新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2014年02月06日
第一次アフガン戦争
詳細は「第一次アフガン戦争(英語版)」を参照
第一次アフガン戦争
Last-stand.jpg
ガンダマクで最後の攻撃を受ける英軍の生き残り。ウィリアムバーンズ ・ウォーレン画
時
1839年–1842年
場所
アフガニスタン
結果
バーラクザイ朝の決定的勝利
英軍の全滅
衝突した勢力
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg バーラクザイ朝 イギリスの旗 イギリス帝国
Flag of the British East India Company (1801).svg イギリス東インド会社
指揮官
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg ドースト・ムハンマド・ハーン
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg アクバル・ハーン Flag of the British East India Company (1801).svg ジョージ・イーデン (インド総督)
Flag of the British East India Company (1801).svg ウィリアム・ヘイ・マクナーテン(ボンベイ総督) †
Flag of the British East India Company (1801).svg ジョン・キーン(インダス軍総司令官)
Flag of the British East India Company (1801).svg ウィロビー・コットン(ボンベイ軍総司令官)
イギリス ウィリアム・エルフィンストン少将 (捕虜)
被害者数
約500
捕虜約1,500
約4,700 + 非戦闘員12,000
ドースト・ムハンマド・ハーン
ランジート・シング
シュジャー・シャー
現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュトゥーン人のサドザーイー部族(英語版)の王家が1818年に統一を失った後、1826年にドゥッラーニー系部族、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンが代わって権力を握り、バーラクザイ朝ハン国を建国。シク教国のランジート・シング(英語版)は、ドゥッラーニー朝の旧王家サドザーイー部族(英語版)のシュジャー・シャーを支援し、1834年にシュジャー・シャーが最後の反撃をバーラクザイ朝に加え、敗北はしたもののランジート・シングがペシャーワルを獲得した。
1835年にドースト・ムハンマドがアミール・アル=ムウミニーンを称してバーラクザイ朝アフガニスタン首長国(英語版)を興した。1837年、en:Battle of Jamrudではアフガニスタン首長国(英語版)が勝利した結果、シク教国の影響力はカイバル峠までとなった。イギリスは、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求した。ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。これに対し、イギリスのインド総督である第2代オークランド男爵ジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力掌握を嫌い、シュジャー・シャーと同盟者のランジート・シングを支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した(シムラ宣言 - 英: Simlah Manifesto[1])。
1839年1月、イギリス東インド会社軍は、クエッタからアフガニスタン領内に入ると、カンダハール(4月25日)、ガズナ、カーブル(8月7日)を次々に占領した。国王ドースト・ムハンマドは中央アジアのブハラに亡命し、1840年には帰還して再び抵抗するもののイギリスに敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定し、シュジャー・シャー国王もを復位させたが、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、またアフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発し、1842年1月、カーブルに駐留していたイギリス軍は撤退した。カーブル撤退時の冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により、兵士・人夫計1万6千人が全滅し[2](en:1842 retreat from Kabul)、イギリスが擁立したシュジャー・シャー国王も殺害された。同年秋、イギリスは、報復のために再び派兵し、カーブルと周辺の村落で破壊を行ったが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて、第一次アフガン戦争は終結した。
第一次アフガン戦争
Last-stand.jpg
ガンダマクで最後の攻撃を受ける英軍の生き残り。ウィリアムバーンズ ・ウォーレン画
時
1839年–1842年
場所
アフガニスタン
結果
バーラクザイ朝の決定的勝利
英軍の全滅
衝突した勢力
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg バーラクザイ朝 イギリスの旗 イギリス帝国
Flag of the British East India Company (1801).svg イギリス東インド会社
指揮官
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg ドースト・ムハンマド・ハーン
Flag of Afghanistan (1880–1901).svg アクバル・ハーン Flag of the British East India Company (1801).svg ジョージ・イーデン (インド総督)
Flag of the British East India Company (1801).svg ウィリアム・ヘイ・マクナーテン(ボンベイ総督) †
Flag of the British East India Company (1801).svg ジョン・キーン(インダス軍総司令官)
Flag of the British East India Company (1801).svg ウィロビー・コットン(ボンベイ軍総司令官)
イギリス ウィリアム・エルフィンストン少将 (捕虜)
被害者数
約500
捕虜約1,500
約4,700 + 非戦闘員12,000
ドースト・ムハンマド・ハーン
ランジート・シング
シュジャー・シャー
現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュトゥーン人のサドザーイー部族(英語版)の王家が1818年に統一を失った後、1826年にドゥッラーニー系部族、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンが代わって権力を握り、バーラクザイ朝ハン国を建国。シク教国のランジート・シング(英語版)は、ドゥッラーニー朝の旧王家サドザーイー部族(英語版)のシュジャー・シャーを支援し、1834年にシュジャー・シャーが最後の反撃をバーラクザイ朝に加え、敗北はしたもののランジート・シングがペシャーワルを獲得した。
1835年にドースト・ムハンマドがアミール・アル=ムウミニーンを称してバーラクザイ朝アフガニスタン首長国(英語版)を興した。1837年、en:Battle of Jamrudではアフガニスタン首長国(英語版)が勝利した結果、シク教国の影響力はカイバル峠までとなった。イギリスは、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求した。ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。これに対し、イギリスのインド総督である第2代オークランド男爵ジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力掌握を嫌い、シュジャー・シャーと同盟者のランジート・シングを支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した(シムラ宣言 - 英: Simlah Manifesto[1])。
1839年1月、イギリス東インド会社軍は、クエッタからアフガニスタン領内に入ると、カンダハール(4月25日)、ガズナ、カーブル(8月7日)を次々に占領した。国王ドースト・ムハンマドは中央アジアのブハラに亡命し、1840年には帰還して再び抵抗するもののイギリスに敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定し、シュジャー・シャー国王もを復位させたが、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、またアフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発し、1842年1月、カーブルに駐留していたイギリス軍は撤退した。カーブル撤退時の冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により、兵士・人夫計1万6千人が全滅し[2](en:1842 retreat from Kabul)、イギリスが擁立したシュジャー・シャー国王も殺害された。同年秋、イギリスは、報復のために再び派兵し、カーブルと周辺の村落で破壊を行ったが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて、第一次アフガン戦争は終結した。
ロゼッタ (エジプト)
ロゼッタ(Rosetta, アラビア語: رشيد Rashid ラシード、ラシッド)は、エジプトの地中海沿岸にある港湾都市の一つ。アレクサンドリアから65km東にあり、ブハイラ県に属する。人口約65000人(2001年)。
1799年、エジプト遠征中のナポレオン・ボナパルト軍が、ロゼッタ・ストーンを発見した地としても知られる。アラビア語でラシードという町の名はナポレオン軍の駐留以来、ロゼッタとして西洋に知られるようになった。
ロゼッタ(ラシード)は西暦800年ごろにナイル・デルタの分流の一つの河口に建設された。16世紀にオスマン帝国がエジプトを征服するとアレクサンドリアの衰退が始まり、代わってロゼッタ(ラシード)が繁栄した。1798年から1801年にかけてのナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際には重要な占領地となった。1807年にはムハンマド・アリーのエジプト掌握に対してイギリス軍が上陸を敢行したがロゼッタで大敗し、ムハンマド・アリーが他の有力者たちを抑え事実上の独立政権を打ち立てるきっかけとなった。
しかし19世紀にマフムーディーヤ運河が完成しアレクサンドリアが近代港湾として復活した後は、ロゼッタのナイル川の河口港としての重要度は低下していった。ロゼッタは19世紀には、オスマン帝国時代の邸宅が立ち並び空気も清涼な海辺の田舎町として、イギリス人の観光地となった。
1799年、エジプト遠征中のナポレオン・ボナパルト軍が、ロゼッタ・ストーンを発見した地としても知られる。アラビア語でラシードという町の名はナポレオン軍の駐留以来、ロゼッタとして西洋に知られるようになった。
ロゼッタ(ラシード)は西暦800年ごろにナイル・デルタの分流の一つの河口に建設された。16世紀にオスマン帝国がエジプトを征服するとアレクサンドリアの衰退が始まり、代わってロゼッタ(ラシード)が繁栄した。1798年から1801年にかけてのナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際には重要な占領地となった。1807年にはムハンマド・アリーのエジプト掌握に対してイギリス軍が上陸を敢行したがロゼッタで大敗し、ムハンマド・アリーが他の有力者たちを抑え事実上の独立政権を打ち立てるきっかけとなった。
しかし19世紀にマフムーディーヤ運河が完成しアレクサンドリアが近代港湾として復活した後は、ロゼッタのナイル川の河口港としての重要度は低下していった。ロゼッタは19世紀には、オスマン帝国時代の邸宅が立ち並び空気も清涼な海辺の田舎町として、イギリス人の観光地となった。
ナポレオン戦争
ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、フランス語: Guerres napoléoniennes、英語: Napoleonic Wars、ドイツ語: Napoleonische Kriege)は、1803年にアミアンの和約が破れてから1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に没落するまでに行われた戦争である。狭義ではナポレオンが皇帝に即位して以後(つまり1804年から)の期間。
ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。
概要[編集]
ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。
1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争(だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争とも呼ぶ。大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについて定説はない。1803年5月のアミアンの和約の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役についてから述べる。
ナポレオン戦争ではヨーロッパ大陸に加えて世界各地の植民地も戦場となった。このため七年戦争に続く2度目の「世界大戦」であると言われる場合もある。
参戦国[編集]
全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
ほぼ一貫してフランス側で参戦した国家
フランス帝国、デンマーク王国、ワルシャワ公国時期によって立場を変えた国家
スペイン王国、ライン同盟諸邦(バイエルン王国、ザクセン王国など)、ナポリ王国、オランダ(バタヴィア共和国、ホラント王国)、スイス(ヘルヴェティア共和国)ほぼ一貫して対仏大同盟側で参戦した国家
イギリス、オーストリア(ハプスブルク君主国)、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルトガル王国、オスマン帝国、サルデーニャ王国、教皇領
軍事的側面[編集]
動員・編成[編集]
ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義諸国は、傭兵を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノーであった。さらに、産業革命の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。
軍事技術[編集]
18世紀後期の大砲
歩兵の主力兵器はフリントロック式前装銃であった。ライフルも使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站は、いまだ鉄道が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦い(英語版)において初めて実用化された。
ナポレオンの戦術[編集]
ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦いでは分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦いでは敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦いやフリートラントの戦いはこの成功例の最たるものと言える。
ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。
概要[編集]
ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。
1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争(だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争とも呼ぶ。大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについて定説はない。1803年5月のアミアンの和約の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役についてから述べる。
ナポレオン戦争ではヨーロッパ大陸に加えて世界各地の植民地も戦場となった。このため七年戦争に続く2度目の「世界大戦」であると言われる場合もある。
参戦国[編集]
全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
ほぼ一貫してフランス側で参戦した国家
フランス帝国、デンマーク王国、ワルシャワ公国時期によって立場を変えた国家
スペイン王国、ライン同盟諸邦(バイエルン王国、ザクセン王国など)、ナポリ王国、オランダ(バタヴィア共和国、ホラント王国)、スイス(ヘルヴェティア共和国)ほぼ一貫して対仏大同盟側で参戦した国家
イギリス、オーストリア(ハプスブルク君主国)、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルトガル王国、オスマン帝国、サルデーニャ王国、教皇領
軍事的側面[編集]
動員・編成[編集]
ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義諸国は、傭兵を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノーであった。さらに、産業革命の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。
軍事技術[編集]
18世紀後期の大砲
歩兵の主力兵器はフリントロック式前装銃であった。ライフルも使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站は、いまだ鉄道が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦い(英語版)において初めて実用化された。
ナポレオンの戦術[編集]
ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦いでは分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦いでは敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦いやフリートラントの戦いはこの成功例の最たるものと言える。
上エジプト
上エジプト(かみエジプト、英: Upper Egypt)は、エジプトの地域名。現在のカイロ南部からアスワンあたりまでを指す。カイロ以北のナイルデルタである下エジプトとともに古代エジプトを構成する二大地域であった。中間期には上エジプトと下エジプトにそれぞれ王朝が分立し、覇権を争うことも多かった。
エジプトに興った文明は、紀元前3500年ごろに上エジプトと下エジプトの二つの王朝にまとまり、紀元前3150年ごろに上エジプトのナルメル王が下エジプトを押さえてエジプト最古の統一王朝であるエジプト第1王朝を建設した。当時の上エジプトの中心はヒエラコンポリス(英語版)であり、ヒエラコンポリスの守護神であったネクベトはやがて上エジプト全体の守護神となっていった。上エジプトの王冠は白色、植物はハスが象徴とされた[1]。
エジプト第1中間期には上エジプトはいくつかの勢力に分裂していたが、やがてテーベが力をつけ、ヒエラコンポリスやティニスを破って上エジプトを統一し、テーベを基盤とするエジプト第11王朝が下エジプトをも制圧してエジプト中王国時代を成立させた。この際、テーベ地方の神であったアメン神がエジプト全土の神となり、第30王朝期までの間、エジプトの主神であり続けた。
エジプト第2中間期にも、下エジプトのアヴァリスを都としたヒクソスのエジプト第15王朝と上エジプトを領するテーベの第17王朝が争い、第17王朝が勝利してエジプト新王国時代が到来した。
現在は、カイロ首都圏や港湾都市群やナイルデルタの農地を抱えエジプト経済の中心部である下エジプトに対し、純然たる農村部で発展が遅れた上エジプトは、エジプト社会でも独自の位置を占めている。住民の多くは、アラブによる征服以前のエジプト民族の遺風を濃く残すフェラヒンと呼ばれる農民で、イスラム教徒に対するコプト教徒(キリスト教徒)の割合が高いといった特徴も持つ。
エジプトに興った文明は、紀元前3500年ごろに上エジプトと下エジプトの二つの王朝にまとまり、紀元前3150年ごろに上エジプトのナルメル王が下エジプトを押さえてエジプト最古の統一王朝であるエジプト第1王朝を建設した。当時の上エジプトの中心はヒエラコンポリス(英語版)であり、ヒエラコンポリスの守護神であったネクベトはやがて上エジプト全体の守護神となっていった。上エジプトの王冠は白色、植物はハスが象徴とされた[1]。
エジプト第1中間期には上エジプトはいくつかの勢力に分裂していたが、やがてテーベが力をつけ、ヒエラコンポリスやティニスを破って上エジプトを統一し、テーベを基盤とするエジプト第11王朝が下エジプトをも制圧してエジプト中王国時代を成立させた。この際、テーベ地方の神であったアメン神がエジプト全土の神となり、第30王朝期までの間、エジプトの主神であり続けた。
エジプト第2中間期にも、下エジプトのアヴァリスを都としたヒクソスのエジプト第15王朝と上エジプトを領するテーベの第17王朝が争い、第17王朝が勝利してエジプト新王国時代が到来した。
現在は、カイロ首都圏や港湾都市群やナイルデルタの農地を抱えエジプト経済の中心部である下エジプトに対し、純然たる農村部で発展が遅れた上エジプトは、エジプト社会でも独自の位置を占めている。住民の多くは、アラブによる征服以前のエジプト民族の遺風を濃く残すフェラヒンと呼ばれる農民で、イスラム教徒に対するコプト教徒(キリスト教徒)の割合が高いといった特徴も持つ。
ナイル川デルタ
ナイル川デルタ(アラビア語: دلتا النيل、英: Nile Delta)は、エジプト北部のナイル川河口にある三角州(デルタ)地帯。アレクサンドリアからポートサイドにかけ、東西240kmにわたり広がる世界最大級の三角州で、肥沃な土壌を生んでいる。首都カイロから少し下ったところから始まる。河口まで160kmだが、その間の高低差は16mしかない。デルタの厚さは平均20m。
地理[編集]
ナイル川とデルタ地帯
南北160km、東西240kmにわたって広がる。ディムヤート川(ダミエッタ川)とロゼッタ川の二つの主流を境に東西に分けられることもある。この二つはそれぞれ同名の港湾都市(ディムヤートとロゼッタ)を通り、地中海に流れ込む。過去にはもっと多くの分流があったが、治水事業により多くが消滅した。その一つにワジ・トゥミラートがある。スエズ運河が走る北東部にはマンザラ湖、ブルルス湖、イドゥク湖、マリュート湖などの湖沼がある。
上空から見ると三角形やハスの花に見えることから、デルタはアーチ形をしていると言われる。外縁部では砂漠を侵食し、沿岸部のラグーンは年々塩分濃度が濃くなっている。アスワン・ハイダムの建設により上流から流れ着く栄養分や堆積物が均等化してからは、氾濫原の土壌がやせたため、大量の肥料が使われはじめた。
歴史[編集]
ヘロドトスの時代のデルタ。ジェイムズ・レンネル画(1800年)
ナイル川デルタには数千年前から人々が住み着き、遅くとも5000年前には耕作が始まっていた。上流にアスワン・ハイダムが建設されるまでは、ナイル川は毎年のように氾濫を起こしていた。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによるとデルタには7つの支流があり、東から西へそれぞれPelusiac、Tanitic、Mendesian、Phatnitic(Phatmetic[1])、Sebennytic、Bolbitine、Canopic(Herakleotic)と呼ばれていた。現在では治水事業などによりほとんどが消滅し、東にディムヤート川(古代のPhatnitic)、西にロゼッタ川(Bolbitine)が流れるのみである[2]。1799年にはロゼッタ市でロゼッタ・ストーンが発見された。ファラオの時代には下エジプトや「ゴシェンの地」として知られていた。デルタでは多くの考古学遺跡が残る[3]。
人口[編集]
エジプトの総人口8000万人のおよそ半数がデルタ地帯に住む。主要都市の郊外では人口密度が1平方kmあたり1000人を超える。
動植物[編集]
クロハラアジサシ
秋には一部で赤いハスの花が咲く。南部の下エジプトではエジプトハス、北部の上エジプトではカヤツリグサパピルスが見られるが、近年めっきり減った。冬にはアオサギ、シロチドリ、ハシビロガモ、ウなどの数十万羽の水鳥が押し寄せ、その中にはヒメカモメやクロハラアジサシもいる。
カエル、カメ、マングース、ナイルオオトカゲなどの動物もいる。昔はナイルワニやカバも広範囲に分布していたが、今では見られない。ボラやカレイなどの魚もいる。
気候[編集]
ナイル川デルタは地中海性気候で、冬を中心に年間100から200mmの雨が降る。7月から8月にかけてが最も暑く、平均で30度、最高気温は48度にもなる。冬は10度から19度の間で推移する。この気温と少々の雨により、冬はかなり湿度が高くなる。
地理[編集]
ナイル川とデルタ地帯
南北160km、東西240kmにわたって広がる。ディムヤート川(ダミエッタ川)とロゼッタ川の二つの主流を境に東西に分けられることもある。この二つはそれぞれ同名の港湾都市(ディムヤートとロゼッタ)を通り、地中海に流れ込む。過去にはもっと多くの分流があったが、治水事業により多くが消滅した。その一つにワジ・トゥミラートがある。スエズ運河が走る北東部にはマンザラ湖、ブルルス湖、イドゥク湖、マリュート湖などの湖沼がある。
上空から見ると三角形やハスの花に見えることから、デルタはアーチ形をしていると言われる。外縁部では砂漠を侵食し、沿岸部のラグーンは年々塩分濃度が濃くなっている。アスワン・ハイダムの建設により上流から流れ着く栄養分や堆積物が均等化してからは、氾濫原の土壌がやせたため、大量の肥料が使われはじめた。
歴史[編集]
ヘロドトスの時代のデルタ。ジェイムズ・レンネル画(1800年)
ナイル川デルタには数千年前から人々が住み着き、遅くとも5000年前には耕作が始まっていた。上流にアスワン・ハイダムが建設されるまでは、ナイル川は毎年のように氾濫を起こしていた。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによるとデルタには7つの支流があり、東から西へそれぞれPelusiac、Tanitic、Mendesian、Phatnitic(Phatmetic[1])、Sebennytic、Bolbitine、Canopic(Herakleotic)と呼ばれていた。現在では治水事業などによりほとんどが消滅し、東にディムヤート川(古代のPhatnitic)、西にロゼッタ川(Bolbitine)が流れるのみである[2]。1799年にはロゼッタ市でロゼッタ・ストーンが発見された。ファラオの時代には下エジプトや「ゴシェンの地」として知られていた。デルタでは多くの考古学遺跡が残る[3]。
人口[編集]
エジプトの総人口8000万人のおよそ半数がデルタ地帯に住む。主要都市の郊外では人口密度が1平方kmあたり1000人を超える。
動植物[編集]
クロハラアジサシ
秋には一部で赤いハスの花が咲く。南部の下エジプトではエジプトハス、北部の上エジプトではカヤツリグサパピルスが見られるが、近年めっきり減った。冬にはアオサギ、シロチドリ、ハシビロガモ、ウなどの数十万羽の水鳥が押し寄せ、その中にはヒメカモメやクロハラアジサシもいる。
カエル、カメ、マングース、ナイルオオトカゲなどの動物もいる。昔はナイルワニやカバも広範囲に分布していたが、今では見られない。ボラやカレイなどの魚もいる。
気候[編集]
ナイル川デルタは地中海性気候で、冬を中心に年間100から200mmの雨が降る。7月から8月にかけてが最も暑く、平均で30度、最高気温は48度にもなる。冬は10度から19度の間で推移する。この気温と少々の雨により、冬はかなり湿度が高くなる。
カイロ
カイロ(アラビア語: القاهرة, al-Qāhira, アル・カーヒラ、英語: Cairo)は、エジプトの首都である。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つである。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市である。
概要[編集]
カイロ市街
カイロ市街
ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。都市自体の人口は675万8581人(2006年)、近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である[1]。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第50位の都市と評価されており[2]、アフリカの都市としては第1位であった。またプライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である[3]。
エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ南端、要に位置し、河谷を流れてきたナイル川がデルタを形成する、その先端に位置する。エジプトはナイル河谷地方の上エジプトとデルタ地方の下エジプトとに古代エジプト以来2分されているが、その両者の接点にカイロは位置する。イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。
日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(القاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル(مصر ; Miṣr、現代エジプト方言ではマスル。もともとは「エジプト」を意味する呼称)という通称がよく用いられる。
カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
歴史[編集]
カイロ郊外、ギーザの三大ピラミッド
カイロ郊外、ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド
古代[編集]
古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。
アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.(英語版); Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。
イスラム帝国時代[編集]
イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。
9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。
カイロ市の成立[編集]
フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった(元々フスタートもミスルと呼ばれていた)。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。
ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はたびたびファーティマ朝に侵攻し、ファーティマ朝はエルサレム王国に貢納することで平和をあがなったが、1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、かわって甥のサラーフッディーンが実権を握った。
1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。
しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。
近世以降[編集]
1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州(英語版)の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。
1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍も1801年8月には降伏する。
1847年のカイロ市地図
19世紀後半のシタデル
彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した[4]。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった[5]。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。
2011年2月8日のタハリール広場のデモ
1922年にエジプトは独立をはたし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っており、これに不満を持った市民は1952年1月26日に黒い土曜日といわれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。
革命政府はカイロの近代化を進め、東部郊外のナセルシティなどに高級住宅街の開発が進められた。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した[6]。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出し、やがて2011年、ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。
概要[編集]
カイロ市街
カイロ市街
ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。都市自体の人口は675万8581人(2006年)、近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である[1]。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第50位の都市と評価されており[2]、アフリカの都市としては第1位であった。またプライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である[3]。
エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ南端、要に位置し、河谷を流れてきたナイル川がデルタを形成する、その先端に位置する。エジプトはナイル河谷地方の上エジプトとデルタ地方の下エジプトとに古代エジプト以来2分されているが、その両者の接点にカイロは位置する。イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。
日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(القاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル(مصر ; Miṣr、現代エジプト方言ではマスル。もともとは「エジプト」を意味する呼称)という通称がよく用いられる。
カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
歴史[編集]
カイロ郊外、ギーザの三大ピラミッド
カイロ郊外、ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド
古代[編集]
古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。
アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.(英語版); Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。
イスラム帝国時代[編集]
イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。
9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。
カイロ市の成立[編集]
フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。政治都市の方は、カーヒラ(カイロ)と呼ばれ、経済都市フスタートの方はミスルと呼ばれるようになった(元々フスタートもミスルと呼ばれていた)。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。
ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はたびたびファーティマ朝に侵攻し、ファーティマ朝はエルサレム王国に貢納することで平和をあがなったが、1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、かわって甥のサラーフッディーンが実権を握った。
1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。
しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。
近世以降[編集]
1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州(英語版)の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。
1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍も1801年8月には降伏する。
1847年のカイロ市地図
19世紀後半のシタデル
彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した[4]。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった[5]。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。
2011年2月8日のタハリール広場のデモ
1922年にエジプトは独立をはたし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っており、これに不満を持った市民は1952年1月26日に黒い土曜日といわれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。
革命政府はカイロの近代化を進め、東部郊外のナセルシティなどに高級住宅街の開発が進められた。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した[6]。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出し、やがて2011年、ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。
ウラマー
ウラマー(アラビア語: علماء ʿulamāʾ)はイスラームにおける知識人のこと。イスラム教における実質的な聖職者(建前としては異論が多い)。アラビア語の「知る」(علم ʿalima)の能動分詞「知る者」(عالم ʿālim)の複数形である。通常、集団として扱うため術語として原語、欧米語、日本語とも複数形のウラマーを用いる。日本語ではイスラム法学者と訳される場合も多い。
概説[編集]
法学や神学、哲学、あるいはハディース学、アラビア文法学など、伝統的イスラーム的学問を修めた人々に対して用いる。概念範囲は広く、社会的あり方から中国史における士大夫との比較もなされる。ただし一般にウラマーとして示される人々は大部分が法学者である。ウラマーは特定の地位や職業を指すわけではなく、知識を持つ者が人々の間でウラマーであると認識されて成り立つ。
日本の報道などではシーア派ウラマーを中心に聖職者と紹介されることが多いが、司祭やラビのような聖職者とは違い教会組織を持たないため、厳密には区分されることもある。これはイスラームでの聖職者との意味はイスラーム設立期に対立した多神教における神と人間の間を仲介するものとの意味があるからである。イスラームでは、建前の上では全ての信者は同列とされる。実態としては、礼拝の指導やファトワーの発布などの役割を担うだけで宗教教育における先生にもあたり一般の信者にとってウラマーは敬意と尊敬(崇拝ではない)の対象になるなどイスラーム教徒の共同体を導く役目を持っているだけでなく大抵は信者の援助で生活を賄っているため日本語の感覚からいえば聖職者といえる。ただし教徒が小数の場合は他の世俗的職で生活を賄いながら週末はウラマーという場合も存在しえる。またイスラム教でも聖人が存在するがこれらの聖人の聖廟に対する礼拝や巡礼が単なる敬意にあたるのか(偶像)崇拝にあたるのかは一部の宗派で問題になっている。サウジアラビアの国教であるサラフィー主義・ワッハーブ派ではこのような行為は処刑の対象である。
他の宗教の聖職者との違い[編集]
ウラマーは他の宗教の聖職者のように他の人間よりも神に近い存在ではない、他の信者よりも神に近い人間がいるとすればそれは預言者(ナビー)でありムハンマド以降に預言者が出現したことは無いので、ウラマーであっても神との関係は他の一般信者と変わらない。
ウラマーはキリスト教の神父や仏教の僧侶など他宗教の聖職者のように妻帯禁止や聖職者だけの制限を課されることは無い、宗教的な義務や禁忌は全ての信者(ムスリム)が同じように守らなければならない物である。このため、ウラマーは初期から普通に妻帯して子供を残しており、世襲も珍しくない。 クルアーンやスンナを学ぶことは全ての信者に対して科された努力目標であり、聖職者だけが経典を学ぶことも無い。
概説[編集]
法学や神学、哲学、あるいはハディース学、アラビア文法学など、伝統的イスラーム的学問を修めた人々に対して用いる。概念範囲は広く、社会的あり方から中国史における士大夫との比較もなされる。ただし一般にウラマーとして示される人々は大部分が法学者である。ウラマーは特定の地位や職業を指すわけではなく、知識を持つ者が人々の間でウラマーであると認識されて成り立つ。
日本の報道などではシーア派ウラマーを中心に聖職者と紹介されることが多いが、司祭やラビのような聖職者とは違い教会組織を持たないため、厳密には区分されることもある。これはイスラームでの聖職者との意味はイスラーム設立期に対立した多神教における神と人間の間を仲介するものとの意味があるからである。イスラームでは、建前の上では全ての信者は同列とされる。実態としては、礼拝の指導やファトワーの発布などの役割を担うだけで宗教教育における先生にもあたり一般の信者にとってウラマーは敬意と尊敬(崇拝ではない)の対象になるなどイスラーム教徒の共同体を導く役目を持っているだけでなく大抵は信者の援助で生活を賄っているため日本語の感覚からいえば聖職者といえる。ただし教徒が小数の場合は他の世俗的職で生活を賄いながら週末はウラマーという場合も存在しえる。またイスラム教でも聖人が存在するがこれらの聖人の聖廟に対する礼拝や巡礼が単なる敬意にあたるのか(偶像)崇拝にあたるのかは一部の宗派で問題になっている。サウジアラビアの国教であるサラフィー主義・ワッハーブ派ではこのような行為は処刑の対象である。
他の宗教の聖職者との違い[編集]
ウラマーは他の宗教の聖職者のように他の人間よりも神に近い存在ではない、他の信者よりも神に近い人間がいるとすればそれは預言者(ナビー)でありムハンマド以降に預言者が出現したことは無いので、ウラマーであっても神との関係は他の一般信者と変わらない。
ウラマーはキリスト教の神父や仏教の僧侶など他宗教の聖職者のように妻帯禁止や聖職者だけの制限を課されることは無い、宗教的な義務や禁忌は全ての信者(ムスリム)が同じように守らなければならない物である。このため、ウラマーは初期から普通に妻帯して子供を残しており、世襲も珍しくない。 クルアーンやスンナを学ぶことは全ての信者に対して科された努力目標であり、聖職者だけが経典を学ぶことも無い。
アミアンの和約
イギリスは1793年に第一次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦して以来、フランスとの間で戦争状態にあった。だがオーストリアが1801年にリュネヴィルの和約を締結して第二次対仏大同盟から脱落すると、イギリスのみが戦争を続けることになった。同年、イギリスでは対フランス強硬派のウィリアム・ピットが国内の宗教問題などから退陣し、対フランス融和派のヘンリー・アディントンが内閣を組織した。フランスでも、第一統領の地位にあったナポレオンは対外戦争より国内の安定を重視し、講和は望むものであった。こうして、1802年3月に講和条約が締結された。
講和条約において、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約した。これによって、マルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになった。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約した。
以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続いた。しかしアミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されなかった。1803年5月、イギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5月16日、イギリスは和約を破棄し再度フランスへ宣戦した。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していく。
講和条約において、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約した。これによって、マルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになった。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約した。
以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続いた。しかしアミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されなかった。1803年5月、イギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5月16日、イギリスは和約を破棄し再度フランスへ宣戦した。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していく。
マムルーク
マムルーク(単数形 : مملوك mamlūk, 複数形 : مماليك mamālīk)は、イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。原義は「所有(m-l-k)された者」を意味し、本来はアブド、ジャーリヤなどのアラビア語で奴隷を指す様々な語のうちの男性奴隷を指す語のひとつであるが、特にマムルークの語は9世紀頃から19世紀初頭頃までイスラム世界の各地で広く活躍した白人の奴隷身分出身の軍人たちを指すのが普通である。
イスラム世界において「白人」とは「黒人」の純粋な対義語であり、サハラ以南のアフリカのネグロイドを除くユーラシア・アフリカ大陸に住んでいた人種がおおむね白人と考えられていた。軍人として活躍したマムルークの出自はおおよそがキプチャクなどのテュルク系民族あるいはチェルケス人などのカフカス系民族であったが、モンゴル人、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人、スラヴ人等の民族も含まれた。
マムルークは、多くが幼少の頃から乗馬に親しんでいる騎馬民の出身で、また幼少のうちに購入されて乗馬、弓射、槍術などの徹底した訓練を受けて弓射を得意とする騎兵のエリート軍人として育成された。彼らはその優れた軍事力で13世紀から16世紀初頭までエジプト・シリアを支配したマムルーク朝では事実上の支配階層であった。
イスラム世界において「白人」とは「黒人」の純粋な対義語であり、サハラ以南のアフリカのネグロイドを除くユーラシア・アフリカ大陸に住んでいた人種がおおむね白人と考えられていた。軍人として活躍したマムルークの出自はおおよそがキプチャクなどのテュルク系民族あるいはチェルケス人などのカフカス系民族であったが、モンゴル人、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人、スラヴ人等の民族も含まれた。
マムルークは、多くが幼少の頃から乗馬に親しんでいる騎馬民の出身で、また幼少のうちに購入されて乗馬、弓射、槍術などの徹底した訓練を受けて弓射を得意とする騎兵のエリート軍人として育成された。彼らはその優れた軍事力で13世紀から16世紀初頭までエジプト・シリアを支配したマムルーク朝では事実上の支配階層であった。
クルド人
クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東のクルディスタンに住む山岳民族。
概要[編集]
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派 (トルコのクルド人のあいだでは、スンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yârsân とも)なども存在する。言語的には、インド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。アイユーブ朝の始祖、サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
歴史[編集]
詳細は「クルド人の歴史(英語版)」を参照
「スバル人(英語版)」および「シュメール」も参照
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
1946年、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって樹立された。
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
トルコ[編集]
詳細は「北クルディスタン」を参照
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千〜1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kürtleri、クルド語: Kurdên Anatoliya Navîn)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブル、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブルであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]。
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている。
2006年5月24日、イスタンブルのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20〜30議席前後を獲得した。
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にも拘わらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]。
概要[編集]
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派 (トルコのクルド人のあいだでは、スンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yârsân とも)なども存在する。言語的には、インド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。アイユーブ朝の始祖、サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
歴史[編集]
詳細は「クルド人の歴史(英語版)」を参照
「スバル人(英語版)」および「シュメール」も参照
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
1946年、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって樹立された。
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
トルコ[編集]
詳細は「北クルディスタン」を参照
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千〜1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kürtleri、クルド語: Kurdên Anatoliya Navîn)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブル、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブルであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]。
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている。
2006年5月24日、イスタンブルのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20〜30議席前後を獲得した。
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にも拘わらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]。