2014年02月06日
アミアンの和約
イギリスは1793年に第一次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦して以来、フランスとの間で戦争状態にあった。だがオーストリアが1801年にリュネヴィルの和約を締結して第二次対仏大同盟から脱落すると、イギリスのみが戦争を続けることになった。同年、イギリスでは対フランス強硬派のウィリアム・ピットが国内の宗教問題などから退陣し、対フランス融和派のヘンリー・アディントンが内閣を組織した。フランスでも、第一統領の地位にあったナポレオンは対外戦争より国内の安定を重視し、講和は望むものであった。こうして、1802年3月に講和条約が締結された。
講和条約において、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約した。これによって、マルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになった。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約した。
以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続いた。しかしアミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されなかった。1803年5月、イギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5月16日、イギリスは和約を破棄し再度フランスへ宣戦した。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していく。
講和条約において、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約した。これによって、マルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになった。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約した。
以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続いた。しかしアミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されなかった。1803年5月、イギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5月16日、イギリスは和約を破棄し再度フランスへ宣戦した。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していく。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/2197907
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック