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2014年08月15日

JAL123便墜落事故の真相

おはようございます。
ecarです。

今日は

【JAL123便墜落事故の真相@ 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された】

をお届けします。



JAL123便墜落事故の真相@ 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された

真実は当初から超国家権力によって隠蔽され続け、
20数年間深い闇の中にあった。
しかし、
近年になってようやく、
新たな証言者が現れ、
この問題を長年追い続けて来た人達と結びつき、
遂に闇の核心部分に光が当たるようになった。
墜落は単なる事故ではなく、
驚天動地、
世界規模の大事件だった!





故高濱雅己機長の遺族は、
妻の淑子さんを始め執拗なイヤガラセを受けた。
最愛の人を亡くした悲しみに加え、
加害者扱いという二重の苦しみが、
高濱機長の遺族を襲った。
何度電話番号を変えてもイヤガラセ電話が絶えなかったという。



しかし高濱機長を始め、
日航乗務員15名は、
最悪の条件下、
最後の瞬間まで命を懸けて闘った。

加害者等では断じてない!
真の英雄達だ!
極限下で示された彼らの勇気ある行動とその気高き精神は讃えられ、
彼らの名誉は何としても恢復されなければならない。



元日本航空スチュワーデス(青山透子氏)が描く、
日航ジャンボ機墜落事故の記憶。
操縦不能になった機内。
「墜落」という逃れられない現実、
突然目の前に「死」という恐怖が迫る。
飛行機に異常が発生して、
酸素マスクが落下し、
大きく揺れ動く機内。
恐怖にさらされた中で、
最後の最後まで冷静に働いたスチュワーデスたち。
乗客に不安を与えず、
冷静にエマージェンシー対応を行った。
「死」を覚悟して遺書を残した乗客がいたことも知られているが、
最後まで望みを捨てず、
「不時着」に備えてメモを残したスチュワーデスがいた。
飛行機を立て直すコックピットの懸命な努力。
極限状態の中で懸命にプロの仕事をまっとうした乗務員の姿がそこにあった。



青山透子氏(元日航客室乗務員)ブログ
「あの事件をうまく隠ぺいした人は異例の昇進をし、
それを追及した人は辞職を強要されたそうです。
正直な人が辞めさせられて、
ずるい人が残るとすると、
本当にひどいですね。」



あの日1985年(昭和60年)8月12日JAL123便に、
一体何が起こったのか?
事件の背景は?
それを知ることは、
大きな目覚めになる。
「我々は高度にマインドコントロールされ、
慣れ親しんだ現実は、
全て幻想だったのだ」と。



この世界の現実について予備知識の全く無い人が、
このJAL123便事件の真実をいきなり知ってしまうと、
一時的に精神のバランスを失うかもしれない。
価値観はひっくり返り、
後生大事に持っていた常識は崩壊する。
コメント欄にはそんな人達からのdesperate comment が山ほど寄せられる。
中には工作員らしき人物からの撹乱メッセージも。
(彼らのコメントを公開することは益々混乱を招くと思われるので、
現在は公開を控えている。)



今まで通り
「自身の
『常識』
という殻の中で幸せに生きて行きたい」
という人はここから先は読まない方が良い。
ご自身に人生がひっくり返るような事件が起きたとき初めて、
このJAL123便事件の真実を受け入れられるかもしれない。
そして
『自身の殻を打ち破る大きな努力』
の後、
本当に幸福な人生とは?
この世界から争いが消え、
真の平和を築くにはどうすれば良いのか?
その答えが見つかる。



途中で
『気分が悪くなった。
とてもついて行けない。』
と思った方、
或いは
『どうも自分には予備知識が不足しているようだ』
と感じられた方は、
他の記事を読まれて基本知識を得てから、
再度読み進めて頂きたい。
『いや、大丈夫。心
の準備はできている。』
という方は、
どうぞこのサインを無視して、
その先に進まれたい。



☆JAL123便事故関連動画−事件を知らない世代のために
(注:ボイスレコーダーは一部改竄、墜落原因の圧力隔壁破壊ではない事を前提に)


JAL123便墜落事故−再現ドラマと関係者証言@(1時間26分)

JAL123便墜落事故−再現ドラマと関係者証言A(40分) 

人気歌番組
「ザ・トップテン」
放送中に第一報:
茶の間の多くの日本国民が、
ここでJAL123便墜落事故を知る(8分18秒)…
ここから墜落現場のミスリードが始まり、
救助隊の到着は大幅に遅れることに。


ANNニュース速報:日本航空羽田発大阪行きのジャンボ機墜落の可能性強まる (2分)

迷走のJAL123便−墜落まで:日航ジャンボ機墜落事故 (8分46秒)



日航機事故犠牲者遺族の怒り、
悲しみ、
慟哭、
凄惨な事故現場、
遺体との対面:日航機事故遺族 
(5分41秒)
写真は大阪空港で
「明日の朝一番で臨時便を出せ!」
と日航関係者に詰め寄る乗客関係者達。


「あの日を忘れないで」 1  2  3  4 

日航機墜落 家族の動揺と悲痛 (9分35秒)   

20年目の誓い〜天国にいる我が子へ〜 1(12分20秒) 2(12分17秒) 3(12分20秒)

里帰りの娘を失った母の想い:520の夢桜 (9分49秒)

日航ジャンボ機墜落事故から25年 1 2 3 4  

助かったのは僅か4名の女性達:生存者救出場面 (2分34秒)



☆世界の真実の姿を求めて!
TV新聞報道では、
助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、
合計7人の生存者がいた
(この日本経済新聞の記事は日航パーサー落合由美さんを忘れている。
従って8人が正しい。)。
しかし、
4人は報道直後突然失踪!
彼らは一体どこへ消えたのか!?



さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、
指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、
と、
まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!
生存者達も同様、
墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。


☆川上慶子さん(当時12歳)は、
同乗の両親と妹が亡くなるも奇跡的に生還。
病院を退院後、
島根の実家に帰った際に証言:墜落したあと、
ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。
あちこちでうめき声が聞こえ、
私の両親もまだ生きていたような気がする。
しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。
そのあとまた意識がなくなり、
次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、
周りの人たちはみんな死んでいた。
(慶子さんは意識が無くなって幸運だった。
もしその時懐中電灯の人物に助けを呼んでいたら、
彼女の今日は無かっただろう。
近くに居た、
落合由美さんや吉崎さん母子の今日も…
理由は後述。)


☆日航機元客室乗務員、
作家・安部譲二氏談:御巣鷹山近くの複数の住人が、
123便が炎をあげて墜ちてきた、
光るものが飛んできたと証言している。
(これこそ123便が空中で爆発した目撃証言ではないのか?
何故事故調査委員会はこの証言に耳を傾けなかったのだろう?
空中爆発だと何が都合悪かったのだろう?)

☆日航123便墜落事故群馬県医師会記録 救助がもっと早ければ……空白の15時間。

☆元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言
(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された



貝のように口を閉ざす日航関係者の中にあって、
佐宗氏は自らこのJAL123便墜落事故の調査を行い真実を発信する大変貴重な存在だった
。2009年8月9日午前11時突然帰らぬ人となるまで、
その活動は続いた。
享年59歳。
亡くなる前日のワールド・フォーラム
(前述の動画はその開始部分)で
「天皇の金塊」
著者高橋五郎氏の講演に続き自身が登壇、
用意された
「おーいお茶」
500mlボトルに口をつけて1分以内に椅子から崩れ落ちる。
最前列の聴講者が機転を利かし、
素早くそのボトルを確保し、
後で遺族に提出。
不審な数人の男達が飛び出し、
同じくそのボトルを確保しようとしたが得られず、
凄い形相でその聴講者を睨みつけたという。(コメント38参照)



佐宗邦皇氏が立ち上げたワールド・フォーラムでは各界の優れた講師を招き、
或いは自らが講師として、
世界の真実を発信する活動をしていた。
その内容は万人が知るべき大変重要な情報であったが、
世界支配者層にとっては絶対に知られてはならないものばかりだった。
以下の動画は氏が911事件の真相を伝えるもの。
氏の深い洞察力には驚嘆させられる。
必見!

【全編】佐宗邦皇氏
「米国で起こった2度の軍事クーデター」 http://www.youtube.com/watch?v=Abq_bIFGwFA 

☆JAL123便撃墜の証拠が写真誌フォーカスに!!第3エンジンから突き出る不発弾と思しきファルコンミサイル! JAL123便墜落事故−真相を追う−そしてミサイルは発射された(2) http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/66f90662378566829c72baa85589bd29



軍事専門家談:これは大型機撃墜のため開発されたファルコンミサイル。
1985年当時における空対空ミサイルの起爆タイミングは、
命中直撃を無理に狙わず、
敵機近傍で爆発し、
確実にダメージを与える
「近接爆発方式」
が主流。
ただし、
ファルコン系列ミサイルは、
「直撃」
が可能なら自律的にそちらを選択する。
(「ミサイルは近接信管(きんせつしんかん)
だから123便に命中する前に爆発するはずだ。
このサイトの筆者はそんなことも知らないのか!?」
等という馬鹿にしたような書き込みが時々ある。
この方は自衛隊関係者なのかもしれないが、
ファルコンミサイルの実際を知らないようだ。
軍事専門家によれば、
ミサイルはセンサーが敏感過ぎてちょっとの振動で爆発しても危険なので、
敏感すぎないよう調整されており、
その理由からおよそ50%は不発弾になってしまうという。)




☆墜落現場123便第3エンジン付近に散乱する米国レイセオン社製空対空ミサイルの部品!

ブログ主:これまで私が書いてきたことに対して、
色々なご意見やご批判があるようですが、
お願いしたいのは、
人生、
たかだか数10年のご経験やそこから得てきた常識だけで物事を判断するのを止めていただきたいことです。
読者の皆様に限らず、
この調査に協力していただいているメンバー全てが、
最初は目の前に突きつけられた現実に対し拒絶の念を覚えながらも、
自身の経験と常識を乗り越える選択をし、
このブログでの発表を決意したのです。
(中略)
批判を行う方は、
少なくとも現地を訪れ、
群馬県上野村、
および事故現場周辺のあの独特の雰囲気を肌で感じてください。
また、
土の採集や放射線測定器で調べればより多くのことがわかってくるでしょう。
ただし、
くどいようですが、
現地は最高レベルの監視体制下に置かれていることだけは、
初めにご忠告申し上げます。




☆墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、
錬度が高く、
レンガ色をしている。
墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、
多くの人が体調に異変を来たす。
その症状から放射性物質と判明したという。)




☆(新)日本の黒い霧−現場に散乱する破片を収集、軍事専門家による分析の結果驚愕の結論に至る  

☆田村珠芳−軍事使用目的プルトニウム運搬、目撃者殺害/誘拐による隠蔽工作  

☆NEWS U.S.− 戦後日本最大級の事件、日米露を巻き込んだ軍事衝突 

☆犠牲者の霊に導かれ…現場に小型中性子核ミサイル使用の痕跡を見る



日本と世界の闇の権力者間で起こった核兵器開発を巡る軍事衝突。
その背景には為替レートを円高誘導せよという国際金融寡頭勢力と、
それを拒否する日本経済界の壮絶なしのぎ合いがあった。



今年も8月12日、
日航123便墜落事故の日が巡って来る。
この事件は16年後に起こる、
911事件と似通っている。

列挙してみると。
@ 明らかに素人でも分かる嘘をつき、国家ぐるみで真実を隠蔽しようとする。例:圧力隔壁破壊の嘘。
A 軍事演習の最中で起こった、核兵器使用の痕跡を残す、尋常ならざる破壊の跡と情け容赦ない乗客殺害部隊。
B メディア総動員による撹乱。大衆を真実から遠ざけようとする、超国家的権力の存在。
C 以後の世界的変化。



まず@の「明らかに素人でも分かる嘘」について。


上空8,000mで機体に大きな穴が空けば、
他の航空機事故に見られるように、
機内に急減圧が発生。
機内の物は人間を含み外へ吸い出される。
また上空のマイナス40度という低温の空気が室内に入り込み、
室温の急低下が起こる。
空気が薄くなることから、
実験では5分くらいで一般人なら意識を失う危険な状態に陥る。
しかし、
生存者の落合由美さんの証言ではそんな事態は起こらなかった。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm



また、
長女の美紀子さんと共に助かった吉崎博子さんも、
急減圧に関して、
「子供の世話をしていてマスクが外れることもありましたが、
それでも苦しいとは感じませんでした。」
と証言。



また、
機内の室温急低下に関しては、
「私は半袖のブラウスと長めのキュロットスカートという服装でしたが、
特に寒いということはありませんでした。」
と証言。





一方、
当時の航空事故調査委員会委員長、
武田峻氏は
「何故操縦室の3名はマスクを付けなかったのか?」
という問に対し、




「(トラブル発生後)やることがいっぱいあって、
どれからやって良いかよくわからなかった。
必ずしもマスクを一番先につけないといけないことは無かった。
結果として。」



と答えている。
彼の説明だと、
人間は忙しさにかまけていれば、
上空8,000mという酸素が非常に薄く気温マイナス40度という過酷な環境でも、
30数分間耐えられるということだ。



酸素マスクを必要としなかったのは操縦室だけでなく、
客室の乗員乗客も同様だった。
事故調査委員会の結論が正しいのなら、
524名の乗員、
乗客全員がヒマラヤ山脈の最高峰エベレスト山(8,848m)に酸素マスク無し、
夏服の軽装で登頂できる、
世界トップクラス(?)の登山家集団ということになる。


という訳で、事故調査委員会の公式発表「圧力隔壁破壊」は子供でも「嘘」とすぐ分かる。


事件の日、
日米合同軍事演習が行われた。
海では、
相模湾。
伊豆沖で当時の最新鋭護衛艦「まつゆき」を中心に艦船、
潜水艦が出動。
空では、
茨城県百里基地所属の航空自衛隊戦闘機、
また航空自衛隊や在日米軍の電子戦機が待機。
はるか上空では米軍の軍事衛星が演習を監視。
陸では、
ゲリラ訓練場となっている御巣鷹山とその周辺に、
特殊部隊が集結。



18:12 JAL123便は羽田を離陸。
12分近く経過したとき、
相模湾上空で123便のクルーは、
右前方から接近する奇怪な飛行物体を発見。
コックピットに緊張感が走る。
乗客も気付いていた。



18:24:35 ドーンという衝撃音と共に何かが123便の尾翼部に激突。
座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)はその飛行物体を接近段階から撮影、
後に事故現場で発見され現像。
デジタル解析の結果、
オレンジ色の物体と判明。



18:56過ぎ、
123便はレーダーから消える。
しかし、
場所についての報道は二転三転し、
123便の行方は特定されない。
翌日明け方になるまで救助活動が開始されず搭乗者の家族は焦燥感が募る。



8月13日の午前5時10分、
航空自衛隊救難隊による
「機体発見」、
続く陸上自衛隊偵察ヘリによる機体確認、
5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、
各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認される。
群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、
テレビ報道の映像を見て、
現場が村内の
「スゲノ沢」
であると判断。
土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請。



墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半、
長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。
その後陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下して救難活動を開始。
陸路からは、
上野村消防団、
群馬県警機動隊、
警視庁機動隊、
陸上自衛隊、
多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着。
ようやく本格的な救難活動が開始される。


しかし驚いたことに、当局には最初からJAL123便の乗員乗客を救助する気はさらさらなかった!


縦割り組織警察の常識を無視して
「全員死亡による救助打ち切り命令」
で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは長野県警レスキュー隊。
また、
早々と現場で
「全員即死宣言」
をした自衛隊幹部に
「まだ生存者がいるぞ!!」
と怒鳴って救助活動を促した報道関係者や消防団員の人達。
彼等がいなければ、
落合由美さん達女性4人も助かっていなかっただろう。




「現場にいたある消防団員は
『最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。
生存者が発見されてから急にあわてた。
生存者に対する準備ができていなかったような気がする』と話していた。
はじめから生存者がいないと決めてかかっていたのではないかと私も感じた」
(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故」p.56、8行目)



「11時生存者発見、
12時仮設ヘリポートへ、
ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」
(元日航パイロット藤田日出男著
「隠された証言・日航123便墜落事故p.55、2行目)…
せっかく発見され一刻を争う救命処置が求められる生存者を現場に2時間近く放置、
病院搬入まで3時間以上も費やしている。
まるで生き延びてもらっては困るかのように。



何と酷い!
これが人間のすることか?
恥を知れ!
救助隊にはわざと遅く現場に着くよう、
或いは違う場所に行くように、
NHKにはわざとウソの墜落地点を報道するように命令が出ていた!
(元日航客室乗務員:青山透子氏ブログ)

*災害派遣待機命令が発令されたが、
その後出動ではなく中止命令が出たのはなぜか?



*8月12日、
夜23時頃、
一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、
道案内を頼んでおきながら機動隊員から
「その場所は違う、
こっちだ」と根拠のない主張をされた。
墜落現場はスゲノ沢だと言うと
「いいやそこではない、
中ノ沢だ、
上官の命令だ」
と強く言われた。
人にものを頼んでおきながら命令とはどういうことか?
なぜ地元の土地に詳しい人の意見をわざと無視したのか?



*なぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっくり歩くのか、おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで墜落現場にたどり着けなかった。

*夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、
モノの上げ下げをしていたが、
何をそんなに急いで上げ下げしていたのか? 

*後からの幹部の発表では、
一機たりとも危なくてヘリを飛ばしていないというが、
事故当夜、
私たちが目撃した墜落現場上空にいた多数のヘリは、
亡霊か?

*自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると(信じて)歩いたら、
結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか?

*自衛隊による墜落現場特定が遅くなったことについて、
山下運輸大臣や自衛隊幹部が、
「夜間用照明がなかった」
とか
「険しい山に仰天した、
危ないから」とか、
夜に救助出来なかった理由をテレビや雑誌で反論した。
しかし、
敵の侵略や戦闘は夜行うもので、
その為に山奥で過酷な訓練をしてきた。
夜にヘリを出せないならば、
いつ自衛するのか?
自分たちは夜に十分動けるための訓練を行ってきたのだから、
プロとしての自衛官を馬鹿にするような発言するとは情けない。
それでも幹部か?

*なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた。

*なぜ一生懸命生存者を救助したのに、
山頂に4時間近く生存者が放置されたのか?

*なぜ生存者を収容したヘリで、
5分もかからない救急病院に行くのに、
無線が故障と言って30分以上、
上空を旋回し続けたのか?

*4人も救助したと美談になっていたが、
遺体状況からみて、
つい先ほどまで生存していたと思われる人たちが100名ぐらいはいたはずである。

*自分はゼロ戦の指導教官だったが、
戦時中でさえ場所は特定できた。
あの程度の山で、
ましてや1985年に、
墜落場所を測定出来ないわけがない。
パイロットを馬鹿にするな。

Aの核兵器使用の痕跡と、
情け容赦無い殺害部隊の存在

核兵器使用の痕跡。
ピカッと雷光のように走った閃光、
黒いキノコ雲が目撃されている。

墜落現場に残るイエローケーキ
(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、
錬度が高く、
レンガ色をしている。
墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、
多くの人が体調に異変を来たす。
その症状から放射性物質と判明したという。)

骨が約3cm刻みの破片になって飛び散るほどの、
広島原爆の30倍以上と推定される衝撃。
これらは小型の核爆弾使用を示唆している。
決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではない。
元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言
(動画開始後2分10秒辺りから):
JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された)



東大地震研究所の微小地震計が、
墜落時刻に異常振動を観測、記録している。第一波は18:56:26、第二波は3秒後。これら二つの波は極めて微小な物。墜落の衝撃だ。しかし18:56:31から観測された第三波は、約5秒間揺れ、その後も10秒近く揺れる大きなものだった。最初の二つの波は航空機の地面衝突によるものだろう。しかし、第三波は一体何だったのか?広島原爆の30倍を超える小型核爆弾の衝撃ではなかったのか?(池田昌昭「完全犯罪JAL123便撃墜事件」)ミサイル使用の痕跡。 この遺体散乱状況写真を見ると、123便の進行方向に対し、右側からミサイルと思しき爆発物が命中し、乗客・乗務員を左前方に吹っ飛ばしたことが分かる。

乗員乗客殺害部隊の存在
8月13日04:00頃 
墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、
白バイを振り切って、
長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。
生存者の呻き声が谷にこだまし、
響き渡っているのをはっきりと聴いた。
およそ50人と推測。
指が欠損しただけの、
比較的軽症の人も。
この人は助かる、
と確信。
既に到着していた100名くらいの自衛隊員。
片手に抜き身の大型アーミーナイフ、
目には暗視ゴーグル、
また、
靴は急峻な山での作業に適した短靴。
1時間後、
次の部隊が続々と到着。
後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。
(「救助に向かう自衛隊は武器を携行しない。
もし携行するとすればその手続きは煩雑で必ず証拠が残って居る。
その証拠が出ていない以上、
このサイトに書いてあることは悪質な作り話である」
という書き込みがこのサイトにあった。
その人は自衛隊関係者で実際の武器携行手続の経験から言っているのかもしれないが、
世界の厳しい現実を知らないおめでたい人、
という他無い。
「答えてみろ、
この嘘つき野郎!
オレが怖いのか?
オイコラ!」
と余りに礼儀を欠くチンピラのような調子だったので削除。)



しかし、
彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。
大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、
上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。
何故だ!?
何故この部隊は救助をしない!?
目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!
人命より優先される回収物とは、
一体何だ!?
以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。

「JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(4)」
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a 



のオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、
2010年5月16日、
江戸東京博物館にて、
その日目撃したことの証言を依頼される。

ところが、
講演の2週間前、
アクシデント発生。
車の後輪がバースト。
あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。
損傷部分を検証した結果、
軍関係者しか持たない、
熱線銃によるものと判明。
「123便事件の真実について、
これ以上語るのを止めよ」
というメッセージが彼に送られる。
幸いにも、
かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、
証言することができた。



話を墜落の日の翌朝に戻そう。
日が昇ってからも奇怪な事が起こる。
公式に生存者とされる4人の女性以外に、
3名乃至4名の生存者が目撃されている。
生存4人の現場からさらに200mの急斜面を登ったところにいた朝日新聞社の社会部記者が
「今さらに3人の生存者救出!
2人は担架に乗せられているが、
1人は担架が必要無いほど元気な女の子で、
救助隊員に抱かれている。」
と無線で報告。



朝日新聞前線キャップ木村卓而氏は
『一人の女の子は、
担架に乗らないほど元気で、
救助隊員に抱かれている。
他の二人は毛布をかぶされているため、
男女の別やけがの程度ははっきりしない』
と元気で無事救出された女の子のことを報告。
だが、
その後女の子はどうなったのか?
突然存在が消えてしまう。

また、
8月13日午前9時〜10時頃、
地元上野村消防団が墜落現場に、
獣道を伝って登っていく途中で、
沢伝いに下ってくる
「中学生くらいの男の子を含む男性四人連れ」
に遭遇。
衝撃の現場から来たというのに、
挨拶しても返事もしない、
何も語らない、
不気味な沈黙の集団。
「沢伝いに下りてくる、
中年の男性三人と中学生くらいの少年が加わった四人のグループに出くわした」
飯塚訓(いいづか・さとし)著
「墜落現場、
遺された人たち」p.119、5行目〜。



この男の子は一体どこへ連れ去られたのだろうか?
「この少年は生きているのではないのか?
私の知り合いの医療関係者は、
筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、
この時点では明らかに生きているだろうと語っている。」
元記事



さらに、
7歳〜8歳くらいの小さな男の子が13日午前
「走り回っている」
ところを自衛隊員に発見されている。
報告は無線でただちに流された。
報道関係者もこの無線を傍受。
「男の子発見」
のニュースは流れた。
フジテレビの
「ニュースレポート」
では、
マイクを握ったフジの山口氏が
『現場は惨憺たる状況です。
まもなく、担架に乗せられた七、八歳の少年が運ばれてきます……。』

と生中継。
しかし、
この
「男の子」
に関する情報が途絶。
以後、まるで神隠しにでも遭ったように、
その後の
「7歳〜8歳くらいの小さな男の子」
の消息は杳として知れない。





Bのメディアによる撹乱。


NHKを始め、
民放各局は事故直後からわざと偽の墜落地点情報を流して、
救助隊の到着を遅らせた。
墜落現場には米軍ヘリが既に飛来していた。
以下「JAL123便墜落の真相」から引用。

http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm#S10 

「やがて真っ暗闇のなかに、
ヘリコプターの音が聞こえたのです。
あかりは見えないのですが、
音ははっきり聞こえていました。
それもすぐ近くです。
これで、
助かる、
と私は夢中で右手を伸ばし、
振りました。
けれど、
ヘリコプターはだんだん、
遠くに行ってしまうんです。
このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」
(落合由美さんの証言)。



このように、
1994年9月25日の
「ニュース・ステーション」は、
日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。
何ということでしょう。
米C−130は午後7時30分に墜落場所を特定し、
20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。
もちろん日本側にもその時点で伝えられています。



元日航客室乗務員青山透子氏ブログ(前述):
なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?
特に13日早朝、
地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、
まだNHKでは、
小倉山と報道し続けていて、
呆れた地元民が、
NHKの記者を怒鳴りつけた。



最後にCの世界に起こった変化。



日航123便墜落事故の翌月22日、
歴史的なプラザ合意から円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰。




急激な円高を受けて、
以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被る。
そして日銀の窓口指導による、
バブル創出、
崩壊、
金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、
郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行く。
これらは決して偶然では無い。
全ては仕組まれたことだった。
ある闇の勢力によって。



助かっていたはずの乗客達。
不幸にも軽症すぎたがため、また不運にも見つかってしまったが故に、
最後の最後で、
彼等は口封じのために殺された。
航空機事故遺体に模して。
決して知られてはならない秘密があったから。
そうとしか考えられない。
無念であったろう…
震えが止まらない。



この墜落現場で
「生き残った罪も無い乗客、
乗務員にとどめを刺した者達」
は恐らく国籍が日本では無い、
と信じたい。
来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、
日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは?
任務遂行のみに全神経を集中する訓練と共に、
部隊を編成するに当たって
「日本人を嫌悪する教育」
を受けた者達が選ばれたのではないか?



123便の乗客、
乗務員はこの者達の手にかけられ、
処分された。
殺人鬼が迫って来る瞬間、
彼等は一体何を思ったのだろうか?
『お前達は何者だ!?
乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』
現場で何が起こっているのか、
理解している人はほとんどいなかったであろう。
彼等は無残にも、
毒ガスで息の根を止められたり、
火炎放射器で生きたまま焼かれた。



尋常ならざる遺体の状況 参考ウェブサイト:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html 



ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、
それは灯油の1100℃とたいして変らない。
実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。
写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、
ジェット燃料(灯油)が原因ならば、
まとまった燃料が本人にかかり燃えた、
あるいは近くで激しく燃えていたことになる。
しかし、
子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。
しかも雑誌の文面には
「紙幣や書類が周囲に散乱していた」
(写真誌フォーカス)と記載されている。
ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、
この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?
この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、
「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」
と。
元記事



上の焼死遺体も、遺体の側の木は全く焦げ跡が無い。



当時、
遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、
群馬県警察医会副会長)に、
青山さん
(元日航客室乗務員、青山透子氏)
は何度もインタビューを試みている。

「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、
それでも歯は
『すす』
で黒くても、
裏側や一部は白いままだし、
骨もそこまで燃えていない。
なのに、
あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…
二度焼きしたような状況だ」


周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、
遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。
群馬県の検視報告書において担当医が
「二度焼き」
という言葉を使ったことは、
ただごとではない。



女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された携帯用VXガス兵器と思しき容器。
20数年経って、
瓶には微量の液体が残っていた。
持ち帰る際、
念のため何重にもビニール袋で密封したが、
調査に当たった方達2人は、
密封を解いた途端気分が悪くなり、
数日間寝込んでしまったという。



墜落現場へ救助に向ったと思われる警察の救助ヘリの残骸が見つかっている。
彼らも何者かによって空対空、
或いは地対空ミサイルで撃ち落とされたのか?
また、
当日午後8時頃、
TVのテロップで
「救助に向かおうとした自衛隊員を別の自衛隊員が射殺した」
との報道があったという。 
http://raizen.seesaa.net/category/11130729-1.html 
事件の後で、
勇気を持ち、
真実を語って、
自殺を装い殺された自衛隊員もいる。
911事件でも乗客の殺害はイスラエルの諜報機関モサドが担当したという情報がある。
同国籍人で無ければ、
何の躊躇も無く殺害マシンとなって、
乗客乗員のみならず、
救助隊でさえ抹殺できるからか?



写真aは林中で見つかった2名の隊員、
写真bは暴露された尾翼写真、
尾翼に外部から飛行物体が激突した証拠。
彼等はこの写真をリークしたため殺害されたのだろう。



国を売った者達は、
第二次世界大戦時の軍人としては山本五十六大将、
米内光政大将、
宇垣 纏中将などがいた。
軍部のみならず、
各界のトップに売国奴が君臨している状況は、
今も昔と何ら変わりは無い。



彼等は国家や、
大企業の要職を占めるものの、
少数派である。
大多数の、
良識ある国民が真実に目覚めれば、
彼等も悪事を働くことが難しくなる。
この123便墜落事件を通して、
この機会に真実を見抜く眼を養ってみては如何だろうか?



123便墜落事故をモデルとした、
山崎豊子氏の小説
「沈まぬ太陽」
(1995年、
平成7年から順次発表、
3編に渡る長編小説)
が映画化、
2009年秋封切。
小説では日本航空の腐敗、
利益追求第一主義を指摘。
もとより事件の本質解明に至ってはいないものの、
かなり近い線まで迫っている。
この事件は恐らく、
2011年3月11日の地震兵器による東日本大震災、
津波、
核兵器による原発事故と本質でつながっていると思われる。



日本航空の経営を圧迫した大きな要因に、
911テロ事件、
SARS等々の事件があるが、
それらは全て国際金融寡頭勢力が起こしたものであった。
そして今回取り上げたJAL123便撃墜も。
日本航空のトップと、
その巨悪とのつながりを紐解けば、
この事件の本質がみえてくるのではないだろうか?



映画封切りのタイミングは、
日本航空国営化に賛成世論を形成する目的があったと思われる。
空の安全を目指した小説・映画のはずが、
却って
「日本航空機を使ったテロを起こしやすい環境」
を整えるのに協力するという、
何とも皮肉な結果を招いてしまった。



日本航空123便墜落事故。
言うまでも無く、
これは単なる事故ではない。
ハッキリ、
事件である。
それも世界規模の大事件である!



事件の真相を知る政府、
日航関係者は、
勇気を持って口を開いて欲しい。
そうすればこんな悲劇は二度と起こらないかもしれない。
そして何よりその事が、
亡くなられた方々への最大の供養になるのだから。



1.
o1. 日月土

o2011年08月21日 13:03
o詳細においては異なる見解も若干ありますが、
全体的によくまとまったよい文です。
何よりも、
犠牲となった乗客乗員の苦悩を共感していただいたことに感謝いたします。
私たちの調査活動をここまで理解していただき、
本当にありがとうございます。

どうかいつまでも、
私たちの不幸な同胞たちのことを忘れないでいてください。
お願いします。

現在、
外地におり、
調査活動に不自由な環境ですが、
これからも、
知りえた事実をできる限り公開していく所存です。

(新)日本の黒い霧 管理者

2.
o2. ijn9266

o2011年08月21日 20:44
oijn9266管理人です。
「(新)日本の黒い霧管理者」
様、
コメント有り難う御座いました。
詳細は文字通り
「黒い霧の中」
で真実はどこにあるのか、
私共にとってはまだまだ
「漆黒の闇の中」
です。



しかし貴ウェブサイトのお陰でJAL123便墜落事故の真実がようやく解明されつつあります。
激しい妨害は、
その行為自体が
「はい、その通りです」
と認めているようなものです。
東洋人は嘘をつくのが下手なようです。



私共も、
この事件の詳細に関しては
「推定」
のレベルなので、
公開される情報を心待ちにしております。
311事件の際も都合の悪いブログ記事や、
動画が片っ端から削除されました。
しかし一部のネットユーザーが保存してくれておいたお陰で真実に迫る重要な記事や動画を今も見ることができます。



危険を顧みず、
真実の追究に時間と労力を割いて下さり、
誠に感謝に堪えません。
どうか身辺には十分に気をつけられて、
今後の調査活動が無事に進むことを切に祈っております。
ありがとうございました。

3.
o
3. 123

o
2011年12月24日 02:55
o
日航ジャンボ123便 
垂直尾翼右側外板切断面とソ連Tu-95ブレードの形が一致している。
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/640.html
<参考>
JAL123便JA8119号機垂直尾翼右側外版残骸とソ連Tu-95ブレード比較
http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/6549.jpg
JAL123便コックピット「ソ連エア」
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/638.html
JAL123便コックピット「機長、他機に接近」
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/639.html
JAL123便 乗客小川さんが機内から撮影した写真にTu-95ベアが写っている。
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/632.html  

123便案件は、ソ連の侵略でありました。

4.
o4. さちよ

o2012年08月06日 18:43
oなるほど。
これが世界の核兵器を巡る現実なのですね。
目が覚めました。
日航123便の事件は福島第一原発放射能汚染にもつながってくるということがよく分かります。
おっしゃるように、
99%の我々が世界を運営する日が来るまで、
こういうことは無くならないでしょう。
このブログのお陰で世界の権力構図が少しずつ見えて来ました。
どうぞ身辺には十分気を付けて、
これからも真実を暴いて下さいね。





5.
o5. 田上

o2012年08月12日 23:47
o ショックです。
でもこれが現実なのでしょう。
911事件が米政府の自作自演と分かってから、
人生観が変わり世界の権力構造について調べてきました。
日本にも闇の権力者がいたのですね。
それも1400年前から。
彼等日本の闇の権力者と世界の闇の権力者が激突したのがこのJAL123便事件だったのですか。
本文に書かれていますが、
この構図は第2次世界大戦の時も同じだったのですね。
国際金融寡頭勢力が日本国内に放ったスパイやエージェントが売国奴として暗躍していたと。
もう何が何だか……。
一体私達はどうすれば……。

6.
o6. 疑心暗鬼

o2012年09月10日 02:19
o広島の30倍の核使用・・・・
骨も砕けるほど・・・
とはありますが、
現場写真では砕けていないので核使用はありえないでしょう。
救助にいった人たちの被ばく量もどうなのだろうか。



またなぜに日航123を狙ったのかが問題ですけど。
他にも民間機は飛行はしていたと思いますし、
日航がEmergencyを発すれば近くの航空機も着目するし、
スクランブルとなれば、
ちかばに戦闘機が居るかどうかの確認もあったと思いますが証言なし。



空中で小爆発があれば、
なおさら上空同士で視認もできたと思いますが、こ
ういう情報はない。



演習でミサイルを撃つにも、
民間機が十分安全圏に出てからの発射、
ましてや内陸に向けての発射は考えられないと思う所です。



金融の支配者、
ロスチャイルドとロックフェラーが対立しているのは有名ですが。。
なにがあって、
日航なのか・・・金
融界が日航を墜落させてなんのメリットがあるのか、
デメリットは何かという視点からの切り口も欲しい所です。



自衛隊員の自殺がしかけられた殺人であれば、
恐らく救助された生存者は、
口封じのため医学によって既に葬られていると思います。
自殺を偽装するより簡単に思います。
恐らく無差別に遺体を二度焼きするほどの事ですから、
情報の有無にかかわらず薬殺でしょう。



世間はあまりの大参事に色々と結びつけたいのだろうと思いますが結びつけるにも無茶苦茶だろうというのまであり、
これも情報操作のひとつかな?
と。
なぜなら、
こじつける為の情報はあるが、
全くの事故であったという情報がない、
あっても書かないというのがほとんどでした。

7.
o7. ijn9266管理者

o2012年09月27日 10:49
oご意見、
ご感想、
誠に有り難う御座います。
暫く海外出張で返事が遅れ、
大変失礼致しました。



指向性、
つまり核ミサイルの爆発ベクトルは一方向に集中しますので、
核の爆風をまともに受けた遺体とそうでない遺体では自ずと損傷の度合いが異なります。
また、
JAL123は着陸態勢に入っていたので、
通常の着陸とは異なる大きな衝撃を受けたものの、
墜落直後に多くの生存者がいたという証言に矛盾はありません。



情報の隠蔽は彼等の得意とするところ。
日本の空はほぼ全域にわたって米軍に支配されており、
日本の民間航空機はその隙間を縫うように飛行するしかない厳しい現実。
JAL123が攻撃対象になったのは、
その積み荷が大きな問題でした。
このシリーズのAとBを読んで下さい。
金融に関しては翌月、
9月22日プラザ合意(プラザごうい、
英: Plaza Accord)G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)によって、
急激な円高誘導政策の発動。
これが日本経済崩壊の序曲となりました。
このブログの
「巨大金融詐欺A 通貨発行権の濫用、
中央銀行という詐欺システム」
をご覧になって下さい。



事件の真相を理解するのに、
未だあなたの知識と許容量が追いついていないようです。
しかし、
既にあなたは真実の入り口にいます。
今は無理でも、
これから次々と起きる事件について、
一般の人々よりは多少とも早く真実を掴めるでしょう。

8.
o8. ゆきまさ

o2012年11月02日 12:01
oえ?
この情報のソースは?

9.
o9. ijn9266管理者

o2012年11月02日 19:27
o過去に出版された数々のJAL123関係書籍、
地元の人々の調査、
そして彼等に協力する人達からの情報です。
背景に国家を超えた権力があることが分かっていないと、
とても信じられないでしょう。

10.
o10. 名無しさん

o2012年11月03日 12:58
o単なる悲惨な事故と言う視点だった私には興味深い内容でした。
確かに国がらみであれば情報はいかようにも操作できるし、
あながちあり得ない話でもないと思いました。
(流石に調べる力のない私には、
事故か陰謀かともいえる立場ではないですが・・)

ただどちらにせよ、
多くの命が失われたことは事実であり原因の究明は大切なことだと考えました。

11.
o11. ijn9266管理者

o2012年11月03日 14:26
oJAL123事件の真相は、
一般のメディアで普通に流される情報だけを頼りに生きている人には、
想像すらできないでしょう。
ご自身でも証言や情報を集められ、
この記事に整合性があるかどうか、
考えてみて下さい。

12.
o12. 自衛官の娘

o2012年11月08日 14:50
o父はもうすぐ陸自を退官します。
父にこのブログの事を話したいですが、
その前に日本の闇の権力者と自衛隊の関係をもっと知りたいです。
誰か教えてくれませんか?
父は一兵卒でネット世代でもなく、
闇の権力者とか、
何も知りません。
このブログを表面づらだけ読むと自衛隊がすごく悪者のような印象を与えると思います。
正確な情報が欲しいです。
無理な相談かもしれませんが。
お願いします。

13.
o13. 憂国の志士

o2012年12月14日 07:33
o素晴らしい!
日本と世界の闇の権力者達の核兵器と金融をめぐる争いの一端を見事に暴いている。
このブログの記事は闇の権力者の存在と世界の現実を知らない人々にとっては、
恐らく狂人の日記にしか見えない。
猫に小判とはこのことだ。
そんな人はこのブログの他の記事もちゃんと全部読むべきだろう。



日米戦争は終わっていない。
戦後、
日本本土はGHQによって蹂躙され、
日本国民はアメリカナイズされ完全に洗脳された。
それに対抗して、
日本の闇の権力者は陸軍中野学校出身の残置諜者畑中理氏等を放ち、
北朝鮮という国を建国。
天皇系の血を引く横田めぐみさんを誘拐して金正恩を生ませ、
金王朝を盤石にした。



ベトナム戦争の際、
捕らえられた北ベトナム兵士の中に何と北朝鮮兵がいたという。
殆どは自殺したが、
それでも生き残った兵士は
「大東亜共栄圏を築くためにこの戦争に参加している」
と答えたという。



そしてこの記事。
JAL123便はプルトニウムを海外、
恐らく北朝鮮に運んでいたという。
そして福島の原発爆破事件…
全てが一本の糸で繋がってくる。
マスコミや教育機関によって完全に洗脳された人々にはまるでキチガイの世界。
しかしそもそも、
世界の支配者達がキチガイぞろいなのだからしょうがない。
闇の世界の熾烈な争いが外に現れた大事件。
それがJAL123便撃墜事件なのだ!

14.
o14. 受験校二年生

o2012年12月15日 10:50
o最初にこの記事を読んでしまったので、
正直この筆者はキチガイだと思いました。



でも憂国の志士さんのおっしゃるように、
他の記事も全て読むと、
国際金融資本と藤原家の流れを汲む日本の闇の権力者との歴史の表には決して出て来ない暗闘が理解出来ました。



このブログのお陰で歴史大好き受験生になりました(^-^)
歴史を貫く一本の大きな柱が分かったからだと思います。
偏差値は60を切らなくなって、
母が喜んでます。
予備校授業料が浮いて助かるって(^-^)

15.
o15. ネット世代(高1)

o2012年12月16日 00:32
o僕たちは物心ついた時からネットで調べる習慣が身についています。
新聞よりもテレビよりもネットです。
新聞やテレビでは通り一遍の説明や、
納得できない脚色された情報しか得られないからです。
当然学校の調べ物もネットです。



そんな僕たちからすれば、
このJAL123便の記事はそんなに驚くべきものではありません。
今までネットで911事件の真実を知りましたし、
世界を支配するのは金融詐欺師の集団だということもネットで知りました。



テレビや新聞からしか情報を得ていない人達からすると、
このブログの記事を理解することはかなり難しいと思います。
Yahoo知恵袋でこのブログの記事が話題になっていて
「災害派遣に武器は携行しない、
そんなことも知らないのか!」
という書き込みがありました。
それをみて
『ああ、この人は闇の権力者の存在を何も知らないのだな』
と思いました。



ネット世代とテレビ新聞世代では情報の格差があって、
その差を埋めることは難しいでしょう。僕の親は完全にテレビ世代で、
本も余り読まないので情報は恐ろしく貧弱です。
このままあの世行きでは余りに気の毒なので、
死ぬまでに分かってもらうことが親孝行かな、
と思ったりもします。

16.
o16. 高2歴女

o2012年12月16日 20:46
o当校歴女サークルの調査では、
人々が国家を超えた闇の権力者の存在に気づくキッカケの第1位:911事件、
第2位:JAL123便事件、
第3位:311人工地震津波と原発爆破、
第3位:人工地震阪神大震災、
第4位:無理やり郵政民営化、
第5位:ハゲタカファンドによる金融詐欺(バブル崩壊、
アジア危機と経済支配)等々、
となっています。つまりJAL123便事件は堂々
第2位で、
人々を覚醒させるのに役立っているということになります。



しかしダントツの1位はなんといっても911事件。
よほどの石頭でない限り、
動画や証拠写真がしっかりそろっているので、
911事件は米政府の内部犯行と認めないわけにはいかないでしょう。
中には、
あれはわざと闇の権力者の中の造反者が奴隷人としてしか生きることを許されない一般人が気づくように仕組んだものだ、
という人もいるほど。



JAL123便事件は多くの人を覚醒させました。
日本を支配するエスタブリッシュメント達は世界を支配する闇の権力者達との闘いで核の使用も辞さないほど強い意志を持っている。
大の虫を活かすにのに小の虫を殺すことを厭わない。
現実は大変厳しいのだ、
ということを私たちに教えました。

17.
o17. ijn9266管理者

o2012年12月19日 23:23
o最近日本国内でもやっと、
中高生の若い人達がこの世界の真実に目覚めて来ています。
これは非常に喜ぶべきことです。
私は皆様の事を大変頼もしく、
また誇りに思います。

私の高校生時代を振り返るに、
生徒達は言うまでも無く、
先生でさえ完全にGHQが敷いた路線に乗って洗脳されていました。
私一人異論を唱え、
ケンカしていました。

それがどうでしょう。
今では闇の権力者について学習するサークルが学校内に出来てきている。
都内のあちこちで、
闇の権力者について学習する勉強会が立ち上がって来ている。
何という世の中の変わり様!

皆様のご両親は恐らく、
闇の権力者の存在に全く気付いていない方々が殆どでしょう。
でも親を馬鹿にしてはいけません。
あなたの今日あるのは親のお陰ですから。

多くの若い人達が真実に目覚める事により、
世界は必ず良くなる。
あなたたちは大きな仕事が待っている。
期待しています!

18.
o18. 伊藤清勝

o2013年02月12日 09:52
o 2012年11月発売、
河出書房新社
「墜落の村」
で上野村村長が
「事故直後ヘリとプロペラ機が旋回していたのに
(村民証言)
救助に当たらなかったことに今でも憤りをおぼえる」
村長は元ゼロ戦パイロットなので飛行機には詳しいらしい。
村長存命中に証言をとっておいてほしいものです。

19.
o19. 50代男

o2013年02月12日 12:45
o恥ずかしながらJAL123がこのような状況になっているとは全く知りませんでした。
マスコミ報道が正しいと思っていたからです。

でも9.11の真実や東日本大震災の人工地震説、
第二次大戦の真実などを知るにつけ、
すんなりと自分の中に入ってくる内容でした。

正しい情報を私も発信していきたいと思います。
ありがとうございました。

20.
o20. IJN9266管理者

o2013年02月13日 15:34
o残念ながら、
上野村元村長黒澤丈夫氏は、
既に2011年(平成23年)12月22日、
富岡市内の病院で肺炎のため97歳で他界されているとのこと。
TVの画面を見てすぐに、
墜落現場がスゲノ沢と分かったそうです。

一般国民は歴史の真実を何も知らされていないため、
現実に起こっていることが何も理解できない状態です。
世界を支配するとんでもない連中と、
食うか食われるかの戦いを続ける日本のエスタブリッシュメント達。
彼等に残された選択肢は核開発しかなく、
またその秘密を守るには自国民の命も奪わざるを得なかったのでしょうか。





JAL123便事件はまだまだ深い闇の中にあります。
この事件の闇にに光を当てて真実を暴き出すことこそ、
犠牲者の皆様の真の供養に通じると信じます。

21.
o21. 伊藤清勝

o2013年02月13日 18:13
o霊能者・田村氏の本の中に日航機墜落の記述がありましたのでお知らせします。 
長野県に宇宙研究所があり実際は秘密兵器の研究でそれを知られない為に撃ち落した。 
これは霊感で分かったのか、
また他の情報なのか本人に聞いてみたいものです。 
また上野村の寺には昔から520体の地蔵が昔からあったそうです。
村民は犠牲者の数を聞いて戦慄が走ったそうです。(本当かな) 

22.
o22. IJN9266管理者

o2013年02月13日 19:09
o情報、誠に有り難う御座います。

田村珠芳氏のその記述につきましては、
当方も存じ上げております。新日本の黒い霧のメンバーの皆様も現地に行ってそのことを調査しておられますが、
その秘密兵器と基地の存在を裏付ける証拠が数々挙がっております。

「天皇の金塊」
著者高橋五郎氏によれば、
第二次世界大戦当時の核兵器開発において、
京都大学の仁科博士の研究成果が、
博士の弟子ノーベル物理学賞受賞者湯川秀樹博士を通じてドイツに伝わったことで原爆が完成、
日本は当時既に今の北朝鮮の城津で原爆を完成し実験も成功裏に終わっていた、
とのことです。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

もう下を向きながら生きていくことに終止符を打ちたい

おはようございます。
ecarです。

今日は

【AL123便日航機墜落事故の5人目の生存者はどうなったのか。】

をお届けします。



AL123便日航機墜落事故の5人目の生存者はどうなったのか。
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100829-01-0901.html

美谷島邦子:罰を与えれば満足などということはあり得ません。
刑事訴訟も、
事故調も、
補償も、
すべてがきちんとなされて、
はじめて遺族は救われるのです。



現場から運ばれて来る、
粉々になった遺体…
部分遺体と呼ばれる、
その人の指の先だったりを見て、
親族は本人かどうであるかの確認を迫られたのです。

美谷島邦子さんと善昭さんは、
健くんを指で確認しました。
(2時間ドラマの放送)
http://cometiki.web.fc2.com/newpage103.htm

着ていた緑のシャツの切れ端、
チケットの切れ端、
そして右手、
それが家につれて帰った遺体の全てだった。

(美谷島邦子さんの基調講演)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/ninzin/story/osutaka.html



美谷島健くんの遺体は指でしか確認できなかった。
美谷島邦子さんと善昭さんは健くんの遺体を必死で探していた。



もしこの写真が美谷島健くんだとしたら、
例え遺体(ほとんど無傷であるが)であったとしても、
なぜ自衛隊は美谷島さんご家族にその健くんの遺体と対面させなかったのか。





これはもしかしたら美谷島健くんなのではないでしょうか。(当時9歳)



報道では健くんの遺体は見つからず運動靴だけが発見されたとの事。
この記事の、
カメラマンの写真を見ると確かに、
運動靴が片方脱げた状態で運ばれています。



髪の毛も写真からは短いように思われる。
(事故一ヶ月前の写真の髪の毛も短いようだ)



美谷島さんご家族はこの写真の存在をご存知なのでしょうか....。



是非となるべく多くの人に拡散させて下さい。
この一枚の写真が、
もしかしたら日本の闇を全て暴露する端緒になるかもしれません。



乗客名簿の中で10歳前後の男の子は10人もいない。
その中で片方の靴だけが発見されたのは美谷島健くんだけと思うのが自然。

乗員乗客名簿1
http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/meibo1.jpg

乗員乗客名簿2
http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/meibo2.jpg





両腕が下に垂れ下がらずにいるということは、
生きている証

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/329.html
985年8月12日の日航ジャンボ123便である。
 
http://www.youtube.com/user/123ja8119osutaka?feature=mhum#p/u/6/SS5LdOlWXRw
↑1985年8月13日午前11時ごろの写真である。

自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、自衛隊員によって運び出されている。
4人の生存者が出たスゲの沢付近にて撮影された写真である。
http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/2385.jpg  

1. 2010年10月22日 09:03:29: tyV2CB1VeA
 


いつも拝見させて頂いております。
これはもしかしたら美谷島健くんなのではないでしょうか。(当時9歳)
ご存知かとは思いますが、
お母様が遺族会のとりまとめをなさっていたと記憶します。
美谷島さんご家族はこの写真の存在をご存知なのでしょうか....。
例えお知らせしても辛い事実を知るのみで、
健くんの命は返ってこないにせよ、
ご家族は他の誰よりも真実を知る権利があると思うのです。
(なんとか伝える術はないでしょうか...)
報道では健くんの遺体は見つからず運動靴だけが発見されたとの事。
この記事の、
カメラマンの写真を見ると確かに、
運動靴が片方脱げた状態で運ばれています。



是非となるべく多くの人に拡散させて下さい。
この一枚の写真が、
もしかしたら日本の闇を全て暴露する端緒になるかもしれません。





02. 2010年10月22日 19:40:28: 0JIh0H4jtk
この写真を撮影したカメラマンと写真の中の自衛官は今も健在なのでしょうか。


03. GM 2010年10月22日 19:51:06: 5V73fogPrYxxM : t2sLGJSxmc
何故今までこの写真が出てこなかったのでしょう?
撮影者が危険な目に会う可能性があったのでしょうか?
現在米国の力が弱ったためでたのでしょうか?
信頼できる写真であればぜひご遺族の方に見ていただくことが必要と思われます。


04. 2010年10月22日 20:03:46: zULHRaeqH2
これ間違いなく死体ですよ。
当時「アサヒグラフ」臨時増刊号で、
生々しい事故現場写真と死体写真いっぱい見ましたが、
こうやって運ばれる子供の死体写真もありました。
すでに息切れてると思います。
>自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、
それはちょっと余りに深読みしすぎです。


05. 2010年10月22日 21:06:39: E1joLW87kf
>>04
そりゃどこまで行ってもあんたのただの決めつけでしょ。
わからん事を断定するもんじゃ無いですよ。



http://cometiki.web.fc2.com/newpage103.htm




特別企画モノで、
単発の2時間ドラマでありました。
物語の内容は、
20年前に墜落した、
日航機に乗り合わせ、
亡くなってしまった美谷島 健くん(当時9歳)の、
ご両親の話です。



邦子さんと善昭さんは、
警察官の静止を振り切り、
必死で現場までの山道を歩きました。
そして、
関係者として初めて現場入りしたのです。

その惨状たるや、
言葉にし尽くせないものでした。

二人は、
健くんの生存の希望を絶たれました。

しかし、
現実は更に厳しいものでした。
現場から運ばれて来る、
粉々になった遺体…
部分遺体と呼ばれる、
その人の指の先だったりを見て、
親族は本人かどうであるかの確認を迫られたのです。
邦子さんと善昭さんは、
健くんを指で確認しました。





http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/100804/dst1008040311000-n1.htm

御巣鷹山と生きて25年(中)美谷島邦子

 □日航機事故「8・12連絡会」事務局長



会の名前から「遺族」の文字削る
 
−−美谷島さんには強さを感じます
 
美谷島 
でも私は泣いてばかりいた。
たとえば、
事故から8カ月後の第1回の刑事告訴のとき、
記者会見で
「亡くなったお子さんの名前は」
と質問され、
健のことを思いだし
涙があふれてきて答えられず、
トイレに逃げ込んだ。
 


−−それでも事務局長として立派にやってきた
 
美谷島 
あの刑事告訴の後、
遺族みんなの気持ちを集めてがんばらなければならないと思い、
「8・12連絡会」
の事務局長としての立場ではもう泣くのはやめようと心に決めた。
それでも泣いてしまうのだけれども…(笑い)。
 
《昭和61年4月12日、
日航ジャンボ機墜落事故の遺族でつくる「8・12連絡会」は日航、
ボーイング社、
運輸省(現・国土交通省)の幹部を業務上過失致死傷罪などで告訴した。
告訴・告発は計5回、
計3万4138人が名を連ねた。
しかし群馬県警が書類送検した関係者も含め、
全員が不起訴処分となった》
 


−−「8・12連絡会」は事故から4カ月後に結成していますね
 
美谷島 
最初は会員が集まるだろうかと不安だったが、
結成のニュースが流れると、
問い合わせの電話が相次いだ。
結局、
遺族280家族が入会した。
しかし事務局を引き受けるメンバーが決まっても、
みな仕事を持っているので事務局の私の家で深夜の会合が続いた。
私も夫も38歳とまだ若かった。
 


−−結成のころの集会はどんな様子だったのですか
 
美谷島 
昭和60年12月7日の第1回の集会では、
15人が集まったが、
最初から最後まで涙をふいている人、
「死にたい」
と泣き伏す人…と、
みな苦しみと悔しさのどん底にいた。
しかし、
だれもがこのままではいけないと考えていた。
そんななか、
夫を亡くし、
独りぼっちになった女性が話し出した。
 


−−どう言ったんですか
 
美谷島 
彼女は
「事故後、
個人葬、
社葬、
合同葬と何度も喪服を着た。
その度に悲しみに打ちひしがれた姿を期待された。

でも、
もう下を向きながら生きていくことに終止符を打ちたい。
しっかりと前を向いて、

なぜ、
最愛の人が死ななければならなかったかを世に問いたい。
会の名前からは遺族の文字は削ってください」
と発言した。
 


−−この発言も感動しますが、
結成時から
「8・12連絡会」
を日航との補償交渉の窓口にしないと決めたことも素晴らしい
 
美谷島 
私の夫は損害保険会社に勤めていた。
交通事故などの賠償金をめぐる争いをつぶさに見てきた。
夫はそうした経験から会合で
「会が補償交渉の窓口になると、
金銭や家庭のトラブルに関与せざるを得なくなり、
結果的に遺族同士が傷つけ合い、
遺族の絆(きずな)を弱めかねない」
と発言し、
この意見が尊重された。
ただ、
補償交渉の方法や経過は会報「おすたか」
を通じて知らせ、
情報交換した。
 


−−絆が大切なのですね
 
美谷島 
遺族の思いを綴(つづ)った文集
「茜雲(あかねぐも)」
も発行している。
520人の肉親が事故機に乗り合わせて32分間の無念と苦痛のときをともに過ごした。
残された私たちは520人が一番言いたかったこと、
つまり事故原因を解明し、
同じ悲劇を繰り返さないよう再発防止を訴えていくこと。
それが最大の絆になると考えた。





•2010-10-22 :
•日航機123便墜落事故 :
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日航機墜落事故翌日の朝日新聞夕刊トップ記事は
「生存者8人」

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•2011-08-11 19:26 :
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No title

美谷島健くんの遺体は自身の座席番号が掛かれたワッペンと左手が発見されています。
指紋も照合したでしょう。
ご両親ももし不審な点があったら黙っていないでしょう。



よってこの写真は健くんではありません。
しかもどう見ても生きているとは言えないですね。
後部座席に搭乗していた乗客は、
損傷が少ない遺体で発見されています。
•2011-11-27 20:03 :
•URL :
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どうして生きていると言えないのでしょうか?
すでに生き耐えているならばあんな風に抱き抱えないと思います。
ご遺族の方が違うと判断されたならばあの男の子は誰なんでしょうか。
•2012-08-21 02:09 :
•URL :
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•2012-12-10 19:54 :
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•2012-12-10 20:00 :
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この男の子は吉崎充芳くん(9)だそうです。
生存者の吉崎母子の長男、
兄ですね。
死亡が確認されています。
吉崎母子が助かったことからも分かるように、
一家が乗っていた機体後部は墜落の衝撃で折れて尾根を滑り落ちたため損傷が少なく、
生存者の証言によると、
墜落後数時間は生きている人も少なくなかったようです。
なので、
遺体も綺麗な状態のものが多いのです。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ

おはようございます。
ecarです。

今日は

【大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?】

をお届けします。



生存者の証言 

−川上慶子さんの証言−

川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に寄るため羽田に戻り、
キャンセル待ちの後123便に搭乗した。
事故当時12歳。


−高崎国立病院での証言−

大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、
慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。
知っていることを話してね。
飛行機の音とかあったでしょ?





あのね、
北海道の帰りに、
千歳から東京まで飛行機で行ってね。
東京から大阪まで飛行機で、
大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、
それで乗ったの。



飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?



左後ろの壁、
上の天井の方がバリッといって、
それで穴が開いたの。
それと一緒に白い煙みたいなのが、
前から入ってきたの。



慶子ちゃんが一番最初気がついた時、
周りは暗かった?



暗かった。

真っ暗だった?

うん。

その時何も見えなかった?

見えなかった。

お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?

うん。
咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。
お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。

その時に何か思った?





うん。
お父ちゃんたち生きているかなとかね、
思った。

明るくなった時何か見たものある?

木とかね、
太陽が差し込んできた。
(私は)
寝転がってたみたいになってたから、
目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。
隣に何かタオルみたいなものが見えて、
触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。
左の手が届いたから、触ったの。

左手が届いたところにいたわけね?

うん。

ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?

出される時にね、
咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、
咲子たち大丈夫かなって思った。

助けられてから、
一番うれしかったことは?

知らない人やクラスの友達とかにね、
いろいろ励ましの手紙をもらったり、
いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。

ほかに何かみんなに言いたいことは?

いろいろ励ましてくれたので、
くじけずに頑張りたいと思います。



上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、
高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、
約5分間のテープが公開された。
質問は慶子さんの病状を考慮して、
ショックを与えそうな質問は避けられたが、
慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。
落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、
川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。




−付き添い関係者への証言1−

・事故が起きたのは羽田離陸後、
スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配 り始めたころ。

・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、
一・五メートル四方ぐらいの穴が 開いて、
プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、
機内は真っ白になった。





・墜落後、
隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。

・最初「大丈夫」と言っていた妹が
「痛い、痛い」
と泣き、
やがて声がしなくなった。

・母和子さん(39)は即死状態だった。

上記の証言は、
肉親や関係者に対しての証言。
8月18日までに解ったものである。




−付き添い関係者への証言2−

気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。
子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。
手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。
自分の体中を触ってみても、
みんな付いており、
「生きている」
と思った。



みんなはどうなったのかと思い、
叫ぶと父と咲子が返事した。
母は答えなかった。
「手や足を動かしてみ」
と言われて足をバタバタさせると、
靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。
足首がヌルヌルしていて
「血だな」
と思った。



父は私の右わきから下半身に乗っていた。
手足は動いても体は動かない。
「助けて」
と父に言うと、
「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。
助けてやりたいけど、
どうしようもないわなあ」
と言われた。
父が動くと、
おなかが死ぬほど苦しかった。

「お父ちゃん、
お父ちゃん、
苦しい、
苦しい。
すごく痛い」


と言っているうち、
父はそのまま動かなくなった。



咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。
死んでるわ。
お父ちゃんも死んでいる。」
と答えた。
左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。
その後、
咲子と二人でしゃべった。
咲子は
「苦しい、苦しい」
と言った。
「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」
と言うと妹の足の音がした。
妹はそれでも

「苦しい、
苦しい。
みんな助けに来てくれるのかなあ」


と言うので

「大丈夫、
大丈夫。
お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、
島根に帰ったら、
おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」


と答えた。





突然、
咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、
しゃべらなくなった。
一人になってしまったと思い。
その後、
朝まで意識が消えたり戻ったりした。



ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。
目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。
「生きているんやな」
と思った。
何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。
父のシャツのタオル地が見え、
腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。
そのとき、
父のだと思って触った手を、
上の方にたどると自分の右手だと分かった。



顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、
二度三度するうち部品がずり落ち、
顔とのすき間が狭くなった。
そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。
「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、
日ごろから言われていた言葉を思い出し、
頑張った。
人の気配がして
「生きている人は手や足を動かして」
と声がした。
足をバタバタさせると人が近寄って来た。
ボサボサの頭、
ショートパンツで勘違いされたらしく、
「男の子だ!」
と言われた。





8月23日までに解ったもの。
墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、
付き添い関係者にさらに詳細に証言している。
よくネットや書籍上で引用されているので、
一番有名な証言ではないだろうか。




−群馬県警・関係者への証言−

最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、
最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート
(乗員用座席)
の斜め上にある天井パネルが外れ、
一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、
との証言。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

美紀子が「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と声をかけて励ましてくれて

おはようございます。
ecarです。

今日は

【美紀子が「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と声をかけて励ましてくれて、それで助かることができました。】

をお届けします。



吉崎博子さんは家族4人で123便に搭乗し、
事故に遭った。
長女の美紀子さんとともに生還。
博子さんは事故当時35歳。
美紀子さんは8歳。





私は眠っていたが、
ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが降りてきた。 

乗客は次々とベルトを締めたが、
機の揺れが激しく、
ベルトによる胸部への圧迫から失神する乗客が続出した。
これを見ていた夫は自分の危険を顧みず、
ベルトをはずして立ち上がり、
スチュワーデスに失神者の救助を依頼。
自分も手近の失神乗客に声をかけたり、
酸素マスクをあてるなど、
精いっぱいの活動をした。
ゆかり(次女)は気分が悪く、
マスクをしながら、
「あげそう」と言った。 
ゴミ袋を当てると、
少しもどして、
まっ青で気を失った。
救命胴衣をして頭を両足の中に入れて」と放送があったが、
美紀子(長女)は救命胴衣をつけられなかった。





やがて、
飛行機は激しく揺れ出しました。
ジェットコースターにでも乗っているような感じで、
真っ逆様に落ちてゆきます。
窓の外の景色がどんどん変わりました。

物凄く恐いのですが、
スチュワーデスの方々が
「大丈夫ですから、大丈夫ですから」
と何度も言っていましたから、
どこか故障したので機体は不時着するのだ、
と思っていました。
絶対に無事に着くと思いました。
遺書を書くことなど、
思いもよらなかった。





夫も

「子供の前なのだから、
しっかりしろ、
うろたえるな。
落ち着くように」


と励ましてくれました。
また

「眼鏡をかけたままではケガをする」

と気付かってくれました。
 


機体は何回か、
ガタンと方向を下げてゆきます。
長い時間だったようにも思いますし、
短い時間のようにも思います。
そして激しい衝撃がありました。
私は、
それっきり、
気を失ったようです。



目が覚めたときは、
真暗闇でした。
静かで何の音もしません。
美紀子は

「痛い」

と唸っていたので生きているんだな、
と思いました。
夫の足が私の肩に乗っています。
ゆかりの姿は見えません。
充芳(長男)の姿も見えません。





遠くで

「お母さん」

という声が聞こえました。

間違いなく充芳の声なのですが、

私は声も出ず、
身動きもできぬ状態です。





やがて、

充芳の声は聞こえなくなりました。

あれが最後の声だったのでしょうか。



墜落後、
うとうとしかけると、
美紀子が
「ママ眠っちゃダメだよ。
死んでしまうよ」

と声をかけて励ましてくれて、

それで助かることができました。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

生存者の一人・落合由美さんの証言

おはようございます。
ecarです。

今日は

【生存者の一人・落合由美さんの証言】

をお届けします。
生存者の一人・落合由美さんの証言



離陸してすぐ、
私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。
女性や子供の姿が多く、
いつもの大阪便とはちがうな、
という印象はありました。
私の席の周囲にも、
若い女性の姿が目立った。
禁煙のサインはすぐに消えたのですが、
着席のサインが消えていたかどうか、
はっきりしません。





そろそろ水平飛行に移るかなというとき、

「パ−ン」

という、
かなり大きい音がしました。
テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。
「バーン」
ではなくて、
高めの
「パーン」です。
急減圧がなくても,
耳を押さえたくなるような、
すごく響く音。
前ぶれのような異常は、
まったく何も感じませんでした。

 


音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、
そこだけでなく全体的に広がったように思います。
私は思わず天井を見上げました。
しかし、
振動はまったく感じませんでした。
機体も揺れなかった。


 

お客様からは、
「うわっ」という声がした。
女の人だと、
「きゃっ」という、
一瞬、
喉に詰まったような声。
騒がしくなるとか、
悲鳴があがるということはありませんでした。
耳は,
痛くなるほどではなく、
ツンと詰まった感じでした。
ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。
しかし、
それもすぐに直りました。

 

「パーン」という音とほとんど同時に、
酸素マスクが自動的に落ちてきた。
ジャンボの場合、
席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、
私の座っていた「56」の二席には三つありました。
それが機内にいっせいに落ちてきたときは、
マスクが、
わんわんわん、
とバウンドするような感じでした。
ひっぱると、
酸素が流れだして、
口もとの袋がふくらむ。
酸素が出てこないのもあったけれど、
足りないということはありません。

 

ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。
マスクをつけてください。」
と日本語と英語で流れました。
マスクのつけ方は、
となり同士教えあって、
あんがいスムーズにつけていました。

 

ベルトについての指示はなかった。
お客様はまだベルトをしたままでした。
煙草をすぐ消すように、
という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、
禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。あとで気がつくと、
離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。

 

しかし、
緊急降下中といっても、
体に感じるような急激な降下はありませんでした。
急減圧のとき、
酸素マスクがおちてくることは、
もちろん知っていました。
急減圧は何かがぶつかったり、
衝撃があって、
機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、
そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、
しかし、
何が起きたのか想像もつきませんでした。
酸素マスクが落ちてくる光景は、
訓練では見ていますが,実際に経験するのは、
もちろんこれがはじめてでした。

 
やはり
「パーン」という音と同時に、
白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、
前の方が、
うっすらとしか見えないほどです。

 

私の席のすぐ前は、
それほど濃くはなかったのですが、
もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。
ふと見ると、
前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、
その姿がボヤ−ッと見えるだけでした。

 

その霧のようなものは、
数秒で消えました。
酸素マスクをして、
ぱっと見たときには、
もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。
すっと消えた、という感じだったのです。

 

匂いはありませんでした。
こうした白い霧というか、
靄のようなものが出るのは、
急減圧の場合の現象だ、
ということも、
もちろん訓練のときに教わっていたことでした。
はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、
しばらくして、
お客様のマスクを直したりして、
まわっていました。
そのときは、
エキストラ・マスクをひぱって、
口にあてていました。
マスクのチューブは伸ばすと、
けっこう伸びます。
三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、
まわっていたようでした。

 

このときも、
荷物などが飛ぶということもなく、
機体の揺れはほとんど感じませんでした。
しかし、
何が起きたのだろうと、
私は酸素マスクをしながら、
きょろきょろあたりを見まわしていました。

 

あとになって、
8月14日に公表されたいわゆる
『落合証言』では、
客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、
とありますが、
私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。
ですから、
開いたのかどうか、
私は確認できませんでした。 
きょろきょろしていたとき、
私は、
トイレの上の横長の壁がほとんど全部、
はずれていることに気がつきました。
トイレのドアはしまっていましたが、
その上の壁がすっぽりはずれて、
屋根裏部屋のような感じで見えたのです。
壁はちぎれたとか、
破壊された、
というふうではなく、
継目が外れたと言う感じでした。
壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。

 

そして、
壁のはずれた向こう側に、
運動会で使うテントの生地のようなものが、
ひらひらしているのが見えました。
オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。
ぴんと張ったのでもなく、
ヒダの多いカーテンのようでもなく、
一枚の布を垂らしたような感じでした。
これもあとで整備の人に聞いたのですが、
裏のほうには、
そういう布があるのだそうです。
それが破れたというふうではなく、
風にあおられたように、
ひらひらしていたのです。
 
そこから機体の外が見えたとか、
青空がのぞいた、ということはありませんでした。

 

もひとつ、
私の頭上の少し前の天井に、
整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、
蓋がついているのですが、
その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。
壊れたのではなくて、
何かのはずみで開いたという感じです。
内部は暗く、
何も見えませんでした。
ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。

 

このときにはお客様は全員、
酸素マスクをつけていましたから、
しゃべったりはしませんでした。
酸素マスクをして、
呼吸するのに懸命で、
とても会話どころではなっかたのかもしれません。
でも、
とても不安そうにして、
きょろきょろしたり、
窓の外を見たりしていました。
赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、
覚えていません。

 

いつ点灯したのか気付きませんでしたが、
「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。
座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、
記憶にありません。
ライトをつけていて人がいたかどうかも、
覚えていないのです。
時間的にはそろそろ暗くなるときですから、
つけていてもおかしくないのですが、
気がつきませんでした。

 

こうしているあいだも、
飛行機が降下している感じは、
ほとんどありませんでした。
ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、
酸素マスクをして、
しばらくしてからです。

 

「パーン」という音から、
たぶん10分くらいしてからのように思います。
このころになって、
酸素マスクをはずしてみても、
苦しさは感じませんでした。
ただ、
ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。

 

ダッチロールという言葉は、
知りませんでした。
飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。
振動などは全然ありません。
とにかく、
くり返し、
左右に傾いているという揺れ方がつづきました。
急な動きとか、
ガタガタ揺れるというのでもなく、
スローです。
だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 

私の席に近い左の窓から見えたのは、
まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、
地上は見えませんでした。
 
お客様は窓の外を眺めたり、
なかにはスチュワーデスに
「大丈夫か」とたずねる方もいました。
機内の様子は、
あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、
この段階では、
まだ何とかなるんじゃないか、
という気持ちがあったように思います。
ただ、
コックピットからの連絡は何もなくて、
みんな不安な表情ではあったのです。





そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、
私がフライトをしていたとき、お客様から、
酸素マスクは何分くらいもつのか、
とたずねられたことがありました。
全員が吸った場合、
18分くらい、
と計算したことがあります。
そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。
でも、
ほとんどのお客様は、
そのままマスクをしていました。

 

ちょうどそのころになって、
私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、
まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、
つけてください」という指示を出しました。
その指示がどこからきたのか、
わかりません。
ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、
急な場合は、
乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、
今度の場合は、
それはありませんでした。
ライフ・ベストをつけるように、
という指示は、
機内アナウンスではなく、
スチュワーデスの口頭で行っていました。
まず、
スチュワーデスが着用して、
このようにつけるんです、
と教えながら、
座席をまわることになっています。
今度も、
そうしていました。

 

前のほうでも、
いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。
スチュワーデスは口頭で、
座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,
救命胴衣をつけてください、
と言いながらまわりはじめました。
私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。

 

私は羽田にもどれればいいな、
と感じていました。
しかし、
まだ雲の上で、
高度も高いし、
ちょっと無理なんじゃないかな、
とだんだん不安になってきました。
 
しかし、
ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、
わっかても、
ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。
私の近くにも、
ベストの場所がわからなくて、
取り乱している若い女性のたちがいました。
そのときになって私は、
席を立って、
お客様のお手伝いをはじめたのです。
お客様はこのときはじめて、
座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 

私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが
「スチュワーデスの方ですか」と、
声をかけました。
私は
「はい、そうです」と答えて、
Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。
とても冷静な方でした。
ご自分のをつけ終わると、
座席から手を伸ばして、
前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。

 

私は通路に出て、
L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。
彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、
私は、
前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。

 

しかし、
このころになると、
機体の揺れは、
じっと立っていられないほどでした。
激しい揺れ、
というのではなくて、
前と同じように、
左右に傾く揺れなのですが、
その角度が大きくなって、
座席につかまって二、
三歩、
歩いて、
お客様の座席の下のベストをひっぱて、
ちょっと座って、
また二、
三歩という感じでした。
まっすぐ歩いて、
あたりを見てまわる、
ということはもうできません。

 

救命胴衣は飛行機が着水して、
外に脱出してからふくらませることになっています。
機内でふくらませてしまうと、
体を前に曲げて、
膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。
しかし、
私の席の周囲では、
ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。
男の人ばかりです。
 


こういう場面になると、
女の人のほうが冷静なようです。
泣きそうになっているのは男性でした。
これはとても印象深かったことです。
ベストをふくらませてしまった若い男性が
「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、
ふくらませてしまったのは仕方ないですから、
そのままでいいですと、
安全姿勢をとっていただきました。
ひとりの方がふくらませると、
そのとなりのお客様もふくらませてしまう。
他のスチュワーデスも私も、
それに私のとなりのKさんも、
「ふくらませないで!」と叫びました。

 

機内にはまだいくらかの空席がありました。
ひとりだけポツンと座っている人は、
不安になったんだと思います。
救命胴衣をつけているあいだに、
席を詰めて、
固まるようになりました。
 
私は何も聞かれませんでしたが、
制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されえいました。
「どうなるんだ」
「大丈夫か」
「助かるのか」。
聞いていたのは男の方ばかりでした。
家族連れの女性は、
男の方が一緒だったせいでしょうか、
そういう場合でも、
男の人がいろいろ質問していました。

 

スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、
できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、
「絶対大丈夫です。
私たちはそれなりの訓練も受けています。
絶対大丈夫です。」
と答えていました。
そのせいもあって、
客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。
ただ、
笑顔はもうなく、
彼女たちの顔も緊張していたのですが。
赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、
このときにはもう、
それを取りだす余裕はなく、
大人用のベストをつけたと思います。

 

子供の声が聞こえました。
「おかあさーん」という声。
大きくはなかったのですが、
短い叫びのような声でした。
大人のお客様は叫んだり、
悲鳴をあげたりすることはありませんでした。
声も出なかったのかもしれません。
不安と緊張の機内でした。

 

全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。
つけ終わっ方は、
となりの方を手伝ったりしていました。
救命胴衣をつけているあいだに、
スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。
正確には覚えていませんが、
「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。
それと、
「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。
私の想像では、
二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、
様子を聞いてきたのではないかと思います。
落着いた声でした。





揺れはいっそう大きくなりました。
もう立っていることはできないほどです。
救命胴衣をつけ終わってすぐに、
ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
そのときには、
眼鏡をはずしたり、
先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、
上着があれば、
衝撃の際の保護になるように着用してください、
と指示するのですが、
そんな時間的余裕はありませんでした。

 

私は「56C」にもどりました。
L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。
安全姿勢は、
頭を下げ、
膝の中に入れて、
足首をつかむんです。
うしろのスチュワーデスも私も、
席に座って大声で何度も言いました。
「足首をつかんで、
頭を膝の中に入れる!」
「全身緊張!」。
全身を緊張させるのは、
衝撃にそなえるためです。こういうときは、
「・・・してください」とは言いません。
 
お相撲さんや、
妊娠してお腹の大きい女性の場合、
腰をかがめるのは苦痛ですから、
逆に背中を伸ばして、
脚でしっかり床を踏み、
椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、
このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。

 

安全姿勢をとる直前、
私はとなりのKさんに言いました。
「緊急着陸して、
私がもし動けなかったら、
うしろのL5のドアを開けて、
お客様をにがしてやってください」と。
Kさんは
「任せておいてください」と、
とても冷静な声で言いました。
Kさんと言葉をかわしたのは、
これが最後です。

 

そして、
そのとき、
窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。
とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、
もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、
白い雲がかかっていました。
左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、
私は安全姿勢をとって、
頭を下げたのです。

 

頭を下げながら機内をちらっと見ると、
たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、
ピーンと下にひっぱられているのが見えました。
マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。
安全姿勢をとった座席のなかで、
体が大きく揺さぶられるのを感じました。
船の揺れなどというものではありません。
ものすごい揺れです。
しかし、
上下の振動はありませんでした。
前の席のほうで、
いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
聞こえたのは、
それだけです。

 

そして、
すぐに急降下がはじまったのです。
まったくの急降下です。
まっさかさまです。
髪の毛が逆立つくらいの感じです。
頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
ほんとうはそんなふにはなっていないのでしょうが、
そうなっていると感じるほどでした。

 

怖いです。
怖かったです。
思いださせないでください、
もう。
思いだしたくない恐怖です。
お客様はもう声もでなかった。
私も、
これはもう死ぬ、
と思った。
まっすぐ落ちていきました。
振動はありません。
窓なんか、
とても見る余裕はありません。
いつぶつかるかわからない。
安全姿勢をとりつつ”けるしかけるしかない。
汗をかいたかどうかも思いだせません。
座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、
わかりません。
体全体がかたく緊張して、
きっと目をつむっていたんだと思います。
「パーン」から墜落まで、
32分間だったといいます。
でも、
長い時間でした。
何時間にも感じる長さです。
羽田にもどります、
というアナウンスがないかな、
とずっと待っていました。
そういうアナウンスがあれば、
操縦できるのだし、
空港との連絡もとれているのだから、
もう大丈夫だって。でも、
なかった。
 
衝撃がありました。

 

衝撃は一度感じただけです。
いっぺんにいろんなことが起きた、
という印象しか残っていません。
回転したという感じはありません。
投げだされたような感じです。
衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、
私はもう怖くて、
顔をあげた。
その途端、
顔にいろんなものがぶつかってきました。
固いもの、
砂のようなものがいっぺんに、
です。
音は、
まったく記憶にありません。
音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。

 

衝撃が終わったあとは、
わーっと埃が舞っているようでした。
目の前は、
もやーっとしているだけです。
墜落だ、
と思いました。
大変な事故を起こしたんだな、
と思ったのは、
このときでした。

 

すごく臭かった。
機械の匂いです。
油っぽいというより、
機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。
 
体は、
ちょうど座席に座っているような姿勢です。
左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、
動かせません。
足裏は何かに触っていました。
それほどの痛みはなく、
もうぐったりしているという感じです。

 

目には砂がいっぱい入っていて、
とくに左の目が飛び出してしまったように、
とても熱く感じました。
失明するだろうな、
と思っていました。
これはあとで知らされたのですが、
左右どちらかわかりませんが、
コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、
なくなっていました。
すぐに目の前に何かあるんですが、
ぼやーっとしか見えません。
灰色っぽい、
夕方の感じなのです。
耳にも砂が入っていたので、
周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。

 

呼吸は苦しいというよりも、
ただ、
はあはあ、とするだけです。
死んでいく直前なのだ、
とぼんやり思っていました。
ぐったりして、
そのとき考えたのは、
早く楽になりたいな、
ということです。
死んだほうがましだな、
思って、
私は舌を強く噛みました。
苦しみたくない、という一心でした。
しかし、
痛くて、
強くは噛めないのです。

 

墜落の直後に、
「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。
ひとりではなく、
何人もの息遣いです。
そこらじゅうから聞こえてきました。
まわりの全体からです。
 
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
 
次に気がついたときは、
あたりはもう暗くなっていました。
どのくらい時間がたったのか、
わかりません。
すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。
私は座ったまま、
いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。
左の顔と頬のあたりに、
たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、
寄りかかるように触っているのを感じました。
すでに息はしていません。
冷たくなっていました。

 

シート・ベルトはしたままだったので、
それがだんだんくいこんできて、
苦しかった。
右手を使って、
ベルトをはずしました。
動かせたのは右手でけです。
頭の上の隙間は、
右手が自由に出せる程度でしたから、
そんなに小さくはなかったと思います。
右手を顔の前に伸ばして、
何か固いものがあったたので、
どかそうと思って、
押してみたのですが、
動く気配もありません。
それを避けて、
さらに手を伸ばしたら、
やはり椅子にならぶようにして、
三人くらいの方の頭に触れました。
パーマをかけた長めの髪でしたから、
女性だったのでしょう。
冷たくなっている感じでしたが、
怖さは全然ありません。

 

どこからか、
若い女の人の声で、
「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。
あたりには荒い息遣いで
「はあはあ」といっているのがわかりました。
まだ何人もの息遣いです。

 

それからまた、
どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。
意識がときどき薄れたようになるのです。
寒くはありません。
体はむしろ熱く感じていました。
私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、
冷たい空気にあたりました。

 

突然、
男の子の声がしました。
「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、
男の子は言いました。
学校へあがったかどうかの男の子の声で、
それははっきり聞こえました。
しかし、
さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、
判断はつきません。
 
私はただぐったりしたまま、
荒い息遣いや、
どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。
もう機械の匂いはしません。
私自身が出血している感じもなかったし、
血の匂いも感じませんでした。
吐いたりもしませんでした。


 

やがて真暗ななかに、
ヘリコプターの音が聞こえました。
あかりは見えないのですが、
音ははっきり聞こえていました。そ
れもすぐ近くです。
これで、
助かる、
と私は夢中で右手を伸ばし、
振りました。
けれど、
ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。
帰っちゃいやって、
一生懸命振りました。
「助けて」「だれか来て」と、
声も出したと思います。
ああ、
帰って行く・・・・・。
 
このときもまだ、
何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
しかし、
男の子や若い女の人の声は、
もう聞こえてはいませんでした。




 
体は熱く、
また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、
真暗ななかで、
私はぼんやり考えていました。
私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、
などと。
父のことも考えました。
母親が三年前に亡くなっているのですが、
そのあとで私が死んだら、
とても不幸だ、
と。
母は私がスチュワーデスになったとき、
「もしものことがあったときは、
スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。
そんなこと、
あなたに勤まるの?」と、
いくらかあきれた口調で言っていたものです。
それからまた、
どうして墜落したんだろう、ということも考えました。
時間がもう一度もどってくれないかなあ、
そうすれば今度は失敗しないで、
もっとうまくできるのに。
いろんなことが次々と頭に浮かびました。

 

涙は出ません。
全然流しませんでした。
墜落のあのすごい感じは、
もうだれにもさせたくないな。
そんなことも考えていました。
そして、
また意識が薄れていきました。

 

気がつくと、
あたりはあかるかった。
物音は何も聞こえません。
まったく静かになっていました。
生きているのは私だけかな、
と思いました。
でも、
声を出してみたんです。
「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。
返事はありません。
「はあはあ」いう荒い息遣いも、
もう聞こえませんでした。
 
あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、
このときにはその気配を感じませんでした。
たぶん、
それから私は眠ったのだと思います。

 

風をすごく感じたのです。
木の屑やワラのようなものが、
バーッと飛んできて、
顔にあたるのを感じました。
はっと気がついたら、
ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。
何も見えません。
でも、
あかるい光が目の前にあふれていました。
朝の光ではなくて、
もっとあかるい光です。
 
すぐ近くで
「手を振ってくれ」だったか
「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。
だれかを救出している声なのか、
呼びかけている声なのか、
わかりません。
私は右手を伸ばして、
振りました。
「もういい、もういい」
「すぐ行くから」と言われました。

 

そのすぐあとで、
私は意識を失ったようです。
朦朧としながら、
ああ、
助かったな、
助かったんだ、
とぼんやり考えていました。
どうやって埋まったなかから救出されたのか、
どうやって運ばれたのか、
まったく覚えていません。
 
体の痛みも、
空腹も感じませんでした。
ただ、
喉が渇いたのを覚えています。
カラカラでした。
お水が飲みたい、
お水が飲みたい、
と言っていたというのですが、
私は記憶していないのです。
応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、
あとで
「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、
あげられなかったのよ」
といわれましたが、
水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

 

目を開けたら、
病院でした。
お医者さんから
「ここはどこだか、わかりますか」
と聞かれて、
奇妙な返事をしました。
「はい、二、三回きたことがあります」
って。
そんな馬鹿な、
と自分では思っているのですが、
わかっていながら、
そんなふうに答えていました。
頭がおかしいんです。
でも、
電話番号は正確に答えていました。
「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。
どうして群馬県にいるんだろう、
と思いました。
それで、
あ、
あのとき飛行機が落ちて、
そこからきっと群馬県が近いんだな、
とだんだん考えるようになりました。

 

家族がきていると教えられたとき、
えーっ、
と思いました。
飛行機がおちたことはわかっているのですが、
どうしてここまで家族がきているのだろうと、
不思議で仕方ありませんでした。
現実感がなかなかとりもどせないのです。
 
たぶん、
このときだったと思いますが、
「何人助かったんですか」
と聞きました。
お医者さんが「四人だよ。
全部女の人ばかり」と教えてくさいました。
それしか助からなかったんですか、
と思いながら、
「へえーっ」と言いました。
大変な事故を起こしてしまったんだと、
また感じました。




 
天井しか見えませんでした。
酸素マスクをして、
じっと天井を見ながら、
一緒に千歳からもどってきて、
同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、
と考えました。
私もほんとうはもう助からなくて、
死んでいくところなんだ、
などとも考えていました。
百幾針も縫ったのに、
痛みは感じません。
麻酔をしていたせいだと思いますが、
でも、
あとで看護婦さんに聞くと、
「痛い、痛い」と言っていたようです。

 

救出された日の午後3時過ぎ、
夫と父と叔父が病室に入ってきました。
私は
「四人しか・・・・・・」と口にしたのですが、
夫はすぐに「しゃべらなくていいから」
といいました



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

2014年08月14日

スイス列車脱線 日本人5人が重軽傷

おはようございます。
ecarです。

今日は

【スイス列車脱線 日本人5人が重軽傷】

をお届けします。



スイス列車脱線:日本人5人が重軽傷 地滑りに巻き込まれ

スイス南東部グラウビュンデン州ミシュタルで13日発生した地滑りによる列車事故で、
日本人5人が重軽傷を負ったことが明らかになった。

1人は腰に重傷を負っており、
骨折しているか確認するため入院中。


意識はあり命に別条はない。
他の4人は打撲などの軽傷。
 


在スイス日本大使館によると、
負傷した日本人は横浜市在住の70歳代の男性と60歳代の妻
オランダ在住の30歳代の夫婦と男児(4)。
横浜市の70歳代の男性が重傷で、
付き添いの妻とともに病院にいる。
他の3人は既に退院した。
 


5人は、
谷に転落、
樹木に止められて谷の斜面にとどまった1等車両に乗っていた。
 


修正された警察発表によると、
13日午後0時半(日本時間同7時半)ごろ、
乗客約140人を乗せたレーティシュ鉄道の急行列車
(駆動車1両、客車7両)が地滑りに巻き込まれ、
駆動車の後の3両が脱線。
一番前の1等車が谷の斜面に約10メートル落ちて樹木に止められた。
11人が負傷し、
うち5人が重傷。
重傷者は日本人1人のほかはスイス人4人。
 


現場は、
車中からのスイス・アルプスの景観が美しいことから
世界遺産に登録されているレーティシュ鉄道アルブラ線の途中で、
クールの南約20キロの山中。
この路線には観光客に人気の
「氷河特急」
も走っている。
 


警察は、
7月の雨量が平均より多かったうえに、
事故前も大雨が降り、
地盤が緩んでいたのが地滑りの原因とみている。


鉄道で行ける欧州最高地点
「ユングフラウヨッホ駅」(標高3454メートル)
で知られるスイスの私鉄ユングフラウ鉄道グループなどが、
登山鉄道と並走する高速リフト建設を主軸とするアルプス再開発計画を進めている。
「少しでも早く目的地を訪ねたい」
と望む中国などからのツアー客の要望に応えるとともに、
冬季のレジャー客増にもつなげる狙いだ。
一方で開発に反対する声も出ており、
地元は選択を迫られている。
 


6月の抜けるような青空に雪に覆われた山々が映え、
切り立った崖から数百メートルの落差を滝が流れ落ちる。
絵はがきのままののどかな放牧地を、
緑と黄色の車体の登山電車がゆっくりと走る。
車内の歓声には英語や中国語、
韓国語が入り交じり国際色豊かだ。
高速リフトはこの鉄道に並走するように計画されている。
 


「1912年の開業以来最大のプロジェクトだ」。
同鉄道のマーケティングを担当するステファン・フィスターさんは
完成図を示しながら胸を張る。高速リフトはふもとのグリンデルワルトのターミナルから、
景勝地クライネシャイデック駅を越え、
アイガーグレッチャーまで乗客を運ぶ。
名称は「アイガーエクスプレス」だ。
 


再開発計画には、
グリンデルワルトからメンリッヒェンを結ぶ既存リフト
「GGM線」
の全面改修も含まれ、
総事業費は2億9000万スイスフラン(約330億円)を見込む。



旅行者ニーズに対応
 
グリンデルワルトから最高峰ユングフラウヨッホ駅まで
登山鉄道では1時間27分かかるが、
途中でアイガーエクスプレスを使えばわずか45分に短縮される。
フィスターさんは
「数日間で欧州各国を回るため
『何でも早く』
という中国人ら団体客のニーズを満たせる」
と説明する。
 


アジア市場の開拓に力を入れるユングフラウ鉄道は、
中国、
韓国、
日本などに専属スタッフを置く。
中国人観光客の増加は爆発的で、
2010年には約3万8000人だったが、
13年には14万人に達し、
日本を抜いて国別で1位となった。
 


地元自治体などは、
再開発によるスキー客の増加にも期待を寄せる。
夏は世界中からの観光客でにぎわう地区も、
冬は隣国イタリアやフランスなどとのスキー客の誘致合戦で苦戦しており、
地元首長らは巻き返しを図るために計画を支持している。
 




景観破壊の懸念も
 
一方、
高速リフトの建設計画を疑問視する声もある。
首都ベルンにあるアルプスの環境保全団体のカタリナ・コンラーディンさん(33)は
「旅行にスピードを求めるツアー客の役にはたっても、
素通りされる地元に経済効果はない」
と指摘。

計画が

(1)景観を損なう
(2)欧州からの客が求める本物志向の旅にはそぐわない
(3)将来的にリフトと登山鉄道が競合する−−などと主張している。


再開発の対象地域でも反対の動きがある。
ホテル業の男性は毎日新聞の取材に
「後世のためにも、世界に誇る美しい景観を守るべきだ」
と訴えた。
 


発着駅が置かれるグリンデルワルト村では今年10月、
再開発の賛否を問う住民投票が予定される。
計画が承認されればリフトは16年に開業する。
景観と伝統の山岳鉄道観光を守るのか、
観光地としての競争力を高めるのか。
多くの日本人を魅了してきたスイスアルプスの名所が岐路に立っている。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

御殿場代表キャラ決定戦

おはようございます。
ecarです。

今日は

【御殿場代表キャラ決定戦】

をお届けします。



じゅくうちゃん、
ごてんばこめこ、
ミクリン 
御殿場代表キャラ決定戦
御殿場市代表の座を懸けてアピールするミクリン、ごてんばこめこ、じゅくうちゃん=JR御殿場駅
 
全国のゆるキャラの人気ナンバーワンを決める
「ゆるキャラグランプリ2014」
に向け、

御殿場市は21日まで、
同市代表として本戦に出場するゆるキャラを決める
「代表決定戦」
を行っている。


市ホームページの他、
市役所、
市体育館などの公共施設10カ所で投票を受け付けている。
 


代表決定戦には、
観光施設「富士山樹空の森」をPRする未来型妖精
「じゅくうちゃん」、
特産品
「ごてんばこしひかり」
と富士山をイメージした食育推進キャラクター
「ごてんばこめこ」、
みくりや地方(御殿場)に暮らす伝説の犬で
「『御殿場みくりやそば』あなたのそばで振舞隊」
のゆるキャラ
「ミクリン」
が参戦している。
 


JR御殿場駅では13日、
代表の座を懸けて各ゆるキャラが市民や観光客にそれぞれの
チャームポイントや誕生の由来などを懸命にアピールした。
インターネット投票の中間発表も行われ、
1位は
「ごてんばこめこ」
の374票、
2位は
「ミクリン」
の271票、
3位は「じゅくうちゃん」
の100票だった。
 




市の担当者は「昨年のゆるキャラグランプリには
『ごてんばこめこ』と
『じゅくうちゃん』が出場したが、
票が割れてしまい低迷した。
今年は1体に絞り込んで、
上位進出を目指したい」
と話した。






東日本大震災で被災した宮城県と福島県の小学生が
御殿場市を中心とした本県の小学生と共に、
富士登山に挑戦した。
子どもたちは過酷な道のりを互いに励まし合いながら登り、
全員で登頂を果たした。
 


同市の国立中央青少年交流の家が4〜10日に実施したサマーキャンプの一環。
「挑戦〜未来に向かって一歩踏み出そう〜」のスローガンの下、
震災で甚大な津波被害を受けた宮城県南三陸町や福島県内の小学5、6年生35人と、
本県の小学生10人が参加した。
 


一行は7日、富士山富士宮口、
須走口の両5合目から2グループに分かれて山頂を目指し、
山小屋泊を経て8日早朝に登頂した。
山頂では、
参加者が
「あきらめない」
「今を大切に」
などと寄せ書きした横断幕を掲げ、
喜びを分かち合った。
 


宮城、
福島両県の子どもたちは
「仲間がいたから頑張れた」
「お互いに心を一つにして励まし合った」
とたくましい表情で語り、
富士山頂からの眺めを目に焼き付けた。





芙蓉の人

いま、
NHKの土曜ドラマで連載中の[芙蓉の人]という小説を読みました。
主人公の野中到もすごいが妻・千代子の献身と愛情も凄まじい。

さて、
文庫本の著者紹介に次のように記載されていました。
この作家は誰でしょうか?
山の本をたくさん書いている作家です。
明治45年(1912)年長野県生まれ。

本名・藤原寛人。
無線電信講習所〔現在電気通信大学〕卒業。
昭和31〔1956〕年[強力伝]にて第34回直木賞受賞。
41年永年勤続した気象庁を退職。
49年[武田信玄]などの作品により第8回吉川英治文学賞受賞。
55年2月没



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

谷川岳の登山・山登りの情報一覧

おはようございます。
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今日は

【谷川岳の登山・山登りの情報一覧】

をお届けします。





芙蓉の人

いま、
NHKの土曜ドラマで連載中の[芙蓉の人]という小説を読みました。
主人公の野中到もすごいが妻・千代子の献身と愛情も凄まじい。
さて、
文庫本の著者紹介に次のように記載されていました。
この作家は誰でしょうか?
山の本をたくさん書いている作家です。
明治45年(1912)年長野県生まれ。
本名・藤原寛人。
無線電信講習所〔現在電気通信大学〕卒業。
昭和31〔1956〕年[強力伝]にて第34回直木賞受賞。
41年永年勤続した気象庁を退職。
49年[武田信玄]などの作品により第8回吉川英治文学賞受賞。
55年2月没

谷川岳の登山・山登りの情報一覧ページとなります。
谷川岳の登山をした理由や詳細情報や初心者へのアドバイスなどをご紹介させて頂いております。
谷川岳の情報以外にも多くの山や登山、
登山道、ルートなどの情報も満載です。
登山中に注意する点や山周辺のおすすめポイント、
初めて、
その山の登山を行う初心者へのコメントなどの情報が満載!
谷川岳の情報は随時追加されます。





この山に登山をした理由

谷川岳といえば、
高山山頂の美しさが有名です。
実は、
自分が谷川岳に登山を行ったのは一度ではなく、
今までに数回登山を行っています。

谷川岳は山頂付近に肩ノ小屋というところがあるのですが、
その小屋を過ぎたあたりに植物の宝庫になっているところがあります。


これら山々の雄大な自然の魅力に取り付かれてしまい、
それから綺麗な景色が頭から離れずに、
再度谷川岳へ登山を行うことにしました。



1:登山した山の基本情報

山名:谷川岳
標高:1977m
住所:新潟県南魚沼郡湯沢町土樽 谷川岳
アクセス:上越新幹線「上毛高原駅」下車ロープウェイ 行きバス
登山道ルート:谷川岳山頂登山コース
登山道入り口駐車場:あり
レベル:中級
山小屋有無:あり
おススメの時期:春、夏、秋



2:登山に必要な装備・服装

春:動きのとりやすい軽装
夏:動きのとりやすい軽装、通気性のいい服装
秋:動きのとりやすい服装
冬:保温性の高い服装、動きやすい服装
※ 帽子は忘れずに、
荷物の中身は軽いものと最低限のもののみ、
水除けの生地のズボンであれば好ましい





3:登山中に注意する点

谷川岳は、
土合口駅や天神平駅から、
登山ルートに入っていくので、
峠を数時間歩いて山頂に行くことになっています。
ほかの山よりも特殊な道のりになっているので、
ある程度登山に慣れている人でなければ、
谷川岳の登山を行うことは難しくなっていくでしょう。
草木が多く、
湿気の多い時期なら水分に悩まされることも多くなっていくので、
水除けの服で登山を行うことが好ましいです。



4:山頂までのおすすめ、見どころポイント

谷側だけのオススメのポイントは、
登山ルートの途中にもなっている、
トマト耳やオキノ耳への屋根になります。
ここは先述のように植物のほうこのようになっていて、
今までに見たことのない草木を見ることが可能になっています。
それから、
谷川岳の山頂からは、
360度にわたって大きなパノラマが広がっていて、
一度この景色を見ることができたら、
一生忘れることのできない思い出になると思います。
谷川岳に登山を行ったら、
是非山頂まで登山を行ってほしいです。



5:山周辺のおすすめポイント

谷川岳のふもとには、
てんじんという名前のレストランがあります。
本当に広々としていて、
それから大きな窓が一面にあって、
山の景色を楽しみながらおいしい山の料理を楽しむことが可能になっています。





6:登山した山の感想・レビュー

谷川岳に登山を行うことは、
数回目になるのですが、
登山を行うたびにその美しい景色に魅了されています。
一番の魅力はもちろん山頂から見える絶景ですが、
そのほかにもトマト耳にある植物の数々が印象的でした。



7:初めて、その山の登山を行う初心者へのコメント

谷川岳は、
そのほかの山とは少し違っていて、
登山ルートに相違点がありますので、
案内をしてくれる人の言うことをしっかり聞いて、
頭に入れてから登山を行ってほしいと思います。
谷川岳は上記のこともあって、
決して登山初心者の山に放っていませんので、
ある程度の登山の経験をしてから谷川岳に登山を行ったほうが
勉強という意味でも効率が良いのではないでしょうか。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

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妖怪列車に悲鳴響く

おはようございます。
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今日は

【ゲームなら怖くないのに… 妖怪列車に悲鳴響く 京都】

をお届けします。



ゲームなら怖くないのに… 妖怪列車に悲鳴響く 京都

妖怪と一緒の電車に乗れるイベント「嵐電妖怪電車」が13日夜、
京都市街地と嵐山を結ぶ京福電鉄嵐山線(嵐電)で始まった。
青白い光とBGMで演出され、
子どもたちの悲鳴や歓声が車内に響き渡った。
 




京都嵯峨芸術大学の妖怪芸術団体
「百妖箱」
の学生らが協力。
乗客たちの妖怪ぶりを競う人気投票
「嵐電妖怪総選挙2014」
もある。
 


「妖怪電車」は15日までと23、24日の夜に、
毎日5便運行。
嵐山駅か四条大宮駅からのみ、
先着180人まで乗車できる。
運賃は大人200円、
子ども100円。
妖怪に扮した人は50円。
問い合わせは同社(075・801・2511)へ。



スイス南東部グラウビュンデン州ティーフェンカステル近くの山間部で
13日午後0時半(日本時間午後7時半)ごろ、

観光山岳鉄道
「レーティッシュ鉄道」
の列車(8両編成)が土砂崩れに突っ込み、
客車3両が脱線した。


日本人6人が乗車しており、
5人が重軽傷を負った。
 


在スイス日本大使館によると、
重傷を負ったのは横浜市在住の70代の男性で、
腰の骨を折った可能性があるという。
この男性の60代の妻とオランダ在住の家族3人が打撲などの軽傷。
重傷の男性と妻が入院しているが、
いずれも命に別条はないという。

 



グラウビュンデン州警察は、
事故当時の乗客は約140人で全員救助され、
11人が重軽傷を負ったなどと発表した。
脱線した3両のうち1両は谷に落ちたが、
途中の立ち木に引っかかって止まった。
現場付近ではこの日の朝から激しい雨が降っていたという。
 


アルプスの山岳地帯を走り、
多くのリゾート地などをつなぐレーティッシュ鉄道は私鉄で、
世界各国から訪れる観光客が多く乗車することで知られる。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

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戦艦大和艦長の在米英文日記

おはようございます。
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今日は
【戦艦大和艦長の在米英文日記】
をお届けします。



戦艦大和艦長の在米英文日記「豊かさ、比較にならない」

「戦艦大和」艦長などを務めた海軍軍人が昭和初期、
アメリカ滞在中につけていた英文の日記が見つかった。
当時すでに「仮想敵国」だった米国の武力を探る一方、
その豊かな国力を肌で感じていたことが分かる。

当時の軍人によるアメリカ滞在日記が公になることはほとんどなく、
貴重な1次資料だ。

 


日記をつけていたのは松田千秋・元海軍少将(1896〜1995年)。
長男の孝行さん(81)が遺品の中から見つけ、
孫で毎日映画社ディレクターの文治さん(44)が解読を進めていた。




 
当時、
少佐だった松田は1929年、
語学研修のため渡米し翌年、
在米大使館付武官補佐官に就任、
計2年間、
主にワシントンに駐在した。
見つかったのは29年6〜9月のもので、
約120ページ。
サンディエゴでは
「飛行機に乗り街を見下ろした。
約100隻の駆逐艦があり、
20隻は稼働中だった」
と記した後
「標的」
を意味するとみられる
「gun targets」
と書くなど、
米軍艦に強い関心を示している。
 




一方、
アメリカは人も建物も大きく、
食事に行っても食べきれないほどのものが出てくるなど、
豊かさに驚く記述も目につく。
アメリカ通の軍人が少ない中、
実体験でアメリカの国情を感じていたようだ。
戦後は
「アメリカは資源の豊かさや生産性など、
日本とは比較にならないと思った」
と振り返ったという。
 


松田少佐は第2次近衛文麿内閣の直属機関で、
開戦前の41年4月にシタートした
「総力戦研究所」
の所員として研究生を指導。
諸外国の国力や国際情勢を踏まえつつ戦争のシミュレーションを行った。
その結果8月、
「日米戦日本必敗」
の結論を下した。
 


開戦後の42年、
海軍のシンボル
「戦艦大和」
の2代目艦長に就任するなど第一線で戦った。
 


日記の内容は14日午後9時、
BS11の
「報道ライブ21 INsideOUT」
で放送される。
ほかにも武官補佐官時代の記録など手つかずの資料が多いため、
文治さんは専門家と協力して研究を進める。 





昭和史が専門のノンフィクション作家・保阪正康さんの話 
軍人のアメリカ滞在日記は極めて珍しい。
何に関心を持ちどんな活動をしていたのか、
解読を進める必要がある。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

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ブログを訪問していただき感謝いたします。 福岡県小郡市に住んでいます。 これからもよろしくお願いします。 −免許・資格− ・大型二輪、普通、大型自動車運転免許 第476929290862号 昭和44年1月25日 ・小型船舶操縦士 第301969号 昭和47年10月日 ・丙種機関士 第 1487号 昭和49年5月日 ・ガス溶接技能士 第 69254号 昭和50年11月日 ・乙種第四類危険物取扱者 第02158号 昭和52年12月日 ・日赤水上安全法救助員 第11-00771号 昭和53年8月18日 ・第三種冷凍機械取扱責任者 第 113247号 平成18年1月日 ・巻き上げ機 第402000046号平成24年9月21日 ・職長・安全衛生責任者 第75931号 平成25年6月17日 ・第二種電気工事士 第70506号 平成25年9月20日 ・第1級陸上特殊無線技士 第HBL00364J号 平成25年11月28日 ・古物商 第904021410002号 平成26年5月14日 −自己PR− 何事も情熱を持って取り組む姿勢を持っております。 相手の話しをしっかり聴き、コミュニケーションを円滑にしてから教育・指導をすることを培いました。 相手のレベルに合わせた教育・指導を心がけ、常に伝え方に工夫を凝らしています。 表情に笑顔を意識しコミュニケーションを図るよう心がけています。 特に、安全管理の重要性を認識し不安全要素の排除を心がけております。 また、資格・免許の取得に努め、更なる業務の効率化に向け、専門性を身につけ、知識・技能を日々進化させています。
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