2014年02月06日
ハレム
ハレム(トルコ語 harem)とは、イスラム社会における女性の居室のことである。この名称はトルコ語からイスラム世界の外側の諸外国語に広まったもので、アラビア語ではハリーム(حريم harīm)と呼ばれている。
トルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラーム(حرم ḥarām)の転訛である。ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた場所」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称である。
日本語ではハーレムと呼ぶこともあるが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」が一般的である。英語では/hɛrəm/(ヘレム)もしくは、まれに/hɑːriːm/(ハーリーム)である。
ハレムの文化的背景[編集]
ハレムは、文化的には保守的イスラム教(イスラーム)の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。
聖典『クルアーン』(『コーラン』)には、『クルアーン』が下された当時、マディーナにあった預言者ムハンマドの自宅で、預言者の家に頻繁に出入りする信徒たちと、預言者の家族の居室の間を厳密に区切り、両者のむやみな出入りや会話を戒めた規定がみられる。後世のムスリム(イスラム教徒)たちは、この預言者の家族に関する規定と、ムスリム女性たるものは貞節を固く守るべきとした『クルアーン』の教えを厳密に適用する立場から、家屋の中にハリームの領域、すなわち訪問者の立ち入りが禁じられた空間を置くようになった。この意味では、ハレムは外出時に着用されるヴェールなどと同じ発想に基づいている。
しかしながら、ハレムの習慣はイスラム特異の文化というわけではなく、古代の地中海世界において、富裕な階層が倫理的・文化的・経済的な理由において女性の居室を隔離した風習がそもそもの起源であると考えられる。このように必ずしも宗教的な理由に基づく習慣であるとは言い切れない点でも、ヴェールの風習と同じ経緯をたどっている。
従って、ハレムはイスラム社会における男女隔離の推奨に基づいているとはいえ、下層の人々や、農村社会、遊牧民など男女が屋内外で共働きすることが前提となっている社会階層では不合理であるため採用され得ず、こうした家庭ではハレムの制度は事実上存在しない。
ハレムの習慣は、やはりヴェールと同じように、近代的価値観の前では、イスラム教における一夫多妻制の規定と結び付けられて、廃絶されるべき性的搾取、女性差別の象徴、イスラム世界の後進性の実例とみなされて指弾されてきた。イスラム社会の内部でも20世紀後半以降、女性の社会進出にともなって厳格な適用は好まれなくなり、多くの国々で衰退に向かっている。
もともとキリスト教の結婚式での女性の被るベールにも同じ意味がある。中世の結婚式の絵画では、キリスト教でも女性たちと男性たちが分けられ、女性たちの場所には巨大な布で仕切られていた。その名残として、新婦はベールをかぶっている。また、ユダヤ教でも、結婚式では女性たちの部屋と男性たちの部屋が分けられている。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つは、同じヤハウェ(ないしアッラーフ)を信仰した一神教がベースにあるからかもしれない。
宮廷のハレム[編集]
ハレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提であった。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味する。確かに、イスラムの教主であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていた。
『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなったが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていた。宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じである。また、ハレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性があった。従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女[1]とも似ている。マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例である。
オスマン帝国のハレム[編集]
アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在した。
オスマン帝国の君主は4代バヤズィト1世以来、キリスト教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン帝国のハレムには美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。
戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちはイスタンブルで購入されると、イスタンブルの各所に置かれた君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された。
ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から皇帝の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号をもった。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルタン(トルコ語版)と呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)は元キリスト教徒の奴隷から皇帝の正式な妻にまで取り立てられた稀有な例である。
一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。また、15世紀以降のオスマン帝国では、前君主の死後に即位した王子は、王位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行(のちに宮廷の一角に設けられた幽閉所(黄金の鳥籠)への軟禁に変更)があったことが知られているが、サフィエ・スルタンの時代にも同じように前君主の余計な子孫を残さないために、前皇帝の側室うち妊娠している者は、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められたと言われている。
このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があった。しかし、ひとたび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなればヴァーリデ・スルタン(トルコ語版)(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。16世紀後半から17世紀にかけてのオスマン帝国は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにもかかわらず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルタン、キョセム・スルタン(トルコ語版)など著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(トルコ語版)、カドゥンラール・スルタナトゥ、 トルコ語:Kadınlar Saltanatı 、女人の天下とも)。
18世紀からは西欧化の波がハレムに押し寄せ、西欧化に熱心だった第31代アブデュルメジト1世(在位1839年〜1861年)は、皇帝の住まいを1853年にトプカプ宮殿から西洋風のドルマバフチェ宮殿に王宮が移し、1856年に余剰のジャーリヤを解放した。しかし、近代オスマン帝国の王宮であったドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿(トルコ語版)にも小規模ながら女官と宦官の住むハレムは維持され、その後、1909年にオスマン帝国宮廷のハレムは解散された。
現代イスラム社会[編集]
厳格な男女分離政策を行っているサウジアラビアでは、結婚後の理想的な住居の例として、夫用の客間とは別に男子禁制の妻専用の客間を設けるとされており、この妻専用の客間をハレムと呼んでいる。妻の友人(女性に男友達というものはありえない)が来客した場合にはハレム(妻専用の客間)に案内して、ハレムの中ではアバヤを取って自由な服装でくつろぐことができる。ハレムは妻のプライベート空間であり、イスラム価値観的には夫であってもむやみに干渉することは悪いこととされている。
王族など資産家の場合には塀で囲った広大なエリアや体育館や室内プールのような大きな建物をハレムとすることで、ハレムの中でイスラム的には許されない水着やレオタードのような服装をして、女性だけが集まってスポーツなどの競技会が開催されることがある。女性の権利制限が厳しいイスラム原理主義社会であってもハレムの中だけは女性が自由になることができる。
イスラム外のイメージの中のハレム[編集]
ドミニク・アングル作『トルコ風呂』 1862年 ルーヴル美術館蔵。 おびただしい数の裸の美女たち。オスマン帝国のハレムではこのような光景はない。この作品はヨーロッパ人の空想した「官能」「倦怠」の東方世界のイメージを映し出している。
既に述べたようにハレムという語がトルコ語から西欧諸言語に取り入れられたことからわかるように、西欧人がハレムの存在を「発見」したのは、オスマン帝国においてであった。
オスマン帝国のハレムは、その規模と神秘性からヨーロッパからイスタンブルにやってきた多くの観察者たちの注意をひきつけた。ヨーロッパでは、特に宮廷のハレムに住まう女性たちは、「君主の居室」を意味するトルコ語ハス・オダルク(Has Odalık)から訛ってオダリスク(Odalisque)とも呼ばれてきた。ヨーロッパの人々は、オスマン帝国の社会にみられるハレム、オダリスクを東洋的で異質なものととらえ、またこれらにはヨーロッパ人の手になる旅行記や絵画を通じて官能的なイメージを与えられたが、こうしたハレムに対するイメージの生産と受容はエドワード・サイードの批判したいわゆるオリエンタリズムの一種ということができる。官能的なハレムのイメージはオスマン帝国の滅亡後も再生産と増幅が21世紀に至るまで繰り返されてきた。
さらに、イスラム圏の文脈や後宮の概念を離れ、広く、男性が多くの性的パートナー(それがどんな法的地位であれ)を持つ状態を、いささか不道徳なニュアンスと共に意味することもある。生物学では、ゾウアザラシやアシカなどの一夫多妻制のコロニーを意味するようになった。
こうした風潮は、欧米のフィルターを経てオリエントの世界に触れた日本においても例外ではない。「サルタンの君臨するハーレム」のイメージは、全く欧米から受容したイメージに基づいて日本でも再生産されてきた。この結果、現在では「ハーレム」の語はほとんど西アジアとは関係なく日本語に定着しており、男女関係、性風俗や、より軽いニュアンスでは女性ばかりが数多くいる中に少数の男性が存在するような状況を指す意味まで、様々に「ハーレム」という言葉が使われている。アニメ・ゲームなどの分野ではいわゆる「ハーレムもの」を意味し、この概念は欧米に逆輸入もされている。
広義のハーレム[編集]
上記の意味を援用し、動物界で一匹のオスがメスをめぐる他のオスとの戦いに勝ち抜き、複数のメスを独占する状況をハーレムと形容することがある。
さらにこの意から、一人の男性に対して複数の女性がいる状況を指してハーレムと使うこともある。
トルコ語のハレムは、アラビア語のハリーム、ないしはアラビア語ではもっぱら聖地を指す語であるハラーム(حرم ḥarām)の転訛である。ハリーム、ハラームとも原義は「禁じられた場所」という意味で、ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称である。
日本語ではハーレムと呼ぶこともあるが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」が一般的である。英語では/hɛrəm/(ヘレム)もしくは、まれに/hɑːriːm/(ハーリーム)である。
ハレムの文化的背景[編集]
ハレムは、文化的には保守的イスラム教(イスラーム)の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。
聖典『クルアーン』(『コーラン』)には、『クルアーン』が下された当時、マディーナにあった預言者ムハンマドの自宅で、預言者の家に頻繁に出入りする信徒たちと、預言者の家族の居室の間を厳密に区切り、両者のむやみな出入りや会話を戒めた規定がみられる。後世のムスリム(イスラム教徒)たちは、この預言者の家族に関する規定と、ムスリム女性たるものは貞節を固く守るべきとした『クルアーン』の教えを厳密に適用する立場から、家屋の中にハリームの領域、すなわち訪問者の立ち入りが禁じられた空間を置くようになった。この意味では、ハレムは外出時に着用されるヴェールなどと同じ発想に基づいている。
しかしながら、ハレムの習慣はイスラム特異の文化というわけではなく、古代の地中海世界において、富裕な階層が倫理的・文化的・経済的な理由において女性の居室を隔離した風習がそもそもの起源であると考えられる。このように必ずしも宗教的な理由に基づく習慣であるとは言い切れない点でも、ヴェールの風習と同じ経緯をたどっている。
従って、ハレムはイスラム社会における男女隔離の推奨に基づいているとはいえ、下層の人々や、農村社会、遊牧民など男女が屋内外で共働きすることが前提となっている社会階層では不合理であるため採用され得ず、こうした家庭ではハレムの制度は事実上存在しない。
ハレムの習慣は、やはりヴェールと同じように、近代的価値観の前では、イスラム教における一夫多妻制の規定と結び付けられて、廃絶されるべき性的搾取、女性差別の象徴、イスラム世界の後進性の実例とみなされて指弾されてきた。イスラム社会の内部でも20世紀後半以降、女性の社会進出にともなって厳格な適用は好まれなくなり、多くの国々で衰退に向かっている。
もともとキリスト教の結婚式での女性の被るベールにも同じ意味がある。中世の結婚式の絵画では、キリスト教でも女性たちと男性たちが分けられ、女性たちの場所には巨大な布で仕切られていた。その名残として、新婦はベールをかぶっている。また、ユダヤ教でも、結婚式では女性たちの部屋と男性たちの部屋が分けられている。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つは、同じヤハウェ(ないしアッラーフ)を信仰した一神教がベースにあるからかもしれない。
宮廷のハレム[編集]
ハレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提であった。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味する。確かに、イスラムの教主であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていた。
『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなったが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていた。宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じである。また、ハレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性があった。従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女[1]とも似ている。マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例である。
オスマン帝国のハレム[編集]
アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在した。
オスマン帝国の君主は4代バヤズィト1世以来、キリスト教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン帝国のハレムには美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。
戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちはイスタンブルで購入されると、イスタンブルの各所に置かれた君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された。
ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から皇帝の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号をもった。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルタン(トルコ語版)と呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)は元キリスト教徒の奴隷から皇帝の正式な妻にまで取り立てられた稀有な例である。
一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。また、15世紀以降のオスマン帝国では、前君主の死後に即位した王子は、王位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行(のちに宮廷の一角に設けられた幽閉所(黄金の鳥籠)への軟禁に変更)があったことが知られているが、サフィエ・スルタンの時代にも同じように前君主の余計な子孫を残さないために、前皇帝の側室うち妊娠している者は、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められたと言われている。
このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があった。しかし、ひとたび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなればヴァーリデ・スルタン(トルコ語版)(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。16世紀後半から17世紀にかけてのオスマン帝国は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにもかかわらず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルタン、キョセム・スルタン(トルコ語版)など著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(トルコ語版)、カドゥンラール・スルタナトゥ、 トルコ語:Kadınlar Saltanatı 、女人の天下とも)。
18世紀からは西欧化の波がハレムに押し寄せ、西欧化に熱心だった第31代アブデュルメジト1世(在位1839年〜1861年)は、皇帝の住まいを1853年にトプカプ宮殿から西洋風のドルマバフチェ宮殿に王宮が移し、1856年に余剰のジャーリヤを解放した。しかし、近代オスマン帝国の王宮であったドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿(トルコ語版)にも小規模ながら女官と宦官の住むハレムは維持され、その後、1909年にオスマン帝国宮廷のハレムは解散された。
現代イスラム社会[編集]
厳格な男女分離政策を行っているサウジアラビアでは、結婚後の理想的な住居の例として、夫用の客間とは別に男子禁制の妻専用の客間を設けるとされており、この妻専用の客間をハレムと呼んでいる。妻の友人(女性に男友達というものはありえない)が来客した場合にはハレム(妻専用の客間)に案内して、ハレムの中ではアバヤを取って自由な服装でくつろぐことができる。ハレムは妻のプライベート空間であり、イスラム価値観的には夫であってもむやみに干渉することは悪いこととされている。
王族など資産家の場合には塀で囲った広大なエリアや体育館や室内プールのような大きな建物をハレムとすることで、ハレムの中でイスラム的には許されない水着やレオタードのような服装をして、女性だけが集まってスポーツなどの競技会が開催されることがある。女性の権利制限が厳しいイスラム原理主義社会であってもハレムの中だけは女性が自由になることができる。
イスラム外のイメージの中のハレム[編集]
ドミニク・アングル作『トルコ風呂』 1862年 ルーヴル美術館蔵。 おびただしい数の裸の美女たち。オスマン帝国のハレムではこのような光景はない。この作品はヨーロッパ人の空想した「官能」「倦怠」の東方世界のイメージを映し出している。
既に述べたようにハレムという語がトルコ語から西欧諸言語に取り入れられたことからわかるように、西欧人がハレムの存在を「発見」したのは、オスマン帝国においてであった。
オスマン帝国のハレムは、その規模と神秘性からヨーロッパからイスタンブルにやってきた多くの観察者たちの注意をひきつけた。ヨーロッパでは、特に宮廷のハレムに住まう女性たちは、「君主の居室」を意味するトルコ語ハス・オダルク(Has Odalık)から訛ってオダリスク(Odalisque)とも呼ばれてきた。ヨーロッパの人々は、オスマン帝国の社会にみられるハレム、オダリスクを東洋的で異質なものととらえ、またこれらにはヨーロッパ人の手になる旅行記や絵画を通じて官能的なイメージを与えられたが、こうしたハレムに対するイメージの生産と受容はエドワード・サイードの批判したいわゆるオリエンタリズムの一種ということができる。官能的なハレムのイメージはオスマン帝国の滅亡後も再生産と増幅が21世紀に至るまで繰り返されてきた。
さらに、イスラム圏の文脈や後宮の概念を離れ、広く、男性が多くの性的パートナー(それがどんな法的地位であれ)を持つ状態を、いささか不道徳なニュアンスと共に意味することもある。生物学では、ゾウアザラシやアシカなどの一夫多妻制のコロニーを意味するようになった。
こうした風潮は、欧米のフィルターを経てオリエントの世界に触れた日本においても例外ではない。「サルタンの君臨するハーレム」のイメージは、全く欧米から受容したイメージに基づいて日本でも再生産されてきた。この結果、現在では「ハーレム」の語はほとんど西アジアとは関係なく日本語に定着しており、男女関係、性風俗や、より軽いニュアンスでは女性ばかりが数多くいる中に少数の男性が存在するような状況を指す意味まで、様々に「ハーレム」という言葉が使われている。アニメ・ゲームなどの分野ではいわゆる「ハーレムもの」を意味し、この概念は欧米に逆輸入もされている。
広義のハーレム[編集]
上記の意味を援用し、動物界で一匹のオスがメスをめぐる他のオスとの戦いに勝ち抜き、複数のメスを独占する状況をハーレムと形容することがある。
さらにこの意から、一人の男性に対して複数の女性がいる状況を指してハーレムと使うこともある。
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