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2014年02月06日

第一次サウード王国

第一次サウード王国(アラビア語表記でالدولة السعودية الأولى)は、1744年にアラビア半島に建設された王国である。ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ(英語版)が唱えるワッハーブ派の運動の普及のために、ナジュドの豪族出身であるムハンマド・イブン=サウード(英語版)が軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした。王国の性格からワッハーブ王国ということもある。主君はワッハ-ブ派イマームを兼ねる。

歴史[編集]

王国の版図は、初めはナジュドに限定されていたが、東は現在のクウェートからオマーンの国境にまで及んだ。また、北には、イラクやシリアの国境近くまで広がり、1801年には、シーア派の聖地であるカルバラーおよびナジャフを陥落させたことで頂点に達した。このとき、アリー・イブン・アビー=ターリブの墓所などシーア派の聖地多数が破壊されシーア派住民も虐殺された。 1802年、王国の軍隊は、ヒジャーズ地方に進出を開始し、イスラームの2大聖地であるマッカとマディーナを陥落させた。両聖地の陥落は、1517年以来聖地の守護者を自認していたオスマン帝国に衝撃を与えた。また、イスラム原理主義であり聖者崇拝などを認めないワッハ−ブ派により、聖地マッカでの廟など多数が破壊されたことにより、それ以外の宗派から反感をもたれることになる。

オスマン・サウジ戦争[編集]

詳細は「オスマン・サウジ戦争(英語版)」を参照

オスマン帝国は、エジプト総督ムハンマド・アリーにサウード王国を滅ぼす攻撃命令を下した。ムハンマド・アリーは軍隊を率いて、ヒジャース地方に殺到し(en:Battle of Yanbu、en:Battle of Al-Safra、en:Battle of Medina (1812)、en:Battle of Jeddah (1813)、en:Ottoman return of Mecca 1813)、1813年1月には聖地メッカの奪還に成功した。

1817年、ムハンマド・アリーの子供であるイブラーヒーム・パシャは、軍隊をナジュドへと進めた(en:Nejd Expedition)。1818年4月、首都ディルイーヤを包囲した。首都でのディルイーヤ攻囲戦(英語版)は数ヶ月に及んだが、9月18日にエジプト軍の勝利に終わり、サウード家とワッハーブ運動を展開した主要メンバーは、エジプトやあるいはオスマン帝国の首都イスタンブルへ連行された。ディルイーヤは、徹底的に破壊され、現在は王国が存在した当時の面影は存在しない。最後のイマーム、アブドゥッラー・ビン・サウード(英語版)は、後にイスタンブルで処刑され、その首はボスポラス海峡に捨てられた。

影響[編集]

こうして、第一次サウード王国は滅亡したが、ワッハーブ運動の火種はアラビア半島に残っており、サウード家の生き残りとともに、リヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国を建設する(1824年から1891年まで存続した)。

第二次サウード王国の滅亡後は生き残った王子が再び王国を再建し、1931年に国王に即位し、現在のサウジアラビアとなっている。このため、サウジアラビアは第三次サウード王国と見ることも出来る。
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