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2014年02月06日

イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国


国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国

歴史[編集]

詳細は「イラクの歴史」を参照

メソポタミア[編集]





キシュから出土した石灰岩の書き板(紀元前3500年)
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡(現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー(英語版))からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかってる。


ペルシアの支配[編集]

詳細は「アケメネス朝」を参照

ギリシャの支配[編集]

詳細は「マケドニア王国」および「セレウコス朝」を参照

ペルシアの支配[編集]

詳細は「アルサケス朝」および「サーサーン朝」を参照

イスラム帝国[編集]

西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。

8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

10世紀末にブワイフ朝のエミール・'Adud al-Dawlaは、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。

モンゴル帝国[編集]





バグダードの戦い(1258年)
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。

サファヴィー朝[編集]

16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。

en:Battle of DimDim(1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリー(英語版)の指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領(英語版)に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。

オスマン帝国[編集]

詳細は「:en:Ottoman Iraq」および「:en:Mamluk rule in Iraq」を参照

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。

18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた(オスマン帝国の行政区画)。

一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社(TPC、イラク石油会社(英語版)の前身)を立ち上げた。

イギリス帝国[編集]

第一次世界大戦では、クートの戦い(1915年12月7日 - 1916年4月29日)でクート・エル・アマラ(英語版)が陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。

1917年3月11日、バグダッド陥落(英語版)。

Occupied Enemy Territory Administration[編集]

「:en:Occupied Enemy Territory Administration」も参照

1918年10月30日、オスマン帝国が降伏(ムドロス休戦協定)。パリ講和会議(1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するen:Long–Bérenger Oil Agreementを締結。サン・レモ会議(英語版)(1920年4月19日 - 4月26日)で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San Remo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25%の石油利権を獲得した。トルコ革命(1919年5月19日 - 1922年7月24日)が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル(クルディスタン)を放棄させようとしたが、批准されなかった(モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された(カイロ会議(英語版))。

イギリス委任統治領メソポタミア[編集]

1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。

en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版)(1922年 - 1924年)を一時的に樹立。

1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty(イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定(en)を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版)(IPC)を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt(1931年 - 1932年)。

王政[編集]

詳細は「イラク王国」を参照

ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。

一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油(英語版)とが共同出資して1934年にクウェート石油(英語版)を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。

1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシッド・アリ・アッ=ガイラニ(英語版)のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役(英語版)で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。

1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバード(英語版)でクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊(en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。

1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争(1948年 - 1949年)が勃発。

1955年、中東条約機構(METO)に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争(1956年 - 1957年)が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

アラブ連邦[編集]

1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

イラク共和国(第一共和政)[編集]

詳細は「Republic of Iraq」を参照

カーシム政権[編集]

1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され(7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[1]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。

1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構(METO)を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社(IPC)の国有化を発表。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版)(1961年 - 1970年)が勃発。

イラク共和国(第二共和政)[編集]

第1次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1963年2月8日にバアス党将校団のクーデタが起り、カーシム政権が倒された(ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。

アーリフ兄弟政権[編集]

1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領のクーデターが勃発(1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派の政策を継承してナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。

バアス党政権(第三共和政)[編集]

詳細は「バアス党政権 (イラク)」を参照

第2次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1968年7月17日にバアス党政権が発足(7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクル元首相が新大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域(アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県)を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。 1970年9月28日、エジプトのナーセルが死去。1972年にソ連と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版)(1974年 - 1975年)が勃発。ペシュメルガ(英語版)等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握していった。

サッダーム・フセイン政権[編集]

1979年7月16日にサッダーム・フセインが大統領に就任した。イラン・イラク国境を流れるシャットゥルアラブ川の水利権をめぐってイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)が勃発。シャットゥルアラブ川にはイランのカールーン川が接続しており、両国の石油輸出の要衝である。

1990年に原油価格下落やルマイラ油田の権益をめぐってクウェートと対立し、クウェート侵攻後、1991年1月17日の「砂漠の嵐作戦」(operation desert storm)で湾岸戦争に突入し、フセイン政権は敗北した。

イラク戦争[編集]

詳細は「イラク戦争の年表」を参照

イラク武装解除問題(1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、フセイン政権はアメリカとのイラク戦争に敗れ、バアス党政権に終止符が打たれた。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。
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