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2014年02月06日

エチオピア

エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家である。首都はアディスアベバ。

アフリカ最古の独立国として知られる。サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。

国名[編集]

正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya)。

公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia。

日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。漢字による表記は哀提伯。他にエティオピアとも表記される。

国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。ギリシャ神話のパエトーンを参照。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方およびその地にやってきたセム系民族アクスム人(別名ハバシャあるいはアバシャ。アムハラ語:ሐበሻ hābešā/አበሻ `ābešā)を指すアル・ハバーシャ(al-ḥabašah الحبشة)が転訛した物である [2]。

ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年に憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。

歴史[編集]

詳細は「エチオピアの歴史」を参照

古代・中世[編集]





ギリシャ語が刻まれたアクスム王国の通貨
エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(英語版)(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエル[2]の女首長グディト(英語版)に滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族(英語版)のザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。

エチオピア帝国[編集]

詳細は「エチオピア帝国」を参照

エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。

ザグウェ朝[編集]

ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年–1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ(英語版)王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

ソロモン朝[編集]

イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝(英語版)エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世(英語版)以降15世紀のゼラ・ヤコブ(英語版)まで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。

諸公侯時代[編集]

しかし、16世紀以降ムダイト朝(英語版)オーッサ・スルタン国(英語版)(1734年–現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。

ソロモン朝の中興[編集]





19世紀末のエチオピア
諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で唯一独立を守り切った国家となった。

イタリア領東アフリカ[編集]

詳細は「イタリア領東アフリカ」を参照

しかし、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。

イギリス軍政下[編集]

1941年にはイギリス軍によって解放された。

独立・ソロモン朝[編集]





エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世。ジャマイカのラスタファリ運動などで世界各地の黒人に大きな希望を与えた。
再び独立を回復した(ラスタファリ運動)。

エチオピア・エリトリア連邦[編集]

詳細は「エチオピア・エリトリア連邦」を参照

1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[3]。

冷戦期・メンギスツ政権[編集]

1962年にはエリトリア州として併合した。こうした中1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。

軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦(英語版))。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争、オガデン戦争)の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。

独立・メレス政権[編集]

1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたEPRDFによるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

オガデンの反乱[編集]

詳細は「:en:Insurgency in Ogaden」を参照

エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]

1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理は国際連合安全保障理事会決議1312によりPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。

2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。

東アフリカ大旱魃[編集]

詳細は「東アフリカ大旱魃」および「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照

ハイレマリアム政権[編集]

2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレン(英語版)が新首相に就任。

政治[編集]





第12代首相ハイレマリアム・デサレン(英語版)
詳細は「エチオピアの政治(英語版)」を参照

政治体制は、連邦共和制。国家元首の大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領は駐日大使の経験もあるムラトゥ・テショメで、2013年10月7日に就任した。

行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。現首相のハイレマリアム・デサレン(SEPDM)はメレス・ゼナウィ前首相の急逝を承け、2012年8月20日に就任した。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。

議会は、二院制。上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。

連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を構成するオロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党・メディン党、虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。かつての支配政党エチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。

国際関係[編集]

近隣諸国との関係では、かつてエチオピアの領土であった隣国のエリトリアとは、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ戦争を戦い抜いたこともあり1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退し、現在でも紛争が相次いでいる。

また、かつて大ソマリ主義を掲げていたソマリアとの関係も問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[4]。これは1988年にエチオピアの勝利に終わったものの、以後も両国の関係は良好とはいいがたかった。1991年にソマリア政府が崩壊しソマリアが無政府状態となったのち、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国の原理主義化を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。
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