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2014年02月06日

ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、ドイツ語: Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツは、ヨーロッパ中部に位置する連邦共和制国家である。首都はベルリン。北はデンマーク、東はポーランド、チェコ、南はオーストリア、スイス、西はフランス、ルクセンブルク、ベルギー、オランダと国境を接する。また、北部は、北西側が北海、北東側はバルト海に面する。

1949年5月23日、連合国軍による占領を受けていたドイツのうち、西側連合国の占領地域にあった地域によって連邦共和国は成立した。同時期にソビエト連邦占領地域にドイツ民主共和国が成立したため、40年以上にわたって分断国家の状態であった。1990年のドイツ再統一によって、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)を構成していた15県および東ベルリンが6州としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入されて、現在の16州となった。2008年まで6年連続で世界最大を誇った輸出額は中華人民共和国に抜かれたものの、なお工業製品輸出額、貿易黒字額、海外旅行客数(送り出し側)などで世界一であり、アメリカ合衆国、中華人民共和国、日本に次いで世界第4位(為替レート換算値による)のGDPを誇る経済大国である。世界の先進8か国 (G8) の一つ。フランスと並ぶ欧州連合 (EU) の中核国である。

また、世界で初めて公的年金、保険制度を導入した国であり、日本を含む多くの諸外国が模範とした時代があった。医学をはじめとして化学、数学、物理学などの自然科学分野、哲学、文学、演劇などでも高い実績を築き、中でも18世紀後半以降の音楽史では同系国家であるオーストリア(1866年まではドイツ連邦議長国)とともに独占的ともいえる地位を築き、今日もヨーロッパの歌劇場の過半数[1]、全世界のオーケストラの1/4以上[2]がドイツにあるといわれる。また、非英語圏では群を抜いて多くのノーベル賞受賞者を輩出している。

国名[編集]

ドイツ語での正式名称は、Bundesrepublik Deutschland(ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)。通称は Deutschland(ドイチュラント)、略称は BRD。Bund は「連邦」の、Republik は「共和国」の意である。

Deutsch の原義はドイツ北部で話されていたゲルマン語の「theod」や「thiud」や「thiod」と言う名詞で、意味は「民衆」や「大衆」を意味している (意味も使われた時代も同じだが、綴りは地域によって異なる)。フランク王国時代にラテン系言語ではなく、ゲルマン系の語を用いるゲルマン人系一般大衆をこう呼んだことに由来する。「th」は後に「d」という発音と綴りになったため「diet」に転じ、古高ドイツ語ではさらに形容詞化するための「isk」がくっついて「diutisk」と言う綴りに転じ、意味も「大衆の、民衆の」と言う形容詞になり、その後「diutisch」となり、さらに現在のドイツ語に移り変わると「deutsch」に転じた。[3][4]現在のドイツ語の「deutsch」と言う形容詞には大衆とか民衆と言う意味は無く、「ドイツの」と言う意味だけである。代わりにvölkischと言う形容詞が現在のドイツ語で「民衆の、大衆の」と言う意味を示す。

英語表記は Federal Republic of Germany(フェデラル・リパブリク・オヴ・ジャーマニ)。通称は Germany(ジャーマニ)。略称は FRG 。Federalは「連邦の」、Republicは「共和国」を意味し、Germany はラテン語のGermania(ゲルマニア:「ゲルマン人の地」の意味)に由来し、地名としてのドイツを指す。

在日大使館や日本の外務省が用いる日本語表記はドイツ連邦共和国。通称はドイツ。漢字では独逸、獨乙などと表記され、独(獨)と略される。中国語では徳意志、徳国となる。ドイツは原語、若しくはオランダ語の 「Duits 」が起源だといわれている。

フランス語やスペイン語、ポルトガル語ではそれぞれ Allemagne(アルマーニュ)、Alemania(アレマニア)、Alemanha(アレマーニャ)と呼ばれるが、これらは本来は「(ゲルマン人の一派である)アレマン人の地」を意味する。

歴史[編集]

詳細は「ドイツの歴史」を参照


ドイツの歴史

Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
この記事はシリーズの一部です。


ゲルマン

ゲルマン人
民族移動時代
フランク王国
東フランク王国
神聖ローマ帝国
東方植民

ドイツの形成

チュートン騎士団
プロシア公領
ブランデンブルク=プロイセン
プロイセン王国

ドイツ統一

ライン同盟
ドイツ連邦、関税同盟
1848年革命
北ドイツ連邦

ドイツ国

帝政ドイツ(ドイツ帝国)
ヴァイマル共和政
ザール、ダンツィヒ、ズデーテン
ナチス・ドイツ
フレンスブルク政府

第二次世界大戦後

連合国軍政期 + 東部領土
ドイツ人追放
西ドイツ、ザール、東ドイツ
ドイツ再統一
再統一後のドイツ

関連項目

オーストリアの歴史

ドイツ ポータル
v • d • e

現在のドイツを含む西ヨーロッパ地域に人類が居住を始めたのは石器などが発見された地層から約70万年前と考えられている。60万年から55万年前の地層ではハイデルベルク原人の化石が、4万年前の地層ではネアンデルタール人の化石が確認されている。新人は約35000年前から現れ、紀元前4000年頃の巨石文明を経て紀元前1800年頃までに青銅器文明に移行している。紀元前1000年頃にはケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。

紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経てゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んで行き、紀元後375年には西ゴート族の移動を初めとする大移動によって現在のヨーロッパに定着する。西ローマ帝国の滅亡後、ケルト系民族を北方に追いやったゲルマン人は各地に王国を建てたが、フランク王国が統一した。843年のヴェルダン条約によって三分割されたうちの1つである東フランク王国。

東フランク王国の国王オットー1世(ザクセン朝)は962年アウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれるゆるやかな連合体を形成した。しかし中世におけるドイツには国家としての統一や民族意識はほとんどなく、各地に領邦国家が分立した歴史は現在に続く連邦主義の基盤となっている。各領邦は近隣諸国に比べて弱体で、また宗教改革では新旧両教に分かれて互いに争ったため三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊された。1600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したと言われる。それまで国名にドイツが冠されていなかったが、15世紀からは「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation」と称し、対ドイツ搾取的な教皇側からの自立の姿勢を示した。1667年にザミュエル・フォン・プーフェンドルフ (Samuel von Pufendorf) が著した書「ドイツ帝国憲法について (Über die Verfassung des deutschen Reiches) 」において初めて、ドイツ国という呼称が確定できる。

西南部のシュヴァーベン地方のホーエンツォレルン城一帯出身の東北部のプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は17世紀半ばから勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成した。ドイツ人はナポレオンによる侵略を経て統一国家への志向を強め、19世紀前半にはプロイセンに主導的な役割を期待する機運が高まった。分裂国家ドイツの中でも比較的強い中央集権国家であったプロイセンをリーダーとしてドイツの統合が進められてゆく。1806年まで神聖ローマ皇帝位を世襲していたオーストリア(その後はドイツ連邦議長国)は、ハンガリーやチェコなど非ドイツ人地域を多く領有するため、「大ドイツ主義」派(オーストリアから非ドイツ人地域を分離させたうえで統一ドイツの中心とする)にも与することができなかった。オーストリアの主張は、旧神聖ローマ帝国版図を軸とした多民族国家の支配権をドイツ人が握る中欧帝国構想と呼ばれるもので、これは国民国家の潮流に反するため多くの支持を得ることはできなかった。「小ドイツ主義」派のホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家はドイツ統一の役割を争ったが、北ドイツ連邦を作った後の1871年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世の戴冠によってドイツは、ドイツ系オーストリアを除く、小ドイツとしてのドイツ国(ドイツ帝国)として統一され、ベルリンを首都とした。しかしヴィルヘルム2世の治世になると、ドイツは同盟政策を誤り、イギリス・フランス・ロシアとの対立を招き、1914年の第一次世界大戦の勃発を迎えることとなった。ドイツは協商国と激しい消耗戦を繰り広げたものの、1918年には戦力の限界とドイツ革命の勃発によって講和を選ばざるを得なくなり、帝政も終了した。

ドイツは共和国として再出発することになるが(ヴァイマル共和政)、小党乱立により政局は不安定であった。またヴェルサイユ条約によってドイツに課せられた巨額の戦争賠償は経済や政治にも影響を与えた。1920年代中頃からは相対的な安定期を迎え、国際社会にも復帰しつつあった。しかし1930年代の世界恐慌による経済の破綻は、アドルフ・ヒトラーの指導下で極右的民族主義やユダヤ人の排斥、拡張的な領土政策を唱える国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の台頭をもたらした。1933年にヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げた(ナチス・ドイツ)。ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、オーストリアやチェコスロバキアの領土を獲得していったが、次第に英仏との緊張関係が高まりつつあった。1939年9月のポーランドへ侵攻は、英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦が始まった。一時はフランスを打倒してヨーロッパの大半を勢力下に置くも、独ソ戦の形勢悪化と、西側連合国軍の侵攻によりドイツは敗北、ヒトラーは自殺してナチス体制も崩壊した。

1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツはオーデル・ナイセ線以東の、東プロイセンやシュレジェン地域を完全に喪失した。これにより、戦前の領土の25%を失うこととなった。さらにはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の四カ国に分割占領され(連合軍軍政期)、1949年、ボンを暫定的な首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)とベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。冷戦の時代を通じて東西ドイツは資本主義と共産主義が対立する最前線となったが、1989年ソビエト連邦のペレストロイカに端を発した東ドイツの民主化運動(東欧革命)をきっかけにベルリンの壁が崩壊し、翌1990年、再統一を達成し、再びベルリンを首都と定めた。以降、旧東ベルリンを中心とするベルリンの再開発・インフラ整備と、ボンからベルリンへの連邦政府機関移転による実質的な首都機能移転が順次進められ、2001年5月2日にベルリンへの首都機能移転が完了した。

ドイツは現在ではヨーロッパで最大の国家のひとつとなっているが、長期間の分裂を原因とする東西の経済格差や統一税がそれまでの順調な成長を妨げている。一方で、歴史的に統一されたドイツが周辺諸国に対して脅威となってきた問題を懸念する見方もあったが、反対に米ソによってドイツが冷戦後の強国の一つになることを容認されたとの分析もある。実際、統一ドイツはフランスと共に欧州連合 (EU) の中核国として発言力を増し続けている。近年のユーロ危機では、競争力の高いドイツが域内から黒字を吸い上げる一人勝ち構造が批判されるとともに、これまで合理化に耐えてきた国民からは援助支出への不満の声が高まるなど政府は難しい舵取りを迫られている。

地理[編集]

詳細は「ドイツの地理」を参照

ドイツは西欧および中欧に属し[5]、北にデンマーク、東にポーランドとチェコ、南にオーストリアとスイス、南西にフランスとルクセンブルク、そして北西にベルギーとオランダと各々国境を接しており、国土はおおよそ北緯47°から55°(ジルト島 (en) の北端が丁度55°)、東経5°から16°の範囲に位置している。総面積は357,021 km2 (137,847 sq mi)に及び、領土349,223 km2 (134,836 sq mi) 、領海7,798 km2 (3,011 sq mi) から成る。この面積はヨーロッパ第7位、世界第62位である[6]。

標高は南部のアルプス山脈最高峰ツークシュピッツェの2,962メートル / 9,718フィートから、北西部の北海(Nordsee)および北東部のバルト海(Ostsee)海岸に及ぶ。中位山地、北ドイツ低地(最低地点はヴィルシュターマールシュ (en) の海抜3.54メートル / 11.6フィート)にはライン川、ドナウ川そしてエルベ川が流れている。

主な天然資源は、鉄鉱石、石炭、炭酸カリウム、木材、褐炭、ウラン、銅、天然ガス、塩、ニッケル、可耕地と水である[6]。





地形図
ドイツの地形は北から南へ、大きく5つの地域に分けられる。北ドイツ低地、中部山岳地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、南ドイツアルプス前縁地帯、バイエルン・アルプスである。

北ドイツ低地は全体的に標高100m以下の平坦な地域で、エルベ川などの川沿いにはリューネブルクハイデと呼ばれる大きな丘陵地がある。バルト海沿岸は平坦な砂浜や、断崖をなす岩石海岸となっている。中部山岳地帯は、おおよそ北はハノーファーの辺りから南はマイン川におよぶ地域で、ドイツの西部と中部に広がり、ドイツを南北に分けている。地形的に峡谷や低い山々、盆地など変化にとんでおり、山地としては西部のアイフェル丘陵とフンスリュック山地、中央部のハルツ山地、東部のエルツ山脈がある。南西ドイツ中部山岳階段状地域にはオーデンヴァルトや、ドイツ語で「黒い森」を意味するシュヴァルツヴァルトの標高1000mを超える広大な森林がある。アルプスはドイツ国内ではもっとも標高が高い地域で、南部の丘陵や大きな湖の多いシュヴァーベン=バイルン高原に加えて、広大な堆石平野とウンターバイエルン丘陵地、そしてドナウ低地を包括している。ここにはアルプスの山々に囲まれた絵のように美しい数々の湖や観光地があり、オーストリアとの国境地帯にはドイツの最高峰ツークシュピッツェ(標高2962m)がそびえ立つ。

ドイツにおける火山活動は先カンブリア代に収束している。先カンブリア代末から始まったカレドニア変動や、後期古生代におこったバリスカン(ヘルシニアン)変動はいずれも主要活動帯がドイツを横切っているものの、地表には痕跡が残っていない。バリスカン変動は2000kmにおよぶ規模の大陸間の変動であった。現在のドイツの地形を決定したのは新生代における褶曲運動である。アルプス変動帯の活動により、最南部は標高1200mにいたるまで隆起した。ドイツにおけるアルプス変動帯は東アルプスと呼ばれている。同時に西部フランス国境に近いライン川に相当する位置に、ライン地溝を形成する。ライン地溝は、約500kmに渡って南北に伸びる。

ドイツ北部(北ヨーロッパ平野)の地表は氷河地形の典型例である。最終氷期においては北緯51度線に至るまで氷河が発達し、ヨーロッパを横切る数千km規模の末端堆石堤を残した。その100から200kmの海岸線方面にはモレーンが残る。末端堆石堤とモレーンの北側にそっていずれも氷食性のレスが堆積し、農業に適した肥沃な土壌が広がる。いっぽう、モレーンの南側は土地が痩せている。ドイツに残る長大な河川はいずれも最終氷期の河川に由来するが、ポーランドのヴィスワ川、ポーランド国境に伸びるオーデル川、エルベ川、ドイツ西部のヴェーザー川が互いに連結し、網目状の流路を形成するなど、現在とは異なる水系が広がっていた。

気候[編集]

ドイツの大部分は温暖な偏西風とメキシコ湾流の北延である北大西洋海流の暖流によって比較的温和である[7]。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は海洋性気候となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30℃を越えることもあるが)冷涼になる傾向がある[8][9]。

東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる[7][9]。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性まで様々である。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる[8]。

自然[編集]





イヌワシは保護猛禽類であり、国章に用いられている
ドイツは「ヨーロッパの地中海沿岸部山地混交林」と「大西洋北東部大陸棚海域」の二つの生態系ブロックに分けられる[10]。2008年時点ではドイツの過半が耕地(34%)と森林・疎林(30.1%)に占められており、13.4% が放牧地で11.8%が定住地・道路となっている[11]。

動植物は中央ヨーロッパにおいて一般的なものである。ブナ、カシ、およびその他の落葉樹が森林の3分の1を構成しており、また針葉樹が植林の結果、増加傾向にある。トウヒとモミの木が高地山脈を占めている一方で松やカラマツを砂質土で見出だせる。シダ、花、菌類、そしてコケの多くの種がある。野生動物にはシカ、イノシシ、ムフロン、狐、アナグマ、ノウサギ、そして少数のビーバーが含まれている[12]。

ドイツにはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン干潟国立公園(Nationalpark Schleswig-Holsteinisches Wattenmeer)、ヤスムント国立公園(Nationalpark Jasmund)、フォアポンメルン入り江地帯国立公園(Nationalpark Vorpommersche Boddenlandschaft)、ミューリッツ国立公園(Müritz-Nationalpark)、下オーデル渓谷国立公園 (Nationalpark Unteres Odertal)、ハルツ国立公園(Nationalpark Harz)、ザクセン・スイス国立公園(Nationalpark Sächsische Schweiz)、バイエルンの森国立公園(Nationalpark Bayerischer Wald)などの国立公園がある。ドイツ国内では400以上の動物園が運営されており、世界最多とされる[13]。ベルリン動物園はドイツ最古の動物園であり、ここには世界で最も多くの動植物種が収集されている[14]。

政治[編集]

詳細は「ドイツの政治」、「ドイツの警察」、「ドイツ法」、および「大陸法」を参照





国会議事堂(Reichstag)
ドイツは連邦制、議院内閣制、代表民主制の共和国である。ドイツの政治システムは1949年に発効されたドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)の枠組みに基づいて運営されている。基本法改正には両院の2/3の賛成を必要としており、 このうち「人間の尊厳の保証」「権力の分割」「連邦制」そして「法による支配」といった基本法諸原則は「永久化」され侵害は許されない[16][17]。

連邦大統領(Bundespräsident)は国家元首であり、主に儀礼的な権能のみが与えられている[18]。大統領は任期5年で、連邦議会議員と各州議会代表とで構成される連邦会議によって選出される。大統領は連邦議会の解散権を有する[19]。

大統領に次ぐ序列は連邦議会議長(Bundestagspräsident)であり、連邦議会によって選出され、議会運営の監督責任を持つ。









ヨアヒム・ガウク連邦大統領(任期2011年-:左)とアンゲラ・メルケル首相(任期:2005-:右)

序列第三位であり、政府の長となる地位が連邦首相(Bundeskanzler)であり、連邦議会で選出された後に、議長によって任命される[20]。首相は任期4年で、行政府の長として行政権を執行する。内閣の閣僚は首相の指名に基づき、大統領が任命する。

連邦の立法権は連邦議会(Bundestag)と連邦参議院(Bundesrat)が有し、この両院で立法府を構成する。連邦議会議員は小選挙区比例代表併用制による直接選挙によって選ばれ[6]、598議席[21](ただし選挙制度の関係で超過議席(en)が出るため、選挙のたびに実際の議席数は変わり、2011年現在は622議席[22])で任期4年。連邦参議院議員は69議席で16州政府の代表であり、また州政府内閣の閣僚でもある[20]。

1949年以降、政党政治はドイツキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党によって占められており、歴代首相はいずれかの政党の所属議員である。しかしながら、選挙制度の関係で単独政権は稀であり、通常は連立政権が組まれる[23]。近年では中道自由主義の自由民主党(1949年以来、連邦議会に議席を有している)や環境政党同盟90/緑の党(1983年以降に議席を有する)も重要な役割を果たすようになっている[24]。

ドイツはゲルマン法の要素を加えたローマ法を基礎とする大陸法を採用している(ドイツ法)。連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)は違憲審査権を有する憲法に関する事項の最高裁判所である[20][25][26]。Oberste Gerichtshöfe des Bundesと呼ばれるドイツの最高裁判所制度は専門化がなされており、民事および刑事に関する裁判所は連邦通常裁判所、それ以外の事項に関しては連邦労働裁判所、連邦社会裁判所、連邦財政裁判所、連邦行政裁判所がある[18]。国際刑法典(Völkerstrafgesetzbuch)は人道に対する罪、ジェノサイドそして戦争犯罪について規定しており、幾つかの状況においてドイツの裁判所に対して普遍的管轄権 (en) を与えている[27]。刑法と民法は刑法典(Strafgesetzbuch)と民法典(Bürgerliches Gesetzbuch)に成文化されている。ドイツの刑法制度は犯罪者の更生と一般大衆の保護を主眼としている[28]。

軍事[編集]

詳細は「ドイツ連邦軍」を参照





ドイツ連邦軍の国籍マーク
ドイツ連邦軍(Bundeswehr)は陸軍(Heer)、海軍(Marine)、空軍( Luftwaffe )、救護業務軍(Zentraler Sanitätsdienst) そして戦力基盤軍 (Streitkräftebasis) に分けられる。2005年時点においてドイツの軍事支出はGDP比1.5%で対GDP比としては世界99位だが[6]、軍事費自体は世界第8位である[29]。平時において連邦軍は国防大臣の指揮下に置かれる。ドイツが戦時に入れば(基本法は自衛のみを容認している)、首相が連邦軍の総司令官となる[30]。2011年の軍事支出も467億ドルと低めに抑えられている。

2011年5月現在、ドイツ連邦軍は職業軍人188,000と兵役最低6か月の18-25歳からなる徴集兵31,000を擁している[31]。ドイツ政府は職業軍人170,000、短期志願兵15,000へ縮小することを計画している[32]。各軍には予備役兵がおり、軍事訓練や海外派兵に参加している。予備役の将来の兵力や機能に関する新たなコンセプトが2011年に発表された[32]。

ドイツ連邦軍と国境警備隊が国防を担っている他、相互防衛条約に基づき6万強の米軍が駐留している。ドイツは欧州連合およびNATOの主要構成国であり、ロシアなど東方諸国を主たる仮想敵国としてきた。時代の移り変わりとともに、政府は連邦軍の主任務を、従来の国土防衛から「国際紛争への対処」に移行させる方針を発表。内容としては、2010年までに紛争地においてNATO即応部隊などに参加する「介入軍」、平和維持活動にあたる「安定化軍」、両軍の後方支援を担当する「支援軍」の3つに再編成するものである。

2011年現在、ドイツ兵約6,900人が国際平和維持活動に参加して国外に駐留しており、この中にはNATO主導の国際治安支援部隊(ISAF)に参加してアフガニスタンやウズベキスタンに駐留する4,900人、コソボ駐留の1,150人、国際連合レバノン暫定駐留軍の300人が含まれる[33]。

2011年まで、ドイツには18歳以上の男性に対する徴兵制度が存在し6か月の兵役期間が課せられていた。しかし、良心的兵役拒否者は同期間の民間役務 (Zivildienst) と呼ばれる老人介護や障害者支援などの社会奉仕活動、または消防団や赤十字に対する6年間のボランティア活動を選択することができた。兵役拒否者は年々増加し、近年では兵役を選択する者は2割に過ぎなくなっていた[34]。このドイツの徴兵制度は2011年7月1日をもって中止となった[35][36][34]。しかし、徴兵制の廃止により、それまでボランティアとして慈善活動に従事させられた兵役拒否者がいなくなってしまい、老人介護などの福祉に多大な経済的負担が発生する懸念が持たれており[37]、ドイツ政府は補充対策を検討している[38]。

2001年以降、女性軍人に対する制限が廃止されて全ての軍務に従事できるようになったが、女性は徴兵制の対象ではなかった。2011年現在で約17,500人の女性の現役兵と予備役兵がいる[39]。





ドイツ陸軍のレオパルト2主力戦車






ドイツ空軍のユーロファイター戦闘機






「不朽の自由」作戦に参加したドイツ海軍のブレーメン級フリゲート艦「カールスルーエ」がソマリア沖で難民の乗った船を保護している


国際関係[編集]

詳細は「ドイツの国際関係(英語版)」を参照





ドイツが外交使節を派遣している諸国の一覧図。




アンゲラ・メルケル首相は2007年ハイリゲンダムG8サミットの議長を務めた。
ドイツは190カ国以上との外交関係を結び、229ヵ所の在外公館を有している[40]。2011年現在、ドイツは欧州連合への最大の分担金拠出国であり(拠出額20%)[41]、国連に対しては第三位の分担金拠出国である(拠出額8%)[42]。ドイツはNATO、経済協力開発機構(OECD)、主要国首脳会議(G8)、G20、世界銀行そして国際通貨基金(IMF)に加盟している。ドイツは欧州連合発足当初から主要な役割を果たしており[43]、また第二次世界大戦以降はフランスとの緊密な同盟関係を保っている。ドイツは欧州の政治および安全保障面での統合を推進する努力を続けて来た[44][45][46]。

ドイツの開発援助政策は外交政策における独立した分野となっている。政策は連邦経済協力開発省(BMZ)が策定し、関係各機関が遂行する[47]。ドイツ政府は開発援助政策を国際社会における共同責任と位置つけている[48]。ドイツの開発援助支出額は米国、フランスに次ぐ世界第三位である[49][50]。

冷戦の時代、鉄のカーテンにより分断されたドイツは東西緊張の象徴となり、欧州における政治的戦場となっていた。しかしながら、東方外交を行ったヴィリー・ブラント首相は1970年代におけるデタント成功の鍵となった[51]。1999年にゲアハルト・シュレーダー首相がNATOのコソボ派兵への参加を決めたことにより、ドイツ外交の新たな基礎が定められ、第二次世界大戦以後、初めてドイツ兵が戦場へ送られた[52]。ドイツと米国は緊密な政治的同盟関係にある[20]。1948年のマーシャル・プランと強い文化的な結びつきが両国の絆を強めたが、シュレーダー首相のイラク戦争に対する強い反対意見は大西洋主義の終焉を示唆し、独米関係を冷却化させた[53][54]。両国は経済的に相互依存関係にあり、ドイツの対米輸出は8.8%であり、輸入は6.6%である[55]。

日本との関係[編集]

詳細は「日独関係」を参照
1603年-1870年
江戸時代に来日したドイツ人の一人に、徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した浩瀚(こうかん)な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌であり、ゲーテも愛読したと伝えられる。日本に西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、徳川幕府が崩壊した後も、日本人は盛んにドイツから医学を学んだ。

直接の外交関係は、1850年代にプロイセン王国の軍艦が品川沖に来航した事に始まり、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーのように武力で外交を開こうとした。このため、1911年まで(即ち幕末から明治まで)の日独関係は、不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化交流では重要な国となった。さらに、歴史的経過を見ると、ドイツ帝国成立(1871年)と明治維新(1868年)が、ほぼ同じ時期に起こった点も大きい。
1871年-1945年




在ドイツ日本公使館の印(明治時代初期)
1873年に岩倉使節団はベルリン[56]、ハンブルク、ミュンヘン[57]を歴訪しており、その当時の様子は「米欧回覧実記」にも詳しく記載されている。 明治維新を経た1870年代から1880年代までの日本では、ドイツ帝国の文化や制度が熱心に学ばれ、近代化の過程に大きな影響を与えた。この為、日本の近代化は「ドイツ的近代化」であるとも言われている[要出典]。伊藤博文は、大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を研究している。当時の東京帝国大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、明治9年(1876年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのを初め、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリード・ワグネルなどがいる。工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三が、ザガン市のカール・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても、大日本帝国陸軍は、普仏戦争後、軍制をフランス式からプロイセン式へと変え、その制度と理論による近代化に努め、日露戦争の勝利に繋がった。

日清戦争後には、ドイツは、ロシア帝国や、フランスとともに、日本に対し三国干渉を行った。さらに第一次世界大戦が勃発すると日本が日英同盟により連合国側に与したため、ついにドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国など中央同盟国側とは山東半島やミクロネシア、地中海などで戦火を交えるに至った(→第一次世界大戦下の日本)。

第一次世界大戦敗戦後、ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和制が成立し、ヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課され、全植民地の喪失とともに、国内での軍事産業が制限された。そのためドイツは、ソ連や中国との密貿易関係を構築した。特に中国はタングステンを産出したため、中独合作を行い、日中戦争(支那事変)では蒋介石政権に最新の兵器と軍事顧問団を送り込み、日本軍を苦しめた。当時日本が高度に軍事成長を果たすのに対して、ドイツは黄禍論も背景にあり、脅威を感じていた。その後国際情勢の変動により、1936年には日独防共協定を締結、その後利害を共有する日独両国は親近感を深め、1940年には日独伊三国軍事同盟へと発展、第二次世界大戦では枢軸国(同盟国)として共に戦うこととなった。
1945年-現在
技術・経済面での交流は活発で、日本にとってヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。特にドイツの自動車は日本でも高い人気を誇り、日本の輸入車の販売数上位3つはメルセデス・ベンツ、BMW、フォルクスワーゲンが占めている。文化や制度の面では第二次世界大戦前ほどの影響力を持たなくなったものの、クラシック音楽ではバッハやベートーヴェンをはじめとするドイツ(およびオーストリア)の作曲家の楽曲が愛好されている。

欧州連合が設立されてからは、欧州連合の中心国として交流してきた。

ドイツでは、1999年1月から2000年9月までは「ドイツにおける日本年」と定められて日本が総合的に紹介され、また日本では2005年と2006年に「日本におけるドイツ年」の諸企画が行われ、新しい形の日独交流が形成されている。

経済[編集]

詳細は「ドイツの経済」を参照





ドイツ経済の中枢であり、世界都市であるフランクフルトは、世界有数の金融センターであり、国際的なハブ空港を持つ。
2010年のドイツのGDPは3兆3058億ドル(約280兆円)であり、アメリカ、中国、日本に次ぐ世界第4位である[58]。EU加盟国では最大の経済力を持つ。

ドイツ経済の主要産業は工業で、自動車、化学、機械、金属、電気製品などである。ドイツは戦前から科学技術に優れており、ガソリン自動車やディーゼルエンジンを発明したのはドイツ人であった。また現在見られる液体燃料ロケット(スペースシャトル、ソユーズ、アリアン、H-IIAなど、固体ロケットM-Vロケット等を除く)は戦時中にナチスが開発した技術が基礎となっている。現在でも技術力があり、自動車はメルセデス・ベンツ、ポルシェ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲンといったブランドが世界的に有名である。その他、化学・薬品大手のバイエル、電機大手のシーメンス、ルフトハンザドイツ航空、ドイツ銀行、経営管理ソフトウェア大手のSAP、光学機器メーカーのカール・ツァイス、ライカ、世界最大の映画用カメラメーカーであるアーノルド&リヒター、人工透析で世界シェア40%のフレゼニウス(en)など、世界的に活動している大企業は多い。近年は再生可能エネルギー産業が急成長している[59][60]。





メルセデス・ベンツ Sクラス。世界第4位、欧州第1位のGDPを擁するドイツは、世界有数の輸出国である。
旧西ドイツは日本同様、第二次世界大戦後に急速な経済発展を成し遂げたが、1990年の東西統一以降旧東ドイツへの援助コストの増大、社会保障のためのコスト増大などが重荷となって経済が低迷。また旧東ドイツでは市場経済に適応できなかった旧国営企業の倒産などで失業が増え、旧東側では失業率が17.2%に達し、深刻な問題となっていた。また企業が人件費の安いポーランドやチェコなどへ生産拠点を移転させようとしているために、ますます失業が増えるのではないかとの懸念もある[要出典]。しかしこの数年はGDPは増加傾向であり[61]、失業率も減少して2011年の時点では1991年以来の低水準となっている[62]。

かつてはすべての州で、「閉店法」により、(空港や駅構内の売店、ガソリンスタンド併設のコンビニを除く)小売店は平日(月曜日から土曜日まで)は20時から翌朝6時まで、日曜・祝日は終日営業できないといった規則が定められていたが、2006年のFIFAワールドカップ開催をきっかけとして営業時間が延長された。同時に各州に閉店法に関する詳細を定める権限も移り、一部州では閉店法自体が撤廃されるところも出てきている。大型のショッピングセンターやトルコ・イタリア・ギリシャ・中国など外国人が経営する店は深夜や土日も開店している場合も多い。


インフラストラクチャー[編集]





トランスラピッド
ヨーロッパの中央部に位置するドイツは輸送機関の中枢となっている。このことは密集化され、かつ近代化された輸送ネットワークに反映されている。自動車大国であるだけに道路網も発達しており、アウトバーンと呼ばれる高速道路が主要都市を結んでおり、総延長は世界第三位である[63]。

鉄道はドイツ鉄道(DB, Deutsche Bahn)が全国に路線を張り巡らせ、超高速列車ICEや都市間を結ぶインターシティ、ヨーロッパ各国との間の国際列車が多数運行されている[64]。また、都市部では近郊電車のSバーンや地下鉄(Uバーン)、路面電車の路線網が発達している。なおヴッパータールには、現在運行している世界最古のモノレールがある。

航空では、欧州でも屈指の大手航空会社ルフトハンザドイツ航空が世界各国に航空路線を持っている。また、エア・ベルリンなどの格安航空会社もある。ドイツ最大のフランクフルト国際空港とミュンヘン国際空港はルフトハンザの国際ハブ空港となっており、とりわけフランクフルト国際空港は欧州で三番目に利用旅客数の多い空港となっている[65]。その他の主要空港にはベルリン・テーゲル、ベルリン・シェーネフェルト、デュッセルドルフ、ハンブルク、ケルン・ボン、ライプツィヒ・ハレがある[66]。

2008年現在、ドイツは世界第6位のエネルギー消費国であり[67]、主要エネルギーの60%を輸入に依存している[68]。政府はエネルギー効率改善と再生可能エネルギー活用を推進している[69]。エネルギー効率は1970年前半以降改善しており、政府は2050年までに国内電力需要を再生可能エネルギーのみで賄うことを目標に掲げている[70]。2010年時点でのエネルギー源は石油(33.8%)、褐炭を含む石炭(22.8%)、天然ガス(21.8%)、原子力(10.8%)、水力発電や風力発電(1.5%)、そしてその他の再生可能エネルギー(7.9%)となっている[71]。2000年、政府と原子力産業は2021年までに全ての原子力発電所を閉鎖することに合意した[72]。

ドイツは京都議定書や生物多様性、排出量規制、リサイクリングそして再生可能エネルギーの利用などを推進するその他の諸条約に係わっており、世界レベルでの持続可能な開発を支持してる[73]。ドイツ政府は大幅な排出量削減運動に着手しており、国内の排出量は低下している[74]。しかしながら、2007年時点でのドイツの温室効果ガス排出量は依然としてEU最大である[75]。

環境への取り組み[編集]

ドイツは世界的に環境保護先進国と呼ばれている。1994年、基本法第20条a項として「国は未来の世代に対する責任という面においても生活基盤としての自然を保護するものとする」という条文が採用された。エコノミーとエコロジーは対立するものではない、大気、土壌、水質の保護は経済発展の前提条件とされた。背景には、国土が狭い上に、海岸線が短いため埋立地も十分に確保できず、その上、廃棄物の他国への越境移動が禁止されたため、自国内で処理せざるを得なくなったことである。環境保護に対する国民の意識が高まり、





ドイツでの風力発電
1998年に同盟90/緑の党が連立政権に参加した。

1986年 廃棄物発生防止・処理規正法
産業廃棄物等の発生源によって規制する規則
1991年6月 包装材廃棄物政令

1994年10月 「リサイクル経済促進・廃棄物無公害処分確保法」(廃棄物リサイクル促進法)

1996年10月 同法施行
製造業者の関与を深める法体系を作った
2002年1月 デポジット制の制定
環境にやさしくない素材のすべての容器包装廃棄物にデポジットが課される
2011年7月 脱原発法の成立
2011年3月の福島第一原子力発電所事故の発生を機に反原発の声が高まり、2022年までに国内17基の原発を全て停止することになった。
現在では量り売り、デポジット制などの努力により、ごみの大幅な減量に成功している。ドイツのごみ排出量は日本の4分の1、特に包装物は10分の1である。こうした環境への姿勢が近隣諸国に影響を及ぼし、1994年12月にEUの包装材指令(2001年までに加盟各国で廃棄物リサイクル促進法を法制化することを求めるEU指令)がくだった。

ドイツは循環社会への転換を果たしているといわれている。ごみの排出回避、素材・エネルギーの再利用、環境に配慮した処理法、また「排出者責任」は企業責任と明確にしているなど、廃棄物が巡る経済を実現している。

Duales System Deutschlandの略で、1991年にドイツの企業が協力して設立した、プラスチック、缶、ビン、紙などを回収・リサイクルする組織。国内に195の分別工場を有し、現在17500企業が払う20億ユーロのライセンス料で共同処理を行っている。ここからリサイクルされたものを使用した商品は、グリューネプンクトが表示され、販売価格にリサイクル価格が上乗せされる。この制度をデュアルシステムという。デュアルシステムはドイツを手本にEU圏内で広がっている。

フリーライダーの存在、コストの問題、普通ごみの混入など課題もある。

科学技術[編集]

科学におけるドイツの業績は非常に大きく、研究開発活動はドイツ経済にとって不可欠な分野となっている[76][77]。これまでに103人のノーベル賞受賞者を輩出しており[78]、20世紀においては、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞といった科学の分野で他のどの国よりも多くの受賞をしている[79][80]。

アルベルト・アインシュタインやマックス・プランクの業績が現代物理学確立への重要な役割を果たし、ヴェルナー・ハイゼンベルクとマックス・ボルンがこれをより一層発展させた[81]。彼らの仕事はヘルマン・フォン・ヘルムホルツやヨゼフ・フォン・フラウンホーファーといった物理学者たちに引き継がれている。ヴィルヘルム・レントゲンはX線を発見し、1901年に第1回ノーベル物理学賞を受賞した[82]。また、カール・フリードリヒ・ガウス、ダフィット・ヒルベルト、ベルンハルト・リーマン、ゴットフリート・ライプニッツ、カール・ワイエルシュトラス、ヘルマン・ワイルそしてフェリックス・クラインといった数多くの数学者たちがドイツから生まれている。ドイツにおける研究機関にはマックス・プランク研究所やドイツ研究センターヘルムホルツ協会、フラウンホーファー協会がある[83]。毎年、10人の研究者にゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞が授与されており、最大250万ユーロの賞金は最も高額な学術賞の一つである[84]。

ドイツは多数の著名な発明家や技術者の出身国であり、その中にはヨーロッパで初めて活版印刷を発明したとされるヨハネス・グーテンベルク[85]、ガイガー=ミュラー計数管を開発したハンス・ガイガーそして初めて全自動デジタルコンピュータを製作したコンラート・ツーゼがいる[86]。フェルディナント・フォン・ツェッペリン、オットー・リリエンタール、ゴットリープ・ダイムラー、ルドルフ・ディーゼル、フーゴー・ユンカースそしてカール・ベンツといったドイツの発明家、技術者、企業家たちが現代の自動車や航空輸送技術を形づくった[87]。史上初の宇宙ロケット(V2ロケット)を開発した航空宇宙工学技術者のヴェルナー・フォン・ブラウンは、後にNASAの主要メンバーとなり、サターンV型ロケットを開発してアポロ計画の成功に貢献している。ハインリヒ・ヘルツの電磁波分野での業績は現代の遠距離通信の発展にとって極めて重要である[88]。

また、ドイツは環境技術 (en) の開発と利用に関する主要国の一つである。環境技術を専門とする企業の総売上高は2005年時点で再生エネルギー分野で164億ユーロ、廃棄物処理分野は500億ユーロにのぼる[89]。ドイツ環境技術業界の重要市場は、発電、サステイナブル・モビリティ[90]、材料能率差、エネルギー効率、廃棄物管理とリサイクル、持続可能な水管理 (en) である[91]。

国民[編集]

詳細は「ドイツ人」、「:en:Germans」、「ドイツの人口統計」、および「:en:Demographics of Germany」を参照

民族[編集]

2010年1月現在のドイツの人口は8180万人であり[92]、EU域内では最大、世界第15位である[93]。平均人口密度は229.4人/km2である。平均寿命は79.9歳。2009年の合計特殊出生率は女性一人当たり1.4人または1000人当たりでは7.9人となり、世界で最も低率の国のひとつである[94]。1990年代以降、死亡率が出生率を上回る状態が続いている[95]。連邦統計局 (en) は2060年までに人口は6,500万人から7,000万人に減少すると予測している(移民の程度による)[96]。

国民の91%はゲルマン系のドイツ語を母語とするドイツ民族である。他にバウツェンにはスラヴ系のソルブ人が、シュレースヴィヒにはゲルマン系のデンマーク人などがおり、帰化ポーランド人も多数居住している。ドイツ人は欧州諸民族の例にもれず厳密には混成民族であるが、主流であるゲルマン系と言語が一致しているため、おおむね自他ともにゲルマン民族として認識されている。





2005年現在のドイツの人口ピラミッド。
2009時点で約700万人の外国人が登録されており、国内居住者の19%が外国人または両親の一方が外国人(送還された民族ドイツ人を含む)であり、これらの96%が西ドイツまたベルリンに居住している[97]。国際連合人口基金の統計によれば、ドイツは全世界の1億9100万人の移民人口のうち、約5%に相当する1,000万人を受け入れており、移民受け入れ数では世界第3位である[98]。亡命と移民に対して無制限だった以前の法律が改正された結果、2000年以降、亡命地を求める移民や民族ドイツ人を主張する者たち(主に旧ソ連)が着実に減少している[99]。2009年時点で人口の20%が移民系統であり、1945年以降最も高くなっている[100]。2008年現在、最大の民族集団はトルコ人(250万人)であり、イタリア人(776,000人)、ポーランド人(687,000人)がこれに続く[101]。1987年以降、約300万人の主に東ヨーロッパや旧ソ連から移民した民族ドイツ人(Aussiedler)がドイツに再定住した[102]。

このような安価な労働力の流入がドイツ人の雇用悪化を招き、失業者の中には暴動に走る者も現れた。また文化的衝突からネオナチなどの外国人排斥運動に賛同して外国人を襲撃するなど、深刻な問題となっている。


言語[編集]

ドイツ語は、ドイツの公用語であり支配的な言語である[103]。ドイツ語は欧州連合の23の公用語の一つであり、欧州委員会の三つの作業言語 (en) の一つである。ドイツで公認されている少数言語は、デンマーク語、低地ドイツ語 (en) 、ソルブ語、ロマ語、そしてフリジア語であり、正式にヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(ECRML)により保護されている。移民の間で最も使用される言語はトルコ語、クルド語、ポーランド語、バルカン系諸言語、およびロシア語である。ドイツ国民の67%が2つ以上の言語を話し、27%は3つ以上の言語を話す。[103]

標準ドイツ語は西ゲルマン語群であり、英語、低地ドイツ語、オランダ語、そしてフリジア語と密接に関連し、分類されている。低い割合ではあるが、東ゲルマン語群(死語)と北ゲルマン語群とも関係する。ほとんどのドイツ語の語彙は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン分岐から派生している[104]。

単語の相当数がラテン語やギリシャ語からの派生であり、またフランス語そして最近の英語(デングリッシュとして知られる)からも含まれる。ドイツ語はラテン・アルファベットを使用して書かれる。ドイツ語方言(ゲルマン諸民族の伝統的な地方亜種にまで遡る)はその語彙、音韻や文法規則で標準ドイツ語からの言語変種に分類される[105]。

また、2011年現在、少数言語の研究団体エスノローグはドイツ連邦共和国内に以下を含む28言語の存在を認めている[106]。
ドイツ語(国家公用語)
低ザクセン語(北ドイツ)
上ザクセン語(ザクセン州)
アレマン語(バーデン=ヴュルテンベルク州)
バイエルン語(バイエルン州)
リンブルフ語(ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)
マインツ語(マインツ市)

人名[編集]

18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった。また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった(例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる)。また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。

また、伝統的には夫婦は同姓が原則で、日本の夫婦同姓のお手本になったとされる(1957年までのドイツの条文は、妻は夫の氏を称するとされており、日本の明治民法案(明治31年制定、それまでは日本は夫婦別姓)はそれと全く同じ。)。しかし、1957年、妻が出生氏を二重氏として付加できるとする改正が行われた。さらに、1976年の改正で、婚氏選択制を導入し、婚氏として妻の氏を選択する可能性を認め、決定されない場合は夫の氏を婚氏とするとされた。しかし、連邦憲法裁判所1991年3月5日決定が両性の平等違反としてこの条文も無効とし、人間の出生氏が個性又は同一性の現れとして尊重され保護されるべきことを明言した。その結果、1993年の民法改正で[107]、夫婦の姓を定めない場合は別姓になるという形で、現在は完全な選択的夫婦別姓制度を実現している(ドイツ民法1355条)。

宗教[編集]





ライン川沿いにあるケルン大聖堂はユネスコ世界遺産である。
ドイツにおける最大の宗教はキリスト教で2008年現在で信者数5,150万人(62.8%)である [108]。この内30%がカトリック、29.9%がドイツ福音主義教会(EKD)に属する福音主義信徒であり、ドイツ福音主義教会には20の州教会が加盟しており、常議員会議長がドイツ福音主義教会 (EKD) を代表する。その他は小宗派(各々0.5%以下)である[109]。福音主義教会信徒は北部と東部、ローマ・カトリック教会信徒は南部と西部に多い。南部であっても、バイエルン州北部ニュルンベルクとその周辺やバーデン=ヴュルテンベルク州北部シュトゥットガルトとその周辺では福音主義教会信徒も多い。また、1.6%は正教会である[108]。

2番目に大きな宗教がイスラム教で、凡そ380-430万人(4.6-5.2%)[110]、次いで仏教徒が25万人、ユダヤ教が約20万人(0.3%)、ヒンズー教徒が9万人(0.1%)である。これ以外の宗教の信者は5万人以下である[111]。400万人のイスラム教徒のほとんどはトルコからのスンニ派またはアレヴィー派であるが、少数のシーア派や小分派も存在する[110]。ドイツのユダヤ人人口はフランス、イギリスに次いでヨーロッパで3番目である[112]。仏教徒の50%はアジアからの移民である[113]。34.1%が無宗教であり、旧東ドイツ地域と大都市圏に多い[109]。

宗教的多様性と国家干渉主義の両方の伝統を持つ中央ヨーロッパ、とりわけ旧東ドイツの各州においてゼクト(カルト)団体が増加しているドイツでは、予防啓発とゼクト脱退者保護の政策が、地方レベルで実施されている。ゼクト担当委員のポストが各州に創設された。中央レベルでは、教会法人格の取得に関する認証基準が定められた。情報交換を目的とした作業会議が、州職員と州代表者の間で何度も開かれた。とはいえ市民社会には秩序があり、国家宗教は揺らいでいないため、この問題への関心は限定的である。現在のところ、禁止されたゼクトはない。その上、国家権力の行動の幅は狭くなっている[114]。

教育[編集]

詳細は「ドイツの教育」を参照





ハイデルベルク大学
教育課程は初等教育4年、中等教育以降は職業人向けと高等教育向けの学校とに厳格に分けられている。いわゆる「マイスター制」である。12歳までは基礎学校(義務教育)で、子供の能力の見極めが重要になる。13歳から15歳では、就職のための専門的な職業教育が行われる。大学への進学を希望する場合は、ギムナジウムという進学校に進学し、大学進学に必要なアビトゥア資格の取得を目指す。日本においては、俗に「ドイツでは工業職人がマイスターと呼ばれ、尊敬を受けている」という話がまことしやかに語られているが、正確ではない。第二次世界大戦後の高度成長の過程においては確かに事実であったが、近年では多くの子供たちがギムナジウムに進学する傾向が見られ、これがドイツの財政(教育費)を圧迫する原因にもなっている。また、工業職人のイメージが強いマイスター制度だが、これも近年ではコンピュータ技術者といった従来のイメージとは異なる職種の学校が増えつつある。近年、国際化によりマイスター制度が先進工業の発展に寄与しなくなったことや、12歳で人生が決まってしまう学校制度に疑問が上がり、近年は義務教育からアビトゥア資格取得まで一貫した中等教育を行うシュタイナー学校や総合学校が広まっている。

大学においても近年変革の時期を迎えている。ドイツの大学はほぼ全てが州立大学で、基本的に学費は納める必要がない(ただし、州により学費徴収を行うケースもある)。しかし、近年の不況の影響を受け、大学は授業料を徴収するかどうか、検討を始めている。また、かつてのドイツは大学卒業した者はエリートコースを歩み、大学卒業資格は社会で相当に高い評価を得ていたと言える。しかし、近年における財政界からは、もっと柔軟な思考ができる学生が欲しいとの声が強まり、大学のカリキュラムも変革の時期を迎えている。

健康[編集]

詳細は「ドイツの医療」を参照

ドイツは1883年にオットー・フォン・ビスマルクが成立させた疾病保険法に遡る世界最古の国民皆保険制度を有している[115]。現在、全住民には国家によって提供される基礎健康保険が適用される。世界保健機関によれば、2005年のドイツ国民医療費は77%が公費負担、23%が私費負担である[116]。GDPに占める医療費は11%であった。平均寿命は男性が77歳、女性が82歳で世界第20位であり、乳児死亡率は出生児1,000人当たり4人と非常に低い数値である[116]。

2009年現在の主な死亡原因は心血管疾患の42%、続いて悪性腫瘍の25%だった[117]。2008年現在、82,000人がHIV/AIDSに感染しており、1982年以降、合計26,000人がこの病気で死亡している[118]。2005年の統計では成人の27%が喫煙者である[118]。2007年の調査によれば、ドイツは肥満した人の数がヨーロッパで最大である[119][120]。

文化[編集]





ベルリン、芸術の中心
詳細は「ドイツの文化」および「:en:Culture of Germany」を参照

歴史的にドイツは「詩人と思想家の国」(Das Land der Dichter und Denker)と呼ばれてきた[121]。連邦各州が文化施設を担当しており、ドイツには助成を受けた240の劇場、数百の交響曲オーケストラ、数千の博物館そして25,000以上の図書館がある。これらの文化施設は多くの人々に利用されており、毎年延べ9100万人のドイツ人が博物館を訪れ、20万人が劇場やオペラ、3600万人が交響曲オーケストラを鑑賞している[122]。国際連合教育科学文化機関はドイツでは36件を世界遺産リストに登録している[123]。

ドイツは高いレベルの男女平等[124]、障害者の権利促進そして同性愛者に対する法的社会的寛容を確立している。ゲイとレズビアンはパートナーの遺伝的子供を養子とすることができ、2001年以降にはシビル・ユニオン(結婚に準じる権利)[125]が認められた[126]。1990年代半ば以降ドイツは移民に対する態度を変えており、ドイツ政府とドイツ人の過半数が移民の管理は資格基準に基づいて許可されねばならないと認識するようになった[127]。ドイツは2010年に世界で最も賞賛される国の統計で50カ国中第2位にあげられた[128]。2013年のBBCの世論調査によれば、ドイツは世界で最も肯定的な影響を与えている国と認められている[129]。

美術[編集]

詳細は「ドイツの芸術」および「:en:German art」を参照





"Kreuzigung Christi" (日本語: "磔のキリストの") ルーカス・クラナッハ によって, 1503年
ドイツ・ロマン派のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲなどの画家名やドイツ表現主義などの項目を参照。

第一次世界大戦中から戦後、ドイツは表現主義や新即物主義を生み出し、デザインや建築でもバウハウスを中心に革新的な動きを起こした。バウハウスに集ったヴァルター・グロピウス、ハンネス・マイヤー、ミース・ファン・デル・ローエ、ヨハネス・イッテン、ピエト・モンドリアン、ヴァシリー・カンディンスキー、モホリ・ナギといった美術家・建築家らは、合理主義・表現主義・構成主義といった美術観・建築観に基づくデザインを生み出し、今日のデザイン分野への影響は甚大である。

しかし既存のロマン派的流れを汲む美術団体との軋轢、およびナチスの「退廃芸術」排除の政策から、主だった美術家・建築家はアメリカ合衆国などに移民し、ドイツの芸術は壊滅的打撃を受けた。

1960年代以降、フルクサスやヨーゼフ・ボイス、アンゼルム・キーファー、ゲルハルト・リヒターなど、世界に影響を与える芸術家が多数登場し、ドイツの美術・建築・デザインは再び世界的存在感を高めている。

文学[編集]

詳細は「ドイツ文学」を参照

ドイツ文学は中世のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデやヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの作品にまで遡ることができる。著名なドイツ人作家にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・フォン・シラー、ハインリヒ・ハイネがいる。グリム兄弟によって編纂出版された民話集はドイツ民話を国際レベルにまで知らしめた。20世紀の有力作家にはトーマス・マン、ベルトルト・ブレヒト、ヘルマン・ヘッセ、ハインリヒ・ベルそしてギュンター・グラスがいる[130]。ノーベル文学賞にはテオドール・モムゼン(1902年)、ルドルフ・クリストフ・オイケン (1908年)、パウル・フォン・ハイゼ (1910年)、ゲアハルト・ハウプトマン(1912年)、トーマス・マン (1929年)、ヘルマン・ヘッセ(1946年)、ハインリヒ・ベル(1972年)、 ギュンター・グラス(1999年)そして、ヘルタ・ミュラー (2009年)が選ばれている。

ドイツ語圏の出版社は年間7億部を発行しており、出版タイトルは約8万で、その内6万が新刊である。ドイツ語書籍は英語圏市場や中華人民共和国に次ぐ第3位の市場規模を誇っている[131]。500年に及ぶ伝統を持つフランクフルト・ブックフェアは国際取引市場で最も重要な書籍見本市である[132]。ドイツは人口10万人当たりの図書館数がG7で一番多く、10万人当たり14.78館が存在する[133]。2005年にはドイツ語長編小説を対象とするドイツ書籍賞が創設された。


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
(1749–1832)

フリードリヒ・フォン・シラー
(1759–1805)

グリム兄弟
(1785–1863)

トーマス・マン
(1875–1955)

ヘルマン・ヘッセ
(1877–1962)

ベルトルト・ブレヒト
(1898–1956)

Johann Heinrich Wilhelm Tischbein 007.jpg Friedrich schiller.jpg Grimm1.jpg Thomas Mann 1929.jpg Hermann Hesse 1927 Photo Gret Widmann.jpg Bundesarchiv Bild 183-W0409-300, Bertolt Brecht.jpg

哲学[編集]





ドイツ観念論の哲学者たち。カント(左上)、フィヒテ(右上)、シェリング(左下)、ヘーゲル(右下)
詳細は「ドイツの哲学」および「:en:German philosophy」を参照

ドイツ哲学は歴史的に重要である。とりわけ影響力があったものには合理主義哲学に対するゴットフリート・ライプニッツの貢献、イマヌエル・カント、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フリードリヒ・シェリングによる古典的ドイツ観念論の確立、アルトゥル・ショーペンハウアーの形而上学的厭世論の著作、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる共産主義思想の理論化、フリードリヒ・ニーチェによる遠近法主義 (en) の展開、分析哲学黎明期におけるゴットロープ・フレーゲの功績、存在(Being)に関するマルティン・ハイデッガーの著作そしてマックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ユルゲン・ハーバーマスによるフランクフルト学派の発展がある。21世紀においてドイツはフランス、オーストリア、スイスそしてスカンジナビア諸国とともにヨーロッパ大陸における現代分析哲学の発達に貢献してきた[134]。

音楽[編集]

詳細は「ドイツの音楽」および「:en:Music of Germany」を参照





ベートーヴェン
ドイツは同じドイツ語圏のオーストリアと共にヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ヨハネス・ブラームスの「ドイツ三大B」を初めとする、クラシック音楽史上に名を残す作曲家や演奏家を多数輩出している。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとする世界クラスのオーケストラや音楽祭も多い。文学と同じくオーストリアと併せた括りで(相互の移動や各時代における国民意識など分離して考えることが困難なため。ベートーヴェンがドイツ音楽でブルックナーはオーストリア音楽というような分け方は殆どされない)世界最大のクラシック音楽大国とされている。 オペラ、コンサート、演劇への関心も強く、ある程度の規模の街には州立(国立と呼ばれる場合もある)ないし市立の劇場、オーケストラがおかれている。各地の放送局が所有しているオーケストラも総じてレベルが高い。オペラはオーストリアとスイスのドイツ語圏をあわせるとイタリアの4倍近い年間上演数を誇る、世界でも群を抜く中心国であり、諸外国からドイツ語を学んだ歌手が多く集まっている。逆にいえばドイツ人だけでは陣容を維持できない規模になっているともいえ、ポピュラー系のショービジネスや野球におけるアメリカに似た地位にある。その他、オペレッタ、ミュージカル、バレエ、ストレートプレイの上演も盛んである。

ポピュラー音楽については、1979年、ジンギスカンの『Dschinghis Khan(ジンギスカン)』『めざせモスクワ(Moskau)』や、1980年代にNENA(ネーナ)がアメリカ合衆国などでもヒットさせた『99 Luftballons』(ロックバルーンは99)などが知られている。





2005年、ミラノでのラムシュタインとアポカリプティカのライブ
また最近では、旧・東ドイツの都市ライプツィヒの聖トーマス教会の少年合唱団出身者などにより結成されたDie Prinzen(ディー・プリンツェン)が、2002年のサッカー「FIFAワールドカップ日韓大会」で活躍し、最優秀選手に選出されたドイツ代表のゴールキーパーであるオリバー・カーンをモチーフにした曲『OLLI KAHN』が話題を呼ぶ。

ロック音楽では、主なミュージシャンとしてプログレッシヴ・ロックのタンジェリン・ドリーム、テクノの元祖クラフトヴェルク、 ハード・ロックのスコーピオンズ、マイケル・シェンカー・グループ、フェア・ウォーニング、ヘヴィ・メタルのアクセプト、ハロウィン、ガンマ・レイ、ブラインド・ガーディアン、エドガイ、レイジ、プライマル・フィア、ラムシュタインなどの名が挙げられる。

テクノやトランスなどのクラブ系は、野外レイヴ『ラブパレード』や屋内レイヴ『メーデー』が開催されるなど、ドイツ国内に広く普及している。テクノではベルリンのトレゾアやケルンのコンパクトなどのレーベルから世界中のアーティストが曲をリリースしている。トランスの分野では、東ベルリン出身のDJ・Paul van Dykが「DJ Magazine」誌の人気投票で1位を獲得している。 電子音楽、エレクトロニカ、サウンドアートなども盛んであり、坂本龍一とのコラボレーションでも知られるAlva Notoが主催するレーベルRaster-Notonなど注目度が高い。

映画とテレビ[編集]

詳細は「ドイツの映画」を参照





ベルリン国際映画祭。2007年。
ドイツ映画は草創期のマックス・スクラダノフスキー (en) に遡り[135]、ロベルト・ウィーネ (en) やフリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ (en) といったドイツ表現主義映画が影響力を持っていた[136]。1927年にはフリッツ・ラング監督によるSF映画の先駆たる大作『メトロポリス』が公開された[137]。1930年に公開されたオーストリア系アメリカ人のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督『嘆きの天使』がドイツ初の大作トーキー映画である[138]。1970年代から80年代にかけて、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーといったニュー・ジャーマン・シネマ監督たちが西ドイツ映画を国際的な舞台へと押し上げた[139]。毎年のヨーロッパ映画賞は隔年でヨーロピアン・フィルム・アカデミー(EFA)の本部のあるドイツで開催される。1951年以来、毎年開催されるベルリン国際映画祭は世界で最も重要な映画祭の一つである[140]。

近年では『グッバイ、レーニン!』(Good Bye, Lenin!;2003年)、『愛より強く』(Gegen die Wand;2004年)、『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(Der Untergang;2004年)、『バーダー・マインホフ 理想の果てに』(Der Baader Meinhof Komplex;2008年)が国際的な成功を収めている。また、1979年に『ブリキの太鼓』(Die Blechtrommel)、2002年に『名もなきアフリカの地で』(Nirgendwo in Afrika)、2007年に『善き人のためのソナタ』(Das Leben der Anderen)がアカデミー外国語映画賞を受賞している[141] 。

3400万世帯のドイツのテレビ市場はヨーロッパ最大であり、ドイツ世帯の90%がケーブルテレビまたは衛星放送を視聴している[142]。放送局はドイツ公共放送連盟(ARD)加盟の各地の公共放送局、第二の公共放送ネットワークである第2ドイツテレビ(ZDF)などがある。

食文化[編集]

詳細は「ドイツ料理」を参照





ザワークラウトとヴルストを中心としたドイツ料理
料理は火を使わずに用意できるカルテス・エッセン (kaltes Essen、冷たい食事) と、調理してから出されるヴァルメス・エッセン (warmes Essen、温かい食事) とに大別される。よく知られているものとしては、前者にソーセージ (Wurst) 、ハム (Schinken) 、チーズ (Käse) などの冷製食品、後者に塩漬け肉アイスバイン(Eisbein)、キャベツの塩漬けザワークラウト(Sauerkraut)、肉や魚の団子クネーデル(Knödel)などがある。

ビールは16歳以上(保護者同伴ならば14歳から)の国民が飲めるアルコール飲料である(ただし、フランクフルトなど地方によってはリンゴのワインの方が人気)。ミュンヘンのオクトーバー・フェストは世界最大のビール祭りだといわれる。ドイツのワインは白ワインが主体。かつてはリースリング種をつかった甘口のワインが多かったが、食生活の変化に伴い辛口の白ワインや赤ワインが生産・消費ともに増加している。蒸留酒は18歳以上の国民が飲むことが出来る。

ドイツ料理は地域ごとに特色があり、バイエルンやシュバーヴェンといった南部はスイスやオーストリアと食文化が共通している。全ての地域で肉はしばしばソーセージのかたちで食べられる[143]。有機農産物が市場の約2%を占めており、今後も増加する見込みである[144]。ドイツの多くの部分でワインが親しまれているが、国民的酒類はビールである。ドイツ人のビール消費量は減少傾向にあるが、依然として年間一人当たり116リットルが消費されており、世界最大である[145]。ミシュランガイドは9件のレストランに三つ星を、15件に二つ星をつけている[146]。ドイツのレストランはフランスに次いで世界で二番目に賞を受けている[147]。

世界遺産[編集]

詳細は「ドイツの世界遺産」を参照

ドイツ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が35件、自然遺産が3件で合計38件の世界遺産が現存する。イタリア、スペイン、中国、そしてフランスに並ぶ4番目の登録件数である。

ウラジミール・ペーター・ケッペン

ウラジミール・ペーター・ケッペン(Wladimir Peter Köppen, 1846年9月25日サンクトペテルブルク(ロシア)生 - 1940年7月22日グラーツ(オーストリア)没) はドイツの気象学者・気候学者、また植物学者である。ドイツ学派の気候学の大成者として著名であり、ケッペンの考案したケッペンの気候区分は、改良を加えられながら現在も広く使われている。ドイツ語圏で活躍したので、ヴラディーミル・ペーター・ケッペンとも呼ばれる。

略歴[編集]

ケッペンの両親はドイツ人であるが、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれクリミアで学校に通った。ここでケッペンは環境、特に植生と気候の関係に関心を示したという。のちにドイツのハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学に学び、1870年に卒業した。学位をとったのはライプツィヒ大学で、卒業論文では気温が植物の成長に及ぼす影響を扱った。

1872年から1873年までロシア気象局で働いていたが、1875年にドイツに戻り、帝国成立後、あらたに設置されたハンブルクのドイツ海上保安局 (Deutschen Seewarte) 海上気象部 (Seewetterdienstes) 長になった。ここではドイツ北西部に隣接する海上の天気予報を担当した。4年間勤めたあと一番興味のあった基礎研究に移るため、気象部を去った。

実験物理学の進歩と電信の発明とは、気象の同時観測を可能にしており、ケッペンの生まれたころには世界各地に気象観測網がしかれていた。1870年代ころには、集積された観測データの活用が可能となっており、気候学も天気予報などを目的とする気象学から分化し、発達する前提条件が整えられつつあったのである。

気候区分の研究[編集]

海上気象部を去ったケッペンは、気候について体系的な勉強をはじめ、気球を使って上空の大気に関する研究も行った。1884年には、気温の季節変動について記した、最初の気候区分地図を発表した。これは、1900年頃までには、ケッペンが生涯をかけて改良に尽くした気候区分システムに発展する。ケッペンの気候区分システムとしての完全版は1918年に最初に出版され、1936年にはその最終版が出版された。

ケッペンの気候区分の実用的性格としては、植生とくに高等植物と気候を結びつけた点である。高等植物は、移動性が低く、強い集団性をもっており、景観に与える影響がきわめて甚大である。また、植物は生態学的にみて、生物界における有機物の第一次生産者であり、これにより、植物を食糧ないし住み処とする動物分布も規定される。人類もまた、食糧生産の多くを植物に依存しており、農耕の歴史とともに諸文明の歴史がある。さらに植生は、その厚みや密度が土壌の形成や、場合によっては微地形にさえも大きな影響を与え、微生物の生育環境を左右する。こうしたことから、農業をはじめとする諸産業の各分野、人口分布をはじめとする社会・経済などの分野、歴史学・考古学・人類学・民俗学など人文諸科学の分野でも、ケッペンの気候区分は広範囲の実用に供することができたのである。

他の業績[編集]

ケッペンは気候区分システムの考案とは別に古気象学の分野でも功績があった。1924年には義理の息子にあたるアルフレート・ヴェーゲナーが、「地質学的過去の気候 (Die Klimate der Geologischen Vorzeit) 」を発表し、ミルティン・ミランコビッチによる氷河期の理論を強く支持した。

末期にはドイツ人気候学者ルドルフ・ガイガーと協力し5巻の「気候学ハンドブック (Handbuch der Klimatologie) 」を執筆した。5巻が完結することは無かったが、ケッペンによる3巻が出版された。1940年のケッペンの死後は、ガイガーがケッペンの気候区分システムの改良を行った。

ケッペンの気候区分

ケッペンの気候区分(ケッペンのきこうくぶん、Köppen-Geiger Klassifikation)とはドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペン(Wladimir Peter Köppen)が、植生分布に注目して1923年に考案した気候区分である。

特徴[編集]

ケッペンが植生分布に注目して考案した気候区分は、気温と降水量の2変数から単純な計算で気候区分を決定できることに特徴がある。
分類基準が明確で簡便
植生、風土の特徴を反映している
立地条件など気候の成因と相関している

など扱い易い上に有用な分類法であり、現在でも気候・産業・文化・農業を論ずる上で欠かすことができない。

その一方で、
植生にのみ注目しているため、人間生活などの感覚になじまない部分がある
アジアやアフリカの気候に関しては的確に分類されているとはいえない

といった問題点も指摘されている。

歴史[編集]

1884年に発表した論文では、季節ごとの温度分布を測定点ごとに示した単純なものだった。1900年に気候区分を拡張、1918年に今日知られている区分とほぼ同じ区分を公表した。この時点ではAからEまでの気候区分が定められていた。1936年に最後の論文を公表した。現在は、トレワーサーなどによりH(高山気候)を追加するなどの補正が加わっている。

ケッペン以外の気候区分も考案されている。1879年に公表されたズーパンの気候区分は、年平均気温のみで気候を区分していた。1950年以降はケッペンのような結果としての気候ではなく、気候の成因(原因)から分類する試みが続いている。1950年にはヘルマン・フローンが風系(季節風)を加味した区分(=フローンの気候区分)を、同年アリソフは気団や前線帯の位置を生かした区分(=アリソフの気候区分)を、1960年にはヘンデルが大気の大循環を考慮に入れた気候区分を発表した。

気候型の判定法[編集]

気候型を区分するには各月毎の平均気温と降水量のデータがあればよい。気温を折れ線、降水量を棒グラフで示した雨温図や、縦軸に気温、横軸に降水量をとった座標上に各月のデータをプロットしたハイサーグラフから読み取るのが便利である。

判定には、まず一般的な樹木が生育するのに必要な最低限の降水量があるかどうかを見る必要がある。この基準を乾燥限界といい、以下の計算式から求められる。計算式の違いは季節ごとの水分の蒸発量を考慮したもので、夏季は水分がすぐ蒸発するため乾燥限界を大きくして調整をはかっている。

気候帯[編集]

樹林気候と無樹林気候[編集]

樹林気候 寒帯(E) 無樹林気候
亜寒帯(D)
温帯(C)
乾燥帯(B)
熱帯(A)

5つの気候帯があり、低緯度から順に(赤道から極地に向け)A - Eと符号が付けられている。

乾燥帯(B)と寒帯(E)は樹木が生育できず、無樹林気候にまとめられる。ただし、無樹林気候と判別される基準はそれぞれで異なる。それらを除いた熱帯(A)・温帯(C)・亜寒帯(D)は、森林が生育する樹林気候(湿潤気候)にまとめられる。 年間降水量が500o未満ならBである。

乾燥帯(B)の判定[編集]

まず、最暖月の平均気温が10℃以上であること(寒帯では無いこと)。次に、乾燥帯であるかどうかを判定する。判定式 r=20(t+x)で得られる乾燥限界を年平均降水量が下回っていれば、乾燥帯である。

記号の意味は以下のとおり。
r - 乾燥限界 / mm
t - 年間平均気温 / ℃
x - 以下の降水パターンの条件により決まる項

x=14 w(冬季乾燥/夏雨) 最多雨月が夏にあり、10×最少雨月降水量<最多雨月降水量
x=0 s(夏季乾燥/冬雨) 最多雨月が冬にあり、3×最少雨月降水量<最多雨月降水量かつ最少雨月降水量が30mm未満
x=7 f(年中湿潤/年平均降雨) wでもsでもない

寒帯(E)の判定[編集]

最暖月平均気温が10℃未満(樹木が育たない)なら寒帯となる。降水量は考慮しない。

樹林気候(A/C/D)の区別[編集]

乾燥帯でも寒帯でもない、つまり年平均降水量が乾燥限界を上回り最暖月平均気温が10℃以上ならば樹林気候(湿潤気候)である。

最寒月・最暖月平均気温を基準にして以下のように区分する。
A(熱帯) - 最寒月が18℃以上(ヤシが生育できる)
C(温帯) - 最寒月が-3℃以上18℃未満かつ最暖月が10℃以上(冬季の積雪は根雪にならないが、ヤシが生育するほどでもない)
D(亜寒帯) - 最寒月が-3℃未満かつ最暖月が10℃以上(冬季の積雪は根雪になるが、樹木は生育できる)

高山気候(H)[編集]

高山気候(H)もしくは山地気候(G)が区別されることがあるが降水量や気温から判別されるものではなく、ケッペンの気候区分とは相容れないものである。

気候区[編集]

気候帯のはそれぞれいくつかの気候区にさらに分類される。気候区の判定基準は樹林気候、寒帯、乾燥帯のそれぞれで異なるが樹林気候の3つの気候帯ではまったく同じではないもののよく似ている。

樹林気候(A/C/D)の気候区[編集]

A、C、Dの気候区は以下のようになるがA(熱帯)とC(温帯)・D(亜寒帯)では基準値が異なる。
f - feucht(湿潤)
m - Mittelform(中間) - 熱帯のみ
w - wintertrocken(冬に乾燥)
s - sommertrocken(夏に乾燥)

温帯(C)と亜寒帯(D)の気候区[編集]
w(冬季乾燥/夏雨) - 最多雨月が夏にあり、10×最少雨月降水量<最多雨月降水量
s(夏季乾燥/冬雨) - 最多雨月が冬にあり、3×最少雨月降水量<最多雨月降水量かつ最少雨月降水量が30mm未満
f(年中湿潤/年平均降雨) - wとsのどちらでもない

それぞれ、最暖月平均気温によってさらに細分される。
a - 最暖月が22℃以上。
b - 最暖月が10℃以上22℃未満 かつ 月平均気温10℃以上の月が4か月以上
c(温帯) - 最暖月が10℃以上22℃未満 かつ 月平均気温10℃以上の月が3か月以下
c(亜寒帯) - 最暖月が10℃以上22℃未満 かつ 月平均気温10℃以上の月が3か月以下かつ最寒月が-38℃以上-3℃未満
d(亜寒帯) - 最暖月が10℃以上22℃未満 かつ 月平均気温10℃以上の月が3か月以下かつ最寒月が-38℃未満

なおトレワーサは亜寒帯をまず最暖月平均気温によりa - dに分け、それをw/s/fに分けた。
Da,Db(湿潤大陸性気候|大陸性混合林気候=Dfa,Dfb,Dwa,Dwb,Dsa,Dsb)
Dc,Dd(亜寒帯気候|針葉樹林気候=Dfc,Dfd,Dwc,Dwd,Dsc,Dsd)

乾燥帯気候(B)の気候区[編集]
BW(砂漠気候) - 年平均降水量が0.5r未満
BS(ステップ気候) - 年平均降水量が0.5r以上r未満

WはWüste(砂漠)、SはSteppe(ステップ)の頭文字。

年平均気温によってさらに細分される。
h - 年平均気温が18℃以上
k - 年平均気温が18℃未満

hはheiß(暑い)、kはkalt(寒い)の頭文字。

寒帯気候(E)の気候区[編集]
ET(ツンドラ気候) - 最暖月平均気温が0℃以上10℃未満(夏の間だけコケなどの地衣類が生育する)
EF(氷雪気候) - 最暖月平均気温が0℃未満(植物の生育はない)

TはTundre(ツンドラ)、FはFroste(氷点下)の頭文字。

気候型と植生[編集]

上の記号の組み合わせにより、次のような区分ができる。
A(熱帯) Af(熱帯雨林気候)
Am(熱帯モンスーン気候)
Aw(サバナ気候)
As(熱帯夏季少雨気候) - ごく限られた地域のみに存在する。

B(乾燥帯) BWh,BWk(砂漠気候)
BSh,BSk(ステップ気候)

C(温帯) Cfa(温暖湿潤気候)
Cfb,Cfc(西岸海洋性気候)
Cwa,Cwb,Cwc(温暖冬季少雨気候)
Csa,Csb,Csc(地中海性気候)

D(亜寒帯) Dfa,Dfb,Dfc,Dfd(亜寒帯湿潤気候)
Dwa,Dwb,Dwc,Dwd(亜寒帯冬季少雨気候)
Dsa,Dsb,Dsc,Dsd(高地地中海性気候) - ごく限られた地域のみに存在する。
Dfa,Dfb,Dwa,Dwb,Dsa,Dsb(湿潤大陸性気候|大陸性混合林気候)
Dfc,Dfd,Dwc,Dwd,Dsc,Dsd(亜寒帯気候|針葉樹林気候)

E(寒帯) ET(ツンドラ気候)
EF(氷雪気候)

熱帯モンスーン気候

熱帯モンスーン気候(ねったいモンスーンきこう)とはケッペンの気候区分における気候区のひとつで熱帯に属する。記号はAm。Amのmはこの気候がAfとAwの間に位置することからドイツ語の「Mittelform」(中間)に由来し、モンスーンの頭文字ではない。このため、弱い乾季のある熱帯雨林気候と言い換えられることがある[1]。

アリソフの気候区分における気候帯2-1.大陸性季節風気候に対応する[2]。


特徴[編集]

赤道から北回帰線の間、モンスーンの影響を受ける海岸部に分布。雨季の雨量は熱帯雨林気候と変わらないが、モンスーンの影響による乾季があり多少乾燥する。植生はおもに落葉広葉樹からなる。アジアでは稲作が盛んで、他にはバナナなどの果物、サトウキビの栽培などが行われている。稲作中心の地域では人口密度が高くなっている。

条件[編集]





ジャカルタの雨温図最寒月平均気温が18℃以上(ヤシが生育できること)。
年平均降水量が乾燥限界以上。
最少雨月降水量が60mm未満かつ(100-0.04×年平均降水量)mm以上。

「最少雨月降水量が60mm未満かつ(100-0.04×年平均降水量)mm以上」という条件から「100-0.04×年平均降水量」の値は60未満である必要があるため、この気候に属する地域の年平均降水量は1,000mmを超えていることになる。また、年平均降水量が2500o以上の場合は、最少雨月降水量が0mmでもこの気候に分類されることになる。

分布[編集]





熱帯モンスーン気候(Am)の世界的な分布
分布地域[編集]

赤道・低緯度地域に点々と分布する。熱帯雨林気候からサバナ気候への移行地域となる。
インドシナ半島東岸、西岸からマレー半島北部まで
フィリピン諸島西岸
ジャワ島東部、スラウェシ島南部からタニンバル諸島・ニューギニア島南部にかけて
ニューカレドニア島の一部、フィジーの一部
インド南部の西岸、モルディブ
マダガスカル北岸・南岸、マスカレン諸島の一部、コモロ諸島の一部
アフリカのギニア湾沿岸、コンゴ盆地の一部
フロリダ半島の最南部
中央アメリカのカリブ海・メキシコ湾沿岸、カリブ海諸島の一部
ギアナ高地、南アメリカのセルバ周辺部からアマゾン川河口にかけて
ブラジル東岸の一部

典型的な都市[編集]
ジャカルタ(インドネシア)
マナウス(ブラジルアマゾナス州)
マイアミ(アメリカ合衆国フロリダ州)
フォール=ド=フランス(フランス海外県マルティニーク)
パナジ(インドゴア州)
ケアンズ(オーストラリアクィーンズランド州)

気候の特徴[編集]





乾季のパラワン島のヤシ林




フィリピン・コルディリェーラの棚田群サバナ気候ほどではないが弱い乾季(雨のあまり降らない時期)がおこる。
乾季には木が落葉して、下草(雑草等)のみとなる[要検証 – ノート]。
雨季の降水量は多く、多様な植物が生育する。
熱帯雨林気候と同じく、午後はスコールの影響を受ける。

雨季と乾季は地域によって異なるがおおむね夏ごろに雨季、冬頃に乾季を迎える地域が多い。ミャンマー南部では涼季(11月 - 2月)・暑季(3月 - 4月)・雨季(4月 - 11月)の3つの季節があり涼季は低温少雨、暑季は高温多湿少雨、雨季は温暖多雨となる。タイ南部では乾季(11月 - 3月)・暑季(4月)・雨季(5月 - 10月)の3つの季節があり乾季は低温少雨、暑季は高温、雨季は多雨となる。オーストラリア北東部のケアンズ周辺では乾季(4月 - 11月)・雨季(11月 - 3月)に分かれ乾季は温暖少雨で晩秋から春にあたり、雨季は高温多雨多湿で夏から初秋にあたる。

また、集中豪雨が多い地域でもある。西インド諸島にあるフランス領の島・グアドループでは、1970年11月26日に1分間で38mm(仮にこの雨が1時間降り続ければ2,250mm - 2,310mmで、沖縄県那覇市の年間降水量を超える)という猛烈に激しい雨を観測した。また、インド洋のマスカリン諸島にあるフランス領のレユニオン島では、1952年3月15日から16日に24時間で1,870mm(日本記録は徳島県上那賀町海川で観測された1,317mm)という豪雨を観測している。これら2つの降水量はいずれも世界記録となっている[3]。

土壌と植生の特徴[編集]

ラトソルや赤色土が多い。湿地や低地など水が溜まる場所には灰色土や褐色土、グライなどを含む土が分布しているほか東南アジアやオセアニアなどの火山地域では火山灰なども多く含まれている。

乾季の乾燥のため、乾燥に強い落葉広葉樹林(雨緑林)が多く分布する。また雨季には鬱蒼とした湿原、乾季には枯れ草の多い草原となる地域もある。

産業の特徴・その他[編集]

東南アジアやマダガスカルでは、雨季に稲作を行う。地域によっては、水を確保するためにため池や棚田などが作られている。稲作に適さない地域やアフリカ・アメリカでは雨季を中心にバナナやゴム、トウモロコシ、サトウキビ、その他の熱帯農産物が生産されている。

亜熱帯

亜熱帯(あねったい)とは、熱帯に次いで気温の高い地域のこと。しかし、ケッペンの気候区分には亜熱帯という区分はない。ケッペンの気候区分では温帯に含まれる地域の一部(温暖湿潤気候等)を俗に亜熱帯と呼ぶことがある。温帯夏雨気候(Cw)の別名として「亜熱帯モンスーン気候」と呼ぶこともある。このため、亜熱帯の定義として広く認められたものはなく、人や場合によってさまざまな意味合いで使われる。一般には熱帯の北と南にある北回帰線と南回帰線(それぞれ北緯・南緯23.5度)付近の緯度が20度から30度あたりの地域を漠然と指すことが多い。温帯に属する地域の中で最寒月の最低気温の平均 (平均気温ではない)が摂氏0度以下には下がらない地域であるとか、温帯であって年平均気温が18度以上である地域とか、冬季の平均気温がほぼ15度以上ある地域であるなどの定義がされることもある。

この緯度の地域は、大陸の東岸においてはモンスーンの影響を受けるため非常に湿潤となり、熱帯モンスーン気候や温暖湿潤気候など熱帯や温帯に属する気候となる。対して、西岸においてはモンスーンの影響を受けないため、亜熱帯高圧帯の影響下でほとんど雨が降らず、乾燥帯となるのである。

フローンの気候区分においては、亜熱帯乾燥帯(記号:PP)と亜熱帯冬雨帯(記号:PW)が存在する[1]。PPはケッペンの気候区分の乾燥帯(B)、PWは地中海性気候(Cs)に相当する[1]。

アリソフの気候区分においては、気候帯4すなわち「高日季(夏)は熱帯気団、低日季(冬)は寒帯気団に支配される地域」が亜熱帯と呼ばれている[2]。


亜熱帯の地域・都市[編集]

アメリカ合衆国カリフォルニア州南部、フロリダ州北・中部[注 1]、メキシコ湾岸北部、オーストラリア東海岸[注 2]、南アフリカなどを含む。
香港(北緯22.3度)
広州(中国広東省、北緯23度)
ヨハネスブルグ(南アフリカ、南緯26.1度)
ブリスベン(オーストラリア、南緯27度28分)
ニューオーリンズ(アメリカ合衆国ルイジアナ州、北緯29.9度)

日本国内では、東京都小笠原村の聟島列島・父島列島・母島列島・西之島、鹿児島県の奄美群島、沖縄県の沖縄諸島(沖大東島を除く)・宮古列島(多良間島を除く)・尖閣諸島が亜熱帯に属する。



亜熱帯の地域・都市[編集]

アメリカ合衆国カリフォルニア州南部、フロリダ州北・中部[注 1]、メキシコ湾岸北部、オーストラリア東海岸[注 2]、南アフリカなどを含む。
香港(北緯22.3度)
広州(中国広東省、北緯23度)
ヨハネスブルグ(南アフリカ、南緯26.1度)
ブリスベン(オーストラリア、南緯27度28分)
ニューオーリンズ(アメリカ合衆国ルイジアナ州、北緯29.9度)

日本国内では、東京都小笠原村の聟島列島・父島列島・母島列島・西之島、鹿児島県の奄美群島、沖縄県の沖縄諸島(沖大東島を除く)・宮古列島(多良間島を除く)・尖閣諸島が亜熱帯に属する。

熱帯

熱帯(ねったい)とは地球上で緯度が低く年中温暖な地域のことである。緯度による定義、気候区分による定義が存在する。

緯度による定義では、赤道を中心に北回帰線(北緯23度26分22秒)と南回帰線(南緯23度26分22秒)に挟まれた帯状の地域を意味する。英語で熱帯を意味するtropicsは、回帰線(tropic)から生まれた言葉である。

気候区分による定義は気象学者によって複数存在する。以下では気候区分による定義、それもケッペンの気候区分における定義に基づいた内容を紹介する。ケッペンの気候区分における記号はAで、最も低緯度に位置することを示す。

アリソフの気候区分では、1936年に発表された「地理的気候帯」の中に熱帯があり、赤道気候(E)・赤道モンスーン気候(E.M.)・貿易風気候(Pass.)の3つに区分される[1]。さらに貿易風気候は海洋性(Pass. m.)と大陸性(Pass. c.)に分割される[1]。ただし、現在よく知られている1954年発表の気候区分には「熱帯」は存在しない。


定義[編集]

ケッペンの気候区分においては次のように定義され、以下の2つの条件を満たす必要がある。
最寒月の平均気温が18℃以上(ヤシが生育できること)
年平均降水量が乾燥限界以上

例えば、平均気温が一年中19℃で、降水量が乾燥限界以上ならば、熱帯に含められる。 

特徴[編集]

両回帰線にはさまれた地域は日射量が多いため年中温暖となり、それによって上昇気流が生ずるため低気圧地帯となる(熱帯収束帯または赤道低圧帯)。この低気圧によって豊富な雨量が得られ、直下には熱帯雨林が形成される。この熱帯収束帯は季節によって太陽の通る緯度が変わるため、それにあわせて南北に動く。これによって夏にのみ熱帯収束帯に入る地域は、冬に乾期が来るサバナ気候となる。ただし大陸東岸ではモンスーンの影響のため乾期が目立たず、熱帯モンスーン気候と呼ばれる。

パクス・ロマーナ

パクス・ロマーナ(ラテン語: Pax Romana (パークス・ローマーナ))とは、「ローマの平和」を意味し、ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和を指す語である。パクス(パークス)とはローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。





エドワード・ギボン
18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』のなかで五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と評し「パークス・ロマーナ」というラテン語の造語で表現してから一般に広まった。

時期[編集]

ギボンは五賢帝の時代をそう表したが、アウグストゥスが帝政(プリンキパトゥス)を確立したキリスト紀元前27年から、五賢帝時代の終わりであるキリスト紀元180年までを指すようになった。

派生語[編集]

ギボンの造語は人口に膾炙し、彼に倣い後世の学者たちによって、「強大な一国の覇権による(相対的)平和」を「パクス−」と呼ぶようになった。

人身売買

人身売買(じんしんばいばい)とは、人間を金銭などによってこれを売買する行為の事である。自ら身を売り出したり(借金の返済、親族に必要な金銭の用立てなど)、親が子を、また奴隷状態にある人を売買する事もあるが、誘拐などの強制手段や甘言によって誘い出して移送しする事も多い。人の密輸、ヒューマン・トラフィッキング(Human Trafficking)或いはトラフィッキング(Trafficking=交通)ともいわれ、また警視庁等はこれを人身取引と表現している。

その目的は、強制労働、性的搾取、臓器移植、国際条約に定義された薬物の生産や取引、貧困を理由として金銭を得る為の手段などにあり、人の移送が国境を越えて行われる場合も多い。1990年代以降、特に1996年の児童の商業的性的搾取に反対する世界会議以降、国際的な人身売買が国際問題として取り上げられることが多くなっている。 現代社会においては、おおむねどの国においても犯罪行為とされており、国際社会から忌み嫌われている。また、1949年に発効した国際連合の人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約、国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の「人身取引」に関する議定書、さらにジョグジャカルタ原則第11原則に於いても禁止されている。 裏を返せば人身売買は世界中で現在も行われているということでもあり、中国政府は児童誘拐年1万人(専門家は7万人)としている[1][2]。


概要[編集]

国際的な人身売買者に関わる国は、送出国・中継国・受入国の三つに分類される。 送出国には政情不安、軍国主義、社会不安、内戦、自然災害、経済状況の変化、差別、周囲や家族からの圧力などの要因(プッシュ要因)があり、また受入国には、性関連のサービスおよび児童との性行為、非合法な臓器移植や実験、テロリスト、過酷な条件下の労働等に対する需要(プル要因)がある。このため非合法な人身取引がビジネスとして成立する。

日本は性的搾取を目的とした女性の移送目的国となっているとされ、諸外国、特にアメリカ合衆国や欧州連合から批判を浴びている。

警察庁の人身取引被害者統計によれば、中国雲南省をはじめ地方農村部、メコン川流域のタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナム、ウクライナなどの移送が多いとされている。

略取の対象には、反抗する力のない貧困層、少数民族、災害の罹災者、移民などのマイノリティーや、子供が選ばれやすい。これらの対象者は、出生届や身分を証明する書類もなく行政等の保護を受けづらいため、人身売買の対象とされやすい。 2005年のスマトラ島沖地震の際には、大災害の混乱に紛れ、人身売買を目的とした子供の誘拐が多発した。

ケースと流通[編集]


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まだ確認されていないケースや職業ごとの違いを除くと、人身売買が行われる過程の始まりは、甘言による騙しのケースが多い。 仲介者が対象に接触する際は、対象それぞれが持つ目的(貧困を解消するため、特定の職業や都会に対する夢など)に対して好意的な条件を持ち出し、対象とその家族を騙す。取引が成立したら、家族にお金を払い、対象を連れて行く。目的地はケースや職業によって違う。人身売買がされる職業は工場などでの強制労働や家政婦、性的搾取などである。 人身取引のケースに関してどれも共通していることがある。まず、逃げることが出来ないという点である。彼らが強制的に入れられている施設には監視カメラや有刺鉄線、鍵によるロックがされている。逃げようとした際には雇い主から暴行を受けるなどというケースもある。逃げた場合は家族を対象にするという脅迫や、将来に対する絶望、虐待、暴行により精神的に限界になり、気力を失ってしまったり、自殺を考え、逃げるという選択肢を失ってしまうこともある。 他に共通しているのは、雇い主、客から肉体的及び精神的なダメージを受けているということである。 また、警察が雇い主からお金を受け取り、対応をしないというケースも存在する。

世界的統計[編集]





米国国務省の2010年度レポート。緑ほど撲滅規制基準を達成している
「:en:Category:Human trafficking by country」も参照

アメリカ国務省は、「人身売買に関する年次報告書」を毎年発表している[3]。

国務省報告書の分類


Tier1
基準を満たす

Tier2
基準は満たさないが努力中

Tier2 WatchList
基準は満たさないが努力中で被害者数が顕著、かつ前年より改善が見られない、または次年以降の改善を約束しない

Tier3
基準を満たさず努力も不足

Tier2 WatchListとTier3は監視対象国。

[icon] この節の加筆が望まれています。

また、2010年報告書によると、不法に戦略核(戦術核)を保有・製造している国であるイランおよび北朝鮮の2ヶ国が最低ランク(Tier3)と発表している。2013年には、中国とロシアが最低ランクの「第3段階」に引き下げられた[4]。




国際的な取り組み[編集]

人身売買禁止議定書[編集]

2000年、国際組織犯罪防止条約を補完する議定書として国際連合国連総会で採択、2003年に発行された条約。日本は2005年(平成17年)6月8日、国会で承認した。日本国内では現在も人身売買が横行している状況である[5]。

民間人による防止策[編集]


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国際的な手段および政府が防止策をとっているが、民間人にも日々の注意や関心で人身売買を防ぐのに貢献することができる。

主な手段としては、
人身売買についての情報や知識を正しく広める。
周りの人と話し合い、解決策を共に考える。
会社や人を雇ったり取引する際、取引の相手が人身売買や犯罪を犯していないかを確かめる。被害者の場合は警察や人身取引防止団体に連絡する。
人身売買に繋がる事が目の前で起きた際やその可能性、証拠を知った際、速やかに警察や人身取引防止団体に連絡する。
人身取引防止団体にお金や物品を寄付する。
海外に渡航する際は手続きを行ってくれる会社を良く考え、調べる。渡航後や手続き完了後、信頼を置ける会社だとわかれば友人などに伝えることも防止に繋がる。
以上のことを広める。

などが挙げられる。しかし、それでも日本では「人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていない」とアメリカから批判されている[3]。

各国の事例[編集]

日本[編集]

日本人の人身売買[編集]

日本での人身売買に関する最古の記録は『日本書紀』676年(天武天皇5年)の売買許可願いである。下野の国司から凶作のため百姓の子どもの売買の申請が出され、不許可となっている。しかし、この許可願いの存在から、それ以前の売買の存在が推認されている。大宝律令・養老律令でも禁止はなされていたが、密売が行われていた。また奴婢の売買は公認されていた。

人買いの語が多く見られるのは鎌倉時代、室町時代である。「撰集抄」には幼童、青年、老人さえ金で売られることが記され、「閑吟集」には「人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身ぢやほどに、静かに漕げよ船頭どの」という歌がある。謡曲では「隅田川」「桜川」などが、古浄瑠璃の山椒大夫とともに有名である。

人身売買は現代においても暴力団が関与して発生したケースもあり、2007年には風俗店の女性従業員が遅刻や無断欠勤を理由に、暴力団員の同風俗店経営者に「罰金」と称して架空の借金(約150万円)を通告され返済を迫られ、女性は拒否して逃走するも同暴力団員に捕らえ、別の風俗店に売り渡される事件が発生、栃木県警が暴力団員と風俗店を人身売買罪を初適用して逮捕・検挙したことが報じられている[6]。

外国人労働者の人身売買[編集]

日本における日本人以外の人身売買も国内外から問題視されており、アメリカ国務省の2011年人身売買報告書[3]では、日本を「Tier2: 人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国」として挙げている。日本は目的国、供給国、通過国であることが指摘されている。

年次報告書によれば、日本企業の実施する「外国人研修・技能実習制度」が、賃金不払い、長時間労働、パスポートを取り上げるなどの不正行為によって移動の制限を行うなどにより、中国、東南アジア出身者の人権を蹂躙したり、暴力団組織が性風俗産業で外国人女性を強制労働させている実態を紹介し、日本政府による対応の不備を指摘した。Tier2の分類は7年連続となる。

警察庁が2000年から行なっている人身売買事例に関する統計[要出典]では、2003年までに検挙されただけでも81件・逮捕者164名で2003年度は前年度比+4件増加の一途を辿っていたという。同統計に関しては被害者の内173名がタイ、コロンビア53人、台湾25名などアジア・中南米が中心となっているが、ロシアからも12名が被害にあったと言う。これらでは、現地で「日本で働いて稼ごう」という募集に乗って応募したところ、渡航費や入国手続き・住む場所や職場の斡旋手数料などとして莫大な借金を負わせ、この完済に使役する・旅券などを取り上げ逃げ出さないよう行動を制限するというパターンが多いと言う。

こういった事情のうちには、従来これらの問題に際しては、刑法上の営利誘拐や(外国人の)不法就労、強制労働を禁じた法・売春防止法などで各々のケースに個別対応して、明確な奴隷および人身売買として深刻に対処されていなかったという背景と、これら人身売買被害者の外国人労働者では、このような被害の発覚の時点で不法就労により本国に強制送還され、人身売買加害者側の裁判では被害者を欠いた形で裁判が行なわれることも問題視されていた。このため2005年には刑法改正で人身売買が誘拐と並んで扱われるようになったり[7]、また人身売買被害者を強制退去させるのではなく、在留特別許可を与えて保護するなどの対応に切り替えている[8]。

このような対応の転換にもともない、アメリカ国務省は日本をTier2指定とするものの、依然として未解決の問題が存在していることを指摘している[3]。

日本の規制[編集]

2004年、日本は「人身取引対策に関する関係省庁連絡会議」を経て「人身取引対策行動計画」を発表した。2005年6月には刑法を改正して「人身売買罪」を新設した。

朝鮮・韓国[編集]

李氏朝鮮[編集]

李氏朝鮮では強固な身分社会が築かれており、白丁や奴婢なる被差別階級が存在した。奴婢の人々は主人や政府の所有物とされ、金銭で売買されており、この身分から抜け出すのはかなりの困難を伴った。1894年の甲午改革によって廃止された。

日本統治下の朝鮮と慰安婦問題[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。





1933年に少女たちを誘拐して中国人に売り飛ばしていた朝鮮人男女が日本官憲によって検挙されたことを報じる東亜日報(1933年6月30日付)




朝鮮南部連続少女誘拐事件
日本統治下の朝鮮において朝鮮人売春斡旋業者による少女の誘拐・人身売買事件が多発した。犯人は女性業者の場合もあった。

詳細は「朝鮮南部連続少女誘拐事件」を参照

また日本軍慰安婦として人身売買が多発し、業者のみならず日本政府も関与していたとする主張があり、現在も日韓で歴史認識論争、外交問題にもなっている。

「慰安婦」も参照

脱北者と人身売買[編集]

北朝鮮脱北女性は人身売買の対象となっており、20−24歳の女性は7000元、25−30歳の女性は5000元、30歳以上は3000元で中国などに売られている[9]。

中華人民共和国[編集]

中華人民共和国では、毎年、数万人もの児童が誘拐され、売買されている。大半が男児とされる。背景には、一人っ子政策により、子供を多く持ちたくても持てないため、児童を買いたいという需要がある他、児童を買う家族に罰則が存在しないことがあげられる。多くは内陸の貧しい家庭から誘拐され、東部沿岸部の裕福な家庭に売られるという。家族が警察に訴えても、警察は捜査を拒むこともある。中国政府も対策には乗り出していない。児童売買に医師などが関与する例もある[10][11]。

中国では、東南アジアから売られてくる外国人の数も増えているとされる[12]。

アメリカ合衆国[編集]

「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」および「アメリカ合衆国の人種差別」も参照

アメリカ合衆国では、特に南部のプランテーションで黒人奴隷が酷使されていた。西アフリカからアメリカには、1000万人もの奴隷が売られていった。アメリカでは、黒人を家族ごと購入する例があった。人道的な理由からではなく、こうすれば、その家族の子供が次代の奴隷となり、わざわざ奴隷商人から奴隷を買わなくても、奴隷の数を維持できるというのが主な理由であった。一部の州では奴隷制度廃止運動が盛んとなったが、アメリカ全土で奴隷制度が廃止されたのは、1840年、エイブラハム・リンカーンにより奴隷解放宣言、そして南北戦争による北軍が勝利した後のこととなる[13]。黒人以外にも、苦力と呼ばれた中国人など世界各地の有色人種が、労働力としてアメリカに売られていった。日本でも、石垣市にある唐人墓に眠る清人の悲劇などが伝わっている。

しかし、奴隷制が廃止されても、有色人種に対する苛烈な差別は根強く残り、現在でも根絶されていない。また、現在でも中南米などから女性を売買し、搾取する人身売買組織が存在する[14]。

ハレム

ハレム(トルコ語 harem)とは、イスラム社会における女性の居室のことである。この名称はトルコ語からイスラム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリーム(حريم harīm)と呼ばれている。

トルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラーム(حرم ḥarām)の転訛である。ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた場所」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称である。

日本語ではハーレムと呼ぶこともあるが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」が一般的である。英語では/hɛrəm/(ヘレム)もしくは、まれに/hɑːriːm/(ハーリーム)である。


ハレムの文化的背景[編集]

ハレムは、文化的には保守的イスラム教(イスラーム)の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。

聖典『クルアーン』(『コーラン』)には、『クルアーン』が下された当時、マディーナにあった預言者ムハンマドの自宅で、預言者の家に頻繁に出入りする信徒たちと、預言者の家族の居室の間を厳密に区切り、両者のむやみな出入りや会話を戒めた規定がみられる。後世のムスリム(イスラム教徒)たちは、この預言者の家族に関する規定と、ムスリム女性たるものは貞節を固く守るべきとした『クルアーン』の教えを厳密に適用する立場から、家屋の中にハリームの領域、すなわち訪問者の立ち入りが禁じられた空間を置くようになった。この意味では、ハレムは外出時に着用されるヴェールなどと同じ発想に基づいている。

しかしながら、ハレムの習慣はイスラム特異の文化というわけではなく、古代の地中海世界において、富裕な階層が倫理的・文化的・経済的な理由において女性の居室を隔離した風習がそもそもの起源であると考えられる。このように必ずしも宗教的な理由に基づく習慣であるとは言い切れない点でも、ヴェールの風習と同じ経緯をたどっている。

従って、ハレムはイスラム社会における男女隔離の推奨に基づいているとはいえ、下層の人々や、農村社会、遊牧民など男女が屋内外で共働きすることが前提となっている社会階層では不合理であるため採用され得ず、こうした家庭ではハレムの制度は事実上存在しない。

ハレムの習慣は、やはりヴェールと同じように、近代的価値観の前では、イスラム教における一夫多妻制の規定と結び付けられて、廃絶されるべき性的搾取、女性差別の象徴、イスラム世界の後進性の実例とみなされて指弾されてきた。イスラム社会の内部でも20世紀後半以降、女性の社会進出にともなって厳格な適用は好まれなくなり、多くの国々で衰退に向かっている。

もともとキリスト教の結婚式での女性の被るベールにも同じ意味がある。中世の結婚式の絵画では、キリスト教でも女性たちと男性たちが分けられ、女性たちの場所には巨大な布で仕切られていた。その名残として、新婦はベールをかぶっている。また、ユダヤ教でも、結婚式では女性たちの部屋と男性たちの部屋が分けられている。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つは、同じヤハウェ(ないしアッラーフ)を信仰した一神教がベースにあるからかもしれない。

宮廷のハレム[編集]

ハレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提であった。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味する。確かに、イスラムの教主であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていた。

『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなったが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていた。宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じである。また、ハレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性があった。従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女[1]とも似ている。マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例である。

オスマン帝国のハレム[編集]

アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在した。

オスマン帝国の君主は4代バヤズィト1世以来、キリスト教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン帝国のハレムには美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。

戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちはイスタンブルで購入されると、イスタンブルの各所に置かれた君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された。

ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から皇帝の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号をもった。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルタン(トルコ語版)と呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)は元キリスト教徒の奴隷から皇帝の正式な妻にまで取り立てられた稀有な例である。

一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。また、15世紀以降のオスマン帝国では、前君主の死後に即位した王子は、王位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行(のちに宮廷の一角に設けられた幽閉所(黄金の鳥籠)への軟禁に変更)があったことが知られているが、サフィエ・スルタンの時代にも同じように前君主の余計な子孫を残さないために、前皇帝の側室うち妊娠している者は、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められたと言われている。

このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があった。しかし、ひとたび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなればヴァーリデ・スルタン(トルコ語版)(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。16世紀後半から17世紀にかけてのオスマン帝国は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにもかかわらず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルタン、キョセム・スルタン(トルコ語版)など著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(トルコ語版)、カドゥンラール・スルタナトゥ、 トルコ語:Kadınlar Saltanatı 、女人の天下とも)。

18世紀からは西欧化の波がハレムに押し寄せ、西欧化に熱心だった第31代アブデュルメジト1世(在位1839年〜1861年)は、皇帝の住まいを1853年にトプカプ宮殿から西洋風のドルマバフチェ宮殿に王宮が移し、1856年に余剰のジャーリヤを解放した。しかし、近代オスマン帝国の王宮であったドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿(トルコ語版)にも小規模ながら女官と宦官の住むハレムは維持され、その後、1909年にオスマン帝国宮廷のハレムは解散された。

現代イスラム社会[編集]

厳格な男女分離政策を行っているサウジアラビアでは、結婚後の理想的な住居の例として、夫用の客間とは別に男子禁制の妻専用の客間を設けるとされており、この妻専用の客間をハレムと呼んでいる。妻の友人(女性に男友達というものはありえない)が来客した場合にはハレム(妻専用の客間)に案内して、ハレムの中ではアバヤを取って自由な服装でくつろぐことができる。ハレムは妻のプライベート空間であり、イスラム価値観的には夫であってもむやみに干渉することは悪いこととされている。

王族など資産家の場合には塀で囲った広大なエリアや体育館や室内プールのような大きな建物をハレムとすることで、ハレムの中でイスラム的には許されない水着やレオタードのような服装をして、女性だけが集まってスポーツなどの競技会が開催されることがある。女性の権利制限が厳しいイスラム原理主義社会であってもハレムの中だけは女性が自由になることができる。

イスラム外のイメージの中のハレム[編集]





ドミニク・アングル作『トルコ風呂』 1862年 ルーヴル美術館蔵。 おびただしい数の裸の美女たち。オスマン帝国のハレムではこのような光景はない。この作品はヨーロッパ人の空想した「官能」「倦怠」の東方世界のイメージを映し出している。
既に述べたようにハレムという語がトルコ語から西欧諸言語に取り入れられたことからわかるように、西欧人がハレムの存在を「発見」したのは、オスマン帝国においてであった。

オスマン帝国のハレムは、その規模と神秘性からヨーロッパからイスタンブルにやってきた多くの観察者たちの注意をひきつけた。ヨーロッパでは、特に宮廷のハレムに住まう女性たちは、「君主の居室」を意味するトルコ語ハス・オダルク(Has Odalık)から訛ってオダリスク(Odalisque)とも呼ばれてきた。ヨーロッパの人々は、オスマン帝国の社会にみられるハレム、オダリスクを東洋的で異質なものととらえ、またこれらにはヨーロッパ人の手になる旅行記や絵画を通じて官能的なイメージを与えられたが、こうしたハレムに対するイメージの生産と受容はエドワード・サイードの批判したいわゆるオリエンタリズムの一種ということができる。官能的なハレムのイメージはオスマン帝国の滅亡後も再生産と増幅が21世紀に至るまで繰り返されてきた。

さらに、イスラム圏の文脈や後宮の概念を離れ、広く、男性が多くの性的パートナー(それがどんな法的地位であれ)を持つ状態を、いささか不道徳なニュアンスと共に意味することもある。生物学では、ゾウアザラシやアシカなどの一夫多妻制のコロニーを意味するようになった。

こうした風潮は、欧米のフィルターを経てオリエントの世界に触れた日本においても例外ではない。「サルタンの君臨するハーレム」のイメージは、全く欧米から受容したイメージに基づいて日本でも再生産されてきた。この結果、現在では「ハーレム」の語はほとんど西アジアとは関係なく日本語に定着しており、男女関係、性風俗や、より軽いニュアンスでは女性ばかりが数多くいる中に少数の男性が存在するような状況を指す意味まで、様々に「ハーレム」という言葉が使われている。アニメ・ゲームなどの分野ではいわゆる「ハーレムもの」を意味し、この概念は欧米に逆輸入もされている。

広義のハーレム[編集]

上記の意味を援用し、動物界で一匹のオスがメスをめぐる他のオスとの戦いに勝ち抜き、複数のメスを独占する状況をハーレムと形容することがある。
さらにこの意から、一人の男性に対して複数の女性がいる状況を指してハーレムと使うこともある。

古代ギリシア

古代ギリシア(こだいギリシア)とは、一般的に、古代ローマ支配下以前のギリシアをいう。短期間に文明が発達し、東西の文明に大きな影響を与えた。

ギリシア文明の発祥[編集]


ギリシャの歴史

Coat of arms of Greece.svg

エーゲ文明

ヘラディック文明
キクラデス文明
ミノア文明
ミケーネ文明

古代ギリシア

暗黒時代
幾何学文様期
アルカイック期 (古典期)
ヘレニズム
ローマ帝国支配下のギリシャ
ビザンツ帝国支配下のギリシャ
ビザンツ帝国
分裂時代
トルコクラティア
(オスマン帝国支配下のギリシャ)

近代ギリシャ

ギリシャ独立戦争
(ギリシャ第一共和政)
ギリシャ王国
ギリシャ第二共和政
八月四日体制
ギリシャ国
ギリシャ内戦
ギリシャ軍事政権
ギリシャ第三共和政

その他

ギリシア美術

表・話・編・歴


紀元前2600年ころ、小アジアのトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころには線文字Aを持つミノア文明がクレタ島のクノッソスを中心に興る。さらに紀元前1500年ころに線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えた。ミケーネ文明の民族系統はわかっていない。

その後、3派のギリシア人が北方から南下した。紀元前2000年ころイオニア人がエーゲ海北部や小アジア西岸に住み着き、紀元前1400年ころアカイア人がペロポネソス半島からエーゲ海に進出しミノア文明やミケーネ文明を滅ぼした。さらに紀元前1200年ころにドーリア人がペロポネソス半島北方から南下しアカイア人の領域に侵入した。

ギリシアの領域[編集]

ギリシアの都市国家群(ポリス)は、紀元前800年末には現在のギリシャ西南部、クレタ島を含むエーゲ海の島々、アナトリア半島の西海岸に広がっていた。ギリシア人は人口の増加、交易、貴族集団同士の対立などが要因となって地中海世界全体に植民を進めた。紀元前500年末までには西から現在のスペインアンダルシア州のマイナケ、同バレンシア州のヘメロスコペウム(現在のデニア)、カタルーニャ州のエンポリオン、フランスではエロー県のアガテ、ブーシュ=デュ=ローヌ県のマッシリア(マルセイユ)、ヴァール県のアテノポリス、アルプ=マリティーム県のニカイア(ニース)に広がっていた。

第二の本拠地と言えるほどの規模に達していたのはマグナ・グラエキア(イタリア南部とシチリア島)である。イタリア南部のギリシア植民都市の一部は19世紀に至るまでコムーネとして残り、ギリシア語を話す住民による生活が続いていた。

このほか、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトのナウクラティス、クレタ島北部のほか、アナトリア半島北岸を含む黒海沿岸全域に植民市を築いていた。例えば現在のグルジアに位置するトリグリト(ガグラ)がある。

スペインのマイナケは周囲をフェニキアの入植地に囲まれ、キニュプスやシチリア島、キプロス島でもフェニキアと隣接しているものの、それ以外の土地では他のどのような勢力とも競合していなかった。

ギリシア人による主な交易品は黒海の穀物とエトルリアからもたらされたスズである。

ポリスの成立[編集]

前1200年のカタストロフによるミケーネ文明の崩壊以降、しばらく暗黒時代と呼ばれる文化的には不毛の時代が続いたが、紀元前8世紀ころに古代ギリシア文明が急速に開花し ポリス(都市国家)が成立するようになった。ポリスは大小さまざまあるが、1500から2500平方キロメートルの領土を持ち、市民と呼ばれる自由民男子とその家族数万から10万人と、奴隷など数万から10万人の人口を抱えているものが一般的であった。諸ポリスは、古代マケドニアによる覇権が確立する紀元前338年まで統一されることはなく、分立した。

地域や風土によってポリスの政体は多様であり、王政、貴族を中心とする寡頭政、全市民参加の直接民主政を採用するポリスがあった。また正統な王の家系以外から出た個人が権力を握って世襲する場合があり、これは僭主政と呼ばれた。有力なポリスであったアテナイ、コリントス、テーバイは、自分たちの政体を他に押しつけようともした。

ポリスの興亡[編集]





ペルシア戦争の状況
ペルシャのマルドニウスによる侵攻(オレンジ線、紀元前492年)、ダティスの侵攻(緑線、紀元前490年)、クセルクセス1世の侵攻(黄線、紀元前480年)
丘陵地帯の多いギリシアでは重装歩兵による密集戦術が発達していた。ポリス間の抗争が続くにつれ徐々に戦術が洗練され、さらに重装歩兵の担い手である市民の政治的地位が向上し、市民共同体としての意識が高まったことで、戦術面のみならず精神的にも強力な軍隊となった。

こうした中で発生したペルシャ戦争で、その戦力の真価が遺憾なく発揮された。アテナイとスパルタを中心とする古代ギリシアの連合軍は、20万とも50万とも言われるペルシャ軍を撃退する。このペルシャ戦争の過程で、アテナイが強大化してギリシアの覇権を握る。

紀元前5世紀中ころから紀元前4世紀中ころまで、ペロポネソス戦争やレウクトラの戦いなどポリス間の攻防が繰り返され、アテナイに代わってスパルタ、テーバイへとポリス内での覇権は移行していった。

紀元前4世紀中ころになると、北方に存在していたマケドニア王国が優勢になり、紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握るとポリスは独自性をなくしていった。

ヘレニズム時代[編集]

古代マケドニア王国はピリッポス2世の暗殺の跡を継いでアレクサンドロス3世(大王)がダレイオス3世のアケメネス朝ペルシア帝国を征服してインド西北部まで侵入し、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに至る大帝国をうち立てた。

大王の急逝の後ディアドコイがその遺産を継承し、2世紀に渡って古代ギリシア文明と古代オリエント文明を融合したヘレニズム文明が各地に拡散して、後にギリシアを征服した古代ローマをも含めて影響を与えた。

また、7世紀以降の東ローマ帝国ではギリシア人居住地域が領土の大半を占めるようになったために、帝国の公用語もラテン語からギリシア語にかわっていき。中世末期までヘレニズム文明を受け継ぐこととなった。

古代ギリシア人の共有文化[編集]

古代ギリシア人はそれぞれポリスを成立させて互いに対立する関係にあったが、ともに自らをヘレネス、他民族をバルバロイ(意味の分からない言葉を話す者)と呼んで区別した。ヘレネスとは神話中のデウカリオーンの子ヘレーンの子孫であり、ギリシア人は共通の祖先を持ち、共通の言葉を話すものと考えられたのである。

古代ギリシア人はギリシア神話 を共有しゼウスを頂点とするオリュンポス十二神・デルポイの神託を信じ、 オリュンピア・イストモス・ネメアー・デルポイで開催された祭典には全ギリシア人が参加して競技を行った。祭典は運動競技のほかに演劇や音楽も競演された。
古代オリンピア競技は現代のオリンピックに影響を与えている。

戦士であり政治家でもある古代ギリシア人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、体力の鍛錬と政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。また年長者が精神的・肉体的に年少者を一人前に教育することが理想とされ、少年愛が公然と行われ軍隊の中に「同性愛隊」も存在した。

古代ギリシアの社会では古代ローマ同様に多くの奴隷が使用されて国家を支えた。アリストテレスも「奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に人間に貢献する」と言ってはばからなかった。戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。奴隷の中には借金を通じて債務奴隷になるものもおり、これは後のソロンの改革時に改善されることになる。

古代ギリシア人の経済[編集]

農業[編集]

ギリシアは地中海性気候でなおかつ土地がやせていて大河川も少なかったためにいわゆる二圃式の乾燥農業(一年ごとに休閑期を挟む)が行われていた[1]。

穀物類は大麦・小麦が主であり、特に前者の生産が圧倒的であった。古代ギリシアが植民地を必要とした背景には小麦の需要を賄いたいという思惑があった。また、黍の栽培はごく一部でしか行われず、稲に至っては存在自体は知られていたものの栽培はされていなかったようである。

一方、果実や野菜栽培は盛んに行われており、特にオリーブやブドウの栽培は多くの地域で行われていた。クレタ島やミケーネ文明の遺跡からはオリーブ油の倉庫跡が発見され、紀元前8世紀には葡萄酒の輸出記事が見られることからも分かる。

また農業専門書ではないものの、ヘシオドスの『仕事と日』は世界最初の農事暦とされており、クセノポンも『家政論』において農園経営論を説いている。ただし、後世の農学者からは前者の内容の評価は高いものの、後者は実際の農業を理解していないと厳しい評価をされ、特にマックス・ウェーバーからは酷評されている。カール・ポランニーは、ヘシオドスは互酬関係の崩壊について記していると指摘した[2]。

商業[編集]

古代ギリシアの市場は、ポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれており、対内市場にはアゴラ、対外市場にはエンポリウムが存在した。アゴラにはカペーロスという小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度となり、民衆に食物を供給した。エンポリウムにはエンポロスという対外交易者が居住して取り引きを行なった。

植民地主義の影響[編集]

ミケーネ文明はハインリッヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性が存在する。クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた[3]。

これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった[4]。

しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されることになった[5]。

この暗黒時代を利用することにより、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことにより、その矛盾は再び闇から蘇ることになった[5]。

エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが[# 1]、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが発覚した。1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった[6]。

色彩豊かな文明[編集]

現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、かつては鮮やかな彩色が施されていた[7][8]。劣化して色落ちした物もあるが1930年頃の大英博物館のスポンサー初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン(美術収集家・画商)の指示で大英博物館職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、CGなどによって再現する試みも行われている。
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