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2018年08月08日

親父の戦争体験(開戦当時:病気で命拾い)

 私の親父は大正11年(1922年)産まれ、生きていれば96歳です。

 真珠攻撃で幕を開けた太平洋戦争開戦の昭和16年(1941年)が19歳、終戦の昭和20年(1945年)が23歳、戦時中はバリバリの青春時代。
 この時代、若くて健康な男が放っておかれる訳がありません。
 ご多分に漏れず戦争に招集されました。
 以下は生前、事あるごとに軍隊時代の話を聞かされてきた話です。

 先ず配属されたのが陸軍の野戦重砲部隊の自動車衆。
 「十五糎榴弾砲」という大型の大砲を引く牽引車の運転手でした。
 車種までは聞いていなかったのですが色々調べるとおそらく「九八式六屯牽引車」を運転していたのでしょう。

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 その当時兵員ははがき1枚で招集されるのに対して大砲や牽引車は高価な貴重品。
 それの運転を任されていた自分は腕が良かったんだと本人は言っていました・・まあ、そういうことにしておいてやってください・・
 任地は満州。現在の中国、黒竜江省。
 ここでまず訓練をして各地の戦場に送られます。

 父の部隊はラバウルなどの南方の島々に行く予定でした。

 開戦間もないその時はまだまだ戦勝ムード。
 みんな極寒の満州での訓練を早く終えて、早く暖かくて甘いフルーツの実る南方に行きたかったそうです。

 兵隊といっても自動車の運転が専門
 とにかく早く正確に大砲を設置位置に運ぶのが最大の任務。
 10cm単位で正確に据え付けなければならないのでなるべくピッタリの位置につけないと何トンもある大砲を手作業で動かさなければなりません。

 また、大砲を据え付けたら大切な牽引車をいち早く後方の安全な場所まで下げなければなりません。
 何せ、兵員よりも高価な車両ですから・・

 そんな任務なので、射撃などの戦闘の訓練はそこそこ。
 ほとんど毎日、大砲をキッチリ運んでとっとと逃げる訓練だったそうです

 そんなある日、大雨があり近くの川が増水して洪水の危機が発生。
 大切な大砲が流されては大変ということで高台に大砲を避難させます。
 父もずぶ濡れになりながらやっとの思いですべての大砲の避難を終えました。

 その数日後、ひどい咳が出始め熱も出てきたそうですが、その当時は戦中下のため熱があるから休みますなんて言ってられません。
 無理をして我慢していましたが、そのうち隣のベットの戦友が寝ているときの咳がどうもおかしいということで上官に報告。
 上官の命令で軍医に診てもらうと「肋膜炎」と診断されました。
 肋膜炎は現在「胸膜炎」と言われ、肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる病気。
 肺炎などをこじらせることによりかかるそうです。

 ということで長期の入院。
 部隊の仲間たちから一人離れて後方の病院に送られることに。
 南方の楽園を夢見ていた父は一人極寒の満州に残されがっかりです。

 ちなみに父の部隊はその後、南方の戦線に転属。
 南方戦線はご存じのとおりその後どんどん戦局が悪化していきとても楽園とは程遠い状態。
 戦局の悪化に加え補給路が断たれ、飢餓とマラリアなどの疫病に悩まされ、多数の犠牲者を出しました。

 もし肋膜炎になっていなかったら父もどうなったかわかりません。
 犠牲になった方々には大変申し訳ありませんが、人生何が幸いするかわかりませんね。
 

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ちゃりじじい
 2004年から糖尿病対策で自転車通勤を始め、その楽しさにはまりました。 雨の日の電車賃、メンテナンス費用を、会社からの通勤費でまかなっていますが、収支はプラスにできています。
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