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2014年02月06日

エチオピア

エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家である。首都はアディスアベバ。

アフリカ最古の独立国として知られる。サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。

国名[編集]

正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya)。

公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia。

日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。漢字による表記は哀提伯。他にエティオピアとも表記される。

国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。ギリシャ神話のパエトーンを参照。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方およびその地にやってきたセム系民族アクスム人(別名ハバシャあるいはアバシャ。アムハラ語:ሐበሻ hābešā/አበሻ `ābešā)を指すアル・ハバーシャ(al-ḥabašah الحبشة)が転訛した物である [2]。

ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年に憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。

歴史[編集]

詳細は「エチオピアの歴史」を参照

古代・中世[編集]





ギリシャ語が刻まれたアクスム王国の通貨
エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(英語版)(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエル[2]の女首長グディト(英語版)に滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族(英語版)のザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。

エチオピア帝国[編集]

詳細は「エチオピア帝国」を参照

エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。

ザグウェ朝[編集]

ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年–1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ(英語版)王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

ソロモン朝[編集]

イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝(英語版)エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世(英語版)以降15世紀のゼラ・ヤコブ(英語版)まで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。

諸公侯時代[編集]

しかし、16世紀以降ムダイト朝(英語版)オーッサ・スルタン国(英語版)(1734年–現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。

ソロモン朝の中興[編集]





19世紀末のエチオピア
諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で唯一独立を守り切った国家となった。

イタリア領東アフリカ[編集]

詳細は「イタリア領東アフリカ」を参照

しかし、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。

イギリス軍政下[編集]

1941年にはイギリス軍によって解放された。

独立・ソロモン朝[編集]





エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世。ジャマイカのラスタファリ運動などで世界各地の黒人に大きな希望を与えた。
再び独立を回復した(ラスタファリ運動)。

エチオピア・エリトリア連邦[編集]

詳細は「エチオピア・エリトリア連邦」を参照

1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[3]。

冷戦期・メンギスツ政権[編集]

1962年にはエリトリア州として併合した。こうした中1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。

軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦(英語版))。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争、オガデン戦争)の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。

独立・メレス政権[編集]

1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたEPRDFによるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

オガデンの反乱[編集]

詳細は「:en:Insurgency in Ogaden」を参照

エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]

1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理は国際連合安全保障理事会決議1312によりPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。

2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。

東アフリカ大旱魃[編集]

詳細は「東アフリカ大旱魃」および「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照

ハイレマリアム政権[編集]

2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレン(英語版)が新首相に就任。

政治[編集]





第12代首相ハイレマリアム・デサレン(英語版)
詳細は「エチオピアの政治(英語版)」を参照

政治体制は、連邦共和制。国家元首の大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領は駐日大使の経験もあるムラトゥ・テショメで、2013年10月7日に就任した。

行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。現首相のハイレマリアム・デサレン(SEPDM)はメレス・ゼナウィ前首相の急逝を承け、2012年8月20日に就任した。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。

議会は、二院制。上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。

連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を構成するオロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党・メディン党、虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。かつての支配政党エチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。

国際関係[編集]

近隣諸国との関係では、かつてエチオピアの領土であった隣国のエリトリアとは、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ戦争を戦い抜いたこともあり1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退し、現在でも紛争が相次いでいる。

また、かつて大ソマリ主義を掲げていたソマリアとの関係も問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[4]。これは1988年にエチオピアの勝利に終わったものの、以後も両国の関係は良好とはいいがたかった。1991年にソマリア政府が崩壊しソマリアが無政府状態となったのち、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国の原理主義化を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。

ディルイーヤ

ディルイーヤ (アラビア語: الدرعية‎) は、サウジアラビアの首都リヤド郊外に位置する都市である。かつてはサウジアラビアの王族サウード家の本拠地で、1744年から1818年には第一次サウード王国の首都であった。ワッハーブ運動の拠点となる都市でもあったディルイーヤには、第一次サウード王国時代の都市遺跡が多く残り、その中心だったツライフ(トライフ)地区は、2010年にユネスコの世界遺産リストに登録された。第一次サウード王国滅亡後はながらく廃墟となっていたが、現在はリヤード州に属し、ウヤイナ(英語版)、ジュバイラ (Jubayla)、アル=アンマリーヤ (Al-Ammariyyah) などを含むディルイーヤ行政区(英語版)の政庁所在地となっている。

ラテン文字ではAl-Diriyah, Ad-Dir'iyah, Ad-Dar'iyah, Dir'aiyahなどと転写され、日本語ではディライヤ、ディライーヤ、ディリヤ、ダルイーヤなどとも表記される[注釈 1]。

位置[編集]

ディルイーヤ旧市街の遺跡は、ワディ・ハニファ(英語版)と呼ばれる狭い谷の両側に残っており、この谷の南方はリヤドやその先に続いている。旧市街の建物は日干しレンガづくりで、谷を見渡せる丘の上に発達したグサイバー (Ghussaibah)、アル=ムライベード (Al-Mulaybeed)、ツライフ (Turaif) という3つの地区に分かれている。その3地区の中でも、ツライフがもっとも高い場所にあり、そのふもとは観光客たちが徒歩でも容易にアクセスできる。渓谷の背に沿って建てられた日干しレンガの市壁の一部が、見張り塔などとともに現存している。

新市街はツライフのある丘のふもとの、より低い場所に建てられている。町の北部の谷あいへと、数多くの庭園、農場、ヤシ林などが存在しており、より北にはアル・イルブ (Al-Ilb) というダムが存在している。

歴史[編集]

ヤークート・アル=ハマウィー、アブー・ムハンマド・アル=ハマダニ(英語版)によって言及されていた古代の集落「ガブラ」(Ghabra) に同定されることはあるものの[1]、ディルイーヤそのものの歴史は、15世紀から始まる。ナジュドの年代記によれば、都市はサウード王家の先祖であるマニ・アル=ムライディ (Mani Al-Mraydi) によって、1446年から1447年にかけて建設された。マニとその一族はアラビア東部のカティーフから、のちにリヤドとなる集落群を束ねていたイブン・ディル (Ibn Dir') の招きでやって来た。イブン・ディルはマニ・アル=ムライディの縁者といわれており、いつかの時期にワディ・ハニファを去っていたマニの一族は、本来の故郷に戻ったに過ぎないと信じられている[2][3]。

当初、 マニとその一族は、グサイバー地区とアル=ムライベード地区に住んでいた。集落全体がマニの恩人であるイブン・ディルにちなんで、アル=ディルイーヤ (Al-Dir'iyah) と呼ばれた。後に彼らはツライフ地区に移った[3]。他の町から移り住む人々や、砂漠のベドウィンの中から移り住む人々がいて、18世紀までにはナジュドでよく知られる町になっていった。





ディルイーヤ旧市街における修復されたムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスク
その時期に、ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は、ディルイーヤの支配者一族であったアル・ミグリン(マニの子孫)との戦いを経て、ディルイーヤのアミール(支配者)の座に着いた。1744年にイブン・サウードは、ディルイーヤと同じ渓谷の48kmほど上流の町アル=ウヤイナ(英語版)から逃亡してきた宗教学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(英語版)を迎え入れた。イブン・サウードはアブドゥルワッハーブの宗教上の主張を広めることに同意し、のちに第一次サウード王国と呼ばれる国が、その首都であるディルイーヤとともに、誕生したのである。それからの数十年のうちに、イブン・サウードとその一族は、ナジュド全土だけでなく、アラビアの東部も西部も支配下におさめることに成功し、イラクにも攻略の手を伸ばしていた。ディルイーヤは規模の面で拡大しただけでなく、富も増大させ、ナジュド最大の都市となり、アラビアでも大都市のひとつへと成長したのである。しかし、イスラームの聖地メッカとマディーナを支配下に置いたことで、イスラーム世界における強国オスマン帝国の怒りを買い、1811年から1818年のオスマン=サウジ戦争(英語版)につながった。そして、オスマンとエジプトの軍勢によるナジュド遠征(英語版)が行われ、ほぼ1年にわたるディルイーヤ攻囲戦(英語版)によって、サウード王国は1818年に終焉したのである。侵略軍の指揮官であったエジプトのイブラーヒーム・パシャは、ディルイーヤの破壊を命じ、多くの地元の貴族たちがワッハーブ国家を再興しようとしたときにも、都市の更なる破壊と残された物の焼却を命じた。サウード家は1824年に第二次サウード王国を再興させることになるが、首都はより南のリヤドに移した[4]。1902年に今のリヤドの基礎が築かれ、サウジアラビアの首都となっている[5]。

ディルイーヤが第一次サウード王国滅亡に際して廃墟となった1818年以降、元の住民たちはそこを去り、大部分がリヤドに移住した。1981年に公刊された著書『王国』(The Kingdom) において、イギリス人のロバート・レイシー(英語版)は、廃墟と化したディルイーヤをポンペイになぞらえた[5]。しかし、20世紀後半になると、元ベドウィンなどが再び住居を構えるようになり、サウジアラビア政府によって、1970年代後半に新しい都市が建設された[6]。この新都市は規模を拡大しつつ、小さいけれども近代的な都市として、ディルイーヤ行政区の政庁所在地となっている。古都の廃墟は観光地になっており、サウジ政府による修復の動きなども見られる。

再建された建造物群には、浴場・迎賓館のほか、90年代初頭に完了したサアド・ビン・サウード宮殿、1980年代に城壁の塔が復元された the Burj Faysal、ツライフ地区を囲む城壁の大部分、町の外壁部分、ワディ・ハニファを囲む見張り塔などが含まれる。ツライフ地区の外側では、ワディ・ハニファの反対側で、ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスクのある地域が、完全に建て直された。本来の構造物は、建造物群北部の旧モスクの遺跡にいくらか残っているだけである。都市そのもののレイアウトは、サウジアラビア国立博物館(英語版)にある大きな精密模型の展示を利用すると、容易に理解ができる。

イブラーヒーム・パシャ

イブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasza, 1789年 - 1848年11月10日)は、ムハンマド・アリー朝エジプトのエジプト総督(ワーリー, 在位1848年)。非常に優秀な政治家、軍人でエジプトの近代化に多大な貢献をした。

年譜[編集]
1789年 オスマン帝国領(現在のギリシャのマケドニア地方)の都市カヴァラでムハンマド・アリーと正妻アミーナ・ハネムの間に長男として生まれる。
1808年 16歳で父親の補佐のためカイロに渡る。
1809年 人質としてイスタンブルに送られ、帝国の混迷をみて幻滅する。
1810年 エジプトに戻り、財務長官になる。財政基盤の確立に貢献する。
1818年 アラビア戦役(英語版)に従軍。遠征軍の司令官になり、すぐれた軍事的才能を発揮する。第一次サウード王国を攻略、滅亡させる。
1832年 第1次シリア戦役(英語版)(エジプト・トルコ戦争)で活躍。
1833年 シリアの統治者となる。近代化政策を敷くが地元の反発を招いた。
1839年 第2次シリア戦役(英語版)を勝利に導く。
晩年 ヨーロッパ諸国を歴訪して大歓迎を受ける。
1848年 父親の後を継ぐが、11月に病死する。子のイスマーイールは幼い為、甥のアッバース・パシャが後を継いだ。

ジッダ

: 案内、 検索



ジッダ
جدّة, Jiddah
サウジアラビアの旗


Jeddah Beach.jpg
Jeddah Beach

位置

の位置図

座標 : 北緯21度32分36秒 東経39度10分22秒


行政



サウジアラビアの旗 サウジアラビア


マッカ州


ジッダ

市長
Adil Faqeeh

地理

面積

市域
?km2

市街地
1,320km2

都市圏
3,000km2

人口


人口
(2007年現在)

市域
3,400,000人

市街地
3,855,912人

都市圏
4,500,000人

その他


等時帯
UTC+3 (UTC+3)

夏時間
なし

市外局番
+966-2
公式ウェブサイト : http://www.jeddah.gov.sa/

ジッダ(جدّة, jiddah、英: Jeddah)はサウジアラビア西部のマッカ州(メッカ州)にある紅海に臨む都市で、首都リヤドに次ぐ大都市。中東有数の世界都市であり、ジェッダ(Jeddah)とも呼ばれる。人口は340万人。2010年の都市的地域の人口では317万人であり、世界第106位、同国では第2位である[1]。

もともと寂れた漁村だったが、イスラム教が興って近郊のマッカ(メッカ)が聖地になると、巡礼者の中継地点として栄えるようになった。現在では、ハッジ(大巡礼)の時期になると毎年200万人ものイスラム教徒が、ジッダを経由してマッカへ巡礼するため、ジッダ港(またはジッダ・イスラム港)や空港(キング・アブドゥルアズィーズ国際空港)は巡礼者を乗せた船や飛行機で一杯になる。また多くの国際機関や金融機関が本拠を置く経済都市でもあり、多様な民族が働いている。

日本の外務省の在外公館として総領事館が設置されており、首都リヤドにある在サウジアラビア大使館を除き、サウジアラビアにおける唯一の在外公館である。また、2006年9月6日より、大阪(関空)との間をサウジアラビア航空の定期直通航空便(マニラ、リヤド経由)が運航されたが、9月27日以降は運休している。(週1便だった為、3往復したのみ。)

名の由来[編集]





ジッダの古い門
ジッダの名の由来には二通りの説明がある。一つは、紅海に面する重要な商業港であることから「海岸」を意味する名が付けられたというものである。もう一つのより一般的な説はアラビア語で「おばあさん」を意味する「jaddah」から転じたというものである。この説の背後には、ジッダに人類の祖であるイヴの墓とされる墳墓があることがある。イブの墓かもしれない墳墓(「イヴの墓」)は、巡礼者たちの中にイスラムの伝統を破ってイブの墓にも拝礼する者がいたことが問題となり、1975年に政府の宗教当局によってコンクリートで覆われてしまった。

市内地理[編集]





ジッダ市街(1938年)
旧市街にはかつて伝統的な数階建ての住宅や商家が立ち並んでいたが、近代に入りオイルマネーによる大規模開発で取り壊され、高速道路や金融機関などの超高層ビルに姿を変えてしまった。しかし若い世代は伝統的なものを好む傾向があり、開発から残された古い建築物の多くは保存されている。

街周辺の海岸には名高いプライベート・ビーチやリゾートが数多くある。ドゥラ・アル・アルス(Durrat Al-Arus)、アル・レマル(Al Remal)、シャムス(Shums)、ベイト・アル・バハール(Bait Albahar)、サルヒーヤ(Salhia)などが、紅海のサンゴ礁や海の生き物を楽しめることで有名である。

ジッダはキング・アブドゥルアズィーズ国際空港が空の玄関だが、ここはサウジアラビア航空のハブ空港であると同時に、マッカの空の玄関でもある。ハッジの時期になるとこの空港を経由してやってくる200万人以上の巡礼者を円滑に移動させるため、屋外テント型の特別な「ハッジ・ターミナル」が使用される。また、ジッダ港にも多くの巡礼が到着する。ジッダ港は2004年の調査で世界で30番目に大きな港とされ、サウジ商業の鍵ともなっている。日本も含め、多くの国がジッダに領事館を置いている。

歴史[編集]

ジッダの場所には2,500年前から漁村があった。最初にこの地に脚光があたったのは647年、第3代正統カリフのウスマーン・イブン=アッファーンがジッダの漁港を、マッカへのハッジに向かう巡礼たちのための港として整備したことによる。ジッダは以後何世紀にも渡り、ヒジャーズ地方の主要都市として、ハッジのために海を越えてきた巡礼たちを迎える港として、エジプトから紅海を経てインド洋に至る東西交易路の重要な港湾として栄えてきた。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝といったエジプトに拠点を置く政権がヒジャーズ地方およびジッダを支配し、1517年にエジプトを征服したオスマン帝国はポルトガル船による襲撃からジッダを守るために1525年に城壁や塔の補強を行った。

18世紀後半にアラビア半島中央部のナジュド地方(リヤドを中心とする)に、ワッハーブ派を信奉するサウード家に支配された第一次サウード王国が勃興し、1802年にはジッダやマッカをも支配下におさめた。これに対しオスマン帝国は、エジプト副王ムハンマド・アリーにサウード王国討伐の命令を下し、オスマン・サウジ戦争(1811年-1818年)が起こった。ムハンマド・アリー軍は1813年のジッダの戦いでジッダを奪還し、1818年に第一次サウード王国を滅ぼした。

1925年、ナジュドでサウード家の王国を再興させたアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがヒジャーズに攻め込み、マッカ、マディーナ、ジッダなどを征服した。そして代々マッカのシャリーフ(太守)を務めたハーシム家出身で、当時ヒジャーズ王国国王でもあったフサイン・イブン・アリーを追放した。フサイン・イブン・アリーはキプロスに逃れその後アンマンに移り、その子孫は現在までヨルダンの国王となっている。

こうして、ヒジャーズの一部だったジッダもサウード家の支配下に置かれた。1926年、イブン=サウードはナジュドのスルタンという自分の称号にヒジャーズ王という称号も加え、1932年にはヒジャーズ=ナジュド王国に代えてサウジアラビア王国を建国した。こうしてヒジャーズは小さな州に分割され、ジッダはマッカ州の中の一都市となり、ヒジャーズの支配拠点という古くからのアラビア半島における政治的役割を失った。

街の文化[編集]

サウジアラビア国民の一般的な意見では、ジッダは聖地マッカへの玄関という歴史的役割にもかかわらず、サウジの中でも最もリベラルでコスモポリタン的な都市とされている。ジッダはこの1,000年以上もの間、あらゆる民族・言語のおびただしい数のムスリム巡礼たちをアフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジア、中東、ヨーロッパなど世界中から迎え入れてきた。彼ら巡礼者の中にはこの地にとどまり市民となった者も多くいる。結果、ジッダはサウジのどの街よりも民族的に多様となり、折衷的な文化を育んでいる(地理的に隔絶し民族も均一で、宗教的にも厳格な首都リヤドとは正反対な立場にある)。

異なった民族のムスリムが共存しているということは、異なった宗派も共存していることを意味する。多彩な宗派の存在がヒジャーズ文化を形成してきたため、ジッダは伝統的に差異に対し比較的寛容である。こうした伝統的な多様性に加え、第二次世界大戦後の石油ブームによって数十万人の経済的移民や出稼ぎ労働者がジッダに流入しさらに多様化を加速させている。さらに欧米やタイ、フィリピンなどムスリム圏でない国からの国民も多く働いている。

ジッダの野外アート[編集]

1970年代後半から1980年代にかけての石油ブームにより、市政府はジッダの公共空間にパブリック・アートを置く計画を精力的に進めた。結果として、ジッダの交差点(ラウンドアバウト)の真中には近代美術家や現代美術家による野外彫刻などが異様に多く、世界最大級の野外彫刻美術館と化している。手がけた作家は無名の作家から世界的な有名作家まで様々で、ジャン・アルプ、セザール、アレクサンダー・カルダー、ヘンリー・ムーア、ジョアン・ミロ、ヴィクトル・ヴァザルリなども含まれている。また伝統的なアラブ文化(コーヒーポット、置香炉、椰子の木など)を取り上げたものが多い。イスラムの伝統が生物、特に人間の形をしたものの描写を禁じているため、作品の多くは趣味の良いものから奇怪なものまで、巨大化された自転車や積み上げられたプロペラ機など不思議なものまで、さまざまな抽象的で実験的な美術作品の集まる場所になった。

マディーナ

アル=マディーナ・アル=ムナッワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。


概要[編集]

半島紅海側のヒジャーズ地方に位置する。現在はサウジアラビアのマディーナ州の州都で、人口は130万人ほどである。

アラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(madīnat an-nabī)の略。預言者ムハンマドの墓を有する預言者のモスクが町の中心にあり、マッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン)」と称される。

歴史[編集]

マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前をヤスリブと言い、アラブ人の二部族とユダヤ教徒の数部族が住む町であった。622年、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した(ヒジュラ)。ムハンマドは現在の預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体(ウンマ)の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代カリフのアリーがイラクのクーファに移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初のクバー・モスクもある。

宗教的共同体

宗教的共同体(しゅうきょうてききょうどうたい)とは、ある宗教を紐帯として人々が形成する共同体である。つまり同一の信仰を持つ人々による共同体のことである。



概説[編集]

例えばユダヤ教ではケヒッラーなどがある。キリスト教では、代表的なところでは、教会や修道院などがそれにあたる。イスラームではウンマがある。

初期のキリスト教にはエクレシアがあった[1]。これが現在の教会へと発展してきた[1]。初期の仏教ではサンガがあった[1]。

イスラームが全盛期を迎えていたころ、イスラーム全体が相互扶助の精神をそなえた地球規模の巨大な共同体の様相を呈していて、イスラームの旅人は旅先で食事や寝る場所などを提供してもらえ、反対に自分が住む場所でイスラームの旅人を見れば、信仰にもとづいて、その人のために様々な便宜を提供した。例えば14世紀にアフリカ北岸から旅に出たある熱心なイスラーム教徒なども、はるかインドの地などで旅費が尽きた場合でも、イスラーム教のモスクやその街のイスラーム教指導者の家などに行けば、次のモスクがある街までの路銀(旅費)をもらい、それを繰り返すことでどこまでも旅をつづけることができた[2]。こうしたことが特に特別なこととしてではなく、ごく普通に行われていたのである。

現代でも世界各地に様々なタイプのものがあり、「フランスにおけるユダヤ・コミュニティ」とか「ニューヨークのイスラームコミュニティ」「○○市における在日ブラジル人カトリック信徒の共同体[3] 」などの言い回しで表現されることがある。

宗教的共同体というのは、その基盤にある信仰というものが、人間の日常的・私的なものを打ち破るものであるので、宗教的共同体も独自の超越的性格が強調されることになる[1]。たとえばエクレシアは「神のイスラエル」や「キリストの身体の手足」と理解され、仏教のサンガも如来の法身がある場と理解されていた[1]。次にさらに宗教的共同体の超越性がさらに一歩進み、宗教的共同体それ自体が信仰さるべきものとしてもとらえられることになる[1]。例えば仏教ではサンガを摂す三宝に帰依することをもって仏教者であることの表明とし、キリスト教の使徒信条では「我は一にして聖なる公同の教会を信ず」と告白することになる[1]。よって、共同体への帰属というのは、“メンバーが各人の意思で共同体を作り、参加する”というようにはとらえられず、むしろ信仰によってこの共同体に「召される」といったように自覚されるようになる[1](召命も参照)。

(上述のような共同体とはいささか性質が異なる点もあるが)儒教や道教においては「家」が宗教共同体だと、Kitagawa.J.M(1960)によって述べられているという[1]。

日本では、さまざまな講が盛んに営まれた時代がある。例えば庚申講や富士講などである。日本の仏教では寺にかかわりのある檀家の集団が共同体的な性質も帯びていた。

ウンマ (イスラム)

概説[編集]

コーラン(クルアーン)の用法ではウンマは、神(アッラーフ)によって使徒(ラスール)を遣わされて啓典を与えられる人間集団の単位のことである。ムーサー(モーセ)のウンマといえばユダヤ教徒の共同体のことであり、イーサー(イエス)のウンマといえばキリスト教徒の共同体を意味する。彼らにはそれぞれ律法書(タウラート)、福音書(インジール)という啓典が与えられた。しかし、彼らはこれらの啓典を改ざんしたり、ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典がムハンマドのウンマ、すなわちイスラーム共同体に遣わされたコーランであるとする。

こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、イスラームを含めた個々の共同体には「ミッラ」という呼称が広まる。

これを踏まえて、現代のイスラームの歴史に関する研究、論述では単にウンマと言っても、イスラーム共同体のことを指す場合が多い。

ウンマ

ウンマ(أمّة umma)とは、アラビア語で母と同義の言葉であり、現代では民族・国民・共同体などを意味する。ウンマ・イスラーミーヤ(أمّة إسلامية umma islamiya)はイスラーム共同体と訳され、イスラーム国家とほぼ同義である。

概説[編集]

コーラン(クルアーン)の用法ではウンマは、神(アッラーフ)によって使徒(ラスール)を遣わされて啓典を与えられる人間集団の単位のことである。ムーサー(モーセ)のウンマといえばユダヤ教徒の共同体のことであり、イーサー(イエス)のウンマといえばキリスト教徒の共同体を意味する。彼らにはそれぞれ律法書(タウラート)、福音書(インジール)という啓典が与えられた。しかし、彼らはこれらの啓典を改ざんしたり、ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典がムハンマドのウンマ、すなわちイスラーム共同体に遣わされたコーランであるとする。

こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、イスラームを含めた個々の共同体には「ミッラ」という呼称が広まる。

これを踏まえて、現代のイスラームの歴史に関する研究、論述では単にウンマと言っても、イスラーム共同体のことを指す場合が多い。

ヒジュラ

イスラム教におけるヒジュラ(هِجْرَة‎ Hijrah、英: Hijra)は、西暦622年前後に、ムハンマドとその信者達がメッカでの布教を諦め、アビシニアやヤスリブなどへと移住したことを指す。とくに、ヤスリブへの場合は聖遷と訳される。ヘジラ(Hejira, Hegira)とも音写される。また、ヒジュラのあったとされるユリウス暦622年7月16日を以ってヒジュラ暦の紀元と定められている。

なお、本来アラビア語ではヒジュラは移住を意味し、特に「ある人間関係を断ち切り、新しい人間関係を構築する」というニュアンスを持つ。

概要[編集]

厳密には最初に起きた615年のヒジュラでは、ムスリムの一団がムハンマドの助言によりメッカでのクライシュ族からの迫害を逃れてキリスト教徒の王の治めるアクスム王国へ逃れた。同年クライシュ族は彼らをアラビアに戻すよう使いを送ったが、アクスムはムハンマドと信捧者たちを保護した。ムスリムたちはキリスト教徒と共存し、アクスムに敬意を示し、守った。

当初イスラム教の教えはムハンマドの故郷メッカでは大多数の人々には受け入れられず、イスラム教徒はひどい迫害を受けた。そのため、いったんメッカでの布教活動を断念せざるを得なくなった。

預言者ムハンマドと信者たちはヤスリブの人々から招待を受けて、622年ヤスリブへ移った。その後ヤスリブはすぐに「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(略称:メディナ)に改名された。メディナでの布教で勢力を大きくしたイスラム教徒は、メッカに戻り、ここを占領し、ムハンマドは生地であるメッカを再び拠点とした。これ以後、メッカは聖地としてムスリム達の信仰の拠りどころとなった[注釈 1]。

ヒジュラとヒジュラ暦[編集]

イスラームにおいては、預言者ムハンマドはあくまでも人間として扱われる。それゆえ、イスラーム暦の元年もムハンマドの生年ではなく、ムスリム(イスラーム教徒)の共同体であるウンマの成立した聖遷(ヒジュラ)の年をもって元年とされる。

預言者のモスク

預言者のモスク(アラビア語: المسجد النبوي‎ al-Masjid an-Nabawī, مسجد النبي Masjid al-Nabī)は、サウジアラビアのマディーナにあるイスラム教の礼拝堂・モスクで、イスラム教の第2の聖地。預言者ムハンマドの霊廟でもある。

歴史[編集]

そもそも預言者のモスクは622年のムハンマドらイスラム共同体のヒジュラにより建てられた最初のモスクであり、ムハンマドの住居であり、イスラム共同体の本部たる所であった。その後、イスラム共同体の首長であるカリフのアリーがイラクのクーファに移るまではイスラム共同体の首都、その後はイスラム教の第2聖地として機能した。

現在の10本のミナレット(尖塔)のある白亜の巨大な建物は1995年にできた。マッカにあるマスジド・ハラーム同様、100万人の収容が可能。ハッジ(巡礼)でついでに訪れるムスリムも多い。
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