めた形だ。
一方、
政府が力点を置くのが、
移民議論と並行して進める外国人労働者の受け入れ要件の緩和だ。
移民政策は自民党内に反対論が多いことに加え、
「国民の理解を得るために時間を費やしていては目前に迫った労働力不足に対応できない」
(内閣府幹部)との危機感があるためだ。
第一弾は人手不足が深刻化する建設業への対策だ。
技能実習制度を見直し、
最長3年の受け入れ期間を5年に延長し、
日本への再入国も認める方向だ。
しかし、
最大の焦点になりそうなのが介護職種の緩和だ。
現行では経済連携協定(EPA)に基づき介護福祉士の国家試験に合格しなければ、
日本で働き続けることはできない。
このため介護職も技能実習制度に加えようというのだ。
これが認められると、
国家試験の受験意思のない低技術の介護実習生が大量に来日する可能性があり、
単純労働解禁の突破口となりかねない。
反対派は
「長期滞在できる単純労働者は事実上の移民だ。
大量に入るとなれば、
移民受け入れを容認したのと同じだ。
国家の根幹をなす問題を、
なし崩しに変えることは許されない」
(閣僚経験者)と警戒を強めている。
途上国支援の技能実習制度を労働力不足の穴埋め目的で拡大することにも異論があり、
議論は難航も予想される。
ecar
家事代行の普及に壁…業界、効果を疑問視
政府は、
経済活性化に向けた女性の活躍支援策の一つとして、
年明けにも一部地域で家事代行サービスへの外国人労働者の受け入れに踏み切る。
家事代行の担い手を増やし、
家事や介護、
育児などの過重負担で家庭内にとどまっている女性の就業を後押しするなどの狙いだ。
だが、
家事代行サービスは割高な料金や他人を家に入れることへの不安感などが障壁となって一般の利用が進んでいない。
政府の思惑とは裏腹に、
サービス事業者には単に外国人を受け入れても需要は広がらないとの戸惑いが広がっている。
国内では現在、
家事労働目的で外国から人を呼んで雇用することはできない。
例外として外交官や一部企業の経営者など駐在員が
「帯同」
として雇うことは認めているが、
雇用主以外の家事はできず、
企業関係者は月額20万円以上の報酬を支払うこと、
13歳未満の子供がいるなどの厳しい制約もつく。
これに対し、
政府は年明けにも関西の国家戦略特区でフィリピンやインドネシアから家事従事者を受け入れる方針だ。
受け入れは、
18歳以上で単身の来日、
5年程度の期間上限を設け、
フルタイムで企業による雇用を想定。
賃金体系は日本人と同様にする。
家事代行サービスの業界各社と自治体でつくる推進協議会で指針をつくり、
管理・監督を行うという。
しかし、
外国人受け入れの効果について、
業界内からは疑問の声が上がる。
創業30年を迎える業界草分けのミニメイド・サービス(東京都渋谷区)の山田長司社長は
「教育コストや日本人家庭の需要が伴うかを考えるとハードルは高い」
と指摘する。
都市部の住居費や交通費、
日本語教育費など受け入れに伴う費用をすべて事業者が負担することになれば、
割高とされるサービス料金がさらに上がりかねないからだ。
また、
永住権を持つフィリピン人女性スタッフらも活用し、
外国人駐在員や富裕層向けに家事代行サービスを提供するシェヴ(東京都港区)の柳基善社長も
「日本は家事代行サービス自体にまだまだ抵抗がある。
外国人受け入れは一般家庭というより共働きの高所得者層向けになるのでは」
とみる。
業界の関係者からは
「来日する海外企業関係者の家事使用人のため、
米国から(規制緩和の)プレッシャーがあったようだ。
政府は対日直接投資を呼び込むために(受け入れを)急いだ」
との声も漏れる。
野村総合研究所が25〜44歳の女性2千人を対象に行った調査によると、
料金や心理的な不安などを理由に家事代行サービスの国内での利用率はわずか2%にとどまっている。
代行サービスの信用度向上に向けた認定制度などを検討している政府主催の協議会に参加する事業者、
ベアーズ(東京都中央区)の高橋ゆき専務は
「利用者や企業に国が補助金を出すなど市場開拓と産業基盤づくりが本来なら先」と述べ、
見切り発車的な外国人受け入れの解禁を牽制。
「少なくとも受け入れのスキームづくりに業界関係者ら専門家を入れるべきでは」と、
政府に注文をつける。
「代行サービスは、
仕事も、
育児も、
家事もと抱え込みがちな日本女性や介護家庭の支援になり得る」。
野村総研の武田佳奈主任コンサルタントは政府の方針に理解を示すが、
やはり外国人受け入れは
「信頼性の向上、
費用の負担軽減策など利用者が安心して利用できる環境が整ってから」
と、
強調する。
政府が狙いとする女性の活躍支援の効果を上げるには、
代行サービス自体の産業育成の戦略が求められている。
国論を二分する移民政策について、
政府が正面から取り上げたのは異例だ。
ただ、
内閣府の試算は希望的数値を前提としており、
今回は人口減少対策の
「1つの選択肢」
になり得ることを国民に印象付ける意味合いが強そうだ。
政府は世論喚起によって国民の
“移民アレルギー”
を薄めながら、
他方で外国人の単純労働を段階的に解禁し、
なし崩しに
「事実上の移民」
を拡大する作戦に出ようとしている。
「50年間で1千万人というのは、
相当インパクトのある移民という話だ」
「全体として10人に1人ぐらいはアコモデート
(許容)
できる範囲ではないか」
2月24日に行われた経済財政諮問会議の専門調査会では、
内閣府が示した移民試算について活発な議論が交わされた。
安倍晋三首相も同月13日の衆院予算委員会で
「国の将来の形や国民生活全体に関する問題として、
国民的議論を経た上で多様な角度から検討する必要がある」
と答弁しており、
移民議論の機運が急速に盛り上がりをみせ始めている。
だが、
内閣府の試算には現在1・41の合計特殊出生率が2・07に回復するとの楽観的な前提が置かれている。
しかも、
出生率回復には、
移民として来日した人が子供をもうけることを織り込んでいる。
前提そのものへの批判も予想され、
「実現へのハードルは高い」(
自民党反対派議員)などの受け止めが多い。
しかし、
「100年後まで1億1千万人の総人口を維持し、
労働力人口の減少幅も抑えられることを示した意味は大きい」
(自民党中堅)との評価もあり、
印象付けは一定の成果を収めた形だ。
一方、
政府が力点を置くのが、
移民議論と並行して進める外国人労働者の受け入れ要件の緩和だ。
移民政策は自民党内に反対論が多いことに加え、
「国民の理解を得るために時間を費やしていては目前に迫った労働力不足に対応できない」
(内閣府幹部)との危機感があるためだ。
第一弾は人手不足が深刻化する建設業への対策だ。
技能実習制度を見直し、
最長3年の受け入れ期間を5年に延長し、
日本への再入国も認める方向だ。
しかし、
最大の焦点になりそうなのが介護職種の緩和だ。
現行では経済連携協定(EPA)に基づき介護福祉士の国家試験に合格しなければ、
日本で働き続けることはできない。
このため介護職も技能実習制度に加えようというのだ。
これが認められると、
国家試験の受験意思のない低技術の介護実習生が大量に来日する可能性があり、
単純労働解禁の突破口となりかねない。
反対派は
「長期滞在できる単純労働者は事実上の移民だ。
大量に入るとなれば、
移民受け入れを容認したのと同じだ。
国家の根幹をなす問題を、
なし崩しに変えることは許されない」
(閣僚経験者)と警戒を強めている。
途上国支援の技能実習制度を労働力不足の穴埋め目的で拡大することにも異論があり、
議論は難航も予想される。
ecar
戦争放棄と平和維持は、どちらが優先だと思いますか?
戦争放棄と平和維持は、どちらが優先だと思いますか?
よく言われるけどあんまり意味ある質問じゃないね。
戦争放棄して平和が来ると夢想するのは勝手だけれど、
日本の平和は第二次大戦の悲惨な記憶とその後の米ソ、
米中などの力のバランスが維持していた偶然の賜物。
日本に一発お見舞いしたらアメリカが安全保障条約で
反撃してくれるという了解があるから守られている。
それを無策にも鳩山首相は基地問題を棚上げし、
指導力も無いし、
岡田外相は核持込密約を暴いて唯一の手柄にしているし。
国際政治を知らないバカとしか思えん。
今のところ国内の警察や司法手続きのようなものが国際的に無いから
抑止力としての暴力を持たないと平和維持なんて絵に描いた餅だ。
国内に目を向けてごらん。
日々の生活の平和維持の為に、
暴力たる「警察力」を放棄できるか?
もし日米安保条約が解消されて、
代わりに米中軍事同盟が成立したら
日本が中国に侵略されても米国は反撃してくれないから悲惨ですね?
戦争ってする意味ないと思います。
人の命を奪うだけだと思うんですけど。
人はなぜ、そこまでして勝ちたがるのでしょうか。
そしてなぜ、平和にできないのでしょうか。
敵を倒した時点で平和にはなれないと思います。
大切な命を簡単に奪うなんて人としてどうかと思います。
平和にするために戦争をしたら、
負けた方は平和になりません。
みんなが平和にならなければいけないのですから。
人はまだ未熟だからだと思います。
私たちの生活を見ていてもそう思います。
お金・お金の世の中です。
夫婦共稼ぎで、
豪華な家・車を持てても
子供と過ごす時間が少ない、
地域との交流もない、
親子の関係も薄れ、
夫婦も稼ぐ仲間、私たちだけが幸せであれば
他はどうでもよい
北朝鮮のミサイルを鼻でわらい
沖縄の米軍基地問題もさっぱりわからない
夜の風俗を子供に説明できない。
世界はまだまだまだまだまだまだ
矛盾だらけです。
でも
よく夫婦で話すのですが
そんな世の中でも子供たちのために出来ることがあります。
それは己の矛盾をなくすことです。
一人一人が、
大人が変わるしかありません。
いつの日かきっとすべての争いがなくなる日を信じています。
戦争と平和について、どう考えていますか?
「この世に絶対無いものがふたつだけある。
それは良い戦争と悪い平和だ」
といった、フランクリンの言葉に私は共感します。
やむをえない戦争などありません。
戦争はいつも「正しい」理屈(正義)をもって行われます。
ただし、平和を守るための手段はいろいろあっていいと思います。
わたしが既成の左翼を嫌いなのは、彼らは
「憲法九条を守るといってる自分たちだけが平和を大切に思うものだ」
という手段と目的をすりかえた議論をするからです。
そうすると、わたしのような改憲派は好戦主義者扱いです。
こういう論理は戦前の「ヒコクミン」と同じ構造です。
戦争に賛成しなければ非国民、天皇を敬わなければ非国民。
憲法九条を守ろうとしないのは好戦派、と。
こういうのはすごく嫌です。
二人とも最高の回答でした
最近のイラクの現状を表すのに、
「古典的なゲリラ戦」という言葉が使われた。
それはいったいどんなものなのであろうか。
私は、
文字通りの古典であるこの『戦争と平和』に、
それを理解する手がかりを見いだした。
もちろん、
ここに書かれた19世紀初頭のフランスとロシアの関係が、
そっくりそのまま現在のアメリカとイラクに当てはまるわけではない。
フランスとロシアの軍事力は対等に近いが、
アメリカとイラクの軍事力には極端な差がある。
しかし、
あっけない首都の占領、
にもかかわらず勝利できずにいる軍隊、
各地で生じているゲリラ戦、
これらの中に、
200年を隔ててなお両者に共通する普遍的なものを見ずにはおれない。
「古典的ゲリラ戦」についての考察
『戦争と平和』の第四巻第三編の記述にそって具体的に見ていこう。トルストイは、
まず、
これまでの歴史に疑問を抱く。
どうして、
全国民の力のごく一部分に過ぎない軍隊の敗北で、
なぜその国民全部が征服されることになるのか。
「軍隊が勝利をうるやいなや、
たちまち、
戦勝国民の権利は、
戦敗国民の損失として増大する。
軍隊が敗北するやいなや、
その敗北の程度に応じて、
国民はたちまち権利をうしない、
自国の軍隊が完敗すれば、
国民も完全に征服されてしまう。」
これは、
トルストイにとっては不可解であっても、
事実であり、
歴史はそれを証明してきた。
しかし、
1812年におけるナポレオンのモスクワ占領からその撤退に至る過程は
「一国民の運命を決する力は、
征服者の手にも、
軍隊や戦闘の中にすらもなくて、
なにかべつのものの中にあることを、
証明した。」
「戦勝は通例の結果をもたらさなかった」。
近辺の百姓たちは、
牛馬の糧食となる干し草を全部燃やしてしまい、
決してモスクワを占領したナポレオン軍に渡さなかった。
「従来のいかなる軍事的伝説にもあてはまらない戦争が、
はじまったのである。」
それをトルストイは剣道による決闘を始めた二人の人物に例える。二人は、
はじめは剣道の法則にのっとった試合を行った。
しかし、
傷ついた一方(この場合はロシア)が、
剣を投げ捨てて、
「最初に手にあたった棍棒をとり、
それをやたらにふりまわしはじめた」。
ナポレオンは、
ロシアの皇帝と将軍に、
彼らの
「戦争のやり方がすべての法則に反していることを訴えてやまなかった。
(まるで人を殺すのに何か法則があるかのように)」。
フランス側の訴えにもかかわらず、
また、
棍棒で戦うことが恥ずかしく思われるロシア側の地位の高い人々の思惑にもかかわらず、
「国民戦争の棍棒は、
ものすごい怪力をこめてふりあげられ、
何者の趣味にも法則にも頓着無く、
愚かしいまでの単純さでしかもよく目的にかないながら、
遮二無二ふりあげられたり打ち下ろされたりして、
ついに侵入軍が全滅するまで、
フランス軍をたたきのめしてしまったのである。」
「こうした試練に際して、
他の国民ならこうした場合法則どおりにどんな行動をとるかなどということを問題とせず、
率直に、
気がるに、
手あたりしだいの棍棒をとって、
心中の怒りと復讐の念が、
侮蔑と憐憫の情にかわるまで、
敵をたたき伏せうる国民は幸いである。」
この
「棍棒」
に例えられる戦い方として大きな役割を果たしたのが、
不正規(ゲリラ)軍による遊撃(パルチザン)戦である。
「いわゆる戦争の法則に対するもっとも明確にして有利な逸脱のひとつは、
個々に分散した人々の、
一団に密集した人々に対する行動である。
この種の行動は、
つねに、
国民的性格をおびた戦争において現れる。
これらの行動は、
集団が対立するかわりに、
個々に散った人々が、
めいめい勝手に襲撃し、
優勢な敵の軍隊の攻撃を受ければさっそく遁走、
さらにまた機を見て襲撃に出るという方法である。」
こうした戦い方が可能であり、
有効でもあるというのはどうしてなのだろうか。
ここで
「軍の士気の意義を決定し表現すること」
が
「軍事学の課題」
となる。
「進撃にさいしては集団的に行動し、
退却にあたっては分散して行動せよとおしえる戦術上の法則は、
軍隊の力がその士気に左右されるという真理を、
ただ無意識に立証しているにすぎない。
人を弾雨の下へみちびくためには、
攻撃軍を撃退する以上の、
集団行動によってのみえられる規律が必要である。」
しかし、
1812年のフランス軍が集団的に退却したのは
「軍の士気があまりに沮喪して、
ただ集団だけが軍をいっしょにささえたから」
であり、
逆にロシア軍の方は
「戦術上は集団で攻撃すべきだったのに、
じっさいには個々に分散している。
それは、
士気があまりにあがっていて、
個人個人が命を待たずにフランス軍を攻撃するので、
一身を困難と危険にさらすように強制する必要がなかったからである。」
「遊撃戦がわが政府によって公然と採用されるまえに、
すでに数千の敵兵−−落伍者、
略奪兵、
挑発隊など−−が、
コザックや百姓たちに掃滅されていた。」
遊撃隊は、
ロシア政府によっても編成されるようになり、
大きさや性格を異にした部隊が百を数えた。
「なかには、
軍隊の体裁をそのまま取り入れて、
歩兵、
砲兵、
司令部、
その他生活の便宜を備えたものさえあったが、
なかにはまた、
騎馬のコザックだけのものもあった。
歩兵と騎兵の小さな混合部隊もあり、
だれにも知られていない、
百姓や地主の集団もあった。
一ヶ月のうちに数百の捕虜をえた寺男を指揮者にした徒党もあれば、
数百のフランス兵を殺したワシリーサという村老の女房などもあった。」
現在のイラクにも、
「おのが国土を侵入から清掃する」
という目的のため、
士気高く、
何ものにも強制されずに
「一身を困難と危険にさらす」
何人もの「ワシリーサ」がいるのではないだろうか。
その一方で、
自分は国際的な条約や法律を蹂躙しておきながら、
イラクの人々のゲリラ戦に苦情を申し立てるアメリカの姿がある。
彼らの士気はあまりにも沮喪しているので、
誰でもいいから自分たちといっしょに行動する軍隊を求めているのではないだろうか。
戦争の描かれ方
さて、
『戦争と平和』とは、
ロシアを讃え、
フランスをののしる話ではない。
戦争の賛美でも否定でもなければ、
平和への説教でもない。
そうした価値判断は『戦争と平和』のなすべきことではない。
そこに存在する一人一人の人間を、
その全体像において捉えること、
これが『戦争と平和』が唯一なしていることである。
第一部第二編から戦場の場面が始まる。
1805年、
オーストリア軍とロシア軍が連合してナポレオンひきいるフランス軍と対峙する。
ここでトルストイがまずもって描いたのは、
軍隊の壮大な滑稽さである。
ある歩兵連隊を、
総指揮官が見に来るという知らせが来た。
「おじぎはつねに、
したりないよりしすぎた方がましだ」
という説を根拠に、
「兵たちは、
三十露里の行軍ののちに、
終夜一睡もしないで、
修理や手入れに忙殺され、
副官たちや中隊長たちは、
点検をくりかえした結果、
朝までには連隊は、
前夜さいごの移動の際に見られたような、
だらだらした無秩序な群集でなくて、
二千人の整然とした集団−−
そのひとりひとりがおのれの位置と任務を知り、
ひとりひとりの身に付いた一個のボタン一条の革紐までが、
所定の位置にあって清潔さにかがやいている集団を現出していた。」
ところが、
総指揮官クトゥーゾフは、
ロシアから来た軍隊がどれほどみじめな状態にあるかをオーストリアに見せたかったのである。
そのことがこの連隊に伝えられたのは、
総指揮官が来る一時間前であった。
「さあ、
やっかいなことをしてしまったぞ!」
「だからおれがいったじゃないか、
行軍状態のまま、
外套着用だって」
と連隊長は大隊長を責め、
あわてて、
兵士に服を替えるよう指図をする。
なんとかみんな揃いの外套に着替えられたのだが、
その中で、
一兵士に降格された青年将校がひとりだけ違う外套を着ていることで、
また一悶着起こってしまうのである。
軍隊内では、
盗みも発生する。
若い軽騎兵ロストフは、
同じ部隊の将校がその犯人であることを発見し、
連隊長に言った。
ところが、
連隊長はロストフにその発言をうそだと決めつけた。
他の将校たちも、
事実はロストフの言うとおりであることを知っているにもかかわらず、
こういう事件が表沙汰になることで、
連隊全体が不名誉を被ると考え、
ロストフに発言の撤回と謝罪を迫る。
若いロストフは古参の将校たちに責め立てられ、
目に涙をためて、
「ぼくにとって連隊旗の名誉が……。
ええい、
なんでもいいです、
ほんとうに、
ぼくがわるかったです!……」
という言葉を口に出してしまう。
このロストフ、
戦場に出たが、
彼が思っていたような華々しいことは何一つできなかった。
「ロストフは、
何をしていいかわからないで、
橋の上に立ちどまった。
たたき斬る
(彼はいつも戦闘というものをそういうふうに想像していた)
にも相手がいなかったし、
橋を焼く手伝いをすることも、
彼はほかの兵たちのようにわら束をもってこなかったのでできなかった。
彼はただ立って、
あたりを見まわしていた、
とたんにくるみでもまきちらすような音が橋の上に起こった」。
フランス軍からの砲撃で三人の軽騎兵がやられたのだった。
ロストフは彼のすぐそばにいた兵が倒れるのを目にして、
恐怖にとらわれる。
「何もかもすんでしまった。
が、
臆病者だ、
そうだ、
おれは臆病者だ」
とロストフは考える。
橋を焼くことを命じた大佐は、
その成果について得意げに振る舞い、
損害については、
「『いうにたりません!』
と大佐は、
バスで答えた。
『軽騎兵二名負傷、
一名即死』
彼は即死という美しい言葉をひびき高くずばりと発音しながら、
幸福の微笑をおさえきれないで、
明らかな喜びをもってこう言った。」
トルストイは、
心理描写は最小限にとどめ、
ほとんどの場面を情景描写に当てている。
しかし、
そこで描き出された情景は、
何よりも雄弁に
各人の心理状態と、そして軍隊の不条理さ、
非人間性を物語っている。
しかし、
戦争で悲惨な目にあった人々が、
戦場で体験した感覚そのままに、
反戦や厭戦の立場に立つわけではない。
ロストフは、
そのあとの攻撃に際して、
落馬して手を捻挫しただけで、
ほうほうの体でフランス軍から逃れ、
負傷兵として運ばれた。
「暖かく明るい家、
毛の柔らかい毛皮外套、
速い橇、
健康な肉体、
家族の愛情と心づかいなどを思い出していた。
《なんだっておれはこんなところへ来たんだろう!》
と彼は考えるのだった。」
しかし、
彼の厭戦的気分も長く続くものではなかった。
若いアレクサンドル皇帝を一目見るや、
「いまだかつて経験したこともないような、
優しさと歓喜の感情を経験した。
皇帝に属するいっさいのもの−−あらゆる線、
あらゆる動き−−が、
彼には、魅力あるものに思われたのだった。」
「《ああ!
もし陛下が今すぐ火の中へ飛び込めと命じられたら、
自分はどんなに幸福になるだろう》
とロストフは考えた。」
古参の軽騎兵大尉ヂェニーソフは、
出征中はだれにも惚れる相手がいないので、
陛下に惚れ込んだのだと、
ロストフのあまりにも甚だしい皇帝への熱中ぶりをからかうが、
これはロストフを怒らせるだけだった。
冒頭で紹介したパルチザン戦の具体的な記述においても、
悪しき侵略軍を、
同じ目的に身も心も結ばれた正義の防衛軍がやっつけるとでもいった血湧き肉踊るシーンを期待してはならない。
そんなものはまるで描かれない。
ここでもやはり、
一人一人の人間がリアリティー豊かに描き出されるのである。
あるパルチザン部隊は、
同時にふたつの大部隊から合流を呼びかけられる。
しかし、
この部隊を率いるヂェニーソフは、
どちらの部隊に対しても、
すでにもう一方の指揮下に入ったという手紙を書く。
彼は、
自らの独立性を確保するためには、
こういうしたたかなやり方も辞さない。
このヂェニーソフの部隊には、
チーホンという百姓出身の男がいた。
彼はこの隊で最も役に立つ勇敢な男であったが、
他のコザックや軽騎兵たちの道化にされていた。
「ヂェニーソフの隊の中でチーホンは特別な例外的な地位を占めていた。
なにかとくに骨の折れるいやなこと−−
ぬかるみにはまった車を肩で押しだすとか、
馬の尻尾をつかんで泥沼から引きだすとか、
その皮を剥ぐとか、
フランス軍のまっただなかへ忍び込むとか、
一日に五十露里ずつも歩くとか、
こうしたことをしなければならぬ時には、
だれもが笑いながらチーホンをさすのだった。
『なあに、
あいつぁなにをされても平気だ、
まるで頑丈な去勢馬よ』
みんなは彼のことをこう言っていた。」
さらにこの部隊に少年兵ペーチャがやってくる。
彼は、
軍人の兄(ロストフ)にあこがれ、
自分も手柄を立てたいという功名心から軍隊に志願したのだった。
「彼は、
軍隊内で見たり経験したりすることでひじょうな幸福を感じていたが、
それと同時に、
のべつ、
今自分のいないところでは、
それこそ正真正銘の英雄的なことが行われているのではないかという気がしてならないのであった。
そして彼はいつも、
今自分がいないところへいそいで行こうとあせっていた。」
そして、
彼は、
意味もなく無謀な行動に出て、頭を弾丸に打ち抜かれて死ぬ。
一方、
フランスの軍人として登場するのは、
まずは、
捕虜になった少年兵である。
「少年は寒さからまっ赤になった両手で軽騎兵にしがみつき、
むきだしの両足を暖めようとして、
もぞもぞ動かしたり、
眉をつり上げて、
びっくりしたようにあたりを見まわしたりしていた。」
モスクワから脱出したフランス軍のうち、
捕虜を率いて進む部隊は、特に惨めな状態であった。
物資を運ぶのはまだ何かの役に立つことがわかるが、
「同じように飢えてふるえているロシア人を張り番したり、
護ったりするばかりか、
途中こごえて落伍する者でもあれば、
命によって射殺しなければならぬのはなんのためか、−−
これは不可解以上にいやなことであった。
したがって、
護送兵たちは、
彼ら自身が苦しい状態におかれているなかで、
彼らの心にある捕虜に対する同情の念に負けて、
そのためいっそう自分たちの状態をわるくするのを恐れるかのように、
ことさら陰鬱に、
過酷に、
彼らを扱うのであった。」
このフランス兵たちによって、
ピエール(この小説の重要な人物の一人ではあるが主人公ではない、この小説に
「主人公」
は存在しない)は、
捕虜として辛酸をなめ、
彼が精神的に大きな影響を受けたカラターエフは銃殺される。
しかし、
トルストイは銃殺した側の方がむしろ恐怖にかられていたことを書くのを忘れない。
トルストイの、
一人一人の人間に対する愛と批判を同時に兼ね備えた作家としてのまなざし。
それはある人間や国家や民族を、
お決まりの型にはめて、
「悪」
だの
「善」
だのというレッテルを貼ってすますことから最も遠いところにある。それは、
戦争をあおるプロパガンダを見抜く目ともなる。
この小説を堪能することによって、
そういう人間観察の視点が養われていくのでは、
と思わずにはいられない。
忙しい人に薦める『戦争と平和』の読み方
実を言うと、
トルストイの作品は、
これまでほとんど読んでこなかった。
トルストイぐらい読んでおかねば恥ずかしいという妙な
「教養主義」
に引きずられながらも、
どうせ、
お説教くさい小説に決まっているという根拠のない先入観にとらわれて、
読むことを積極的に楽しもうという気にはなれなかった。
この
『戦争と平和』
にしても、
分量の長さと、
登場人物の多さに加えて、
最初の出だしが社交界での愚にもつかないおしゃべりとくれば、
よほど暇を持て余している人間のための読み物であろうと判断して、
本棚でほこりをかぶらせるがままにしてしまった。
しかし、
いまや、
この時代−−世界が大きく変化しようとしている時代−−にあって、
この小説が描き出していることを、
新しい読み方で、−−単に教養を深めたいとかではなく、
現代を理解するために、
今現実に生じている出来事を全面的に把握する見地を得るために−−
読み直すことに、
大きな意義を感じている。
私がお薦めするのは、
トルストイの専門家などからはひんしゅくを買うかもしれないが、
戦争のシーンだけを読むという読み方である。
最初の第一編はそっくり飛ばして、
第一巻第二編から読んでいくのである。
遺産だの、
恋愛だの、
家庭生活だのといった話がでてくると、
取りあえずどんどん飛ばしていく。
分量は半分以下になる。
それすら読む時間がなければ、
冒頭に紹介した第四巻第三編だけでもいい。
その上で、
登場人物たちに馴染みになれば、
他の箇所も読んでみることをお薦めする。
そこには、
例えば、
農民たちの生活を改善しようという理想と善意に満ちたピエールの行動が、
何一つまともな結果を生まず、
かえって農民たちの生活を苦しくしている
(しかもピエール本人はそのことに気がついていない)
のを見るだろう。
ピエールとは違って、
実際的な能力に長け、
戦場でその知性と勇気をいかんなく発揮するアンドレイ公爵が、
愛するナターシャとの結婚に際しては、
反対する頑固な父親が突きつけた条件に譲歩してしまうという不面目な様を呈するのを見るだろう。
残忍な人間ではないのに、
みんなからひどく怖がられているニコライ老公爵は、
娘を知的な女性に育てたいと思って無理に数学を教える。
その父親におびえて過ごしてきたのに、
甥の勉強を見る時、
同じように、
厳しく振る舞ってしまうマリヤ。
あふれる生命力そのものであり、
おのが心のままに、
時にはとっぴな行動をしでかしてしまうナターシャ・・・。
最初は閉口していた人物の多さ、
話の長さに、
いつの間にか引きつけられている自分を発見するかもしれない。
一年に一回ぐらいは、
平和について、
戦争について、
を考える。
ecar
よく言われるけどあんまり意味ある質問じゃないね。
戦争放棄して平和が来ると夢想するのは勝手だけれど、
日本の平和は第二次大戦の悲惨な記憶とその後の米ソ、
米中などの力のバランスが維持していた偶然の賜物。
日本に一発お見舞いしたらアメリカが安全保障条約で
反撃してくれるという了解があるから守られている。
それを無策にも鳩山首相は基地問題を棚上げし、
指導力も無いし、
岡田外相は核持込密約を暴いて唯一の手柄にしているし。
国際政治を知らないバカとしか思えん。
今のところ国内の警察や司法手続きのようなものが国際的に無いから
抑止力としての暴力を持たないと平和維持なんて絵に描いた餅だ。
国内に目を向けてごらん。
日々の生活の平和維持の為に、
暴力たる「警察力」を放棄できるか?
もし日米安保条約が解消されて、
代わりに米中軍事同盟が成立したら
日本が中国に侵略されても米国は反撃してくれないから悲惨ですね?
戦争ってする意味ないと思います。
人の命を奪うだけだと思うんですけど。
人はなぜ、そこまでして勝ちたがるのでしょうか。
そしてなぜ、平和にできないのでしょうか。
敵を倒した時点で平和にはなれないと思います。
大切な命を簡単に奪うなんて人としてどうかと思います。
平和にするために戦争をしたら、
負けた方は平和になりません。
みんなが平和にならなければいけないのですから。
人はまだ未熟だからだと思います。
私たちの生活を見ていてもそう思います。
お金・お金の世の中です。
夫婦共稼ぎで、
豪華な家・車を持てても
子供と過ごす時間が少ない、
地域との交流もない、
親子の関係も薄れ、
夫婦も稼ぐ仲間、私たちだけが幸せであれば
他はどうでもよい
北朝鮮のミサイルを鼻でわらい
沖縄の米軍基地問題もさっぱりわからない
夜の風俗を子供に説明できない。
世界はまだまだまだまだまだまだ
矛盾だらけです。
でも
よく夫婦で話すのですが
そんな世の中でも子供たちのために出来ることがあります。
それは己の矛盾をなくすことです。
一人一人が、
大人が変わるしかありません。
いつの日かきっとすべての争いがなくなる日を信じています。
戦争と平和について、どう考えていますか?
「この世に絶対無いものがふたつだけある。
それは良い戦争と悪い平和だ」
といった、フランクリンの言葉に私は共感します。
やむをえない戦争などありません。
戦争はいつも「正しい」理屈(正義)をもって行われます。
ただし、平和を守るための手段はいろいろあっていいと思います。
わたしが既成の左翼を嫌いなのは、彼らは
「憲法九条を守るといってる自分たちだけが平和を大切に思うものだ」
という手段と目的をすりかえた議論をするからです。
そうすると、わたしのような改憲派は好戦主義者扱いです。
こういう論理は戦前の「ヒコクミン」と同じ構造です。
戦争に賛成しなければ非国民、天皇を敬わなければ非国民。
憲法九条を守ろうとしないのは好戦派、と。
こういうのはすごく嫌です。
二人とも最高の回答でした
最近のイラクの現状を表すのに、
「古典的なゲリラ戦」という言葉が使われた。
それはいったいどんなものなのであろうか。
私は、
文字通りの古典であるこの『戦争と平和』に、
それを理解する手がかりを見いだした。
もちろん、
ここに書かれた19世紀初頭のフランスとロシアの関係が、
そっくりそのまま現在のアメリカとイラクに当てはまるわけではない。
フランスとロシアの軍事力は対等に近いが、
アメリカとイラクの軍事力には極端な差がある。
しかし、
あっけない首都の占領、
にもかかわらず勝利できずにいる軍隊、
各地で生じているゲリラ戦、
これらの中に、
200年を隔ててなお両者に共通する普遍的なものを見ずにはおれない。
「古典的ゲリラ戦」についての考察
『戦争と平和』の第四巻第三編の記述にそって具体的に見ていこう。トルストイは、
まず、
これまでの歴史に疑問を抱く。
どうして、
全国民の力のごく一部分に過ぎない軍隊の敗北で、
なぜその国民全部が征服されることになるのか。
「軍隊が勝利をうるやいなや、
たちまち、
戦勝国民の権利は、
戦敗国民の損失として増大する。
軍隊が敗北するやいなや、
その敗北の程度に応じて、
国民はたちまち権利をうしない、
自国の軍隊が完敗すれば、
国民も完全に征服されてしまう。」
これは、
トルストイにとっては不可解であっても、
事実であり、
歴史はそれを証明してきた。
しかし、
1812年におけるナポレオンのモスクワ占領からその撤退に至る過程は
「一国民の運命を決する力は、
征服者の手にも、
軍隊や戦闘の中にすらもなくて、
なにかべつのものの中にあることを、
証明した。」
「戦勝は通例の結果をもたらさなかった」。
近辺の百姓たちは、
牛馬の糧食となる干し草を全部燃やしてしまい、
決してモスクワを占領したナポレオン軍に渡さなかった。
「従来のいかなる軍事的伝説にもあてはまらない戦争が、
はじまったのである。」
それをトルストイは剣道による決闘を始めた二人の人物に例える。二人は、
はじめは剣道の法則にのっとった試合を行った。
しかし、
傷ついた一方(この場合はロシア)が、
剣を投げ捨てて、
「最初に手にあたった棍棒をとり、
それをやたらにふりまわしはじめた」。
ナポレオンは、
ロシアの皇帝と将軍に、
彼らの
「戦争のやり方がすべての法則に反していることを訴えてやまなかった。
(まるで人を殺すのに何か法則があるかのように)」。
フランス側の訴えにもかかわらず、
また、
棍棒で戦うことが恥ずかしく思われるロシア側の地位の高い人々の思惑にもかかわらず、
「国民戦争の棍棒は、
ものすごい怪力をこめてふりあげられ、
何者の趣味にも法則にも頓着無く、
愚かしいまでの単純さでしかもよく目的にかないながら、
遮二無二ふりあげられたり打ち下ろされたりして、
ついに侵入軍が全滅するまで、
フランス軍をたたきのめしてしまったのである。」
「こうした試練に際して、
他の国民ならこうした場合法則どおりにどんな行動をとるかなどということを問題とせず、
率直に、
気がるに、
手あたりしだいの棍棒をとって、
心中の怒りと復讐の念が、
侮蔑と憐憫の情にかわるまで、
敵をたたき伏せうる国民は幸いである。」
この
「棍棒」
に例えられる戦い方として大きな役割を果たしたのが、
不正規(ゲリラ)軍による遊撃(パルチザン)戦である。
「いわゆる戦争の法則に対するもっとも明確にして有利な逸脱のひとつは、
個々に分散した人々の、
一団に密集した人々に対する行動である。
この種の行動は、
つねに、
国民的性格をおびた戦争において現れる。
これらの行動は、
集団が対立するかわりに、
個々に散った人々が、
めいめい勝手に襲撃し、
優勢な敵の軍隊の攻撃を受ければさっそく遁走、
さらにまた機を見て襲撃に出るという方法である。」
こうした戦い方が可能であり、
有効でもあるというのはどうしてなのだろうか。
ここで
「軍の士気の意義を決定し表現すること」
が
「軍事学の課題」
となる。
「進撃にさいしては集団的に行動し、
退却にあたっては分散して行動せよとおしえる戦術上の法則は、
軍隊の力がその士気に左右されるという真理を、
ただ無意識に立証しているにすぎない。
人を弾雨の下へみちびくためには、
攻撃軍を撃退する以上の、
集団行動によってのみえられる規律が必要である。」
しかし、
1812年のフランス軍が集団的に退却したのは
「軍の士気があまりに沮喪して、
ただ集団だけが軍をいっしょにささえたから」
であり、
逆にロシア軍の方は
「戦術上は集団で攻撃すべきだったのに、
じっさいには個々に分散している。
それは、
士気があまりにあがっていて、
個人個人が命を待たずにフランス軍を攻撃するので、
一身を困難と危険にさらすように強制する必要がなかったからである。」
「遊撃戦がわが政府によって公然と採用されるまえに、
すでに数千の敵兵−−落伍者、
略奪兵、
挑発隊など−−が、
コザックや百姓たちに掃滅されていた。」
遊撃隊は、
ロシア政府によっても編成されるようになり、
大きさや性格を異にした部隊が百を数えた。
「なかには、
軍隊の体裁をそのまま取り入れて、
歩兵、
砲兵、
司令部、
その他生活の便宜を備えたものさえあったが、
なかにはまた、
騎馬のコザックだけのものもあった。
歩兵と騎兵の小さな混合部隊もあり、
だれにも知られていない、
百姓や地主の集団もあった。
一ヶ月のうちに数百の捕虜をえた寺男を指揮者にした徒党もあれば、
数百のフランス兵を殺したワシリーサという村老の女房などもあった。」
現在のイラクにも、
「おのが国土を侵入から清掃する」
という目的のため、
士気高く、
何ものにも強制されずに
「一身を困難と危険にさらす」
何人もの「ワシリーサ」がいるのではないだろうか。
その一方で、
自分は国際的な条約や法律を蹂躙しておきながら、
イラクの人々のゲリラ戦に苦情を申し立てるアメリカの姿がある。
彼らの士気はあまりにも沮喪しているので、
誰でもいいから自分たちといっしょに行動する軍隊を求めているのではないだろうか。
戦争の描かれ方
さて、
『戦争と平和』とは、
ロシアを讃え、
フランスをののしる話ではない。
戦争の賛美でも否定でもなければ、
平和への説教でもない。
そうした価値判断は『戦争と平和』のなすべきことではない。
そこに存在する一人一人の人間を、
その全体像において捉えること、
これが『戦争と平和』が唯一なしていることである。
第一部第二編から戦場の場面が始まる。
1805年、
オーストリア軍とロシア軍が連合してナポレオンひきいるフランス軍と対峙する。
ここでトルストイがまずもって描いたのは、
軍隊の壮大な滑稽さである。
ある歩兵連隊を、
総指揮官が見に来るという知らせが来た。
「おじぎはつねに、
したりないよりしすぎた方がましだ」
という説を根拠に、
「兵たちは、
三十露里の行軍ののちに、
終夜一睡もしないで、
修理や手入れに忙殺され、
副官たちや中隊長たちは、
点検をくりかえした結果、
朝までには連隊は、
前夜さいごの移動の際に見られたような、
だらだらした無秩序な群集でなくて、
二千人の整然とした集団−−
そのひとりひとりがおのれの位置と任務を知り、
ひとりひとりの身に付いた一個のボタン一条の革紐までが、
所定の位置にあって清潔さにかがやいている集団を現出していた。」
ところが、
総指揮官クトゥーゾフは、
ロシアから来た軍隊がどれほどみじめな状態にあるかをオーストリアに見せたかったのである。
そのことがこの連隊に伝えられたのは、
総指揮官が来る一時間前であった。
「さあ、
やっかいなことをしてしまったぞ!」
「だからおれがいったじゃないか、
行軍状態のまま、
外套着用だって」
と連隊長は大隊長を責め、
あわてて、
兵士に服を替えるよう指図をする。
なんとかみんな揃いの外套に着替えられたのだが、
その中で、
一兵士に降格された青年将校がひとりだけ違う外套を着ていることで、
また一悶着起こってしまうのである。
軍隊内では、
盗みも発生する。
若い軽騎兵ロストフは、
同じ部隊の将校がその犯人であることを発見し、
連隊長に言った。
ところが、
連隊長はロストフにその発言をうそだと決めつけた。
他の将校たちも、
事実はロストフの言うとおりであることを知っているにもかかわらず、
こういう事件が表沙汰になることで、
連隊全体が不名誉を被ると考え、
ロストフに発言の撤回と謝罪を迫る。
若いロストフは古参の将校たちに責め立てられ、
目に涙をためて、
「ぼくにとって連隊旗の名誉が……。
ええい、
なんでもいいです、
ほんとうに、
ぼくがわるかったです!……」
という言葉を口に出してしまう。
このロストフ、
戦場に出たが、
彼が思っていたような華々しいことは何一つできなかった。
「ロストフは、
何をしていいかわからないで、
橋の上に立ちどまった。
たたき斬る
(彼はいつも戦闘というものをそういうふうに想像していた)
にも相手がいなかったし、
橋を焼く手伝いをすることも、
彼はほかの兵たちのようにわら束をもってこなかったのでできなかった。
彼はただ立って、
あたりを見まわしていた、
とたんにくるみでもまきちらすような音が橋の上に起こった」。
フランス軍からの砲撃で三人の軽騎兵がやられたのだった。
ロストフは彼のすぐそばにいた兵が倒れるのを目にして、
恐怖にとらわれる。
「何もかもすんでしまった。
が、
臆病者だ、
そうだ、
おれは臆病者だ」
とロストフは考える。
橋を焼くことを命じた大佐は、
その成果について得意げに振る舞い、
損害については、
「『いうにたりません!』
と大佐は、
バスで答えた。
『軽騎兵二名負傷、
一名即死』
彼は即死という美しい言葉をひびき高くずばりと発音しながら、
幸福の微笑をおさえきれないで、
明らかな喜びをもってこう言った。」
トルストイは、
心理描写は最小限にとどめ、
ほとんどの場面を情景描写に当てている。
しかし、
そこで描き出された情景は、
何よりも雄弁に
各人の心理状態と、そして軍隊の不条理さ、
非人間性を物語っている。
しかし、
戦争で悲惨な目にあった人々が、
戦場で体験した感覚そのままに、
反戦や厭戦の立場に立つわけではない。
ロストフは、
そのあとの攻撃に際して、
落馬して手を捻挫しただけで、
ほうほうの体でフランス軍から逃れ、
負傷兵として運ばれた。
「暖かく明るい家、
毛の柔らかい毛皮外套、
速い橇、
健康な肉体、
家族の愛情と心づかいなどを思い出していた。
《なんだっておれはこんなところへ来たんだろう!》
と彼は考えるのだった。」
しかし、
彼の厭戦的気分も長く続くものではなかった。
若いアレクサンドル皇帝を一目見るや、
「いまだかつて経験したこともないような、
優しさと歓喜の感情を経験した。
皇帝に属するいっさいのもの−−あらゆる線、
あらゆる動き−−が、
彼には、魅力あるものに思われたのだった。」
「《ああ!
もし陛下が今すぐ火の中へ飛び込めと命じられたら、
自分はどんなに幸福になるだろう》
とロストフは考えた。」
古参の軽騎兵大尉ヂェニーソフは、
出征中はだれにも惚れる相手がいないので、
陛下に惚れ込んだのだと、
ロストフのあまりにも甚だしい皇帝への熱中ぶりをからかうが、
これはロストフを怒らせるだけだった。
冒頭で紹介したパルチザン戦の具体的な記述においても、
悪しき侵略軍を、
同じ目的に身も心も結ばれた正義の防衛軍がやっつけるとでもいった血湧き肉踊るシーンを期待してはならない。
そんなものはまるで描かれない。
ここでもやはり、
一人一人の人間がリアリティー豊かに描き出されるのである。
あるパルチザン部隊は、
同時にふたつの大部隊から合流を呼びかけられる。
しかし、
この部隊を率いるヂェニーソフは、
どちらの部隊に対しても、
すでにもう一方の指揮下に入ったという手紙を書く。
彼は、
自らの独立性を確保するためには、
こういうしたたかなやり方も辞さない。
このヂェニーソフの部隊には、
チーホンという百姓出身の男がいた。
彼はこの隊で最も役に立つ勇敢な男であったが、
他のコザックや軽騎兵たちの道化にされていた。
「ヂェニーソフの隊の中でチーホンは特別な例外的な地位を占めていた。
なにかとくに骨の折れるいやなこと−−
ぬかるみにはまった車を肩で押しだすとか、
馬の尻尾をつかんで泥沼から引きだすとか、
その皮を剥ぐとか、
フランス軍のまっただなかへ忍び込むとか、
一日に五十露里ずつも歩くとか、
こうしたことをしなければならぬ時には、
だれもが笑いながらチーホンをさすのだった。
『なあに、
あいつぁなにをされても平気だ、
まるで頑丈な去勢馬よ』
みんなは彼のことをこう言っていた。」
さらにこの部隊に少年兵ペーチャがやってくる。
彼は、
軍人の兄(ロストフ)にあこがれ、
自分も手柄を立てたいという功名心から軍隊に志願したのだった。
「彼は、
軍隊内で見たり経験したりすることでひじょうな幸福を感じていたが、
それと同時に、
のべつ、
今自分のいないところでは、
それこそ正真正銘の英雄的なことが行われているのではないかという気がしてならないのであった。
そして彼はいつも、
今自分がいないところへいそいで行こうとあせっていた。」
そして、
彼は、
意味もなく無謀な行動に出て、頭を弾丸に打ち抜かれて死ぬ。
一方、
フランスの軍人として登場するのは、
まずは、
捕虜になった少年兵である。
「少年は寒さからまっ赤になった両手で軽騎兵にしがみつき、
むきだしの両足を暖めようとして、
もぞもぞ動かしたり、
眉をつり上げて、
びっくりしたようにあたりを見まわしたりしていた。」
モスクワから脱出したフランス軍のうち、
捕虜を率いて進む部隊は、特に惨めな状態であった。
物資を運ぶのはまだ何かの役に立つことがわかるが、
「同じように飢えてふるえているロシア人を張り番したり、
護ったりするばかりか、
途中こごえて落伍する者でもあれば、
命によって射殺しなければならぬのはなんのためか、−−
これは不可解以上にいやなことであった。
したがって、
護送兵たちは、
彼ら自身が苦しい状態におかれているなかで、
彼らの心にある捕虜に対する同情の念に負けて、
そのためいっそう自分たちの状態をわるくするのを恐れるかのように、
ことさら陰鬱に、
過酷に、
彼らを扱うのであった。」
このフランス兵たちによって、
ピエール(この小説の重要な人物の一人ではあるが主人公ではない、この小説に
「主人公」
は存在しない)は、
捕虜として辛酸をなめ、
彼が精神的に大きな影響を受けたカラターエフは銃殺される。
しかし、
トルストイは銃殺した側の方がむしろ恐怖にかられていたことを書くのを忘れない。
トルストイの、
一人一人の人間に対する愛と批判を同時に兼ね備えた作家としてのまなざし。
それはある人間や国家や民族を、
お決まりの型にはめて、
「悪」
だの
「善」
だのというレッテルを貼ってすますことから最も遠いところにある。それは、
戦争をあおるプロパガンダを見抜く目ともなる。
この小説を堪能することによって、
そういう人間観察の視点が養われていくのでは、
と思わずにはいられない。
忙しい人に薦める『戦争と平和』の読み方
実を言うと、
トルストイの作品は、
これまでほとんど読んでこなかった。
トルストイぐらい読んでおかねば恥ずかしいという妙な
「教養主義」
に引きずられながらも、
どうせ、
お説教くさい小説に決まっているという根拠のない先入観にとらわれて、
読むことを積極的に楽しもうという気にはなれなかった。
この
『戦争と平和』
にしても、
分量の長さと、
登場人物の多さに加えて、
最初の出だしが社交界での愚にもつかないおしゃべりとくれば、
よほど暇を持て余している人間のための読み物であろうと判断して、
本棚でほこりをかぶらせるがままにしてしまった。
しかし、
いまや、
この時代−−世界が大きく変化しようとしている時代−−にあって、
この小説が描き出していることを、
新しい読み方で、−−単に教養を深めたいとかではなく、
現代を理解するために、
今現実に生じている出来事を全面的に把握する見地を得るために−−
読み直すことに、
大きな意義を感じている。
私がお薦めするのは、
トルストイの専門家などからはひんしゅくを買うかもしれないが、
戦争のシーンだけを読むという読み方である。
最初の第一編はそっくり飛ばして、
第一巻第二編から読んでいくのである。
遺産だの、
恋愛だの、
家庭生活だのといった話がでてくると、
取りあえずどんどん飛ばしていく。
分量は半分以下になる。
それすら読む時間がなければ、
冒頭に紹介した第四巻第三編だけでもいい。
その上で、
登場人物たちに馴染みになれば、
他の箇所も読んでみることをお薦めする。
そこには、
例えば、
農民たちの生活を改善しようという理想と善意に満ちたピエールの行動が、
何一つまともな結果を生まず、
かえって農民たちの生活を苦しくしている
(しかもピエール本人はそのことに気がついていない)
のを見るだろう。
ピエールとは違って、
実際的な能力に長け、
戦場でその知性と勇気をいかんなく発揮するアンドレイ公爵が、
愛するナターシャとの結婚に際しては、
反対する頑固な父親が突きつけた条件に譲歩してしまうという不面目な様を呈するのを見るだろう。
残忍な人間ではないのに、
みんなからひどく怖がられているニコライ老公爵は、
娘を知的な女性に育てたいと思って無理に数学を教える。
その父親におびえて過ごしてきたのに、
甥の勉強を見る時、
同じように、
厳しく振る舞ってしまうマリヤ。
あふれる生命力そのものであり、
おのが心のままに、
時にはとっぴな行動をしでかしてしまうナターシャ・・・。
最初は閉口していた人物の多さ、
話の長さに、
いつの間にか引きつけられている自分を発見するかもしれない。
一年に一回ぐらいは、
平和について、
戦争について、
を考える。
ecar