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2014年02月07日
タブラ・ラーサ
タブラ・ラーサ(ラテン語: tabula rasa)は、白紙状態の意。蝋などを引いた書字版を取り消して何も書き込まれていない状態[1]。
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1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世
3 参考書籍
4 関連項目
5 外部リンク
概要[編集]
感覚論において魂は外部からの刺激による経験で初めて観念を獲得するとされており、その経験以前の魂の状態。ロックの用語とされるが古くからある概念。プラトン、ストア派、特にアリストテレスに同様の考えがあり、タブラ・ラーサはアリストテレスの訳語としてローマのアエギディウスが考案したとされる。後にアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスが用いて定着した[1]。
経験主義の比喩。原義はラテン語で「磨いた板」の意味。人は生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくというものである。
歴史[編集]
古代[編集]
タブラ・ラーサと呼べる思想は古く、プラトンの『テアイテトス』、アリストテレスの著作『霊魂論』(Περι Ψυχης)に見られる。ただし、前者では蝋板である。
What the mind thinks must be in it in the same sense as letters are on a tablet (grammateion) which bears no (methen) actual writing (grammenon); this is just what happens in the case of the mind.
− Aristotle, On the Soul, 3.4.430a1.
中世[編集]
13世紀にトマス・アクィナスが議論に提起した。当時は知識の本体は天界にあり生まれるときに肉体に合わさるという説が主流であった。
But the human intellect, which is the lowest in the order of intellects and the most removed from the perfection of the Divine intellect, is in potency with regard to things intelligible, and is at first "like a clean tablet on which nothing is written", as the Philosopher [Aristotle] says.
− Aquinas, Summa Theologica 1.79.2.
近世[編集]
17世紀にジョン・ロックが新しく経験主義を唱えた。 現代では、スティーブン・ピンカーが反論している。
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1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世
3 参考書籍
4 関連項目
5 外部リンク
概要[編集]
感覚論において魂は外部からの刺激による経験で初めて観念を獲得するとされており、その経験以前の魂の状態。ロックの用語とされるが古くからある概念。プラトン、ストア派、特にアリストテレスに同様の考えがあり、タブラ・ラーサはアリストテレスの訳語としてローマのアエギディウスが考案したとされる。後にアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスが用いて定着した[1]。
経験主義の比喩。原義はラテン語で「磨いた板」の意味。人は生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくというものである。
歴史[編集]
古代[編集]
タブラ・ラーサと呼べる思想は古く、プラトンの『テアイテトス』、アリストテレスの著作『霊魂論』(Περι Ψυχης)に見られる。ただし、前者では蝋板である。
What the mind thinks must be in it in the same sense as letters are on a tablet (grammateion) which bears no (methen) actual writing (grammenon); this is just what happens in the case of the mind.
− Aristotle, On the Soul, 3.4.430a1.
中世[編集]
13世紀にトマス・アクィナスが議論に提起した。当時は知識の本体は天界にあり生まれるときに肉体に合わさるという説が主流であった。
But the human intellect, which is the lowest in the order of intellects and the most removed from the perfection of the Divine intellect, is in potency with regard to things intelligible, and is at first "like a clean tablet on which nothing is written", as the Philosopher [Aristotle] says.
− Aquinas, Summa Theologica 1.79.2.
近世[編集]
17世紀にジョン・ロックが新しく経験主義を唱えた。 現代では、スティーブン・ピンカーが反論している。
経験論
経験論(けいけんろん、英: empiricism)、あるいは経験主義(けいけんしゅぎ)は、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。
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1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世 2.3.1 近代経験論の成立
2.3.2 功利主義
2.4 現代 2.4.1 ヘーゲル学派の台頭
2.4.2 現代経験論
3 主な論者
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
概要[編集]
経験論の哲学は特にイギリスで発達し、その伝統は大陸哲学と区別してイギリス経験論とも呼ばれる。経験論は哲学的唯物論や実証主義と緊密に結びついており、大陸合理主義や、認識は直観的に得られるとする直観主義、神秘主義、あるいは超経験的なものについて語ろうとする形而上学と対立する。
経験論における「経験」という語は私的ないし個人的な経験や体験というよりもむしろ、客観的で公的な実験、観察といった風なニュアンスである。したがって、個人的な経験や体験に基づいて物事を判断するという態度が経験論的と言われることがあるが、それは誤解である。
歴史[編集]
古代[編集]
キニコス派、キレネ派、エピクロス派など古代ギリシアの哲学者、いわゆるソクラテス以前の哲学者の多くは経験を重視していた。古代の自然哲学の発展を促したのは彼らであったし、今やきわめて評判の悪い言葉となってしまったソフィストでさえある意味で経験を重視していた。これに真っ向から反対したのがプラトンであった。彼の主張したイデアは、仮象の現象界を超越したものであり、単に経験を積み重ねるだけでは認識し得ず、物の本質は、物のイデアを「心の眼」で直視し、「想起」することによって初めて認識することができるものであった。プラトンの弟子アリストテレスは、その学問体系において、両者を調停させ、統合したのであった[1]。
中世[編集]
13世紀のオックスフォード学派は、スコラ学を批判し、経験を重視し、数学や自然哲学の発展に寄与した。先駆的な研究はロバート・グロステストの「光の形而上学」であるが、その弟子のロジャー・ベーコンは、「無知の四原因」を挙げて数学の意義を強調し、実験を用いることの重要性を説いた。14世紀のオッカムは、内的な反省的直観のみならず、具体的個別的な感性的経験をも認識の起源として重視して普遍は単に思考上の単なる記号にすぎないとして唯名論を主張し、近世の経験論を準備した。
近世[編集]
フランシス・ベーコンは、ロジャー・ベーコンの「無知の四原因」を発展させ、四つのイドラを示し、イドラを取り除くことが正しい知識に必要だと考え、従来のスコラ哲学で重視されてきた演繹と対比して、感覚的観察を無条件で信頼せず、実験という方法を駆使して少しずつ肯定的な法則命題へと上っていく帰納法を明示した。帰納法は、自然科学の発展を促したが、のちにヒュームの懐疑主義を生むことになった。
近代経験論の成立[編集]
ロックは、人間は観念を生まれつき持っているという生得説を批判して観念は経験を通して得られると主張し、いわば人間は生まれた時は「タブラ・ラサ」(白紙)であり、経験によって知識が書き込まれる、と主張した。アイルランドのバークリやスコットランドのヒューム、そしてフランスではコンディヤックが観念、知識は経験によって得られるという考えをロックから受け継いだ。
功利主義[編集]
ジェレミー・ベンサムは、経験を重視し、快楽と苦痛に支配される人間という冷厳な事実を直視し、倫理学において、功利性の原理を基礎に「最大多数の最大幸福」、ある行為が道徳的に善いか悪いかの判断基準はその行為が人々の幸福を全体として増大させるか否かにあると主張した。
現代[編集]
ヘーゲル学派の台頭[編集]
ベーコンやロックによって打ち立てられた経験論の考えはバークリを経てヒュームに流れ込み、ヒュームは経験論的な発想を極限まで推し進めてその帰結として懐疑論に陥り、そしてカントの批判哲学によって大陸合理論と総合された。経験論は、ドイツ観念論の成立によって衰退し、ヘーゲル学派の台頭を招き、イギリスではケンブリッチヘーゲル学派を形成した。
現代経験論[編集]
近代以降においては、現象主義、実証主義、論理実証主義(論理経験主義とも)などが経験論の一種として生まれ、特に論理実証主義は経験に基かず、経験的に検証や確証ができない形而上学的な概念や理論を痛烈に批判した。経験論は、我々の理論や命題、そしてそれらの真偽や確実性の判断などは直観や信仰よりむしろ世界についての我々の観察に基礎に置くべきだ、とする近代の科学的方法の核心であると一般にみなされている。その方法とは、実験による調査研究、帰納的推論、演繹的論証である。
現代の科学哲学における経験論の重要な批判者はカール・ポパーである。ポパーは理論はしばしば誤ることがある経験的・帰納的な仕方(cf.帰納、自然の斉一性)で検証されるべきではなく、むしろ反証のテストを経てその信頼性が高められるべきとして反証主義を唱えた。
主な論者[編集]
フランシス・ベーコン
ジョン・ロック
ジョージ・バークリー
デイヴィッド・ヒューム
脚注[編集]
1.^ 杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
参考文献[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
一ノ瀬正樹『功利主義と分析哲学』(2010年、日本放送出版協会)
関連項目[編集]
功利主義
外部リンク[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
「Rationalism vs. Empiricism」 - スタンフォード哲学百科事典にある「合理主義 vs 経験主義」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - ディクショナリー・オブ・フィロソフィー・オブ・マインドにある「経験論」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - Skeptic's Dictionaryにある「経験論」についての項目。(英語)
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1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世 2.3.1 近代経験論の成立
2.3.2 功利主義
2.4 現代 2.4.1 ヘーゲル学派の台頭
2.4.2 現代経験論
3 主な論者
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
概要[編集]
経験論の哲学は特にイギリスで発達し、その伝統は大陸哲学と区別してイギリス経験論とも呼ばれる。経験論は哲学的唯物論や実証主義と緊密に結びついており、大陸合理主義や、認識は直観的に得られるとする直観主義、神秘主義、あるいは超経験的なものについて語ろうとする形而上学と対立する。
経験論における「経験」という語は私的ないし個人的な経験や体験というよりもむしろ、客観的で公的な実験、観察といった風なニュアンスである。したがって、個人的な経験や体験に基づいて物事を判断するという態度が経験論的と言われることがあるが、それは誤解である。
歴史[編集]
古代[編集]
キニコス派、キレネ派、エピクロス派など古代ギリシアの哲学者、いわゆるソクラテス以前の哲学者の多くは経験を重視していた。古代の自然哲学の発展を促したのは彼らであったし、今やきわめて評判の悪い言葉となってしまったソフィストでさえある意味で経験を重視していた。これに真っ向から反対したのがプラトンであった。彼の主張したイデアは、仮象の現象界を超越したものであり、単に経験を積み重ねるだけでは認識し得ず、物の本質は、物のイデアを「心の眼」で直視し、「想起」することによって初めて認識することができるものであった。プラトンの弟子アリストテレスは、その学問体系において、両者を調停させ、統合したのであった[1]。
中世[編集]
13世紀のオックスフォード学派は、スコラ学を批判し、経験を重視し、数学や自然哲学の発展に寄与した。先駆的な研究はロバート・グロステストの「光の形而上学」であるが、その弟子のロジャー・ベーコンは、「無知の四原因」を挙げて数学の意義を強調し、実験を用いることの重要性を説いた。14世紀のオッカムは、内的な反省的直観のみならず、具体的個別的な感性的経験をも認識の起源として重視して普遍は単に思考上の単なる記号にすぎないとして唯名論を主張し、近世の経験論を準備した。
近世[編集]
フランシス・ベーコンは、ロジャー・ベーコンの「無知の四原因」を発展させ、四つのイドラを示し、イドラを取り除くことが正しい知識に必要だと考え、従来のスコラ哲学で重視されてきた演繹と対比して、感覚的観察を無条件で信頼せず、実験という方法を駆使して少しずつ肯定的な法則命題へと上っていく帰納法を明示した。帰納法は、自然科学の発展を促したが、のちにヒュームの懐疑主義を生むことになった。
近代経験論の成立[編集]
ロックは、人間は観念を生まれつき持っているという生得説を批判して観念は経験を通して得られると主張し、いわば人間は生まれた時は「タブラ・ラサ」(白紙)であり、経験によって知識が書き込まれる、と主張した。アイルランドのバークリやスコットランドのヒューム、そしてフランスではコンディヤックが観念、知識は経験によって得られるという考えをロックから受け継いだ。
功利主義[編集]
ジェレミー・ベンサムは、経験を重視し、快楽と苦痛に支配される人間という冷厳な事実を直視し、倫理学において、功利性の原理を基礎に「最大多数の最大幸福」、ある行為が道徳的に善いか悪いかの判断基準はその行為が人々の幸福を全体として増大させるか否かにあると主張した。
現代[編集]
ヘーゲル学派の台頭[編集]
ベーコンやロックによって打ち立てられた経験論の考えはバークリを経てヒュームに流れ込み、ヒュームは経験論的な発想を極限まで推し進めてその帰結として懐疑論に陥り、そしてカントの批判哲学によって大陸合理論と総合された。経験論は、ドイツ観念論の成立によって衰退し、ヘーゲル学派の台頭を招き、イギリスではケンブリッチヘーゲル学派を形成した。
現代経験論[編集]
近代以降においては、現象主義、実証主義、論理実証主義(論理経験主義とも)などが経験論の一種として生まれ、特に論理実証主義は経験に基かず、経験的に検証や確証ができない形而上学的な概念や理論を痛烈に批判した。経験論は、我々の理論や命題、そしてそれらの真偽や確実性の判断などは直観や信仰よりむしろ世界についての我々の観察に基礎に置くべきだ、とする近代の科学的方法の核心であると一般にみなされている。その方法とは、実験による調査研究、帰納的推論、演繹的論証である。
現代の科学哲学における経験論の重要な批判者はカール・ポパーである。ポパーは理論はしばしば誤ることがある経験的・帰納的な仕方(cf.帰納、自然の斉一性)で検証されるべきではなく、むしろ反証のテストを経てその信頼性が高められるべきとして反証主義を唱えた。
主な論者[編集]
フランシス・ベーコン
ジョン・ロック
ジョージ・バークリー
デイヴィッド・ヒューム
脚注[編集]
1.^ 杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
参考文献[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
一ノ瀬正樹『功利主義と分析哲学』(2010年、日本放送出版協会)
関連項目[編集]
功利主義
外部リンク[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
「Rationalism vs. Empiricism」 - スタンフォード哲学百科事典にある「合理主義 vs 経験主義」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - ディクショナリー・オブ・フィロソフィー・オブ・マインドにある「経験論」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - Skeptic's Dictionaryにある「経験論」についての項目。(英語)
ニコラ・ド・マルブランシュ
ニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche、1638年8月6日−1715年10月13日)はフランスの哲学者。オラトリオ会修道士。ルイ14世と生没年が一緒でもある。
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1 人物
2 主張
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
人物[編集]
1664年にデカルトの遺稿『人間論』に接したのをきっかけに哲学に目覚め、オラトリオ会が帰依するアウグスティヌスの神秘的な思想と理性を重視するデカルト哲学の総合を目指した。その成果は、まず、初期の大著『真理の探究』として1674年-1675年に発表された(1674年に第1巻-第3巻までを収めた第1分冊を、1675年に残りの第4巻-第6巻までを収めた第2分冊を刊行)。『真理の探究』は、1.感覚、2.想像力、3.知性、4.傾向性、5.情念および6.方法の各巻からなり、人間の心のはたらきを詳細に分析した上で、それらから生じる誤謬を防ぐ方法で全巻を締めくくっている。この著作は公刊直後から大きな反響を呼び、ボシュエ、フェヌロン、アルノーらの神学者、哲学者との論争を受けて、マルブランシュの生前に5回改訂されている。『真理の探究』の問題提起は、こうした論争のなかで深化され、その成果は『形而上学と宗教についての対話』(1688年)などに結実した。
主張[編集]
マルブランシュの哲学的主張は「すべての事物を神において見る」(voir toutes en Dieu)というフレーズで知られ[1]、人間は神のうちなる観念を通して事物的世界を認識するとして、デカルト流の心身二元論の解決を試みた[2]。マルブランシュによれば、人間の感覚や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけであった。また、現象としての物体(身体)の運動を認めながら、その原因を物体そのものに与えることを拒み、物体の衝突や精神の意欲をきっかけ(機会)として神が発動し、最終的には神がさまざまな運動を引き起こしているとした。この説は哲学史上「機会原因論」と呼ばれる。
スピノザの思想が無神論として危険視され、ライプニッツの主要な著作が公刊されなかったなかで、18世紀にはデカルト流の合理主義哲学の主流はマルブランシュに受け継がれたものとみなされ、マルブランシュ派=新たなデカルト派として、経験論、感覚論や唯物論など、新たな思想潮流と対決していった。
脚注[編集]
1.^ 『ものはなぜ見えるのか』 25頁。
2.^ 『ものはなぜ見えるのか』 27-28頁。
参考文献[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年8月)
『神と魂の闇――マルブランシュにおける認識と存在』(伊藤泰雄、高文堂出版社、1997年) ISBN 4770705433
木田直人 『ものはなぜ見えるのか…マルブランシュの自然的判断理論』 中央公論新社〈中公新書〉(原著2009年1月25日)、初版。ISBN 9784121019813。2009年8月16日閲覧。
外部リンク[編集]
「Nicolas Malebranche」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ニコラ・ド・マルブランシュ」についての項目。(英語)
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表・話・編・歴
社会哲学と政治哲学
関連項目
-経済学の哲学 ・
-教育哲学 ・
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-法哲学 ・
-社会科学の哲学 ・
-愛の哲学 ・
-性の哲学
社会概念
-社会 ・
-戦争 ・
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-革命 ・
-市民的不服従 ・
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社会理論
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-国民自由主義 ・
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-紛争理論 ・
-合意理論
哲学者
-プラトン ・
-アウグスティヌス ・
-パドヴァのマルシリウス ・
-ニッコロ・マキャヴェッリ ・
-フーゴー・グローティウス ・
-シャルル・ド・モンテスキュー ・
-オーギュスト・コント ・
-バーナード・ボザンケ ・
-ハーバート・スペンサー ・
-ニコラ・ド・マルブランシュ ・
-エミール・デュルケーム ・
-ジョージ・サンタヤーナ ・
-ジョサイア・ロイス ・
-トマス・ホッブズ ・
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-デイヴィッド・ヒューム ・
-イマヌエル・カント ・
-ジャン=ジャック・ルソー ・
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-ジェレミ・ベンサム ・
-ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル ・
-ジョン・スチュアート・ミル ・
-ヘンリー・デイヴィッド・ソロー ・
-カール・マルクス ・
-マハトマ・ガンディー ・
-ジョヴァンニ・ジェンティーレ ・
-ジャック・マリタン ・
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-ロバート・ノージック ・
-アマルティア・セン ・
-ノーム・チョムスキー ・
-アラン・バディウ ・
-スラヴォイ・ジジェク
-Portal ・
-カテゴリ
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1 人物
2 主張
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
人物[編集]
1664年にデカルトの遺稿『人間論』に接したのをきっかけに哲学に目覚め、オラトリオ会が帰依するアウグスティヌスの神秘的な思想と理性を重視するデカルト哲学の総合を目指した。その成果は、まず、初期の大著『真理の探究』として1674年-1675年に発表された(1674年に第1巻-第3巻までを収めた第1分冊を、1675年に残りの第4巻-第6巻までを収めた第2分冊を刊行)。『真理の探究』は、1.感覚、2.想像力、3.知性、4.傾向性、5.情念および6.方法の各巻からなり、人間の心のはたらきを詳細に分析した上で、それらから生じる誤謬を防ぐ方法で全巻を締めくくっている。この著作は公刊直後から大きな反響を呼び、ボシュエ、フェヌロン、アルノーらの神学者、哲学者との論争を受けて、マルブランシュの生前に5回改訂されている。『真理の探究』の問題提起は、こうした論争のなかで深化され、その成果は『形而上学と宗教についての対話』(1688年)などに結実した。
主張[編集]
マルブランシュの哲学的主張は「すべての事物を神において見る」(voir toutes en Dieu)というフレーズで知られ[1]、人間は神のうちなる観念を通して事物的世界を認識するとして、デカルト流の心身二元論の解決を試みた[2]。マルブランシュによれば、人間の感覚や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけであった。また、現象としての物体(身体)の運動を認めながら、その原因を物体そのものに与えることを拒み、物体の衝突や精神の意欲をきっかけ(機会)として神が発動し、最終的には神がさまざまな運動を引き起こしているとした。この説は哲学史上「機会原因論」と呼ばれる。
スピノザの思想が無神論として危険視され、ライプニッツの主要な著作が公刊されなかったなかで、18世紀にはデカルト流の合理主義哲学の主流はマルブランシュに受け継がれたものとみなされ、マルブランシュ派=新たなデカルト派として、経験論、感覚論や唯物論など、新たな思想潮流と対決していった。
脚注[編集]
1.^ 『ものはなぜ見えるのか』 25頁。
2.^ 『ものはなぜ見えるのか』 27-28頁。
参考文献[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年8月)
『神と魂の闇――マルブランシュにおける認識と存在』(伊藤泰雄、高文堂出版社、1997年) ISBN 4770705433
木田直人 『ものはなぜ見えるのか…マルブランシュの自然的判断理論』 中央公論新社〈中公新書〉(原著2009年1月25日)、初版。ISBN 9784121019813。2009年8月16日閲覧。
外部リンク[編集]
「Nicolas Malebranche」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ニコラ・ド・マルブランシュ」についての項目。(英語)
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表・話・編・歴
社会哲学と政治哲学
関連項目
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ゴットフリート・ライプニッツ
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。なお Leibniz の発音は、/ˈlaɪpnɪʦ/(ライプニッツ)としているもの[1]と、/ˈlaɪbnɪʦ/(ライブニッツ)としているもの[2]とがある。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。
目次 [非表示]
1 概要
2 経歴
3 哲学における業績 3.1 同時代の哲学者との関係
3.2 著作
3.3 モナド Monade(単子)
4 数学における業績
5 ドイツ出身の悲哀
6 著作
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要[編集]
ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。ライプニッツは稀代の知的巨人といえる。
経歴[編集]
1646年、ライプツィヒに生まれる。父は大学教授。
1661年、ライプツィヒ大学入学。専攻は法学。
1663年、哲学のドクトルをとるため、論文を執筆。
1666年、スイスのアルトドルフの大学に移り、翌年法学のドクトルとなった。
1672年、フランス王ルイ14世にエジプト遠征を勧めるため、パリに滞在。
1676年、カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長。
1700年、ベルリン科学アカデミー院長。
1711年、神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官、男爵。
1716年、ハノーファーにて逝去。
哲学における業績[編集]
「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。
モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。
さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどである。
その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。
同時代の哲学者との関係[編集]
ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。
特筆されるのは、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー[3]、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などが知られている。
著作[編集]
『力学要綱』、『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17〜18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ[4]。
モナド Monade(単子)[編集]
詳細は「モナド」を参照
複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象perceptionと欲求appetiteとを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである。[5]
数学における業績[編集]
ライプニッツが1697年に書いた書簡。2進法の記述が見える。
微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。
しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものであった。彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかからないと信じていたようであったが、現実にはそれを実現するには300年以上を要した。彼は記号に取り憑かれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた(これも後世には現実となった)。
上記の事柄に含まれるが、2進法を研究したのもライプニッツの業績である。彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしている。
ドイツ出身の悲哀[編集]
ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。
ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。
ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。
著作[編集]
ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 第3〉、1925年。 ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-2〉、1950年4月15日。ISBN 4-00-336162-8。
ゴツトフリード・ウヰルヘルム・ライブニツツ 『ライブニツツ』 松永材・小暮春雄訳、尚文堂〈哲学名著選集〉、1925年。
ライプニツツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 5〉、1928年。 ライプニツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-1〉、1951年9月25日。ISBN 4-00-336161-X。
ライブニッツ「モナッド論」松永材訳、『世界大思想全集』第2巻、春秋社、1929年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈春秋社思想選書〉、1949年。 『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈大思想選書〉、1950年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、日清堂書店、1976年、改訂版。
ライプニッツ 『人間知性新論』 米山優訳、みすず書房、1987年12月。ISBN 4-622-01773-3。
ライプニッツ 『モナドロジー 形而上学叙説』 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6。
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 『ライプニッツの国語論 ドイツ語改良への提言』 高田博行・渡辺学編訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 843〉、2006年3月。ISBN 4-588-00843-9。
『ライプニッツ著作集』全10巻、工作舎。 1.『論理学』、1988年12月。ISBN 4-87502-149-6。
2.『数学論・数学』、1997年4月。ISBN 4-87502-277-8。
3.『数学・自然学』、1999年3月。ISBN 4-87502-306-5。
4.『認識論『人間知性新論』上』、1993年8月。ISBN 4-87502-221-2。
5.『認識論『人間知性新論』下』、1995年7月。ISBN 4-87502-253-0。
6.『宗教哲学『弁神論』上』、1990年1月。ISBN 4-87502-164-X。
7.『宗教哲学『弁神論』下』、1991年6月。ISBN 4-87502-180-1。
8.『前期哲学』、1990年12月。ISBN 4-87502-175-5。
9.『後期哲学』、1989年6月。ISBN 4-87502-154-2。
10.『中国学・地質学・普遍学』、1991年12月。ISBN 4-87502-193-3。
参考文献[編集]
山本信 『ライプニッツ哲学研究』 東京大学出版会、1953年2月。ISBN 4-13010-005-X。
大野真弓「絶対君主と人民」、『世界の歴史 8』 中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月10日。ISBN 978-4-12-200188-6。
E・J・エイトン 『ライプニッツの普遍計画 バロックの天才の生涯』 渡辺正雄・原純夫・佐柳文男訳、工作舎、1990年1月。ISBN 4-87502-163-1。
池田善昭 『『モナドロジー』を読む ライプニッツの個と宇宙』 世界思想社、1994年10月。ISBN 4-79070-525-3。
ルネ・ブーヴレス 『ライプニッツ』 橋本由美子訳、白水社、1996年7月。ISBN 4-56005-779-6。
佐々木能章 『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する』 工作舎、2002年10月。ISBN 4-87502-367-7。
石黒ひで 『ライプニッツの哲学 論理と言語を中心に』 岩波書店、2003年7月。ISBN 4-00002-420-5。
山内志朗 『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』 日本放送出版協会、2003年11月。ISBN 4-14-009304-8。
松田毅 『ライプニッツの認識論 懐疑主義との対決』 創文社、2003年12月。ISBN 4-38941-191-8。
酒井潔 『ライプニッツ』 清水書院、2008年9月。ISBN 4-42317-139-2。
酒井潔、佐々木能章 『ライプニッツを学ぶ人のために』 世界思想社、2009年12月。ISBN 4-79071-444-6。
『思想 no.930 創刊80周年記念号:ライプニッツ』 岩波書店、2001年10月。
『水声通信 no.17 特集:甦るライプニッツ』 水声社、2007年5月。ISBN 9-78489-176-6。
目次 [非表示]
1 概要
2 経歴
3 哲学における業績 3.1 同時代の哲学者との関係
3.2 著作
3.3 モナド Monade(単子)
4 数学における業績
5 ドイツ出身の悲哀
6 著作
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要[編集]
ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。ライプニッツは稀代の知的巨人といえる。
経歴[編集]
1646年、ライプツィヒに生まれる。父は大学教授。
1661年、ライプツィヒ大学入学。専攻は法学。
1663年、哲学のドクトルをとるため、論文を執筆。
1666年、スイスのアルトドルフの大学に移り、翌年法学のドクトルとなった。
1672年、フランス王ルイ14世にエジプト遠征を勧めるため、パリに滞在。
1676年、カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長。
1700年、ベルリン科学アカデミー院長。
1711年、神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官、男爵。
1716年、ハノーファーにて逝去。
哲学における業績[編集]
「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。
モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。
さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどである。
その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。
同時代の哲学者との関係[編集]
ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。
特筆されるのは、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー[3]、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などが知られている。
著作[編集]
『力学要綱』、『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17〜18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ[4]。
モナド Monade(単子)[編集]
詳細は「モナド」を参照
複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象perceptionと欲求appetiteとを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである。[5]
数学における業績[編集]
ライプニッツが1697年に書いた書簡。2進法の記述が見える。
微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。
しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものであった。彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかからないと信じていたようであったが、現実にはそれを実現するには300年以上を要した。彼は記号に取り憑かれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた(これも後世には現実となった)。
上記の事柄に含まれるが、2進法を研究したのもライプニッツの業績である。彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしている。
ドイツ出身の悲哀[編集]
ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。
ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。
ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。
著作[編集]
ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 第3〉、1925年。 ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-2〉、1950年4月15日。ISBN 4-00-336162-8。
ゴツトフリード・ウヰルヘルム・ライブニツツ 『ライブニツツ』 松永材・小暮春雄訳、尚文堂〈哲学名著選集〉、1925年。
ライプニツツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 5〉、1928年。 ライプニツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-1〉、1951年9月25日。ISBN 4-00-336161-X。
ライブニッツ「モナッド論」松永材訳、『世界大思想全集』第2巻、春秋社、1929年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈春秋社思想選書〉、1949年。 『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈大思想選書〉、1950年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、日清堂書店、1976年、改訂版。
ライプニッツ 『人間知性新論』 米山優訳、みすず書房、1987年12月。ISBN 4-622-01773-3。
ライプニッツ 『モナドロジー 形而上学叙説』 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6。
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 『ライプニッツの国語論 ドイツ語改良への提言』 高田博行・渡辺学編訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 843〉、2006年3月。ISBN 4-588-00843-9。
『ライプニッツ著作集』全10巻、工作舎。 1.『論理学』、1988年12月。ISBN 4-87502-149-6。
2.『数学論・数学』、1997年4月。ISBN 4-87502-277-8。
3.『数学・自然学』、1999年3月。ISBN 4-87502-306-5。
4.『認識論『人間知性新論』上』、1993年8月。ISBN 4-87502-221-2。
5.『認識論『人間知性新論』下』、1995年7月。ISBN 4-87502-253-0。
6.『宗教哲学『弁神論』上』、1990年1月。ISBN 4-87502-164-X。
7.『宗教哲学『弁神論』下』、1991年6月。ISBN 4-87502-180-1。
8.『前期哲学』、1990年12月。ISBN 4-87502-175-5。
9.『後期哲学』、1989年6月。ISBN 4-87502-154-2。
10.『中国学・地質学・普遍学』、1991年12月。ISBN 4-87502-193-3。
参考文献[編集]
山本信 『ライプニッツ哲学研究』 東京大学出版会、1953年2月。ISBN 4-13010-005-X。
大野真弓「絶対君主と人民」、『世界の歴史 8』 中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月10日。ISBN 978-4-12-200188-6。
E・J・エイトン 『ライプニッツの普遍計画 バロックの天才の生涯』 渡辺正雄・原純夫・佐柳文男訳、工作舎、1990年1月。ISBN 4-87502-163-1。
池田善昭 『『モナドロジー』を読む ライプニッツの個と宇宙』 世界思想社、1994年10月。ISBN 4-79070-525-3。
ルネ・ブーヴレス 『ライプニッツ』 橋本由美子訳、白水社、1996年7月。ISBN 4-56005-779-6。
佐々木能章 『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する』 工作舎、2002年10月。ISBN 4-87502-367-7。
石黒ひで 『ライプニッツの哲学 論理と言語を中心に』 岩波書店、2003年7月。ISBN 4-00002-420-5。
山内志朗 『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』 日本放送出版協会、2003年11月。ISBN 4-14-009304-8。
松田毅 『ライプニッツの認識論 懐疑主義との対決』 創文社、2003年12月。ISBN 4-38941-191-8。
酒井潔 『ライプニッツ』 清水書院、2008年9月。ISBN 4-42317-139-2。
酒井潔、佐々木能章 『ライプニッツを学ぶ人のために』 世界思想社、2009年12月。ISBN 4-79071-444-6。
『思想 no.930 創刊80周年記念号:ライプニッツ』 岩波書店、2001年10月。
『水声通信 no.17 特集:甦るライプニッツ』 水声社、2007年5月。ISBN 9-78489-176-6。
合理主義哲学
合理主義哲学(ごうりしゅぎてつがく, Rationalism)は、17-18世紀の近代哲学・認識論における一派。大陸合理主義(Continental Rationalism)、大陸合理論とも呼ばれる。
目次 [非表示]
1 解説
2 主な論者
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
解説[編集]
大陸合理主義の思想的内容は、通常、当時のイギリスにおいてロック、ヒュームらによって担われていたいわゆるイギリス経験論との対比で、ヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得すると考えるのに対し、大陸合理主義においては、人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える[1]。
また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。
17世紀、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどによって継承・展開された。
今日広く普及している西洋哲学史観では、18世紀にカントによって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。
主な論者[編集]
ルネ・デカルト
バールーフ・デ・スピノザ
ゴットフリート・ライプニッツ
ニコラ・ド・マルブランシュ
脚注[編集]
1.^ 後掲の坂井の記事を参照。
参考文献[編集]
坂井昭宏『大陸合理論』[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
サイモン・クリッチリー 『ヨーロッパ大陸の哲学』 佐藤透訳、野家啓一解説、岩波書店〈1冊でわかる〉、2004年6月。ISBN 4-00-026872-4。
目次 [非表示]
1 解説
2 主な論者
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
解説[編集]
大陸合理主義の思想的内容は、通常、当時のイギリスにおいてロック、ヒュームらによって担われていたいわゆるイギリス経験論との対比で、ヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得すると考えるのに対し、大陸合理主義においては、人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える[1]。
また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。
17世紀、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどによって継承・展開された。
今日広く普及している西洋哲学史観では、18世紀にカントによって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。
主な論者[編集]
ルネ・デカルト
バールーフ・デ・スピノザ
ゴットフリート・ライプニッツ
ニコラ・ド・マルブランシュ
脚注[編集]
1.^ 後掲の坂井の記事を参照。
参考文献[編集]
坂井昭宏『大陸合理論』[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
サイモン・クリッチリー 『ヨーロッパ大陸の哲学』 佐藤透訳、野家啓一解説、岩波書店〈1冊でわかる〉、2004年6月。ISBN 4-00-026872-4。
ルネ・デカルト
ルネ・デカルト(仏: René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
目次 [非表示]
1 概要
2 生涯 2.1 生い立ち、学生時代
2.2 遍歴時代
2.3 パリでの交流
2.4 オランダでの隠棲時代
2.5 最後の旅
3 思想 3.1 哲学 3.1.1 体系
3.1.2 方法
3.2 形而上学 3.2.1 方法的懐疑
3.2.2 コギト・エルゴ・スム
3.2.3 神の存在証明
3.2.4 心身合一の問題
3.3 自然哲学 3.3.1 機械論的世界観
3.4 倫理学
3.5 数学
4 著作 4.1 日本語訳
5 脚注
6 日本語文献
7 伝記
8 関連項目
9 外部リンク
概要[編集]
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏: Cartésien; 英: Cartesian)と呼ばれる。その他、デカルト座標系(仏:système de coordonnées cartésiennes ; 英:Cartesian coordinate system)のようにデカルトの名がついたものにもカルテジアンという表現が用いられる。
生涯[編集]
生い立ち、学生時代[編集]
デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
1606年、デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ(La Flèche)学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校できており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。
イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの報せに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。
デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの1つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩にあたる。
好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。
1614年、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては#数学への功績も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。
遍歴時代[編集]
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。
1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。
1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学的な才能に驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。
1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。
1619年10月、精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
パリでの交流[編集]
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、みずからの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。
オランダでの隠棲時代[編集]
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。
32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。
1637年、『方法序説』を公刊する。
1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。
1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。
1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。
1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
1649年『情念論』を公刊する。
最後の旅[編集]
クリスティーナ(左)とデカルト(右)
1649年のはじめから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。
1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。[1]
思想[編集]
哲学[編集]
体系[編集]
『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。
方法[編集]
ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1.明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
2.考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
3.最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
4.何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)
形而上学[編集]
方法的懐疑[編集]
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。対象が意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 仏:Idée と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。
コギト・エルゴ・スム[編集]
『省察』(1641年)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]。詳細は同名の内部リンクを参照。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)
のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした[4]。
神の存在証明[編集]
欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
1.第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
2.第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
3.第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。
明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。
なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。
心身合一の問題[編集]
1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。
『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気(esprits animaux)と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。
デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。
1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡をみてみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが伺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。
自然哲学[編集]
機械論的世界観[編集]
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。
更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、
宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。
デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。
倫理学[編集]
デカルトは、完全に基礎づけられた倫理学を体系化したいと望んでいたが、それまでは暫定的道徳を守るほかない、と考えた(『方法序説』1)。
数学[編集]
2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。
また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方(a,b,c,…)を定数に、最後の方(…,x,y,z)に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、冪数を右に(x^3)に書く表記法はデカルトが始めた。
ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランソワ・ビエトの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。
著作[編集]
著作を時系列で並べると以下のようになる。
1618年『音楽提要』Compendium Musicae
公刊はデカルトの死後(1650年)である。1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。1633年『世界論』Le Monde
ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
1648年『人間論』Traité de l'homme
公刊はデカルトの死後(1664年)である。1649年『情念論』Les passions de l'ame
日本語訳[編集]
文庫版谷川多佳子訳[5] 『方法序説』(岩波文庫、1997年)ISBN 4003361318、(同ワイド版、2001年)
谷川多佳子訳 『情念論』(岩波文庫、2008年)ISBN 4003361350
山田弘明訳・注解 『省察』(ちくま学芸文庫、2006年)ISBN 4480089659
山田弘明ほか訳・注解 『哲学原理』(ちくま学芸文庫、2009年)ISBN 4480092080
山田弘明訳・注解 『方法序説』(ちくま学芸文庫、2010年) ISBN 4480093060
山田弘明訳・解説[6] 『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫、2001年)ISBN 4061595199
野田又夫訳 『方法序説・情念論』(中公文庫、初版1974年)ISBN 4122000769
岩波文庫で復刊されたテキスト野田又夫訳 『精神指導の規則』 ISBN 4003361342、改訳1974年
桂壽一訳 『哲学原理』 ISBN 4003361334、古い訳文
三木清訳 『省察』 ISBN 4003361326、戦前の訳 岩波文庫旧版 『方法序説』は落合太郎訳
新書(再刊)判野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎訳
『方法序説・哲学の原理・世界論』(中公クラシックス:中央公論新社、2001年)ISBN 4121600126井上庄七・森啓・野田又夫訳 『省察・情念論』(中公クラシックス:中央公論新社、2002年)ISBN 4121600339
三宅徳嘉・小池健男訳 『方法叙説』(白水Uブックス:白水社、2005年)ISBN 4560720827
全集『デカルト著作集』(白水社、全4巻、増補版1993年、2001年)
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1 概要
2 生涯 2.1 生い立ち、学生時代
2.2 遍歴時代
2.3 パリでの交流
2.4 オランダでの隠棲時代
2.5 最後の旅
3 思想 3.1 哲学 3.1.1 体系
3.1.2 方法
3.2 形而上学 3.2.1 方法的懐疑
3.2.2 コギト・エルゴ・スム
3.2.3 神の存在証明
3.2.4 心身合一の問題
3.3 自然哲学 3.3.1 機械論的世界観
3.4 倫理学
3.5 数学
4 著作 4.1 日本語訳
5 脚注
6 日本語文献
7 伝記
8 関連項目
9 外部リンク
概要[編集]
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏: Cartésien; 英: Cartesian)と呼ばれる。その他、デカルト座標系(仏:système de coordonnées cartésiennes ; 英:Cartesian coordinate system)のようにデカルトの名がついたものにもカルテジアンという表現が用いられる。
生涯[編集]
生い立ち、学生時代[編集]
デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
1606年、デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ(La Flèche)学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校できており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。
イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの報せに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。
デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの1つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩にあたる。
好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。
1614年、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては#数学への功績も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。
遍歴時代[編集]
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。
1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。
1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学的な才能に驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。
1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。
1619年10月、精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
パリでの交流[編集]
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、みずからの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。
オランダでの隠棲時代[編集]
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。
32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。
1637年、『方法序説』を公刊する。
1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。
1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。
1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。
1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
1649年『情念論』を公刊する。
最後の旅[編集]
クリスティーナ(左)とデカルト(右)
1649年のはじめから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。
1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。[1]
思想[編集]
哲学[編集]
体系[編集]
『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。
方法[編集]
ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1.明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
2.考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
3.最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
4.何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)
形而上学[編集]
方法的懐疑[編集]
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。対象が意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 仏:Idée と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。
コギト・エルゴ・スム[編集]
『省察』(1641年)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]。詳細は同名の内部リンクを参照。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)
のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした[4]。
神の存在証明[編集]
欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
1.第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
2.第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
3.第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。
明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。
なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。
心身合一の問題[編集]
1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。
『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気(esprits animaux)と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。
デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。
1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡をみてみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが伺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。
自然哲学[編集]
機械論的世界観[編集]
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。
更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、
宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。
デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。
倫理学[編集]
デカルトは、完全に基礎づけられた倫理学を体系化したいと望んでいたが、それまでは暫定的道徳を守るほかない、と考えた(『方法序説』1)。
数学[編集]
2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。
また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方(a,b,c,…)を定数に、最後の方(…,x,y,z)に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、冪数を右に(x^3)に書く表記法はデカルトが始めた。
ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランソワ・ビエトの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。
著作[編集]
著作を時系列で並べると以下のようになる。
1618年『音楽提要』Compendium Musicae
公刊はデカルトの死後(1650年)である。1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。1633年『世界論』Le Monde
ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
1648年『人間論』Traité de l'homme
公刊はデカルトの死後(1664年)である。1649年『情念論』Les passions de l'ame
日本語訳[編集]
文庫版谷川多佳子訳[5] 『方法序説』(岩波文庫、1997年)ISBN 4003361318、(同ワイド版、2001年)
谷川多佳子訳 『情念論』(岩波文庫、2008年)ISBN 4003361350
山田弘明訳・注解 『省察』(ちくま学芸文庫、2006年)ISBN 4480089659
山田弘明ほか訳・注解 『哲学原理』(ちくま学芸文庫、2009年)ISBN 4480092080
山田弘明訳・注解 『方法序説』(ちくま学芸文庫、2010年) ISBN 4480093060
山田弘明訳・解説[6] 『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫、2001年)ISBN 4061595199
野田又夫訳 『方法序説・情念論』(中公文庫、初版1974年)ISBN 4122000769
岩波文庫で復刊されたテキスト野田又夫訳 『精神指導の規則』 ISBN 4003361342、改訳1974年
桂壽一訳 『哲学原理』 ISBN 4003361334、古い訳文
三木清訳 『省察』 ISBN 4003361326、戦前の訳 岩波文庫旧版 『方法序説』は落合太郎訳
新書(再刊)判野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎訳
『方法序説・哲学の原理・世界論』(中公クラシックス:中央公論新社、2001年)ISBN 4121600126井上庄七・森啓・野田又夫訳 『省察・情念論』(中公クラシックス:中央公論新社、2002年)ISBN 4121600339
三宅徳嘉・小池健男訳 『方法叙説』(白水Uブックス:白水社、2005年)ISBN 4560720827
全集『デカルト著作集』(白水社、全4巻、増補版1993年、2001年)
バールーフ・デ・スピノザ
バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。
スピノザの汎神論は唯物論的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論(岩波文庫版『エチカ』解説等参照)に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、神を信仰する神学者でありながら、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。
目次 [非表示]
1 生涯
2 思想 2.1 哲学史上の意義
2.2 存在論・認識論
2.3 倫理学
2.4 国家論
2.5 宗教との関係
3 著書
4 批判
5 脚注 出典
6 関連項目
7 外部リンク
生涯[編集]
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アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。
伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。
1664年にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年に匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた[1]。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。
1673年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学・政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に『エチカ−幾何学的秩序によって証明された』を完成させたが、出版を断念した。スピノザの思想の総括であった。執筆には15年の歳月をかけている。しかし、スピノザ没後友人により1677年に刊行されている[2]。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳(1677年)の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。
ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。 なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。
生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学・政治論』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論』(Tractatus de intellectu emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium gramatices linguae Hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全てラテン語で書かれている。遺稿集の中の『小神論』(Korte Verhandeling van god)はオランダ語で書かれているがこれは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。)
思想[編集]
哲学史上の意義[編集]
スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。
その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。
一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[3]。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ−実践の哲学』などの研究書を刊行している。
代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。
この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学[4]を議論している。
存在論・認識論[編集]
ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。
デカルトは神を無限な実体[5]として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[6]神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[7] ものである(自己原因)[8]。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[9]。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[10]。
スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[11]と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[12]」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[13]人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[14]、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
倫理学[編集]
スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想[15]を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている[16]。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている[17]。
スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念[18])を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る[19]」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。
上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する[20]。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力[21]に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。
国家論[編集]
上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である[22]」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする[23]。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。
統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている[24]。
またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。
宗教との関係[編集]
スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[25]
キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮[26]として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している[27]。また徳の報酬は徳そのものである[28]とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している[29]。
スピノザの汎神論は唯物論的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論(岩波文庫版『エチカ』解説等参照)に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、神を信仰する神学者でありながら、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。
目次 [非表示]
1 生涯
2 思想 2.1 哲学史上の意義
2.2 存在論・認識論
2.3 倫理学
2.4 国家論
2.5 宗教との関係
3 著書
4 批判
5 脚注 出典
6 関連項目
7 外部リンク
生涯[編集]
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アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。
伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。
1664年にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年に匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた[1]。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。
1673年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学・政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に『エチカ−幾何学的秩序によって証明された』を完成させたが、出版を断念した。スピノザの思想の総括であった。執筆には15年の歳月をかけている。しかし、スピノザ没後友人により1677年に刊行されている[2]。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳(1677年)の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。
ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。 なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。
生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学・政治論』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論』(Tractatus de intellectu emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium gramatices linguae Hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全てラテン語で書かれている。遺稿集の中の『小神論』(Korte Verhandeling van god)はオランダ語で書かれているがこれは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。)
思想[編集]
哲学史上の意義[編集]
スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。
その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。
一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[3]。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ−実践の哲学』などの研究書を刊行している。
代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。
この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学[4]を議論している。
存在論・認識論[編集]
ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。
デカルトは神を無限な実体[5]として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[6]神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[7] ものである(自己原因)[8]。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[9]。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[10]。
スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[11]と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[12]」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[13]人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[14]、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
倫理学[編集]
スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想[15]を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている[16]。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている[17]。
スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念[18])を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る[19]」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。
上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する[20]。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力[21]に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。
国家論[編集]
上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である[22]」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする[23]。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。
統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている[24]。
またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。
宗教との関係[編集]
スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[25]
キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮[26]として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している[27]。また徳の報酬は徳そのものである[28]とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している[29]。
理神論
理神論(りしんろん、英: deism)は、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。
神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。
目次 [非表示]
1 起源
2 理神論論争
3 フランスとドイツ
4 参考書籍
5 関連項目
起源[編集]
16世紀のソッツィーニ派によって、すでに宗教上の意見の相違を迫害によって解決することが罪であるという考えが提出され、イギリスではその見解はユニテリアンと呼ばれる人々によって擁護された。ユニテリアンは1840年代になるまで市民権を得られなかったとはいえ、その他のプロテスタントでも信仰の基礎を教会の権威にではなく、論証の上に築くことを目指す。そのさい神学者たちが根拠としたのは、聖書とならんで理性であった。
1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊して、自然宗教の5つの基本命題をあげた。それは(1)神の存在、(2)神を礼拝する義務、(3)経験と徳行の重要性、(4)悔悟することの正しさ、(5)来世における恩寵と堕罪の存在を信じること、などである。
50年後にスピノザが『神学政治論』において、(1)神の存在、(2)単一性、(3)遍在性、(4)至高性、などの箇条を列挙して、「神は博愛心と正義心によって崇拝されなければならず、神に従うものは救われ従わないものは滅びるが、悔い改めるものの罪は必ず許されるであろう」ことを主張した。
ハーバート卿とスピノザの宗教は、とくにキリスト教だけに当てはまる条件ではないところに問題があると、神学者たちは考えた。では旧来のキリスト信仰とこの新しい普遍宗教は矛盾がないのだろうか、またキリスト教の唯一の基礎である聖書の記述は、普遍宗教の条件から見て真理を現しているといえるのか。
スピノザは『神学政治論』で、聖書それ自体も同じように歴史的批判にさらされなければならないことを提唱し、理神論への道を開いた。しかしスピノザは生前は無神論者であるという人身攻撃を受け、イギリスではいわゆる「理神論論争」が始まった。
理神論論争[編集]
1695年にロックが『キリスト教の合理性』で、理性の権威と聖書の権威が両立することを証明しようと努めたが、それでも「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」というとがめを受けた。ロックが知性の力で支持できない教説の地位を下げたことをさらに進め、1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。
理神論論争における論敵同士は、自然法則を再構成する能力を理性に認める点で一致している。理神論者の多くは、聖書が神に由来するものであることを認めた。つまり立派なキリスト教徒でなおかつ理神論者であることは可能であった。これらの似たもの同士で行われた論争は1750年より以前に終熄し、『政治的正義』の著者で無政府主義者のゴドウィンは「騒ぎから50年たった今では、過去にまるで論争がなかったのと同じである」と言うことができた。
フランスとドイツ[編集]
イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだ。コンディヤック、エルヴェシウス、ドルバック、ラ・メトリなどはデカルトの機械論を受け継いでおり、理神論者とほとんど区別がつかない。彼らは人間を機械の一種と見なしているのでそれを最初に創造した機械工(神)を想定しないわけに行かないからだ。
ルソーが『エミール』第4巻で披露する有神論は、理性ではなく感情に基礎をおいている。その自然宗教では特定の人間に示されるような啓示は必要ない、とされている。ルソーの「有神論」はロベスピエールに受け継がれ、フランス革命が過激化した時期に「理性の崇拝」に反対して挙行された「最高存在の祭典」にあらわれている。
ドイツにおける理神論の代表者はレッシングである。ただレッシングはキリスト教について固定した立場をとらず、「論証によって信仰を強制しよう」とする理神論者についても反対していた。戯曲『賢人ナータン』には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、どの宗教を選ぶかよりも「人間であることで十分だ」というテーマが扱われた。
カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んだ。理神論はカントの手によって一度は殺されて、彼自身の手で復活させられたわけである。
参考書籍[編集]
L.スティーヴン 『十八世紀イギリス思想史 上巻』 中野好之訳、筑摩書房、初版1969年
H.ハイネ 『ドイツ古典哲学の本質』 伊東勉訳、岩波文庫、ISBN 4003241851
関連項目[編集]
無神論論争
汎神論
汎神論論争
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神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。
目次 [非表示]
1 起源
2 理神論論争
3 フランスとドイツ
4 参考書籍
5 関連項目
起源[編集]
16世紀のソッツィーニ派によって、すでに宗教上の意見の相違を迫害によって解決することが罪であるという考えが提出され、イギリスではその見解はユニテリアンと呼ばれる人々によって擁護された。ユニテリアンは1840年代になるまで市民権を得られなかったとはいえ、その他のプロテスタントでも信仰の基礎を教会の権威にではなく、論証の上に築くことを目指す。そのさい神学者たちが根拠としたのは、聖書とならんで理性であった。
1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊して、自然宗教の5つの基本命題をあげた。それは(1)神の存在、(2)神を礼拝する義務、(3)経験と徳行の重要性、(4)悔悟することの正しさ、(5)来世における恩寵と堕罪の存在を信じること、などである。
50年後にスピノザが『神学政治論』において、(1)神の存在、(2)単一性、(3)遍在性、(4)至高性、などの箇条を列挙して、「神は博愛心と正義心によって崇拝されなければならず、神に従うものは救われ従わないものは滅びるが、悔い改めるものの罪は必ず許されるであろう」ことを主張した。
ハーバート卿とスピノザの宗教は、とくにキリスト教だけに当てはまる条件ではないところに問題があると、神学者たちは考えた。では旧来のキリスト信仰とこの新しい普遍宗教は矛盾がないのだろうか、またキリスト教の唯一の基礎である聖書の記述は、普遍宗教の条件から見て真理を現しているといえるのか。
スピノザは『神学政治論』で、聖書それ自体も同じように歴史的批判にさらされなければならないことを提唱し、理神論への道を開いた。しかしスピノザは生前は無神論者であるという人身攻撃を受け、イギリスではいわゆる「理神論論争」が始まった。
理神論論争[編集]
1695年にロックが『キリスト教の合理性』で、理性の権威と聖書の権威が両立することを証明しようと努めたが、それでも「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」というとがめを受けた。ロックが知性の力で支持できない教説の地位を下げたことをさらに進め、1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。
理神論論争における論敵同士は、自然法則を再構成する能力を理性に認める点で一致している。理神論者の多くは、聖書が神に由来するものであることを認めた。つまり立派なキリスト教徒でなおかつ理神論者であることは可能であった。これらの似たもの同士で行われた論争は1750年より以前に終熄し、『政治的正義』の著者で無政府主義者のゴドウィンは「騒ぎから50年たった今では、過去にまるで論争がなかったのと同じである」と言うことができた。
フランスとドイツ[編集]
イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだ。コンディヤック、エルヴェシウス、ドルバック、ラ・メトリなどはデカルトの機械論を受け継いでおり、理神論者とほとんど区別がつかない。彼らは人間を機械の一種と見なしているのでそれを最初に創造した機械工(神)を想定しないわけに行かないからだ。
ルソーが『エミール』第4巻で披露する有神論は、理性ではなく感情に基礎をおいている。その自然宗教では特定の人間に示されるような啓示は必要ない、とされている。ルソーの「有神論」はロベスピエールに受け継がれ、フランス革命が過激化した時期に「理性の崇拝」に反対して挙行された「最高存在の祭典」にあらわれている。
ドイツにおける理神論の代表者はレッシングである。ただレッシングはキリスト教について固定した立場をとらず、「論証によって信仰を強制しよう」とする理神論者についても反対していた。戯曲『賢人ナータン』には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、どの宗教を選ぶかよりも「人間であることで十分だ」というテーマが扱われた。
カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んだ。理神論はカントの手によって一度は殺されて、彼自身の手で復活させられたわけである。
参考書籍[編集]
L.スティーヴン 『十八世紀イギリス思想史 上巻』 中野好之訳、筑摩書房、初版1969年
H.ハイネ 『ドイツ古典哲学の本質』 伊東勉訳、岩波文庫、ISBN 4003241851
関連項目[編集]
無神論論争
汎神論
汎神論論争
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ナルシシズム
ナーシシズム(英語 narcissism)、ナルシシスム(フランス語 narcissisme)(自己愛)とは自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じたり、自分自身を性的な対象とみなす状態を言う。ナルシシズムを呈する人をナルシシスト (narcissist) と言う。ナルシズム(narcism)、ナルシスト (narcist) とも言う。
ナルキッソス
日本では「うぬぼれ」「耽美」といったニュアンスで使われることが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 発症機序
3 ナルシシズムの動態 3.1 原始的防衛機構
3.2 家族の機能障害
3.3 分離と個体化
3.4 幼年期のトラウマと自己愛型の発達
4 研究の流派 4.1 フロイトとユング
5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク
概要[編集]
一次性のナルシシズムは人格形成期の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、発達の分離個体化期において避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きである。
二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴として、社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、自慢、他人の感情に鈍感で感情移入が少ないこと、日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存すること、が挙げられる。二次性ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害の核となる。
ナルシシズムという語はフロイトの心理学において初めて使われた。語の由来はギリシア神話に登場するナルキッソス(Narcissus、フランス語ではナルシスNarcisse)である。ナルキッソスはギリシアの美しい青年で、エコーというニンフの求愛を拒んだ罰として、水たまりに映った自分の姿に恋するという呪いを受けた。彼はどうしても想いを遂げることができないので、やつれ果てた挙句スイセン(narcissus)の花になってしまった。
ナルシシズムの研究に貢献した心理学者には、メラニー・クライン、カレン・ホーナイ、ハイマン・スポトニッツ、ハインツ・コフート、オットー・カーンバーグ、セオドア・ミロン、エルザ・F・ロニングスタム、ジョン・ガンダーソン、ロバート・D・ヘア、スティーヴン・M・ジョンソンなどがいる。
発症機序[編集]
ナルシシズムが生じる原因は解明されていない。遺伝とも、育て方の問題とも、社会のアノミーが社会適応の過程を混乱させるためとも言われている。ナルシシズムについては研究が少ないばかりか、診断基準でさえも曖昧。
精神分析によると、誰でも子供のうちはナルシシズムをもっている。ほとんどの幼児は自分が世界の中心で、もっとも重要で、何でもできるし何でも知っていると感じる。一方、両親は神話の人物のように、不死で恐るべき力を持つが、子供を守り育てるためだけに存在するものとみなされる。このように、自他は観念的に位置づけられる。それを心理学のモデルでは原始的ナルシシズムと呼ぶ。
成長にしたがって、原始的ナルシシズムは現実に見合った認識に置き換えられてゆく。この過程が予測できないものだったり、過酷だったりすると、幼児の自尊心は深く傷つけられる。さらに重要なのは親(最初の他人)の助けである。親の助けが足りなくてナルシシズムを育ててしまった大人は、自尊心の働きで、自他を観念的にきわめて重く見ること(観念化)と、逆に軽く見ること(デバリュエーション)の間で揺れ動く。幼い頃に、自分にとって重要な人物に根本から幻滅し、落胆することがナルシシズムにつながると考えられている。
ナルシシズムの動態[編集]
原始的防衛機構[編集]
ナルシシズムは分離と関連した防衛機構である。ナルシシストは他の人、環境、政党、国家、民族といったものを、よい要素と悪い要素が混じったものとして見ることができず、観念化かデバリュエーションのどちらかに偏る。すなわち、対象を完全な善か完全な悪に振り分けてしまうのである。悪いアトリビュートは常に投影されるか、別のもので置き換えられるか、外的要因に帰せられる。よいアトリビュートは、膨張した(誇大に考えられた)自己認識を支持し、自信喪失や幻滅を遠ざけるものとして内面化される。
ナルシシストは自己愛備給、すなわち注目されることを求める。それによって傷つきやすい自尊心を制御するのである。
家族の機能障害[編集]
ナルシシストの多くは正常に機能していない家庭に産まれる。ナルシシストを生み出す家族の特徴は、家族に問題があることを内外に対して強く否定することである。このような家庭では虐待が珍しくない。子供は優秀になることを望まれるが、それはナルシシズムの目的に至る手段としてでしかない。両親は、貧困や未熟な感情、そしてナルシシズムといった素因をもち、そのために、子供の能力の限界と感情の要求を正しく認識し尊重することができない。その結果、子供の社会化は不完全になり、アイデンティティーに関わる問題が起こる。
分離と個体化[編集]
精神動態理論によると、両親、特に母が社会化を促す最初の要素になる。子供はもっとも重要な、人生のすべてに関わる疑問の答えを母に見出す。その疑問とは、自分はどれくらい愛されているのか、世界はどれくらい理解できるのか、といったことである。より後の段階では、精神的な結合に加えて身体的な結合を漠然と望む初期の性欲が、男の子なら母に向けられる。ここで母は概念化・内面化され、精神分析で「超自我」と呼ばれる良心の一部になる。
成長は母から離れることとエディプス・コンプレックスの解決、つまり性的関心を社会的に適切な対象へ向けなおすことを含む。これらは自立して世界を探求し、自我を強く意識するために重要である。どの段階が妨げられても、正常に分化することはできなくなり、自立した求心力のある自我は形成されず、他人への依存と幼稚症を呈する。ときには子離れしない母によってその障害が起こされることもある。
子供が親から離れ、それに続いて個体化をとげることは広く認められている。ダニエル・N・スターンは、著書“The Interpersonal World of the Infant” (1985年)で、子供は最初から自我をもち、自分と親を区別するといっている。
幼年期のトラウマと自己愛型の発達[編集]
幼年期の虐待とトラウマは、模倣戦略と、ナルシシズムを含む防衛機構を働かせる。模倣戦略のひとつは、内面に引きこもり、絶対に信頼できる源泉から、つまり自らの自我から満足を得ようとすることである。拒絶と虐待を恐れる子供は、他人に触れることを避け、愛と充足の妄想に逃げ込む。繰りかえし傷つけられることが自己愛性パーソナリティ障害の誘引になる。
研究の流派[編集]
フロイトとユング[編集]
ジークムント・フロイトはナルシシズムについて初めて一貫した理論を唱えた。フロイトは主体指導型リビドーから客体指導型リビドーへの移行が両親の働きに媒介されると説明した。この移行がうまく進まないと、神経症が引き起こされる。だから、子供は両親から愛されず軽んじられると、ナルシシズムに退行する。
一次性ナルシシズムの発生は、子供が頼るべきものを探して、手元にある自我を選び、満足したと感じるという、適応的な現象である。しかし、後の段階から二次性ナルシシズムに退行することは適応的でない。それはリビドーを「正しい」対象に向けられなかったことの現れである。
ナルシシズムが遷延すると、自己愛性神経症が成立する。ナルシシストは自我を刺激して喜びを得ることに慣れ、現実よりも妄想を、現実的な評価よりも誇大な自己認識を、普通の性行為よりもマスターベーションと性的妄想を好むようになる。
自己愛神経症とは精神分裂病を指す。フロイトは対象に一切のリビドーが向かっていない事をナルシシズムと命名したが、二次的なナルシシズムで最も病理なのは精神分裂病であると考えられ、それは空想などの対象表象などにも一切のリビドーが向かっていないような現象を指す。精神病においては自己の幻想の部分にリビドーや死の欲動が備給されており、故に現実とは全く関係ない「幻想」を見るのだと考えられている。
ナルキッソス
日本では「うぬぼれ」「耽美」といったニュアンスで使われることが多い。
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1 概要
2 発症機序
3 ナルシシズムの動態 3.1 原始的防衛機構
3.2 家族の機能障害
3.3 分離と個体化
3.4 幼年期のトラウマと自己愛型の発達
4 研究の流派 4.1 フロイトとユング
5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク
概要[編集]
一次性のナルシシズムは人格形成期の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、発達の分離個体化期において避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きである。
二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴として、社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、自慢、他人の感情に鈍感で感情移入が少ないこと、日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存すること、が挙げられる。二次性ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害の核となる。
ナルシシズムという語はフロイトの心理学において初めて使われた。語の由来はギリシア神話に登場するナルキッソス(Narcissus、フランス語ではナルシスNarcisse)である。ナルキッソスはギリシアの美しい青年で、エコーというニンフの求愛を拒んだ罰として、水たまりに映った自分の姿に恋するという呪いを受けた。彼はどうしても想いを遂げることができないので、やつれ果てた挙句スイセン(narcissus)の花になってしまった。
ナルシシズムの研究に貢献した心理学者には、メラニー・クライン、カレン・ホーナイ、ハイマン・スポトニッツ、ハインツ・コフート、オットー・カーンバーグ、セオドア・ミロン、エルザ・F・ロニングスタム、ジョン・ガンダーソン、ロバート・D・ヘア、スティーヴン・M・ジョンソンなどがいる。
発症機序[編集]
ナルシシズムが生じる原因は解明されていない。遺伝とも、育て方の問題とも、社会のアノミーが社会適応の過程を混乱させるためとも言われている。ナルシシズムについては研究が少ないばかりか、診断基準でさえも曖昧。
精神分析によると、誰でも子供のうちはナルシシズムをもっている。ほとんどの幼児は自分が世界の中心で、もっとも重要で、何でもできるし何でも知っていると感じる。一方、両親は神話の人物のように、不死で恐るべき力を持つが、子供を守り育てるためだけに存在するものとみなされる。このように、自他は観念的に位置づけられる。それを心理学のモデルでは原始的ナルシシズムと呼ぶ。
成長にしたがって、原始的ナルシシズムは現実に見合った認識に置き換えられてゆく。この過程が予測できないものだったり、過酷だったりすると、幼児の自尊心は深く傷つけられる。さらに重要なのは親(最初の他人)の助けである。親の助けが足りなくてナルシシズムを育ててしまった大人は、自尊心の働きで、自他を観念的にきわめて重く見ること(観念化)と、逆に軽く見ること(デバリュエーション)の間で揺れ動く。幼い頃に、自分にとって重要な人物に根本から幻滅し、落胆することがナルシシズムにつながると考えられている。
ナルシシズムの動態[編集]
原始的防衛機構[編集]
ナルシシズムは分離と関連した防衛機構である。ナルシシストは他の人、環境、政党、国家、民族といったものを、よい要素と悪い要素が混じったものとして見ることができず、観念化かデバリュエーションのどちらかに偏る。すなわち、対象を完全な善か完全な悪に振り分けてしまうのである。悪いアトリビュートは常に投影されるか、別のもので置き換えられるか、外的要因に帰せられる。よいアトリビュートは、膨張した(誇大に考えられた)自己認識を支持し、自信喪失や幻滅を遠ざけるものとして内面化される。
ナルシシストは自己愛備給、すなわち注目されることを求める。それによって傷つきやすい自尊心を制御するのである。
家族の機能障害[編集]
ナルシシストの多くは正常に機能していない家庭に産まれる。ナルシシストを生み出す家族の特徴は、家族に問題があることを内外に対して強く否定することである。このような家庭では虐待が珍しくない。子供は優秀になることを望まれるが、それはナルシシズムの目的に至る手段としてでしかない。両親は、貧困や未熟な感情、そしてナルシシズムといった素因をもち、そのために、子供の能力の限界と感情の要求を正しく認識し尊重することができない。その結果、子供の社会化は不完全になり、アイデンティティーに関わる問題が起こる。
分離と個体化[編集]
精神動態理論によると、両親、特に母が社会化を促す最初の要素になる。子供はもっとも重要な、人生のすべてに関わる疑問の答えを母に見出す。その疑問とは、自分はどれくらい愛されているのか、世界はどれくらい理解できるのか、といったことである。より後の段階では、精神的な結合に加えて身体的な結合を漠然と望む初期の性欲が、男の子なら母に向けられる。ここで母は概念化・内面化され、精神分析で「超自我」と呼ばれる良心の一部になる。
成長は母から離れることとエディプス・コンプレックスの解決、つまり性的関心を社会的に適切な対象へ向けなおすことを含む。これらは自立して世界を探求し、自我を強く意識するために重要である。どの段階が妨げられても、正常に分化することはできなくなり、自立した求心力のある自我は形成されず、他人への依存と幼稚症を呈する。ときには子離れしない母によってその障害が起こされることもある。
子供が親から離れ、それに続いて個体化をとげることは広く認められている。ダニエル・N・スターンは、著書“The Interpersonal World of the Infant” (1985年)で、子供は最初から自我をもち、自分と親を区別するといっている。
幼年期のトラウマと自己愛型の発達[編集]
幼年期の虐待とトラウマは、模倣戦略と、ナルシシズムを含む防衛機構を働かせる。模倣戦略のひとつは、内面に引きこもり、絶対に信頼できる源泉から、つまり自らの自我から満足を得ようとすることである。拒絶と虐待を恐れる子供は、他人に触れることを避け、愛と充足の妄想に逃げ込む。繰りかえし傷つけられることが自己愛性パーソナリティ障害の誘引になる。
研究の流派[編集]
フロイトとユング[編集]
ジークムント・フロイトはナルシシズムについて初めて一貫した理論を唱えた。フロイトは主体指導型リビドーから客体指導型リビドーへの移行が両親の働きに媒介されると説明した。この移行がうまく進まないと、神経症が引き起こされる。だから、子供は両親から愛されず軽んじられると、ナルシシズムに退行する。
一次性ナルシシズムの発生は、子供が頼るべきものを探して、手元にある自我を選び、満足したと感じるという、適応的な現象である。しかし、後の段階から二次性ナルシシズムに退行することは適応的でない。それはリビドーを「正しい」対象に向けられなかったことの現れである。
ナルシシズムが遷延すると、自己愛性神経症が成立する。ナルシシストは自我を刺激して喜びを得ることに慣れ、現実よりも妄想を、現実的な評価よりも誇大な自己認識を、普通の性行為よりもマスターベーションと性的妄想を好むようになる。
自己愛神経症とは精神分裂病を指す。フロイトは対象に一切のリビドーが向かっていない事をナルシシズムと命名したが、二次的なナルシシズムで最も病理なのは精神分裂病であると考えられ、それは空想などの対象表象などにも一切のリビドーが向かっていないような現象を指す。精神病においては自己の幻想の部分にリビドーや死の欲動が備給されており、故に現実とは全く関係ない「幻想」を見るのだと考えられている。
リーディング
リーディングは英語のreadingまたはleadingの日本語読みで、日本語では次の意味で使う。
特に語学教育における読解(reading)。
演劇界においては、朗読劇の意味。これに対して、普通に動きの伴う舞台劇はストレート・プレイと呼ぶ。
レディング(Reading) イギリス(イングランド)のバークシャーのレディングにある。 レディングFC - 上記リーディングを本拠地とするサッカーのクラブチーム
アメリカ合衆国ペンシルベニア州のレディング。
霊的な啓示によって、個人の深層心理や、過去の事象・体験等を読みとること。(reading の訳)アメリカのエドガー・ケイシー(Edgar Cayce)によるものが有名。
相手に自分の言うことを信じさせる話術。コールド・リーディングおよびホット・リーディング。
競馬における成績順位のこと。リーディング (競馬)の項を参照。(leading)
特に語学教育における読解(reading)。
演劇界においては、朗読劇の意味。これに対して、普通に動きの伴う舞台劇はストレート・プレイと呼ぶ。
レディング(Reading) イギリス(イングランド)のバークシャーのレディングにある。 レディングFC - 上記リーディングを本拠地とするサッカーのクラブチーム
アメリカ合衆国ペンシルベニア州のレディング。
霊的な啓示によって、個人の深層心理や、過去の事象・体験等を読みとること。(reading の訳)アメリカのエドガー・ケイシー(Edgar Cayce)によるものが有名。
相手に自分の言うことを信じさせる話術。コールド・リーディングおよびホット・リーディング。
競馬における成績順位のこと。リーディング (競馬)の項を参照。(leading)