2014年02月06日
ディルイーヤ
ディルイーヤ (アラビア語: الدرعية) は、サウジアラビアの首都リヤド郊外に位置する都市である。かつてはサウジアラビアの王族サウード家の本拠地で、1744年から1818年には第一次サウード王国の首都であった。ワッハーブ運動の拠点となる都市でもあったディルイーヤには、第一次サウード王国時代の都市遺跡が多く残り、その中心だったツライフ(トライフ)地区は、2010年にユネスコの世界遺産リストに登録された。第一次サウード王国滅亡後はながらく廃墟となっていたが、現在はリヤード州に属し、ウヤイナ(英語版)、ジュバイラ (Jubayla)、アル=アンマリーヤ (Al-Ammariyyah) などを含むディルイーヤ行政区(英語版)の政庁所在地となっている。
ラテン文字ではAl-Diriyah, Ad-Dir'iyah, Ad-Dar'iyah, Dir'aiyahなどと転写され、日本語ではディライヤ、ディライーヤ、ディリヤ、ダルイーヤなどとも表記される[注釈 1]。
位置[編集]
ディルイーヤ旧市街の遺跡は、ワディ・ハニファ(英語版)と呼ばれる狭い谷の両側に残っており、この谷の南方はリヤドやその先に続いている。旧市街の建物は日干しレンガづくりで、谷を見渡せる丘の上に発達したグサイバー (Ghussaibah)、アル=ムライベード (Al-Mulaybeed)、ツライフ (Turaif) という3つの地区に分かれている。その3地区の中でも、ツライフがもっとも高い場所にあり、そのふもとは観光客たちが徒歩でも容易にアクセスできる。渓谷の背に沿って建てられた日干しレンガの市壁の一部が、見張り塔などとともに現存している。
新市街はツライフのある丘のふもとの、より低い場所に建てられている。町の北部の谷あいへと、数多くの庭園、農場、ヤシ林などが存在しており、より北にはアル・イルブ (Al-Ilb) というダムが存在している。
歴史[編集]
ヤークート・アル=ハマウィー、アブー・ムハンマド・アル=ハマダニ(英語版)によって言及されていた古代の集落「ガブラ」(Ghabra) に同定されることはあるものの[1]、ディルイーヤそのものの歴史は、15世紀から始まる。ナジュドの年代記によれば、都市はサウード王家の先祖であるマニ・アル=ムライディ (Mani Al-Mraydi) によって、1446年から1447年にかけて建設された。マニとその一族はアラビア東部のカティーフから、のちにリヤドとなる集落群を束ねていたイブン・ディル (Ibn Dir') の招きでやって来た。イブン・ディルはマニ・アル=ムライディの縁者といわれており、いつかの時期にワディ・ハニファを去っていたマニの一族は、本来の故郷に戻ったに過ぎないと信じられている[2][3]。
当初、 マニとその一族は、グサイバー地区とアル=ムライベード地区に住んでいた。集落全体がマニの恩人であるイブン・ディルにちなんで、アル=ディルイーヤ (Al-Dir'iyah) と呼ばれた。後に彼らはツライフ地区に移った[3]。他の町から移り住む人々や、砂漠のベドウィンの中から移り住む人々がいて、18世紀までにはナジュドでよく知られる町になっていった。
ディルイーヤ旧市街における修復されたムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスク
その時期に、ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は、ディルイーヤの支配者一族であったアル・ミグリン(マニの子孫)との戦いを経て、ディルイーヤのアミール(支配者)の座に着いた。1744年にイブン・サウードは、ディルイーヤと同じ渓谷の48kmほど上流の町アル=ウヤイナ(英語版)から逃亡してきた宗教学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(英語版)を迎え入れた。イブン・サウードはアブドゥルワッハーブの宗教上の主張を広めることに同意し、のちに第一次サウード王国と呼ばれる国が、その首都であるディルイーヤとともに、誕生したのである。それからの数十年のうちに、イブン・サウードとその一族は、ナジュド全土だけでなく、アラビアの東部も西部も支配下におさめることに成功し、イラクにも攻略の手を伸ばしていた。ディルイーヤは規模の面で拡大しただけでなく、富も増大させ、ナジュド最大の都市となり、アラビアでも大都市のひとつへと成長したのである。しかし、イスラームの聖地メッカとマディーナを支配下に置いたことで、イスラーム世界における強国オスマン帝国の怒りを買い、1811年から1818年のオスマン=サウジ戦争(英語版)につながった。そして、オスマンとエジプトの軍勢によるナジュド遠征(英語版)が行われ、ほぼ1年にわたるディルイーヤ攻囲戦(英語版)によって、サウード王国は1818年に終焉したのである。侵略軍の指揮官であったエジプトのイブラーヒーム・パシャは、ディルイーヤの破壊を命じ、多くの地元の貴族たちがワッハーブ国家を再興しようとしたときにも、都市の更なる破壊と残された物の焼却を命じた。サウード家は1824年に第二次サウード王国を再興させることになるが、首都はより南のリヤドに移した[4]。1902年に今のリヤドの基礎が築かれ、サウジアラビアの首都となっている[5]。
ディルイーヤが第一次サウード王国滅亡に際して廃墟となった1818年以降、元の住民たちはそこを去り、大部分がリヤドに移住した。1981年に公刊された著書『王国』(The Kingdom) において、イギリス人のロバート・レイシー(英語版)は、廃墟と化したディルイーヤをポンペイになぞらえた[5]。しかし、20世紀後半になると、元ベドウィンなどが再び住居を構えるようになり、サウジアラビア政府によって、1970年代後半に新しい都市が建設された[6]。この新都市は規模を拡大しつつ、小さいけれども近代的な都市として、ディルイーヤ行政区の政庁所在地となっている。古都の廃墟は観光地になっており、サウジ政府による修復の動きなども見られる。
再建された建造物群には、浴場・迎賓館のほか、90年代初頭に完了したサアド・ビン・サウード宮殿、1980年代に城壁の塔が復元された the Burj Faysal、ツライフ地区を囲む城壁の大部分、町の外壁部分、ワディ・ハニファを囲む見張り塔などが含まれる。ツライフ地区の外側では、ワディ・ハニファの反対側で、ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスクのある地域が、完全に建て直された。本来の構造物は、建造物群北部の旧モスクの遺跡にいくらか残っているだけである。都市そのもののレイアウトは、サウジアラビア国立博物館(英語版)にある大きな精密模型の展示を利用すると、容易に理解ができる。
ラテン文字ではAl-Diriyah, Ad-Dir'iyah, Ad-Dar'iyah, Dir'aiyahなどと転写され、日本語ではディライヤ、ディライーヤ、ディリヤ、ダルイーヤなどとも表記される[注釈 1]。
位置[編集]
ディルイーヤ旧市街の遺跡は、ワディ・ハニファ(英語版)と呼ばれる狭い谷の両側に残っており、この谷の南方はリヤドやその先に続いている。旧市街の建物は日干しレンガづくりで、谷を見渡せる丘の上に発達したグサイバー (Ghussaibah)、アル=ムライベード (Al-Mulaybeed)、ツライフ (Turaif) という3つの地区に分かれている。その3地区の中でも、ツライフがもっとも高い場所にあり、そのふもとは観光客たちが徒歩でも容易にアクセスできる。渓谷の背に沿って建てられた日干しレンガの市壁の一部が、見張り塔などとともに現存している。
新市街はツライフのある丘のふもとの、より低い場所に建てられている。町の北部の谷あいへと、数多くの庭園、農場、ヤシ林などが存在しており、より北にはアル・イルブ (Al-Ilb) というダムが存在している。
歴史[編集]
ヤークート・アル=ハマウィー、アブー・ムハンマド・アル=ハマダニ(英語版)によって言及されていた古代の集落「ガブラ」(Ghabra) に同定されることはあるものの[1]、ディルイーヤそのものの歴史は、15世紀から始まる。ナジュドの年代記によれば、都市はサウード王家の先祖であるマニ・アル=ムライディ (Mani Al-Mraydi) によって、1446年から1447年にかけて建設された。マニとその一族はアラビア東部のカティーフから、のちにリヤドとなる集落群を束ねていたイブン・ディル (Ibn Dir') の招きでやって来た。イブン・ディルはマニ・アル=ムライディの縁者といわれており、いつかの時期にワディ・ハニファを去っていたマニの一族は、本来の故郷に戻ったに過ぎないと信じられている[2][3]。
当初、 マニとその一族は、グサイバー地区とアル=ムライベード地区に住んでいた。集落全体がマニの恩人であるイブン・ディルにちなんで、アル=ディルイーヤ (Al-Dir'iyah) と呼ばれた。後に彼らはツライフ地区に移った[3]。他の町から移り住む人々や、砂漠のベドウィンの中から移り住む人々がいて、18世紀までにはナジュドでよく知られる町になっていった。
ディルイーヤ旧市街における修復されたムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスク
その時期に、ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は、ディルイーヤの支配者一族であったアル・ミグリン(マニの子孫)との戦いを経て、ディルイーヤのアミール(支配者)の座に着いた。1744年にイブン・サウードは、ディルイーヤと同じ渓谷の48kmほど上流の町アル=ウヤイナ(英語版)から逃亡してきた宗教学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(英語版)を迎え入れた。イブン・サウードはアブドゥルワッハーブの宗教上の主張を広めることに同意し、のちに第一次サウード王国と呼ばれる国が、その首都であるディルイーヤとともに、誕生したのである。それからの数十年のうちに、イブン・サウードとその一族は、ナジュド全土だけでなく、アラビアの東部も西部も支配下におさめることに成功し、イラクにも攻略の手を伸ばしていた。ディルイーヤは規模の面で拡大しただけでなく、富も増大させ、ナジュド最大の都市となり、アラビアでも大都市のひとつへと成長したのである。しかし、イスラームの聖地メッカとマディーナを支配下に置いたことで、イスラーム世界における強国オスマン帝国の怒りを買い、1811年から1818年のオスマン=サウジ戦争(英語版)につながった。そして、オスマンとエジプトの軍勢によるナジュド遠征(英語版)が行われ、ほぼ1年にわたるディルイーヤ攻囲戦(英語版)によって、サウード王国は1818年に終焉したのである。侵略軍の指揮官であったエジプトのイブラーヒーム・パシャは、ディルイーヤの破壊を命じ、多くの地元の貴族たちがワッハーブ国家を再興しようとしたときにも、都市の更なる破壊と残された物の焼却を命じた。サウード家は1824年に第二次サウード王国を再興させることになるが、首都はより南のリヤドに移した[4]。1902年に今のリヤドの基礎が築かれ、サウジアラビアの首都となっている[5]。
ディルイーヤが第一次サウード王国滅亡に際して廃墟となった1818年以降、元の住民たちはそこを去り、大部分がリヤドに移住した。1981年に公刊された著書『王国』(The Kingdom) において、イギリス人のロバート・レイシー(英語版)は、廃墟と化したディルイーヤをポンペイになぞらえた[5]。しかし、20世紀後半になると、元ベドウィンなどが再び住居を構えるようになり、サウジアラビア政府によって、1970年代後半に新しい都市が建設された[6]。この新都市は規模を拡大しつつ、小さいけれども近代的な都市として、ディルイーヤ行政区の政庁所在地となっている。古都の廃墟は観光地になっており、サウジ政府による修復の動きなども見られる。
再建された建造物群には、浴場・迎賓館のほか、90年代初頭に完了したサアド・ビン・サウード宮殿、1980年代に城壁の塔が復元された the Burj Faysal、ツライフ地区を囲む城壁の大部分、町の外壁部分、ワディ・ハニファを囲む見張り塔などが含まれる。ツライフ地区の外側では、ワディ・ハニファの反対側で、ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブのモスクのある地域が、完全に建て直された。本来の構造物は、建造物群北部の旧モスクの遺跡にいくらか残っているだけである。都市そのもののレイアウトは、サウジアラビア国立博物館(英語版)にある大きな精密模型の展示を利用すると、容易に理解ができる。
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