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2014年02月13日

アメリシウム

アメリシウム (英: americium) は原子番号95の元素。元素記号は Am。アクチノイド元素の一つ。第3の超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は13.67で、融点は995 °C (850-1200 °C)、沸点は2600 °C。展性、延性があり、希酸に溶ける。原子価は、+2〜+6価(+3価が安定)。化学的性質はユウロピウムに類似する。



目次 [非表示]
1 歴史
2 特徴
3 発生
4 用途
5 検出
6 同位体
7 出典
8 関連項目
9 外部リンク


歴史[編集]

アメリシウムはおそらくそれ以前の核実験でも生成されていたが、それが最初に意図的に、合成、単離されたのは、1944年の晩秋、カリフォルニア大学バークレー校でグレン・シーボーグ 等[2]によっての事だった。 原子炉内のプルトニウム239に2個の中性子を当てると、プルトニウム241ができ、これがβ崩壊して、アメリシウム241(半減期432.2年)となる。 元素は、化学的にシカゴ大学の冶金研究所(現アルゴンヌ国立研究所 )で同定された。 ネプツニウム、プルトニウム、キュリウムに続いて、アメリシウムが発見されたのは超ウラン元素として四番目だった。

発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、アメリシウム243の7370年である。元素名はアメリカ大陸の名に由来する。

アメリシウムとキュリウムの発見は、密接にマンハッタン計画に関連していたため、1945年になるまで機密情報だった。 最初にそれが公表されたのは1945年11月11日にグレン・シーボーグが、アメリカの子供のためのラジオ番組、Quiz Kidsに出演した際、リスナーの1人に、「戦争の間にプルトニウムとネプツニウムの隣の新しい超ウラン元素が見つかった?」と質問された時だったが、それはアメリカ化学会の会議で公式発表する五日前の出来事だった。

特徴[編集]

アメリシウムは剥離性がある銀白色をした放射性の金属で空気中に放置すると白く曇る。純粋なアメリシウムはネプツニウムやプルトニウムより輝いている。アメリシウム241から放出されるα線は約5.4Mev、ガンマ線のエネルギーは非常に低く (0.06 MeV)、低エネルギーガンマ線源として蛍光X線分析装置などに用いられる。

プルトニウムを核燃料(MOX燃料を含む)とする原子炉では、アメリシウム241は邪魔者とされている。理由は、プルトニウム241は遅い中性子の照射で核分裂するが、アメリシウム241が核分裂を起す比率は低く中性子を捕獲しやすい。従って、核分裂は起こらないと考えられ中性子を無駄食いする核燃料中の毒物とされている。

また、特別な許可や大金を出さなくても一般人が手に入れられる番号の一番大きい元素である[3]。

発生[編集]

生成量は核爆弾の種類により変わり、大気中への放出量は不明である。半減期が最も長いアメリシウム243でも半減期は7370年のため、地球の形成時に存在していたアメリシウムは、今ではすべて崩壊している。したがって、現存しているアメリシウムは、チェルノブイリ原発事故のような原子力事故現場や大気圏核実験のため1945年から1980年の間に使用された領域と核燃料再処理施設周辺に集中している。例えば、アメリカ最初の水素爆弾アイビー作戦マイク実験(1952年11月1日、エニウェトク環礁)の核実験で使用された地点で回収された破片を分析したところ、高濃度のアメリシウムを含むアクチノイドが検出されたが、軍事機密のために検出の事実が公表されたのは1956年であった。

使用済核燃料にも含まれ、出力100万kWの軽水炉を2年間運転した後の使用済核燃料 1tには 5g(放射能強度、0.65兆ベクレル)が含まれるとされている。原子炉から取り出した後にもプルトニウム239 の崩壊により増加し、10年後に40g(放射能強度、5.2兆ベクレル)、100年後には93g(放射能強度、12兆ベクレル)となる[4]。また、再処理施設からの排水と共に排出される。

用途[編集]

アメリシウム 241 は、煙感知器や、厚さ計[5]に利用される。アメリシウム242は中性子ラジオグラフティーの中で使用される。しかしアメリシウムの合成は難しく、強い放射能のため非常に高価である。また、日本では使用されていない。

ベリリウムとの混合物は、中性子源となる。そのほか、放射線源としての利用もある。

検出[編集]

化学的に分離精製した測定試料から放出されるアルファ線を、シリコン半導体検出器で測定する。

同位体[編集]

詳細は「アメリシウムの同位体」を参照

アメリシウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性である。アメリシウムには18の同位体が確認されており、質量範囲はアメリシウム231からアメリシウム249までがある。

432年の半減期を持つアメリシウム241、141年のアメリシウム242、7370年のアメリシウム243が比較的安定している。残りは全てアメリシウム240の51時間よりも短い。さらにアメリシウムの同位体には八つの核異性体の同位体が存在している。

出典[編集]

1.^ Muller, W.; Schenkel, R.; Schmidt, H. E.; Spirlet, J. C.; McElroy, D. L.; Hall, R. O. A.; Mortimer, M. J. (1978). “The electrical resistivity and specific heat of americium metal”. Journal of Low Temperature Physics 30: 561. doi:10.1007/BF00116197.
2.^ グレン・シーボーグ 、レオン・モルガン、ラルフ・ジェームズ、アルバート・ギオルソ
3.^ 世界で一番美しい元素図鑑 セオドアグレイ著
4.^ アメリシウム-241 原子力資料情報室
5.^ アメリシウム厚み計 (TOSGAEG 153) 計測と制御 Vol.9 (1970) No.7 P543-544

プルサーマル

プルサーマルとは、プルトニウムで燃料を作り、従来の熱中性子炉で燃料の一部として使うことを言う。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 名称の由来
1.2 通常の軽水炉との違い

2 プルサーマル方式の利点と欠点 2.1 利点
2.2 欠点

3 日本国外での動向
4 日本国内での動向 4.1 運転停止中の原子炉
4.2 現在までに事前合意が成立しているプルサーマル発電計画
4.3 現在計画中のプルサーマル発電計画
4.4 プルサーマル計画の進捗状況

5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


概要[編集]

名称の由来[編集]

プルトニウムのプルとサーマルニュートロン・リアクター(熱中性子炉)のサーマルを繋げた和製英語(plutonium thermal use)である。

通常の軽水炉との違い[編集]

通常、軽水炉ではウラン235とウラン238を混合したウラン燃料(二酸化ウラン)を核分裂させることで熱エネルギーを生み出すが、ウラン238が中性子を吸収し2度のβ-崩壊を経てプルトニウム239が生成され、そのプルトニウム239自体も核分裂する。その結果、発電量全体に占めるプルトニウムによる発電量は平均約30%となる(プルサーマル発電を行わない場合でも、運転中の軽水炉の中にはプルトニウムが存在している)。それに対し、プルサーマルではMOX燃料と呼ばれるウラン238とプルトニウムの混合酸化物 (Mixed Oxide) を燃料として使用する。プルサーマルで使われるMOX燃料はプルトニウムの富化度(含有量)が4 - 9%であり、MOX燃料を1/3程度使用する場合、発電量全体に占めるプルトニウムによる発電量は平均50%強となる。

なお、高速増殖炉でもMOX燃料が使用されるが、プルトニウムの富化度は20%前後である[1]。

プルサーマル方式の利点と欠点[編集]

利点[編集]
もしワンススルーにするならば使用済核燃料は数万年管理が必要だが、使用済核燃料から、再処理・群分離で、プルトニウムを含む超長半減期核種を分別抽出し、プルトニウムをプルサーマルで焼却してしまえば半減期30年の核分裂生成物に変換でき、長期保管物質を大幅に削減できる。
原則として、従来の軽水炉のままで運用が可能である。少なくもプルトニウムは加速器駆動未臨界炉が実用化する前にある程度 焼却可能になる。(残りのマイナーアクチノイドは加速器駆動未臨界炉でないと焚けない)
プルサーマルにより、資源の有効利用が図られウランの可採年数は1.75倍に増えて、陸上ウランだけで140年分になるだけでなく、エネルギー自給率を高めることができる。さらに、余剰のプルトニウムを持たないという国際公約を守ることができる。
再処理は使用済み核燃料からウランを回収する事を意味し、ワンススルー方式に比べ高レベル放射性廃棄物の量が大幅に減る。リサイクルされる低濃縮ウランとプルトニウムと貴金属の分だけ高レベル廃棄物が減少する。しかし、ガラス固化体の取り扱いは大変(20年間常時監視、その後深地層処分が必要)だが、輸送や処分場の規模を1/10程に抑えることができる[2]。

欠点[編集]

プルサーマル方式は、元々ウラン燃料を前提とした軽水炉でプルトニウムを(一部)燃やすこともあり、経済的な面の他、技術的な課題が多い。
再処理にかかわる部分軽水炉からの高レベル核廃棄物をそのままガラス固化させる場合と比べ、事故が発生する確率は相対的にやや高まる。
再処理によって、使用済み核燃料の97%を占める 燃え残りウラン・プルトニウムを使用済み核燃料から分離してリサイクルすることで、廃棄物を大幅に減らせる。(更に廃棄物を群分離して超長半減期廃棄物・短半減期核分裂生成物・貴金属に分別して、超長半減期廃棄物を加速器駆動未臨界炉の燃料として、貴金属を触媒用としてリサイクルする研究も進んでいる。)しかし一方で、使用済み防護服や、廃水など低レベル廃棄物も含めた最終的な核廃棄物の総量はかえって増える(一般的な資源のリサイクルと異なる点)。
冷戦終結後、ウラン資源の需給は安定しており、再処理費までMOX燃料の製造コストの一部と看做すと経済的に引き合わない状態になっている(プルトニウム垂れ流しのワンススルーで、使用済み核燃料を数万年監視するコストを考えないならば、ワンススルーに比べれば、再処理で抽出しプルサーマルで焼却する手間をかける分 不経済)
再処理を行うと核燃料の高次化が進むため、最大でも2サイクルまでしか行えない(高速増殖炉の場合はこの問題は発生しにくい、加速器駆動未臨界炉は2回プルサーマルを繰り返して燃えにくくなった高次プルトニウムも燃やせる)[3]。
利用できるのは使用済み核燃料のうち1 - 2%を占めるプルトニウムのみで、残りのウラン238は高速増殖炉が実用されない限り、プルトニウムMOXの原料の94%を占めるウラン238以外では、利用するアテがない。
MOX燃料の軽水炉での燃焼にかかわる部分 プルトニウムは遅発中性子がウランより少なく、やや制御棒の効きがわるくなるので「ウランを想定して設計された炉で燃やす場合」は、最初は1/3装荷などで様子を見ることが必要。
高速増殖炉と比べて燃焼中に核燃料の高次化が進みやすく、特に中性子吸収断面積の大きいアメリシウムが生成されやすくなる。核燃料の高次化が進むと反応が阻害され、臨界に達しなくなってしまい、核燃料として使用できなくなる。
上記と関連し、事故が発生した場合には従来の軽水炉よりプルトニウム・アメリシウム・キュリウムなどの超ウラン元素の放出量が多くなる。
原子炉の運転や停止を行う制御棒やホウ酸の効きが低下する[4]。
燃え方にムラが生じ、よく燃えるところの燃料棒が加熱・破損しやすくなる。これは現行方式では前記の事情とコストを下げるために一部の燃料棒のみにMOX燃料を入れるために起きる現象で、全燃料棒にMOX燃料を入れれば回避は可能。
水蒸気管破断のようなPWRの冷却水温度が低下する事故や、給水制御弁の故障のようなBWRの炉内圧力が上昇する事故が発生した場合において、出力上昇速度がより速く、出力がより高くなる(対処するために燃料体の設計および原子炉内での配置に工夫が必要。[4])。
MOX燃料そのものの持つ危険性
詳細は「MOX燃料」を参照

日本国外での動向[編集]

冷戦の終結と、ソビエト連邦の崩壊によって核兵器の解体が進んでいるため、世界的なプルトニウムの剰余が核不拡散の観点から問題になっている。一方で、プルトニウム利用の主流である高速増殖炉については、各国で計画の中止や遅延が相次いでおり、プルトニウム処理の有効な方法として、プルサーマルを捉える向きもある。

ヨーロッパでのプルサーマルの実績は長く、1963年に開始したベルギーを始めとして、イタリアやドイツでは1960年代からの経験がある。また、オランダやスウェーデンでも行われたことがある。ただしドイツ・スイス・ベルギーでは抽出済みのプルトニウム在庫を燃やしたらプルサーマルは終了とされており、今後も再処理を行ってプルトニウムを抽出し、積極的にプルサーマルを続けようとしているのはフランスだけとなっている。

アメリカ合衆国では1960年代にプルサーマルが始められたが、20年間ほど中断が続いた。その後、2005年6月からカトーバ1号機でMOX燃料の試験運転が開始され、同年10月にはエネルギー省所有のサバンナリバーサイトで解体核用のMOX燃料加工工場の建設が開始された。また同年11月には、これとは別に使用済燃料再処理・MOX加工・廃液ガラス固化・中間貯蔵を目的とした複合リサイクル施設建設の予算が議会を通過、承認された。こちらは2007年までに建設場所を選定し、2010年までに着工する予定となっている。

2006年には、アメリカが国際原子力パートナーシップを発表し、日本を含む国際協力による高速炉を用いた核燃料サイクルの実施計画が開始された。

日本国内での動向[編集]

日本においてプルサーマル計画が注目を集めたのは、もんじゅの事故により高速増殖炉の開発の見通しが立たなくなったことがきっかけである。日本においても、プルサーマルの開始に向けて国による安全審査や地元の事前了解が進んでいたが、住民投票による反対(新潟県)などにより、計画は遅れていた。 ほかにも福島県知事(当時)の佐藤栄佐久が、福島第一原子力発電所で計画されていたプルサーマル導入について、(発電所のある自治体の意向はともかく)県全体の安全上の観点や県民多数派の不安を背景に強く反対してきた、といった事例もある。

一方で、2006年(平成18年)3月に、九州電力の玄海原子力発電所3号機で実施したいという申し入れに、佐賀県知事の古川康は事前了解を出した。また2008年(平成20年)1月には、福井県知事の西川一誠が高浜原子力発電所の3・4号機で、2010年(平成22年)までにプルサーマル発電を実施する計画に事前了解を、静岡県知事の石川嘉延が浜岡原子力発電所でのプルサーマル発電に事前了解を出す[5]など、実施に向かって進んでいるところもあった[6]。

2010年8月、東京電力が福島第一原子力発電所3号機(大熊町)で計画していたプルサーマル導入について、佐藤雄平知事は受け入れを決定。[7]。 しかし、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所事故により同原発は国際原子力事象評価尺度7の大事故を起こしたことにより、計画の先行きが不透明なものとなった。

運転停止中の原子炉[編集]
九州電力 玄海原子力発電所3号機 2009年(平成21年)11月5日より試運転開始。同年12月2日より、営業運転を開始[8]。2010年12月11日より定期検査で運転停止。
東京電力 福島第一原子力発電所3号機 2010年(平成22年)9月18日より試運転開始。同年10月26日より、営業運転を開始[9]。2011年3月11日、福島第一原子力発電所事故により運転停止。3月14日に水素爆発。
四国電力 伊方発電所3号機 2010年(平成22年)3月2日より試運転開始。同年3月30日より、営業運転を開始[10]。2011年4月29日より定期検査で運転停止。
関西電力 高浜発電所3号機 2010年(平成22年)12月25日より試運転開始。2011年(平成23年)1月21日より、営業運転を開始[11]。2012年2月20日より定期検査で運転停止。

現在までに事前合意が成立しているプルサーマル発電計画[編集]
中部電力 浜岡原子力発電所4号機 2012年(平成24年)3月以降に導入予定だったが、運転再開のめど立たず。
関西電力 高浜発電所4号機 2011年(平成23年)夏から導入予定だったが、運転再開のめど立たず。
中国電力 島根原子力発電所2号機
北海道電力 泊発電所3号機
東北電力 女川原子力発電所3号機 2015年(平成27年)度までに導入予定。

現在計画中のプルサーマル発電計画[編集]
電源開発 大間原子力発電所1号機 2014年(平成26年)度に運転開始予定。(建設中)

プルサーマル計画の進捗状況[編集]

プルサーマル計画は、核燃料の検査データ不正や原発事故により、当初計画が10年以上遅れている[12]。
1972年(昭和47年)6月1日 - 国の原子力開発利用長期計画において、プルサーマル実施を明記。
1986年(昭和61年) - 日本原子力発電が敦賀発電所1号機で、関西電力が美浜発電所1号機で、それぞれ少数体のMOX燃料の健全性を確認する試験を1995年(平成7年)まで実施。
1994年(平成6年)6月24日 - 原子力開発利用長期計画で、1990年代後半からのプルサーマル本格実施を計画。
1997年(平成9年)2月4日 - プルサーマルを含めた核燃料サイクルの推進について閣議了解。
1998年(平成10年) 2月23日 - 福井県および高浜町へ、高浜発電所3・4号機でのプルサーマル実施について安全協定に基づく事前了解願いを提出。
5月8日 - 福井県および高浜町から、プルサーマル実施に関する原子炉設置変更許可申請の手続きを進めることを了承。
5月11日 - 通商産業省に原子炉設置変更許可を申請。
12月16日 - 通商産業省から高浜発電所での原子炉設置変更許可を取得。

1999年(平成11年) 6月17日 - 福井県および高浜町からプルサーマル実施について事前了解を取得。
7月21日 - 10月1日 高浜発電所4号機用BNFL製MOX燃料をイギリスから輸送し高浜発電所へ搬入。
9月13日 - BNFLで加工中の高浜発電所3号機用MOX燃料に検査データ不正問題が判明(詳しくは原子力発電のウソ一覧を参照)。
12月16日 - 受け入れ済みの4号機用MOX燃料にも検査データ不正問題が判明。当該燃料の使用を中止。

2002年(平成14年)7月4日 - 9月18日 高浜発電所4号機用BNFL製MOX燃料を高浜発電所からBNFLへ返送。
2003年(平成15年)10月23日 - 海外MOX燃料調達に関する品質保証活動の改善状況について、国、福井県、高浜町等に報告。
2004年(平成16年) 2月5日 - 海外MOX燃料調達に関する品質保証活動の改善状況について、原子力安全・保安院が評価・公表するとともに、原子力安全委員会に報告。
3月11日 - 原子力安全委員会が原子力安全・保安院の評価を妥当と判断。
3月20日 - 今後プルサーマル計画を進めていくことについて、福井県、高浜町が了承。
3月31日 - MOX燃料製造に関する品質保証体制を確認する基本契約を、原子燃料工業およびコモックス社(フランス)と締結。
7月12日 - 原子燃料工業熊取事業所およびコモックス社メロックス工場に対する品質保証システム監査結果を国、福井県、高浜町等に報告。
8月9日 - 美浜原発3号機2次系配管破損事故が発生。プルサーマル計画の準備作業を休止。

2007年(平成19年)2月7日 - 美浜発電所3号機の本格運転を再開。
2008年(平成20年) 1月30日 - プルサーマル計画の準備作業を再開。
2月12日、18日 - 21日 - 原子燃料工業熊取事業所および、コモックス社メロックス工場に対する品質保証システム監査を再度実施。
3月14日、17日 - 同監査結果を国、福井県、高浜町等に報告。
3月31日 - 高浜発電所3、4号機用MOX燃料16体の調達に関する本案約を原子燃料工業と締結。
10月16日 - 23日 原子燃料工業および、コモックス社メロックス工場に対して定期監査を実施。
11月10日 - 高浜発電所3、4号機用MOX燃料調達に係る輸入燃料体検査申請を行なう。
11月21日 - 高浜発電所3、4号機用MOX燃料32体の調達に関する契約を原子燃料工業と締結(2回目装荷用)。

2009年(平成21年) 1月30日 - 高浜発電所3、4号機用MOX燃料の製造開始。
11月5日 - 玄海原子力発電所3号機のプルサーマル試運転開始。
12月2日 - 玄海原子力発電所3号機のプルサーマル営業運転開始。

2010年(平成22年) 3月2日 - 伊方発電所3号機のプルサーマル試運転開始。
3月30日 - 伊方発電所3号機のプルサーマル営業運転開始。

2010年(平成22年) 10月26日 - 福島第一原子力発電所3号機のプルサーマル営業運転開始[13]。
12月25日 - 高浜発電所3号機のプルサーマル試験運転開始。

2011年(平成23年) 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震により、福島第一原子力発電所3号機が国際原子力事象評価尺度レベル7(暫定評価)の事故を起こす。


脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ 原子炉とプルトニウム 原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト[リンク切れ]
2.^ 原子燃料サイクルの利点 電気事業連合会
3.^ 舘野淳 (PDF). 労多くして益少なし―不必要な「プルサーマル」,「プルサーマルを考える対話フォーラム」講演資料,2009.10..
4.^ a b 軽水炉用MOX(プルサーマル)燃料 (02-08-04-02)
5.^ “浜岡原発プルサーマル、静岡県が正式受け入れ表明”. 毎日jp (毎日新聞社). (2008年1月30日). オリジナルの2008年1月31日時点によるアーカイブ。
6.^ プルサーマル計画:高浜原発で3年半ぶりに再開 関西電力[リンク切れ]
7.^ しかし前知事の佐藤栄佐久によれば、県議会でも安全性に関する議論らしい議論は無かったという。佐藤栄佐久元福島県知事 緊急インタビュー
8.^ “九電 プルサーマル営業運転開始 核燃料サイクル確立へ前進”. フジサンケイビジネスアイ (産経デジタル). (2009年12月3日). オリジナルの2009年12月7日時点によるアーカイブ。
9.^ プレスリリース 福島第一原子力発電所3号機におけるプルサーマル開始について
10.^ 伊方発電所3号機におけるプルサーマル開始について
11.^ 高浜発電所3号機の本格運転再開について
12.^ 関西電力「当社プルサーマル計画の経緯について」
13.^ プレスリリース 福島第一原子力発電所3号機におけるプルサーマル開始について

参考文献[編集]



出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年3月)
小林圭二・西尾漠『プルトニウム発電の恐怖』創史社

関連項目[編集]

ポータル 原子力 ポータル 原子力
原子核分裂
原子炉
放射性廃棄物
核燃料サイクル
英国原子力公社警察隊
原子力発電の事故隠し・データ改ざん一覧
福島第一原子力発電所事故

Greenpeace

This article is about the international environmental organization. For other uses, see Greenpeace (disambiguation).


Greenpeace

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Logo of Greenpeace

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Greenpeace protest against Esso / ExxonMobil


Formation
1969 - 1972 (See remarks) Vancouver, British Columbia, Canada

Type
Non-governmental organization

Purpose/focus
Environmentalism, peace

Headquarters
Amsterdam, the Netherlands, European Union (Greenpeace International)

Region served
Worldwide

Executive Director
Kumi Naidoo

Chair of the Board
Ana Toni

Main organ
Board of Directors, elected by the Annual General Meeting

Budget
€236.9 million (2011)

Staff
2,400 (2008)

Volunteers
15,000[1]

Website
www.greenpeace.org

Remarks
See article for more details on formation.

Former name
Don't Make a Wave Committee

Greenpeace is a non-governmental[2] environmental organization with offices in over forty countries and with an international coordinating body in Amsterdam, the Netherlands.[3] Greenpeace states its goal is to "ensure the ability of the Earth to nurture life in all its diversity"[4] and focuses its campaigning on world wide issues such as global warming, deforestation, overfishing, commercial whaling, genetic engineering, and anti-nuclear issues. Greenpeace uses direct action, lobbying and research to achieve its goals. The global organization does not accept funding from governments, corporations or political parties, relying on 2.9 million individual supporters and foundation grants.[5][6] Greenpeace has a general consultative status with the United Nations Economic and Social Council[7] and is a founding member[8] of the INGO Accountability Charter; an international non-governmental organization that intends to foster accountability and transparency of non-governmental organizations.

Greenpeace evolved from the peace movement and anti-nuclear protests in Vancouver, British Columbia, in the late 1960s and early 1970s. Funds were needed for the start-up Amchitka cause. It was soon clear that selling 25-cent buttons wouldn’t bring in the cash needed to buy a boat. Someone had the idea to put up a rock concert. A few phone calls later, Joni Mitchell said she would be playing. Chilliwack and Phil Ochs confirmed, before Joni called again to say she would bring a special guest: James Taylor. None of them wanted any money for the night. The sixteen thousand that filled Vancouver’s Pacific Coliseum left the concert entranced. Afterwards, attendance at the meeting swelled, the money started to pour in. By the end of October, the group had raised more than $23,000. Greenpeace was ready to go.[9] On September 15, 1971, the newly founded Don't Make a Wave Committee sent a chartered ship, Phyllis Cormack, renamed Greenpeace for the protest, from Vancouver to oppose United States testing of nuclear devices in Amchitka, Alaska. The Don't Make a Wave Committee subsequently adopted the name Greenpeace.[10]

In a few years, Greenpeace spread to several countries and started to campaign on other environmental issues such as commercial whaling and toxic waste. In the late 1970s, the different regional Greenpeace groups formed Greenpeace International to oversee the goals and operations of the regional organizations globally.[11] Greenpeace received international attention during the 1980s when the French intelligence agency bombed the Rainbow Warrior in Auckland's Waitemata Harbour, one of the best-known vessels operated by Greenpeace, killing one individual.[12] In the following years, Greenpeace evolved into one of the largest environmental organizations in the world.[13][14]

Greenpeace is known for its direct actions[15][16] and has been described as the most visible environmental organization in the world.[17][18] Greenpeace has raised environmental issues to public knowledge,[19][20][21] and influenced both the private and the public sector.[22][23] Greenpeace has also been a source of controversy;[24] its motives and methods have received criticism[25][26] and the organization's direct actions have sparked legal actions against Greenpeace activists,[27][28] such as fines and suspended sentences for destroying a test plot of GMO wheat.[29][30][31]



Contents [hide]
1 History 1.1 Origins 1.1.1 Founders and founding time of Greenpeace

1.2 After Amchitka
1.3 Organizational development

2 Organizational structure 2.1 Governance
2.2 Funding

3 Summary of priorities and campaigns
4 Climate and energy 4.1 Kingsnorth court case
4.2 "Go Beyond Oil"
4.3 Nuclear power 4.3.1 Anti-nuclear advertisement
4.3.2 EDF spying conviction and appeal


5 Forest campaign 5.1 Removal of ancient tree

6 'Tokyo Two'
7 Genetically modified organisms (GMOs) 7.1 Greenpeace on golden rice

8 Toxic waste
9 Save the Arctic
10 Ships 10.1 First Rainbow Warrior
10.2 Second Rainbow Warrior
10.3 Other vessels

11 Reactions and responses to Greenpeace activities
12 Criticism 12.1 Press release blunder
12.2 Case Brent Spar

13 Regional offices 13.1 Greenpeace Aotearoa New Zealand
13.2 Greenpeace Australia Pacific
13.3 Greenpeace Chile
13.4 Greenpeace East Asia
13.5 Greenpeace India
13.6 Greenpeace Nordic
13.7 Greenpeace USA
13.8 Greenteams

14 See also
15 References
16 Further reading
17 External links


History[edit]

Origins[edit]





Location of Amchitka island in Alaska.
In the late 1960s, the U.S. had plans for an underground nuclear weapon test in the tectonically unstable island of Amchitka in Alaska. Because of the 1964 Alaska earthquake, the plans raised some concerns of the test triggering earthquakes and causing a tsunami. A 1969 demonstration of 7,000[32] people blocked a major U.S.-Canadian border crossing in British Columbia, carrying signs reading "Don't Make A Wave. It's Your Fault If Our Fault Goes".[33] The protests did not stop the U.S. from detonating the bomb.[33]

While no earthquake or tsunami followed the test, the opposition grew when the U.S. announced they would detonate a bomb five times more powerful than the first one. Among the opposers were Jim Bohlen, a veteran who had served the U.S. Navy, Irving Stowe and Dorothy Stowe, who had recently become Quakers. As members of the Sierra Club Canada, they were frustrated by the lack of action by the organization.[33] From Irving Stowe, Jim Bohlen learned of a form of passive resistance, "bearing witness", where objectionable activity is protested simply by mere presence.[33] Jim Bohlen's wife Marie came up with the idea to sail to Amchitka, inspired by the anti-nuclear voyages of Albert Bigelow in 1958. The idea ended up in the press and was linked to The Sierra Club.[33] The Sierra Club did not like this connection and in 1970 The Don't Make a Wave Committee was established for the protest. Early meetings were held in the Shaughnessy home of Robert Hunter and his wife Bobbi Hunter. Subsequently the Stowe home at 2775 Courtenay St. became the HQ.[34] As Rex Weyler put it in his chronology, Greenpeace, in 1969, Irving and Dorothy Stowe's "quiet home on Courtenay Street would soon become a hub of monumental, global significance". Some of the first Greenpeace meetings were held there, and it served as the first office of the Greenpeace Foundation.[citation needed] The first office was opened in a backroom, storefront on Cypress and West Broadway SE corner in Kitsilano, Vancouver.[35]

Irving Stowe arranged a benefit concert (supported by Joan Baez) that took place on October 16, 1970 at the Pacific Coliseum in Vancouver. The concert created the financial basis for the first Greenpeace campaign.[36] Amchitka, the 1970 concert that launched Greenpeace has been published by Greenpeace in November 2009 on CD and is also available as mp3 download via the Amchitka concert website. Using the money raised with the concert, the Don't Make a Wave Committee chartered a ship, the Phyllis Cormack owned and sailed by John Cormack. The ship was renamed Greenpeace for the protest after a term coined by activist Bill Darnell.[33]

In the fall of 1971 the ship sailed towards Amchitka and faced the U.S. Coast Guard ship Confidence[33] which forced the activists to turn back. Because of this and the increasingly bad weather the crew decided to return to Canada only to find out that the news about their journey and reported support from the crew of the Confidence had generated sympathy for their protest.[33] After this Greenpeace tried to navigate to the test site with other vessels, until the U.S. detonated the bomb.[33] The nuclear test was criticized and the U.S. decided not to continue with their test plans at Amchitka.

Founders and founding time of Greenpeace[edit]

Environmental historian Frank Zelko dates the formation of the "Don't Make a Wave Committee" to 1969 and according to Jim Bohlen the group adopted the name "Don't Make a Wave Committee" on 29 November 1969.[37] According to the Greenpeace web site, The Don't Make a Wave Committee was established in 1970.[38] Certificate of incorporation of The Don't Make a Wave Committee dates the incorporation to the fifth of October, 1970.[39] Researcher Vanessa Timmer dates the official incorporation to 1971.[40] Greenpeace itself calls the protest voyage of 1971 as "the beginning".[41] According to Patrick Moore, who was an early member but has since distanced himself from Greenpeace, and Rex Weyler, the name of "The Don’t Make a Wave Committee" was officially changed to Greenpeace Foundation in 1972.[39][42] Because of the early phases spanning several years, there are differing views on who can be called the founders of Greenpeace.

Vanessa Timmer has referred the early members as "an unlikely group of loosely organized protestors".[40] Frank Zelko has commented that "unlike Friends of the Earth, for example, which sprung fully formed from the forehead of David Brower, Greenpeace developed in a more evolutionary manner. There was no single founder".[43] Greenpeace itself says on its web page that "there's a joke that in any bar in Vancouver, Canada, you can sit down next to someone who claims to have founded Greenpeace. In fact, there was no single founder: name, idea, spirit and tactics can all be said to have separate lineages".[38] Patrick Moore has said that "the truth is that Greenpeace was always a work in progress, not something definitively founded like a country or a company. Therefore there are a few shades of gray about who might lay claim to being a founder of Greenpeace."[39] Early Greenpeace director Rex Weyler says on his homepage that the insiders of Greenpeace have debated about the founders since mid-1970's.[44]

The current Greenpeace web site lists the founders of The Don't Make a Wave Committee as Dorothy and Irving Stowe, Marie and Jim Bohlen, Ben and Dorothy Metcalfe, and Robert Hunter.[38] According to both Patrick Moore and an interview with Dorothy Stowe, Dorothy Metcalfe, Jim Bohlen and Robert Hunter, the founders of The Don't Make a Wave Committee were Paul Cote, Irving and Dorothy Stowe and Jim and Marie Bohlen.[39][45]

Paul Watson, founder of the Sea Shepherd Conservation Society maintains that he also was one of the founders of The Don't Make a Wave Committee and Greenpeace.[46] Media sources concerning Watson report him being one of the founders of Greenpeace,[47][48] with many articles reporting him being a founder in 1972.[49][50][51][52] Patrick Moore has denied Watson being one of the founders of The Don't Make a Wave Committee, and Greenpeace in 1972. According to Moore the already campaigning organization was "simply changing the name" in 1972.[39] Greenpeace has stated that Watson was an influential early member, but not one of the founders of Greenpeace.[53] Watson has since criticized Greenpeace of rewriting their history.[46]

Because Patrick Moore was among the crew of the first protest voyage and the beginning of the journey is often referred as the birthday of Greenpeace, Moore also considers himself one of the founders.[39] Greenpeace used to list Moore among "founders and first members" of but has later stated that while Moore was a significant early member, he was not among the founders of Greenpeace in 1970.[45][54]

After Amchitka[edit]

After the office in the Stowe home, (and after the first concert fund-raiser) Greenpeace functions moved to other private homes and held public meetings weekly on Wednesday nights at the Kitsilano Neighborhood House before settling, in the fall of 1974, in a small office shared with the SPEC environmental group on West 4th at Maple.[citation needed] When the nuclear tests at Amchitka were over, Greenpeace moved its focus to the French atmospheric nuclear weapons testing at the Moruroa Atoll in French Polynesia. The young organization needed help for their protests and were contacted by David McTaggart, a former businessman living in New Zealand. In 1972 the yacht Vega, a 12.5-metre (41 ft) ketch owned by David McTaggart, was renamed Greenpeace III and sailed in an anti-nuclear protest into the exclusion zone at Moruroa to attempt to disrupt French nuclear testing. This voyage was sponsored and organized by the New Zealand branch of the Campaign for Nuclear Disarmament.[55] The French Navy tried to stop the protest in several ways, including assaulting David McTaggart. McTaggart was supposedly beaten to the point that he lost sight in one of his eyes. Luckily, one of McTaggart's crew members photographed the incident and went public. After the assault was publicized, France announced it would stop the atmospheric nuclear tests.[33]

In the mid-1970s some Greenpeace members started an independent campaign, Project Ahab, against commercial whaling, since Irving Stowe was against Greenpeace focusing on other issues than nuclear weapons.[citation needed] After Irving Stowe died in 1975, the Phyllis Cormack sailed from Vancouver to face Soviet whalers on the coast of California. Greenpeace activists disrupted the whaling by placing themselves between the harpoons and the whales, and footage of the protests spread across the world. Later in the 1970s, the organization widened its focus to include toxic waste and commercial seal hunting.[33]

The "Greenpeace Declaration of Interdependence" was published by Greenpeace in the Greenpeace Chronicles (Winter 1976-77). This declaration was a condensation of a number of ecological manifestos Bob Hunter had written over the years. The “Three basic Laws of Ecology,” were developed by Patrick Moore, with inspiration from the writings of Barry Commoner[56]

Organizational development[edit]





MV Esperanza, a former fire-fighter owned by the Russian Navy, was relaunched by Greenpeace in 2002
Greenpeace evolved from a group of Canadian protesters into a less conservative group of environmentalists who were more reflective of the counterculture and hippie youth movements of the 1960s and 1970s.[57] The social and cultural background from which Greenpeace emerged heralded a period of de-conditioning away from old world antecedents and sought to develop new codes of social, environmental and political behavior.[10][58]

In the mid-1970s independent groups using the name Greenpeace started springing up world wide. By 1977 there were 15 to 20 Greenpeace groups around the world.[11] At the same time the Canadian Greenpeace office was heavily in debt. Disputes between offices over fund-raising and organizational direction split the global movement as the North American offices were reluctant to be under the authority of the Vancouver office and its president Patrick Moore.[11]

After the incidents of Moruroa, David McTaggart had moved to France to battle in court with the French state and helped to develop the cooperation of European Greenpeace groups.[33] David McTaggart lobbied the Canadian Greenpeace Foundation to accept a new structure which would bring the scattered Greenpeace offices under the auspices of a single global organization. The European Greenpeace paid the debt of the Canadian Greenpeace office and on October 14, 1979, Greenpeace International came into existence.[11][40] Under the new structure, the local offices would contribute a percentage of their income to the international organization, which would take responsibility for setting the overall direction of the movement with each regional office having one vote.[11] Some Greenpeace groups, namely London Greenpeace (dissolved in 2001) and the US-based Greenpeace Foundation (still operational) however decided to remain independent from Greenpeace International.[59][60]

Organizational structure[edit]

Governance[edit]





The governance and management structure of Greenpeace.
Greenpeace consists of Greenpeace International (officially Stichting Greenpeace Council) based in Amsterdam, Netherlands, and 28 regional offices operating in 45 countries.[61] The regional offices work largely autonomously under the supervision of Greenpeace International. The executive director of Greenpeace is elected by the board members of Greenpeace International. The current director of Greenpeace International is Kumi Naidoo and the current Chair of the Board is Brazilian Ana Toni.[62][63] Greenpeace has a staff of 2,400[64] and 15,000 volunteers globally.[1]

Each regional office is led by a regional executive director elected by the regional board of directors. The regional boards also appoint a trustee to The Greenpeace International Annual General Meeting, where the trustees elect or remove the board of directors of Greenpeace International. The role of the annual general meeting is also to discuss and decide the overall principles and strategically important issues for Greenpeace in collaboration with the trustees of regional offices and Greenpeace International board of directors.[65]

Funding[edit]

Greenpeace receives its funding from individual supporters and foundations.[4][5] Greenpeace screens all major donations in order to ensure it does not receive unwanted donations.[66] The organization does not accept money from governments, intergovernmental organizations, political parties or corporations in order to avoid their influence.[4][5][66] Donations from foundations which are funded by political parties or receive most of their funding from governments or intergovernmental organizations are rejected. Foundation donations are also rejected if the foundations attach unreasonable conditions, restrictions or constraints on Greenpeace activities or if the donation would compromise the independence and aims of Greenpeace.[66] Since in the mid-1990s the number of supporters started to decrease, Greenpeace pioneered the use of face-to-face fundraising where fundraisers actively seek new supporters at public places, subscribing them for a monthly direct debit donation.[67][68] In 2008, most of the €202.5 million received by the organization was donated by about 2.6 million regular supporters, mainly from Europe.[64]





Greenpeace street fundraiser talking to a passer-by.
In September 2003, the Public Interest Watch (PIW) complained to the Internal Revenue Service, claiming that Greenpeace USA tax returns were inaccurate and in violation of the law.[69] The IRS conducted an extensive review and concluded in December 2005 that Greenpeace USA continued to qualify for its tax-exempt status. In March 2006 The Wall Street Journal reported that PIW’s “federal tax filing, covering August 2003 to July 2004, stated that $120,000 of the $124,095 the group received in contributions during that period came from Exxon Mobil.”[70] In 2013, after the IRS performed a follow-up audit, which again was clean, and, following claims of politically motivated IRS audits of groups affiliated with the Tea Party Movement, Greenpeace U.S. Executive Director Phil Radford called for a Congressional investigation into all politically motivated audits – including those allegedly targeting the Tea Party Movement, the NAACP, and Greenpeace.[71]

Summary of priorities and campaigns[edit]

On its official website, Greenpeace defines its mission as the following:


Greenpeace is an independent global campaigning organization that acts to change attitudes and behaviour, to protect and conserve the environment and to promote peace by:
Catalysing an energy revolution to address the number one threat facing our planet: climate change.
Defending our oceans by challenging wasteful and destructive fishing, and creating a global network of marine reserves.
Protecting the world’s remaining ancient forests which are depended on by many animals, plants and people.
Working for disarmament and peace by reducing dependence on finite resources and calling for the elimination of all nuclear weapons.
Creating a toxin free future with safer alternatives to hazardous chemicals in today's products and manufacturing.
Campaigning for sustainable agriculture by encouraging socially and ecologically responsible farming practices.
−Greenpeace International[72]


Climate and energy[edit]





An inflatable snow man conveying "Stop Global Warming!" at the G8 (2007)
Greenpeace was one of the first parties to formulate a sustainable development scenario for climate change mitigation, which it did in 1993.[73] According to sociologists Marc Mormont and Christine Dasnoy, Greenpeace played a significant role in raising public awareness of global warming in the 1990s.[74] The organization has also focused on CFCs, because of both their global warming potential and their effect on the ozone layer. Greenpeace was one of the leading participants advocating early phase-out of ozone depleting substances in the Montreal Protocol.[22] In the early 1990s, Greenpeace developed a CFC-free refrigerator technology, "Greenfreeze" for mass production together with the refrigerator industry.[22] United Nations Environment Programme awarded Greenpeace for "outstanding contributions to the protection of the Earth's ozone layer" in 1997.[75] In 2007 one third of the world's total production of refrigerators were based on Greenfreeze technology, with over 200 million units in use.[22]

Currently Greenpeace considers global warming to be the greatest environmental problem facing the Earth.[72] Greenpeace calls for global greenhouse gas emissions to peak in 2015 and to decrease as close to zero as possible by 2050. For this Greenpeace calls for the industrialized countries to cut their emissions at least 40% by 2020 (from 1990 levels) and to give substantial funding for developing countries to build a sustainable energy capacity, to adapt to the inevitable consequences of global warming, and to stop deforestation by 2020.[76] Together with EREC, Greenpeace has formulated a global energy scenario, "Energy [R]evolution", where 80% of the world's total energy is produced with renewables, and the emissions of the energy sector are decreased by over 80% of the 1990 levels by 2050.[77]

Using direct action, Greenpeace has protested several times against coal by occupying coal power plants and blocking coal shipments and mining operations, in places such as New Zealand,[78] Svalbard,[79] Australia,[80] and the United Kingdom.[81] Greenpeace is also critical of extracting petroleum from oil sands and has used direct action to block the oil sand operations at Athabasca, Canada.[82][83]

Kingsnorth court case[edit]

In October 2007, six Greenpeace protesters were arrested for breaking into the Kingsnorth power station, climbing the 200 metre smokestack, painting the name Gordon on the chimney, and causing an estimated £30,000 damage. At their subsequent trial they admitted trying to shut the station down, but argued that they were legally justified because they were trying to prevent climate change from causing greater damage to property elsewhere around the world. Evidence was heard from David Cameron's environment adviser Zac Goldsmith, climate scientist James E. Hansen and an Inuit leader from Greenland, all saying that climate change was already seriously affecting life around the world. The six activists were acquitted. It was the first case where preventing property damage caused by climate change has been used as part of a "lawful excuse" defense in court.[84] Both The Daily Telegraph and The Guardian described the acquittal as embarrassment to the Brown Ministry.[85][86] In December 2008 The New York Times listed the acquittal in its annual list of the most influential ideas of the year.[87]

"Go Beyond Oil"[edit]

As part of their stance on renewable energy commercialisation, Greenpeace have launched the "Go Beyond Oil" campaign.[88] The campaign is focused on slowing, and eventually ending, the world's consumption of oil; with activist activities taking place against companies that pursue oil drilling as a venture. Much of the activities of the "Go Beyond Oil" campaign have been focused on drilling for oil in the Arctic and areas affected by the Deepwater Horizon disaster. The activities of Greenpeace in the arctic have mainly involved the Edinburgh-based oil and gas exploration company, Cairn Energy; and range from protests at the Cairn Energy's headquarters[89] to scaling their oil rigs in an attempt to halt the drilling process.[90]

The "Go Beyond Oil" campaign also involves applying political pressure on the governments who allow oil exploration in their territories; with the group stating that one of the key aims of the "Go Beyond Oil" campaign is to "work to expose the lengths the oil industry is willing to go to squeeze the last barrels out of the ground and put pressure on industry and governments to move beyond oil."[88]

Nuclear power[edit]

Greenpeace views nuclear power as a relatively minor industry with major problems, such as environmental damage and risks from uranium mining, nuclear weapons proliferation, and unresolved questions concerning nuclear waste.[91] The organization argues that the potential of nuclear power to mitigate global warming is marginal, referring to the IEA energy scenario where an increase in world's nuclear capacity from 2608 TWh in 2007 to 9857 TWh by 2050 would cut global greenhouse gas emissions less than 5% and require 32 nuclear reactor units of 1000MW capacity built per year until 2050. According to Greenpeace the slow construction times, construction delays, and hidden costs, all limit the mitigation potential of nuclear power. This makes the IEA scenario technically and financially unrealistic. They also argue that binding massive amounts of investments on nuclear energy would take funding away from more effective solutions.[77] Greenpeace views the construction of Olkiluoto 3 nuclear power plant in Finland as an example of the problems on building new nuclear power.[92]

Anti-nuclear advertisement[edit]

In 1994, Greenpeace published an anti-nuclear newspaper advert which included a claim that nuclear facilities Sellafield would kill 2,000 people in the next 10 years, and an image of a hydrocephalus-affected child said to be a victim of nuclear weapons testing in Kazakhstan. Advertising Standards Authority viewed the claim concerning Sellafield unsubstantiated, and ASA did not accept that the child's condition was caused by radiation. This resulted in banning of the advert. Greenpeace did not admit fault, stating that a Kazakhstan doctor had said that the child's condition was due to nuclear testing. Adam Woolf from Greenpeace also stated that, "fifty years ago there were many experts who would be lined up and swear there was no link between smoking and bad health."[93] The UN has estimated that the nuclear weapon tests in Kazakhstan caused about 100,000 people to suffer over three generations.[94]

EDF spying conviction and appeal[edit]

In 2011, a French court fined Électricité de France (EDF) €1.5m and jailed two senior employees for spying on Greenpeace, including hacking into Greenpeace's computer systems. Greenpeace was awarded €500,000 in damages.[95] Although EDF claimed that a security firm had only been employed to monitor Greenpeace, the court disagreed, jailing the head and deputy head of EDF's nuclear security operation for three years each. EDF appealed the conviction, the company was cleared of conspiracy to spy on Greenpeace and the fine was cancelled.[96] Two employees of the security firm, Kargus, run by a former member of France's secret services, received sentences of three and two years respectively.[97]

Forest campaign[edit]

Greenpeace aims at protecting intact primary forests from deforestation and degradation with the target of zero deforestation by 2020. Greenpeace has accused several corporations, such as Unilever,[98] Nike,[99] KFC, KitKat and McDonald's[100] of having links to the deforestation of the tropical rainforests, resulting in policy changes in several of the companies under criticism.[101][102][103] Greenpeace, together with other environmental NGOs, also campaigned for ten years for the EU to ban import of illegal timber. The EU decided to ban illegal timber on July 2010.[104] As deforestation contributes to global warming, Greenpeace has demanded that REDD (Reduced Emission from Deforestation and Forest Degradation) should be included in the climate treaty following the Kyoto treaty.[105]

Another Greenpeace movement concerning rainforest is discouraging palm oil industries.[106] The movement has been the most active in Indonesia where already 6 million hectares are used for palm oil plantation and has plans for another 4 million hectares by 2015. Acknowledging that mass production of palm oil may be disastrous on biodiversity of forests, Greenpeace is actively campaigning against the production, urging the industries and the government to turn to other forms of energy resources. One of the positive results of the campaign was GAR(Golden Agri-Resources),[107] the world's second largest palm oil production company, deciding to commit itself to forest conservation. The company signed an agreement which prevents the company from developing plantations in areas where large amounts of carbon are locked up.

Removal of ancient tree[edit]

In June 1995, Greenpeace took a trunk of a tree from the forests of the proposed national park of Koitajoki[108] in Ilomantsi, Finland and put it on display at exhibitions held in Austria and Germany. Greenpeace said in a press conference that the tree was originally from a logged area in the ancient forest which was supposed to be protected. Metsähallitus accused Greenpeace of theft and said that the tree was from a normal forest and had been left standing because of its old age. Metsähallitus also said that the tree had actually crashed over a road during a storm.[109] The incident received publicity in Finland, for example in the large newspapers Helsingin Sanomat and Ilta-Sanomat.[110] Greenpeace replied that the tree had fallen down because the protective forest around it had been clearcut, and that they wanted to highlight the fate of old forests in general, not the fate of one particular tree.[111] Greenpeace also highlighted that Metsähallitus admitted the value of the forest afterwards as Metsähallitus currently refers to Koitajoki as a distinctive area because of its old growth forests.[112][113]

'Tokyo Two'[edit]

Main article: Tokyo Two

In 2008, two Greenpeace anti-whaling activists, Junichi Sato and Toru Suzuki, stole a case of whale meat from a delivery depot in Aomori prefecture, Japan. Their intention was to expose what they considered embezzlement of the meat collected during whale hunts. After a brief investigation of their allegations was ended, Sato and Suzuki were arrested and charged with theft and trespass.[114] Amnesty International said that the arrests and following raids on Greenpeace Japan office and homes of five of Greenpeace staff members were aimed at intimidating activists and non-governmental organizations.[115] They were convicted of theft and trespass in September 2010 by the Aomori district court.

Genetically modified organisms (GMOs)[edit]

Greenpeace has also supported the rejection of GM food from the US in famine-stricken Zambia as long as supplies of non-genetically engineered grain exist, stating that the US "should follow in the European Union's footsteps and allow aid recipients to choose their food aid, buying it locally if they wish. This practise can stimulate developing economies and creates more robust food security", adding that, "if Africans truly have no other alternative, the controversial GE maize should be milled so it can't be planted. It was this condition that allowed Zambia's neighbours Zimbabwe and Malawi to accept it."[116] After Zambia banned all GM food aid, the former agricultural minister of Zambia criticized, "how the various international NGOs that have spoken approvingly of the government's action will square the body count with their various consciences."[117] Concerning the decision of Zambia, Greenpeace has stated that, "it was obvious to us that if no non-GM aid was being offered then they should absolutely accept GM food aid. But the Zambian government decided to refuse the GM food. We offered our opinion to the Zambian government and, as many governments do, they disregarded our advice."[118]

Greenpeace on golden rice[edit]

Greenpeace opposes the planned use of golden rice, a variety of Oryza sativa rice produced through genetic engineering to biosynthesize beta-carotene, a precursor of pro-vitamin A in the edible parts of rice. The addition of beta-carotene to the rice is seen as preventative to loss of sight in poverty stricken countries where golden rice is intended for distribution. According to Greenpeace, golden rice has not managed to do anything about malnutrition for 10 years during which alternative methods are already tackling malnutrition. The alternative proposed by Greenpeace is to discourage mono-cropping and to increase production of crops which are naturally nutrient-rich (containing other nutrients not found in golden rice in addition to beta-carotene). Greenpeace argues that resources should be spent on programs that are already working and helping to relieve malnutrition.[119] The Golden Rice Project acknowledges that, "While the most desirable option is a varied and sufficient diet, this goal is not always achievable, at least not in the short term."[120]

The renewal of these concerns coincided with the publication of a paper in the journal Nature about a version of golden rice with much higher levels of beta carotene.[121] This "golden rice 2" was developed and patented by Syngenta, which provoked Greenpeace to renew its allegation that the project is driven by profit motives.[122] Dr. C.S. Prakash, who is the director of the Center for Plant Biotechnology Research at Tuskegee University and is president of the AgBioWorld Foundation expressed the opinion that, "[c]ritics condemned biotechnology as something that is purely for profit, that is being pursued only in the West, and with no benefits to the consumer. Golden Rice proves them wrong, so they need to discredit it any way they can."[123]

Although Greenpeace had stated that efficiency was its primary concern, as early as 2001,[124] statements from March and April 2005 also continued to express concern over human health and environmental safety.[125][126] Greenpeace has opposed releasing golden rice to fields as opposed to farming in greenhouses, which according to golden rice developer Ingo Potrykus, limits the amount of material needed for human safety testing.[127]

Doctor Patrick Moore says that the very reason for malnutrition is that the families cannot afford much else than rice.[128] According to doctor Adrian Dubock, golden rice would not cost more than ordinary rice and now vitamin A deficiency is the main reason for blindness and responsible for 28% of child mortality.[129] Now vitamin A deficiency blinds and kills at least hundreds of thousands of children every year.[130]

On July 14, 2011, Greenpeace paid the reparations when its members broke into the premises of an Australian scientific research organization CSIRO and destroyed a genetically modified wheat plot that would have a lower glycemic index and hence benefit people who are diabetic. The sentencing judge, Justice Hilary Penfold, accused Greenpeace of cynically using junior members to avoid custodial sentences, while the offenders were given 9 month suspended sentences.[29][30][31]

On August 8, 2013, an experimental plot of golden rice by International Rice Research Institute in the Philippines was uprooted.[131][132] Mark Lynas, former anti-GMO activist, reported that the action was in reality carried out by a group of 50 anti-GMO activists.[133] Greenpeace representatives defended the vandals.[130]

Dr. Jim Peacock (former chief scientist of Australia and president of the Australian Academy of Science) accused Greenpeace of being anti-science and spreading misinformation immorally.[134]

Toxic waste[edit]

In July 2011, Greenpeace released its Dirty Laundry report accusing some of the world's top fashion and sportswear brands of releasing toxic waste into China's rivers.[135] The report profiles the problem of water pollution resulting from the release of toxic chemicals associated with the country's textile industry. Investigations focused on wastewater discharges from two facilities in China; one belonging to the Youngor Group located on the Yangtze River Delta and the other to Well Dyeing Factory Ltd. located on a tributary of the Pearl River Delta. Scientific analysis of samples from both facilities revealed the presence of hazardous and persistent hormone disruptor chemicals, including alkylphenols, perfluorinated compounds and perfluorooctane sulfonate.

The report goes on to assert that the Youngor Group and Well Dyeing Factory Ltd. - the two companies behind the facilities - have commercial relationships with a range of major clothing brands, including Abercrombie & Fitch, Adidas, Bauer Hockey, Calvin Klein, Converse (shoe company), Cortefiel, H&M, Lacoste, Li Ning (company), Metersbonwe Group, Nike, Phillips-Van Heusen and Puma AG.

In 2013 Greenpeace launched the "Detox Fashion" campaign, which signed up some fashion brands to stop the discharge of toxic chemicals into rivers as a result of the production of their clothes.[136]

Save the Arctic[edit]

Main article: Save the Arctic

In continuity of the successful campaign to reach the Antarctic-Environmental Protocol, in 2012 and 2013 protests with "Save the Arctic" banners were started. To stop oil- and gas-drilling, industrial fishing and military operations in the Arctic region completely, a "global sanctuary in the high arctic" was demanded from the World leaders at the UN General Assembly: "We want them to pass a UN resolution expressing international concern for the Arctic." A resolution to protect the very vulnerable wildlife and ecosystem.[137] 30 Arctic Sunrise activists were arrested in the Pechora Sea, 19 September 2013, witnessing oil-drilling and protesting at the Gazprom platform Prirazlomnaya by the Russian Coast Guard.[138] Greenpeace members were originally charged with Piracy, then later downgraded to hooliganism, before being dropped altogether following the passage of an amnesty law by the Russian government.[139]

Ships[edit]

Since Greenpeace was founded, seagoing ships have played a vital role in its campaigns. Now that the Rainbow Warrior III has been completed, the group has three ocean-going ships, the Esperanza, Arctic Sunrise and Rainbow Warrior III.[140]

First Rainbow Warrior[edit]

Main article: Rainbow Warrior (1955)

See also: Sinking of the Rainbow Warrior

In 1978, Greenpeace launched the original Rainbow Warrior, a 40-metre (130 ft), former fishing trawler named for the Cree legend that inspired early activist Robert Hunter on the first voyage to Amchitka. Greenpeace purchased the Rainbow Warrior (originally launched as the Sir William Hardy in 1955) at a cost of £40,000. Volunteers restored and refitted it over a period of four months. First deployed to disrupt the hunt of the Icelandic whaling fleet, the Rainbow Warrior would quickly become a mainstay of Greenpeace campaigns. Between 1978 and 1985, crew members also engaged in direct action against the ocean-dumping of toxic and radioactive waste, the Grey Seal hunt in Orkney and nuclear testing in the Pacific. In May 1985, the vessel was instrumental for 'Operation Exodus', the evacuation of about 300 Rongelap Atoll islanders whose home had been contaminated with nuclear fallout from a US nuclear test two decades ago which had never been cleaned up and was still having severe health effects on the locals.[141]

Later in 1985 the Rainbow Warrior was to lead a flotilla of protest vessels into the waters surrounding Moruroa atoll, site of French nuclear testing. The sinking of the Rainbow Warrior occurred when the French government secretly bombed the ship in Auckland harbour on orders from François Mitterrand himself. This killed Dutch freelance photographer Fernando Pereira, who thought it was safe to enter the boat to get his photographic material after a first small explosion, but drowned as a result of a second, larger explosion. The attack was a public relations disaster for France after it was quickly exposed by the New Zealand police. The French Government in 1987 agreed to pay New Zealand compensation of NZ$13 million and formally apologised for the bombing. The French Government also paid ₣2.3 million compensation to the family of the photographer. Later, in 2001, when the Institute of Cetacean Research of Japan called Greenpeace as "eco-terrorists", Gert Leipold, then Executive Director of Greenpeace, detested the claim, saying "calling non violent protest terrorism insults those who were injured or killed in the attacks of real terrorists, including Fernando Pereira, killed by State terrorism in the 1985 attack on the Rainbow Warrior".[142]

Second Rainbow Warrior[edit]





Greenpeace's second Rainbow Warrior ship arrives in Bali for the 2007 UN climate conference.
In 1989 Greenpeace commissioned a replacement vessel, also named the Rainbow Warrior (also referred as Rainbow Warrior II), which was retired from service on the 16th of August 2011 to be replaced by the third Rainbow Warrior. In 2005 the Rainbow Warrior II ran aground on and damaged the Tubbataha Reef in the Philippines while inspecting the reef for coral bleaching. Greenpeace was fined US$7,000 for damaging the reef and agreed to pay the fine saying they felt responsible for the damage, although Greenpeace stated that the Philippines government had given it outdated charts. The park manager of Tubbataha appreciated the quick action Greenpeace took to assess the damage to the reef.[143]

Other vessels[edit]





Greenpeace's ship MV Arctic Sunrise in the harbour of Helsinki.
Along with the Rainbow Warriors, Greenpeace has had several other ships in its service: MV Sirius, MV Solo, MV Greenpeace, MV Arctic Sunrise and MV Esperanza, the last two being in service today.

Reactions and responses to Greenpeace activities[edit]

Lawsuits have been filed against Greenpeace for lost profits,[144] reputation damage[145] and "sailormongering".[146] In 2004 it was revealed that the Australian government was willing to offer a subsidy to Southern Pacific Petroleum on the condition that the oil company would take legal action against Greenpeace, which had campaigned against the Stuart Oil Shale Project.[147]

Some corporations, such as Royal Dutch Shell, BP and Électricité de France have reacted to Greenpeace campaigns by spying on Greenpeace activities and infiltrating Greenpeace offices.[148][149] Greenpeace activists have also been targets of phone tapping, death threats, violence[40] and even state terrorism in the case of bombing of the Rainbow Warrior.[150][151]

Criticism[edit]

Main article: Criticism of Greenpeace

Canadian ecologist Patrick Moore, an early Greenpeace member, left the organization in 1986 when it, according to Moore, decided to support a universal ban on chlorine[152] in drinking water.[25] Moore has argued that Greenpeace today is motivated by politics rather than science and that none of his "fellow directors had any formal science education".[25] Bruce Cox, Director of Greenpeace Canada, responded that Greenpeace has never demanded a universal chlorine ban and that Greenpeace does not oppose use of chlorine in drinking water or in pharmaceutical uses, adding that "Mr. Moore is alone in his recollection of a fight over chlorine and/or use of science as his reason for leaving Greenpeace."[153] Paul Watson, an early member of Greenpeace has said that Moore "uses his status as a so-called co-founder of Greenpeace to give credibility to his accusations. I am also a co-founder of Greenpeace and I have known Patrick Moore for 35 years.[...] Moore makes accusations that have no basis in fact".[154] More recently Moore as been particularly critical of Greenpeace's stance on golden rice, an issue where Moore has been joined by other environmentalists such as Mark Lynas,[155] claiming that Greenpeace has "waged a campaign of misinformation, trashed the scientists who are working to bring Golden Rice to the people who need it, and supported the violent destruction of Golden Rice field trials."[156]

Patrick Moore also reversed his position on nuclear power in 1976,[157] first opposing it and now supporting it.[158][159][160] In Australian newspaper The Age, he writes "Greenpeace is wrong − we must consider nuclear power".[161] He argues that any realistic plan to reduce reliance on fossil fuels or greenhouse gas emissions need increased use of nuclear energy.[158] Phil Radford, Executive Director of Greenpeace US responded that nuclear energy is too risky, takes too long to build to address climate change, and claims that most countries, including the U.S., could shift to nearly 100% renewable energy while phasing out nuclear power by 2050.[162][163]

A French journalist under the pen name Olivier Vermont wrote in his book La Face cachée de Greenpeace ("The Hidden Face of Greenpeace") that he had joined Greenpeace France and had worked there as a secretary. According to Vermont he found misconduct, and continued to find it, from Amsterdam to the International office. Vermont said he found classified documents[164] according to which half of the organization's € 180 million revenue was used for the organization's salaries and structure. He also accused Greenpeace of having unofficial agreements with polluting companies where the companies paid Greenpeace to keep them from attacking the company's image.[165] Animal protection magazine Animal People reported in March 1997 that Greenpeace France and Greenpeace International had sued Olivier Vermont and his publisher Albin Michel for issuing "defamatory statements, untruths, distortions of the facts and absurd allegations".[166]

Writing in Cosmos, journalist Wilson da Silva reacted to Greenpeace's destruction of a genetically modified wheat crop in Ginninderra as another sign that the organization has "lost its way" and had degenerated into a "sad, dogmatic, reactionary phalanx of anti-science zealots who care not for evidence, but for publicity".[167]

Press release blunder[edit]

In Philadelphia, in 2006, Greenpeace issued a press release that said "In the twenty years since the Chernobyl tragedy, the world's worst nuclear accident, there have been nearly [FILL IN ALARMIST AND ARMAGEDDONIST FACTOID HERE]". The final report warned of plane crashes and reactor meltdowns.[168] According to a Greenpeace spokesman, the memo was a joke that was accidentally released.[168]

Case Brent Spar[edit]

Nature journal accused Greenpeace for not caring for facts, when it had attacked against the dumping of Brent Spar tanker and claimed that it would contain much more oil than it did.[169] Greenpeace had warned of a terrible catastrophe.[170]

In three years of research with environmental organizations the disposal of the tanker in the deep ocean was concluded as the "Best Practicable Environmental Option" (BPEO), because the environmental harms would be negligible.[171] British government and Oslo and Paris Commissions (OSPAR) accepted the solution.[171]

Protests started by Greenpeace in April 4, 1995 and the resulting boycotts and violence and threats against Shell's employers made Shell to cancel the deposition and announce that it had failed in communicating its plans to the public.[171]

Corals near to extinction grew in the platform, so the experts recommended to dispose the legs of such platforms in the sea.[171][172][173] Greenpeace opposed this too.[174]

Regional offices[edit]

Greenpeace Aotearoa New Zealand[edit]

Main article: Greenpeace Aotearoa New Zealand

Greenpeace Aotearoa New Zealand was founded in 1974, two years after the original Greenpeace, and is one of New Zealand's largest environmental organizations.

Greenpeace Australia Pacific[edit]

Main article: Greenpeace Australia Pacific

Greenpeace Australia commenced operation in the 1970s. In early 1998 Greenpeace Australia and Greenpeace Pacific teamed up to become Greenpeace Australia Pacific (GPAP), one of the region's largest environmental organisations.[175]

Greenpeace Chile[edit]

In Chile, the organization is affiliated as "Greenpeace Chile" was founded in 1981 and is a government recognized NGO there.[176]

Greenpeace East Asia[edit]

Main article: Greenpeace East Asia

Greenpeace East Asia's first office was opened in Hong Kong in 1997. Greenpeace East Asia now campaigns in Hong Kong, Mainland China, Taiwan and South Korea.[177]

This branch also occasionally works with local education institutions, including Geography Society of PLK Vicwood KT Chong Sixth Form College between 2008 and 2009.

Greenpeace India[edit]

Greenpeace India has been working on various issues related to the environment since 2001. Their work in India is focused on four broad campaigns; Stop Climate Change, Sustainable Agriculture, Defending Our Oceans, and Nuclear. Over the years Greenpeace India has built a strong base of supporters spread across the country. Greenpeace India has also launched an online platform called Greenwired, where volunteers can start their own activities like - discussions, creating actions, surveys, vidoes/photos, writing blogs, etc.[citation needed]

Greenpeace Nordic[edit]

Main article: Greenpeace Nordic

Greenpeace Nordic is registered in Stockholm with offices also in Helsinki, Copenhagen and Oslo.

Greenpeace USA[edit]

Main article: Greenpeace USA

Greenpeace USA was founded in 1974, three years after the original Greenpeace, and is one of the United States largest environmental organisations. Executive Directors of Greenpeace USA have included Richard Grossman, Barbara Dudley, Steve Sawyer, John Passacantando, and Phil Radford.

Greenteams[edit]

Greenpeace supports small local groups of youths and children who want to join or found a "Greenteam", by providing them with free info materials and mentoring.[178][179][180]

See also[edit]
European Renewable Energy Council
Friends of Nature
Fund for Wild Nature
World Wide Fund for Nature
350.org
Climate Reality Project

グリーンピース (NGO)

グリーンピース(Greenpeace)は、国際的な環境保護団体(NGO)。



目次 [非表示]
1 組織概要
2 活動分野と主張
3 批判 3.1 資金問題
3.2 組織内部の意思決定
3.3 人種平等会議による批判
3.4 日本での批判

4 歴史 4.1 1971年 アメリカ合衆国の核実験に反対
4.2 1972年 フランスの核実験に反対
4.3 捕鯨問題と環境問題への接近
4.4 レインボー・ウォーリア号事件
4.5 1995年、フランス核実験への抗議行動

5 日本との摩擦 5.1 接触事故
5.2 グリーンピースの抗議行動のエスカレート

6 グリーンピース・ジャパン 6.1 グリーンピース・ジャパンによる宅配便窃盗事件 6.1.1 グリーンピース・ジャパンによる捕鯨関係者の告発と不起訴
6.1.2 グリーンピース・ジャパンメンバーの逮捕・起訴と有罪判決
6.1.3 日本でのクジラ肉の取り扱い
6.1.4 鯨肉の「土産」


7 脚注 7.1 注釈
7.2 出典

8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク 10.1 公式サイト
10.2 批判的立場から



組織概要[編集]

環境保全・自然保護の分野において、世界的に有名な団体である。

1979年10月14日に、各国のグループを統合するかたちで、グリーンピース・インターナショナルが設立され、本部はオランダのアムステルダムに置かれた。[注 1]

その過剰な運動に対してエコテロリズムとして批判されることもある[1]。2005年、アメリカ自由人権協会(ACLU)が情報公開法に基づいて入手した米国連邦捜査局(FBI)の資料から、FBIがACLUと並んでグリーンピースや動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)を監視対象にしていたことが分かり、ACLUは、通常の政治活動に携わっている人々にまで国内テロリズムの定義を拡大していると抗議した[2]。2010年、アメリカ合衆国司法省は、2001年から2006年まで続いたFBIによるグリーンピースやPETAなどの環境保護団体メンバーの監視は正当ではなかったとする文書を公表し、FBIを批判した[3]。日本国内でも、捕鯨問題を告発すると称してグリーンピースが組織的に運送会社の倉庫から宅配物を窃盗したとして幹部二名が逮捕される事件があり、その組織的な非合法活動について批判がある[4]。なおこの事件の捜査や逮捕には青森県警察に加えて警視庁公安部が関わったことから国内でも公安警察の監視対象にあるとみられる。 ※本文中の原語表記部のリンクは英語版へのリンク。

活動分野と主張[編集]





エッソ本部に不法行為をするグリーンピース /エクソンモービル.
グリーンピースが展開する活動分野を以下列挙する。
海洋生態系問題日本で有名なのは捕鯨問題だが、基本的には海洋生態系全体をまとめて扱っている。過剰漁獲や漁業手段の問題、海洋汚染の問題、オゾン層破壊による生態系ピラミッドの崩壊の問題などに分かれており、捕鯨問題は漁業問題のひとつという位置づけである。尚、あくまで近代捕鯨への反対であり、生存捕鯨は持続可能として認める立場も示している(反捕鯨#生存捕鯨も参照)。2005年からは日本の沖縄におけるジュゴン保護にも参加。オゾン層破壊特定フロンをはじめとするオゾン層破壊物質の抑制。フロンを使わない炭化水素冷媒による冷蔵庫「グリーンフリーズ」の開発・普及。炭化水素冷媒のグリーンフリーズ型冷蔵庫は、グリーンピースの開発委託を受けたドイツのDKK社(その後フォロン社に名称変更)が、1992年に世界に先駆けて発表。1993年中にはドイツの他企業も追従し、また同時に断熱材に使われていたフロンも炭化水素などに置き換えられた。他国の大手家電企業へのグリーンフリーズ型冷蔵庫の生産要請なども行ってきた。森林問題森林伐採による生態系破壊の問題。紙の原料となるパルプ材としての森林管理問題やマホガニーなどの希少樹種の貿易問題など。原子力問題核兵器に対する反対運動は継続している。1993年には、ロシア海軍による核廃棄物の日本海への海洋投棄を摘発し日本に衝撃を与えた。また、原子力発電をはじめとするいわゆる「平和利用」に関する反対運動、つまり原子力撤廃運動も展開(高速増殖炉や核燃料再処理、それに伴う放射能汚染問題・プルトニウム管理問題など)。1995年と1997年には、フランスから日本まで航路や輸送スケジュールが発表されていなかった核物質輸送船を追跡するプロジェクトを展開(前者はチャーター船の「スミット・ニューヨーク」、後者はキャンペーン船「ソロ M.V.Solo」が追跡船)。化学物質汚染問題塩素系化合物などを含む化学物質汚染問題や、その一部の原因となっているごみ処理・ごみ焼却処理の問題。日本では、ほかに瀬戸内海の豊島におけるシュレッダーダストの投棄問題などにもかかわっている。エネルギー問題太陽発電をはじめとする再生可能エネルギーの普及。気候変動問題いわゆる「地球温暖化」。二酸化炭素をはじめとする温暖化ガスの排出抑制を目指している。エネルギー問題とも密接に関係するほか、特定フロンのかわりに導入された、オゾン層破壊係数が低いかわりに強い温室効果をもたらす代替フロンの使用抑制についても活動している。2007年には、地球温暖化に抗議するためにスイスの氷河で全裸パフォーマンスの撮影が行われ、「緊急事態にある人類は、社会常識、礼儀作法、容認可能な行為の規範を捨て、いかなる方法を使ってでも警告を発するだろう」と主張している[5]。遺伝子組み換え作物への反対アピール遺伝子組み換えトウモロコシの賛成派の政治家事務所前にトウモロコシをばら撒くという抗議行動を行っている。共謀罪創設に対する反対アピール主に日本国内での活動。2006年、日本政府の共謀罪関連法案(組織犯罪処罰法の改正案)の審議に対する反対運動や抗議の呼びかけ。



批判[編集]

資金問題[編集]

グリーンピース創設メンバーの一人で、15年間も会長をつとめた[6]パトリック・ムーアは、のちに団体と袂を分かち、別の団体「グリーンスピリット」を興して原子力発電に賛同する立場になっている。ムーアによれば、ロックフェラー財団など50の基金が、原子力発電に賛同する一方で“環境保護に関心あり”というポーズのためにグリーンピース本部に資金援助しているとして団体の資金源について内部告発を行った[7]

アイスランドのジャーナリスト、マグヌス・グドムンドソンは「グリーンピースは環境保護団体のような顔をしているが、実は政治的権力と金を追求する多国籍企業である」と述べている[8][注 2]。

またバチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリによれば、グリーンピース・インターナショナルの2000年度予算は3400万ドルにのぼり、団体全体の同年度予算は1億4300万ドル(147億2900万円[注 3])にものぼるほどで、「巨大資金団体」としたうえで[9]、同団体は税控除が適用される寄付金を集め、さらにそれを会計上異なる関連団体に分配しているグリーンピースのやり方を批判している。

ドイツの週刊誌デア・シュピーゲルによれば、グリーンピースは「世界で最も資金力のある環境団体」で、年間に二億ドルの収入があり[10]、ドイツ国内でも1000万マルクの売り上げがありながら、申告されることがないとして批判した。

現在、ウェブサイトの情報によると「グリーンピースは環境保護を願う市民の立場で活動するため、政府や企業からの資金援助を受けていません」として、個人献金のみで運営されている。

組織内部の意思決定[編集]

ドイツの週刊誌デア・シュピーゲルは、グリーンピースの意思決定が、「グリーンピース世界会議」の12人の大選挙人に握られており、一般メンバーは運営の意思決定に関わることはできず、収入の24%以上を上納できる資金力を持つ支部代表のみが意思決定を行っていると報道した[11]。

グリーンピースの元会長ウテ・ベリオンは「グリーンピースの賛同者たちに投票権はない」「どのような仕事をするかをこちら(執行部)が指示し、それに同意するなら資金提供という形で賛意を示してもらうシステムである」と述べている[12]。グリーンピース・オランダの会計責任者フランツ・コッターは「理事たちはメンバーに影響されるのを好まない。メンバーたちは黙って金を払うためだけに存在する」と明言している[9]。

またグリーンピース・ノルウェーの会長を二年間務めた後、1993年に団体の運営方法を会議の議題にしょうとしたところ、追放されたビヨルン・オカーンは「グリーンピースに民主主義は存在しえない。ピラミッド構造になっていて、すべてが頂上の一握りの人間によって決定される」と証言している[9]。またオカーンは「グリーンピースの金が環境のために使われていると考えるのは間違っています。幹部たちはファーストクラスに乗って旅行し、最高級のレストランで食事をし、優雅なエコ・セレブの生活をしている。クジラで大騒ぎをするのは、それが儲かるからにほかならない」とも内部告発している[9]。

人種平等会議による批判[編集]

ニューヨークに本部を持つ人種平等会議(en:Congress of Racial Equality:略称CORE) は、2003年5月11日に、アメリカのジャージーシティにおいて「Africa,YES,Greenpeace,NO!」とするスローガンを、グリーンピースのイベントに対して投げつけた。COREによれば、グリーンピースが発展途上国の発展を妨害するからで[13]、グリーンピースは遺伝子組み換え植物の導入に反対し、DDTをいかなる目的であっても使用禁止にすべきとして反対し、その結果、マラリア対策をとることができないとして批判している。COREの報道担当官ナイジェル・イニスによれば、1972年に環境保護ファンドという団体の理事チャールズ・ウースターは、DDTによるマラリア予防について質問された際、「だから、どうした?人口はすべての問題だ。人間は多すぎる。人間はもっと少なくしたほうがいい」と人口爆発を懸念する内容の発言を行ったが、前述のカショーリとガスパリによれば、環境保護運動と優生学運動は、人口と資源のコントロールという共通の目的をもつと独自の論理を披露し、20世紀初頭には両者は連携していたと指摘し[9]、優生学的な考えであるという見方を示した[9]。

日本での批判[編集]

2001年12月、南極海で、日本の調査捕鯨船団と、グリーンピースの船「アークティック・サンライズ号」が遭遇した。この際、日本の調査捕鯨を委託されている日本鯨類研究所の理事長である大隅清治がグリーンピースを『エコ・テロリスト』だと批判するプレスリリースを発表すると、即座にグリーンピースは抗議声明を出した[14]。また、船のスクリューに鎖を巻く等、違法な直接行動に対しては、日本政府などに「テロリズムである」と認定された。広報(パフォーマンス)重視のボランティア活動に対する懐疑的見方など、日本では、しばしば逆効果になっているという批判、さらに非欧米の国の文化、国民性を無視しているとの批判もある[要出典]。

歴史[編集]

1971年 アメリカ合衆国の核実験に反対[編集]

アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するために、1969年、カナダのバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee)」という組織が誕生した。この組織は、のちに「名前がわかりにくい」という内部批判から、「環境」を意味する「グリーン(green)」と「平和」を意味する「ピース(peace)」をくっつけた「グリーンピース(Greenpeace)」という造語をつくり、改名した。

グリーンピースは、1971年、核実験を阻止することを目指し、アムチトカ島沖合いの公海に船を居座らせて監視をするという方法で圧力をかけるために、底引き網漁船「フィリス・コーマック(Phyllis Cormack)」をチャーターして船出した。これがグリーンピースの最初の直接行動である。なお、「フィリス・コーマック」が「グリーンピース1号」、その航海への反響で新たに雇って追加派遣した元王室カナダ海軍の退役掃海艇をチャーターした「エッジウォーターフォーチュン(Edgewater Fortune)」が「グリーンピース2号」と呼ばれている。

この航海は、アムチトカ沖の目標地点まで行き着くことはできなかったものの、あまりの反対の強さ・反響の大きさに、アメリカ合衆国は、結局その後のアムチトカでの核実験を断念、同地は自然保護区(バードサンクチュアリ)と宣言された。

この航海を通じて、「目撃者となること」「目撃したことを広く伝えること」などのその後の路線がある程度確立された。また、翌1972年5月4日には、グリーンピース財団(Greenpeace Foundation)に組織を変更した[注 4]。

なお、この航海の際にメンバーのひとりがネイティヴ・アメリカンの伝承本を持参していた。その中に記載されていた「炎の目(Eyes of Fire)」という老婆が語った物語に、「虹の戦士(Rainbow Warrior)」という登場人物がいた。これは、世界が滅亡の危機に瀕したときに立ち上がる伝説の勇者の称号であるとされる。そこから「虹の戦士」はグリーンピースの活動家の自称となり、またグリーンピースを象徴するキャンペーン船の名称ともなった。この当時のグリーンピースのメンバーの多くは既存の生き方に疑問を呈しカウンターカルチャーやサブカルチャーにも理解を示していた[注 5]。

1972年 フランスの核実験に反対[編集]

1972年には、フランスが南太平洋のムルロア環礁で行おうとしていた核実験に反対する航海を企画した。

この航海は、この時からグリーンピースに参加し、のちに代表となるデビット・マクタガート(David McTaggart)が指揮を執り、1973年にマクタガート自身の38フィート・2本マストの小さなヨット「ヴェガ S.V.Vega」を「グリーンピース3号」として核実験エリアの風下につけることで核実験を阻止しようとした。「グリーンピース3号」がそこにいる限り核実験が行えないため、フランス軍は軍艦を派遣して拿捕し排除した。しかしこのキャンペーンはイギリスなどでの大きな動きにつながり、グリーンピースの旗をエッフェル塔やノートルダム大聖堂に掲げるなどの行動が行われた。グリーンピースの行動方針のひとつである「非暴力直接行動(主義)」は、この時にはじまっている。

さらに翌1974年にもムルロア沖に船を出しての同様の抗議行動を行った。この時には、マクタガートらが拿捕しにきたフランス軍の兵士から過酷な暴行を受け重傷を負ったが、その暴行の写真の撮影と秘匿に成功し、直後にキャンペーンを行った。南太平洋における核実験反対運動は、のちにフランス国家によるグリーンピースに対するテロを引き起こすほどの衝撃を与えた。

なお、この行動の際に、フランス軍は、マクタガートらが乗船する「グリーンピース3号」を襲うために高速ゴムボート(ゾディアック Zodiac)を使った。その機動性に感動したことから、グリーンピースもゾディアックを導入し、海上での抗議行動に使うようになったと言い伝えられている。ゾディアックを使っての海上での抗議行動は、その後のグリーンピースの象徴ともなり、日本国内でも1997年に高レベル核廃棄物輸送船「パシフィック・ピンテール」の迎撃行動の際に青森県は六ヶ所村の東方海上で展開された。
注釈捕鯨問題などに関してはフランスと共同歩調を取ることが多いが、原子力問題では、フランス政府と激越に対立している。
捕鯨問題と環境問題への接近[編集]

同じ頃、ニュージーランド出身で、後に国際的な鯨類学者となるポール・スポング (Paul Spong)が、バンクーバーのグリーンピースに接近し、クジラをめぐる問題について注意喚起を行った。このスポングの接近は、グリーンピースが捕鯨問題に進出するきっかけとなった。

またこのことは、グリーンピースが「もっぱら反核を主張する組織」から「広くさまざまな自然保護問題について行動する組織」へと脱皮することにもつながった。1971年から参加していたポール・ワトソン Paul Watson らが主力となり、1975年から捕鯨船の目の前に高速ゴムボート(ゾディアック)を繰り出して捕鯨に反対するというキャンペーンが開始された。なお、ポール・ワトソンは、1977年に「グリーンピースは軟弱に過ぎる」として袂を分かち、エコテロリストの筆頭格とされる組織・シーシェパード Sea Shepherd を設立する。[注 6]
注釈1972年にストックホルムで行われた国連人間環境会議が反捕鯨の潮流の原点であるとした上で、その背後にグリーンピースがいたとする説があるが、1972年の時点でまだグリーンピースは反捕鯨を主張していなかった。ストックホルム会議での鯨類保護決議はグリーンピースとは無関係である。
さらにその後、毛皮を目的とするアザラシの乱獲問題などにも手を広げた。1977年には、世界中に15ないし20程度の支部(グループ)が誕生しており、国際的な環境保護団体となっていった。

レインボー・ウォーリア号事件[編集]

詳細は「レインボー・ウォーリア号事件」を参照

1985年7月10日、グリーンピースの帆走キャンペーン船「虹の戦士 S.V.Rainbow Warrior」は、ムルロア環礁におけるフランスの核実験に抗議・反対する航海のためにニュージーランドのオークランド港で出港準備をしていたが、この船が同日夜、爆破・撃沈された。この際、ボランティアとして乗船していたポルトガル人フォトグラファーのフェルナンド・ペレイラ Fernando Pereira が死亡した。爆破が衝撃的だっただけではなく、このとき「虹の戦士」は、小さなヨットなどから構成される抗議船団のための物資供給などを担当する母船として位置づけられていたために、核実験に反対する側の陣容にも大きな悪影響を与えた。

この爆破事件は、ニュージーランド警察当局の捜査によってフランス情報機関(対外治安総局 DGSE)によるテロであることが突き止められ、ニュージーランドから逃げ遅れたフランス軍士官のテロ作戦指揮官2名が逮捕された。実行犯4名はヨットによって逃亡し、その後の消息は不明である。他にも逃亡に成功したフランス軍人はいるものと考えられている。フランスの国家による犯罪であったため、旅券などはすべて偽造のものであった。逮捕された指揮官2名は偽造のスイス国籍の旅券を所持していた。この事件は、派生的にニュージーランドとフランスの国際問題にも発展した[注 7]。

1995年、フランス核実験への抗議行動[編集]

虹の戦士号爆破事件から10年後の1995年、フランスは再びムルロア環礁での核実験を計画した。この際には、グリーンピースは大規模な抗議行動を行った。撃沈された船の名を受け継いだ「虹の戦士2 S.V.Rainbow Warrior II」のほか、旗艦「グリーンピース M.V.Greenpeace」、最初のムルロア核実験反対行動から参加している「ヴェガ S.V.Vega」、チャーター船の「マニティア」、ゾディアック十数隻、グリーンピース号搭載のヘリコプターなどがムルロア環礁に集結して激しい抗議行動を繰り広げ、また呼びかけに応え各国から駆けつけた百隻を越える「平和船団」がムルロア環礁を取り囲んだ。

この抗議行動を受け、フランス政府はムルロア環礁での核実験を中止しなかったが、それ以後の核実験を行わないことを確約した。

日本との摩擦[編集]

接触事故[編集]

1992年11月にフランス沖合いで、グリーンピースのキャンペーン船「ソロ」と、核物質を搭載して日本に向かっていた輸送船「あかつき丸」を護衛していた海上保安庁の巡視船「しきしま」の接触事故が生じている。

この事故について日本政府は、護衛船の「しきしま」の右舷後方から、追い越し船の立場にあったソロが異常に接近し、急に左転したとことが事故発生の原因であるとしている。また、実際に国際海事機関からも同様の見解が出されていると主張している[15]。

この件でグリーンピースは海上保安庁に賠償と修理費を請求したが、拒絶された。

グリーンピースの抗議行動のエスカレート[編集]

2005年12月に、南極海で調査捕鯨をしていた日本の捕鯨船の周辺で、グリーンピースの船が抗議行動を行って双方の船が接触する事件が発生した。双方にけが人は出なかったが、この時、グリーンピース側は今後も抗議活動を続けるという声明を発表している。

それを裏付けるように、その翌月には、捕鯨船団に対しての抗議中にグリーンピースの活動家1人が海に転落する事件が発生した。グリーンピース側は、「捕鯨船が狙っていたミンク鯨を守ろうとしていたボートから活動家が転落した」と主張しているが、それに対し、日本鯨類研究所は、捕鯨船の陰に隠れていたボートが突然出現した画像を公開し反論、グリーンピースの行動について、「報道機関の関心を維持するため、だんだん危険な行動をとっている」と批判した。

なお、この件に関して反捕鯨国であるオーストラリアの環境相が「人命を危険にさらすような戦術を人々が尊敬するとは思わない」とグリーンピースに対し自制を求めた。

2006年1月8日、南極海で日本船の調査捕鯨を監視していたグリーンピースの監視船「アークティック・サンライズ」が、日本の捕鯨母船「日新丸」にぶつけられたと発表した。一方、捕鯨船団を派遣した日本鯨類研究所は、他船に貨物を移し替える為停船していた日新丸に意図的にグリーンピースが追突してきと発表し、その時のビデオを発表しグリーピースからの意図的な衝突を証明している[16][17]。

2006年1月18日、捕殺調査名目での捕鯨に対して、死亡したナガスクジラの博物館への輸送の途上で、ベルリン市のデモ許可を取得してドイツの日本大使館前で公開するとともに、「ストランディング(漂着・座礁のこと)した鯨の調査で十分である」という意図を伝えるという抗議行動を行った。[注 8]

2006年2月17日には青森県六ケ所村に存在する日本原燃の使用済み核燃料再処理工場で2006年4月に開始される試験運転に反対する抗議行動として、原子力安全・保安院などが入る経済産業省別館の壁面に『STOP! 再処理』と書かれたメッセージを投影した。

2006年2月21日夕方には青森県庁本館の壁一面に『放射能汚染、立入禁止』の文字と放射能マークが入った貼り紙の映像を投影している。この行動についてグリーンピースは、青森県議会の全員協議会で討議された六ヶ所再処理工場のアクティブ試験安全協定素案に問題があったためと主張している。

グリーンピース・ジャパン[編集]

グリーンピースの日本事務所(グリーンピース・ジャパン(GPJ))が設立されたのは1989年4月。それ以前にも日本にグリーンピースを名乗っていた人々がいることは確認できているが(たとえば太田竜[18]など)、それらはグリーンピース・インターナショナルとは無関係である。2012年現在の理事長はアイリーン・美緒子・スミス(ユージン・スミスの元妻)、2012年現在の理事長には佐藤潤一が就いている。過去には理事長に海渡雄一、事務局長に星川淳が就いていた。2008年時点でのサポーターは約6000人、有給専従職員は15人である。

また、グリーンピース・ジャパンが設立されグリーンピースから日本語による正式な声明が出されるようになるまで、対立する側が「グリーンピースはこう言っている、それはけしからんことだ」といった構造の批判的キャンペーンを展開してきたという経緯もあり[要出典]、これが日本での悪い印象を生み出した一因になっていたとも言えるが、近年では後述の西濃運輸宅配便窃盗事件など、会員のおこした犯罪行為を組織として正当化する確信犯的主張などが原因で、日本での悪印象は決定的なものとなっている。商業捕鯨に関しては一貫して反対の立場にあるが、生存捕鯨については原則として判断を示すことはなく、本部同様に概ね認める傾向がある。インターネットテレビでは捕鯨文化尊重と保護を両立するという趣旨で出演者が鯨肉を食べるところを放映することもある。

なお、日本国内における活動としては、国内企業へのアンケート[1]や経済界へのキャンペーン[2]、反原子力発電運動も行っている。

グリーンピース・ジャパンによる宅配便窃盗事件[編集]

詳細は「グリーンピース宅配便窃盗事件」を参照

グリーンピース・ジャパンによる捕鯨関係者の告発と不起訴[編集]

グリーンピース・ジャパンは、日本の調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が調査捕鯨で捕獲したクジラ肉(鯨肉)を大量に自宅に送っていたとして、2008年5月15日に業務上横領の疑いで証拠品である鯨肉および梱包箱とともに告発状を東京地方検察庁へ提出した。同時に、農林水産省などに対しては、日本鯨類研究所による調査捕鯨活動の停止、および水産庁からの補助金の支給停止を求めた。これを受けて水産庁は実態を調査する方針であることを明らかにした。

グリーンピース・ジャパンは2008年5月8日付けで水産庁に対して「船員が鯨肉を土産として持ち帰ることが基本的にないのかと」と問い合わせをした結果、水産庁遠洋課課長・成子隆英から「ないです。極めて(流通が)限られていますから。」と回答されたと主張している [19] 。また、グリーンピース・ジャパンは、「船員が無断で畝須(うねす)などを塩漬け処理し冷凍せずに西濃運輸の宅配便で自宅に配送されている」「無断で持ち帰るものとは別に、土産や船員向けに販売される鯨肉がある」という元船員とされる人物の証言を紹介している。またグリーンピース・ジャパンは、告発対象となった2008年4月15日の日新丸帰港に際しての乗組員私物手荷物発送について、「合計90箱程度」のうち「鯨の解体・鯨肉製造に携わる乗組員12人から、最低でも47箱」を確認し、「この全てが鯨肉であったとすると、合計1.1tになる」としている[20][21]。グリーンピース・ジャパンは5月16日記者会見を開いて、「告発の証拠品として提出した鯨肉(畝須)は23.5kgで塩漬け処理されて常温保存の状態」だったと主張し、この鯨肉が「『数kg程度の冷凍品である土産』ではない鯨肉」であり横領されたものであると主張した[22]。

2008年6月20日、東京地検は「グリーンピース・ジャパン」から業務上横領容疑で告発されていた「日新丸」乗組員12人全員を不起訴処分(嫌疑なし)とした(同日には窃盗容疑でグリーンピース・ジャパンメンバー2名が逮捕され、本部が家宅捜索されている(下記参照))。これに対してグリーンピース側は上記不起訴処分を不服として検察審査会を申し立てていたが、2010年4月22日に東京第一検察審査会が「不起訴は相当」とする議決を下した[23]。

グリーンピース・ジャパンメンバーの逮捕・起訴と有罪判決[編集]

捕鯨関係者を告発するあたってグリーンピース・ジャパンが提示した証拠のクジラ肉は上掲の「告発レポート[24]」やYouTube投稿映像[25]にあるとおり、「日新丸」乗組員が送った個人の荷物のひとつを、グリーンピース・ジャパン関係者が宅配便運送会社の西濃運輸の配送所から盗み出したものである。

グリーンピース・ジャパンは、この調査方法を認めた上で「重大な横領行為の証拠を入手するためであり、違法性は無い」と主張している(当のグリーン・ピース側は未だに正当性を主張しているが、無論、グリーンピース・ジャパンはNGOであり捜査機関では無い。当然令状も無いので、独自判断で証拠物として押収する事は盗取となるし、西濃運輸の車両を追跡し、伝票を確認した上で倉庫に侵入し窃盗を行っていう事から、明らかな「不法領得の意思」があっての犯行である故、正当性及び阻却性は一切皆無と言える)。

法曹関係者の間では本件について西濃運輸青森支店への不法侵入・荷物の窃盗・西濃運輸に対する業務妨害などの犯罪に問われる可能性もあることが指摘され、2008年5月15日に放送された『スーパーモーニング』に出演した弁護士は「窃盗に当たる」と断言した。番組では、アメリカ合衆国において人工中絶に反対する団体が人工中絶を実施しているクリニックを襲撃している事例を引き合いに、窃盗という違法行為を正当化するグリーンピースの悪質な姿勢を「非常に危険である」とした。

2008年5月16日に西濃運輸は青森県警に対して被害届を提出した[26]。これを受けて青森県警は窃盗容疑で捜査を開始した[27]。調査捕鯨船運航会社の共同船舶も、早ければ5月19日にも窃盗容疑でグリーンピース・ジャパンを告発することを検討していると報じられた[28]。これらの動きに対して、同日にグリーンピース・ジャパンは記者会見を開いて、西濃運輸に対しては「迷惑を掛けたならお詫びしたい」と謝罪した[29]。

2008年6月20日、青森県警と警視庁公安部はグリーンピース・ジャパンが組織的に計画し肉を盗み出したとみて、実行に関与した東京都と神奈川県に住む同団体幹部2人(1人は後に事務局長となる佐藤潤一である)を窃盗および建造物侵入の容疑にて逮捕し、東京の事務所など関係先数カ所の家宅捜索を行った。なお同日にはグリーンピース・ジャパンが捕鯨関係者を業務上横領で告発したことに対して東京地検から不起訴処分が下されている。

2008年7月11日、青森地検が同年6月20日に逮捕されたグリーンピース・ジャパンの幹部ら2人を窃盗と建造物侵入の罪で青森地裁に起訴した。 同年7月15日にグリーンピース・ジャパンは保証保釈金400万円を払い両被告は保釈された。

2010年9月6日、青森地裁は窃盗などの罪で、2名のグリーンピースメンバーの被告に対して、懲役1年、執行猶予3年(求刑・懲役1年6ヶ月)の有罪判決を言い渡した[30]。これに対して被告側は仙台高裁に控訴したが2011年7月12日に棄却されたため最高裁への上告は断念し、2011年7月27日に被告2名の懲役1年・執行猶予3年の有罪判決が確定した。

日本でのクジラ肉の取り扱い[編集]

この項では、告発があった2008年時点での「日本国内でのクジラ肉(鯨肉)の売りさばきを含む取り扱い」の状況について、概略を解説する。

日本政府は、ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)附属書Iのうち、クジラについて留保している[31]。日本国内の民間相互取り引きにおいて、「公的な手続きを経て市場に放出された鯨肉」の流通は一般に自由であるが、漁として本来は意図していないのに偶発的に定置網にかかってしまったクジラについて、届け出報告を義務付けており、手続き無しでクジラを処理すれば罰則あり。[32]

日本の調査捕鯨によって日本国内にもたらされる鯨肉の販売価格は、日本鯨類研究所に設置した「副産物販売委員会」(水産庁や有識者などで構成)が審議して決定する。詳細は、日本鯨類研究所が制定する「鯨類捕獲調査事業の副産物処理販売基準」に従う[33]第129回国会 環境委員会 において、鯨肉の販売価格の形成過程や鯨肉販売の利益使途などについて明らかにするよう求めた衆議院議員・笹山登生の質問に対して、水産庁海洋漁業部遠洋課長・森本稔が(鯨肉の販売価格については)「できるだけ公正、かつ特定の人たちに独占的な利益が生じないような配慮をして決定」するものと答弁している[34]。

国際捕鯨取締条約第8条では、「捕獲した鯨は、実行可能な限り加工し、また、取得金は、許可を与えた政府の発給した指令書に従って処分しなければならない。 」と定められている[35]。

調査捕鯨捕鯨船の乗組員個人が、社会通念において(社内販売などの、関係者向け割引・優先販売のような例)あるいは調査捕鯨制度の運用において許されている「自家消費や親戚知人などへの贈与などの私的な範囲」を超えて、「(その鯨肉の分量にかかわらず)公的な手続きを経ていない、あるいは職務上の立場を利用して不当過大に得た(不当利得)、鯨肉」を販売することや販売目的で所持することは、国際捕鯨取締条約に違反する疑いがある。

鯨肉の「土産」[編集]

前述したように、水産庁は2008年5月8日の時点では、グリーンピース・ジャパンの質問に対して調査捕鯨船乗組員が鯨肉を個人の土産とすることは基本的にないとの見解を示していた[24]。調査捕鯨船運航会社である共同船舶は、2008年5月14日までは「乗組員が鯨肉を土産にしていることを否定」していたが、5月15日にはそれまでの発表を撤回して「全乗組員に1人あたり鯨肉10kgを土産として配り、土産とした鯨肉の代金を(調査捕鯨の実施責任を持つ組織である)日本鯨類研究所に支払っている」と表明した。しかし、日本鯨類研究所の見解では「乗組員1人あたり数kg程度を渡している」としており、また調査捕鯨船運航会社からの乗組員用鯨肉土産代金として金銭を受領したとの認識は無く、双方の説明はなお一致していない[36]。

農林水産大臣・若林正俊は5月16日の閣議終了後の記者会見で、捕鯨船乗組員の鯨肉持ち出しについて、調査を実施して(慣例・慣習ではなく)明確な規則を定める必要があるとの考えを明らかにした[37]。現在の慣例では、捕鯨船乗組員は1人あたり10kgのクジラ肉を土産とすること、これに加えて3.2kgまでの購入が認められており、さらに他の乗組員が購入しなかった分を追加で購入することも認められている[38]。なお、調査団の乗組員は約250人おり[36]、土産だけで約2.5トン、別途購入の3.2キログラムを加えると、乗組員全体で最大約3.3トンの持ち帰りが慣例として認められてきたことになる。

脚注[編集]

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注釈[編集]

1.^ なお、同年11月のグリーンピース・インターナショナルの会議に参加したのは、カナダ・アメリカ・フランス・ドイツ・デンマーク・イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・オランダの9カ国のグループの代表だったとされる。
2.^ なお、グリーンピース・ジャパンによると、グドムンドソン氏は米国のクー・クラックス・クランなど極右勢力との繋がりが取りざたされる人物であり、裁判の結果彼はノルウェーでは名誉毀損でグリーンピースへ賠償金支払いを命じられ、ドイツ、ニュージーランドでは彼のドキュメントフィルムはオンエア禁止になっているとの事である。小学館「SAPIO」1995年5月24日号「「黒い献金」「やらせキャンペーン」・・・・・・なぜグリーンピースに疑惑が噴出するのか」
3.^ 当時のレート、1ドル=103円で計算
4.^ この航海に関して、ボブ・ハンター(Bob Hunter/ロバート・ハンター Robert Hunter)著『虹の戦士たち〜グリーンピース反核航海記』(原題は「Warriors of the Rainbow: A Chronicle of the Greenpeace Movement」)という本が社会思想社より出版されていたが、同社の解散により、現在(=2005年)は入手できない。
5.^ 創立メンバーの経歴や個々の思想については、前述「Warriors of the Rainbow: A Chronicle of the Greenpeace Movement」のほか、同一作者によって翌年に書かれた「The Greenpeace Chronicle」に詳しい。
6.^ ポール・ワトソンが一時期グリーンピースに所属していたことから、シーシェパードの行動のいくつかが日本国内ではグリーンピースの行動と混同されている。
7.^ サンデータイムズ・インサイトチーム著『虹の戦士号爆破事件:フランス情報機関の謀略』(原題は「Rainbow Warrior: the French attempt to sink Greenpeace」)社会思想社。またこの事件はさまざまな小説・映画などで扱われている。たとえば佐々木譲の「ネプチューンの迷宮」はこの事件を基とした爆破事件から話が始まっており、景山民夫の「遠い海から来たCOO」にも同様の逸話がある(なお、小説「遠い海から来たCOO」には「グリーンピース」という名の国際自然保護団体が登場するが、それは武器を携帯するような戦闘的な組織であり、実在するグリーンピースとは大きく食い違っている。そのためグリーンピースは「誤解を招く」として抗議しており、映画では別名に差し替えられている)。また、2005年に公開された映画「スパイ・バウンド」は、この爆破事件の指揮官としてオークランドに滞在していて逮捕されたフランス軍のドミニク・プリウール Dominique Prieur 大尉の手記が原作となっている。
8.^ その後、この鯨体はグリーンピースの手で日本大使館前からは運び去られたが、日本では一部で「大使館前に放置した」という誤解が発生していた。

出典[編集]

1.^ 浜野隆史『エコ・テロリズム―過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ 』洋泉社新書、2009年
2.^ Hsu, Spencer S. (2005年12月20日). “FBI Papers Show Terror Inquiries Into PETA; Other Groups Tracked”. The Washington Post 2013年1月31日閲覧。
3.^ Cloherty, Jack; Ryan, Jason (2010年9月20日). “FBI Spied on PETA, Greenpeace, anti-war activists”. ABC News 2013年1月31日閲覧。
4.^ グリーンピース 手段を選ばぬ「正義」とは(6月21日付・読売社説) - 読売新聞 2008年6月21日(2008年6月23日時点のアーカイブ)
5.^ 600 strip naked on glacier in global warming protest | Greenpeace International, August 18, 2007
6.^ カショーリ & ガスパリ 2008, p. 232
7.^ 中村政雄「グリーンピースと資金」、電気新聞2006年1月30日付「ウェーブ=時評」より。論者は元読売新聞論説委員。
8.^ Veja,1994,5/4,p.7-10,Andre Petry. カショーリ & ガスパリ 2008, p. 232
9.^ a b c d e f カショーリ & ガスパリ 2008
10.^ Der Spiegel,1991,9/16日号
11.^ Der Spiegel,1991,9/16日号。カショーリ & ガスパリ 2008
12.^ Studi Cattolici,1996年2月号,Paolo Pugni。カショーリ & ガスパリ 2008
13.^ Greenpeace policies cause deaths in Africa,Richard Tren[リンク切れ]。カショーリ & ガスパリ 2008
14.^ “「エコ・テロリズム」発言などに対し、グリーンピース、日本鯨類研究所へ正式抗議”. グリーンピース (2001年12月14日). 2006年11月16日閲覧。[リンク切れ]
15.^ 衆議院会議録情報 第125回国会 運輸委員会 第1号 国会会議録検索システム 1992年12月8日
16.^ 衝突ビデオ1(日本鯨類研究所が公開)
17.^ 衝突ビデオ2(日本鯨類研究所が公開)
18.^ 「週刊ポスト」1987年10月9日号
19.^ 告発レポート「奪われた鯨肉と信頼 ―『調査捕鯨母船・日新丸』での鯨肉横領行為の全貌」 2008年5月15日 (PDFファイル)
20.^ プレスリリース 調査捕鯨鯨肉、調査団による横領発覚 ― グリーンピース、証拠の鯨肉を持って東京地検に告発 2008年5月15日(2008年5月16日時点のウェブ魚拓)
21.^ 調査捕鯨に横領が発覚! 2008年05月14日 YouTube 投稿者:greenpeacejapan
22.^ 「横領は土産以外」と強調=調査船鯨肉持ち帰り−環境団体 時事通信 2008年5月16日 22:08[リンク切れ]
23.^ 朝日新聞社 (2010年4月25日). “捕鯨船員の鯨肉持ち帰り「不起訴相当」議決 検察審査会”. 2010年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月25日閲覧。
24.^ a b 告発レポート「奪われた鯨肉と信頼 ―『調査捕鯨母船・日新丸』での鯨肉横領行為の全貌」 (PDF) 2008年5月15日、グリーンピース・ジャパン
25.^ 調査捕鯨に横領が発覚! - YouTube・投稿者:greenpeacejapan
26.^ 西濃運輸が青森県警に被害届提出 時事通信 2008年5月16日13時32分配信[リンク切れ]
27.^ 青森県警が窃盗で捜査開始 報知新聞 2008年5月16日23時55分配信
28.^ 共同船舶も窃盗容疑で週明けにも告発を検討 産経新聞 2008年5月16日 20:00(2008年5月19日時点のアーカイブ)
29.^ 「横領は土産以外」と強調=調査船鯨肉持ち帰り−環境団体 時事通信 2008年5月16日 22:08[リンク切れ]
30.^ グリーンピース鯨肉窃盗、メンバー2人有罪判決(読売新聞 2010年9月6日)[リンク切れ]
31.^ ワシントン条約(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」)(CITES(サイテス): Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora) - 日本国外務省 平成20年3月(2008年)
32.^ 定置網に混獲されたひげ鯨等の取り扱いの手引き (PDFファイル) -
33.^ グリーンピース、調査捕鯨の鯨肉横流しを告発へ 2008年5月15日 JanJan(日本インターネット新聞社)(2011年1月5日時点のアーカイブ)
34.^ 衆議院会議録情報 第129回国会 環境委員会 第4号 平成6年6月3日(1994年)
35.^ 国際捕鯨取締条約 - 日本国外務省が提供する日本語訳。INTERNATIONAL CONVENTION FOR THE REGULATION OF WHALING - The Ministry of Foreign Affairs of Japan
36.^ a b 「土産ない」一転「10キロ無料で」 鯨肉疑惑で船会社 asahi.com (朝日新聞)2008年5月16日00時06分(2008年5月19日時点のアーカイブ)
37.^ 調査捕鯨:鯨肉持ち帰り「決まり必要」--若林農相 毎日jp (毎日新聞) 2008年5月16日 東京夕刊(2008年5月21日時点のアーカイブ)
38.^ 調査捕鯨:船から「鯨肉持ち出す」 環境団体、乗組員ら12人告発へ 毎日jp(毎日新聞) 2008年5月15日 東京夕刊(2008年5月19日時点のアーカイブ)

参考文献[編集]
リッカルド・カショーリ 『環境活動家のウソ八百』〈洋泉社新書〉、2008年。ISBN 978-4862483096。

プルトニウム

プルトニウム (羅: Plutonium) は原子番号94の元素である。元素記号は Pu。アクチノイド元素の一つ。



目次 [非表示]
1 概要
2 特性
3 利用
4 環境中・人体中のプルトニウム
5 化合物
6 同素体
7 同位体とその利用特性 7.1 核兵器原料としてのプルトニウム
7.2 原子炉

8 毒性 8.1 体内摂取の経路と排出
8.2 長期内部被曝は猛毒性との通説に疑義を提起する資料

9 臨界管理
10 余剰兵器の解体で発生するプルトニウム
11 規制
12 歴史
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク


概要[編集]

ウラン鉱石中にわずかに含まれていることが知られる以前は、完全な人工元素と考えられていた。超ウラン元素で、放射性元素である。プルトニウム239、プルトニウム241その他いくつかの同位体が存在している。半減期はプルトニウム239の場合約2万4000年(α崩壊による)。比重は19.8で、金属プルトニウムは、ニッケルに似た銀白色の光沢を持つ大変重い金属である(結晶構造は単斜晶)。融点は639.5 °C、沸点は3230 °C(沸点は若干異なる実験値あり)。硝酸や濃硫酸には不動態となり溶けない。塩酸や希硫酸などには溶ける。原子価は+3〜+6価(+4価が最も安定)。金属プルトニウムは、特に粉末状態において自然発火する事がある。塊の状態でも、湿気を含む大気中では自然発火する事があり、過去のプルトニウム事故の多くが、この自然発火の結果とされている。プルトニウムとその化合物は人体にとって非常に有害とされたが、化学的な毒性は他の一般的な重金属と同程度である[3]。またプルトニウムは放射性崩壊によってα線を放出するため、体内、特に肺に蓄積されると強い発癌性を示すとされている。

原子炉において、ウラン238が中性子を捕獲してウラン239となり、それがβ崩壊してネプツニウム239になり、更にそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は極微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長いプルトニウム244も極微量天然に存在する。なお、プルトニウム239およびプルトニウム240とそれらの放射壊変物の飛沫の吸引は WHO の下部機関 IARC より発癌性があると (Type1) 勧告されている。

プルトニウムは主に核兵器の原料や、プルサーマル発電におけるMOX燃料として使用される。人工衛星の電源として原子力電池として使用されたこともある。

特性[編集]

プルトニウムは金属状態では銀白色であるが、酸化された状態では黄褐色となる。金属プルトニウムは温度が上がると収縮する。また、低対称性構造を有するので、時間経過と共に次第にもろくなる。

α粒子の放出による熱のため、ある程度の量のプルトニウムは体温より暖かい。大きい量では水を沸騰させることもできる。

水溶液中では5種類のイオン価数を有する:
+III価 (Pu3+) - 青紫色
+IV価 (Pu4+) - 黄褐色
+V価 (PuO2+) - ピンク色と考えられている。+V価のイオンは溶液中では不安定で、Pu4+ と PuO2+ に不均化する。さらにその Pu4+ は PuO2+ を PuO22+ に酸化し、自身は Pu3+ になる。こうしてプルトニウムの水溶液は時間が経過すると Pu3+ と PuO22+ の混合物に変化する傾向がある。
+VI価 (PuO22+) - ピンク・オレンジ色
+VII価 (PuO52-) - 暗赤色のまれなイオンであり、極端に酸化性雰囲気下でのみ生成する。

Plutonium in solution.jpg

プルトニウム塩はさまざまな色を示す。

註:ここで示したプルトニウム溶液の色は、陰イオンの種類によりプルトニウムの錯体形成の度合いが変わるため、酸化状態のほか陰イオンにも依存する。

利用[編集]

同位体 239Pu は、核分裂の起きやすさと合成の容易さのため、現代の核兵器における主要な核分裂性物質である。中性子反射体のない球状プルトニウムの臨界量は16 kgだが、中性子を反射するタンパーを用いると核兵器中のプルトニウムピットは10 kg(直径10 cmの球に相当)まで減らすことができる。1 kgのプルトニウムが完全に反応したとすると、20キロトンの TNT 相当の爆発エネルギーを生むことができる。

239Pu がα崩壊すると 235U が崩壊生成物として生成される。235U も核分裂を起こしやすいが、親核種の 239Pu はより核分裂を起こしやすい。また、239Pu はアクチニウム系列に含まれている。

同位体 238Pu は半減期87年のα放射体である。これらの特性により、人間の寿命程度のタイムスケールで直接保守することなく機能する必要がある機器の電力源に適している。そのため、238Pu は原子力電池に利用され、宇宙探査機ガリレオやカッシーニの電源となる同位体電池にも用いられた。また、同様の技術が、アポロ月面探査計画における地震実験にも用いられている。

238Pu は人工心臓のペースメーカーの電源にも用いられ、手術を繰り返すリスクを避けるのに役立っていた。近年ではほとんどが一次電池であるヨウ化リチウムを用いているが、2003年時点では50から100個程度のプルトニウム電源のペースメーカーが患者に埋め込まれている。ただし、日本国内ではプルトニウム電源のペースメーカーは使用はもちろんの事、製造も禁止されている。日本では放射性同位体の規制に抵触するからである。

環境中・人体中のプルトニウム[編集]

大部分のプルトニウムは人工的に合成されるが、極めてわずかな痕跡量のプルトニウムがウラン鉱石中に自然に発生する。これらは、238U 原子核が中性子を捕獲して 239U になり、その後2回のβ崩壊により 239Pu に変化するためである。この過程は原子炉中でプルトニウムを生産するのと同様である。

痕跡量の 244Pu が、超新星爆発から太陽系の誕生以来残っている。この核種の半減期が相当に長い(8千万年)からである。

1972年にガボン共和国オクロにある天然原子炉で比較的高濃度の天然プルトニウムが発見された。

1945年以来、約10トンのプルトニウムが、核実験を通じて地球上に放出された。核実験のフォールアウトのために、既に世界中の人体中に1-2 pCi (0.037-0.074 Bq) のプルトニウムが含まれている[4]。フォールアウト起源のプルトニウムが地表面の土壌に0.01-0.1 pCi/g (0.37-3.7 Bq/kg) 存在する[5]。このほか、原子力施設等の事故や、再処理工場からの排出[6]により、局地的な汚染が存在する。

環境中のプルトニウムはほとんど酸化プルトニウム(IV)の形で存在しているが、これは非常に水に溶けにくい[7]。1000万立方メートルの純水にプルトニウム原子1個が溶ける程度であるといわれている。

いったん高温で焼き締めた酸化プルトニウム(IV)は硝酸にも難溶となるが、フッ化水素酸を加えると溶ける[8]。

化合物[編集]

プルトニウムは酸素と容易に反応し、PuO、PuO2 となる。また、その中間の酸化物も生成する。また、ハロゲンとも反応し、PuX3 の形の化合物を作る。PuF4 および PuF6 も見られる。PuOCl、PuOBr および PuOI のようなハロゲン化酸化物も確認されている。

炭素と反応して PuC、窒素と反応して PuN、またケイ素と反応して PuSi2 を形成する。

プルトニウムは他のアクチノイド元素と同様、酸化プルトニウム(IV) PuO2 を形成するが、 自然環境中では炭酸など酸素を含むイオン (OH-, NO2-, NO3-, SO42-) と電荷のある錯体を作る。 こうしてできた錯体は土との親和性が低く容易に移動する:
PuO2(CO3)2-
PuO2(CO3)24-
PuO2(CO3)36-

強い硝酸酸性溶液を中和して作った PuO2 は、錯体にならない PuO2 重合体を生成しやすい。プルトニウムはまた価数が+3〜+6価の間で変化しやすい。ある溶液のなかでこれら全ての価数で平衡して存在することも珍しくない。

同素体[編集]

常圧下でもプルトニウムはさまざまな同素体を持つ。これらの同素体は、結晶構造や密度が大きく異なる。α相とδ相では密度は25 %以上も違う。

さまざまな同素体を持つということが、プルトニウムの機械加工を非常に難しいものにしている。相が非常に容易に変わってしまうからである。このような複雑な相変化をする理由は完全には解明されていない。最近の研究では、相変化の精密なコンピュータモデルが着目されている。

兵器への利用においては、相の安定性を増し作業性と取り扱いを容易にする狙いで、プルトニウムはしばしばほかの金属と合金にして用いられる。例えば、δ相に数%のガリウムを加えるなど。核分裂兵器においては、プルトニウムのコアを爆縮するための爆発の衝撃波も相変化の原因になる。このとき通常のδ相からより密度の高いα相に変化するので、超臨界状態[9]を達成するのに大いに助けになる。

同位体とその利用特性[編集]

詳細は「プルトニウムの同位体」を参照

人類の利用の観点で重要な同位体は 239Pu(核兵器と原子炉燃料に適)および 238Pu(原子力電池に適)である。これらは遅発中性子による臨界量を制御が可能である。一方、同位体 240Pu は、239Pu が中性子に照射されると発生するが、この核種は非常に容易に自発核分裂を起こす。このため240Pu が核兵器で使用されるプルトニウム中での不純物として重篤な役割を果たす。240Pu は自発核分裂により中性子をランダムに放出するため、計画的な瞬間に正確に連鎖反応を始める制御ができない。つまり爆弾の信頼度および出力を減少させてしまう。

核兵器原料としてのプルトニウム[編集]

239Pu の中に不純物として20 % 240Pu が含まれると、インプロージョン型核兵器の中で分裂連鎖反応が受容しがたいほど早く始まり、その材料がほとんど核分裂しない間にその兵器をばらばらに吹き飛ばしてしまう(過早爆発)。ガンバレル型の場合は 240Pu 混入1 %前後で過早爆発が起きる。この 240Pu の混入が避けられないことが、プルトニウム武器ではインプロージョン方式の設計にしなければならない理由である。理論的には100 %純粋な 239Pu ならばガンバレル型装置を構築することができるかもしれないが、このレベルの純度は現実には達成し得ないほど困難である。インプロージョン型核兵器であっても240Pu 10 %以下にせねばならず、軽水炉ではそれが達成困難なので、核兵器製造には黒鉛炉が使用される。

なお 240Pu の混入課題は核兵器開発において二つの側面をもつ。一つは混入のためにインプロージョン技術を開発する必要が生じ、マンハッタン・プロジェクトに遅れと障害をもたらした。もう一つは同じくその障害は現在では核拡散に対する障壁になった。なお 239Pu の同位対比が約90 %を越えるプルトニウムは兵器級プルトニウム(英語版)と呼び、1972年に機密指定が解除された資料である「WASH-1037 Revised An Introduction to Nuclear Weapons」に基づくと、兵器級プルトニウムは三つの等級に分けられている。


等級

238Pu

239Pu

240Pu

241Pu

242Pu

Hanford 0.05 %以下 93.17 % 6.28 % 1.54 % 0.05 %以下
Savanna 0.05 %以下 92.99 % 6.13 % 0.86 % 0.05 %以下
Rocky Flats Soil 極微量 93.6 % 5.8 % 0.6 % 極微量

原子炉[編集]

一般的な商用原子炉である軽水炉から得られたプルトニウムは少なくとも20 %の 240Pu を含んでおり、原子炉級プルトニウムと呼ばれる。

原子炉級プルトニウムでも核兵器の製造は可能であるが[10]、不安定な原子炉級プルトニウムでは爆発装置の製造が兵器級プルトニウムに比べて困難であり、兵器としての信頼性にも欠けるため、わざわざ原子炉級プルトニウムで核兵器を作るメリットはほとんどない[11][12]。 だが、原子炉級プルトニウムを高速増殖炉(日本には、常陽ともんじゅがある)に装填して原子炉の運転をすると、その炉心の周囲にあるブランケットという部分で高純度の兵器級プルトニウムが産出される。これまでに、常陽のブランケットには、239Pu 同位体純度99.36 %のプルトニウムが22 kg、もんじゅのブランケットには、97.5 %のプルトニウムが62 kg含まれている。これを再処理工場で取り出すだけで原子爆弾30発以上を製造できる量になるとの主張もある[13] 。

毒性[編集]

プルトニウムの同位体および化合物はすべて放射性物質である。化学毒性についてはウランに準ずると考えられている[14]。しかし、その化学毒性が現れるよりもはるかに少ない量で放射線障害が生じると予想されるため、化学毒性のみでプルトニウムの毒性を論ずることはできない[15][16]。

プルトニウムの急性毒性による半数致死量は経口摂取で32 g、吸入摂取で13 mg[16][17]。長期的影響の観点では経口摂取で1150 mg、吸入摂取で0.26 mg(潜伏期間として15年以上)[18][19]である。また、プルトニウム239の年摂取限度(1 mSv/年)は、経口摂取で48 μg (11万 Bq) 、呼吸器への吸入では52 ng (120 Bq) である[20](1 ng(ナノグラム)は 0.000000001 g(グラム))。

プルトニウムは人類が初めて作り出した人工核種である[20]。小出裕章は、α線源であるため放射線荷重係数が大きいこと、同じα線源である天然核種のウランなどと比べ半減期が短いため比放射能が高いこと、体内での代謝挙動(肺での不均等被曝は、発ガン性が極端に高くなる)の3点から「かつて人類が遭遇した物質のうちでも最高の毒性をもつ」と報告している[20]。 また、α線は鉛遮閉の相対的有効性が低い。このため0.1mm厚の鉛と0.1mm厚の紙の遮閉効率がほとんど変わらない。ごく低線量のα線は鉛シートや紙で遮蔽できるが、線量が大きくなると有効な遮閉手段が存在しない、このため、フランスのプルトニウム再処理工場では、数キロ離れた操作室から超遠隔操作によりα線を遮閉している(α線の減衰曲線は距離の二乗に反比例する)。プルトニウムの有害性は、体内に取り込んだ場合の内部被曝には特に留意すべきである。

人体有害性の計算については次節:体内摂取の経路と排出も参照のこと。ICRP勧告による限りでは、人体影響は大きい(Bqをsvに変換する際の線量係数が高い)と定義されている。

体内摂取の経路と排出[編集]

プルトニウムを嚥下し消化管に入った場合、そのおよそ0.05 %程度が吸収され、残りは排泄される[21]。吸収された微量のプルトニウムは骨と肝臓にほぼ半々の割合で蓄積され、体外へは排出されにくい。生物学的半減期(体内総量が当初の半分になるまでの期間)はウランやラジウムと比べても非常に長く、一説には骨に50年程度、肝臓に20年程度と言われる[22][23]。放射線有害性は全てのα線源核種と同じであり、Puのみが特別というものでは無い。

最も有害な取り込み経路は、空気中に浮遊するプルトニウム化合物粒子の吸入である。気道から吸入された微粒子は、大部分が気道の粘液によって食道へ送り出されるが、残り(4分の1程度)が肺に沈着する。沈着した粒子は肺に留まるか、胸のリンパ節に取り込まれるか、あるいは血管を経由して骨と肝臓に沈着する[18][19]。そのため、他のα線・β線放射物質による内部被曝と同様に、IARC より発癌性があると (Type1) 勧告されている。また、動物実験では発癌性が認められているが、人においてはプルトニウムが原因で発癌したと科学的に判断された例はまだない[16]。α線源であるため、ICRPが定める線量係数[24][25]では 239Pu の経口摂取で2.5 × 10-7、吸入摂取で1.2 × 10-4と定められ、131I(経口摂取2.2 × 10-8)や 137Cs(経口摂取1.3 × 10-8)よりも1 Bq当たりの人体への影響が大きいと想定されている(一般には、α線はβ線よりも20倍の危険性があるとされている)。

長期内部被曝は猛毒性との通説に疑義を提起する資料[編集]

「マンハッタン計画」、「ロスアラモス」、「ロッキーフラッツ」、および「ハンフォード」も参照

ATOMICA によると、米国での1974年までのデータとして、最大許容身体負荷量 (1.5kBq) の10-50 %摂取した例が1155例、同50 %以上が158例ある。このうち代表的な2例(世界大戦における原爆製造工場、冷戦期の兵器工場火災、でのPu含有ガス吸引)において、24年経過後で肺ガン『致死』は1名、42年経過後の『発症』では肺ガン3例と骨肉腫1例であった。これは被曝のない通常のグループよりも発生率が低い。ただ発症までの潜伏期が40-50年と長年であり、調査対象者も高齢化しており、疑わしい疾病を発症してもプルトニウムを病原と断定しにくいのも事実である。[19][26][27]

臨界管理[編集]





科学者2人の命を奪ったデーモン・コア
プルトニウムの臨界量はウラン235の3分の1しかないので、臨界量に近い量のプルトニウムが蓄積しないように注意しなければならない。形状が重要である。すなわち球体のようなコンパクトな形にしてはならないのである。溶液状のプルトニウムは固体より少ない量で臨界量に達する。それが単に溶けるか破片になるのではなく爆発するためには超臨界を大きく越える量を必要とするので、兵器級の核爆発は偶然に生じることは有りえない。しかしながら、ひとたび臨界量に達すれば致死量の放射線が発生する。

臨界事故は過去に何度か起きており、それらのうちのいくつかで死者を出している。核開発の草創期の事故として著名なのが、いわゆる「デーモン・コア」の事例である。1945年8月21日、ロスアラモス国立研究所で致死量の放射線を発生させた事故は、6.2 kgの球状プルトニウムを囲んだ炭化タングステンレンガの不注意な取り扱いに起因していた。このとき科学者ハリー・ダリアンは推定510 rem (5.1 Sv) の被曝をし4週間後に死亡した。その9か月後に、別のロスアラモスの科学者ルイス・スローティンは、ベリリウムの反射材、および以前にダリアンの生命を奪ったのとまさに同じプルトニウムコアによる同様の事故で死亡した。二人の科学者の命を奪ったプルトニウムコアは「デーモン・コア」と名づけられた。これらの出来事は、1989年の映画「シャドー・メーカーズ」でかなり正確に描写された。1958年には、ロスアラモスのプルトニウム精製工程で、混合容器の中で臨界量が形成され、クレーン操作員が死亡した。この種の事故が、ソ連等の国で起こった(詳しくは原子力事故を参照)。1986年のチェルノブイリの事故は、大量のプルトニウムの放出を引き起こした。

さらには、金属プルトニウムには発火の危険がある。特に素材が微粒子に分割されている場合が危険である。金属プルトニウムは酸素および水と反応し、水素化プルトニウム、ピロリン酸化合物が蓄積する可能性があり、これらは室温の空気中で発火する物質である。プルトニウムが酸化してその容器を壊すとともに、プルトニウムが相当に拡散する。燃えている物質の放射能は危険性が増す。酸化マグネシウムの砂は、プルトニウム火災を消火するための最も有効な素材である。それはヒートシンクとして働き燃えている物質を冷やし、同時に酸素を遮断する。

1969年にコロラド州ボルダーの近くにあるロッキーフラッツ工場でプルトニウムが主な発火源になった火災があった[28]。これらの問題を回避するために、どんな形態であれプルトニウムを保管・取り扱う場合は特別の警戒が必要である。一般的に、乾燥した不活性ガスが必要である[29]。

余剰兵器の解体で発生するプルトニウム[編集]

ラジウムあるいは炭素14のような自然に生じる放射性同位体とは対照的に、プルトニウムは冷戦中に兵器製造のために大量に(数百トン)濃縮・製造・分離されたことは注目すべきである。1944年から1994年までの期間にアメリカ合衆国だけで、110トンのプルトニウムを分離し、今なお100トンを保有している。化学兵器、生物兵器と異なり、化学過程ではそれらを破壊することができないので、これらの備蓄は、武器形式であるかどうかに関わらず重大な問題を提起する。余剰の兵器級プルトニウムを処分する1つの提案はそれを高レベルの放射性同位体(例えば使用済み原子炉燃料)と混合することである。こうして潜在的な盗取、あるいはテロリストによる取り扱いを防止する。別の手段としては、ウランとそれを混合し原子炉用燃料(混合酸化物すなわちMOXアプローチ)として消費することである。これは 239Pu の多くを核分裂により破壊するだけでなく、残りのかなりの部分を核兵器としては役立たない 240Pu およびより重い同位体に変化させることができる[30]。

規制[編集]

日本では、プルトニウムの全ての同位体は 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律 で、その保管、取り扱いを規制されているとともに、 外国為替法 の中で国際規制物資として輸出入が規制されている。

歴史[編集]

最初はウォルター・ラッセルによって存在が予想されていたが、ウラン238に中性子を照射してプルトニウムとネプツニウムを合成することは、1940年に二つのチームが互いに独立に予想した。カリフォルニア大学バークレー放射線研究所のエドウィン・M・マクミランとフィリップ・アベルソン、そしてケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のノーマン・フェザーとイーゴン・ブレッチャーだった。偶然にも、両チームともが、外惑星の並びに似せて、ウランに続く同じ名前を提案していた。

最初に合成・分離したのは1941年2月23日、アメリカの化学者グレン・セオドア・シーボーグ、エドウィン・M・マクミラン、J・W・ケネディー、およびA・C・ワールで、バークレーの60インチサイクロトロンを使ってウランに重水素を衝突させる方法によって合成されたプルトニウム238である。この発見は戦時下だったため秘匿された。原子番号92のウラン、93のネプツニウムがそれぞれ太陽系の惑星の天王星、海王星にちなんで命名されていたため、これに倣って当時海王星の次の惑星と考えられていた冥王星 pluto から命名された。シーボーグは冗談で元素記号として「糞」を意味する俗語 poo に通じる Pu の文字を選んだが、特に問題にならずに周期表に採用された。マンハッタン計画で、最初のプルトニウム生産炉がオークリッジに建設された。後にプルトニウム生産のための大型の炉がワシントン州ハンフォードに建造されたが、このプルトニウムは最初の原子爆弾に使用され、ニューメキシコ州ホワイトサンドのトリニティー実験場で核実験に使われた。また、ここのプルトニウムがプルトニウムの発見からわずか5年後、第二次世界大戦末の1945年、原子爆弾ファットマンとして長崎市に投下された。

冷戦時代を通じて、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の双方で厖大な量のプルトニウムの備蓄が行われた。1982年までに推定300トンのプルトニウムが蓄積された。冷戦の終了とともに、こうしたプルトニウムの備蓄が、核拡散の恐れの焦点となった。2002年にアメリカ合衆国エネルギー省は、同国防省から34トンの余剰の兵器級プルトニウムの所有権を譲り受けた。2003年初頭の時点で、合衆国内にあるいくつかの原子力発電所において、プルトニウムの在庫を焼却する手段として濃縮ウラン燃料からMOX燃料へ転換することを検討している。

プルトニウムが発見されてから数年の間、その生物学的・物理的特性はほとんど知られていなかった。そこで、合衆国政府およびその代理として活動する私的組織によって一連の放射線人体実験が行われた。第二次世界大戦の間から戦後に渡り、マンハッタン計画やその他の核兵器研究プロジェクトに従事した科学者が、実験動物や人体へのプルトニウムの影響を調べる研究を行った。人体に関しては、末期患者あるいは高齢や慢性病のため余命10年未満の入院患者に対し、(典型的には)5 μgのプルトニウムを含む溶液を注射することにより実施された。この注射は、こうした患者のインフォームド・コンセント無しに行われた[31]。

参考文献[編集]

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1.^ Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.
2.^ BNL-NCS 51363, vol. II (1981), pages 835ff
3.^ http://www2.qe.eng.hokudai.ac.jp/nuclear-accident/radio_act/pdf/Q_and_A-25-detail.pdf 北海道大学 工学研究院
4.^ National Academy of Sciences, Committee on International Security and Arms Control (1994). Management and Disposition of Excess Weapons Plutonium.
5.^ 松岡理 「Plutonium」1993年1月第一号 原子燃料政策委員会発行
6.^ 今中哲二「セラフィールド再処理工場からの放射能放出と白血病」 原子力資料情報室通信369号、2005/3/1
7.^ Human Health Fact Sheet アルゴンヌ国立研究所 2001年10月
8.^ The Chemistry of Actinide Elements Argonne National Laboratory
9.^ 物性物理学における超臨界とは意味が異なることに注意。原子炉工学でいうこちらは核分裂連鎖反応が時間とともに増加することを意味する。
10.^ 「使用済み核燃料から核兵器できる? 製造可能、米は実験成功」日本経済新聞2013年11月10日15面。実験成功は1962年、秘密解除は1977年7月。
11.^ プルトニウムを入手しなくても原子炉さえあれば核燃料から作ることができるので、核兵器を持ちたい世界各国にメリットがある。
12.^ ただし、このことをもって原子炉級プルトニウムでは核兵器の製造が不可能であることを意味するわけではない日本の原発で核兵器製造可能 77年に米が見解 日本経済新聞電子版 2013年10月30日 10:00
13.^ 槌田敦「日本核武装によるアジア核戦争の恐怖」、核開発に反対する物理研究者の会通信、第42号、2006年12月
14.^ Lawrence Livermore National Laboratory (2006). Scientists resolve 60-year-old plutonium questions. Retrieved on 2006-06-06. http://www.sciencedaily.com/releases/2006/06/060607084030.htm
15.^ 長崎県原爆被爆者対策課発行 放射能Q&A http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/renew/information/interna_heal_j/a7.html
16.^ a b c プルトニウムの人体影響 : 高等学校 : あとみん-原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト
17.^ 相次ぐヨウ素やプルトニウム検出―我々の生活はどのぐらい危険か - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版
18.^ a b 松岡理 「プルトニウム物語」
19.^ a b c プルトニウムの毒性と取扱い (原子力百科事典 ATOMICA)
20.^ a b c 京都大学 原子炉実験所 小出 裕章 プルトニウムという放射能とその被曝の特徴 2006年7月15日
21.^ Human Health Fact Sheet アルゴンヌ国立研究所 2001年10月
22.^ 原子力安全委員会資料 原子力安全白書
23.^ 20 years for liver and 50 years for skeleton アイダホ大学
24.^ 実効線量係数
25.^ 内部被ばくに関する線量換算係数 (財)原子力安全研究協会
26.^ プルトニウムの被ばく事故
27.^ あとみん (3)発がん性
28.^ Crooks, William J. (2002). Nuclear Criticality Safety Engineering Training Module 10 - Criticality Safety in Material Processing Operations, Part 1. Retrieved on 2006-02-15.
29.^ Matlack, George: A Plutonium Primer: An Introduction to Plutonium Chemistry and It's Radioactivity (LA-UR-02-6594)
30.^ National Academy of Sciences, Committee on International Security and Arms Control (1994). Management and Disposition of Excess Weapons Plutonium.
31.^ Eileen Welsome, The Plutonium Files: America's Secret Medical Experiments in the Cold War (邦訳 プルトニウムファイル〈上〉〈下〉)

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、プルトニウムに関連するメディアがあります。
グリーンピース
原子爆弾
原子力電池
原子炉
グレン・シーボーグ
エミリオ・セグレ
転換炉
プルサーマル
爆縮レンズ
プルトニウム物語 頼れる仲間プルト君

ネプツニウム

ネプツニウム (英: neptunium) は原子番号93の元素。元素記号は Np。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。銀白色の金属で、展性、延性に富んでいる。常温、常圧での安定な結晶構造は斜方晶系。280 °C付近から正方晶系となり、更に580 °C付近より体心立方構造 (BCC) が安定となる。比重は20.45、融点は640 °C、沸点は3900 °C。原子価は+3〜+7価(+5価が安定)。

ネプツニウム239の半減期は2.4日。ウラン238は天然にも存在するので、ネプツニウム239、プルトニウム239は天然にもごく僅かに存在する。他にネプツニウム236(半減期15.4万年)、ネプツニウム237(半減期214万年)などがある。

ネプツニウム237はネプツニウム系列(ネプツニウム237からタリウム205までの崩壊過程の系列)の親核種である。この系列の元素で半減期が一番長いネプツニウム237でも半減期が214万年しかないため、この系列は通常は天然には存在しないが、最終系列核種のビスマス、タリウムはごく普遍的に天然に存在する。また、ウラン鉱の中から極微量のネプツニウムが核種崩壊の際の副産物としてしばしば発見される。



目次 [非表示]
1 歴史
2 特徴
3 用途 3.1 核兵器の製造

4 発生
5 同位体
6 ネプツニウムの化合物
7 出典
8 関連項目


歴史[編集]

1940年、マクミラン、アベルソン(アーベルソン)がウラン238に中性子を当てて、ネプツニウム239を作った[3](人工的に作られた最初の超ウラン元素)。海王星の neptune が語源[3]。

特徴[編集]

ネプツニウムは外観は銀のようで、ほかの元素と活発に化学反応を起こす。 また、ネプツニウムは温度によって結晶構造が異なる。
αネプツニウム280 °C以下の状態のネプツニウムで、斜方晶系である。密度は20250 kg/m3βネプツニウム280 °C以上577 °C以下の状態のネプツニウムで、正方晶系である。密度は19360 kg/m3γネプツニウム577 °C以上の状態のネプツニウムで、立方晶系である。密度は18000 kg/m3
また、ネプツニウムは四つの酸化状態が存在する。
Np3+淡い紫色をしており、Pm3+ に類似している。Np4+黄緑色をしており、Pm4+ に類似している。
用途[編集]

ネプツニウムはプルトニウム238製造の際に用いられる。

また、ネプツニウムは、燃えないウラン238が中性子を浴びて原子力発電等に使用されるプルトニウム239に「中性子捕獲核種変換」する中間生成物でもある。(高速増殖炉のブランケットで劣化ウランをプルトニウムに変えるのがこの反応である)
ウラン238+中性子 → ウラン239 → β崩壊 → ネプツニウム239 → ベータ崩壊 → プルトニウム239。「ウラン238+中性子 → ウラン239 → β崩壊 → ネプツニウム239」の部分は中性子捕獲反応。
なお、アイソトープ電池に使用されるプルトニウム238はウラン238の (d,2n) 反応でネプツニウム238を作ることで生産されている。

核兵器の製造[編集]

ネプツニウムは核分裂性で、理論上、原子力燃料として使用することができる。1992年には、アメリカのエネルギー省がネプツニウム237が「核起爆装置のために使用できる。」という機密扱いの事項を解禁した。

しかし、ネプツニウムは現在、核兵器製造には利用されていない。

発生[編集]

ネプツニウムはウラン鉱の中から極微量見つかる。

ネプツニウム237はプルトニウム生産の際の副産物としてしばしば発見される。

同位体[編集]

詳細は「ネプツニウムの同位体」を参照

ネプツニウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性同位体である。ネプツニウムには19の同位体が存在し、質量範囲はネプツニウム225からネプツニウム244まで及ぶ。比較的安定している同位体は214万年の半減期を持つネプツニウム237、15万4000年の半減期を持つネプツニウム236、396日の半減期を持つネプツニウム235が存在する。残りの同位体は4.5日未満の半減期を持っており、また大多数これらの同位体のほとんどが50分未満の半減期を持っている。また、ネプツニウムには4つの核異性体の同位体が存在し、もっとも長い半減期を持つのは 236mNp で22.5時間の半減期を持っている。

ネプツニウムの化合物[編集]
ネプツニル(V)イオン (NpO2+) - 青緑色をしている。
ネプツニル(VI)イオン (NpO22+) - 淡いピンク色をしている。
酸化ネプツニウム(IV) (NpO2) - 緑色の結晶である。
八酸化三ネプツニウム (Np3O8)

このような化合物は土の中やウラン鉱の中に極微量含まれている。

出典[編集]

1.^ Criticality of a 237Np Sphere
2.^ Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.
3.^ a b 桜井 弘 『元素111の新知識』 講談社、1998年、379〜380頁。ISBN 4-06-257192-7。

ウラン

ウラン(独: Uran, 新ラテン語: uranium[3])とは、原子番号92の元素。元素記号は U。ウラニウムの名でも知られるが、これは金属元素を意味するラテン語の派生名詞中性語尾 -ium を付けた形である。なお、ウランという名称は、同時期に発見された天王星 (Uranus) の名に由来している。



目次 [非表示]
1 概要
2 性質
3 歴史
4 生産
5 用途
6 ウランの化合物
7 同位体
8 その他
9 関連項目
10 注釈
11 出典
12 関連項目


概要[編集]

ウランは、アクチノイドに属する元素の一つである。現在の地球上に天然に存在している元素のうち、大量に存在しているものとしては、ウランが最も原子番号が大きく[4]、また最も原子量も大きい元素である。元々、ウランが地球上で天然に存在している元素としては、最も原子番号が大きいとされていたが、1951年にネプツニウムが、1952年にプルトニウムが、それぞれウラン鉱石中にごくごくわずかに含まれていることが発見された[5]。既述の通りウランの原子番号は92であるが、ウランは原子半径も大きいため、その比重(密度)は、原子番号77番付近のオスミウムやイリジウムや白金などよりも小さい。(室温付近で、ウランが1cm3当り19g程度であるのに対し、オスミウムとイリジウムが22.5g程度、白金が21.5g程度である[注釈 1]。)ウランには幾つもの同位体が知られているが、その全ての同位体が放射性核種であり(一つも安定核種が存在せず)[6]、地球上では安定して存在し続けられない元素であることが知られている。しかし、ウランの同位体の中には半減期が長い(寿命が長い)同位体も存在する。特に長いのは、ウラン238(半減期は約44億6800万年)と、ウラン235(半減期は約7億380万年)である[7]。このように半減期の長い放射性核種は、ウランに限らず、現在の地球にも天然の放射性物質として存在している。ウランの場合、現在の地球に天然に存在しているのは、ウラン238(現在の地球ではウランの約99.274%を占めている)、ウラン235(現在の地球ではウランの約0.7204%を占めている)、ウラン234(現在の地球ではウランの約0.0054%を占めている)の3種の同位体である[8][注釈 2]。このうちウラン238とウラン235は、半減期が長い(寿命が長い)ために現在の地球に存在している。(なお、ウラン238の割合が多いのは、ウラン238の半減期が一番長いことが関係している。)これに対してウラン234の半減期は、たったの約24万5500年程度でしかないにもかかわらず、現在の地球に存在している[9]。ウラン234が現在の地球に存在していられる理由は、ウラン238が鉛206に変化する過程(ウラン系列)に、このウラン234が属しているからだ。ウラン238が1回のα崩壊と2回のβ崩壊をすることで、このウラン234になるため、ウラン238が存在する限り、ウラン234も無くならない(ウラン234が崩壊しても新たに補充される)のである。なお、このようにウランの同位体は半減期がまちまちなので、地球上のウランの同位体の存在比は、少しずつ変化している。

ウランは、地球の地殻中や海水中に微量ながら広く分布している元素として知られている。ただし、地球上でウランは安定して存在し続けられないため、その存在量は減り続けている。現在の地球の地殻におけるウランの濃度は、地殻1g中に2.4μg程度であると考えられている[10]。(異なる推定値もある。)同じく、現在の地球の海におけるウランの濃度は、海水1リットル中に3.2μg[11]〜3.3μg[10]程度である。海水中の場合、ウランは海の表層から深層まで、ほぼ一様な濃度で存在している[11]。これに対して地中の場合、地球表層部(地殻中)のウランの濃度が高く、地球深部のウランの濃度は低いと考えられている。その根拠は、もし地中全体に1g中に2.4μgの濃度でウランが存在していた場合、ウランがα崩壊する時に放出される熱によって、地球は加熱されて温度が上昇していると見積もられているが、実際にそのような温度上昇は観測されていないことにある[10]。地球におけるウランは、その存在量のほとんど(約1017kg)が、地殻の表層付近(地表から20km以内)に存在していると言われている[10]。このように地球では表層付近に濃縮されているのは、ウランが不適合元素だからと説明される。なお、現在の太陽系におけるウランの原子の数の比は、珪素を1.00×106とした時、ウランは0.009であると推定されている[12]。

ウランは核燃料としても知られ、核兵器に使用できることでも知られている。これはウランに核分裂を起こさせることで、エネルギーを取り出しているのである。ただし、これらの用途に使用できるのは、現在の地球上に一番多く存在するウラン238ではなく、次に存在量が多いウラン235である。このウラン235は、唯一天然に産出する核分裂核種として知られ、原子力の分野では重要視されている。このため、しばしばウラン235を濃縮するという作業が行われている。なお、この作業の結果に生ずる、ほぼウラン238だけになった放射性廃棄物を、劣化ウランと呼ぶ。

他、一般的な重金属と同様に、ウランの場合も生体内に取り込まれると化学的な毒性を発揮するが、それに加えてウランは放射能を持つため内部被曝の原因ともなる。また、メカニズムは不明だが、ヒトの場合、特に腎臓がダメージを受けることで知られている。

性質[編集]





イエローケーキ
ウランの単体は、銀白色の金属である。常温常圧での安定構造は斜方晶構造(α型)であるが、668 °Cで正方晶構造(β型)へ、775 °Cで立方晶構造(γ型)へ相転移する。比重19.05 (25 °C)、融点1132 °C、沸点3745 °C。ウラン単体は、反応性が高く、粉末を空気中に放置すると、空気中の酸素によって発火する。またウラン単体を水に投入すると、ウランは水から酸素を奪って、水素ガスが発生する。ウラン化合物の原子価は+2価から+6価をとり得る。このうち、一般に+6価が最も安定である。これに対し、+2価と+5価は特に不安定であり、特殊な条件でないと存在できない。+4価は硝酸水溶液および酸化物等では安定な価数であり、水溶液にしたときには緑色になる。+3価の水溶液は赤紫色となるが安定せずに、水を還元して水素を発生させながら+4価に変化するため、色も緑色に変化する。+6価は水溶液中でも安定であり、ウラニルイオン (UO22+) となって、水溶液は黄色を呈する。水溶液に限らず、+6価のウランは一般に黄色を呈するため、イエローケーキと呼ばれる。なお、ウランのハロゲン化物は+3価から+6価までをとり得るが、これらは揮発性であることが知られており、その蒸気圧は、+3価が一番小さく、+4価、+5価、+6価と大きくなる傾向にある。

歴史[編集]

酸化ウランの利用は紀元後79年にさかのぼる。イタリアのナポリ付近で製造されていたガラスには1%程度の酸化ウランが着色剤として混合されており、黄色-緑色の美しい色彩を有していた。19世紀にこのガラス製品が再発見された時点ではウラン源としてはボヘミアのハプスブルク銀鉱のみが知られており、ナポリのガラス工は成分を秘密にしていた。

元素としてのウランはドイツのマルティン・ハインリヒ・クラプロート (M. H. Klaproth) が1789年に閃ウラン鉱から発見した。1781年にウィリアム・ハーシェルにより発見された天王星 (uranus) が語源となっている。クラプロートは、閃ウラン鉱から分離した酸化物を炭素で還元して金属光沢を持つ黒色粉末を分離。この物質を金属ウランと発表したが、これは後に二酸化ウラン (UO2) だったと判明した[13]。1841年にウジェーヌ=メルキオール・ペリゴーが塩化物をカリウムで還元することにより初めて金属単体として分離に成功し、1850年にはイギリスでもガラスの着色剤としての利用が始まった。

ウラン鉱物が放射線を発していることは、1896年にフランスのアンリ・ベクレルによって発見された[10]。光が当らないようにした(黒い紙で包んだ)写真乾板を、ウラン鉱物のそばに置いておくと、その乾板が感光したのである。2年後の1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻によってチェコスロバキアのヨアヒムスタール鉱山で得たウラン鉱石からラジウムとポロニウムの抽出に成功し、自然に放射性壊変を起こす元素の存在が世界で初めて証明された。

ウランは発見当初は最も原子番号の大きな元素であったが、1940年、ウランに中性子線を照射することで、原子番号のより大きな超ウラン元素であるネプツニウムとプルトニウムが発見された。その後は地上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素と見做されていたが、1951年にネプツニウム、1952年にプルトニウムが、ウラン鉱石の中からごく微量に検出されたことで、ウランは地球上に天然に存在する最も原子番号の大きな元素の座を譲った。ただし、それらは本当に微量しか存在せず、あくまでウランが宇宙線などが原因で発生する中性子線を吸収した結果、生じているに過ぎないと考えられている。(もし、地球誕生時にネプツニウムやプルトニウムが存在していたとしても、これらの元素は半減期が短過ぎるために、現在まで存在し続けているとは考えにくい。ウラン234のように、新たに生成され続けていると考えられる。)また、ネプツニウムよりも原子番号の大きな元素が超ウラン元素としてウランよりも軽い元素とは区別されるのは、2012年現在でも変わっていない。

生産[編集]

ウランは地殻や海水中に微量ながら広く分布している元素であり、存在量はスズと同程度である[14]。

現在までに知られているウランの70%はオーストラリアに埋蔵されており、なかでもオーストラリア南部のオリンピックダム鉱山が世界最大とされる。一方、輸出量としてはカナダが世界最大で、サスカチュワン州とアルバータ州の北部にまたがるアサバスカ堆積盆地で高品質のウランが産出されている。他、ウラン鉱山としては、ユーラシア大陸にカザフスタンのハラサン鉱山 (Kharasan)、Inkai鉱山、Akdala鉱山、Irkol鉱山などがあり、アフリカ大陸にコンゴ民主共和国のシンコロブエ鉱山やニジェールのアクータ鉱山などがある。日本では岡山県・鳥取県の人形峠の鉱床が古くから知られており、岐阜県土岐市の東濃鉱山も核燃料鉱床として採掘の対象となったことがある。しかし両者とも採算の合う埋蔵量ではなかったため、稼動することのないまま閉山となった。

詳細は「天然ウラン」を参照

用途[編集]
核反応物質としての利用
ウランの多くは核燃料として原子力発電に利用されるが、核兵器への転用が可能であるため国際原子力機関によって流通等が制限されている。また、トリウムを原料としてウラン233を作成し、核燃料とする研究も進められている。

詳細は「ウラン濃縮」を参照
金属資材としての利用
ウランは比重が高いためにバラストに用いられることが過去にあった。また砲弾に添加して強度を増して徹甲弾の威力を増すために使用される。

詳細は「劣化ウラン」を参照
蛍光材としての利用
ルミネッセンス反応を示すために蛍光材として使用された。特にガラスに極微量のウランを着色材として加えた製品をウランガラスと呼び、美しい蛍光緑色を呈する。ヨーロッパが発祥で、食器やさまざまな日常雑貨が作成された。現在では民間でウランを扱うことが難しいため、新たなものは極少量が生産されているに過ぎないが、骨董・アンティークとしてファンも多く、高値で取引されている。
その他の用途
ウランの原子核崩壊により生じる核種変化を追跡することで、岩石等の生成年代を特定することが可能である。

詳細は「放射年代測定」を参照

ウランの化合物[編集]

Category:ウランの化合物を参照。

ウランの化合物は、一般にウランの酸化数が+6価のものが安定であることが知られている。ただし、酸化物の場合は、ウランの酸化数が+4価(つまり二酸化ウラン)でも安定である。なお、ウランがこの他の酸化数である時の化合物は、一般に不安定である。

同位体[編集]

詳細は「ウランの同位体」を参照

ウランの同位体は幾つも知られている。それらの中で最も寿命が長いのは、ウラン238である。次いで、ウラン235、ウラン236、ウラン234、ウラン233、ウラン232と続く。これら以外で半減期が1日以上なのは、ウラン230、ウラン231、ウラン237の3核種のみである。これら以外は、半減期が1日以内の非常に寿命の短い核種ばかりである。

その他[編集]

ウランの原子核の断面積は、およそ1バーンに等しい。

関連項目[編集]
天然ウラン(ウラン鉱石)
濃縮ウラン
劣化ウラン
ウラン235
ウラン236
ウラン238
フィッショントラック法
ウラン系列
原子爆弾
原子力発電

注釈[編集]
1.^ 1cm3当り0.5g刻みで、おおよその値を記してある。ここで記したのは、あくまで説明のために、おおよその密度を感覚的に知っていただくためであって、厳密な値を示すことを意図していない。(この部分が、あくまで「概要」の節であることを留意。)より詳しい値については、それぞれの元素の記事の右上に表示されている表を参照のこと。
2.^ 地球上に天然に存在するウランの同位体は、ウラン238、ウラン235、ウラン234の3種であると考えて差し支えない。なお、全ての安定核種と半減期の特に長い放射性核種を合わせて原生核種(英語版)と呼ばれるが、原生核種として数えられるのは、このうちウラン238とウラン235の2核種である。

出典[編集]
1.^ The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements: Third Edition by L.R. Morss, N.M. Edelstein, J. Fuger, eds. (Netherlands: Springer, 2006.)
2.^ BNL-NCS 51363, vol. II (1981), pages 835ff
3.^ http://www.thefreedictionary.com/uranium
4.^ 桜井 弘 編 『ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版』 p.379 講談社 2009年1月20日発行 ISBN 978-4-06-257627-7
5.^ 桜井 弘 編 『ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版』 p.380 講談社 2009年1月20日発行 ISBN 978-4-06-257627-7
6.^ 桜井 弘 編 『ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版』 p.372 講談社 2009年1月20日発行 ISBN 978-4-06-257627-7
7.^ 国立天文台 編 『理科年表(2008年版、文庫サイズ)』 p.466 ISBN 978-4-621-07902-7
8.^ 国立天文台 編 『理科年表(2008年版、文庫サイズ)』 p.456、p.460 ISBN 978-4-621-07902-7
9.^ 国立天文台 編 『理科年表(2008年版、文庫サイズ)』 p.456、p.460、p.466 ISBN 978-4-621-07902-7
10.^ a b c d e 桜井 弘 編 『ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版』 p.371 講談社 2009年1月20日発行 ISBN 978-4-06-257627-7
11.^ a b 国立天文台 編 『理科年表(2008年版、文庫サイズ)』 p.944 ISBN 978-4-621-07902-7
12.^ 国立天文台 編 『理科年表(2008年版、文庫サイズ)』 p.137 ISBN 978-4-621-07902-7
13.^ 桜井 弘 編 『ブルーバックス1627 元素111の新知識 第2版』 p.370 講談社 2009年1月20日発行 ISBN 978-4-06-257627-7
14.^ http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_D_G1.html

プロトアクチニウム

プロトアクチニウム (英: protactinium) は、原子番号91の元素。元素記号は Pa。アクチノイド元素の一つ。安定同位体は存在せず、すべてが放射性同位体である。

銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は正方晶系。比重は15.37(理論値)、融点は1575 °C、沸点は4000 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。

空気中での酸化はゆるやか。酸に溶ける(やや難溶)。酸素、水蒸気と反応。酸素と反応すると表面が曇る。アルカリには不溶。展性、延性があり、化学的性質は、ニオブやタンタルに類似する。安定な原子価は+5価。



目次 [非表示]
1 歴史
2 用途
3 存在
4 同位体
5 人体毒性
6 プロトアクチニウムの化合物
7 出典
8 関連項目


歴史[編集]

1871年、メンデレーエフが91番元素として、その存在と性質を予言、エカタンタル (ekatantalum) と呼んだ[2]。

当時はウラン崩壊の際に生じる核異性体のプロトアクチニウム234を偶然発見しただけであったが、その後1917年、リーゼ・マイトナー、オットー・ハーンがプロトアクチニウム231を発見した。1918年に protoactinium と名づけられたが、1949年に protactinium に短縮された。1961年には99.9 %純粋なプロトアクチニウムが作られるようになった。

用途[編集]

プロトアクチニウムは存在量の少なさと強い毒性のためあまり用途はない。しかし、ウラン235のα崩壊の際に生じるプロトアクチニウム231は核燃料に使用されると思われる。現在、プロトアクチニウム231は海底沈殿層の年代測定に利用されている。

存在[編集]

プロトアクチニウムはウラン鉱に微量存在し、ウラン崩壊の際に極微量生成する。

同位体[編集]

詳細は「プロトアクチニウムの同位体」を参照

プロトアクチニウムは29の同位体が存在が確認されているが安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。天然には四つの同位体が存在し、最も半減期が長いのがプロトアクチニウム231で、32760年である。この元素は二つの核異性体 217mPa(半減期1.15ミリ秒)と 234mPa(半減期1.17分)が存在する。

人体毒性[編集]

プロトアクチニウムは強い放射性と猛毒性を有し、プルトニウムのアルファ線同等の強発癌性を有する。

プロトアクチニウムの化合物[編集]
PaO
PaO2
Pa2O5
PaF4
PaF5
PaCl4
PaCl5
PaBr4
PaBr5
PaI4
PaI5

出典[編集]

1.^ Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.
2.^ 桜井 弘 『元素111の新知識』 講談社、1998年、368頁。ISBN 4-06-257192-7。

トリウム

トリウム (英: thorium) は原子番号90の元素で、元素記号は Th である。アクチノイド元素の一つで、銀白色の金属。

1828年、スウェーデンのイェンス・ベルセリウスによってトール石 (thorite、ThSiO4) から発見され、その名の由来である北欧神話の雷神トールに因んで命名された[2]。

モナザイト砂に多く含まれ、多いもので10 %に達する。モナザイト砂は希土類元素(セリウム、ランタン、ネオジム)資源であり、その副生産物として得られる。主な産地はオーストラリア、インド、ブラジル、マレーシア、タイ。

天然に存在する同位体は放射性のトリウム232一種類だけで、安定同位体はない。しかし、半減期が140.5億年と非常に長く、地殻中にもかなり豊富(10 ppm前後)に存在する。水に溶けにくく海水中には少ない。 トリウム系列の親核種であり、放射能を持つ(アルファ崩壊)ことは、1898年にマリ・キュリーらによって発見された。

トリウム232が中性子を吸収するとトリウム233となり、これがベータ崩壊して、プロトアクチニウム233となる。これが更にベータ崩壊してウラン233となる。ウラン233は核燃料であるため、その原料となるトリウムも核燃料として扱われる。



目次 [非表示]
1 性質
2 化合物
3 同位体
4 用途
5 危険性
6 脚注
7 関連項目


性質[編集]

銀白色の柔らかい金属で、非常に延性に富む。結晶構造は面心立方格子で、1400 °C付近で体心立方格子へ転移する。また、融点と沸点の差が大きく、液体状態をとる温度幅は2946 °Cと元素中最大[3]。

酸化しやすいが、表面に酸化皮膜が形成されるとそれ以上進行しない。空気中で加熱すると白光を発して激しく燃焼し、粉末は常温で自然発火する。高温ではほかに、水素、窒素、ハロゲンと反応する。純度が高ければ空気中でも安定しているが、酸化物と混合すると酸化が促進され、灰色から最終的には黒色となる。高純度の試料でも0.1 %ほどの酸化物を含んでいる。

水と反応して水酸化物を生じるが、不溶性なので不動態状となって反応は進みにくい。塩酸、王水には溶けるが、硝酸には不動態被膜が形成され溶けない。ただし、濃硝酸に触媒として少量のフッ化物イオンを加えると、不動態が破られ溶けるようになる[4]。アルカリ溶液には不溶。

酸化物は、ほとんどの酸に溶けにくい[3]。塩類(塩酸塩、硝酸塩、硫酸塩)は水溶性だが、塩基性にすると不溶性の沈殿を生じる。

化合物[編集]

トリウムの化合物はその酸化数が+4のとき安定となる[5]。
二酸化トリウム 酸化物中、融点が最高 (3300 °C)[6]。
フッ化トリウム(IV) ThF4)・4H2O 水和物をつくる[5]。
水酸化トリウム(IV) Th(OH)4 不溶性であり、両性ではない。
硝酸トリウム(IV) Th(NO3)4・4H2O 水和物をつくる[5]。
炭酸トリウム(IV) Th(CO3)2[5]
過酸化物 不溶性固体の中にわずかに存在する。この性質を利用すると、他のイオンとの混合溶液からトリウムを分離することができる[4]。
リン酸イオンの存在下では、Th4+ はさまざまな組成の化合物を作り、どれも水や酸性溶液に不溶である[4]。
フッ化カリウムやフッ化水素酸と混ぜると、Th4+ は ThF62- のような錯イオンを作り、不溶性の塩 K2ThF6 として沈殿する[4]。

同位体[編集]

詳細は「トリウムの同位体」を参照

トリウムの同位体は全て放射性同位体で、存在率100.00 %のトリウム232をはじめ、27種が知られている。 原子量は210 uから236 uまで[7]。

ほとんどの同位体の半減期は10分以内と短く、比較的安定な以下の4種を除いて全て30日以内である。
トリウム230(イオニウム) ウラン238の崩壊生成物で、半減期は75380年。
トリウム229 励起エネルギーが7.6 eVと著しく低い核異性体を持つ[8]。半減期は7340年。
トリウム228(ラジオトリウム) 半減期は1.92年。

用途[編集]
直熱型真空管:仕事関数を下げ熱電子放出を促進させるため、フィラメント表面に塗布された。主に送信管で使用され、トリウムまたはトリエーテッド・タングステン・フィラメントと呼ばれた。
高屈折率レンズ:1948年アメリカで発明されたトリウムレンズは、酸化トリウムを10-30 %程含む超低分散光学ガラスによる。色収差が小さく、1950-1970年頃販売されたが、崩壊生成物放射線の懸念からランタノイドに置き換えられた。経年変化によるブラウニング現象でガラスが黄変するという欠点がある。通常の紫外線には反応しないが、短波長紫外線照射で青色蛍光を発するので鑑別できる[9]。
X線血管造影剤:第二次世界大戦前後、トロトラスト(二酸化トリウムのコロイド製剤)が用いられたが、大部分が肝臓に沈着し、数十年後に肝腫瘍(肝内胆管癌、血管肉腫など)の原因となった。
るつぼ:二酸化トリウムが高融点酸化物で、高温下でも安定なことから用いられた。
アーク溶接電極:着火性がよいTIG溶接用として、酸化トリウムまたはタングステン合金が用いられる。
ガス灯のガスマントル:硝酸トリウムを含浸させた繊維を灰化した発光体で、白熱ガス灯に用いられた。また、アルファ線の電離作用でランタンの炎を安定させる目的で使われる。
合金素材:耐熱マグネシウム合金や、タングステンとの合金が、前述のフィラメント、アーク溶接棒として用いられる。
触媒:不飽和炭化水素の水素化反応に用いられる。
核燃料:第二次大戦後のアメリカでトリウム燃料サイクル[10]が着目、研究された。現在はインドのトリウム炉で利用されている。
天文学:超新星爆発時の元素合成モデルの推定のため、スペクトル観測される[11]。

危険性[編集]
燃焼性:粉末状態のトリウムは自然発火性で、注意して扱うべき金属である。
放射性:トリウムは半減期の長いアルファ線源であり、外部被曝より内部被曝のリスクが高い。体内に入ると、肺、すい臓、肝臓について発癌危険性がある。国際がん研究機関 (IARC) は、トリウム232とその崩壊生成物を「ヒトに対して発癌性がある」Group 1に分類している[12]。

脚注[編集]

1.^ Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.
2.^ 桜井 弘 『元素111の新知識』 講談社、1998年、365頁。ISBN 4-06-257192-7。
3.^ a b Hammond, C. R. (2004). The Elements, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition. CRC press. ISBN 0849304857.
4.^ a b c d Hyde, Earl K. (1960). The radiochemistry of thorium. Subcommittee on Radiochemistry, National Academy of Sciences−National Research Council.
5.^ a b c d “Toxicological Profile Information Sheet”. Department of Health and Human Services. 2009年5月21日閲覧。
6.^ Emsley, John (2001). Nature's Building Blocks ((Hardcover, First Edition) ed.). Oxford University Press. pp. 441. ISBN 0198503407.
7.^ Uusitalo, J. et al. (1995). “α decay of the new isotopes 210Th and 211Th”. Phys. Rev. C 52: 113. doi:10.1103/PhysRevC.52.113.
8.^ Beck, B. R. et al. (2007). “Energy Splitting of the Ground-State Doublet in the Nucleus 229Th”. Phys. Rev. Lett. 98: 142501. doi:10.1103/PhysRevLett.98.142501. PMID 17501268.
9.^ 「写真工業」2004年9月号
10.^ トリウム燃料の製造について 日本原子力学会 (PDF)
11.^ 銀河系外の星にアクチノイド元素トリウムを初検出すばる望遠鏡
12.^ “Agents Classified by the IARC Monographs, Volumes 1–100 (PDF)” (英語). 国際がん研究機関. pp. 4 (2010年5月27日). 2010年6月30日閲覧。 “Thorium-232 and its decay products”

ドゥブナ

ドゥブナ(デュブナ、ドブナ、Дубна, Dubna)はロシアのモスクワ州にある都市。モスクワ州の直接の管轄下にある街で、ロシア政府から「科学都市」(naukograd)に指定され、ロシア最大級の科学研究組織であるドゥブナ合同原子核研究所(JINR)の本拠となっている。またミサイルの製造開発に特化した航空・国防企業であるMKBラドゥガ社(ラドゥガ設計局の後身)の本社もある。

20世紀半ばに街の建設が始まり、1956年に市となった。人口は60,951人(2002年国勢調査)。



目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
3 経済
4 姉妹都市
5 外部リンク


地理[編集]

ドゥブナは海抜120mでヴォルガ川沿いにあり、市街地のすぐ上流にはヴォルガ川をせき止めた大きなダム湖・イヴァンコヴォ貯水湖と水力発電所がある。市の西の境界はヴォルガ川とモスクワを結ぶモスクワ運河となっており、東の境界はヴォルガ川の支流ドゥブナ川となっている。

ドゥブナは首都モスクワから北へ125kmの距離である。モスクワ州の最北端の街で、モスクワ州で唯一ヴォルガ川に面した街でもある。モスクワ(サヴョーロフスキー駅)へは急行列車、近郊電車、シャトルバスが走る。最寄りの町には、キームルィ(25km北東にある)、タルドム(25km東)、コナコヴォ(25km西)がある。

歴史[編集]





ドゥブナ合同原子核研究所本部
1946年、ソビエト連邦政府は原子力研究のために陽子加速器の建設を決定し、モスクワからの距離がありイヴァンコヴォ水力発電所も近くにある現在地が選ばれた。イーゴリ・クルチャトフが科学技術面を指揮し、都市建設およびモスクワへの道路・鉄道建設を含む計画の総監督は内務人民委員部がラヴレンチー・ベリヤが行い、グラグに収容された政治犯らも使って建設が進んだ。計画決定からわずか3年後の1949年12月13日、加速器は稼動した。

ドゥブナの町は1956年設立された。これは最初の研究所をもとに、ソ連と東側諸国が合同でドゥブナ合同原子核研究所(JINR)を設立したのと同時期だった。JINRは主に素粒子物理学研究、重イオン研究、超ウラン元素研究、放射生物学、高エネルギー物理学研究などを行い優れた業績を上げた。1960年にはヴォルガ川の反対側(左岸)に位置するイヴァンコヴォの町がドゥブナに併合された。

20世紀を代表する多くの実験物理学者や素粒子物理学者、例えばニコライ・ボゴリューボフ、グレゴリー・フリョーロフ、ウラジーミル・ヴェクスラー、ニュートリノ物理学の開拓者ブルーノ・ポンテコルヴォらがJINRで研究した。また超ウラン元素も数多くJINRで発見された。第105元素ドブニウムはこの研究所の位置するドゥブナの町の名から採られている。1964年には第12回高エネルギー物理学国際会議(ICHEP)の会場となった。

経済[編集]

ソ連崩壊前、ドゥブナ市民の多くはドゥブナ合同原子核研究所またはラドゥガ設計局で働いていた。しかしソ連崩壊後はこれらの研究機関・企業の雇用に占める割合は目立って落ちている。小さな企業がいくつか誕生したが、なおも雇用情勢は厳しく、モスクワへ通勤する者もいる。一方、ロシアの新興財閥システマを中心に政府や民間などが投資し、ロシア版シリコンバレーをドゥブナに作る構想もある。

姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ラクロス、アメリカ合衆国
イスラエルの旗 en:Giv'at Shmuel、イスラエル
ウクライナの旗 en:Alushta、ウクライナ
ポーランドの旗 en:Gołdap、ポーランド
カザフスタンの旗 クルチャトフ、カザフスタン
中華人民共和国の旗 臨滄市、中国
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