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2018年05月11日

よりみち(幡髄院長兵衛と伊能忠敬のお墓を訪ねる)

 ”アキバ”の地名発祥の「秋葉神社」から少し南に下ります。
⇒「通勤風景(アキバ発祥の神社から問屋街へ)」をご覧下さい

 この辺はお寺が多いのですが、その中に何やら解説の看板が立っているお寺があります。
 お寺の名前は「源空寺」。
DSC_0199.JPG


 看板を見ると「幡髄院長兵衛墓」「谷文晁墓」とあります。

 若い方だと「幡髄院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)」と言われても”だれ?”という方が多いかも知れませんのでちょっと解説。
 幡髄院長兵衛は江戸初期の町奴と呼ばれる侠客の頭領で、当時の旗本と競い合っていたそうです。
 旗本が市民をいじめるのに対し、それを助けるその時代のヒーローでしたが旗本の水野十郎左衛門に呼び出され殺されてしまったそうです。
 芝居では罠だとわかってまわりが引きとめる中、
「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」
 と啖呵を切って出かけていったとか。
 まさに歌舞伎や映画などの主人公となる江戸時代のヒーローですね。

 「谷文晁(たにぶんちょう)」は江戸時代後期の高名な画家で、門人には渡辺崋山らを輩出しています。

 墓所は本堂から路地を挟んだところにありました。
 行ってみると、墓所の入口には「伊能忠敬墓所」「高橋至時墓所」の石碑が。

 「高橋至時(たかはしよしとき)」は江戸時代後期の天文学者で伊能忠敬の師匠になります。

 「伊能忠敬(いのうただたか)」はご存知のとおり江戸後期の測量家で日本全国をまわり「大日本沿海輿地全図」を作りました。
 このひとのすごいところは、50歳で地元の千葉県佐原から江戸に上京し測量の勉強を開始したこと。
 そして56歳から71歳まで日本中をまわって測量をしたことでしょうか。

 当時の寿命が50歳そこそこという時代ですから、今で言うと70代を越えて勉強をはじめ、そこから15年以上かけて日本中をまわって測量したのですからものすごい体力と精神力です。

 墓所に入ると入口のすぐ左に「高橋至時」のお墓があり、
DSC_0192.JPG

 続いて「幡髄院長兵衛」夫妻のお墓が仲良く並んでいます。
DSC_0200.JPGDSC_0193.JPG


 そしてそのとなりが「伊能忠敬」のお墓。
DSC_0196.JPGDSC_0197.JPG

※ペットボトルの水はが供えられてました。 日本中歩くにはペットボトルが持ち運びやすいんでしょうか。

 私も50代後半、最近気力、体力とも衰えたと感じることがしばしばですが、伊能忠敬に比べればまだまだ若輩者。
 ちょうど子どもたちも就職して手が離れたので何かチャレンジをはじめなければ・・



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 2004年から糖尿病対策で自転車通勤を始め、その楽しさにはまりました。 雨の日の電車賃、メンテナンス費用を、会社からの通勤費でまかなっていますが、収支はプラスにできています。
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