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2014年08月06日

広島で69回目の「原爆の日」

広島で69回目の「原爆の日」 
平和記念式典に安倍首相ら出席へ



人類史上初めて、
原爆が投下された広島は6日、
69回目の「原爆の日」を迎えた。
広島市の平和公園では、
平和記念式典が行われる。
8月6日の朝を迎えた広島市の平和公園。




早朝から、

強い雨が降り続いているが、
原爆慰霊碑には、
祈りをささげる人が多く訪れている。
午前8時から始まる平和記念式典中に雨が降れば、
1971年以来43年ぶりの雨の中の式典となる。
2014年の式典には、
安倍首相やアメリカのケネディ駐日大使などが出席する。
広島市の松井市長は「平和宣言」で、
集団的自衛権の行使容認については触れず、
憲法のもとで69年間、
戦争がなかった事実を受け止め、
平和国家の道を歩み続けるよう、
政府に要望する。
広島は6日、
静かにそして強く、
世界へ平和を訴える。





集団的自衛権容認に懸念表明へ 
長崎市長が平和宣言で
 


長崎市の田上富久市長は1日、
長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典で読み上げる平和宣言で、
安倍政権による集団的自衛権の行使容認について懸念を示す文言を入れることを明らかにした。
田上市長は会見で
「(安全保障の)
現状を明確に伝えるために集団的自衛権という言葉を入れた方が伝わりやすいと思う
と話した。

 

一方、
広島市の松井一実市長が広島原爆の日(8月6日)に読み上げる平和宣言では、
集団的自衛権の行使を認めるとした安倍政権の閣議決定には直接言及しないという。

 

長崎の平和宣言は、
田上市長を委員長に、
被爆者や大学教授ら14人が委員を務める起草委員会での議論をふまえて市が作る。
今年の起草委は3回開かれ、
委員から集団的自衛権の行使容認について「戦争につながる」などと懸念を表明する文言を盛り込むよう求める意見が相次いでいた。





(核といのちを考える遺す)
刻み込まれた恐怖、
次代へ



広島と長崎に原爆が落とされてから6日及び9日で69年。
高齢の被爆者は次々と亡くなり、
3月には被爆者健康手帳を持つ人の数は20万人を割り込んだ。
被爆者はどんな記憶と次代へのメッセージを遺そうとしているのか。
当時20歳以上だった人の言葉に耳を傾けると、
世界で共有するべき「核の非人道性」が改めて浮き彫りになる。

あの時、救えなかった命

「おかげで長生きできとります。
けさもラジオ体操したけん」。
6畳ほどの診察室。
肩が痛いと言う男性(81)の表情が和らいでいった。
白衣をはおった田口正秋(90)はほほ笑み、
男性の胸に聴診器をあてた。
核といのちを考える 遺す

真夏の日差しが照りつける先月23日の朝。
69年前とほぼ同じ時刻。
田口は広島から約200キロ離れた福岡で命と向き合う。
消せない思いを胸にしまいながら。



――あの時、あまりに多くの命を救えなかった――。
1945年8月6日午前8時15分。
米軍のB29爆撃機が投下した原爆が広島で炸裂した。
軍医になったばかりの田口は、
爆心地から約3キロ離れた陸軍兵器補給廠の食堂にいた。
見たこともない閃光と爆風、
熱線。
とっさに身を伏せ、
テーブルの下へ。
窓ガラスは全て割れ、
食堂も倒れかかったが、
床との間にできたわずかな空間で助かった。
「洞窟へ」。
多くのけが人が出たと直感した田口は補給廠から約500メートル西の比治山(ひじやま)へ走った。
山といっても標高70メートルほどの小高い丘で、
斜面には緊急救護所となる洞窟(長さ50メートル、
幅10メートル、
高さ2メートル)が掘られていた。
穴には10人ほどの看護婦と衛生兵がいたが、
医者は田口だけだった。
 


手を引き合い、
急ごしらえの杖にすがりながら被爆者が丘を上がってきた。
髪の毛は焦げ、
衣服はぼろぼろ。
赤黒く腫れた唇、
つぶれた目。
皮膚は焼け、
腕からぶらりと下がっていた。
地獄だった。
 


洞窟はすぐに被爆した人で埋まった。
「子どもが暴れているんじゃ」
「ぐったりした母をみてくれ」。
負傷者の血で染まった白衣のまま、
田口は裸電球が照らす洞窟内を駆け回った。
 


油薬を綿の玉につけ、
ピンセットでやけどの患部に塗る。
丁寧な治療は最初だけ。
手が回らず、
薬もなくなった。
炊事班の食用油を両手で傷に塗りたくった。
処置をした人は補給廠の倉庫にトラックで運んだ。
 


翌7日の朝。
倉庫へ行くと、
セーラー服を着た女の子が水道の蛇口付近で死んでいた。
水を求めたのか、
顔にはひどいやけどをしていた。
その近くには息絶えた母親の乳房をまさぐりながら泣く乳児がいた。
自分が手当てをした人だった。
 


約1300人。
田口が3日間、
1人で治療した人の数だ。
手帳に亡くなった人を記していたが、
60人を超えたところで止まった。
 


終戦からしばらくして、
爆弾が原爆という核兵器だと知った。
1発で何十万もの市民を殺傷し、
医療施設を破壊する。
放射線は助かった人の体をむしばむ。
田口も被爆から約1カ月後、
40度の高熱と体にできた斑点で苦しんだ。
「核が使われると、
治療なんてできない」。
田口は感じた。
 


被爆から2年半後。
北九州の病院で外科医として勤め始め、
66年に福岡で開業した。
それから48年。
90歳になった今も毎朝、
白衣に袖を通す。
「あの日を生き延びた私にすべきことがあるなら、
医師として人を救うことでしょう」
    


ナイチンゲールのような従軍看護婦になるつもりだった。
だが、
原爆には夢も理想も無力だった。
 


原爆投下時、
内田千寿子(91)は郷里の広島県有磨村(現・福山市)にいた。
広島赤十字病院で臨時救護看護婦の訓練を終え、
待機中だった。
5日後に招集がかかり、
爆心地から約1・6キロ離れた病院へ。
玄関ホールには、
負傷した被爆者が並べられていた。
 


「とっさに顔を背けた。
見たくないとの思いで」。
先月15日、
内田はまなざしを遠くに向けて明かした。
 


病院には3週間で延べ約3万1千人が運び込まれたが、
包帯も薬も少ない。
やけどをした患者から「肩がかゆい」と言われ、
「治りかけでしょう」と声をかけた。
傷口を見ると、
無数のウジがわいていた。
当時は原爆が落とされたとは知らず、
どう治療していいか、
みんな分からなかった。
 


「戦争が終わったのに、
僕らはなんで死ななくちゃならんのか」。
終戦の日の8月15日、
ある患者が言った。
1カ月後、
病院にいた患者の大半が死んだ。
 


戦後も残留放射線による被爆に苦しみながら看護の道を歩み、
今は広島市から約70キロ東の府中市に住む。
被爆30年の75年から体験をつづる文集
「地下水」
は7月号で352号を数えた。
「死んだ人々のため、
残さないといけない」。
使い込んだパソコンに1文字ずつ打ち込む。
  
 

広島が被爆した3日後の8月9日午前11時2分、
米軍は長崎市にも原爆を落とした。
海と山に囲まれ、
異国情緒あふれる街は一瞬にして焦土と化した。
 


爆心地から20キロほど離れた長崎県諫早市にも多数の被爆者が運ばれてきた。
だが、
馬場すづ子(93)は言う。
「何もできなかった」
 


「長崎のけが人が来たけん!」。
9日夕方、
自治会長がメガホンで叫び、
近くの旧制中学に毛布や食料を持ってくるよう求めた。
出征した夫の帰りを2歳の娘と待つ身だった馬場。
娘を実母に託して向かうと、
諫早駅に着いた列車からリヤカーに乗せられた被爆者が続々と運び込まれていた。
身ごもった女性もいた。
 


血だらけで寝かされた被爆者が講堂を埋めた。
治療を手伝おうにも薬はない。
渡された黒い液体を筆で傷に塗ったり、
わいてくるウジを割り箸で取り除いたり……。
外の蛇口の周りには水を求めながら死んだ人たちが折り重なっていた。
 


「軽傷」の人を任されたはずだったが、
次々と息を引き取った。
救えない命ばかり。
講堂に詰めた約2週間で、
自らも救護中に被爆していた。
 


「戦争も、
原爆もあわれなだけ
。絶対に繰り返しちゃだめ」



証言の詳細は特集ページで
 
69年前の8月6日と9日。
広島、
長崎に落とされた原爆は一瞬にして街を破壊し、
20万人以上の命を奪った。
「核の非人道性」
が世界的に共有されつつある中、
日本は「戦争のできる国」に踏み出し、
原発再稼働も近づく。
平和へ、
不戦へ、
どう歩めばいいのか。
原爆投下時に成人だった被爆者の記憶とメッセージから考えていく。



今回の取材は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
に2010年から掲載されている被爆者で、
原爆投下時に20歳以上だった334人を対象とした。
現在の連絡先がわかり、
面談が可能とした59人に取材。
アンケート用紙を送った16人のうち13人が返送した。



成人だった人たちは様々な社会的立場で被爆した。
命と向き合う看護婦は
「ガーゼを替えるとウジ虫がわいていた。
救える命は少なかった」
(福岡県の石橋ヨソノさん、
90歳、
被爆地・広島)と証言。
衛生兵は
「治療しても大半が死んだ」
(和歌山県の松山義一さん、90歳、同)と言い、
あまりに多くの人を一瞬のうちに殺傷する核兵器のむごさを指摘する。
 


核兵器がもたらす壮絶な光景の記憶と放射線への恐怖は、
被爆者を長く苦しめた。
軍人は
「水を求めるうめき声がずっと耳から離れなかった」
(佐賀県の岸川巖(いわお)さん、89歳、被爆地・長崎)とし、
学校職員は
「悪夢と健康不安、差別を背負って生きてきた」
(神奈川県の樫村従子(よりこ)さん、90歳、同・広島)と振り返る。
 


取材に応じた被爆者は朝日新聞デジタルの
「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」
http://www.asahi.com/hibakusha/)の掲載者。
被爆時に成人だった334人のうち連絡先がわかり、
面談やアンケート用紙のやり取りを通じて計71人が主な質問に答えた。
 


日本の現状と未来に警鐘を鳴らす声もあった。
原発再稼働には7割にあたる52人が反対か否定的だった。
自衛隊が他国を守るために海外で戦う集団的自衛権の行使を認めることに対しても51人が反対を明言。
陸軍通信兵は
「海外の戦争に関われば攻撃される対象になる」
(大分県の鱧永(はもなが)秀一さん、89歳、被爆地・広島)
と自身の経験から語った。
     
 

〈核の非人道性〉 

一度に多数の人を殺傷して街を破壊するほか、
長期にわたって健康や環境に悪影響をもたらすといった
「人道的に取り返しのつかない惨事」
を招く核兵器の特性を指す。
日本原水爆被害者団体協議会が1956年の結成時から訴えてきた。
 


昨秋に国連総会第1委員会に出された
「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」には、
日本を含む125カ国が賛同。
今春に広島市で開かれた非核保有12カ国の核軍縮・不拡散イニシアチブ外相会合でも、
核兵器の使用は壊滅的で非人道的な結末を招くとした広島宣言を採択した。

ecar
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