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2014年02月06日

モスク

モスク(英語:Mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。

アラビア語ではマスジド(مَسْجِد‎, masjid, 「ひざまずく場所」の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ(mesquita)となり、それが英語ではさらに訛ってモスク(mosque)となった。ドイツ語ではモシェー(Moschee)。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ;清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。

モスクは欧米や日本における呼び名である。しばしばイスラーム寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。

概要[編集]





エジプトのアスワンにあるモスク
モスクは都市の各街区、各村ごとに設けられるが、都市の中心には金曜礼拝を行うための大きなモスクが置かれ、金曜モスク(マスジド・ジャーミー مسجد جامع‎ masjid jāmi` 、略してジャーミー جامع‎ jāmi` )と呼ばれる[1] 。このようなモスクは、専任職員としてイマーム(導師)、ムアッジン(アザーンを行う者)を抱えている。エジプト、カイロのアズハルのような特に大きなモスクは複合施設(コンプレックス)をともなっており、マスジド(ジャーミー)だけでなくマドラサ(イスラーム学院)も併設されたりしていることもある。病院や救貧所のような慈善施設をともなう場合もあり、これらのモスク複合施設の維持・運営はワクフ(寄進財産)によって担われる。

伝統的に、モスクは政府の布告を通達する役所、カーディーの法廷が開かれる裁判所、ムスリム(イスラーム教徒)の子弟に読み書きを教える初等学校(クッターブ)であった。また、小モスクは現在でも「無料人生相談所」とでも言うべき機能を持っており、近隣に住むイスラーム法の知識をもった人物が、人生相談に対してイスラーム法に基づいて助言・回答などを与える場所として活用されている。

モスクの内部と付属設備[編集]





礼拝堂内部(東京ジャーミー)
内部には、イスラーム教の教義に従い、神や天使や預言者・聖者の(偶)像は置かれることも描かれることもない。装飾はもっぱら幾何学模様のようなものだけである。マッカ(メッカ)の方角(この方角をキブラ( قبلة‎ qibla)という)に向けて、壁にミフラーブ( محراب‎ miḥrāb)と呼ばれる窪みがある。これは、コーランの規程に従ってメッカの方向に対して行わる礼拝の方向をモスクに集う人々に指し示すためのもので、礼拝の場であるモスクに必須の設備である。その向かって右隣にはイマームが集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇がある。付属設備としては、礼拝の前に体を清めるための泉などが見られ、礼拝への呼びかけに用いるミナレット(マナーラ)を有する場合も多い。

モスク建築[編集]

建築構造は、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持つ形が基本形である。アラブ圏ではダマスカスのウマイヤ・モスクのようにキリスト教の教会の構造を取り入れた多柱式のモスクが主流であったが、イランではイーワーン(半ドーム)を多用した形式が起こった。アナトリア半島では中庭をドームで覆う形式が起こり、オスマン帝国に至ってビザンツ帝国の教会建築を取り入れ、大ドームを小ドームや半ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間をもつ形式を生み出した。

図像を廃した内装と外観を持つモスクは、その装飾美・建築美から、非イスラーム教徒にとっても観光施設としての役割も果たしている。トルコ、イスタンブルのスルタンアフメト・モスク(トルコ語名スルタンアフメット・ジャーミー。通称ブルーモスク)や、イラン、イスファハーンのイマーム・モスク(ペルシア語名マスジデ・エマーム。旧名マスジデ・シャー、「王のモスク」)などの著名なモスクは世界遺産に登録されており、世界中から観光客を集めている。

クバー・モスク

クバー・モスク(アラビア語 مسجد قباء Masjid Qubā')は、イスラム教の第2の聖地・預言者のモスクがあるサウジアラビアのマディーナにあるイスラムにおいて初めてつくられたイスラム教の礼拝堂・モスクのひとつ。このモスクは、聖遷の時つくられた。ここのモスクに置かれた最初の基礎の石は預言者ムハンマド自らが置いたとされている。クルアーンではアルー・タクワと呼ばれている。ハッジ(巡礼)の際、マディーナを訪れたムスリムは預言者のモスクを訪れた後多くはここを次に訪れる。

マディーナ

アル=マディーナ・アル=ムナッワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。


概要[編集]

半島紅海側のヒジャーズ地方に位置する。現在はサウジアラビアのマディーナ州の州都で、人口は130万人ほどである。

アラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(madīnat an-nabī)の略。預言者ムハンマドの墓を有する預言者のモスクが町の中心にあり、マッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン)」と称される。

歴史[編集]

マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前をヤスリブと言い、アラブ人の二部族とユダヤ教徒の数部族が住む町であった。622年、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した(ヒジュラ)。ムハンマドは現在の預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体(ウンマ)の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代カリフのアリーがイラクのクーファに移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初のクバー・モスクもある。

ヤンブー

移動: 案内、 検索


ヤンブー(アラビア語: ينبع‎、Yanbu)は、サウジアラビア西部、マディーナ州の都市。人口188,430人(2004年)。ジッダの北350km、マディーナの西160kmに位置する。紅海に面した港町であり、ヤンブー・アル=バハル(アラビア語: ينبع البحر‎)とはアラビア語で「海辺の泉」を意味する。東部のダーラン油田からのパイプラインの終着点であり、大規模な港と工業団地が造成され、ヨーロッパ諸国への原油輸出の拠点となっており、また石油精製や石油化学工場が立ち並ぶ工業都市となっている。

ヤンブーの歴史は2500年前までさかのぼれる。ヤンブーは、イエメンと、エジプトをはじめとする地中海世界との、スパイスや香料の中継貿易港として栄えてきた。第一次世界大戦中は、オスマン帝国に対するイギリス軍の拠点のひとつとなった。1975年、ペルシャ湾からのパイプラインが完成し、東部のアル=ジュバイルとともにサウジの石油輸出港として整備された。

港の近くには保護された大きなさんご礁が存在し、ダイビング客などが訪れる。プリンス・アブドゥルムフセン・ビン・アブドゥルアズィーズ空港があり、また高速道路がマディーナや北のヨルダンやシリアと連絡している。

ヒジャーズ

ヒジャーズ(ヒジャズ、ヘジャズ、Hejaz、Hijaz、Hedjaz; アラビア語表記: الحجاز‎ al-Ḥiǧāz)は、アラビア半島の紅海沿岸の地方。

地理[編集]





サウジアラビア内のヒジャーズの位置、現在はいくつかの州に分割されている
マッカ(メッカ)、マディーナ(メディナ)の二大聖地を含む、アラブおよびイスラームにとって歴史的・宗教的・政治的に重要な地であった。またこの地域の最大都市ジッダ(ジェッダ)は聖地への海からの入口であるだけでなく、ヒジャーズの政治的中心として重要性を持ったこともあった。

ヒジャーズは今日のサウジアラビア王国の北西部にあたる。アラビア半島の西端にはヒジャーズ山脈およびその南のアスィール山脈という一続きの山脈が走っている。アラビア半島の紅海沿岸は大きく南北に分けられ、北はヒジャーズ、南はアスィール(アシール、Asir、山岳地帯)およびティハーマ(ティハマー、Tihamah、Tehama、海岸沿いの平野地帯)と呼ばれる。アスィールとティハーマは一部イエメンにかかっており、最近まで両国間に国境や帰属をめぐる議論があった。ヒジャーズ地方はヒジャーズ山脈を挟んだ両側をさす。

ヒジャーズ山脈はヨルダンとサウジの国境付近から発し、部分的に標高2,000mを超える高さとなり、南はマッカ周辺で600mほどに低くなるまで続く。その西麓は急激に海に向かって落ち込んでおりところどころで断崖絶壁をなし、海岸平野はわずかで天然の良港はほとんどない。その代わり、ヒジャーズ西麓にたまに起こる大嵐は雨で山の土をむき出しにし、このため丘陵地には肥沃な農地がある。ヒジャーズ東麓は西側よりも緩やかに下っており、半島中央部の高原地帯、ナジュド(ナジド、Najd)に続いている。気候は乾燥しており、雨のときしか流れないワジ(涸れ川)がいくつか走っており、人々はオアシスやワジの付近で細々と農耕をしている。オアシスのうち最も大きな街がマディーナである。アラビア語で、ヒジャーズとは「障壁」を意味し、東のナジュドと南西のティハーマを分ける山並であった。このため、ヒジャーズ地方に、ナジュドとティハーマを分ける高い山地、サラワト山脈(アスィールの一部)を含む場合がある。

歴史[編集]

ヒジャーズには古来から人が居住し農耕を営み、また南のイエメンに産する乳香など香料を北のエジプトなど地中海沿岸に運ぶための陸路や海路が整備され交易が行われていた。古代ローマはイエメンに軍を送り、ヒジャーズの一部はローマ帝国のアラビア属州に組み込まれていたと見られる[1]。

ヒジャーズはイスラム帝国発祥の地であったが、13世紀以降からエジプトの政権やオスマン帝国の宗主権のもと、マッカの太守(シャリーフ)ハーシム家の自治が続いた。これが変化するのは第一次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとしたときだった。ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはイギリスとフサイン=マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配をもくろんでアラブの反乱を起こした。この際、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)は反乱軍を支援し、オスマン帝国がダマスクスからマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設したヒジャーズ鉄道を破壊するなどの戦闘に協力。1916年には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズは独立したがその期間は短かった。フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、1924年にはナジュドからアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが侵攻、フサイン・イブン・アリーは退位してキプロスに逃れたが、その翌年には長男アリー・イブン・フセインが降伏し、弟のイラク王国に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉する。

ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは1926年にヒジャーズ王を称し、1931年にはヒジャーズ=ナジュド王国という連合王国の王となり、1932年にはこれをサウジアラビア王国と改称した。

第一次サウード王国

第一次サウード王国(アラビア語表記でالدولة السعودية الأولى)は、1744年にアラビア半島に建設された王国である。ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ(英語版)が唱えるワッハーブ派の運動の普及のために、ナジュドの豪族出身であるムハンマド・イブン=サウード(英語版)が軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした。王国の性格からワッハーブ王国ということもある。主君はワッハ-ブ派イマームを兼ねる。

歴史[編集]

王国の版図は、初めはナジュドに限定されていたが、東は現在のクウェートからオマーンの国境にまで及んだ。また、北には、イラクやシリアの国境近くまで広がり、1801年には、シーア派の聖地であるカルバラーおよびナジャフを陥落させたことで頂点に達した。このとき、アリー・イブン・アビー=ターリブの墓所などシーア派の聖地多数が破壊されシーア派住民も虐殺された。 1802年、王国の軍隊は、ヒジャーズ地方に進出を開始し、イスラームの2大聖地であるマッカとマディーナを陥落させた。両聖地の陥落は、1517年以来聖地の守護者を自認していたオスマン帝国に衝撃を与えた。また、イスラム原理主義であり聖者崇拝などを認めないワッハ−ブ派により、聖地マッカでの廟など多数が破壊されたことにより、それ以外の宗派から反感をもたれることになる。

オスマン・サウジ戦争[編集]

詳細は「オスマン・サウジ戦争(英語版)」を参照

オスマン帝国は、エジプト総督ムハンマド・アリーにサウード王国を滅ぼす攻撃命令を下した。ムハンマド・アリーは軍隊を率いて、ヒジャース地方に殺到し(en:Battle of Yanbu、en:Battle of Al-Safra、en:Battle of Medina (1812)、en:Battle of Jeddah (1813)、en:Ottoman return of Mecca 1813)、1813年1月には聖地メッカの奪還に成功した。

1817年、ムハンマド・アリーの子供であるイブラーヒーム・パシャは、軍隊をナジュドへと進めた(en:Nejd Expedition)。1818年4月、首都ディルイーヤを包囲した。首都でのディルイーヤ攻囲戦(英語版)は数ヶ月に及んだが、9月18日にエジプト軍の勝利に終わり、サウード家とワッハーブ運動を展開した主要メンバーは、エジプトやあるいはオスマン帝国の首都イスタンブルへ連行された。ディルイーヤは、徹底的に破壊され、現在は王国が存在した当時の面影は存在しない。最後のイマーム、アブドゥッラー・ビン・サウード(英語版)は、後にイスタンブルで処刑され、その首はボスポラス海峡に捨てられた。

影響[編集]

こうして、第一次サウード王国は滅亡したが、ワッハーブ運動の火種はアラビア半島に残っており、サウード家の生き残りとともに、リヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国を建設する(1824年から1891年まで存続した)。

第二次サウード王国の滅亡後は生き残った王子が再び王国を再建し、1931年に国王に即位し、現在のサウジアラビアとなっている。このため、サウジアラビアは第三次サウード王国と見ることも出来る。

イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国


国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国

歴史[編集]

詳細は「イラクの歴史」を参照

メソポタミア[編集]





キシュから出土した石灰岩の書き板(紀元前3500年)
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡(現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー(英語版))からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかってる。


ペルシアの支配[編集]

詳細は「アケメネス朝」を参照

ギリシャの支配[編集]

詳細は「マケドニア王国」および「セレウコス朝」を参照

ペルシアの支配[編集]

詳細は「アルサケス朝」および「サーサーン朝」を参照

イスラム帝国[編集]

西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。

8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

10世紀末にブワイフ朝のエミール・'Adud al-Dawlaは、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。

モンゴル帝国[編集]





バグダードの戦い(1258年)
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。

サファヴィー朝[編集]

16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。

en:Battle of DimDim(1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリー(英語版)の指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領(英語版)に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。

オスマン帝国[編集]

詳細は「:en:Ottoman Iraq」および「:en:Mamluk rule in Iraq」を参照

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。

18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた(オスマン帝国の行政区画)。

一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社(TPC、イラク石油会社(英語版)の前身)を立ち上げた。

イギリス帝国[編集]

第一次世界大戦では、クートの戦い(1915年12月7日 - 1916年4月29日)でクート・エル・アマラ(英語版)が陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。

1917年3月11日、バグダッド陥落(英語版)。

Occupied Enemy Territory Administration[編集]

「:en:Occupied Enemy Territory Administration」も参照

1918年10月30日、オスマン帝国が降伏(ムドロス休戦協定)。パリ講和会議(1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するen:Long–Bérenger Oil Agreementを締結。サン・レモ会議(英語版)(1920年4月19日 - 4月26日)で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San Remo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25%の石油利権を獲得した。トルコ革命(1919年5月19日 - 1922年7月24日)が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル(クルディスタン)を放棄させようとしたが、批准されなかった(モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された(カイロ会議(英語版))。

イギリス委任統治領メソポタミア[編集]

1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。

en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版)(1922年 - 1924年)を一時的に樹立。

1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty(イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定(en)を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版)(IPC)を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt(1931年 - 1932年)。

王政[編集]

詳細は「イラク王国」を参照

ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。

一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油(英語版)とが共同出資して1934年にクウェート石油(英語版)を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。

1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシッド・アリ・アッ=ガイラニ(英語版)のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役(英語版)で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。

1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバード(英語版)でクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊(en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。

1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争(1948年 - 1949年)が勃発。

1955年、中東条約機構(METO)に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争(1956年 - 1957年)が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

アラブ連邦[編集]

1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

イラク共和国(第一共和政)[編集]

詳細は「Republic of Iraq」を参照

カーシム政権[編集]

1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され(7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[1]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。

1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構(METO)を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社(IPC)の国有化を発表。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版)(1961年 - 1970年)が勃発。

イラク共和国(第二共和政)[編集]

第1次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1963年2月8日にバアス党将校団のクーデタが起り、カーシム政権が倒された(ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。

アーリフ兄弟政権[編集]

1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領のクーデターが勃発(1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派の政策を継承してナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。

バアス党政権(第三共和政)[編集]

詳細は「バアス党政権 (イラク)」を参照

第2次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1968年7月17日にバアス党政権が発足(7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクル元首相が新大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域(アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県)を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。 1970年9月28日、エジプトのナーセルが死去。1972年にソ連と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版)(1974年 - 1975年)が勃発。ペシュメルガ(英語版)等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握していった。

サッダーム・フセイン政権[編集]

1979年7月16日にサッダーム・フセインが大統領に就任した。イラン・イラク国境を流れるシャットゥルアラブ川の水利権をめぐってイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)が勃発。シャットゥルアラブ川にはイランのカールーン川が接続しており、両国の石油輸出の要衝である。

1990年に原油価格下落やルマイラ油田の権益をめぐってクウェートと対立し、クウェート侵攻後、1991年1月17日の「砂漠の嵐作戦」(operation desert storm)で湾岸戦争に突入し、フセイン政権は敗北した。

イラク戦争[編集]

詳細は「イラク戦争の年表」を参照

イラク武装解除問題(1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、フセイン政権はアメリカとのイラク戦争に敗れ、バアス党政権に終止符が打たれた。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。

メッカ

メッカ(アラビア語: مكة‎ Makkah [ˈmækkæ])は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるメッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca [ˈmɛkə] から Makkah [ˈmækə] に改めた[2]。

概要[編集]

人口は1,294,167人(2004年国勢調査)。ジェッダから73km内陸に入った、狭い砂地のアブラハムの谷にあり、海抜280mである。紅海からは80km離れている[3]。

メッカは、イスラム教最大の聖地であり、祈りを捧げるところである。イスラム教徒は一日に五回決まった時刻になると、メッカの方向に向かって三度礼拝を行う。携帯電話のGPS機能などにより、遠くにいてもおおよそのメッカの方角を知る事が可能になっている。方角は大体あっていればいいという考えの人もいるらしい。さらに近年、石油の資源に恵まれ、サウジアラビアは急速に発達している。これにより、今後更にメッカを訪れる人が多くなると予想される。

メッカはイスラム教最大の聖地とされており、当地へのハッジ(巡礼)は体力と財力が許す限りあらゆるムスリム(イスラム教徒)が一生に一度は果たすべき義務である。これは聖典クルアーン (Q 3:97) の記述を根拠とするもので、イスラーム暦の第12月にあたるズー・アル=ヒッジャ月の8-10日に行われる巡礼である「ハッジ」のことを指し、この期間には世界中からハッジの行事に参加するため集まる。その期間以外で随時個々に行われている巡礼「ウムラ」も多くのムスリムが財力や体力の許す限り行っているため、メッカとカアバの周辺には一年を通じて絶えず巡礼者が訪れている。ムスリムはマスジド・ハラーム(聖なるモスク。カアバを保護する)を地上で最も神聖な場所と考えている。マディーナと並んでイスラム教二大聖域(メッカ、マディーナを併称する場合、「2つの聖なる禁域」という意味で、アラビア語で「ハラマイン」とも呼ばれる)とされているため、マディーナ同様イスラム教徒以外の入場はできず、通じる道路の手前にある検問所より先に行くことができない。古くから異教徒がイスラム教徒に変装しメッカを訪れる者がおり、中には処刑された者もいる。

地理[編集]





ヒラー山から眺めたメッカ中心部




上空からのメッカ中心部
メッカの中心部は山々にはさまれた狭い回廊に位置しており、しばしばHollow of Meccaと呼ばれる。市の面積にはAl Taneem谷、Bakkah谷、およびAbqar谷の面積を含む.[4][5]。近年の人口増加により、住宅地は近隣の山岳地帯にも広がっている。街の最も低いところにメッカでももっとも神聖なマスジド・ハラームがあり、ここが街の中心となっている。この付近には禁域(ハラーム)と通称される旧市街が広がっている。メインストリートであるAl-Mudda'ah通りとスークはモスクの北に広がり、As-Sūg Assaghīr通りは南へと延びる。サウジアラビア統治下になってから中央の大モスクは大幅に拡張され、その付近にあった数百件の家々は現在広い大通りや広場となっている。メッカの伝統的な家は地元の石で作られ、一般的に2階から3階建てである。メッカの今日の総面積は1,200km2以上となっている[6]。

近年の世界の一体化にともなう交通事情の改善などによって巡礼客は増加の一途をたどっており、それを一手に引き受けるメッカも急速な成長が続いている。マスジド・ハラームの向かいには、サウジアラビア屈指の高層ビル群であるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが建設され、2012年に開業した[7]。そのうちのホテル棟はサウジアラビアで最も高い601mで、ブルジュ・ハリファに次いで世界で2番目に高いビルである。しかし、この場所にはかつてはオスマン帝国時代に立てられ歴史的な価値の高いアジャド(アジュヤード)砦が建っており、トルコやサウジ国内などから強い反対の声が上がっていたが、ビル建設にともない取り壊されてしまった[8][9] 。この事例に象徴されるように、サウジアラビア政府は偶像崇拝につながりかねないとして古い遺跡や建物、ことに歴史的・宗教的な建物に敵対的な態度を示すことが多く、結果としてサウジ支配下に入ってから古い建物のほとんどは取り壊された。1985年以来、メッカの歴史的建造物の95%以上、1000年以上の歴史を持つもののほとんどが破壊されたと推定される[10][11]。

メッカ中心部の北東約5kmには、ムハンマドに対して神による最初の啓示が下されたヒラー山がある。ヒラー山には多くの巡礼者が訪れるが、スンニ派のなかでも厳格なワッハーブ派の流れを汲むサウジアラビア政府は偶像崇拝につながりかねないとして、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りを登山口に設けている。





ハッジの巡礼ルート図。マスジド・ハラームに巡礼者は必ず向かうが、巡礼においてはミナーの谷やアラファト山も重要である
メッカの東25kmにはムハンマドが最後の説教を行ったアラファト山がある。ここは巡礼の際、巡礼月9日に必ず訪れねばならない場所であり、途中のミナーの谷のテントで一泊した後、アラファト山で巡礼者は立礼(ウクーフ)を行う。帰路も再びミナーの谷で一泊するため、ミナーの谷には2km四方にわたってサウジアラビア政府が冷房つきの作り付けのテント村を整備しており、谷はテントによって埋め尽くされている。この膨大なテント群は大巡礼の5日間しか使用されない[12]。ミナーからアラファト山への道には8本の道路と2本の歩行者専用道路があるが、巡礼の日は大混雑となる。この混雑を緩和するため、2010年11月には新交通システムのメッカ巡礼鉄道がこの巡礼路に完成した(後述)。この道路には熱射病対策用のスプリンクラーや街路樹、トイレや照明などが完備されているが、これらも大巡礼の日以外は使用されない。

近代以前のメッカにおいては、水は3つの方法によって供給されていた。ひとつ目はザムザムの泉に代表される井戸であり、二つ目はAyn Zubaydaの泉だった。三つ目は少ない天水を貯水池にためて確保するやり方であった。水不足に苦しむ一方で、メッカは谷底にあり、周囲に水を蓄える植生もないため、わずかな降雨でも洪水の危険性にさらされていた。記録に残るだけで、サウジ時代を含めて1965年までに89回の洪水があったとされる。特に1942年の洪水が最も被害が大きかった。それ以来、メッカの周囲には洪水防止用のダムが建設されている[4]。

気候[編集]

アラビア半島の西部、紅海に面したヒジャーズ地方の中心都市である。砂漠気候で、一年を通じてほとんど雨は降らない。砂漠に取り囲まれているが、ザムザムの泉の湧き水を頼りに、古くから人間が定住生活を送ってきた。メッカは他のサウジアラビアの都市に比べて冬は暖かく、もっとも寒い1月でも平均気温は23.9度である。一方で夏は暑く、5月から9月までの平均最高気温は40度を超える。降雨は11月から1月の冬季にわずかながら降る[13]。


[隠す]メッカの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




最高気温記録 °C (°F)
37.0
(98.6) 38.3
(100.9) 42.0
(107.6) 44.7
(112.5) 49.4
(120.9) 49.4
(120.9) 49.8
(121.6) 49.6
(121.3) 49.4
(120.9) 46.8
(116.2) 40.8
(105.4) 37.8
(100) 49.8
(121.6)

平均最高気温 °C (°F)
30.2
(86.4) 31.4
(88.5) 34.6
(94.3) 38.5
(101.3) 41.9
(107.4) 43.7
(110.7) 42.8
(109) 42.7
(108.9) 42.7
(108.9) 39.9
(103.8) 35.0
(95) 31.8
(89.2) 37.93
(100.28)

日平均気温 °C (°F)
23.9
(75) 24.5
(76.1) 27.2
(81) 30.8
(87.4) 34.3
(93.7) 35.7
(96.3) 35.8
(96.4) 35.6
(96.1) 35.0
(95) 32.1
(89.8) 28.3
(82.9) 25.5
(77.9) 30.73
(87.3)

平均最低気温 °C (°F)
18.6
(65.5) 18.9
(66) 21.0
(69.8) 24.3
(75.7) 27.5
(81.5) 28.3
(82.9) 29.0
(84.2) 29.3
(84.7) 28.8
(83.8) 25.8
(78.4) 22.9
(73.2) 20.2
(68.4) 24.55
(76.18)

最低気温記録 °C (°F)
11.0
(51.8) 10.0
(50) 13.0
(55.4) 15.6
(60.1) 20.3
(68.5) 22.0
(71.6) 23.4
(74.1) 23.4
(74.1) 22.0
(71.6) 18.0
(64.4) 16.4
(61.5) 12.4
(54.3) 10
(50)

雨量 mm (inch)
20.6
(0.811) 1.4
(0.055) 6.2
(0.244) 11.6
(0.457) 0.6
(0.024) 0.0
(0) 1.5
(0.059) 5.6
(0.22) 5.3
(0.209) 14.2
(0.559) 21.7
(0.854) 21.4
(0.843) 110.1
(4.335)

平均降水日数
4.1 0.9 2.0 1.9 0.7 0.0 0.2 1.6 2.3 1.9 3.9 3.6 23.1

% 湿度
58 54 48 43 36 33 34 39 45 50 58 59 46.4
出典: [14]

宗教的意義[編集]





メッカ市街




メッカを中心とした正距方位図法の世界地図。世界中どこからでも、キブラ(礼拝の方向)を知ることができる
メッカは、イスラム教の開祖である預言者ムハンマドの生誕地であり、クルアーン(コーラン)において預言者イブラーヒーム(アブラハム)とその子のイスマーイール(イシュマエル)が建立したとされるカアバがある。

メッカへの巡礼が可能なムスリムには、巡礼を行う義務がある。この義務は信徒が守るべき主要な5つの義務の一つであり、巡礼を行ったムスリムは、ハッジと呼ばれ、人々に敬われる。メッカへの巡礼には幾つかの区別があり、大祭ともいわれるイードル・アドハー(犠牲祭)には毎年約3百万人が集まる。

一方でムスリムでない者には、メッカとメディナへの立ち入りは厳しく制限されている。日本人写真家の野町和嘉が、メッカの巡礼を撮影した写真集を刊行したことがあったが、彼でさえもメッカに入るためには、改宗してムスリムにならなくてはいけなかった。

ムスリムには、特別な事情がない限り、一日に5回メッカのカアバの方角(キブラ)を向いて祈りを捧げることが義務付けられている(シーア派は3回)。このため、カアバを守護するマスジド・ハラームを除く世界中のすべてのモスクには、必ずキブラを示す壁のくぼみ(ミフラーブ)が存在する。






マスジド・ハラームの広場の全景

歴史[編集]

イスラーム以前[編集]





1850年頃のメッカ全景図
メッカの町は古くより存在し、2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオス(トレミー)の「地理学」にはマコラバの名ですでに記載がある[15]。このころからメッカは聖域とされており、5世紀中盤にはクライシュ族がこの地を制圧した。クライシュ族は6世紀にはキャラバンによる遠隔地交易に乗り出し、隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の勢力を制圧したり糾合して、メッカはその盟主となっていった。併合された勢力の神は滅ぼされず、メッカのカーバ神殿へと遷され、その神を信じる同盟勢力の人々が巡礼のためメッカへと赴くようになった。ムハンマドが生まれた570年頃にはおよそ一万人の定住者人口を持ち、まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、商業都市として、また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった[16][要出典]。

イスラームの誕生[編集]





ヒラー山。ムハンマドが大天使ジブリールより神の啓示を受けた場所である
メッカ生まれでクライシュ族に属していたムハンマドは、610年に市の北東のヒラー山で神からの啓示を受けイスラム教を創始した。しかしクライシュ族からの迫害を受け、 622年にヤスリブ(現在のマディーナ)へムハンマドは逃れる。これをヒジュラといい、イスラム暦はここから起算される。マディーナ滞在時には、後にメッカを聖地とするさまざまな決定が下されている。624年には礼拝の方向がエルサレムからメッカのカアバ神殿へと変更され、625年には巡礼がイスラム教徒の義務とされた[17]。この間、バドルの戦いやウフドの戦いなどを経て、イスラム教徒は軍事的に優勢となっていった。628年には一時休戦協定が結ばれて初のメッカ巡礼が行われたものの、メッカの非イスラム教徒の攻撃によって完全なものとはならなかった。しかしその後もイスラムの勢力は成長を続け、630年にはメッカはムハンマドに降伏し、メッカを支配下におさめたムハンマドはカアバ神殿よりすべての偶像を取り除いた。これ以降メッカは聖地として尊ばれている。632年に行われた第4回巡礼の時に巡礼の方法や聖域の範囲などが定められ、現在の巡礼の祖形となった[18]。


聖地[編集]

632年のムハンマド没後、メッカは宗教上の聖地ではあり続けたものの政治上の実権は失っていった。ウマルは政治の中枢をメディナに置き、さらに第4代正統カリフのアリーが首都をイラクのクーファに移転すると、メッカやアラビア半島は次第に政治の中枢から離れていき、10世紀ごろからはムハンマドの子孫であり、ハサン・イブン・アリーの後裔(シャリーフ)であるハーシム家が半ば独立しながら外部の有力国家の保護を受けるようになっていった。13世紀にはハーシム家は外部から総督位を受けることでメッカ太守の地位に着くようになった。アッバース朝中期まではメッカの支配権はカリフが握っていたものの、10世紀末にはエジプトのファーティマ朝がメッカとメディナの支配権を握った。さらにその後もアイユーブ朝、マムルーク朝といったエジプト王朝のメッカ支配は続いた。1454年、明の鄭和が遠洋航海した際、その分隊がメッカ(天方)に寄航している。





第一次サウード王国の勢力拡大
1517年、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がメッカの支配権を握り、スンニ派イスラム教徒の盟主となった。その後はオスマン帝国の支配が続いていたが、1802年にナジュドの豪族サウード家がワッハーブ派を奉じて建国した第一次サウード王国がメッカとメディナを占領し、当時メッカにあった聖者の廟などを破壊した。第一次サウード王国はまた、エジプトやシリアからやってくる巡礼団が華美に流れ堕落しているとして攻撃し、シリアからのものは入域さえさせなかった。一方、他地域からの巡礼団は歓迎され、この時期のメッカの厳格な戒律を守る雰囲気に影響されて、スマトラ島南部のミナンカバウ地方でパドリ戦争と呼ばれる宗教戦争が起きる[19]など、イスラム圏各地に影響を与えた。しかしイスラムの盟主をもって任じるオスマン帝国の命を受けたエジプト総督ムハンマド・アリーは1813年にメッカを攻略しヒジャーズをエジプトの治下に置いた。しかし1840年に第二次エジプト・トルコ戦争の敗北によってこれを放棄させられ、再びメッカはオスマン帝国領となった。19世紀中期以降は鉄道や汽船といった新しい交通機関によって旅行期間が大幅に短縮され、これによって巡礼者の数は増加した。


サウジアラビア時代[編集]





1910年のメッカ
1908年の青年トルコ人革命後、メッカのシャリーフに任命されたハーシム家のフサイン・イブン・アリーは半独立の姿勢をとるようになり、1916年には独立してヒジャーズ王国を建国したものの、ナジュドのスルタンであるサウード家のイブン・サウードに敗れてメッカは占領され、ヒジャーズ王国はナジュドに併合されてナジュド及びヒジャーズ王国の一部とされ、1931年にはこれを改称したサウジアラビア王国の一部となった。石油の富を得た1940年代以降、聖地の守護者としてサウジアラビア政府はメッカの整備を続け、都市機能は整備され町は拡大を続けた。

1979年11月20日、マフディー(救世主)を頂く武装グループがマスジド・ハラームを占拠。サウジ当局により2週間後に鎮圧されたが、鎮圧部隊側の死者は127人、武装勢力側の死者は177人という惨事となり、首謀者らは公開斬首刑に処せられた。(アル=ハラム・モスク占拠事件)

2012年、7棟の超高層建築物群からなるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが開業した。ホテル棟はサウジアラビアでは最も高い建築物であり、尖塔を含めた高さは601mである。

行政[編集]

メッカはサウジアラビア政府によって任命されたメッカ市長をトップとするメッカ市政府と、市政府によって選出された14人の評議員からなる市政評議会によって治められている。

メッカは商都ジェッダをも含むメッカ州の州都である。2000年から2007年に亡くなるまで、メッカ州知事はアブドゥル・マジード・ビン・アブドゥル・アズィーズ王子が務めていた[20]。2007年5月16日、メッカ州の新知事にハリード・アル・ファイサル王子が就任した.[21]。

1920年代に現在のサウジアラビア全土が統合されると、メッカには内閣府が置かれ、政治の中心となっていたが、1970年代にそれまで首都機能の整っていなかった首都リヤドに政府機能が集中するようになり、メッカの政府機関もリヤドへと移動した[22]。

経済[編集]





ホテルの窓からの大通りの夜景。メッカにおいて観光は重要な産業である
メッカの経済は巡礼に大きく依存してきた。巡礼はメッカ経済において唯一の産業というわけではないが、巡礼からの収入はメッカのみならずヒジャーズやネジドの経済に大きな影響を与えてきた。巡礼からの収入にはいくつかの方法があり、かつては巡礼には巡礼税が課されていた。この税は1972年までにすべて廃止された。しかし巡礼からの収入の多くは、巡礼に提供する各種サービスから生み出されるものである。たとえば、サウジアラビアの国営航空であるサウジアラビア航空は巡礼からの収入が総収入の12%を占める。陸路でメッカに来た巡礼客も、食事やホテル、みやげ物などのサービスの購入によって莫大な金額をメッカに落としていく。メッカにはムタッウィフと呼ばれる巡礼専門の旅行業者が古くより存在し、巡礼客の行動一切を取り仕切る。ムタッウィフは地元に古くから住む一族が生業としている。1930年代に、ムタッウィフたちはサウジアラビア初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードによって6つの会社に統合させられた[23]。

サウジアラビア政府は聖地の管理者として巡礼客に多額の出費を行い、年に5000万ドルもの支出を行っているが、メッカが受け取る収入は1億ドルにものぼる。他にもメッカにはいくらかの産業や工場があるものの、石油を中心とする経済となっているサウジアラビアにおいて、メッカはもはや経済で重要な地位を占めてはいない[24]。繊維製品や家具、調理用具製造などの産業があるものの、メッカの経済の主力はサービス業である。

20世紀後半から21世紀にかけて、航空運賃の低廉化によりジェット機で巡礼に来る客が増加し、巡礼ツアー商品や旅行パックの販売によって巡礼が行いやすくなったことも巡礼客増加に拍車をかけた。巡礼の時期の顧客増に対応できるようにされたホテルや商店の管理のために、巡礼期のみならず通年で雇用されるサウジ人は数千人にのぼる。こういった雇用の増加により、住宅やサービス業の需要が増加している。市の周辺には高速道路が張り巡らされ、ショッピングモールやホテル、高層ビルが林立している[25]。

文化[編集]





マスジド・ハラームと、奥のアブラージュ・アル・ベイト・タワーズ。近代的なビル群はマスジド・ハラームよりも高い。
メッカの文化は毎年到着する多くの巡礼者の影響を受け、非常に豊かなものとなっている。地元で話される言語はアラビア語のヒジャーズ方言であるが、世界各国からの巡礼者によって世界中のあらゆる言語が話されている。古来より世界各地の文化が混交するメッカにおいては、19世紀初頭のパドリ戦争(先述)のように、あらたなイスラームの潮流や新思想などが持ちよられ、持ち帰られた。

メッカで最も人気のあるスポーツはサッカーであり、1945年に設立されたサウジアラビアで最も古いプロサッカークラブのひとつであるアル・ワフダ・メッカがこの街に本拠を置いている。同チームは38000人が収容できるメッカ最大のスタジアムである[26]キング・アブドゥル・アジズ・スタジアムをホームとしている。

メッカには多くの学校がある。2005年には、532の公立・私立の男子校と681の公立・私立の女子校がメッカに存在した[27]。メッカには大学がひとつだけある。1949年に設立されたウンム・アル=クラー大学は、1979年に公立大学となった。


交通[編集]





メッカ付近の高速道路にある、イスラム教徒以外入域禁止の看板。非イスラム教徒は次の交差点で右折しなければならない
メッカにはメッカ東空港があるが、旅客サービスをしていないので、空路の場合、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ国際空港が最寄りとなる。同空港にはメッカ巡礼者のみを専門に扱うハッジ・ターミナルがある。

メッカには他都市とを結ぶ鉄道は2012年現在走っていない。20世紀初頭にはヒジャーズ鉄道の延伸計画があったものの、ダマスカスからメディナまで開通した時点で第一次世界大戦が勃発し、延伸計画もヒジャーズ鉄道そのものも廃止を余儀なくされた。しかし21世紀に入って、メディナからラービク、ジェッダ、キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を通ってメッカへと向かう全長444kmのハラマイン高速鉄道計画(聖都間高速鉄道計画)が持ち上がり、2009年に着工された。計画では2013年の開業を目指している[28]。この両聖都間は巡礼期間中は非常に混雑し、渋滞などによって期間中は約18時間もかかっていたのに対し、高速鉄道では2時間30分で両都市間を結ぶ計画であり、大幅な利便性向上が期待されている[29]。

いっぽうで、巡礼の時期とそれ以外を問わず、メッカ市においては住民にも巡礼客にも一切の公共交通機関は提供されていない。市内や郊外を回るためには、個人の車かタクシーに頼るより他はない。この状況を改善するために全線高架のライトレールであるメッカ・メトロ(メッカ巡礼鉄道)の建設が決定され、総工費67億サウジアラビア・リヤルをかけ[30]、2010年11月にメッカ郊外のミナーからムズダリファを通ってアラファートへと向かう18kmの第1期路線が開通し営業を開始した。この区間は巡礼においてすべての巡礼者が歩む道であり、300万人にものぼる巡礼によって非常に混雑していた区間であった。この計画においては、レールはメッカ市内にも乗り入れ、最終的に5路線を開業する予定である[31]。

群集事故[編集]

メッカは、常に膨大な数の巡礼が集まっており、何かの理由でパニックが起きた際、将棋倒しによる群集事故が絶えず、常に海外ニュースの紙面を飾っている。 1990年以降の大事故のみ数え上げても
1990年7月2日 - 1,426人死亡
1994年5月23日 - 270人死亡
1998年4月9日 - 119人死亡
2004年1月1日 - 251人死亡
2006年1月12日 - 362人死亡

といったものがある。死者が上記ほど多くない小事故については数え上げることすらできない。

比喩表現[編集]





マスジド・ハラームと周辺に集まる人々
「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、重要な場所、人を引きつける場所、あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として、イスラム教徒に限らず、世界中のどこででも用いられるようになっている。

ある一定の目的や意思を持った多数の人が集まる場所を「あこがれの地」や「中心」とみなしてイスラム教徒が集まるメッカに例えて「 - のメッカ」と慣用することがある。例えば「苗場はスキーヤーのメッカ」「高校球児のメッカ、甲子園」、あるいは「競艇のメッカ、住之江」などというように使う。この場合にはメッカの呼び方が使われる。ただしムスリムやサウジアラビア政府はこのような用法を好まない。テレビ朝日の番組では、生放送で「渋滞のメッカ、六本木」という表現をしたあと、不適切な表現だったと謝罪する一幕もあった。似たような比喩に「聖地」という表現がある。ちなみに現在のテレビ放送では「 - とのメッカ」は自粛用語の為、使用されない。

ムスタファ4世

ムスタファ4世(Mustafa IV. , 1779年9月8日 - 1808年11月15日)は、オスマン帝国の第29代皇帝(在位:1807年 - 1808年)。第27代皇帝アブデュルハミト1世の子でマフムト2世の兄。

生涯[編集]

即位と廃位[編集]

1807年、従兄の第28代セリム3世が西洋化改革を推進したために保守派の反発にあい、イェニチェリによって廃位されたのを受けて擁立され即位した。

しかし、セリム3世の退位によってイスタンブルから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン(地方名士)・アレムダル・ムスタファ・パシャを頼っていた。彼らの要請を受け入れたアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、翌1808年7月にイスタンブルに迫った。

ムスタファ4世はセリム3世の復位によって自身の帝位や命が脅かされることを怖れ、幽閉中のセリム3世を殺害させた。イスタンブルに入ったアレムダルらはセリム3世の死を知り、やむなくもう1人の帝位継承権者であるムスタファ4世の異母弟マフムト2世を担ぎ上げて即位させた。弟の即位によってムスタファ4世は廃位され、幽閉された。

死[編集]

マフムト2世の治世での実権は大宰相に就任したアレムダルが握ったが、同年11月、アレムダルが手勢を本拠地のルーセに返した隙を突いて反対派のイェニチェリがイスタンブルの大宰相邸を襲い、追い詰められたアレムダルは火薬庫で自爆死を遂げる事件が起こった。

支援者アレムダルの死の報せを受けたマフムト2世は廃位・殺害の危険を逃れるため過去の例に倣い、唯一の帝位継承権者である異母兄ムスタファ4世の処刑を命じた。廃帝ムスタファ4世は4ヶ月の幽閉生活の後に殺害され、遺骸はスルタンアフメット・モスクのアフメト1世廟に葬られた。

セリム3世

セリム3世(1761年12月24日 - 1808年7月28日)、オスマン帝国の第28代皇帝(在位: 1789年 - 1807年)。第26代皇帝・ムスタファ3世の子。


生涯[編集]

即位[編集]

1789年、叔父に当たる第27代皇帝・アブデュルハミト1世が死去したため、その跡を継いで皇帝として即位する。

内政改革と外圧[編集]

衰退していた王朝の勢力を盛り返すために国家体制の刷新事業に着手した。

内政においては西洋文明を取り入れることでの近代化を目指し、多くの成果を挙げた。しかしロシア帝国(ロマノフ朝)との戦いに敗れて1792年、ヤッシーの講和を締結することで和睦したが、その代償としてクリミアとグルジアにおける領土を割譲せざるを得なくなった。1796年、フランスのナポレオンがエジプト遠征を開始すると、イギリスやロシアと対仏同盟を結んで戦うが、1806年にロシアと再び戦争を開始した。ロシアとの蜜月は結局、ナポレオンという脅威があって結ばれたものであって、領土をめぐって争う両国との間で完全な和睦が成立するわけが無かったのである。[独自研究?]

そして1807年、イェニチェリを廃して西洋式の軍制である「ニザーム・ジェディード」を創設しようとしたため、イェニチェリの反乱によりセリム3世は廃位されてしまい、従弟のムスタファ4世が即位した。

暗殺[編集]

しかし、セリム3世の退位によってイスタンブルから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン(地方名士)・アレムダル・ムスタファ・パシャを頼っていた。彼らの要請を受け入れたアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、1808年7月にイスタンブルに迫った。

ムスタファ4世はセリム3世の復位によって自身の帝位や命が脅かされることを怖れ、幽閉中のセリム3世を殺害させた。
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