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2014年02月07日
ジブラルタルの岩
ジブラルタルの岩(ジブラルタルのいわ、英: Rock of Gibraltar、The Rock(ザ・ロック)、羅: Calpe[1]、亜: جبل طارق、Jabal Tariq(ターリクの山)、西: Peñón de Gibraltar)は、ヨーロッパのイベリア半島南端にあたるジブラルタルにある、岬をなす一枚岩の石灰岩[2]。高さ426メートル。この山はイギリス領であり、スペインと国境を接する。ジブラルタルの主権は、スペイン継承戦争の後、1713年にユトレヒト条約によってスペインからイギリスに移った[3]。2002年時点で、イギリスとスペインは「この山を巡る何世紀にもわたる領有権問題に終止符を打つ」べく協議している[4]。山頂近くの殆どは自然保護区となっており、約250頭のバーバリーマカクの棲家となっている。これらの猿と、迷宮のような地下道網は、毎年多くの観光客を呼び寄せている。
ザ・ロックは、ジブラルタル海峡を挟んだ対岸の北アフリカのモンテ・アチョ(英語版)あるいはイェベル・モウッサ(英語版)にあるもう一つの山と共にヘラクレスの柱をなし、古代ローマ人から「カルプ山」と呼ばれていた。かつてここは世界の最果てとみなされ、その神話は元はフェニキア人が育んだものである[2][5]。
目次 [非表示]
1 地質
2 要塞 2.1 ムーア城
2.2 地下道
2.3 第二次世界大戦とその後
2.4 難攻不落
3 山頂近辺の自然保護 3.1 動植物相 3.1.1 鳥
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
地質[編集]
ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、ひっくり返った褶曲が深く侵食し、各所に断層が生じている。ザ・ロックを構成する堆積岩地層は、天地逆にひっくり返っており、古い地層が新しい地層の上に横たわっている。これらの地層はカタラン・ベイ(英語版)頁岩層(最新)、ジブラルタル石灰岩、リトル・ベイ頁岩層(最古)、ドックヤード頁岩層(年代不明)である。これらの地層は著しく断層が生じ、変形している[6]。
カタラン・ベイ頁岩層は、殆どが頁岩からなる。これは、茶色の石灰質の砂岩、柔らかい頁岩質の砂岩と濃紺の石灰岩が交互に重なった層、緑がかった灰色の泥灰土(英語版)と濃い灰色のチャートが交互に重なった層、それらからなる厚い層を含む。カタラン・ベイ頁岩層には、同定はできないがウニの棘、ベレムナイト類(英語版)のかけら、稀にジュラ紀前期のアンモナイトも見られる[6]。
ジブラルタル石灰岩には、灰色がかった白あるいは薄灰色の、目の詰まった、時にきれいに結晶化した、中程度あるいは厚い石灰岩と苦灰岩からなり、そこにはチャートの薄い層が含まれる。この地層は、ザ・ロックの約 1/3 を占める。地質学者たちはここから、原型をとどめず激しく侵食・変形した様々な海洋生物の化石を発見してきた。ジブラルタル石灰岩で発見された化石には、様々な腕足動物、サンゴ、ウニのかけら、(アンモナイトを含む)腹足綱、二枚貝、ストロマトライトがある。これらの化石は、ジブラルタル石灰岩が堆積したのがジュラ紀前期であることを示す[6]。
リトルベイ頁岩層とドックヤード頁岩層がザ・ロックに占める割合は非常に少ない。リトルベイ頁岩層は、紺色がかった灰色の、化石を含まない頁岩であり、天然砥石、泥岩、石灰岩の薄い層が交互に層になっている。これはジブラルタル石灰岩により先に形成された。ドックヤード頁岩層は年代不明のまだらの頁岩で、ジブラルタルの造船所と護岸構造物の下に横たわっている[6]。
これらの地質学的な岩層は、1億7500万年〜2億年前のジュラ紀初期の間に堆積したものであるが、これが現在のように地表に現われたのはもっと最近、約500万年前のことである。アフリカプレートがユーラシアプレートと激しく衝突した時、地中海は湖となり、メッシニアン塩分危機の間、長い年月をかけて完全に干上がっていった。その後、大西洋はジブラルタル海峡から堰を切って流れ込み、その洪水が地中海を形成した。ザ・ロックは、南東イベリアを特徴づける山脈である Baetic 山地の一部となっている[6]。
サン・マイケル洞窟(英語版)の内部
今日、ザ・ロックはスペイン南岸からジブラルタル海峡へ突き出た半島を形成している。この岬は、最高で標高3メートルの砂洲で本土とつながる陸繋島である[7]。ザ・ロックの北面は、海面高度から標高411.5メートルのロック・ガン砲台まで垂直に切り立っている。ザ・ロックの最高地点は、海峡を見下ろすオハラ砲台の標高426メートル地点にあたる。ザ・ロックの中心部にある頂点はシグナル・ヒルと言い、標高387メートルである。ザ・ロックの東側は殆ど崖になっており、その下の風が吹きつける一続きの砂の傾斜地は海面が今より低かった氷河期まで遡る。ザ・ロックの基部から東へは砂の平地が延びている。ジブラルタルの町がある西面は、比較的傾斜は緩やかである。
ザ・ロックの頂上から北を望んだパノラマ写真
石灰岩を形成する方解石は、雨水で徐々に溶かされる。時と共に、この作用は洞窟を形成する。これにより、ザ・ロックには100以上の洞窟が存在する。ザ・ロックの西斜面中程にあるサン・マイケル洞窟(英語版)は、その中でも最も有名なもので、観光名所になっている。
ゴーラム洞窟(英語版)は、ザ・ロックの険しい東斜面の海面近くにある。ここは考古学的発掘調査の結果、3万年前にネアンデルタール人が住んでいた証拠が見つかったという点で特記すべきものである。また洞窟内(及び周辺)で見つかった植物と動物の遺物は、ネアンデルタール人たちが非常に多様な飲食物を摂っていたことを示しており、特に重要である[8]。
要塞[編集]
英国旗をはためかせるムーア城
帝国マーケティング部(英語版)用にチャールズ・ピアズ(英語版)が描いたザ・ロック
ムーア城[編集]
詳細は「ムーア城」を参照
ムーア城は、710年間にわたりジブラルタルを支配したムーア人の遺物である。これは今もザ・ロックの別名として名を残すベルベル人の首領ターリク・イブン=ズィヤードが初めてザ・ロックに足を踏み入れた711年に建てられた。17世紀のイスラム教徒の歴史家アル・マッカリーは、ターリクは上陸の際、自らの船団を焼き払ったと記している。
この遺物の主建築物は、タワー・オブ・ハミッジであり、これは煉瓦と、tapia と呼ばれる非常に硬いコンクリートからなる、がっしりした建物である。塔の上部には、以前の居住者たちの住居およびムーア浴場がある。
地下道[編集]
湾から見た見たザ・ロック北面の崖(1810年頃)。崖に並んだ銃眼が見える。
ザ・ロックならではの呼び物の一つは、Galleries(地下道網)あるいは Great Siege Tunnels(大包囲戦トンネル)と呼ばれる地下トンネル網である。
それらのうち最初のものは、ジブラルタル包囲戦(1779年 - 1783年)の終わりにかけて掘られた。攻城戦を通じて守備隊を指揮したエリオット将軍(英語版)(のちヒースフィールド卿)は、ザ・ロックの北面下の平地にいるスペイン軍の砲列に側面から砲撃できないものかと気を揉んでいた。そして王立工兵(英語版)のインス軍曹の提案により、ウィリス砲台の上から、北面にある天然の突出部「ザ・ノッチ」まで連絡すべく、トンネルを掘らせた。そこに砲台を築くという計画であった。当初はこのトンネルに銃眼用の穴を開ける計画は無かったが、換気用の穴が必要だと分かり、穴が開けられるとすぐにそこへ大砲が据えられた。包囲戦が終わるまでに、イギリス軍は同様の銃眼用の穴を6箇所開け、4門の大砲を据えた。
観光客が訪れる地下道は、同様の意図で後年に掘られたもので、1797年に完成した。これらは、いくつかの広間、銃眼、通路からなるネットワークであり、総延長はほぼ304メートルである。それらから、ジブラルタル湾(英語版)、地峡、スペインにおよぶ独特の景観を目にすることができる。
第二次世界大戦とその後[編集]
1939年に第二次世界大戦が発生すると、当局は一般市民をモロッコ、イギリス、ジャマイカ、マデイラ諸島へ避難させ、これにより軍は、起こりうるドイツ軍の攻撃に対しジブラルタルを要塞化することができた。1942年には、3万人以上のイギリス軍兵士、水兵、航空兵がザ・ロックにいた。彼らはトンネル網を拡充し、ザ・ロックを地中海への航路防衛における要石とした。
1997年2月、イギリス軍がトレーサー作戦という秘密計画を持っていたことが明らかになった。これはドイツ軍に占領された場合、ザ・ロックの下のトンネルに兵士らを隠しておくというものだった。そこでは、部隊は敵の動きを報告するために無線設備を使う予定だった。6人編成のチームが2年半の間、ジブラルタルに秘密裏に待機した。しかしドイツ軍がここを占領しに近づくことはなく、彼らが岩の中に移ることもなかった。このチームは戦争が終わると解散し、一般市民に戻った。
難攻不落[編集]
長い包囲戦の歴史の中で、ザ・ロックとそこの人々を打ち負かせたものはいないように思われる。これにより、克服不能かつ不動の人物や状況を指す「堅きことジブラルタルの岩の如し」という言葉が生まれた[9]。ラテン語で "Nulli Expugnabilis Hosti"(いかなる敵も我らを退かし得ず)はジブラルタル連隊(英語版) 、時にはジブラルタルそのもののモットーとされるが、それはこの難攻不落さを表したものである。
山頂近辺の自然保護[編集]
Upper Rock Nature Reserve
IUCNカテゴリIa(厳正保護地域)
Rock of Gibraltar.jpg
自然保護区に含まれるザ・ロックの尾根を、北向き(スペイン方向)へ見たところ。
地域
ザ・ロック
最寄り
ジブラルタル
座標
北緯36度08分43秒 西経05度20分35秒
創立日
1993年
運営組織
Gibraltar Ornithological and Natural History Society
ジブラルタルの陸上部分の約40パーセントは1993年に自然保護区に指定された。
動植物相[編集]
ザ・ロックの地中海階段状地 (Mediterranean Steps) で自らの子供に授乳する雌のバーバリーマカク
アッパー・ロック自然保護区(山頂近辺の自然保護区)の動植物相は、生態保全の対象として法律で保護されている[10]。ここには様々な動植物がいるが、有名なのがバーバリーマカク(Rock Apes)、バーバリーパートリッジ(英語版)、ジブラルタル特有の Chickweed(ハコベの類)、タイム、Iberis gibraltarica(アブラナの一種)といった花である[要出典]。バーバリーマカクたちの祖先は、北アフリカから逃れてスペインに渡ったものかもしれない。あるいは、550万年前まで遡る鮮新世の間、南ヨーロッパ全体に分布したとされる種族の生き残りかもしれない[11][12]。3頭のバーバリーマカクを飼っているアラメダ野生生物保護公園は、ザ・ロックの動物のうちのいくつかを再移入してきている。
鳥[編集]
ジブラルタル海峡に突き出たザ・ロックは際立った突端となっており、渡りの季節には渡り鳥たちが集まってくる。南イベリア半島では独特となるザ・ロックの植生は、海と砂漠を越えて渡りを続ける前に羽を休めて腹ごしらえをする各種の渡り鳥たちに一時の棲家を提供する。春になると彼らは戻ってきて、西ヨーロッパ、グリーンランド、ロシアへと旅を続けてゆく[13]。
バードライフ・インターナショナルはザ・ロックを重要野鳥生息地と認定している。理由として第一に、毎年海峡を渡る25万匹と見積もられる猛禽類たちにとって渡りの要地となっている点、第二にバーバリーパートリッジ(英語版)とヒメチョウゲンボウの繁殖を支えている点が挙げられる[14]。
ザ・ロックは、ジブラルタル海峡を挟んだ対岸の北アフリカのモンテ・アチョ(英語版)あるいはイェベル・モウッサ(英語版)にあるもう一つの山と共にヘラクレスの柱をなし、古代ローマ人から「カルプ山」と呼ばれていた。かつてここは世界の最果てとみなされ、その神話は元はフェニキア人が育んだものである[2][5]。
目次 [非表示]
1 地質
2 要塞 2.1 ムーア城
2.2 地下道
2.3 第二次世界大戦とその後
2.4 難攻不落
3 山頂近辺の自然保護 3.1 動植物相 3.1.1 鳥
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
地質[編集]
ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、ひっくり返った褶曲が深く侵食し、各所に断層が生じている。ザ・ロックを構成する堆積岩地層は、天地逆にひっくり返っており、古い地層が新しい地層の上に横たわっている。これらの地層はカタラン・ベイ(英語版)頁岩層(最新)、ジブラルタル石灰岩、リトル・ベイ頁岩層(最古)、ドックヤード頁岩層(年代不明)である。これらの地層は著しく断層が生じ、変形している[6]。
カタラン・ベイ頁岩層は、殆どが頁岩からなる。これは、茶色の石灰質の砂岩、柔らかい頁岩質の砂岩と濃紺の石灰岩が交互に重なった層、緑がかった灰色の泥灰土(英語版)と濃い灰色のチャートが交互に重なった層、それらからなる厚い層を含む。カタラン・ベイ頁岩層には、同定はできないがウニの棘、ベレムナイト類(英語版)のかけら、稀にジュラ紀前期のアンモナイトも見られる[6]。
ジブラルタル石灰岩には、灰色がかった白あるいは薄灰色の、目の詰まった、時にきれいに結晶化した、中程度あるいは厚い石灰岩と苦灰岩からなり、そこにはチャートの薄い層が含まれる。この地層は、ザ・ロックの約 1/3 を占める。地質学者たちはここから、原型をとどめず激しく侵食・変形した様々な海洋生物の化石を発見してきた。ジブラルタル石灰岩で発見された化石には、様々な腕足動物、サンゴ、ウニのかけら、(アンモナイトを含む)腹足綱、二枚貝、ストロマトライトがある。これらの化石は、ジブラルタル石灰岩が堆積したのがジュラ紀前期であることを示す[6]。
リトルベイ頁岩層とドックヤード頁岩層がザ・ロックに占める割合は非常に少ない。リトルベイ頁岩層は、紺色がかった灰色の、化石を含まない頁岩であり、天然砥石、泥岩、石灰岩の薄い層が交互に層になっている。これはジブラルタル石灰岩により先に形成された。ドックヤード頁岩層は年代不明のまだらの頁岩で、ジブラルタルの造船所と護岸構造物の下に横たわっている[6]。
これらの地質学的な岩層は、1億7500万年〜2億年前のジュラ紀初期の間に堆積したものであるが、これが現在のように地表に現われたのはもっと最近、約500万年前のことである。アフリカプレートがユーラシアプレートと激しく衝突した時、地中海は湖となり、メッシニアン塩分危機の間、長い年月をかけて完全に干上がっていった。その後、大西洋はジブラルタル海峡から堰を切って流れ込み、その洪水が地中海を形成した。ザ・ロックは、南東イベリアを特徴づける山脈である Baetic 山地の一部となっている[6]。
サン・マイケル洞窟(英語版)の内部
今日、ザ・ロックはスペイン南岸からジブラルタル海峡へ突き出た半島を形成している。この岬は、最高で標高3メートルの砂洲で本土とつながる陸繋島である[7]。ザ・ロックの北面は、海面高度から標高411.5メートルのロック・ガン砲台まで垂直に切り立っている。ザ・ロックの最高地点は、海峡を見下ろすオハラ砲台の標高426メートル地点にあたる。ザ・ロックの中心部にある頂点はシグナル・ヒルと言い、標高387メートルである。ザ・ロックの東側は殆ど崖になっており、その下の風が吹きつける一続きの砂の傾斜地は海面が今より低かった氷河期まで遡る。ザ・ロックの基部から東へは砂の平地が延びている。ジブラルタルの町がある西面は、比較的傾斜は緩やかである。
ザ・ロックの頂上から北を望んだパノラマ写真
石灰岩を形成する方解石は、雨水で徐々に溶かされる。時と共に、この作用は洞窟を形成する。これにより、ザ・ロックには100以上の洞窟が存在する。ザ・ロックの西斜面中程にあるサン・マイケル洞窟(英語版)は、その中でも最も有名なもので、観光名所になっている。
ゴーラム洞窟(英語版)は、ザ・ロックの険しい東斜面の海面近くにある。ここは考古学的発掘調査の結果、3万年前にネアンデルタール人が住んでいた証拠が見つかったという点で特記すべきものである。また洞窟内(及び周辺)で見つかった植物と動物の遺物は、ネアンデルタール人たちが非常に多様な飲食物を摂っていたことを示しており、特に重要である[8]。
要塞[編集]
英国旗をはためかせるムーア城
帝国マーケティング部(英語版)用にチャールズ・ピアズ(英語版)が描いたザ・ロック
ムーア城[編集]
詳細は「ムーア城」を参照
ムーア城は、710年間にわたりジブラルタルを支配したムーア人の遺物である。これは今もザ・ロックの別名として名を残すベルベル人の首領ターリク・イブン=ズィヤードが初めてザ・ロックに足を踏み入れた711年に建てられた。17世紀のイスラム教徒の歴史家アル・マッカリーは、ターリクは上陸の際、自らの船団を焼き払ったと記している。
この遺物の主建築物は、タワー・オブ・ハミッジであり、これは煉瓦と、tapia と呼ばれる非常に硬いコンクリートからなる、がっしりした建物である。塔の上部には、以前の居住者たちの住居およびムーア浴場がある。
地下道[編集]
湾から見た見たザ・ロック北面の崖(1810年頃)。崖に並んだ銃眼が見える。
ザ・ロックならではの呼び物の一つは、Galleries(地下道網)あるいは Great Siege Tunnels(大包囲戦トンネル)と呼ばれる地下トンネル網である。
それらのうち最初のものは、ジブラルタル包囲戦(1779年 - 1783年)の終わりにかけて掘られた。攻城戦を通じて守備隊を指揮したエリオット将軍(英語版)(のちヒースフィールド卿)は、ザ・ロックの北面下の平地にいるスペイン軍の砲列に側面から砲撃できないものかと気を揉んでいた。そして王立工兵(英語版)のインス軍曹の提案により、ウィリス砲台の上から、北面にある天然の突出部「ザ・ノッチ」まで連絡すべく、トンネルを掘らせた。そこに砲台を築くという計画であった。当初はこのトンネルに銃眼用の穴を開ける計画は無かったが、換気用の穴が必要だと分かり、穴が開けられるとすぐにそこへ大砲が据えられた。包囲戦が終わるまでに、イギリス軍は同様の銃眼用の穴を6箇所開け、4門の大砲を据えた。
観光客が訪れる地下道は、同様の意図で後年に掘られたもので、1797年に完成した。これらは、いくつかの広間、銃眼、通路からなるネットワークであり、総延長はほぼ304メートルである。それらから、ジブラルタル湾(英語版)、地峡、スペインにおよぶ独特の景観を目にすることができる。
第二次世界大戦とその後[編集]
1939年に第二次世界大戦が発生すると、当局は一般市民をモロッコ、イギリス、ジャマイカ、マデイラ諸島へ避難させ、これにより軍は、起こりうるドイツ軍の攻撃に対しジブラルタルを要塞化することができた。1942年には、3万人以上のイギリス軍兵士、水兵、航空兵がザ・ロックにいた。彼らはトンネル網を拡充し、ザ・ロックを地中海への航路防衛における要石とした。
1997年2月、イギリス軍がトレーサー作戦という秘密計画を持っていたことが明らかになった。これはドイツ軍に占領された場合、ザ・ロックの下のトンネルに兵士らを隠しておくというものだった。そこでは、部隊は敵の動きを報告するために無線設備を使う予定だった。6人編成のチームが2年半の間、ジブラルタルに秘密裏に待機した。しかしドイツ軍がここを占領しに近づくことはなく、彼らが岩の中に移ることもなかった。このチームは戦争が終わると解散し、一般市民に戻った。
難攻不落[編集]
長い包囲戦の歴史の中で、ザ・ロックとそこの人々を打ち負かせたものはいないように思われる。これにより、克服不能かつ不動の人物や状況を指す「堅きことジブラルタルの岩の如し」という言葉が生まれた[9]。ラテン語で "Nulli Expugnabilis Hosti"(いかなる敵も我らを退かし得ず)はジブラルタル連隊(英語版) 、時にはジブラルタルそのもののモットーとされるが、それはこの難攻不落さを表したものである。
山頂近辺の自然保護[編集]
Upper Rock Nature Reserve
IUCNカテゴリIa(厳正保護地域)
Rock of Gibraltar.jpg
自然保護区に含まれるザ・ロックの尾根を、北向き(スペイン方向)へ見たところ。
地域
ザ・ロック
最寄り
ジブラルタル
座標
北緯36度08分43秒 西経05度20分35秒
創立日
1993年
運営組織
Gibraltar Ornithological and Natural History Society
ジブラルタルの陸上部分の約40パーセントは1993年に自然保護区に指定された。
動植物相[編集]
ザ・ロックの地中海階段状地 (Mediterranean Steps) で自らの子供に授乳する雌のバーバリーマカク
アッパー・ロック自然保護区(山頂近辺の自然保護区)の動植物相は、生態保全の対象として法律で保護されている[10]。ここには様々な動植物がいるが、有名なのがバーバリーマカク(Rock Apes)、バーバリーパートリッジ(英語版)、ジブラルタル特有の Chickweed(ハコベの類)、タイム、Iberis gibraltarica(アブラナの一種)といった花である[要出典]。バーバリーマカクたちの祖先は、北アフリカから逃れてスペインに渡ったものかもしれない。あるいは、550万年前まで遡る鮮新世の間、南ヨーロッパ全体に分布したとされる種族の生き残りかもしれない[11][12]。3頭のバーバリーマカクを飼っているアラメダ野生生物保護公園は、ザ・ロックの動物のうちのいくつかを再移入してきている。
鳥[編集]
ジブラルタル海峡に突き出たザ・ロックは際立った突端となっており、渡りの季節には渡り鳥たちが集まってくる。南イベリア半島では独特となるザ・ロックの植生は、海と砂漠を越えて渡りを続ける前に羽を休めて腹ごしらえをする各種の渡り鳥たちに一時の棲家を提供する。春になると彼らは戻ってきて、西ヨーロッパ、グリーンランド、ロシアへと旅を続けてゆく[13]。
バードライフ・インターナショナルはザ・ロックを重要野鳥生息地と認定している。理由として第一に、毎年海峡を渡る25万匹と見積もられる猛禽類たちにとって渡りの要地となっている点、第二にバーバリーパートリッジ(英語版)とヒメチョウゲンボウの繁殖を支えている点が挙げられる[14]。
ジブラルタル
ジブラルタル(Gibraltar)は、イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占める、イギリスの海外領土。ジブラルタル海峡を望む良港を持つため、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地、すなわち「地中海の鍵[1]」として軍事上・海上交通上、重要視されてきた[2]。現在もイギリス軍が駐屯する。
半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、古代より西への航海の果てにある「ヘラクレスの柱」の一つとして知られてきた。半島は8世紀よりムーア人、レコンキスタ後はカスティーリャ王国、16世紀よりスペイン、18世紀よりイギリスの占領下にあるが、その領有権を巡り今もイギリス・スペイン間に争いがある。
地名の由来は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島を征服したウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードにちなんでおり、アラビア語で「ターリクの山」を意味するジャバル・アル・ターリク[1](Jabal al-Ţāriq[3]、亜: جبل طارق)が転訛したものである。なお、ジブラルタルの英語での発音は「ジブラルタ」、スペイン語での発音は「ヒブラルタル」[4]に近い。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 古代
1.2 ムスリム支配期(711年 - 1462年)
1.3 カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)
1.4 イギリス領期(1713年 - )
2 地形 2.1 ザ・ロック
3 気候
4 生物
5 政治 5.1 帰属問題
6 経済
7 社会
8 交通
9 エピソード
10 ギャラリー
11 脚注
12 関連書籍
13 外部リンク
歴史[編集]
詳細は「ジブラルタルの歴史(英語版)」を参照
古代[編集]
人類の痕跡は古く、ネアンデルタール人の遺跡が発見されている。紀元前950年にフェニキア人がジブラルタルに初めて定住するようになった。その後もローマ人やヴァンダル族、ゴート族などがジブラルタルに訪れたが、どれも永住ではなかった。フェニキア人国家のカルタゴが第1次ポエニ戦争後にジブラルタルと南イベリア半島を勢力下としたのち、第2次ポエニ戦争によってローマ帝国がジブラルタルとイベリア半島を属領としたものの、400年代初期から西ゴート族がイベリア半島に居住するようになり、西ローマ帝国滅亡後は西ゴート王国の支配下となった。
ムスリム支配期(711年 - 1462年)[編集]
711年、西ゴート王国はウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードに征服され、滅亡する。ムーア人の支配を受けてイスラム圏に入るが、およそ4世紀の間ジブラルタルが発展することはなかった。756年には後ウマイヤ朝が成立。変遷を経て1309年にナスル朝グラナダ王国の一部となる。カスティーリャ王国によって一時占領されるが、1333年にマリーン朝が奪還し、マリーン朝はグラナダ王国にジブラルタルを割譲した。
カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)[編集]
1462年にメディナ・シドニア公がジブラルタルを奪取し、750年間に渡るムーア人の支配を終えた。 メディナ・シドニアは追放されたスペイン・ポルトガル系ユダヤ人にジブラルタルの土地を与え、コンベルソのペドロ・デ・エレアがコルドバとセビリアから一団のユダヤ人を移住させ、コミュニティが建設された。そして、半島を守るため駐屯軍が設立された。しかし、セファルディムとなったユダヤ人は数年後にコルドバか異端審問所に送還された。フェルナンド2世がスペイン王国を打ちたて、1501年にはジブラルタルもスペイン王国の手の下に戻った。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られた。
八十年戦争中の1607年にオランダ艦隊がスペイン艦隊を奇襲し、ジブラルタル沖が戦場となった(ジブラルタルの海戦)。この海戦でスペイン艦隊は大きな打撃を被った。1701年にスペイン王位継承で候補者の1人カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の即位を後押しするオーストリア、イギリス、オランダがフランス王ルイ14世とスペイン王フェリペ5世に宣戦布告し、スペイン継承戦争が始まると、オーストリア、イギリス、オランダの同盟艦隊はスペイン南岸にある港町の襲撃を繰り返した。
1704年8月4日、ジョージ・ルーク提督率いるイギリスとオランダの艦隊の支援の下、オーストリアの軍人であるゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世の息子)指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸した。交渉の末、住民は自主退去を選択し、海兵隊はジブラルタルを占領した(ジブラルタルの占領)。フランス・スペイン連合軍はジブラルタル奪回のため艦隊をトゥーロンから派遣、それを阻止しようとルーク率いるイギリス・オランダ海軍が迎撃に向かい、フランス・スペイン海軍が撤退したことでジブラルタルは確保された(マラガの海戦)。
イギリス領期(1713年 - )[編集]
1713年4月11日にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結するものの、その条約でジブラルタルはイギリス領として認められ、スペインは奪回の機を失った。 アメリカ独立戦争中はスペインが独立軍の支援にまわり、1779年からジブラルタルへの厳重な封鎖を行った(ジブラルタル包囲戦)。イギリス軍は1782年に浮き砲台と包囲兵を撃破し、包囲網を破ることに成功した。翌年にはパリ条約に先立ち、講和が行われ、ジブラルタルは解放された。
1805年、トラファルガーの海戦ではイギリス海軍の拠点となった。その後、インドへのルートにスエズ運河の開通で地中海が加わり、蒸気機関を動力とする装甲巡洋艦などが海軍で普及すると給炭基地の役割も求められ、ジブラルタルが重要視されるようになった。第二次世界大戦中もジブラルタル海峡の封鎖を行っていたフランスがドイツに敗北し、親独政権であるヴィシー政権が設立されフランス海軍がその指揮下に入ると、イギリス海軍H部隊がジブラルタルに配備された。トーチ作戦ではアメリカ軍もジブラルタルを拠点にした。
第二次世界大戦後は、東西冷戦がはじまるもイギリス海軍が役割を縮小すると同時にジブラルタルの軍事的役割も低下している。1967年にイギリス地中海艦隊が解体され、これに代わるアメリカ海軍第6艦隊はイタリアのガエータを拠点にしている。しかし、1982年のフォークランド戦争で再び基地の重要性が確認され、現在もイギリス海軍のジブラルタル戦隊(Gibraltar Squadron)が駐留している。
地形[編集]
ジブラルタルの地図
領域は南北に細長く伸びた半島になっており、南北に5キロ、東西に1.2キロある[5]。東は地中海、南はジブラルタル海峡、西はジブラルタル湾(英語版)に面する。北側は砂質の低地でスペイン本土と繋がり、いわゆる陸繋島となっている[2]。
半島の南端はエウローパ岬(英語版)(ヨーロッパ岬)と呼ばれ、そこからジブラルタル海峡をはさんだアフリカ側にはスペイン領セウタがある。一方、北側の砂州にはジブラルタル空港があり、その北に幅800メートルの中立地帯(イスモ、Istmo[6])が設けられて国境を成し[2]、さらにその北がスペイン本土の町ラ・リネアである。
ザ・ロック[編集]
詳細は「ジブラルタルの岩」を参照
半島の大半を占める、石灰岩と頁岩からなる岩山は「ザ・ロック」と呼ばれる。東側は事実上登攀不能の崖であり[7]、西側も山頂付近は急峻だが、中腹以下は比較的緩やかな傾斜となって市街地が階段状に連なり[5]、さらに下った沿岸部分は港湾施設が大部分を占める[5]。最高峰(ターリク山)は岩山の南側頂点にあたるオハラ砲台(英語版)跡の展望台で、海抜426メートルある。北側頂点(トップ・オブ・ザ・ロック、海抜412メートル)には麓の市街からロープウェーで登ることができ、徒歩による九十九折のトレッキングコースもある。こちらも展望台があり、レストランなどもある。
石灰岩地質によって形成された鍾乳洞が山の中腹にある。鍾乳洞は見学ができ、見学コースの途中には、世界的にも珍しい鍾乳洞の空間を利用したコンサートホールがあるが、自然の鍾乳洞に手が加えられていて、自然保護からの観点から賛否がある。
また岩山を掘って作られた主に軍事目的の地下通路、弾薬庫、貯蔵庫などもあり、掘り出された土砂は北西岸の埋め立て(飛行場建設など)に使われた[2]。
ジブラルタルには自然の湧水源や河川が無く[5][7]、夏季に全く雨が降らないこともしばしばであるため[7]、東側山麓の斜面に岩山そのものを穿った雨水用の貯水槽が作られている[5]。上水はそこから集めた水、ポンプでくみ上げた水、海水を蒸留した水をブレンドして供給されている[5](非飲料用としては海水も利用されている[5])。
気候[編集]
地中海性気候及び亜熱帯に属する。夏季は高温多湿であり、冬季は比較的温暖で降雨も適度にある[5]。
[隠す]ジブラルタルの気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
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8月
9月
10月
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年
平均最高気温 °C (°F)
16
(61) 16
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(70) 24
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日平均気温 °C (°F)
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(55) 13
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平均最低気温 °C (°F)
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(63) 20
(68) 20
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(61) 13
(55) 12
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(59)
降水量 cm (inch)
12
(4.7) 10
(3.9) 10
(3.9) 6
(2.4) 3
(1.2) 1
(0.4) 0
(0) 0
(0) 2
(0.8) 7
(2.8) 14
(5.5) 13
(5.1) 83
(32.7)
出典: Weatherbase
生物[編集]
バーバリーマカク
植生は500種以上にのぼる[5]。ザ・ロックの頂上付近にはオリーブやパイナップルが自生し[5]、ジブラルタル・キャンディタフトというこの地特有の花も見られる[7]。
ザ・ロックはヨーロッパで唯一となる野生猿の生息地である[5][7]。これらのバーバリーマカクはマカク属なのでニホンザルと近縁だが、オスの成体は体毛が長くタイワンザルに似ている。彼らがジブラルタルからいなくなったら英国がジブラルタルから撤退するとの伝説がある[8]。この猿達の世話はイギリス陸軍砲兵隊の管轄。また第二次世界大戦中に物資不足から猿の個体数が減少したがチャーチル首相が直々に猿の保護を命じたという逸話が残っている。
猿のほかには、ウサギ、キツネなどの小動物がみられる[5]。また、ザ・ロックは渡り鳥の群れの中継地点ともなっている[7]。
政治[編集]
ジブラルタル議会
1969年の憲法制定以来、ジブラルタル自治政府によって、防衛以外では内政に関して完全な自治が行なわれている[5](ただし、国際連合非自治地域リストに掲載されてもいる)。イギリス国家が選任し、イギリス国王によって任命されるジブラルタル総督が行政上の最高権限を持ち、最高軍事司令官(守備隊長[1])を兼ねる[5]。
選挙権は18歳以上のジブラルタル人と、6ヶ月以上居住しているイギリス人に与えられる[5]。4年毎の選挙によって、ジブラルタル議会(一院制)の議員17名が選ばれる。また、彼ら以外に1名の議長が総督によって任命される。議会の多数党党首より選出された首相(英語版)は議員のうちから9名の閣僚を選任し、ともに総督によって任命される。
帰属問題[編集]
1713年のユトレヒト条約以降イギリスが統治を続けているジブラルタルだが、スペインは今も返還を求めている。ジブラルタルはヨーロッパに残る最後の「植民地」であり[6]、また係争当事国がいずれもEU加盟国である点、係争が300年もの長きにわたっている点で、世界の領土問題のなかでも異色の存在と言える[6]。
スペインの基本的見解は、ユトレヒト条約第10条はジブラルタルの町、城、それに付随する港、要塞の所有と軍事利用をイギリスに認めたに過ぎず、主権はスペインに残っているというものである[1]。スペインにとってジブラルタルは長らく「スペインの靴の中に入ったペニョン(岩山)」となっている[6]。しかし返還を求めるスペインの主張は、モロッコのセウタなど自らの植民地所有と矛盾するものでもある[9]。一方、現在のイギリス統治が住民から圧倒的支持を受けていることは1967年9月の住民投票から明らかであるが[2][5]、同年12月に国連の非植民地化委員会(英語版)はイギリスのジブラルタル領有を植民地主義的だとして返還を促す決議を採択している[2][9]。
1704年のイギリスによるジブラルタル占領以降、スペインはジブラルタルを武力で奪回すべく1705年、1727年、1783年に包囲戦をしかけたが、いずれも失敗した[1]。またその後の外交による交渉も全て不首尾に終わった[1]。19世紀後半以降、スペインの国力が衰えている時期にイギリスは国境を北へ押し上げる行動に出た[6]。最終的にこれはスペイン本土との間に非武装中立地帯を設けることで落ち着いたが、ここの境界線の画定は今も棚上げされた状態である[6]。
1954年2月、イギリスの植民地を歴訪していたエリザベス2世がスペインの抗議にも関わらず[1]最後の訪問地としてジブラルタルに入ると、スペイン各地で抗議運動が沸き起こった[6]。スペインは翌1955年に国連加盟を果たし、さっそくジブラルタル問題を国際世論に訴えかけ、1957年にジブラルタル返還を求めて国連に提訴した[6]。1960年代には運動を強化し[5]、1964年に国連の非植民地化委員会へ返還要求を提出した[2]。イギリスはこれに対し、イギリス統治の可否を問う住民投票を1967年に実施し、住民は 12138 対 44 という圧倒的大差でイギリスへの帰属を選択した[5]。この投票はスペインの態度を決定的に硬化させ、1969年にスペインは国境を封鎖して物流とスペイン人の通勤を差し止めるという、ジブラルタルに対する経済封鎖に踏み切った[1][5]。これによってジブラルタルは陸の孤島と化し、往来はモロッコ経由かロンドンからの航空便に頼るしかなくなった[2]。1982年にスペインに社会労働党政権が発足すると[5]、徒歩での往来が許可されるなど封鎖は部分的に解かれ[2]、両国間の交渉再開が宣言された[5]。1985年には封鎖は完全に解除された[2][5]。
2002年には共同主権の検討がなされた。これに対し、地元の二大政党である保守系のジブラルタル社会民主党(英語版)および革新系のジブラルタル社会主義労働党(英語版)は、共にスペインに対する主権の譲渡に強硬な反対を行い、住民投票においても90%以上が反対の意思を示したため、この構想は実現しなかった。これ以降、帰属に関する交渉はイギリス、スペインにジブラルタル自治政府を加えた三者間会議に移り、2006年9月に初の会議が開かれた[8]。ジブラルタル自治政府はその3ヶ月後、自治権拡大を意図した新憲法草案を住民投票にかけ、可決させた[8]。
ジブラルタルの独立を求める声もある。特にジブラルタルの元首相でもある、ジブラルタル社会主義労働党のジョー・ボサノ(英語版)党首はEUの後援の元での、独立を求めていた。
経済[編集]
ジブラルタル港(左)と市街
ジブラルタルの主な経済基盤は、第一には駐留するイギリス軍(守備隊および海軍ドック)に関する軍事関連産業である[1][2][5]。ほか、ジブラルタル港では自由港として中継貿易も多く行なわれている[1][5]。ジブラルタルはもともと領土が狭く、さらに平地が限られるため、農業は殆ど見られない[5]。工業も小規模な食品加工関連(タバコ、飲料、缶詰など)があるだけである[5]。近年は観光開発にも力を入れており、1988年には377万人が観光に訪れた[5]。またスペインに対して相対的に低い法人税が銀行・金融部門の成長を促しており、2013年時点で同部門がGDPに占める割合は25-30%に増加、特にオンライン・ギャンブル関連はGDPの15%を占めるまでになっている[10]。ジブラルタルで正規に登録されている企業は1万8000社にのぼるが[10]、ペーパーカンパニーも少なくなく[11]、租税回避地として域外(特にスペイン[10])から問題視されているという面もある[11]。
人口の約60%は総督府に雇用されている[2]。民間部門では建設業、船舶修理業、観光業などの従事者が多くみられる[5]。
通貨としてジブラルタル・ポンド(イギリス・ポンドと等価)が発行されている。ジブラルタルではイギリス・ポンドも使えるが、逆にイギリス本国でジブラルタル・ポンドを使うことはできない[12]。ユーロが使える店舗も多いが、レートにばらつきがある[12]。ジブラルタルには消費税がない[10]。
社会[編集]
セント・マリー・ザ・クラウンズ教会
3万人近い人口のうち、イギリス系 27%、スペイン系 24%、イタリア系 19%、ポルトガル系 11%、他 19%という比率になっている[6]。また、スペインはユダヤ人を追放したことから独特のユダヤ人コミュニティが成立している。小売業に多いインド人やモロッコからの労働者もそれぞれコミュニティを形成している[5]。1925年以前にジブラルタルで生まれたもの及びその子孫である「ジブラルタル人」はイギリスの完全な市民権を認められており、人口全体の2/3を占める[5]。それ以外の外国人(人口全体の1/5)および軍関係者は居住権が無いため居住許可証を必要とする[5]。スペイン本土からは毎日1万人ほどが越境通勤してくる[10]。
住民の多くはカトリックであり[1][5]、ジブラルタル教区の司教座聖堂としてセント・マリー・ザ・クラウンズ教会が置かれている。またイングランド国教会の主教座聖堂としてはホーリー・トリニティ教会があり、こちらのジブラルタル教区はスペイン・ポルトガル・モロッコと広範囲にわたる。
公用語は英語であるが、殆どの住人はスペイン語を母語とする[1]バイリンガルである[5]。また、英語の影響を受けたスペイン語方言であるジャニート語(英語版)(ラニト語)も話されており、ジブラルタル人は自分たちのことをジャニートス(西: Llanitos)と呼ぶことがある[6]。ほか、ヘブライ語、アラビア語も用いられている。
教育は、4-15歳を義務教育とし、公立小学校が12校、公立総合中学校が2校、私立小学校が2-3校ある[5]。大学などの高等教育はイギリス本国で受けることになる[5]。
交通[編集]
ジブラルタル空港の滑走路は西側がジブラルタル湾に大きくはり出し、南北に道路が平面交差している。
50 kmの道路と50 kmのトンネルがある。20世紀初めにザ・ロックの東西を結ぶトンネルが掘られ、道路網が整備された[5]。かつて車両はイギリス本国同様に左側通行だったが、1990年代後半に右側通行へ変更された。国際交通における車両識別記号はGBZ。
ジブラルタル港には旅客船も寄港しており、モロッコのタンジールとの間で毎日カーフェリーが往来している[5]。
ジブラルタル空港はスペインとの国境付近にあり、滑走路は国境に沿うようにジブラルタルのある半島を完全に横切って、一部は海に突き出して作られている。国境検問所とジブラルタル中心部を結ぶ道路は滑走路と平面交差している。そのため飛行機が離着陸する時は、道路側に設置された遮断機が降り通行禁止になる。この対航空機「踏切」は自動車だけでなく自転車・歩行者も通行可能である。この問題の解消にむけて、立体交差のための新設道路およびトンネルの建設を行っており、当初は2009年完成予定であった。しかし工事遅延のため2013年現在も完成しておらず、先延ばしになっている。
エピソード[編集]
アメリカの金融グループ、プルデンシャル・ファイナンシャルは、社章にジブラルタル(ジブラルタ)・ロックをデザインしている。これはジブラルタルの要塞が難攻不落という意味から生まれた諺、"As safe as the Rock"(ジブラルタル・ロックのように安心)から作成された。このプルデンシャルの傘下にある日本の外資系生命保険会社、ジブラルタ生命保険は、社章だけでなく社名もジブラルタルにちなんでいる。
サッカージブラルタル代表は1895年設立という古い歴史を持つが、国際サッカー連盟(FIFA)には未加盟である。これは、加盟に関してジブラルタルの領有権を主張するスペインが「ジブラルタル代表の加盟を認めるなら、スペインはFIFAより脱退する」と、強い圧力をかけているからである[8]。欧州サッカー連盟については、2013年5月に加盟が認められた[13]。
1969年3月20日、 ジョン・レノンとオノ・ヨーコはこの地で結婚式を挙げた。ジブラルタル郵政局は1999年に結婚30周年の記念切手を発行している[8]。
1981年、イギリスのチャールズ王太子とダイアナ妃の新婚旅行の第一目的地となった。ジブラルタルの返還を求める立場のスペイン国王フアン・カルロス1世はこれに抗議し、結婚式への参列をボイコットした[1][8]。
2002年2月17日、イギリス海兵隊がジブラルタルへの上陸演習を行ったが、誤ってすぐ北のスペイン領内であるラ・リネアに上陸した。民間人の多数いた海岸に上陸してしまった海兵隊員達は駆けつけたスペイン警察の警察官に位置の誤りを指摘され、即座に沖合の揚陸艦に撤収した。英国防省は2月19日にスペイン政府に対し正式に謝罪し、「我が国はスペインへの侵攻の意図は全くない」とコメントした。
2012年5月18日、エリザベス2世の即位60年を祝う昼食会が開かれたが、体調不良(訪問先のボツワナで転んで腰を強打、手術を受けた)により欠席したカルロス国王の代理として出席する事になっていたソフィア王妃も、イギリス王族の同島訪問予定に抗議し欠席した。
半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、古代より西への航海の果てにある「ヘラクレスの柱」の一つとして知られてきた。半島は8世紀よりムーア人、レコンキスタ後はカスティーリャ王国、16世紀よりスペイン、18世紀よりイギリスの占領下にあるが、その領有権を巡り今もイギリス・スペイン間に争いがある。
地名の由来は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島を征服したウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードにちなんでおり、アラビア語で「ターリクの山」を意味するジャバル・アル・ターリク[1](Jabal al-Ţāriq[3]、亜: جبل طارق)が転訛したものである。なお、ジブラルタルの英語での発音は「ジブラルタ」、スペイン語での発音は「ヒブラルタル」[4]に近い。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 古代
1.2 ムスリム支配期(711年 - 1462年)
1.3 カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)
1.4 イギリス領期(1713年 - )
2 地形 2.1 ザ・ロック
3 気候
4 生物
5 政治 5.1 帰属問題
6 経済
7 社会
8 交通
9 エピソード
10 ギャラリー
11 脚注
12 関連書籍
13 外部リンク
歴史[編集]
詳細は「ジブラルタルの歴史(英語版)」を参照
古代[編集]
人類の痕跡は古く、ネアンデルタール人の遺跡が発見されている。紀元前950年にフェニキア人がジブラルタルに初めて定住するようになった。その後もローマ人やヴァンダル族、ゴート族などがジブラルタルに訪れたが、どれも永住ではなかった。フェニキア人国家のカルタゴが第1次ポエニ戦争後にジブラルタルと南イベリア半島を勢力下としたのち、第2次ポエニ戦争によってローマ帝国がジブラルタルとイベリア半島を属領としたものの、400年代初期から西ゴート族がイベリア半島に居住するようになり、西ローマ帝国滅亡後は西ゴート王国の支配下となった。
ムスリム支配期(711年 - 1462年)[編集]
711年、西ゴート王国はウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードに征服され、滅亡する。ムーア人の支配を受けてイスラム圏に入るが、およそ4世紀の間ジブラルタルが発展することはなかった。756年には後ウマイヤ朝が成立。変遷を経て1309年にナスル朝グラナダ王国の一部となる。カスティーリャ王国によって一時占領されるが、1333年にマリーン朝が奪還し、マリーン朝はグラナダ王国にジブラルタルを割譲した。
カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)[編集]
1462年にメディナ・シドニア公がジブラルタルを奪取し、750年間に渡るムーア人の支配を終えた。 メディナ・シドニアは追放されたスペイン・ポルトガル系ユダヤ人にジブラルタルの土地を与え、コンベルソのペドロ・デ・エレアがコルドバとセビリアから一団のユダヤ人を移住させ、コミュニティが建設された。そして、半島を守るため駐屯軍が設立された。しかし、セファルディムとなったユダヤ人は数年後にコルドバか異端審問所に送還された。フェルナンド2世がスペイン王国を打ちたて、1501年にはジブラルタルもスペイン王国の手の下に戻った。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られた。
八十年戦争中の1607年にオランダ艦隊がスペイン艦隊を奇襲し、ジブラルタル沖が戦場となった(ジブラルタルの海戦)。この海戦でスペイン艦隊は大きな打撃を被った。1701年にスペイン王位継承で候補者の1人カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の即位を後押しするオーストリア、イギリス、オランダがフランス王ルイ14世とスペイン王フェリペ5世に宣戦布告し、スペイン継承戦争が始まると、オーストリア、イギリス、オランダの同盟艦隊はスペイン南岸にある港町の襲撃を繰り返した。
1704年8月4日、ジョージ・ルーク提督率いるイギリスとオランダの艦隊の支援の下、オーストリアの軍人であるゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世の息子)指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸した。交渉の末、住民は自主退去を選択し、海兵隊はジブラルタルを占領した(ジブラルタルの占領)。フランス・スペイン連合軍はジブラルタル奪回のため艦隊をトゥーロンから派遣、それを阻止しようとルーク率いるイギリス・オランダ海軍が迎撃に向かい、フランス・スペイン海軍が撤退したことでジブラルタルは確保された(マラガの海戦)。
イギリス領期(1713年 - )[編集]
1713年4月11日にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結するものの、その条約でジブラルタルはイギリス領として認められ、スペインは奪回の機を失った。 アメリカ独立戦争中はスペインが独立軍の支援にまわり、1779年からジブラルタルへの厳重な封鎖を行った(ジブラルタル包囲戦)。イギリス軍は1782年に浮き砲台と包囲兵を撃破し、包囲網を破ることに成功した。翌年にはパリ条約に先立ち、講和が行われ、ジブラルタルは解放された。
1805年、トラファルガーの海戦ではイギリス海軍の拠点となった。その後、インドへのルートにスエズ運河の開通で地中海が加わり、蒸気機関を動力とする装甲巡洋艦などが海軍で普及すると給炭基地の役割も求められ、ジブラルタルが重要視されるようになった。第二次世界大戦中もジブラルタル海峡の封鎖を行っていたフランスがドイツに敗北し、親独政権であるヴィシー政権が設立されフランス海軍がその指揮下に入ると、イギリス海軍H部隊がジブラルタルに配備された。トーチ作戦ではアメリカ軍もジブラルタルを拠点にした。
第二次世界大戦後は、東西冷戦がはじまるもイギリス海軍が役割を縮小すると同時にジブラルタルの軍事的役割も低下している。1967年にイギリス地中海艦隊が解体され、これに代わるアメリカ海軍第6艦隊はイタリアのガエータを拠点にしている。しかし、1982年のフォークランド戦争で再び基地の重要性が確認され、現在もイギリス海軍のジブラルタル戦隊(Gibraltar Squadron)が駐留している。
地形[編集]
ジブラルタルの地図
領域は南北に細長く伸びた半島になっており、南北に5キロ、東西に1.2キロある[5]。東は地中海、南はジブラルタル海峡、西はジブラルタル湾(英語版)に面する。北側は砂質の低地でスペイン本土と繋がり、いわゆる陸繋島となっている[2]。
半島の南端はエウローパ岬(英語版)(ヨーロッパ岬)と呼ばれ、そこからジブラルタル海峡をはさんだアフリカ側にはスペイン領セウタがある。一方、北側の砂州にはジブラルタル空港があり、その北に幅800メートルの中立地帯(イスモ、Istmo[6])が設けられて国境を成し[2]、さらにその北がスペイン本土の町ラ・リネアである。
ザ・ロック[編集]
詳細は「ジブラルタルの岩」を参照
半島の大半を占める、石灰岩と頁岩からなる岩山は「ザ・ロック」と呼ばれる。東側は事実上登攀不能の崖であり[7]、西側も山頂付近は急峻だが、中腹以下は比較的緩やかな傾斜となって市街地が階段状に連なり[5]、さらに下った沿岸部分は港湾施設が大部分を占める[5]。最高峰(ターリク山)は岩山の南側頂点にあたるオハラ砲台(英語版)跡の展望台で、海抜426メートルある。北側頂点(トップ・オブ・ザ・ロック、海抜412メートル)には麓の市街からロープウェーで登ることができ、徒歩による九十九折のトレッキングコースもある。こちらも展望台があり、レストランなどもある。
石灰岩地質によって形成された鍾乳洞が山の中腹にある。鍾乳洞は見学ができ、見学コースの途中には、世界的にも珍しい鍾乳洞の空間を利用したコンサートホールがあるが、自然の鍾乳洞に手が加えられていて、自然保護からの観点から賛否がある。
また岩山を掘って作られた主に軍事目的の地下通路、弾薬庫、貯蔵庫などもあり、掘り出された土砂は北西岸の埋め立て(飛行場建設など)に使われた[2]。
ジブラルタルには自然の湧水源や河川が無く[5][7]、夏季に全く雨が降らないこともしばしばであるため[7]、東側山麓の斜面に岩山そのものを穿った雨水用の貯水槽が作られている[5]。上水はそこから集めた水、ポンプでくみ上げた水、海水を蒸留した水をブレンドして供給されている[5](非飲料用としては海水も利用されている[5])。
気候[編集]
地中海性気候及び亜熱帯に属する。夏季は高温多湿であり、冬季は比較的温暖で降雨も適度にある[5]。
[隠す]ジブラルタルの気候
月
1月
2月
3月
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年
平均最高気温 °C (°F)
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日平均気温 °C (°F)
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平均最低気温 °C (°F)
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(59)
降水量 cm (inch)
12
(4.7) 10
(3.9) 10
(3.9) 6
(2.4) 3
(1.2) 1
(0.4) 0
(0) 0
(0) 2
(0.8) 7
(2.8) 14
(5.5) 13
(5.1) 83
(32.7)
出典: Weatherbase
生物[編集]
バーバリーマカク
植生は500種以上にのぼる[5]。ザ・ロックの頂上付近にはオリーブやパイナップルが自生し[5]、ジブラルタル・キャンディタフトというこの地特有の花も見られる[7]。
ザ・ロックはヨーロッパで唯一となる野生猿の生息地である[5][7]。これらのバーバリーマカクはマカク属なのでニホンザルと近縁だが、オスの成体は体毛が長くタイワンザルに似ている。彼らがジブラルタルからいなくなったら英国がジブラルタルから撤退するとの伝説がある[8]。この猿達の世話はイギリス陸軍砲兵隊の管轄。また第二次世界大戦中に物資不足から猿の個体数が減少したがチャーチル首相が直々に猿の保護を命じたという逸話が残っている。
猿のほかには、ウサギ、キツネなどの小動物がみられる[5]。また、ザ・ロックは渡り鳥の群れの中継地点ともなっている[7]。
政治[編集]
ジブラルタル議会
1969年の憲法制定以来、ジブラルタル自治政府によって、防衛以外では内政に関して完全な自治が行なわれている[5](ただし、国際連合非自治地域リストに掲載されてもいる)。イギリス国家が選任し、イギリス国王によって任命されるジブラルタル総督が行政上の最高権限を持ち、最高軍事司令官(守備隊長[1])を兼ねる[5]。
選挙権は18歳以上のジブラルタル人と、6ヶ月以上居住しているイギリス人に与えられる[5]。4年毎の選挙によって、ジブラルタル議会(一院制)の議員17名が選ばれる。また、彼ら以外に1名の議長が総督によって任命される。議会の多数党党首より選出された首相(英語版)は議員のうちから9名の閣僚を選任し、ともに総督によって任命される。
帰属問題[編集]
1713年のユトレヒト条約以降イギリスが統治を続けているジブラルタルだが、スペインは今も返還を求めている。ジブラルタルはヨーロッパに残る最後の「植民地」であり[6]、また係争当事国がいずれもEU加盟国である点、係争が300年もの長きにわたっている点で、世界の領土問題のなかでも異色の存在と言える[6]。
スペインの基本的見解は、ユトレヒト条約第10条はジブラルタルの町、城、それに付随する港、要塞の所有と軍事利用をイギリスに認めたに過ぎず、主権はスペインに残っているというものである[1]。スペインにとってジブラルタルは長らく「スペインの靴の中に入ったペニョン(岩山)」となっている[6]。しかし返還を求めるスペインの主張は、モロッコのセウタなど自らの植民地所有と矛盾するものでもある[9]。一方、現在のイギリス統治が住民から圧倒的支持を受けていることは1967年9月の住民投票から明らかであるが[2][5]、同年12月に国連の非植民地化委員会(英語版)はイギリスのジブラルタル領有を植民地主義的だとして返還を促す決議を採択している[2][9]。
1704年のイギリスによるジブラルタル占領以降、スペインはジブラルタルを武力で奪回すべく1705年、1727年、1783年に包囲戦をしかけたが、いずれも失敗した[1]。またその後の外交による交渉も全て不首尾に終わった[1]。19世紀後半以降、スペインの国力が衰えている時期にイギリスは国境を北へ押し上げる行動に出た[6]。最終的にこれはスペイン本土との間に非武装中立地帯を設けることで落ち着いたが、ここの境界線の画定は今も棚上げされた状態である[6]。
1954年2月、イギリスの植民地を歴訪していたエリザベス2世がスペインの抗議にも関わらず[1]最後の訪問地としてジブラルタルに入ると、スペイン各地で抗議運動が沸き起こった[6]。スペインは翌1955年に国連加盟を果たし、さっそくジブラルタル問題を国際世論に訴えかけ、1957年にジブラルタル返還を求めて国連に提訴した[6]。1960年代には運動を強化し[5]、1964年に国連の非植民地化委員会へ返還要求を提出した[2]。イギリスはこれに対し、イギリス統治の可否を問う住民投票を1967年に実施し、住民は 12138 対 44 という圧倒的大差でイギリスへの帰属を選択した[5]。この投票はスペインの態度を決定的に硬化させ、1969年にスペインは国境を封鎖して物流とスペイン人の通勤を差し止めるという、ジブラルタルに対する経済封鎖に踏み切った[1][5]。これによってジブラルタルは陸の孤島と化し、往来はモロッコ経由かロンドンからの航空便に頼るしかなくなった[2]。1982年にスペインに社会労働党政権が発足すると[5]、徒歩での往来が許可されるなど封鎖は部分的に解かれ[2]、両国間の交渉再開が宣言された[5]。1985年には封鎖は完全に解除された[2][5]。
2002年には共同主権の検討がなされた。これに対し、地元の二大政党である保守系のジブラルタル社会民主党(英語版)および革新系のジブラルタル社会主義労働党(英語版)は、共にスペインに対する主権の譲渡に強硬な反対を行い、住民投票においても90%以上が反対の意思を示したため、この構想は実現しなかった。これ以降、帰属に関する交渉はイギリス、スペインにジブラルタル自治政府を加えた三者間会議に移り、2006年9月に初の会議が開かれた[8]。ジブラルタル自治政府はその3ヶ月後、自治権拡大を意図した新憲法草案を住民投票にかけ、可決させた[8]。
ジブラルタルの独立を求める声もある。特にジブラルタルの元首相でもある、ジブラルタル社会主義労働党のジョー・ボサノ(英語版)党首はEUの後援の元での、独立を求めていた。
経済[編集]
ジブラルタル港(左)と市街
ジブラルタルの主な経済基盤は、第一には駐留するイギリス軍(守備隊および海軍ドック)に関する軍事関連産業である[1][2][5]。ほか、ジブラルタル港では自由港として中継貿易も多く行なわれている[1][5]。ジブラルタルはもともと領土が狭く、さらに平地が限られるため、農業は殆ど見られない[5]。工業も小規模な食品加工関連(タバコ、飲料、缶詰など)があるだけである[5]。近年は観光開発にも力を入れており、1988年には377万人が観光に訪れた[5]。またスペインに対して相対的に低い法人税が銀行・金融部門の成長を促しており、2013年時点で同部門がGDPに占める割合は25-30%に増加、特にオンライン・ギャンブル関連はGDPの15%を占めるまでになっている[10]。ジブラルタルで正規に登録されている企業は1万8000社にのぼるが[10]、ペーパーカンパニーも少なくなく[11]、租税回避地として域外(特にスペイン[10])から問題視されているという面もある[11]。
人口の約60%は総督府に雇用されている[2]。民間部門では建設業、船舶修理業、観光業などの従事者が多くみられる[5]。
通貨としてジブラルタル・ポンド(イギリス・ポンドと等価)が発行されている。ジブラルタルではイギリス・ポンドも使えるが、逆にイギリス本国でジブラルタル・ポンドを使うことはできない[12]。ユーロが使える店舗も多いが、レートにばらつきがある[12]。ジブラルタルには消費税がない[10]。
社会[編集]
セント・マリー・ザ・クラウンズ教会
3万人近い人口のうち、イギリス系 27%、スペイン系 24%、イタリア系 19%、ポルトガル系 11%、他 19%という比率になっている[6]。また、スペインはユダヤ人を追放したことから独特のユダヤ人コミュニティが成立している。小売業に多いインド人やモロッコからの労働者もそれぞれコミュニティを形成している[5]。1925年以前にジブラルタルで生まれたもの及びその子孫である「ジブラルタル人」はイギリスの完全な市民権を認められており、人口全体の2/3を占める[5]。それ以外の外国人(人口全体の1/5)および軍関係者は居住権が無いため居住許可証を必要とする[5]。スペイン本土からは毎日1万人ほどが越境通勤してくる[10]。
住民の多くはカトリックであり[1][5]、ジブラルタル教区の司教座聖堂としてセント・マリー・ザ・クラウンズ教会が置かれている。またイングランド国教会の主教座聖堂としてはホーリー・トリニティ教会があり、こちらのジブラルタル教区はスペイン・ポルトガル・モロッコと広範囲にわたる。
公用語は英語であるが、殆どの住人はスペイン語を母語とする[1]バイリンガルである[5]。また、英語の影響を受けたスペイン語方言であるジャニート語(英語版)(ラニト語)も話されており、ジブラルタル人は自分たちのことをジャニートス(西: Llanitos)と呼ぶことがある[6]。ほか、ヘブライ語、アラビア語も用いられている。
教育は、4-15歳を義務教育とし、公立小学校が12校、公立総合中学校が2校、私立小学校が2-3校ある[5]。大学などの高等教育はイギリス本国で受けることになる[5]。
交通[編集]
ジブラルタル空港の滑走路は西側がジブラルタル湾に大きくはり出し、南北に道路が平面交差している。
50 kmの道路と50 kmのトンネルがある。20世紀初めにザ・ロックの東西を結ぶトンネルが掘られ、道路網が整備された[5]。かつて車両はイギリス本国同様に左側通行だったが、1990年代後半に右側通行へ変更された。国際交通における車両識別記号はGBZ。
ジブラルタル港には旅客船も寄港しており、モロッコのタンジールとの間で毎日カーフェリーが往来している[5]。
ジブラルタル空港はスペインとの国境付近にあり、滑走路は国境に沿うようにジブラルタルのある半島を完全に横切って、一部は海に突き出して作られている。国境検問所とジブラルタル中心部を結ぶ道路は滑走路と平面交差している。そのため飛行機が離着陸する時は、道路側に設置された遮断機が降り通行禁止になる。この対航空機「踏切」は自動車だけでなく自転車・歩行者も通行可能である。この問題の解消にむけて、立体交差のための新設道路およびトンネルの建設を行っており、当初は2009年完成予定であった。しかし工事遅延のため2013年現在も完成しておらず、先延ばしになっている。
エピソード[編集]
アメリカの金融グループ、プルデンシャル・ファイナンシャルは、社章にジブラルタル(ジブラルタ)・ロックをデザインしている。これはジブラルタルの要塞が難攻不落という意味から生まれた諺、"As safe as the Rock"(ジブラルタル・ロックのように安心)から作成された。このプルデンシャルの傘下にある日本の外資系生命保険会社、ジブラルタ生命保険は、社章だけでなく社名もジブラルタルにちなんでいる。
サッカージブラルタル代表は1895年設立という古い歴史を持つが、国際サッカー連盟(FIFA)には未加盟である。これは、加盟に関してジブラルタルの領有権を主張するスペインが「ジブラルタル代表の加盟を認めるなら、スペインはFIFAより脱退する」と、強い圧力をかけているからである[8]。欧州サッカー連盟については、2013年5月に加盟が認められた[13]。
1969年3月20日、 ジョン・レノンとオノ・ヨーコはこの地で結婚式を挙げた。ジブラルタル郵政局は1999年に結婚30周年の記念切手を発行している[8]。
1981年、イギリスのチャールズ王太子とダイアナ妃の新婚旅行の第一目的地となった。ジブラルタルの返還を求める立場のスペイン国王フアン・カルロス1世はこれに抗議し、結婚式への参列をボイコットした[1][8]。
2002年2月17日、イギリス海兵隊がジブラルタルへの上陸演習を行ったが、誤ってすぐ北のスペイン領内であるラ・リネアに上陸した。民間人の多数いた海岸に上陸してしまった海兵隊員達は駆けつけたスペイン警察の警察官に位置の誤りを指摘され、即座に沖合の揚陸艦に撤収した。英国防省は2月19日にスペイン政府に対し正式に謝罪し、「我が国はスペインへの侵攻の意図は全くない」とコメントした。
2012年5月18日、エリザベス2世の即位60年を祝う昼食会が開かれたが、体調不良(訪問先のボツワナで転んで腰を強打、手術を受けた)により欠席したカルロス国王の代理として出席する事になっていたソフィア王妃も、イギリス王族の同島訪問予定に抗議し欠席した。
スペイン
スペイン(España)、スペイン国(スペイン語: Estado Español)またはスペイン王国(スペイン語: Reino de España)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代から前ローマ時代
2.2 ローマ帝国とゲルマン系諸王国
2.3 イスラームの支配
2.4 イスラーム支配の終焉と統一
2.5 スペイン帝国
2.6 斜陽の帝国
2.7 スペイン内戦終結まで
2.8 フランコ独裁体制
2.9 王政復古から現在
3 政治
4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係
6 地方行政区画 6.1 主要都市
7 地理 7.1 地形
7.2 気候
7.3 標準時
8 経済 8.1 鉱業
9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 海運
9.4 空運
10 国民 10.1 民族 10.1.1 民族の一覧
10.2 言語 10.2.1 言語の一覧
10.3 宗教
10.4 教育
11 文化 11.1 食文化 11.1.1 アルコール類
11.1.2 スペイン料理
11.2 文学
11.3 哲学
11.4 音楽
11.5 美術
11.6 映画
11.7 世界遺産
11.8 祝祭日
12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 バスケットボール
12.3 サイクルロードレース
12.4 モータースポーツ
12.5 テニス
12.6 その他
13 科学と技術 13.1 医学
14 著名な出身者
15 脚註
16 参考文献
17 関連項目 17.1 スペインに関する著書が多い作家・文化人
18 外部リンク
国名[編集]
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、España(エスパーニャ)、Estado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている[1]。Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられることがある。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語の Spain に基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名ヒスパニアであり、「スペイン」は長らく俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている複合王政だった。1624年宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオンの兄ホセ・ボナパルトの即位時に正式に「スペイン国王」が誕生した。
現在のスペインは、国王を元首とする王国であるが、スペイン1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
歴史[編集]
詳細は「スペインの歴史」を参照
先史時代から前ローマ時代[編集]
アルタミラ洞窟壁画のレプリカ。
アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[2]。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。
この時期の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌(英語版)』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[3] 。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国[編集]
詳細はヒスパニアを参照
メリダのローマ劇場。
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとなり(帝政期にヒスパーニア・タラコネンシス、ヒスパーニア・バエティカ、ルシタニアの3州に分割)、法と言語とローマ街道によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる[4]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[3]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[3]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[4]。
ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配[編集]
詳細はアンダルスを参照
ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿。
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる[5]。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[6]。
後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータ(モスク)の内部。
シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[7][8]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[8]。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[8]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[3]。
イスラーム支配の終焉と統一[編集]
詳細はレコンキスタを参照
マンサナーレス・エル・レアルの城。
レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨが722年のコバドンガの戦い(英語版)に勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[5]。
1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦い。
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[9]。
カトリック両王、フェルナンド2世とイサベル1世。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[10]。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した[11]。
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[12]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[13]。その後同じ条件でムスリムも追放された[14]。
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア(Hispania)を語源とするエスパーニャ(España)が王国の総称として用いられるようになった[14]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。
スペイン帝国[編集]
詳細はスペイン帝国を参照
スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)。
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[15]。
スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカの幾つかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[16]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。
フェリペ2世。
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。
この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(英語版)(1635年 - 1659年)が起こっている。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。更に、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[17]。
16世紀のスペインのガレオン船。
1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。
18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[18]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。
この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[19]。
1713年、1714年のユトレヒト条約とラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下でのフランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想がホベリャーノスや、フェイホーによって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[20]。
斜陽の帝国[編集]
詳細はスペイン独立戦争と米西戦争を参照
フランシスコ・デ・ゴヤ画「マドリード、1808年5月3日」。スペイン独立戦争の一局面を描いている。
1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍とトラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。
19世紀初頭にはナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する[21]。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[22]。フェルナンド7世は復位後絶対主義への反動政策を採ったため、自由主義を求めるスペイン人の支持を受けて1820年にラファエル・デル・リエゴ将軍が率いるスペイン立憲革命が達成され、戦争中にカディスで制定されたスペイン1812年憲法が復活したが、ウィーン体制の崩壊を恐れる神聖同盟の干渉によって1823年にリエゴ将軍は処刑され、以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定づけた。また、挫折した立憲革命の成果もあって、1825年にシモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によって南米最後の植民地ボリビアが独立し、キューバとプエルトリコ以外の全てのアメリカ大陸の植民地を失った。
立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギー、ドイツ帝国、アメリカ合衆国で進行する産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、翌1874年には王政復古した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピンとキューバで独立運動が発生し、1898年にハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年の世代」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。
スペイン内戦終結まで[編集]
国王アルフォンソ13世とミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍(1930年)。
スペイン内戦に参戦した国際旅団のポーランド人義勇兵。
スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(英語版)(モロッコ)、スペイン領ギニア(英語版)(赤道ギニア)を獲得しただけだった。スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザのパンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(英語版)(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和国はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、また女性参政権も認められた。
しかしながら、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、1936年の選挙にて左翼共和党、社会労働党、共産党ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた共和国政府をナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[23] 、50万人が国を捨てて亡命し[24]、社会基盤は破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。
フランコ独裁体制[編集]
詳細は「スペイン国 (1939年-1975年)」および「フランキスモ」を参照
フランシスコ・フランコ総統。1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。
1939年4月1日から1975年11月22日まで、スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁下のスペイン国 (1939年-1975年)の時代であった。
フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党制となり、ファランヘ党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、ソ連と戦うためにナチス・ドイツに義勇兵として青師団を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。
第二次世界大戦後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争(Ifni War)などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由(ETA)はバスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。
王政復古から現在[編集]
首都マドリードのクアトロ・トーレス・ビジネス・エリア。
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人によるクーデター未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された(23-F)。
民主化されたスペインは1982年に北大西洋条約機構(NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙にて右派の国民党(PP)に敗れ、ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。
21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[25]。
2002年7月18日、ペレヒル島危機(英語版)が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール首相がイラク戦争を非常任理事国として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合の一員として、米英軍と共にイラクにスペイン軍1400人を派遣した。2004年3月11日にスペイン列車爆破事件が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダの犯行[26]と CIAからの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利したが、同年9月のリーマン・ショック勃発により、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。
2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。
政治[編集]
詳細は「スペインの政治」および「:en:Politics of Spain」を参照
代議院議事堂。
スペイン最高裁判所。
政体は立憲君主制(制限君主制)。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在する。国王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。国王は議会の推薦を受けて首相の指名を行なうほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行う。現行憲法はスペイン1978年憲法である。
「スペイン君主一覧」および「スペインの首相」も参照
国会は両院制であり、代議院(下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、元老院(上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。
2011年12月現在の与党は国民党で、スペイン社会労働党と共に二大政党制を構成する。その他には、スペイン共産党を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼や進歩民主連合などの全国政党のほかに、集中と統一(CiU)、カタルーニャ共和主義左翼、バスク民族主義党、ガリシア民族主義ブロックなどカタルーニャやバスク、ガリシアの民族主義地域政党が存在する。
「スペインの政党」も参照
軍事[編集]
詳細は「スペイン軍」を参照
空母プリンシペ・デ・アストゥリアス
スペイン軍は陸軍、海軍、空軍、グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。
イージス艦や軽空母、ユーロファイター タイフーン、レオパルト2EA6等最新鋭の兵器を配備している。
国際関係[編集]
詳細は「スペインの国際関係」および「:en:Foreign relations of Spain」を参照
1986年のEC加盟以降、EUの一員として他のEU諸国との関係が密接になっている。
旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加しているが、ラテンアメリカにスペイン企業が進出し過ぎていることから一部には、ラテンアメリカに対するレコンキスタ(本来はイスラームに征服された国土の回復運動だが、ここでは文字通り「再征服」)であるという批判もある。
また、特に南部アンダルシア地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っていることなどもあり、他のEU諸国と比べるとイスラーム諸国との友好関係の構築に比較的積極的であるといえる。
スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めているが、ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。
日本との関係[編集]
詳細は「日西関係史」を参照
岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[27]。
地方行政区画[編集]
詳細は「スペインの地方行政区画」および「スペインの県」を参照
Galicia
Navarra
Madrid
La Rioja
Aragón
Cataluña
Comunidad
Valenciana
Castilla-
La Mancha
Extremadura
Portugal
Castilla
y León
Asturias
Cantabria
País
Vasco
Región de Murcia
Andalucía
Gibraltar (R. U.)
Ceuta
Melilla
Francia
Islas
Baleares
Islas
Canarias
Mar Mediterráneo
Mar Cantábrico
Océano
Atlántico
Andorra
Océano
Atlántico
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スペインの自治州
スペインは、17の自治州から構成される。また、各州は50の県に分かれる。
アンダルシア州(Andalucía)
アラゴン州(Aragón)
アストゥリアス州(Asturias)
バレアレス諸島州(Las Islas Baleares)
バスク州(El País Vasco)
カナリアス諸島州(Las Islas Canarias)
カンタブリア州(Cantabria)
カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)
カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)
カタルーニャ州(Cataluña)
エストレマドゥーラ州(Extremadura)
ガリシア州(Galicia)
ラ・リオハ州(La Rioja)
マドリード州(La Comunidad de Madrid)
ムルシア州(La Region de Murcia)
ナバラ州(Navarra)
バレンシア州(Valencia)
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタとメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島、ペニョン・デ・アルセマス島、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。
主要都市[編集]
首都マドリードはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けで18位の都市と評価された[28]。
詳細は「スペインの都市の一覧」を参照
人口の多い上位10都市は次の通り(2006年1月、スペイン統計局の2007年1月発表のデータによる)。
順位
都市
州
人口
1 マドリード マドリード州 3,128,600
2 バルセロナ カタルーニャ州 1,605,602
3 バレンシア バレンシア州 805,304
4 セビリア アンダルシア州 704,414
5 サラゴサ アラゴン州 649,181
6 マラガ アンダルシア州 560,631
7 ムルシア ムルシア州 416,996
8 ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア カナリア諸島自治州 377,056
9 パルマ・デ・マリョルカ バレアレス諸島自治州 375,048
10 ビルバオ バスク州 354,145
このほかに、歴史上有名な都市としては、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、バリャドリード、ブルゴス、コルドバ、グラナダ、トレドなどが挙げられる。
地理[編集]
詳細は「スペインの地理」および「:en:Geography of Spain」を参照
地形[編集]
スペインの地形。
スペインの地図。
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。
南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海(ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。
スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。[要出典]
気候[編集]
全国的には地中海性気候に属する地域が多いが、北部(バスク州からガリシア州にかけて)は西岸海洋性気候で、雨が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候に属する。
標準時[編集]
スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間)。このため、西経3度42分に位置するマドリッドにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃(夏時間)となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。
経済[編集]
詳細は「スペインの経済」、「:en:Economy of Spain」、および「スペイン経済危機 (2012年)」を参照
IMFによると、2010年のスペインのGDPは1兆3747億ドルであり、世界第12位である[29]。
1960年代以来、「スペインの年」と一部では呼ばれていた1992年頃までの高度成長期が過ぎ去り、低迷していたが、ヨーロッパの経済的な統合と、通貨のユーロへの切替えとともに経済的な発展が急速に進んでいる(2003年現在)。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位で カナダを超えるがサミットには参加していない。企業は自動車会社のセアトやペガソ、通信関連企業のテレフォニカ、アパレルのザラ、金融のサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行などが著名な企業として挙げられる。またスペイン人の労働時間はEU内で第1位である。
しかし、近年の世界金融危機の影響からスペインも逃れられず、2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている[30]。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した。若年失業率は現在52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている[31]。
鉱業[編集]
スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に亘る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金、銀、亜鉛、銅、鉛、わずかながら錫も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈とシエラモリナ山脈に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。
交通[編集]
詳細は「スペインの交通」および「:en:Transport in Spain」を参照
道路[編集]
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鉄道[編集]
詳細は「スペインの鉄道」を参照
スペインの鉄道は主にレンフェ(RENFE)によって経営されており、標準軌(狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道(FEVE)によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道AVEが国内各地を結んでいる。
地上路線の他にも、マドリード地下鉄をはじめ、バルセロナ地下鉄、メトロバレンシアなど、主要都市には地下鉄網が存在する。
海運[編集]
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空運[編集]
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国民[編集]
詳細は「スペインの人口統計」および「:en:Demographics of Spain」を参照
ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。カトリック教会の聖地の一つであり、古くから多くの巡礼者が訪れている。
民族[編集]
詳細は「スペイン人」を参照
ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、イスラーム文化の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン、アンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。
民族の一覧[編集]
スペイン人
カスティーリャ人
カタルーニャ人
バレンシア人
バスク人
カンタブリア人
アラゴン人
ガリシア人
アンダルシア人
カナリア人
アストゥリアス人
レオン人
言語[編集]
詳細は「スペインの言語」を参照
スペイン語(カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語であり全国で話されており、憲法にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語(俗ラテン語)に由来するロマンス語である。、また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉はすたれている。
北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、他のヨーロッパと共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
言語の一覧[編集]
現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
ガリシア語(ガリシア州)
スペイン語(国家公用語)
カタルーニャ語(カタルーニャ州、バレアレス諸島州)
バレンシア語(バレンシア州)
アストゥリアス語(アストゥリアス州、カスティーリャ・イ・レオン州)
アラゴン語(アラゴン州北部)
エストレマドゥーラ語(エストレマドゥーラ州の一部)
バスク語(バスク州、ナバーラ州)
宗教[編集]
詳細は「スペインの宗教」を参照
カトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにも関わらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。
教育[編集]
詳細は「スペインの教育」を参照
サラマンカ大学(1218年創立)の図書館。
スペインの教育制度は初等教育が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育機関となる。後期中等教育はバチジェラトと呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり[32]、これはアルゼンチン(97.2%)やウルグアイ(98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。
主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。大学は4年制乃至6年制であり、学位取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。
文化[編集]
詳細は「スペインの文化」および「:en:Culture of Spain」を参照
バルセロナのサグラダ・ファミリア。
情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。1991年に創設されたセルバンテス文化センターによって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。
食文化[編集]
詳細は「スペイン料理」を参照
スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
1.デサジュノ (Desayuno) :朝食。起きがけに摂る食事。パンなどを食べる。
2.メリエンダ・メディア・マニャーナ (Merienda media Mañana) :朝の軽食。午前11時頃、サンドイッチ、タパス(おつまみ)などを食べる。
3.アルムエルソ (Almuerzo) :昼食。一日のメインの食事で、午後2時頃、フルコースを食べる。
4.メリエンダ (Merienda) :夕方の軽食。午後6時頃、タパス、おやつなどを食べる。
5.セナ (Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。
アルコール類[編集]
スペイン・ワイン
カバ (Cava) - シャンパーニュ地方産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる発泡ワインである。主にカタルーニャ地方で造られている。
シェリー酒 - シェリーは英名。スペイン名「ヘレス」。アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ原産。
サングリア - 赤ワインを基にしたカクテル。
スペイン料理[編集]
スペイン料理
トルティージャ(トルティージャ・エスパニョーラ、トルティージャ・デ・パタータ) - ジャガイモのオムレツ
パエリア
文学[編集]
詳細は「スペイン文学」を参照
『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス。
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。
スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。
1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635) のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。
近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセト、小説家のアンヘル・ガニベ、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。
スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールやカルメン・ラフォレ、フアン・ゴイティソーロ、ミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した。
民主化以後はカミーロ・ホセ・セラが1989年にノーベル文学賞を受賞している。
セルバンテスに因み、1974年にスペイン語圏の優れた作家に対して贈られるセルバンテス賞が創設された。
哲学[編集]
「スペインの哲学」も参照
ホセ・オルテガ・イ・ガセット。20世紀の精神に多大な影響を与えた『大衆の反逆』(1929年)で知られる。
古代ローマ時代に活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン・スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン・ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。
16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリアやドミンゴ・デ・ソトらのカトリック神学者によってサラマンカ学派が形成され、17世紀オランダのフーゴー・グローティウスに先んじて国際法の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、ベニート・ヘロニモ・フェイホーやガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスなどの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論のクラウゼ (Krause) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義者ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット、形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。
音楽[編集]
詳細は「スペインの音楽」および「:en:Music of Spain」を参照
マヌエル・デ・ファリャ。
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。近代の作曲家としては、スペインの民謡や民話をモチーフとして利用した、デ・ファリャの知名度が高い。
南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。
美術[編集]
詳細は「スペインの芸術」および「:en:Spanish art」を参照
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール、ラモン・カザス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ジュリ・ゴンサレス、パブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
映画[編集]
詳細は「スペインの映画」を参照
ペドロ・アルモドバルとペネロペ・クルス。
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932) が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガやフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。
民主化以後はホセ・ルイス・ボロウやカルロス・サウラ、マリオ・カムス、ペドロ・アルモドバル、アレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。
世界遺産[編集]
スペイン国内には、ユネスコの世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細は、スペインの世界遺産を参照。
祝祭日[編集]
スペイン全国共通の祭日を以下に示す。この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。
日付
日本語表記
スペイン語表記
備考
1月1日 元日 Año Nuevo
移動祝祭日 聖金曜日 Viernes Santo 復活祭の2日前の金曜日
5月1日 メーデー Día del Trabajador
8月15日 聖母被昇天の日 Asunción
10月12日 エスパーニャの祝日 Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España
11月1日 諸聖人の日 Todos los Santos
12月6日 憲法記念日 Día de la Constitución
12月8日 無原罪の聖母の日 Inmaculada Concepción
12月25日 クリスマス Navidad del Señor
スポーツ[編集]
詳細は「スペインのスポーツ」を参照
サッカー[編集]
詳細は「スペインのサッカー」を参照
スポーツにおいてスペインではサッカーが最も盛んである。スペイン代表はFIFAワールドカップに13回の出場を果たしている。1998年のフランス大会予選のときに「無敵艦隊」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。最高成績は1950年のブラジル大会の4位を久しく上回れず、「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、2010年の南アフリカ大会で初めて決勝に進出し、オランダ代表との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方欧州選手権では2012年までに3度の優勝を経験している。
また、国内のリーグ戦であるリーガ・エスパニョーラは、世界各国の有力選手が集結しイングランド(プレミアリーグ)やイタリア(セリエA)のリーグと並んで注目を集めている。特にFCバルセロナ対レアル・マドリードの対戦カードはエル・クラシコと呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。
バスケットボール[編集]
詳細は「スペインのバスケットボール」および「:en:Basketball in Spain」を参照
バスケットボールもスペイン代表が2006年に世界選手権を制覇し注目を集めている。NBAで活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したパウ・ガソルやホセ・カルデロン、セルヒオ・ロドリゲスらがいる。
サイクルロードレース[編集]
自転車ロードレースも伝統的に盛んで、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテス、ルイス・オカーニャ、ペドロ・デルガド、オスカル・ペレイロ、アルベルト・コンタドール、カルロス・サストレといった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアとともに、グランツール(三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。
モータースポーツ[編集]
近年はモータースポーツも人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。ロードレース世界選手権 (MotoGP) の視聴率は40%を超えることもしばしば。世界ラリー選手権ではカルロス・サインツがスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。フォーミュラ1 (F1) ではフェルナンド・アロンソが2005年(当時)F1 史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手のラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。
テニス[編集]
テニスの水準も高く、近年注目度の高いラファエル・ナダルをはじめフアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤといった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦であるデビスカップでも毎年好成績を収めている。
現在でも男子世界ランキングで100位以内の選手が一番多い国である。
その他[編集]
その他にも闘牛を行う伝統が存在する。近年ではシンクロナイズドスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。
科学と技術[編集]
詳細は「スペインの科学と技術」を参照
医学[編集]
臓器移植大国である[要出典]。
著名な出身者[編集]
詳細は「スペイン人の一覧」を参照
脚註[編集]
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1.^ 1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内ではEspañaという語は23回使われている。またEstado españolという語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。しかしReino de Españaという表現は同憲法内では全く使用されていないが、一般には使われることも多い。(Gobierno de España, La Moncloa. Constitución Española (Report).参照)
2.^ “'First west Europe tooth' found”. BBC. (2007年6月30日) 2008年8月9日閲覧。
3.^ a b c d Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Hispania”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
4.^ a b Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 1 Ancient Hispania”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
5.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Castile and Aragon”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
6.^ “The Treatment of Jews in Arab/Islamic Countries”. 2008年8月13日閲覧。 See also: “The Forgotten Refugees”. 2008年8月13日閲覧。 and “The Almohads”. 2008年8月13日閲覧。
7.^ Islamic and Christian Spain in the Early Middle Ages. Chapter 5: Ethnic Relations, Thomas F. Glick
8.^ a b c Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 2 Al-Andalus”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
9.^ “Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier”. 2008年8月13日閲覧。 See also: Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 4 Castile-León in the Era of the Great Reconquest”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
10.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 5 The Rise of Aragón-Catalonia”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
11.^ “The Black Death”. Channel 4. 2008年8月13日閲覧。
12.^ “The Treaty of Granada, 1492”. Islamic Civilisation. 2008年8月13日閲覧。
13.^ Spanish Inquisition left genetic legacy in Iberia. New Scientist. December 4, 2008.
14.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - The Golden Age”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
15.^ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986
16.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 13 The Spanish Empire”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
17.^ “The Seventeenth-Century Decline”. The Library of Iberian resources online. 2008年8月13日閲覧。
18.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Spain in Decline”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
19.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Bourbon Spain”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
20.^ Gascoigne, Bamber (1998年). “History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
21.^ (Gates 2001, p.20)
22.^ (Gates 2001, p.467)
23.^ Spanish Civil War crimes investigation launched, Telegraph, October 16, 2008
24.^ Spanish Civil War fighters look back, BBC News, February 23, 2003
25.^ Pfanner, Eric (2002年7月11日). “Economy reaps benefits of entry to the 'club' : Spain's euro bonanza”. International Herald Tribune 2008年8月9日閲覧。 See also: “Spain's economy / Plain sailing no longer”. The Economist (2007年5月3日). 2008年8月9日閲覧。
26.^ “Al-Qaeda 'claims Madrid bombings'”. BBC. 2008年8月13日閲覧。 See also: “Madrid bombers get long sentences”. BBC. 2008年8月13日閲覧。
27.^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、126〜140頁
28.^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
29.^ IMF: World Economic Outlook Database
30.^ スペインの失業率がさらに上昇(CNN.co.jp)2011年4月30日
31.^ “希望を失うスペイン国民の悲哀”. JBpress (フィナンシャル・タイムズ). (2012年11月6日)
32.^ CIA World Factbook "Spain" 2010年11月8日閲覧。
参考文献[編集]
岩根圀和 『物語スペインの歴史──海洋帝国の黄金時代』 中央公論社〈中公新書1635〉、東京、2002年2月。ISBN 4-12-101635-5。
牛島信明、川成洋、坂東省次編 『スペイン学を学ぶ人のために』 世界思想社、京都、1999年5月。ISBN 4-12-101564-8。
エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。
田沢耕 『物語カタルーニャの歴史──知られざる地中海帝国の興亡』 中央公論社〈中公新書1564〉、東京、2000年12月。ISBN 4-12-101564-8。
立石博高編 『スペイン・ポルトガル史』 山川出版社〈新版世界各国史16〉、東京、2000年6月。ISBN 4-634-41460-0。
野々山真輝帆 『スペインを知るための60章』 明石書店〈エリア・スタディーズ23〉、東京、2002年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
坂東省次、戸門一衛、碇順治編 『現代スペイン情報ハンドブック[改訂版]』 三修社、東京、2007年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
渡部哲郎 『バスクとバスク人』 平凡社〈平凡社新書〉、東京、2004年4月。ISBN 4-7503-1638-5。
関連項目[編集]
ウィクショナリーにスペインの項目があります。
スペイン関係記事の一覧
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
セルバンテス文化センター
スペインに関する著書が多い作家・文化人[編集]
堀田善衛 - 小説家
天本英世 - 俳優
逢坂剛 - 推理作家
俵万智
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代から前ローマ時代
2.2 ローマ帝国とゲルマン系諸王国
2.3 イスラームの支配
2.4 イスラーム支配の終焉と統一
2.5 スペイン帝国
2.6 斜陽の帝国
2.7 スペイン内戦終結まで
2.8 フランコ独裁体制
2.9 王政復古から現在
3 政治
4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係
6 地方行政区画 6.1 主要都市
7 地理 7.1 地形
7.2 気候
7.3 標準時
8 経済 8.1 鉱業
9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 海運
9.4 空運
10 国民 10.1 民族 10.1.1 民族の一覧
10.2 言語 10.2.1 言語の一覧
10.3 宗教
10.4 教育
11 文化 11.1 食文化 11.1.1 アルコール類
11.1.2 スペイン料理
11.2 文学
11.3 哲学
11.4 音楽
11.5 美術
11.6 映画
11.7 世界遺産
11.8 祝祭日
12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 バスケットボール
12.3 サイクルロードレース
12.4 モータースポーツ
12.5 テニス
12.6 その他
13 科学と技術 13.1 医学
14 著名な出身者
15 脚註
16 参考文献
17 関連項目 17.1 スペインに関する著書が多い作家・文化人
18 外部リンク
国名[編集]
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、España(エスパーニャ)、Estado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている[1]。Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられることがある。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語の Spain に基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名ヒスパニアであり、「スペイン」は長らく俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている複合王政だった。1624年宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオンの兄ホセ・ボナパルトの即位時に正式に「スペイン国王」が誕生した。
現在のスペインは、国王を元首とする王国であるが、スペイン1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
歴史[編集]
詳細は「スペインの歴史」を参照
先史時代から前ローマ時代[編集]
アルタミラ洞窟壁画のレプリカ。
アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[2]。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。
この時期の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌(英語版)』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[3] 。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国[編集]
詳細はヒスパニアを参照
メリダのローマ劇場。
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとなり(帝政期にヒスパーニア・タラコネンシス、ヒスパーニア・バエティカ、ルシタニアの3州に分割)、法と言語とローマ街道によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる[4]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[3]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[3]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[4]。
ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配[編集]
詳細はアンダルスを参照
ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿。
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる[5]。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[6]。
後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータ(モスク)の内部。
シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[7][8]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[8]。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[8]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[3]。
イスラーム支配の終焉と統一[編集]
詳細はレコンキスタを参照
マンサナーレス・エル・レアルの城。
レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨが722年のコバドンガの戦い(英語版)に勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[5]。
1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦い。
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[9]。
カトリック両王、フェルナンド2世とイサベル1世。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[10]。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した[11]。
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[12]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[13]。その後同じ条件でムスリムも追放された[14]。
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア(Hispania)を語源とするエスパーニャ(España)が王国の総称として用いられるようになった[14]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。
スペイン帝国[編集]
詳細はスペイン帝国を参照
スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)。
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[15]。
スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカの幾つかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[16]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。
フェリペ2世。
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。
この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(英語版)(1635年 - 1659年)が起こっている。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。更に、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[17]。
16世紀のスペインのガレオン船。
1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。
18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[18]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。
この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[19]。
1713年、1714年のユトレヒト条約とラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下でのフランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想がホベリャーノスや、フェイホーによって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[20]。
斜陽の帝国[編集]
詳細はスペイン独立戦争と米西戦争を参照
フランシスコ・デ・ゴヤ画「マドリード、1808年5月3日」。スペイン独立戦争の一局面を描いている。
1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍とトラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。
19世紀初頭にはナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する[21]。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[22]。フェルナンド7世は復位後絶対主義への反動政策を採ったため、自由主義を求めるスペイン人の支持を受けて1820年にラファエル・デル・リエゴ将軍が率いるスペイン立憲革命が達成され、戦争中にカディスで制定されたスペイン1812年憲法が復活したが、ウィーン体制の崩壊を恐れる神聖同盟の干渉によって1823年にリエゴ将軍は処刑され、以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定づけた。また、挫折した立憲革命の成果もあって、1825年にシモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によって南米最後の植民地ボリビアが独立し、キューバとプエルトリコ以外の全てのアメリカ大陸の植民地を失った。
立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギー、ドイツ帝国、アメリカ合衆国で進行する産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、翌1874年には王政復古した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピンとキューバで独立運動が発生し、1898年にハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年の世代」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。
スペイン内戦終結まで[編集]
国王アルフォンソ13世とミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍(1930年)。
スペイン内戦に参戦した国際旅団のポーランド人義勇兵。
スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(英語版)(モロッコ)、スペイン領ギニア(英語版)(赤道ギニア)を獲得しただけだった。スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザのパンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(英語版)(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和国はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、また女性参政権も認められた。
しかしながら、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、1936年の選挙にて左翼共和党、社会労働党、共産党ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた共和国政府をナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[23] 、50万人が国を捨てて亡命し[24]、社会基盤は破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。
フランコ独裁体制[編集]
詳細は「スペイン国 (1939年-1975年)」および「フランキスモ」を参照
フランシスコ・フランコ総統。1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。
1939年4月1日から1975年11月22日まで、スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁下のスペイン国 (1939年-1975年)の時代であった。
フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党制となり、ファランヘ党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、ソ連と戦うためにナチス・ドイツに義勇兵として青師団を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。
第二次世界大戦後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争(Ifni War)などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由(ETA)はバスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。
王政復古から現在[編集]
首都マドリードのクアトロ・トーレス・ビジネス・エリア。
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人によるクーデター未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された(23-F)。
民主化されたスペインは1982年に北大西洋条約機構(NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙にて右派の国民党(PP)に敗れ、ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。
21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[25]。
2002年7月18日、ペレヒル島危機(英語版)が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール首相がイラク戦争を非常任理事国として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合の一員として、米英軍と共にイラクにスペイン軍1400人を派遣した。2004年3月11日にスペイン列車爆破事件が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダの犯行[26]と CIAからの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利したが、同年9月のリーマン・ショック勃発により、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。
2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。
政治[編集]
詳細は「スペインの政治」および「:en:Politics of Spain」を参照
代議院議事堂。
スペイン最高裁判所。
政体は立憲君主制(制限君主制)。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在する。国王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。国王は議会の推薦を受けて首相の指名を行なうほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行う。現行憲法はスペイン1978年憲法である。
「スペイン君主一覧」および「スペインの首相」も参照
国会は両院制であり、代議院(下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、元老院(上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。
2011年12月現在の与党は国民党で、スペイン社会労働党と共に二大政党制を構成する。その他には、スペイン共産党を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼や進歩民主連合などの全国政党のほかに、集中と統一(CiU)、カタルーニャ共和主義左翼、バスク民族主義党、ガリシア民族主義ブロックなどカタルーニャやバスク、ガリシアの民族主義地域政党が存在する。
「スペインの政党」も参照
軍事[編集]
詳細は「スペイン軍」を参照
空母プリンシペ・デ・アストゥリアス
スペイン軍は陸軍、海軍、空軍、グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。
イージス艦や軽空母、ユーロファイター タイフーン、レオパルト2EA6等最新鋭の兵器を配備している。
国際関係[編集]
詳細は「スペインの国際関係」および「:en:Foreign relations of Spain」を参照
1986年のEC加盟以降、EUの一員として他のEU諸国との関係が密接になっている。
旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加しているが、ラテンアメリカにスペイン企業が進出し過ぎていることから一部には、ラテンアメリカに対するレコンキスタ(本来はイスラームに征服された国土の回復運動だが、ここでは文字通り「再征服」)であるという批判もある。
また、特に南部アンダルシア地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っていることなどもあり、他のEU諸国と比べるとイスラーム諸国との友好関係の構築に比較的積極的であるといえる。
スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めているが、ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。
日本との関係[編集]
詳細は「日西関係史」を参照
岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[27]。
地方行政区画[編集]
詳細は「スペインの地方行政区画」および「スペインの県」を参照
Galicia
Navarra
Madrid
La Rioja
Aragón
Cataluña
Comunidad
Valenciana
Castilla-
La Mancha
Extremadura
Portugal
Castilla
y León
Asturias
Cantabria
País
Vasco
Región de Murcia
Andalucía
Gibraltar (R. U.)
Ceuta
Melilla
Francia
Islas
Baleares
Islas
Canarias
Mar Mediterráneo
Mar Cantábrico
Océano
Atlántico
Andorra
Océano
Atlántico
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スペインの自治州
スペインは、17の自治州から構成される。また、各州は50の県に分かれる。
アンダルシア州(Andalucía)
アラゴン州(Aragón)
アストゥリアス州(Asturias)
バレアレス諸島州(Las Islas Baleares)
バスク州(El País Vasco)
カナリアス諸島州(Las Islas Canarias)
カンタブリア州(Cantabria)
カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)
カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)
カタルーニャ州(Cataluña)
エストレマドゥーラ州(Extremadura)
ガリシア州(Galicia)
ラ・リオハ州(La Rioja)
マドリード州(La Comunidad de Madrid)
ムルシア州(La Region de Murcia)
ナバラ州(Navarra)
バレンシア州(Valencia)
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタとメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島、ペニョン・デ・アルセマス島、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。
主要都市[編集]
首都マドリードはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けで18位の都市と評価された[28]。
詳細は「スペインの都市の一覧」を参照
人口の多い上位10都市は次の通り(2006年1月、スペイン統計局の2007年1月発表のデータによる)。
順位
都市
州
人口
1 マドリード マドリード州 3,128,600
2 バルセロナ カタルーニャ州 1,605,602
3 バレンシア バレンシア州 805,304
4 セビリア アンダルシア州 704,414
5 サラゴサ アラゴン州 649,181
6 マラガ アンダルシア州 560,631
7 ムルシア ムルシア州 416,996
8 ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア カナリア諸島自治州 377,056
9 パルマ・デ・マリョルカ バレアレス諸島自治州 375,048
10 ビルバオ バスク州 354,145
このほかに、歴史上有名な都市としては、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、バリャドリード、ブルゴス、コルドバ、グラナダ、トレドなどが挙げられる。
地理[編集]
詳細は「スペインの地理」および「:en:Geography of Spain」を参照
地形[編集]
スペインの地形。
スペインの地図。
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。
南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海(ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。
スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。[要出典]
気候[編集]
全国的には地中海性気候に属する地域が多いが、北部(バスク州からガリシア州にかけて)は西岸海洋性気候で、雨が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候に属する。
標準時[編集]
スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間)。このため、西経3度42分に位置するマドリッドにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃(夏時間)となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。
経済[編集]
詳細は「スペインの経済」、「:en:Economy of Spain」、および「スペイン経済危機 (2012年)」を参照
IMFによると、2010年のスペインのGDPは1兆3747億ドルであり、世界第12位である[29]。
1960年代以来、「スペインの年」と一部では呼ばれていた1992年頃までの高度成長期が過ぎ去り、低迷していたが、ヨーロッパの経済的な統合と、通貨のユーロへの切替えとともに経済的な発展が急速に進んでいる(2003年現在)。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位で カナダを超えるがサミットには参加していない。企業は自動車会社のセアトやペガソ、通信関連企業のテレフォニカ、アパレルのザラ、金融のサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行などが著名な企業として挙げられる。またスペイン人の労働時間はEU内で第1位である。
しかし、近年の世界金融危機の影響からスペインも逃れられず、2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている[30]。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した。若年失業率は現在52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている[31]。
鉱業[編集]
スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に亘る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金、銀、亜鉛、銅、鉛、わずかながら錫も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈とシエラモリナ山脈に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。
交通[編集]
詳細は「スペインの交通」および「:en:Transport in Spain」を参照
道路[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
鉄道[編集]
詳細は「スペインの鉄道」を参照
スペインの鉄道は主にレンフェ(RENFE)によって経営されており、標準軌(狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道(FEVE)によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道AVEが国内各地を結んでいる。
地上路線の他にも、マドリード地下鉄をはじめ、バルセロナ地下鉄、メトロバレンシアなど、主要都市には地下鉄網が存在する。
海運[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
空運[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
国民[編集]
詳細は「スペインの人口統計」および「:en:Demographics of Spain」を参照
ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。カトリック教会の聖地の一つであり、古くから多くの巡礼者が訪れている。
民族[編集]
詳細は「スペイン人」を参照
ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、イスラーム文化の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン、アンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。
民族の一覧[編集]
スペイン人
カスティーリャ人
カタルーニャ人
バレンシア人
バスク人
カンタブリア人
アラゴン人
ガリシア人
アンダルシア人
カナリア人
アストゥリアス人
レオン人
言語[編集]
詳細は「スペインの言語」を参照
スペイン語(カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語であり全国で話されており、憲法にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語(俗ラテン語)に由来するロマンス語である。、また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉はすたれている。
北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、他のヨーロッパと共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
言語の一覧[編集]
現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
ガリシア語(ガリシア州)
スペイン語(国家公用語)
カタルーニャ語(カタルーニャ州、バレアレス諸島州)
バレンシア語(バレンシア州)
アストゥリアス語(アストゥリアス州、カスティーリャ・イ・レオン州)
アラゴン語(アラゴン州北部)
エストレマドゥーラ語(エストレマドゥーラ州の一部)
バスク語(バスク州、ナバーラ州)
宗教[編集]
詳細は「スペインの宗教」を参照
カトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにも関わらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。
教育[編集]
詳細は「スペインの教育」を参照
サラマンカ大学(1218年創立)の図書館。
スペインの教育制度は初等教育が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育機関となる。後期中等教育はバチジェラトと呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり[32]、これはアルゼンチン(97.2%)やウルグアイ(98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。
主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。大学は4年制乃至6年制であり、学位取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。
文化[編集]
詳細は「スペインの文化」および「:en:Culture of Spain」を参照
バルセロナのサグラダ・ファミリア。
情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。1991年に創設されたセルバンテス文化センターによって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。
食文化[編集]
詳細は「スペイン料理」を参照
スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
1.デサジュノ (Desayuno) :朝食。起きがけに摂る食事。パンなどを食べる。
2.メリエンダ・メディア・マニャーナ (Merienda media Mañana) :朝の軽食。午前11時頃、サンドイッチ、タパス(おつまみ)などを食べる。
3.アルムエルソ (Almuerzo) :昼食。一日のメインの食事で、午後2時頃、フルコースを食べる。
4.メリエンダ (Merienda) :夕方の軽食。午後6時頃、タパス、おやつなどを食べる。
5.セナ (Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。
アルコール類[編集]
スペイン・ワイン
カバ (Cava) - シャンパーニュ地方産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる発泡ワインである。主にカタルーニャ地方で造られている。
シェリー酒 - シェリーは英名。スペイン名「ヘレス」。アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ原産。
サングリア - 赤ワインを基にしたカクテル。
スペイン料理[編集]
スペイン料理
トルティージャ(トルティージャ・エスパニョーラ、トルティージャ・デ・パタータ) - ジャガイモのオムレツ
パエリア
文学[編集]
詳細は「スペイン文学」を参照
『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス。
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。
スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。
1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635) のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。
近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセト、小説家のアンヘル・ガニベ、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。
スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールやカルメン・ラフォレ、フアン・ゴイティソーロ、ミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した。
民主化以後はカミーロ・ホセ・セラが1989年にノーベル文学賞を受賞している。
セルバンテスに因み、1974年にスペイン語圏の優れた作家に対して贈られるセルバンテス賞が創設された。
哲学[編集]
「スペインの哲学」も参照
ホセ・オルテガ・イ・ガセット。20世紀の精神に多大な影響を与えた『大衆の反逆』(1929年)で知られる。
古代ローマ時代に活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン・スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン・ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。
16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリアやドミンゴ・デ・ソトらのカトリック神学者によってサラマンカ学派が形成され、17世紀オランダのフーゴー・グローティウスに先んじて国際法の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、ベニート・ヘロニモ・フェイホーやガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスなどの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論のクラウゼ (Krause) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義者ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット、形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。
音楽[編集]
詳細は「スペインの音楽」および「:en:Music of Spain」を参照
マヌエル・デ・ファリャ。
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。近代の作曲家としては、スペインの民謡や民話をモチーフとして利用した、デ・ファリャの知名度が高い。
南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。
美術[編集]
詳細は「スペインの芸術」および「:en:Spanish art」を参照
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール、ラモン・カザス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ジュリ・ゴンサレス、パブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
映画[編集]
詳細は「スペインの映画」を参照
ペドロ・アルモドバルとペネロペ・クルス。
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932) が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガやフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。
民主化以後はホセ・ルイス・ボロウやカルロス・サウラ、マリオ・カムス、ペドロ・アルモドバル、アレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。
世界遺産[編集]
スペイン国内には、ユネスコの世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細は、スペインの世界遺産を参照。
祝祭日[編集]
スペイン全国共通の祭日を以下に示す。この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。
日付
日本語表記
スペイン語表記
備考
1月1日 元日 Año Nuevo
移動祝祭日 聖金曜日 Viernes Santo 復活祭の2日前の金曜日
5月1日 メーデー Día del Trabajador
8月15日 聖母被昇天の日 Asunción
10月12日 エスパーニャの祝日 Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España
11月1日 諸聖人の日 Todos los Santos
12月6日 憲法記念日 Día de la Constitución
12月8日 無原罪の聖母の日 Inmaculada Concepción
12月25日 クリスマス Navidad del Señor
スポーツ[編集]
詳細は「スペインのスポーツ」を参照
サッカー[編集]
詳細は「スペインのサッカー」を参照
スポーツにおいてスペインではサッカーが最も盛んである。スペイン代表はFIFAワールドカップに13回の出場を果たしている。1998年のフランス大会予選のときに「無敵艦隊」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。最高成績は1950年のブラジル大会の4位を久しく上回れず、「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、2010年の南アフリカ大会で初めて決勝に進出し、オランダ代表との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方欧州選手権では2012年までに3度の優勝を経験している。
また、国内のリーグ戦であるリーガ・エスパニョーラは、世界各国の有力選手が集結しイングランド(プレミアリーグ)やイタリア(セリエA)のリーグと並んで注目を集めている。特にFCバルセロナ対レアル・マドリードの対戦カードはエル・クラシコと呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。
バスケットボール[編集]
詳細は「スペインのバスケットボール」および「:en:Basketball in Spain」を参照
バスケットボールもスペイン代表が2006年に世界選手権を制覇し注目を集めている。NBAで活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したパウ・ガソルやホセ・カルデロン、セルヒオ・ロドリゲスらがいる。
サイクルロードレース[編集]
自転車ロードレースも伝統的に盛んで、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテス、ルイス・オカーニャ、ペドロ・デルガド、オスカル・ペレイロ、アルベルト・コンタドール、カルロス・サストレといった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアとともに、グランツール(三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。
モータースポーツ[編集]
近年はモータースポーツも人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。ロードレース世界選手権 (MotoGP) の視聴率は40%を超えることもしばしば。世界ラリー選手権ではカルロス・サインツがスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。フォーミュラ1 (F1) ではフェルナンド・アロンソが2005年(当時)F1 史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手のラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。
テニス[編集]
テニスの水準も高く、近年注目度の高いラファエル・ナダルをはじめフアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤといった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦であるデビスカップでも毎年好成績を収めている。
現在でも男子世界ランキングで100位以内の選手が一番多い国である。
その他[編集]
その他にも闘牛を行う伝統が存在する。近年ではシンクロナイズドスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。
科学と技術[編集]
詳細は「スペインの科学と技術」を参照
医学[編集]
臓器移植大国である[要出典]。
著名な出身者[編集]
詳細は「スペイン人の一覧」を参照
脚註[編集]
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1.^ 1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内ではEspañaという語は23回使われている。またEstado españolという語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。しかしReino de Españaという表現は同憲法内では全く使用されていないが、一般には使われることも多い。(Gobierno de España, La Moncloa. Constitución Española (Report).参照)
2.^ “'First west Europe tooth' found”. BBC. (2007年6月30日) 2008年8月9日閲覧。
3.^ a b c d Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Hispania”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
4.^ a b Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 1 Ancient Hispania”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
5.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Castile and Aragon”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
6.^ “The Treatment of Jews in Arab/Islamic Countries”. 2008年8月13日閲覧。 See also: “The Forgotten Refugees”. 2008年8月13日閲覧。 and “The Almohads”. 2008年8月13日閲覧。
7.^ Islamic and Christian Spain in the Early Middle Ages. Chapter 5: Ethnic Relations, Thomas F. Glick
8.^ a b c Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 2 Al-Andalus”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
9.^ “Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier”. 2008年8月13日閲覧。 See also: Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 4 Castile-León in the Era of the Great Reconquest”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
10.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 5 The Rise of Aragón-Catalonia”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
11.^ “The Black Death”. Channel 4. 2008年8月13日閲覧。
12.^ “The Treaty of Granada, 1492”. Islamic Civilisation. 2008年8月13日閲覧。
13.^ Spanish Inquisition left genetic legacy in Iberia. New Scientist. December 4, 2008.
14.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - The Golden Age”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
15.^ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986
16.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 13 The Spanish Empire”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
17.^ “The Seventeenth-Century Decline”. The Library of Iberian resources online. 2008年8月13日閲覧。
18.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Spain in Decline”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
19.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Bourbon Spain”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
20.^ Gascoigne, Bamber (1998年). “History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
21.^ (Gates 2001, p.20)
22.^ (Gates 2001, p.467)
23.^ Spanish Civil War crimes investigation launched, Telegraph, October 16, 2008
24.^ Spanish Civil War fighters look back, BBC News, February 23, 2003
25.^ Pfanner, Eric (2002年7月11日). “Economy reaps benefits of entry to the 'club' : Spain's euro bonanza”. International Herald Tribune 2008年8月9日閲覧。 See also: “Spain's economy / Plain sailing no longer”. The Economist (2007年5月3日). 2008年8月9日閲覧。
26.^ “Al-Qaeda 'claims Madrid bombings'”. BBC. 2008年8月13日閲覧。 See also: “Madrid bombers get long sentences”. BBC. 2008年8月13日閲覧。
27.^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、126〜140頁
28.^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
29.^ IMF: World Economic Outlook Database
30.^ スペインの失業率がさらに上昇(CNN.co.jp)2011年4月30日
31.^ “希望を失うスペイン国民の悲哀”. JBpress (フィナンシャル・タイムズ). (2012年11月6日)
32.^ CIA World Factbook "Spain" 2010年11月8日閲覧。
参考文献[編集]
岩根圀和 『物語スペインの歴史──海洋帝国の黄金時代』 中央公論社〈中公新書1635〉、東京、2002年2月。ISBN 4-12-101635-5。
牛島信明、川成洋、坂東省次編 『スペイン学を学ぶ人のために』 世界思想社、京都、1999年5月。ISBN 4-12-101564-8。
エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。
田沢耕 『物語カタルーニャの歴史──知られざる地中海帝国の興亡』 中央公論社〈中公新書1564〉、東京、2000年12月。ISBN 4-12-101564-8。
立石博高編 『スペイン・ポルトガル史』 山川出版社〈新版世界各国史16〉、東京、2000年6月。ISBN 4-634-41460-0。
野々山真輝帆 『スペインを知るための60章』 明石書店〈エリア・スタディーズ23〉、東京、2002年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
坂東省次、戸門一衛、碇順治編 『現代スペイン情報ハンドブック[改訂版]』 三修社、東京、2007年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
渡部哲郎 『バスクとバスク人』 平凡社〈平凡社新書〉、東京、2004年4月。ISBN 4-7503-1638-5。
関連項目[編集]
ウィクショナリーにスペインの項目があります。
スペイン関係記事の一覧
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
セルバンテス文化センター
スペインに関する著書が多い作家・文化人[編集]
堀田善衛 - 小説家
天本英世 - 俳優
逢坂剛 - 推理作家
俵万智
カスティーリャ王国
カスティーリャ王国(カスティーリャおうこく、スペイン語: Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。
Castilla の日本語表記は、カスティーリャ、カスティリャ、カスティリア、カスティーヤ、カスチラと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。
目次 [非表示]
1 カスティーリャ伯領
2 カスティーリャ=レオン王国
3 カスティーリャ王国統一
4 トラスタマラ朝
5 新大陸
6 スペイン王国
7 参考文献
8 関連項目
カスティーリャ伯領[編集]
8世紀初頭にイスラム教勢力がイベリア半島を侵略、キリスト教勢力は、半島北端のカンタブリア山脈以北および北東部のピレネー山脈山麓周辺に追いつめられた。カンタブリア山脈の北ではアストゥリアス王国が成立、イスラム軍と衝突しつつも、徐々に南方へ領域を広げていき、914年、レオンへ遷都した(これ以降はレオン王国と呼ばれる)。レオン王国の東部地域は、メセータと呼ばれる周りを山々に囲まれる高原が広がり、常にイスラム軍の侵攻ルートとして使われ、戦闘が繰り返された。この地域の住人は、防衛のため多くの城塞を作った。この地域がカスティーリャと呼ばれるようになったのは、スペイン語で城を意味するカスティーリョ(castillo)に由来すると言われる。当初この地は複数の伯領に分かれていたが、最前線としての軍事力強化を目的として、932年にカスティーリャ伯領として統合された。カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスは、レオン王国内での地位を強め、伯領に対する王国の支配力を排斥し、961年には事実上独立した。
1029年に、カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されると、その妹を妃としていたナバーラ王サンチョ3世が伯領を継承し、ナバーラ王国に併合した。この頃、イベリア半島の中部および南部のイスラム圏(アル=アンダルス)では後ウマイヤ朝が内紛で衰退し、タイファと呼ばれる小国が乱立する群雄割拠の時代に向かっていた。タイファの多くは、キリスト教国のナバーラ王国に貢納しつつ、タイファ間での戦争により、ますます疲弊していった。
カスティーリャ=レオン王国[編集]
サンチョ3世時代。赤がナバーラ王国で、カスティーリャはその最も西の逆T字形の部分
1210年のイベリア半島
1035年にサンチョ3世が死去すると、ナバーラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらに、1037年にはレオン王ベルムート3世を倒してレオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生した。
フェルナンド1世の死後も分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。しかし、最後に残った都市サモーラを攻囲中にサンチョ2世は暗殺された。その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が1072年にカスティーリャの王位も得て、再び両王国は同君連合となった。アルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。危機感を抱いたタイファ諸国は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。ムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島の中央部を流れるタホ川流域以北をキリスト教圏とすることに成功した。一方、南部のアル=アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国が併合され、統一された。
アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。1157年にムワヒッド軍との戦いでアルフォンソ7世が戦死すると、カスティーリャ=レオン王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。カスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国、ポルトガル王国とは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。
このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争に邁進することを命じた。これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・ナースィルも、10万以上の兵を集め、キリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する。両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トローサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利した(ラス・ナバス・デ・トローサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。
Castilla and Leon.png
カスティーリャ王国統一[編集]
カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘とレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年にカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位を継承した。レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。
1236年にコルドバの攻略に成功、1246年にはナスル朝を臣従させる。1248年のセビリャ攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島のイスラム国はナスル朝グラナダ王国のみとなった。
フェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかり、ローマ法を元に『七部法典』を編纂した。首都トレドでは、アラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。
アルフォンソ11世は、『七部法典』を実施に移した。グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携してカスティーリャ王国に対抗していたが、1340年のサラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。しかし、グラナダを攻略することはできなかった。1343年にカタルーニャに上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死亡した。また、王権強化を目指す王は下級貴族を登用し、有力貴族を押さえようとするが、既得権を守りたい有力貴族は反発し、王位継承権をめぐる争いに発展する。ペドロ1世と庶子であるエンリケ2世の王位継承権争いは、アラゴン、グラナダ、さらには、百年戦争中のフランスとイングランドの介入を招き、戦乱が拡大する(第一次カスティーリャ継承戦争)。1369年、ペドロ1世がモンティエールの戦いで戦死、エンリケ2世がカスティーリャ王に即位し、トラスタマラ朝が開かれた。
トラスタマラ朝[編集]
イサベル1世がカスティーリャ王に即位した1474年におけるイベリア半島の勢力地図
グラナダ開城。右側がカトリック両王(イサベルとフェルナンド)
エンリケ3世が死去すると、息子フアン2世が即位し、エンリケ3世の弟フェルナンドが摂政となった。フェルナンドは1410年、対グラナダ戦争を開始し、アンテケーラを攻略した。フェルナンドは1412年にアラゴン王に選出され(カスペの妥協)、フェルナンド1世となるが、その後もカスティーリャの宮廷に影響力を及ぼし続けた。フェルナンドの死後も息子たちが権勢を振るっていたが、成人したフアン2世とカスティーリャ貴族らはこれを追放、アラゴンとの関係は悪化した。
エンリケ4世は有力貴族らとの間で争ったが、1468年にトロス・デ・ギサント協定を結び、王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹のイサベル1世とすることに同意した。1474年にイサベル1世が即位すると、アラゴン王太子である夫のフェルナンド5世を共同統治者とした。一方、ポルトガル王妃となっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王即位を宣言し、カスティーリャはイサベル支持派とフアナ支持派とに分裂する。フアナ支持派とポルトガルの連合軍に対し、イサベル派とアラゴンの連合軍は戦闘に勝利し、1479年、ポルトガルはイサベルの王位継承を承認した。同年にフェルナンドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド2世)、カスティーリャとアラゴンが同君連合となった。イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、1482年に、対グラナダ戦争を開始する。そして1492年、グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。
1504年にイサベルが死去すると、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナが女王に即位、フェルナンド5世が摂政となった。1515年、ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(すなわちスペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となった。
新大陸[編集]
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照
1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。
スペイン王国[編集]
フェルナンド2世が死去すると、孫のカルロス1世がアラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、国内の中央集権化が実施されたときであった。
Castilla の日本語表記は、カスティーリャ、カスティリャ、カスティリア、カスティーヤ、カスチラと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。
目次 [非表示]
1 カスティーリャ伯領
2 カスティーリャ=レオン王国
3 カスティーリャ王国統一
4 トラスタマラ朝
5 新大陸
6 スペイン王国
7 参考文献
8 関連項目
カスティーリャ伯領[編集]
8世紀初頭にイスラム教勢力がイベリア半島を侵略、キリスト教勢力は、半島北端のカンタブリア山脈以北および北東部のピレネー山脈山麓周辺に追いつめられた。カンタブリア山脈の北ではアストゥリアス王国が成立、イスラム軍と衝突しつつも、徐々に南方へ領域を広げていき、914年、レオンへ遷都した(これ以降はレオン王国と呼ばれる)。レオン王国の東部地域は、メセータと呼ばれる周りを山々に囲まれる高原が広がり、常にイスラム軍の侵攻ルートとして使われ、戦闘が繰り返された。この地域の住人は、防衛のため多くの城塞を作った。この地域がカスティーリャと呼ばれるようになったのは、スペイン語で城を意味するカスティーリョ(castillo)に由来すると言われる。当初この地は複数の伯領に分かれていたが、最前線としての軍事力強化を目的として、932年にカスティーリャ伯領として統合された。カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスは、レオン王国内での地位を強め、伯領に対する王国の支配力を排斥し、961年には事実上独立した。
1029年に、カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されると、その妹を妃としていたナバーラ王サンチョ3世が伯領を継承し、ナバーラ王国に併合した。この頃、イベリア半島の中部および南部のイスラム圏(アル=アンダルス)では後ウマイヤ朝が内紛で衰退し、タイファと呼ばれる小国が乱立する群雄割拠の時代に向かっていた。タイファの多くは、キリスト教国のナバーラ王国に貢納しつつ、タイファ間での戦争により、ますます疲弊していった。
カスティーリャ=レオン王国[編集]
サンチョ3世時代。赤がナバーラ王国で、カスティーリャはその最も西の逆T字形の部分
1210年のイベリア半島
1035年にサンチョ3世が死去すると、ナバーラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらに、1037年にはレオン王ベルムート3世を倒してレオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生した。
フェルナンド1世の死後も分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。しかし、最後に残った都市サモーラを攻囲中にサンチョ2世は暗殺された。その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が1072年にカスティーリャの王位も得て、再び両王国は同君連合となった。アルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。危機感を抱いたタイファ諸国は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。ムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島の中央部を流れるタホ川流域以北をキリスト教圏とすることに成功した。一方、南部のアル=アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国が併合され、統一された。
アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。1157年にムワヒッド軍との戦いでアルフォンソ7世が戦死すると、カスティーリャ=レオン王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。カスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国、ポルトガル王国とは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。
このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争に邁進することを命じた。これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・ナースィルも、10万以上の兵を集め、キリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する。両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トローサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利した(ラス・ナバス・デ・トローサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。
Castilla and Leon.png
カスティーリャ王国統一[編集]
カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘とレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年にカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位を継承した。レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。
1236年にコルドバの攻略に成功、1246年にはナスル朝を臣従させる。1248年のセビリャ攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島のイスラム国はナスル朝グラナダ王国のみとなった。
フェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかり、ローマ法を元に『七部法典』を編纂した。首都トレドでは、アラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。
アルフォンソ11世は、『七部法典』を実施に移した。グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携してカスティーリャ王国に対抗していたが、1340年のサラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。しかし、グラナダを攻略することはできなかった。1343年にカタルーニャに上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死亡した。また、王権強化を目指す王は下級貴族を登用し、有力貴族を押さえようとするが、既得権を守りたい有力貴族は反発し、王位継承権をめぐる争いに発展する。ペドロ1世と庶子であるエンリケ2世の王位継承権争いは、アラゴン、グラナダ、さらには、百年戦争中のフランスとイングランドの介入を招き、戦乱が拡大する(第一次カスティーリャ継承戦争)。1369年、ペドロ1世がモンティエールの戦いで戦死、エンリケ2世がカスティーリャ王に即位し、トラスタマラ朝が開かれた。
トラスタマラ朝[編集]
イサベル1世がカスティーリャ王に即位した1474年におけるイベリア半島の勢力地図
グラナダ開城。右側がカトリック両王(イサベルとフェルナンド)
エンリケ3世が死去すると、息子フアン2世が即位し、エンリケ3世の弟フェルナンドが摂政となった。フェルナンドは1410年、対グラナダ戦争を開始し、アンテケーラを攻略した。フェルナンドは1412年にアラゴン王に選出され(カスペの妥協)、フェルナンド1世となるが、その後もカスティーリャの宮廷に影響力を及ぼし続けた。フェルナンドの死後も息子たちが権勢を振るっていたが、成人したフアン2世とカスティーリャ貴族らはこれを追放、アラゴンとの関係は悪化した。
エンリケ4世は有力貴族らとの間で争ったが、1468年にトロス・デ・ギサント協定を結び、王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹のイサベル1世とすることに同意した。1474年にイサベル1世が即位すると、アラゴン王太子である夫のフェルナンド5世を共同統治者とした。一方、ポルトガル王妃となっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王即位を宣言し、カスティーリャはイサベル支持派とフアナ支持派とに分裂する。フアナ支持派とポルトガルの連合軍に対し、イサベル派とアラゴンの連合軍は戦闘に勝利し、1479年、ポルトガルはイサベルの王位継承を承認した。同年にフェルナンドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド2世)、カスティーリャとアラゴンが同君連合となった。イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、1482年に、対グラナダ戦争を開始する。そして1492年、グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。
1504年にイサベルが死去すると、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナが女王に即位、フェルナンド5世が摂政となった。1515年、ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(すなわちスペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となった。
新大陸[編集]
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照
1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。
スペイン王国[編集]
フェルナンド2世が死去すると、孫のカルロス1世がアラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、国内の中央集権化が実施されたときであった。
ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa、ミランダ語:República Pertual)、通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。
ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者ともなった。そのためヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国家でもある。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代とローマ化
2.2 ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
2.3 ポルトガル王国の盛衰
2.4 近代のポルトガル
2.5 共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制
2.6 カーネーション革命以降
3 政治 3.1 統治機構
3.2 最近の政治状況
4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係
6 地方行政区分 6.1 主要都市
7 地理 7.1 気候
8 経済
9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 航空機
10 国民 10.1 言語
10.2 宗教
10.3 婚姻
10.4 教育
11 文化 11.1 食文化
11.2 文学
11.3 音楽
11.4 美術
11.5 映画
11.6 世界遺産
11.7 祝祭日
12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 陸上競技
12.3 その他
13 著名な出身者 13.1 政治家
13.2 聖職者
13.3 文学者
13.4 音楽家
13.5 芸術家
13.6 スポーツ関係者
14 脚註
15 参考文献
16 関連項目
17 外部リンク
国名[編集]
正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。
公式の英語表記は、Portuguese Republic (ポーチュギーズ リパブリク)。通称、Portugal (ポーチュゴル)。日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略される。
歴史[編集]
詳細は「ポルトガルの歴史」を参照
先史時代とローマ化[編集]
現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。
紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の支配が完成し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。
ゲルマン諸王国とイスラームの侵入[編集]
紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国と西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州。
ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。
キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコパドンガの戦い(英語版)の勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領(英語版)が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。
ポルトガル王国の盛衰[編集]
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。
ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。
ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。
16世紀ポルトガルの領土拡張。
ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定し、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年のディウ沖海戦(英語版)で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年〜1543年には日本へもやってきた[2]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
ジョアン4世の即位(ポルトガルの独立回復)。
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[3]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約(英語版)で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(英語版)(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。
1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。
近代のポルトガル[編集]
19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。
ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争(ポルトガル語版)の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。
ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。
また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[4]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。
共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制[編集]
共和制革命の寓意画。
1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。
幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 [5]
対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。
第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。
アンゴラに展開するポルトガル軍。脱植民地化時代にもポルトガルはアフリカの植民地維持のために戦争を続け、植民地とポルトガル双方に大きな傷跡を残す激しいゲリラ戦争が繰り広げられた。
一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争(英語版)が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻(英語版))、同植民地を喪失した。ギニアとモザンビークでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニア・ビサウ独立戦争(英語版)が始まり、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。
サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。
1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[6]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)」(MFA)に再編された。
カーネーション革命以降[編集]
「自由の日、4月25日万歳」、カーネーション革命を記念する壁画。
1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオも中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけは植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。
1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。
1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放し、2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールが独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりと共に生まれたポルトガル帝国は、名実共にその歴史を終えて消滅した。
政治[編集]
詳細は「ポルトガルの政治」および「:en:Politics of Portugal」を参照
共和国議会が置かれているサン・ベント宮殿。
大統領府、ベレン宮殿。
大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。
一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。
憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。
統治機構[編集]
政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。
大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。
「ポルトガルの大統領」および「ポルトガルの首相」も参照
最近の政治状況[編集]
2005年2月の総選挙により、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月社会党党首ジョゼ・ソクラテスが首相に就任。
2006年1月22日、大統領選挙が行われる。社会民主党アニバル・カヴァコ・シルヴァ50.6%の得票で当選。無所属で立候補した社会党マヌエル・アレグレは20.7%、社会党マリオ・ソアレスは14.3%、共産党のデ・ソウザは8.6%をそれぞれ獲得した。
2011年3月の大統領選でアニバル・カヴァコ・シルヴァが再戦。
2011年6月の総選挙にて社会党が敗北。社会民主党の党首ペドロ・パッソス・コエーリョが首相に就任。
「ポルトガルの政党」および「:en:List of political parties in Portugal」も参照
軍事[編集]
詳細は「ポルトガルの軍事」を参照
ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。
2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。
国際関係[編集]
詳細は「ポルトガルの国際関係」および「:en:Foreign relations of Portugal」を参照
ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図。
NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。
旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。
EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。
2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。
日本との関係[編集]
詳細は「日葡関係」を参照
ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは、1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[7]。
岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[8]。
地方行政区分[編集]
詳細は「ポルトガルの地域区分」を参照
ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。
主要都市[編集]
詳細は「ポルトガルの都市の一覧」を参照
2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70%〜90%(例えば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。
都市
人口
都市
人口
1 リスボン 564,657 11 ケルス 78,040
2 ポルト 263,131 12 アヴェイロ 55,291
3 ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア 178,255 13 ギマランイス 52,181
4 アマドーラ 175,872 14 オディヴェラス 50,846
5 ブラガ 109,460 15 リオ・ティント 47,695
6 アルマーダ 101,500 16 ヴィゼウ 47,250
7 コインブラ 101,069 17 ポンタ・デルガダ 46,102
8 フンシャル 100,526 18 マトジーニョス 45,703
9 セトゥーバル 89,303 19 アモーラ 44,515
10 アグアルヴァ=カセーン 81,845 20 レイリア 42,745
2004年調査
地理[編集]
詳細は「ポルトガルの地理」および「:en:Geography of Portugal」を参照
ポルトガルの地図。
アルガルヴェの海岸。
アソーレス諸島のピコ島。
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。
ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351m。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991m。エストレーラとは星を意味する。
東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第二の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。
気候[編集]
本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候 (Cs) に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200から1,500mmである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500から700mmである。南部は典型的な地中海性気候である。そのため、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。
首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706mmである。冬季の雨量は100mm程度だが、夏季は数mmにとどまる。
経済[編集]
詳細は「ポルトガルの経済」および「:en:Economy of Portugal」を参照
ポルトガルのコルク。
1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。
1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。一人当たり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。
主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[9]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[9]。
鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。主な鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。
2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易。主な輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)。主な相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。主な輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)。主な相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。
2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。主な品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの2/3はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアについで2位。輸入が6.5億ドル。主な品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。
2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[10]。
交通[編集]
詳細は「ポルトガルの交通」および「:en:Transport in Portugal」を参照
道路[編集]
国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。
主な高速道路は以下のとおり。
A1 リスボン - ポルト
A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。
A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面
A4 ポルト - アマランテ
A5 リスボン - カスカイス
A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。
鉄道[編集]
詳細は「ポルトガルの鉄道」を参照
ポルトガル鉄道(CP)
リスボンメトロ リスボン市
ポルトメトロ ポルト都市圏
航空機[編集]
リスボン、ポルト、ファロが主な国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。
TAPポルトガル航空
SATA Air Açores - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社
国民[編集]
詳細は「ポルトガルの人口統計」および「:en:Demographics of Portugal」を参照
ポルトガル語圏諸国を表す地図。
ジェロニモス修道院。
コインブラ大学。
ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。
かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住した。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。
しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。
このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。
言語[編集]
詳細は「ポルトガルの言語」および「:en:Languages of Portugal」を参照
言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[11]が公用語である。
1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。
また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。
宗教[編集]
詳細は「ポルトガルの宗教」を参照
宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。
婚姻[編集]
婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置、あるいは後置することを選択することが可能である。
教育[編集]
詳細は「ポルトガルの教育」および「:en:Education in Portugal」を参照
6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。
主な高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり[12]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。
文化[編集]
詳細は「ポルトガルの文化」および「:en:Culture of Portugal」を参照
ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人等の影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダーデ」(Saudade)という言葉がある。
食文化[編集]
詳細は「ポルトガル料理」を参照
ポルトワイン。
ポルトガルのフェジョアーダ。
ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、鰯、鯖、鮟鱇などの多様な魚の中でも、特に干鱈(バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。
ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。
文学[編集]
詳細は「ポルトガル文学」を参照
ルイス・デ・カモンイス。ポルトガルの民族叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1572年)を残した。
ノーベル文学賞作家、ジョゼ・サラマーゴ。『白の闇』(1995)はブラジルのフェルナンド・メイレリスによって『ブラインドネス』として映画化された。
ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。
16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている[13]。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。
17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダーデ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。
現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。
カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。
音楽[編集]
詳細は「ポルトガルの音楽」および「:en:Music of Portugal」を参照
ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。
ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽/ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920~1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。その他にも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼び難いが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。
近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。
また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。
美術[編集]
ジョゼ・マリョア画『ファド』。
絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラの他に傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義の下にポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。
ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。
映画[編集]
詳細は「ポルトガルの映画」を参照
ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5ヶ月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。
現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。
世界遺産[編集]
ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。
アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区 - (1983年)
リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 - (1983年)
バターリャ修道院 - (1983年)
トマールのキリスト教修道院 - (1983年)
エヴォラ歴史地区 - (1986年)
アルコバッサ修道院 - (1989年)
シントラの文化的景観 - (1995年)
ポルト歴史地区 - (1996年)
コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年)
マデイラ島の照葉樹林 - (1999年)
アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年)
ギマランイス歴史地区 - (2001年)
ピコ島のブドウ畑の景観 - (2004年)
祝祭日[編集]
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日 元日 Ano Novo
2月 カルナヴァル Carnaval 移動祝日
3月〜4月 聖金曜日 Sexta-Feira Santa 復活祭前の金曜日
3月〜4月 復活祭 Páscoa 移動祝日
4月25日 解放記念日 Dia da Liberdade カーネーション革命(1974年)記念日
5月1日 メーデー Dia do Trabalhador
6月10日 ポルトガルの日 Dia de Portugal カモンイスの命日
6月 聖体の祝日 Corpo de Deus 移動祝日
復活祭60日後
6月13日 聖アントニオの日 Dia de Santo António リスボンのみ
6月24日 聖ジョアンの日 Dia de São João ポルト、ブラガのみ
8月15日 聖母被昇天祭 Assunção de Nossa Senhora
10月5日 共和国樹立記念日 Implantação da República
11月1日 諸聖人の日 Todos os Santos
12月1日 独立回復記念日 Restauração da Independência 1640年にスペインとの同君連合を廃絶
12月8日 無原罪の聖母 Imaculada Conceição
12月25日 クリスマス Natal
スポーツ[編集]
詳細は「ポルトガルのスポーツ」および「:en:Sport in Portugal」を参照
サッカー[編集]
サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、主なプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・リスボンの名が挙げられる。ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会と合計5回のワールドカップに出場している。
陸上競技[編集]
陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタなどの名を挙げることが出来る。
その他[編集]
ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている[14]。
著名な出身者[編集]
詳細は「ポルトガル人の一覧」を参照
王族以外のポルトガル出身者・関係者を挙げる。
政治家[編集]
アントニオ・サラザール - 元大学教授、元首相、大統領。独裁者。
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ - 元首相、欧州連合の欧州委員会委員長。
マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ - 同国初の女性首相。その後欧州議会議長。
聖職者[編集]
ジョアン・ロドリゲス - イエズス会士、ならびに通訳士。
ルイス・フロイス - イエズス会士、『フロイス日本史』の著者。
文学者[編集]
ルイス・デ・カモンイス - 国民詩人、『ウズ・ルジアダス』の著者。
フェルナンド・ペソア - 詩人
ヴェンセスラウ・デ・モラエス - 海軍軍人、外交官、知日家
ジョゼ・サラマーゴ - ノーベル文学賞作家
音楽家[編集]
ルイス・デ・フレイタス・ブランコ - 作曲家
アマリア・ロドリゲス - ファドの歌手
マリア・ジョアン・ピリス - ピアニスト
ネリー・ファータド - ポルトガル系カナダ人歌手。両親がアソーレス諸島出身。
芸術家[編集]
ファティマ・ロペス - ファッションデザイナー
アルヴァロ・シザ - 建築家
マノエル・デ・オリヴェイラ - 映画監督
スポーツ関係者[編集]
ジョゼ・モウリーニョ - リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード監督
ルイス・フィーゴ - サッカー選手
マヌエル・ルイ・コスタ - サッカー選手
クリスティアーノ・ロナウド - サッカー選手、リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード
デコ - サッカー選手。ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得
エウゼビオ - サッカー選手。モザンビーク出身
ティアゴ・モンテイロ - F1ドライバー
ペドロ・ラミー - 元・F1ドライバー
セルジオ・パウリーニョ - 自転車ロードレース選手
ルイ・コスタ - 自転車ロードレース選手
ロザ・モタ - 女子マラソン選手
フェルナンド・マメーデ - 元陸上選手
ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者ともなった。そのためヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国家でもある。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代とローマ化
2.2 ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
2.3 ポルトガル王国の盛衰
2.4 近代のポルトガル
2.5 共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制
2.6 カーネーション革命以降
3 政治 3.1 統治機構
3.2 最近の政治状況
4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係
6 地方行政区分 6.1 主要都市
7 地理 7.1 気候
8 経済
9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 航空機
10 国民 10.1 言語
10.2 宗教
10.3 婚姻
10.4 教育
11 文化 11.1 食文化
11.2 文学
11.3 音楽
11.4 美術
11.5 映画
11.6 世界遺産
11.7 祝祭日
12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 陸上競技
12.3 その他
13 著名な出身者 13.1 政治家
13.2 聖職者
13.3 文学者
13.4 音楽家
13.5 芸術家
13.6 スポーツ関係者
14 脚註
15 参考文献
16 関連項目
17 外部リンク
国名[編集]
正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。
公式の英語表記は、Portuguese Republic (ポーチュギーズ リパブリク)。通称、Portugal (ポーチュゴル)。日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略される。
歴史[編集]
詳細は「ポルトガルの歴史」を参照
先史時代とローマ化[編集]
現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。
紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の支配が完成し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。
ゲルマン諸王国とイスラームの侵入[編集]
紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国と西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州。
ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。
キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコパドンガの戦い(英語版)の勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領(英語版)が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。
ポルトガル王国の盛衰[編集]
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。
ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。
ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。
16世紀ポルトガルの領土拡張。
ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定し、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年のディウ沖海戦(英語版)で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年〜1543年には日本へもやってきた[2]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
ジョアン4世の即位(ポルトガルの独立回復)。
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[3]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約(英語版)で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(英語版)(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。
1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。
近代のポルトガル[編集]
19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。
ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争(ポルトガル語版)の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。
ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。
また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[4]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。
共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制[編集]
共和制革命の寓意画。
1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。
幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 [5]
対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。
第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。
アンゴラに展開するポルトガル軍。脱植民地化時代にもポルトガルはアフリカの植民地維持のために戦争を続け、植民地とポルトガル双方に大きな傷跡を残す激しいゲリラ戦争が繰り広げられた。
一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争(英語版)が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻(英語版))、同植民地を喪失した。ギニアとモザンビークでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニア・ビサウ独立戦争(英語版)が始まり、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。
サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。
1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[6]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)」(MFA)に再編された。
カーネーション革命以降[編集]
「自由の日、4月25日万歳」、カーネーション革命を記念する壁画。
1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオも中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけは植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。
1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。
1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放し、2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールが独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりと共に生まれたポルトガル帝国は、名実共にその歴史を終えて消滅した。
政治[編集]
詳細は「ポルトガルの政治」および「:en:Politics of Portugal」を参照
共和国議会が置かれているサン・ベント宮殿。
大統領府、ベレン宮殿。
大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。
一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。
憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。
統治機構[編集]
政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。
大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。
「ポルトガルの大統領」および「ポルトガルの首相」も参照
最近の政治状況[編集]
2005年2月の総選挙により、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月社会党党首ジョゼ・ソクラテスが首相に就任。
2006年1月22日、大統領選挙が行われる。社会民主党アニバル・カヴァコ・シルヴァ50.6%の得票で当選。無所属で立候補した社会党マヌエル・アレグレは20.7%、社会党マリオ・ソアレスは14.3%、共産党のデ・ソウザは8.6%をそれぞれ獲得した。
2011年3月の大統領選でアニバル・カヴァコ・シルヴァが再戦。
2011年6月の総選挙にて社会党が敗北。社会民主党の党首ペドロ・パッソス・コエーリョが首相に就任。
「ポルトガルの政党」および「:en:List of political parties in Portugal」も参照
軍事[編集]
詳細は「ポルトガルの軍事」を参照
ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。
2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。
国際関係[編集]
詳細は「ポルトガルの国際関係」および「:en:Foreign relations of Portugal」を参照
ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図。
NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。
旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。
EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。
2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。
日本との関係[編集]
詳細は「日葡関係」を参照
ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは、1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[7]。
岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[8]。
地方行政区分[編集]
詳細は「ポルトガルの地域区分」を参照
ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。
主要都市[編集]
詳細は「ポルトガルの都市の一覧」を参照
2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70%〜90%(例えば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。
都市
人口
都市
人口
1 リスボン 564,657 11 ケルス 78,040
2 ポルト 263,131 12 アヴェイロ 55,291
3 ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア 178,255 13 ギマランイス 52,181
4 アマドーラ 175,872 14 オディヴェラス 50,846
5 ブラガ 109,460 15 リオ・ティント 47,695
6 アルマーダ 101,500 16 ヴィゼウ 47,250
7 コインブラ 101,069 17 ポンタ・デルガダ 46,102
8 フンシャル 100,526 18 マトジーニョス 45,703
9 セトゥーバル 89,303 19 アモーラ 44,515
10 アグアルヴァ=カセーン 81,845 20 レイリア 42,745
2004年調査
地理[編集]
詳細は「ポルトガルの地理」および「:en:Geography of Portugal」を参照
ポルトガルの地図。
アルガルヴェの海岸。
アソーレス諸島のピコ島。
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。
ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351m。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991m。エストレーラとは星を意味する。
東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第二の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。
気候[編集]
本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候 (Cs) に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200から1,500mmである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500から700mmである。南部は典型的な地中海性気候である。そのため、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。
首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706mmである。冬季の雨量は100mm程度だが、夏季は数mmにとどまる。
経済[編集]
詳細は「ポルトガルの経済」および「:en:Economy of Portugal」を参照
ポルトガルのコルク。
1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。
1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。一人当たり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。
主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[9]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[9]。
鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。主な鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。
2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易。主な輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)。主な相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。主な輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)。主な相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。
2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。主な品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの2/3はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアについで2位。輸入が6.5億ドル。主な品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。
2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[10]。
交通[編集]
詳細は「ポルトガルの交通」および「:en:Transport in Portugal」を参照
道路[編集]
国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。
主な高速道路は以下のとおり。
A1 リスボン - ポルト
A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。
A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面
A4 ポルト - アマランテ
A5 リスボン - カスカイス
A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。
鉄道[編集]
詳細は「ポルトガルの鉄道」を参照
ポルトガル鉄道(CP)
リスボンメトロ リスボン市
ポルトメトロ ポルト都市圏
航空機[編集]
リスボン、ポルト、ファロが主な国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。
TAPポルトガル航空
SATA Air Açores - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社
国民[編集]
詳細は「ポルトガルの人口統計」および「:en:Demographics of Portugal」を参照
ポルトガル語圏諸国を表す地図。
ジェロニモス修道院。
コインブラ大学。
ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。
かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住した。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。
しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。
このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。
言語[編集]
詳細は「ポルトガルの言語」および「:en:Languages of Portugal」を参照
言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[11]が公用語である。
1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。
また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。
宗教[編集]
詳細は「ポルトガルの宗教」を参照
宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。
婚姻[編集]
婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置、あるいは後置することを選択することが可能である。
教育[編集]
詳細は「ポルトガルの教育」および「:en:Education in Portugal」を参照
6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。
主な高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり[12]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。
文化[編集]
詳細は「ポルトガルの文化」および「:en:Culture of Portugal」を参照
ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人等の影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダーデ」(Saudade)という言葉がある。
食文化[編集]
詳細は「ポルトガル料理」を参照
ポルトワイン。
ポルトガルのフェジョアーダ。
ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、鰯、鯖、鮟鱇などの多様な魚の中でも、特に干鱈(バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。
ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。
文学[編集]
詳細は「ポルトガル文学」を参照
ルイス・デ・カモンイス。ポルトガルの民族叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1572年)を残した。
ノーベル文学賞作家、ジョゼ・サラマーゴ。『白の闇』(1995)はブラジルのフェルナンド・メイレリスによって『ブラインドネス』として映画化された。
ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。
16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている[13]。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。
17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダーデ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。
現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。
カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。
音楽[編集]
詳細は「ポルトガルの音楽」および「:en:Music of Portugal」を参照
ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。
ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽/ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920~1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。その他にも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼び難いが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。
近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。
また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。
美術[編集]
ジョゼ・マリョア画『ファド』。
絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラの他に傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義の下にポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。
ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。
映画[編集]
詳細は「ポルトガルの映画」を参照
ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5ヶ月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。
現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。
世界遺産[編集]
ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。
アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区 - (1983年)
リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 - (1983年)
バターリャ修道院 - (1983年)
トマールのキリスト教修道院 - (1983年)
エヴォラ歴史地区 - (1986年)
アルコバッサ修道院 - (1989年)
シントラの文化的景観 - (1995年)
ポルト歴史地区 - (1996年)
コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年)
マデイラ島の照葉樹林 - (1999年)
アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年)
ギマランイス歴史地区 - (2001年)
ピコ島のブドウ畑の景観 - (2004年)
祝祭日[編集]
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日 元日 Ano Novo
2月 カルナヴァル Carnaval 移動祝日
3月〜4月 聖金曜日 Sexta-Feira Santa 復活祭前の金曜日
3月〜4月 復活祭 Páscoa 移動祝日
4月25日 解放記念日 Dia da Liberdade カーネーション革命(1974年)記念日
5月1日 メーデー Dia do Trabalhador
6月10日 ポルトガルの日 Dia de Portugal カモンイスの命日
6月 聖体の祝日 Corpo de Deus 移動祝日
復活祭60日後
6月13日 聖アントニオの日 Dia de Santo António リスボンのみ
6月24日 聖ジョアンの日 Dia de São João ポルト、ブラガのみ
8月15日 聖母被昇天祭 Assunção de Nossa Senhora
10月5日 共和国樹立記念日 Implantação da República
11月1日 諸聖人の日 Todos os Santos
12月1日 独立回復記念日 Restauração da Independência 1640年にスペインとの同君連合を廃絶
12月8日 無原罪の聖母 Imaculada Conceição
12月25日 クリスマス Natal
スポーツ[編集]
詳細は「ポルトガルのスポーツ」および「:en:Sport in Portugal」を参照
サッカー[編集]
サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、主なプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・リスボンの名が挙げられる。ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会と合計5回のワールドカップに出場している。
陸上競技[編集]
陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタなどの名を挙げることが出来る。
その他[編集]
ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている[14]。
著名な出身者[編集]
詳細は「ポルトガル人の一覧」を参照
王族以外のポルトガル出身者・関係者を挙げる。
政治家[編集]
アントニオ・サラザール - 元大学教授、元首相、大統領。独裁者。
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ - 元首相、欧州連合の欧州委員会委員長。
マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ - 同国初の女性首相。その後欧州議会議長。
聖職者[編集]
ジョアン・ロドリゲス - イエズス会士、ならびに通訳士。
ルイス・フロイス - イエズス会士、『フロイス日本史』の著者。
文学者[編集]
ルイス・デ・カモンイス - 国民詩人、『ウズ・ルジアダス』の著者。
フェルナンド・ペソア - 詩人
ヴェンセスラウ・デ・モラエス - 海軍軍人、外交官、知日家
ジョゼ・サラマーゴ - ノーベル文学賞作家
音楽家[編集]
ルイス・デ・フレイタス・ブランコ - 作曲家
アマリア・ロドリゲス - ファドの歌手
マリア・ジョアン・ピリス - ピアニスト
ネリー・ファータド - ポルトガル系カナダ人歌手。両親がアソーレス諸島出身。
芸術家[編集]
ファティマ・ロペス - ファッションデザイナー
アルヴァロ・シザ - 建築家
マノエル・デ・オリヴェイラ - 映画監督
スポーツ関係者[編集]
ジョゼ・モウリーニョ - リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード監督
ルイス・フィーゴ - サッカー選手
マヌエル・ルイ・コスタ - サッカー選手
クリスティアーノ・ロナウド - サッカー選手、リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード
デコ - サッカー選手。ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得
エウゼビオ - サッカー選手。モザンビーク出身
ティアゴ・モンテイロ - F1ドライバー
ペドロ・ラミー - 元・F1ドライバー
セルジオ・パウリーニョ - 自転車ロードレース選手
ルイ・コスタ - 自転車ロードレース選手
ロザ・モタ - 女子マラソン選手
フェルナンド・マメーデ - 元陸上選手
ブルゴーニュ王朝
ブルゴーニュ王朝は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがフランスのブルゴーニュ出身であることに由来する[1]。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 王国の成立
1.2 レコンキスタ
1.3 繁栄期
1.4 王朝の交代
2 社会
3 経済
4 文化 4.1 建築
4.2 文学、言語
4.3 大学の設立
5 歴代国王
6 系図
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
歴史[編集]
王国の成立[編集]
オーリッケの戦い
ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]。
フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した。
アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した[3]。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した[4]。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[5]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][5][6]。
レコンキスタ[編集]
アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[5]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[7]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年のアルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[8]。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した。
イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年にナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する[9][10]。サンシュ2世はアレンテージョ全土を回復し、1238年にタヴィラ、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。1249年にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した[11]。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく[12]。
南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、1267年までにアルガルヴェの領有権を確保した。
繁栄期[編集]
サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、1245年にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された[13]。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟アフォンソ3世は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。1255年、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる[14]。
次のディニス1世の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる[13][15]。1289年に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する[16]。中央集権化を進めるためにポルトガルにローマ法が導入され、複数の国にまたがって活動する騎士団勢力は王権の支配下に組み入れられた[17]。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる[18]。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、ジェノヴァ、フィレンツェなどのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める[13]。
1295年から1297年にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、アラゴン王国と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルはコア川(ポルトガル語版)とアゲダ川(ポルトガル語版)間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける[19]。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、1317年にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された[13]。
王朝の交代[編集]
アヴィス王朝の創始者ジョアン1世
14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行したペスト(en)は1348年にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた[20][21][22]。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した[21]。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった[22]。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁にコルテス(身分制議会)を開いた[22]。
1345年に即位したフェルナンド1世はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権をイングランドエドワード3世の息子であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は百年戦争の展開と連動する(第一次カスティーリャ継承戦争)[23]。また、1378年からの教会大分裂の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる[24]。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した[23][24]。このため、フェルナンド1世は娘のベアトリスをカスティーリャ王子フアン(のちのフアン1世)の元に嫁がせなければならなくなった[23][21]。
フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた[25]。収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された。
1383年にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子であるアヴィス騎士団長ドン・ジョアンの派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した[21]。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した[26]。1384年1月にレオノールがサンタレンに進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる[21]。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、アヴィス王朝が創始された[21]。
社会[編集]
他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた[19][27]。1281年の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている[28]。
財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた[29]。大貴族(リコ・オーメン)は戦闘において自らの家臣を率いて国王に従軍することを義務付けられ、義務の見返りとして領地内での完全な裁判権、不輸不入権などの様々な特権を認められていた[30]。アフォンソ2世以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に破門の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した[31]。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される[31]。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった[32]。貴族階級が必要とする多額の出費に対して1340年に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている[20]。
レコンキスタの過程で大きな役割を果たしたテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラーバ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった[31]。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した[14]。1312年にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した[16]。ポルトガルのレコンキスタが終了した後も騎士団は荘園領主として19世紀に至るまで存続し、ポルトガル南部地域における大土地所有制の始まりとなった[33]。
王家の信仰を集めるアルコバーサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった[22][34]。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した[35]。
モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった[5]。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた[36][37]。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた[38]。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した[39]。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された[31]。1254年にレイリアで開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた[32]。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した[40]。
ポルトガルにはユダヤ教徒、イスラム教徒のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた[32][41]。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった[42]。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた[40]。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた[43]。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく[44]。
経済[編集]
ディニス1世の時代、従来のポルトガルで行われていた移動を伴う牧羊に代わって開墾が進み、多くの新しい村落が作られた[13]。収穫の増加に伴って各地で定期市が開かれるようになり、フランドルやイギリスへの輸出も活発に行われる[13]。しかし、商業に比べて手工業の発達は遅れており、国王やコンセーリョからの介入によってギルドに相当する職人組織もまだ現れなかった[45]。ディニス1世の時代には銀、錫、硫黄の鉱山の開発が進められ、鉄の採掘が許可制にされて生産量の5分の1が国家の取り分とされるようになった[46]。
1303年にはイングランド王エドワード1世より、ポルトガル商人はイギリス内の港湾における特権を付与される。主な輸出品としては、ワイン、オリーブ油、塩、イチジク、アーモンドが挙げられる[13]。隣国カスティーリャからは織物と穀物などが輸入され、イベリア半島外のフランドル、イギリス、フランスからは織物や木材が輸入された[47]。ポルトガル・カスティーリャの商取引は両国の国王から保護を受け、カスティーリャから輸入された穀物はポルトガルの飢饉の解消に貢献した[48]。ポルトガルの海上交易は、リスボン・ポルトの商人たちが担い、交通の便が良く良港を有するリスボンは経済の中心地として発展を続けていく[49]。1270年代からポルトガル貿易に乗り出したイタリア商人たちによってポルトガル・イタリア間の交易は統制され、さらに彼らは北ヨーロッパ諸国との交易において仲介者となったため、ポルトガル商人は北海交易における活躍の場を失った[50]。
政府によってイスラーム世界との交易は禁止されていたが、それでもなおイスラーム世界との交易は活発に行われ、国内にはイスラーム国家の金貨・銀貨が流通していた[18][48]。しかし、14世紀に経済の成長は停滞し、人口の増加は食料の不足と物価の高騰をもたらした[21]。黒死病の流行によって労働力が減少した後、収益率の高いワイン、オリーブ油が穀物よりも優先して生産されたが、都市部での穀物の需要は増加しており、この時代より先ポルトガルは長らく穀物不足に悩まされる[22][51]。
文化[編集]
建築[編集]
アルコバッサ修道院
国王と教会の対立にもかかわらず、ポルトガル市民の生活、ポルトガル文化はカトリック教会の影響下に置かれていた[52]ポルトガル文化の中心となったクリュニー修道会、シトー修道会は国の保護を受け、土地が寄進された[53]。モンデゴ川以北の地域では、コインブラ大聖堂などの12世紀に流行していた素朴なクリュニー・ロマネスク様式の建築物が多く造られた[52][54]。一方南部地域ではゴシック様式の建築物が多く、アフォンソ1世の寄進によって建立されたアルコバッサ修道院はロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に完成した中世ポルトガル最大の建築物である[55]。
ポルトガルにおいてはレコンキスタが早い時期に完了したため、同じイベリア半島のキリスト教国と比べて純粋なイスラーム建築物は少ない[56]。メルトラのノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアサオン教会は、メスキータ(モスク、イスラームの寺院)をそのままキリスト教徒の教会として使用している建物である。
文学、言語[編集]
サンシュ1世の治世から先、宮廷では詩と音楽が発達していく[57]リスボンに遷都したアフォンソ3世の治世から宮廷がポルトガル文学の中心地となり、ディニス1世は宮廷に出入りする詩人を保護しただけでなく、自らも詩作を嗜んだ[58]。13世紀末のポルトガルでは南フランスからトルバドゥール文化が伝わり、イスラム世界の詩の影響を受けて独自の発展を遂げる[59]。13世紀まではトルバドゥールの詩歌は口承で伝えられてきたが、ガリシア・ポルトガル語で作品が記録されるようになり、トルバドゥールが生み出した詩歌はジョグラルと呼ばれる歌い手によって詠み上げられた[60]。ブルゴーニュ王朝期の代表的な詩歌には『カンティガス・デ・アミゴ』『カンティガス・デ・アモール』が挙げられる[60]。『カンティガス・デ・エスカルニオ・イ・マルディゼール』は叙情的な前の2作と異なる風刺の詩であり、当時の社会を知ることのできる資料にもなっている[60]。
トルバドゥールの活躍はポルトガル語の成立に影響を与え、レコンキスタを経てガリシア・ポルトガル語はモンデゴ川以南に居住していたモサラベ(イスラーム勢力下のキリスト教徒)の言語と合わさり、ポルトガル語に分化した[57][61]。ディニス1世の治世にポルトガル語はラテン語に代わる公用語として採用され、公文書で使用されるようになった[55][61]。
大学の設立[編集]
コインブラ大学のディニス1世像
1290年、ディニス1世によってリスボンにコインブラ大学の前身であるエストゥード・ジェラルが設置される。エストゥード・ジェラルでは法学、文学、論理学、医学が教授され、修道院に設置されていた聖職者を養成する学校とは異なり、国政に携わる世俗の人間の教育機関として機能していた[55]。しかし、エストゥード・ジェラルの教育水準は他の西欧の大学に比べて低く、14世紀にリスボン・コインブラの間で本部の移動が数度行われたために衰退していく[52]。学生と教授には多くの特権が与えられたが、それらはすぐに濫用された[62]。
歴代国王[編集]
アフォンソ1世(1128年 - 1185年) ポルトゥカーレ伯エンリケの息子
サンシュ1世(1185年 - 1211年) アフォンソ1世の息子
アフォンソ2世(1211年 - 1223年) サンシュ1世の息子
サンシュ2世 (1223年 - 1248年) アフォンソ2世の息子
アフォンソ3世(1248年 - 1279年) サンシュ2世の弟
ディニス(1279年 - 1325年) アフォンソ3世の息子
アフォンソ4世(1325年 - 1357年) ディニスの息子
ペドロ1世(1357年 - 1367年) アフォンソ4世の息子
フェルナンド1世(1367年 - 1383年) ペドロ1世の息子
系図[編集]
ロベール2世
フランス王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
アンリ
ヒメーナ・ムーニョス
アルフォンソ6世
カスティーリャ王
コンスタンサ
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
エンリケ
ポルトゥカーレ伯
テレサ・デ・レオン
ウラカ
カスティーリャ女王
ライムンド
ガリシア伯
マファルダ・デ・サボイア
アフォンソ1世
ポルトガル王
アルフォンソ7世
カスティーリャ王
サンシュ1世
ポルトガル王
ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ
テレサ
ブルゴーニュ公妃
アルフォンソ8世
カスティーリャ王
ウラカ
フェルナンド2世
レオン王
アフォンソ2世
ポルトガル王
ウラカ・デ・カスティーリャ
フェルナンド
フランドル伯
ジャンヌ
フランドル女伯
エンリケ1世
カスティーリャ王
マファルダ
テレサ
アルフォンソ9世
レオン王
ベレンゲラ
カスティーリャ女王
サンシュ2世
ポルトガル王
マティルド2世
ブローニュ女伯
アフォンソ3世
ポルトガル王
ベアトリス・デ・カスティーリャ
サンチョ4世
カスティーリャ王
イザベル・デ・アラゴン
ディニス1世
ポルトガル王
アフォンソ4世
ポルトガル王
ベアトリス・デ・カスティーリャ
コンスタンサ
フェルナンド4世
カスティーリャ王
イネス・デ・カストロ
ペドロ1世
ポルトガル王
コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ
レオノール
アラゴン王妃
マリア
アルフォンソ11世
カスティーリャ王
テレサ・ロレンソ
フェルナンド1世
ポルトガル王
レオノール・テレス
ペドロ1世
カスティーリャ王
エンリケ2世
カスティーリャ王
ジョアン
ディニス
ジョアン1世
ポルトガル王
ベアトリス
(ポルトガル女王)
フアン1世
カスティーリャ王
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 王国の成立
1.2 レコンキスタ
1.3 繁栄期
1.4 王朝の交代
2 社会
3 経済
4 文化 4.1 建築
4.2 文学、言語
4.3 大学の設立
5 歴代国王
6 系図
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
歴史[編集]
王国の成立[編集]
オーリッケの戦い
ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]。
フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した。
アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した[3]。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した[4]。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[5]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][5][6]。
レコンキスタ[編集]
アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[5]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[7]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年のアルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[8]。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した。
イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年にナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する[9][10]。サンシュ2世はアレンテージョ全土を回復し、1238年にタヴィラ、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。1249年にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した[11]。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく[12]。
南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、1267年までにアルガルヴェの領有権を確保した。
繁栄期[編集]
サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、1245年にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された[13]。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟アフォンソ3世は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。1255年、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる[14]。
次のディニス1世の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる[13][15]。1289年に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する[16]。中央集権化を進めるためにポルトガルにローマ法が導入され、複数の国にまたがって活動する騎士団勢力は王権の支配下に組み入れられた[17]。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる[18]。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、ジェノヴァ、フィレンツェなどのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める[13]。
1295年から1297年にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、アラゴン王国と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルはコア川(ポルトガル語版)とアゲダ川(ポルトガル語版)間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける[19]。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、1317年にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された[13]。
王朝の交代[編集]
アヴィス王朝の創始者ジョアン1世
14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行したペスト(en)は1348年にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた[20][21][22]。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した[21]。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった[22]。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁にコルテス(身分制議会)を開いた[22]。
1345年に即位したフェルナンド1世はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権をイングランドエドワード3世の息子であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は百年戦争の展開と連動する(第一次カスティーリャ継承戦争)[23]。また、1378年からの教会大分裂の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる[24]。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した[23][24]。このため、フェルナンド1世は娘のベアトリスをカスティーリャ王子フアン(のちのフアン1世)の元に嫁がせなければならなくなった[23][21]。
フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた[25]。収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された。
1383年にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子であるアヴィス騎士団長ドン・ジョアンの派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した[21]。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した[26]。1384年1月にレオノールがサンタレンに進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる[21]。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、アヴィス王朝が創始された[21]。
社会[編集]
他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた[19][27]。1281年の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている[28]。
財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた[29]。大貴族(リコ・オーメン)は戦闘において自らの家臣を率いて国王に従軍することを義務付けられ、義務の見返りとして領地内での完全な裁判権、不輸不入権などの様々な特権を認められていた[30]。アフォンソ2世以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に破門の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した[31]。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される[31]。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった[32]。貴族階級が必要とする多額の出費に対して1340年に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている[20]。
レコンキスタの過程で大きな役割を果たしたテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラーバ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった[31]。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した[14]。1312年にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した[16]。ポルトガルのレコンキスタが終了した後も騎士団は荘園領主として19世紀に至るまで存続し、ポルトガル南部地域における大土地所有制の始まりとなった[33]。
王家の信仰を集めるアルコバーサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった[22][34]。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した[35]。
モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった[5]。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた[36][37]。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた[38]。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した[39]。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された[31]。1254年にレイリアで開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた[32]。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した[40]。
ポルトガルにはユダヤ教徒、イスラム教徒のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた[32][41]。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった[42]。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた[40]。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた[43]。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく[44]。
経済[編集]
ディニス1世の時代、従来のポルトガルで行われていた移動を伴う牧羊に代わって開墾が進み、多くの新しい村落が作られた[13]。収穫の増加に伴って各地で定期市が開かれるようになり、フランドルやイギリスへの輸出も活発に行われる[13]。しかし、商業に比べて手工業の発達は遅れており、国王やコンセーリョからの介入によってギルドに相当する職人組織もまだ現れなかった[45]。ディニス1世の時代には銀、錫、硫黄の鉱山の開発が進められ、鉄の採掘が許可制にされて生産量の5分の1が国家の取り分とされるようになった[46]。
1303年にはイングランド王エドワード1世より、ポルトガル商人はイギリス内の港湾における特権を付与される。主な輸出品としては、ワイン、オリーブ油、塩、イチジク、アーモンドが挙げられる[13]。隣国カスティーリャからは織物と穀物などが輸入され、イベリア半島外のフランドル、イギリス、フランスからは織物や木材が輸入された[47]。ポルトガル・カスティーリャの商取引は両国の国王から保護を受け、カスティーリャから輸入された穀物はポルトガルの飢饉の解消に貢献した[48]。ポルトガルの海上交易は、リスボン・ポルトの商人たちが担い、交通の便が良く良港を有するリスボンは経済の中心地として発展を続けていく[49]。1270年代からポルトガル貿易に乗り出したイタリア商人たちによってポルトガル・イタリア間の交易は統制され、さらに彼らは北ヨーロッパ諸国との交易において仲介者となったため、ポルトガル商人は北海交易における活躍の場を失った[50]。
政府によってイスラーム世界との交易は禁止されていたが、それでもなおイスラーム世界との交易は活発に行われ、国内にはイスラーム国家の金貨・銀貨が流通していた[18][48]。しかし、14世紀に経済の成長は停滞し、人口の増加は食料の不足と物価の高騰をもたらした[21]。黒死病の流行によって労働力が減少した後、収益率の高いワイン、オリーブ油が穀物よりも優先して生産されたが、都市部での穀物の需要は増加しており、この時代より先ポルトガルは長らく穀物不足に悩まされる[22][51]。
文化[編集]
建築[編集]
アルコバッサ修道院
国王と教会の対立にもかかわらず、ポルトガル市民の生活、ポルトガル文化はカトリック教会の影響下に置かれていた[52]ポルトガル文化の中心となったクリュニー修道会、シトー修道会は国の保護を受け、土地が寄進された[53]。モンデゴ川以北の地域では、コインブラ大聖堂などの12世紀に流行していた素朴なクリュニー・ロマネスク様式の建築物が多く造られた[52][54]。一方南部地域ではゴシック様式の建築物が多く、アフォンソ1世の寄進によって建立されたアルコバッサ修道院はロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に完成した中世ポルトガル最大の建築物である[55]。
ポルトガルにおいてはレコンキスタが早い時期に完了したため、同じイベリア半島のキリスト教国と比べて純粋なイスラーム建築物は少ない[56]。メルトラのノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアサオン教会は、メスキータ(モスク、イスラームの寺院)をそのままキリスト教徒の教会として使用している建物である。
文学、言語[編集]
サンシュ1世の治世から先、宮廷では詩と音楽が発達していく[57]リスボンに遷都したアフォンソ3世の治世から宮廷がポルトガル文学の中心地となり、ディニス1世は宮廷に出入りする詩人を保護しただけでなく、自らも詩作を嗜んだ[58]。13世紀末のポルトガルでは南フランスからトルバドゥール文化が伝わり、イスラム世界の詩の影響を受けて独自の発展を遂げる[59]。13世紀まではトルバドゥールの詩歌は口承で伝えられてきたが、ガリシア・ポルトガル語で作品が記録されるようになり、トルバドゥールが生み出した詩歌はジョグラルと呼ばれる歌い手によって詠み上げられた[60]。ブルゴーニュ王朝期の代表的な詩歌には『カンティガス・デ・アミゴ』『カンティガス・デ・アモール』が挙げられる[60]。『カンティガス・デ・エスカルニオ・イ・マルディゼール』は叙情的な前の2作と異なる風刺の詩であり、当時の社会を知ることのできる資料にもなっている[60]。
トルバドゥールの活躍はポルトガル語の成立に影響を与え、レコンキスタを経てガリシア・ポルトガル語はモンデゴ川以南に居住していたモサラベ(イスラーム勢力下のキリスト教徒)の言語と合わさり、ポルトガル語に分化した[57][61]。ディニス1世の治世にポルトガル語はラテン語に代わる公用語として採用され、公文書で使用されるようになった[55][61]。
大学の設立[編集]
コインブラ大学のディニス1世像
1290年、ディニス1世によってリスボンにコインブラ大学の前身であるエストゥード・ジェラルが設置される。エストゥード・ジェラルでは法学、文学、論理学、医学が教授され、修道院に設置されていた聖職者を養成する学校とは異なり、国政に携わる世俗の人間の教育機関として機能していた[55]。しかし、エストゥード・ジェラルの教育水準は他の西欧の大学に比べて低く、14世紀にリスボン・コインブラの間で本部の移動が数度行われたために衰退していく[52]。学生と教授には多くの特権が与えられたが、それらはすぐに濫用された[62]。
歴代国王[編集]
アフォンソ1世(1128年 - 1185年) ポルトゥカーレ伯エンリケの息子
サンシュ1世(1185年 - 1211年) アフォンソ1世の息子
アフォンソ2世(1211年 - 1223年) サンシュ1世の息子
サンシュ2世 (1223年 - 1248年) アフォンソ2世の息子
アフォンソ3世(1248年 - 1279年) サンシュ2世の弟
ディニス(1279年 - 1325年) アフォンソ3世の息子
アフォンソ4世(1325年 - 1357年) ディニスの息子
ペドロ1世(1357年 - 1367年) アフォンソ4世の息子
フェルナンド1世(1367年 - 1383年) ペドロ1世の息子
系図[編集]
ロベール2世
フランス王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
アンリ
ヒメーナ・ムーニョス
アルフォンソ6世
カスティーリャ王
コンスタンサ
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
エンリケ
ポルトゥカーレ伯
テレサ・デ・レオン
ウラカ
カスティーリャ女王
ライムンド
ガリシア伯
マファルダ・デ・サボイア
アフォンソ1世
ポルトガル王
アルフォンソ7世
カスティーリャ王
サンシュ1世
ポルトガル王
ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ
テレサ
ブルゴーニュ公妃
アルフォンソ8世
カスティーリャ王
ウラカ
フェルナンド2世
レオン王
アフォンソ2世
ポルトガル王
ウラカ・デ・カスティーリャ
フェルナンド
フランドル伯
ジャンヌ
フランドル女伯
エンリケ1世
カスティーリャ王
マファルダ
テレサ
アルフォンソ9世
レオン王
ベレンゲラ
カスティーリャ女王
サンシュ2世
ポルトガル王
マティルド2世
ブローニュ女伯
アフォンソ3世
ポルトガル王
ベアトリス・デ・カスティーリャ
サンチョ4世
カスティーリャ王
イザベル・デ・アラゴン
ディニス1世
ポルトガル王
アフォンソ4世
ポルトガル王
ベアトリス・デ・カスティーリャ
コンスタンサ
フェルナンド4世
カスティーリャ王
イネス・デ・カストロ
ペドロ1世
ポルトガル王
コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ
レオノール
アラゴン王妃
マリア
アルフォンソ11世
カスティーリャ王
テレサ・ロレンソ
フェルナンド1世
ポルトガル王
レオノール・テレス
ペドロ1世
カスティーリャ王
エンリケ2世
カスティーリャ王
ジョアン
ディニス
ジョアン1世
ポルトガル王
ベアトリス
(ポルトガル女王)
フアン1世
カスティーリャ王
ブルゴーニュ家
ブルゴーニュ家(仏:maison de Bourgogne)は、フランス王家であるカペー家の支流の一つで、11世紀から14世紀にかけてのブルゴーニュ公の家系。カペー(家)系ブルゴーニュ家(maison capétienne de Bourgogne)、第一ブルゴーニュ家とも呼ばれる。この家系からはポルトガルのブルゴーニュ(ボルゴーニャ)朝も出ている。14世紀から15世紀にかけてブルゴーニュ公国を統治したヴァロワ=ブルゴーニュ家や、10世紀から12世紀にかけてのブルゴーニュ伯の家系であるイヴレア家(この家系からはカスティーリャ、レオンのブルゴーニュ(ボルゴーニャ)朝も出ている)とは直接につながりがあるわけではないので注意を要する(ただし、いずれも女系を通じてのつながりはある)。
系図[編集]
ユーグ・カペー
フランス王
ロベール2世
フランス王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
アンリ
コンスタンス
カスティーリャ王妃
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
エンリケ
ポルトゥカーレ伯
ユーグ2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ1世
ポルトガル王
ウード2世
ブルゴーニュ公
テレサ
サンシュ1世
ポルトガル王
ユーグ3世
ブルゴーニュ公
アフォンソ2世
ポルトガル王
ウード3世
ブルゴーニュ公
サンシュ2世
ポルトガル王
アフォンソ3世
ポルトガル王
ユーグ4世
ブルゴーニュ公
ディニス1世
ポルトガル王
ウード
ヌヴェール伯
ロベール2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ4世
ポルトガル王
マルグリット
シチリア王妃
ユーグ5世
ブルゴーニュ公
ブランシュ
サヴォイア伯妃
マルグリット
フランス王妃
ジャンヌ
フランス王妃
ウード4世
ブルゴーニュ公
ペドロ1世
ポルトガル王
フィリップ
オーヴェルニュ伯
フェルナンド1世
ポルトガル王
フィリップ1世
ブルゴーニュ公
ベアトリス
(ポルトガル女王)
系図[編集]
ユーグ・カペー
フランス王
ロベール2世
フランス王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
アンリ
コンスタンス
カスティーリャ王妃
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
エンリケ
ポルトゥカーレ伯
ユーグ2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ1世
ポルトガル王
ウード2世
ブルゴーニュ公
テレサ
サンシュ1世
ポルトガル王
ユーグ3世
ブルゴーニュ公
アフォンソ2世
ポルトガル王
ウード3世
ブルゴーニュ公
サンシュ2世
ポルトガル王
アフォンソ3世
ポルトガル王
ユーグ4世
ブルゴーニュ公
ディニス1世
ポルトガル王
ウード
ヌヴェール伯
ロベール2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ4世
ポルトガル王
マルグリット
シチリア王妃
ユーグ5世
ブルゴーニュ公
ブランシュ
サヴォイア伯妃
マルグリット
フランス王妃
ジャンヌ
フランス王妃
ウード4世
ブルゴーニュ公
ペドロ1世
ポルトガル王
フィリップ
オーヴェルニュ伯
フェルナンド1世
ポルトガル王
フィリップ1世
ブルゴーニュ公
ベアトリス
(ポルトガル女王)
カペー家
カペー家(Capétiens)は、フランスのパリ周辺、イル=ド=フランスに起源を持つ王家。2人の西フランク王を出したロベール家の後身である。家名は始祖のユーグ・カペーに由来するが、カペー(capet)とは短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であった。
カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。
目次 [非表示]
1 カペー家の諸分枝 1.1 カペー家 1.1.1 フランス王家
1.1.2 ナバラ王家
1.2 ブルゴーニュ家
1.3 ポルトガル王家 1.3.1 ボルゴーニャ家
1.3.2 アヴィシュ家
1.3.3 アヴィシュ=ベージャ家
1.3.4 ブラガンサ家
1.3.5 ペドロ1世以降のブラガンサ家 1.3.5.1 ポルトガル王家
1.3.5.2 ブラジル皇帝家
1.3.5.3 ミゲル1世系
1.4 ヴェルマンドワ家
1.5 ドルー家 1.5.1 ドルー伯家
1.5.2 ドルー=ブルターニュ家
1.6 クルトネー家
1.7 アルトワ家
1.8 アンジュー=シチリア家 1.8.1 アンジュー=シチリア家
1.8.2 アンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1 ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1.1 ハンガリー王家
1.8.2.1.2 ポーランド王家
1.8.3 アンジュー=ドゥラッツォ家
1.8.4 アンジュー=ターラント家
1.9 ブルボン家 1.9.1 ブルボン公家
1.9.2 第一ブルボン=モンパンシエ家
1.9.3 ブルボン=ラ・マルシュ家
1.9.4 ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)
1.9.5 第二ブルボン=モンパンシエ家
1.10 ヴァロワ家
1.11 エヴルー家
2 系図
3 外部リンク
カペー家の諸分枝[編集]
カペー家[編集]
詳細は「カペー朝」を参照
カロリング朝断絶を受けて、987年に婚姻関係にあったユーグ・カペーがフランス王位に就き、1328年にシャルル4世が死去するまで15代の国王が続いた。フィリップ4世以降はナバラ王も兼ねている。
なお、カペー朝以後のフランスの王朝は皆カペー家の分家によるものであり、その支配は1789年(広義では1848年)まで続いている。
フランス王家[編集]
ユーグ・カペー(987年 - 996年)フランス王:987年 - 996年
ロベール2世(996年 - 1031年)フランス王:996年 - 1031年
アンリ1世(1031年 - 1060年)フランス王:1031年 - 1060年
フィリップ1世(1060年 - 1108年)フランス王:1060年 - 1108年
ルイ6世(1108年 - 1137年)フランス王:1108年 - 1137年
ルイ7世(1137年 - 1180年)フランス王:1137年 - 1180年
フィリップ2世(1180年 - 1223年)フランス王:1180年 - 1223年
ルイ8世(1223年 - 1226年)フランス王:1223年 - 1226年
ルイ9世(1226年 - 1270年)フランス王:1226年 - 1270年
フィリップ3世(1270年 - 1285年)フランス王:1270年 - 1285年
フィリップ4世(1285年 - 1314年)ナバラ王:1284年 - 1305年、フランス王:1285年 - 1314年
ルイ10世(1314年 - 1316年)ナバラ王:1305年 - 1316年、フランス王:1314年 - 1316年
ジャン1世(1316年)フランス王:1316年、ナバラ王:1316年
フィリップ5世(1316年 - 1322年)フランス王:1316年 - 1322年、ナバラ王:1316年 - 1322年
シャルル4世(1322年 - 1328年)フランス王:1322年 - 1328年、ナバラ王:1322年 - 1328年
サリカ法によりヴァロワ家が継承(フィリップ6世)。
ナバラ王家[編集]
フアナ2世(1328年 - 1349年)ナバラ女王:1328年 - 1349年
男系断絶のためエヴルー家が継承(配偶者:フェリペ3世)。
ブルゴーニュ家[編集]
詳細は「ブルゴーニュ家」を参照
ブルゴーニュは11世紀初頭に一時フランス王の支配下にあったが、アンリ1世の弟ロベール1世がブルゴーニュ公に封じられて以降、その子孫によって支配された。この家系がカペー系ブルゴーニュ家である。1361年にフィリップ1世が嗣子無くして断絶すると、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世が公位を継承し、1363年に息子のフィリップ2世に引き継がれた(この家系はヴァロワ=ブルゴーニュ家と呼ばれる)。
ロベール1世(1032年 - 1076年)ブルゴーニュ公:1032年 - 1076年
ユーグ1世(1076年 - 1079年)ブルゴーニュ公:1076年 - 1079年
ウード1世(1079年 - 1103年)ブルゴーニュ公:1079年 - 1103年
ユーグ2世(1103年 - 1143年)ブルゴーニュ公:1103年 - 1143年
ウード2世(1143年 - 1162年)ブルゴーニュ公:1143年 - 1162年
ユーグ3世(1162年 - 1192年)ブルゴーニュ公:1162年 - 1192年
ウード3世(1192年 - 1218年)ブルゴーニュ公:1192年 - 1218年
ユーグ4世(1218年 - 1271年)ブルゴーニュ公:1218年 - 1271年
ロベール2世(1271年 - 1306年)ブルゴーニュ公:1271年 - 1306年
ユーグ5世(1306年 - 1315年)ブルゴーニュ公:1306年 - 1315年
ウード4世(1315年 - 1350年)ブルゴーニュ公:1315年 - 1350年
フィリップ1世(1350年 - 1361年)ブルゴーニュ公:1350年 - 1361年
断絶のためヴァロワ家が継承(ジャン2世)。
ポルトガル王家[編集]
詳細は「ブルゴーニュ王朝」、「アヴィシュ王朝」、および「ブラガンサ王朝」を参照
ブルゴーニュ公ウード1世の弟エンリケはイベリア半島でレコンキスタに参加し、カスティーリャ王アルフォンソ6世によってポルトゥカーレ伯に封じられた。その息子アフォンソ1世は初代ポルトガル王に即位してブルゴーニュ王朝を開く。
最後の王フェルナンド1世が死ぬと、異母弟ジョアン1世がアヴィシュ王朝を新たに立て、この王朝の下でポルトガルは黄金時代を迎える。その断絶後にポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の統治下に入るが、1640年にアヴィシュ家傍系のジョアン4世がポルトガル王として独立する。以後、ブラガンサ王朝が1910年までポルトガルを支配し、ブラジル皇帝も出している。
ボルゴーニャ家[編集]
エンリケ(1093年 - 1112年)
アフォンソ1世(1112年 - 1185年)ポルトガル王:1139年 - 1185年
サンシュ1世(1185年 - 1211年)ポルトガル王:1185年 - 1211年
アフォンソ2世(1211年 - 1223年)ポルトガル王:1211年 - 1223年
サンシュ2世(1223年 - 1248年)ポルトガル王:1223年 - 1248年
アフォンソ3世(1248年 - 1279年)ポルトガル王:1248年 - 1279年
ディニス1世(1279年 - 1325年)ポルトガル王:1279年 - 1325年
アフォンソ4世(1325年 - 1357年)ポルトガル王:1325年 - 1357年
ペドロ1世(1357年 - 1367年)ポルトガル王:1357年 - 1367年
フェルナンド1世(1367年 - 1383年)ポルトガル王:1367年 - 1383年
ベアトリス(1383年 - 1385年)
アルジュバロータの戦いによりアヴィシュ家が継承。
アヴィシュ家[編集]
ジョアン1世(1385年 - 1433年)ポルトガル王:1385年 - 1433年
ドゥアルテ1世(1433年 - 1438年)ポルトガル王:1433年 - 1438年
アフォンソ5世(1438年 - 1481年)ポルトガル王:1438年 - 1477年、1477年 - 1481年
ジョアン2世(1481年 - 1495年)ポルトガル王:1477年、1481年 - 1495年
嫡流断絶のためアヴィシュ=ベージャ家が継承。
アヴィシュ=ベージャ家[編集]
マヌエル1世(1495年 - 1521年)ポルトガル王:1495年 - 1521年
ジョアン3世(1521年 - 1557年)ポルトガル王:1521年 - 1557年
セバスティアン1世(1521年 - 1578年)ポルトガル王:1521年 - 1578年
エンリケ1世(1578年 - 1580年)ポルトガル王:1578年 - 1580年
嫡流断絶のためスペイン・ハプスブルク家が継承(フェリペ2世)。
ブラガンサ家[編集]
アフォンソ1世(1442年 - 1461年)
フェルナンド1世(1461年 - 1478年)
フェルナンド2世(1478年 - 1483年)
ジャイメ1世(1483年 - 1532年)
テオドジオ1世(1532年 - 1563年)
ジョアン1世(1563年 - 1583年)
テオドジオ2世(1583年 - 1630年)
ジョアン4世(1630年 - 1656年)ポルトガル王:1640年 - 1656年
アフォンソ6世(1656年 - 1683年)ポルトガル王:1656年 - 1683年
ペドロ2世(1683年 - 1706年)ポルトガル王:1683年 - 1706年
ジョアン5世(1706年 - 1750年)ポルトガル王:1706年 - 1750年
ジョゼ1世(1750年 - 1777年)ポルトガル王:1750年 - 1777年
マリア1世(1777年 - 1816年)ポルトガル女王:1777年 - 1816年、ブラジル女王:1815年 - 1816年
(共同統治) ペドロ3世(1777年 - 1786年)
ジョアン6世(1816年 - 1826年)ポルトガル王:1816年 - 1826年、ブラジル王:1816年 - 1822年
ペドロ1世(1826年 - 1834年)ブラジル皇帝:1822年 - 1831年、ポルトガル王:1826年
ペドロ1世以降のブラガンサ家[編集]
ポルトガル王家[編集]
マリア2世(1834年 - 1853年)ポルトガル女王:1826年 - 1828年、1834年 - 1853年
男系断絶のためブラガンサ=コブルゴ家へ(配偶者:フェルナンド2世)。
ブラジル皇帝家[編集]
ペドロ2世(1834年 - 1891年)ブラジル皇帝:1831年 - 1889年
イザベル(1891年 - 1921年)
男系断絶のためオルレアンス=ブラガンサ家へ(配偶者:ガスタン)。
ミゲル1世系[編集]
ミゲル1世(1834年 - 1866年)ポルトガル王:1828年 - 1834年
ミゲル2世(1866年 - 1920年)
ドゥアルテ・ヌノ(1920年 - 1976年)
ドゥアルテ・ピオ(1976年 - )
ヴェルマンドワ家[編集]
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「:de:Haus Frankreich-Vermandois」も参照
フィリップ1世の弟ユーグは、ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚してヴェルマンドワ伯となった。この家系をヴェルマンドワ家と呼ぶ。ユーグは破門中の兄に代わって第1回十字軍に参加した。
ユーグ1世(1080年 - 1102年)
ラウール1世(1102年 - 1152年)
ラウール2世(1152年 - 1167年)
エリザベート(1167年 - 1183年)
男系断絶のためアルザス家が継承(配偶者:フィリップ1世)。
ドルー家[編集]
詳細は「ドルー家」を参照
ルイ7世の弟ロベール1世はドルー伯に封じられ、その家系であるドルー家の本家は14世紀まで続いた。
ドルー伯ロベール3世の弟ピエール1世はブルターニュ公国の女公アリックスと結婚し、この家系はフランス内で独自の勢力を築いた。しかし、最後の公フランソワ2世には娘のアンヌしかおらず、彼女がヴァロワ家のシャルル8世と結婚したことで、ブルターニュは後にフランス王領へと併合される。
ドルー伯家[編集]
ロベール1世(1137年 - 1184年)
ロベール2世(1184年 - 1218年)
ロベール3世(1218年 - 1234年)
ジャン1世(1234年 - 1249年)
ロベール4世(1249年 - 1282年)
ジャン2世(1282年 - 1309年)
ロベール5世(1309年 - 1329年)
ジャン3世(1329年 - 1331年)
ピエール1世(1331年 - 1345年)
ジャンヌ1世(1345年 - 1346年)
ジャンヌ2世(1346年 - 1355年)
男系断絶のためトゥアール家が継承(配偶者:ルイ1世)。
ドルー=ブルターニュ家[編集]
ピエール1世(1213年 - 1237年)ブルターニュ公:1213年 - 1237年
ジャン1世(1237年 - 1286年)ブルターニュ公:1237年 - 1286年
ジャン2世(1286年 - 1305年)ブルターニュ公:1286年 - 1305年
アルテュール2世(1305年 - 1312年)ブルターニュ公:1305年 - 1312年
ジャン3世(1312年 - 1341年)ブルターニュ公:1312年 - 1341年
ジャン(1341年 - 1345年)
ジャン4世(1345年 - 1399年)ブルターニュ公:1365年 - 1499年
ジャン5世(1399年 - 1442年)ブルターニュ公:1399年 - 1442年
フランソワ1世(1442年 - 1450年)ブルターニュ公:1442年 - 1450年
ピエール2世(1450年 - 1457年)ブルターニュ公:1450年 - 1457年
アルテュール3世(1457年 - 1458年)ブルターニュ公:1457年 - 1458年
フランソワ2世(1458年 - 1488年)ブルターニュ公:1458年 - 1488年
アンヌ(1488年 - 1514年)ブルターニュ女公:1488年 - 1514年
男系断絶のためヴァロワ家が継承(配偶者:ルイ12世)。
クルトネー家[編集]
ルイ7世の弟ピエール1世を祖とするクルトネー家 (en) は18世紀まで存続した。ピエールの息子ピエール2世は第四回十字軍の後に建てられたラテン帝国の皇帝位に就いた。しかし、ピエール1世の息子ボードゥアン2世の時にニカイア帝国によって駆逐された。
ピエール(1150年 - 1183年)
ピエール(1183年 - 1219年)ラテン皇帝:1216年 - 1219年
ロベール(1219年 - 1228年)ラテン皇帝:1219年 - 1228年
ボードゥアン2世(1228年 - 1273年)ラテン皇帝:1228年 - 1261年
フィリップ(1273年 - 1283年)
カトリーヌ(1283年 - 1307年)
男系断絶によりヴァロワ家が継承(配偶者:シャルル)。
アルトワ家[編集]
ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世を祖とするアルトワ家 (fr) は15世紀まで続いた。ロベール1世の娘ブランシュはナバラ王エンリケ1世と結婚して女王フアナ1世の母后となり、カペー朝末期にナバラとフランスの同君連合を成立させた。ロベール1世から4代後のロベール3世はイングランド王エドワード3世に加担して百年戦争の原因の一つを作った。
ロベール1世(1237年 - 1250年)
ロベール2世(1250年 - 1302年)
マオー(1302年 - 1320年)
男系断絶のためアンスカリ家が継承(配偶者:オトン4世)。
アンジュー=シチリア家[編集]
詳細は「アンジュー=シチリア家」、「ナポリ・アンジュー朝」、「ハンガリー・アンジュー朝」、および「ポーランド・アンジュー朝」を参照
ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューはシチリア王国を支配していたホーエンシュタウフェン家を滅亡させて、1268年にシチリア王に即位する。しかし、シチリアの晩祷事件を契機としてシチリア島をアラゴン王国に奪われ、最後の君主となったジョヴァンナ2世が1435年に死去するまではナポリ王家として続いた。
一方、一族のカーロイ・ローベルトはハンガリー王となり、その息子ラヨシュ1世はポーランド王も兼ねている。ラヨシュ死後は2人の娘に王国は分割されているが、両人とも夫との間に子を生さなかったため血筋は絶えている。
ルイ10世の2番目の王妃でジャン1世を生んだクレマンス・ド・オングリー、ヴァロワ伯シャルルの最初の妃でフィリップ6世の母であるマルグリット・ダンジューはこの家系の出身である。
アンジュー=シチリア家[編集]
カルロ1世(1247年 - 1285年)シチリア王:1266年 - 1282年、アカイア公:1278年 - 1285年、ナポリ王:1282年 - 1285年
カルロ2世(1285年 - 1309年)ナポリ王:1285年 - 1309年、アカイア公:1285年 - 1289年
ロベルト1世(1309年 - 1343年)ナポリ王:1309年 - 1343年、アカイア公:1318年 - 1322年
ジョヴァンナ1世(1343年 - 1382年)ナポリ女王:1343年 - 1382年、アカイア女公:1373年 - 1381年
断絶のためアンジュー=ドゥラッツォ家が継承(カルロ3世)。
アンジュー=ハンガリー家[編集]
カーロイ(1290年 - 1295年)
カーロイ1世(1295年 - 1342年)ハンガリー王:1308年 - 1342年
ラヨシュ1世(1342年 - 1382年)ハンガリー王:1342年 - 1382年、ポーランド王1370年 - 1382年
ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家[編集]
ハンガリー王家[編集]
マーリア(1382年 - 1395年)ハンガリー女王:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年
男系断絶のためルクセンブルク家が継承(配偶者:ジギスムント)。
ポーランド王家[編集]
ヤドヴィガ(1382年 - 1399年)ポーランド女王:1382年 - 1399年
男系断絶のためヤギェウォ家が継承(配偶者:ヴワディスワフ2世)。
アンジュー=ドゥラッツォ家[編集]
ジョヴァンニ(1332年 - 1336年)アカイア公:1322年 - 1332年
カルロ(1336年 - 1348年)
ルイージ(1348年 - 1362年)
カルロ3世(1362年 - 1386年)ナポリ王:1382年 - 1386年、ハンガリー王:1385年 - 1386年
ラディズラーオ1世(1386年 - 1417年)ナポリ王:1382年 - 1389年、1399年 - 1417年
ジョヴァンナ2世(1413年 - 1435年)ナポリ女王:1413年 - 1435年
断絶のためヴァロワ=アンジュー家が継承(ルネ)。
アンジュー=ターラント家[編集]
フィリッポ1世(1294年 - 1332年)アカイア公:1307年 - 1313年
ローベルト(1332年 - 1364年)アカイア公:1332年 - 1364年
フィリッポ2世(1364年 - 1374年)アカイア公:1364年 - 1373年
断絶のためレ・ボー家が継承(ジャコモ)。
ブルボン家[編集]
詳細は「ブルボン家」、「ブルボン朝」、「スペイン・ブルボン朝」、「シチリア・ブルボン朝」、および「ブルボン=パルマ家」を参照
フィリップ3世の弟クレルモン伯ロベールを祖とするブルボン家はアンリ4世の時代にフランス王位を獲得してブルボン朝を築き、更にはスペイン・ナポリ・シチリアの王位も獲得している。
ブルボン公家[編集]
ロベール(1287年 - 1317年)
ルイ1世(1317年 - 1342年)
ピエール1世(1342年 - 1356年)
ルイ2世(1356年 - 1410年)
ジャン1世(1410年 - 1434年)
シャルル1世(1434年 - 1456年)
ジャン2世(1456年 - 1488年)
シャルル2世(1488年)
ピエール2世(1488年 - 1503年)
シュザンヌ(1503年 - 1521年)
男系断絶のためブルボン=モンパンシエ家が継承(配偶者:シャルル3世)。
第一ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ1世(1434年 - 1486年)
ジルベール(1486年 - 1496年)
ルイ2世(1496年 - 1501年)
シャルル3世(1501年 - 1527年)
断絶のためブルボン=ヴァンドーム家が継承(シャルル)。
ブルボン=ラ・マルシュ家[編集]
ジャック1世(1356年 - 1362年)
ピエール1世(1362年)
ジャン1世(1362年 - 1393年)
ジャック2世(1393年 - 1435年)
エレオノール(1435年 - 1462年)
男系断絶のためアルマニャック家が継承(配偶者:ベルナール8世)。
ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)[編集]
ルイ1世(1393年 - 1446年)
ジャン8世(1446年 - 1477年)
フランソワ(1477年 - 1495年)
シャルル(1495年 - 1537年)
アントワーヌ(1537年 - 1562年)ナバラ王:1555年 - 1562年
アンリ4世(1562年 - 1610年)ナバラ王:1562年 - 1610年、フランス王:1589年 - 1610年
ルイ13世(1601年 - 1643年)ナバラ王:1610年 - 1620年、フランス王:1610年 - 1643年
ルイ14世(1643年 - 1715年)フランス王:1643年 - 1715年
ルイ15世(1715年 - 1774年)フランス王:1715年 - 1774年
ルイ16世(1774年 - 1793年)フランス王:1774年 - 1792年
ルイ17世(1793年 - 1795年)
ルイ18世(1795年 - 1824年)フランス王:1814年 - 1815年、1815年 - 1824年
シャルル10世(1824年 - 1836年)フランス王:1824年 - 1830年
ルイ・アントワーヌ(1836年 - 1844年)
アンリ(1844年 - 1883年)
第二ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ3世(1561年 - 1582年)
フランソワ(1582年 - 1592年)
アンリ(1592年 - 1608年)
マリー(1608年 - 1627年)
男系断絶のためブルボン家が継承(配偶者:ガストン)。
ヴァロワ家[編集]
詳細は「ヴァロワ家」および「ヴァロワ朝」を参照
フィリップ4世の弟シャルルはヴァロワ伯となったが、その息子フィリップ6世はカペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、ヴァロワ朝を開いた。 最後の王アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。
エヴルー家[編集]
詳細は「エヴルー家」を参照
フィリップ4世の弟ルイはエヴルー伯に封じられたが、その息子フィリップはルイ10世の娘ジャンヌと結婚してナバラ王位を獲得した。カペー家嫡系およびヴァロワ家とは他にも複雑な婚姻関係を結んでいる。
エヴルー家はヴァロワ家に次いでカペー家嫡系に近い家系であったことから、フランス王位やブルゴーニュ公位の獲得に野心を燃やしたが果たされず、ナバラ女王ブランカ1世が1441年に死去して断絶した。
系図[編集]
ロベール
ネウストリア辺境伯
ウード
西フランク王
ロベール1世
西フランク王
ベアトリス・ド・ヴェルマンドワ
ハインリヒ1世
ドイツ王
ユーグ
パリ伯
ヘートヴィヒ
オットー1世
神聖ローマ皇帝
ユーグ・カペー
フランス王
ウード=アンリ
ブルゴーニュ公
ロベール2世
フランス王
ユーグ
フランス共同統治王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
(ブルゴーニュ家)
フィリップ1世
フランス王
ユーグ1世
ヴェルマンドワ伯
(ヴェルマンドワ家)
アンリ
ルイ6世
フランス王
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
アンリ(エンリケ)
ポルトゥカーレ伯
フィリップ
フランス共同統治王
ルイ7世
フランス王
アンリ
ランス大司教
ロベール1世
ドルー伯
(ドルー家)
フィリップ
パリ司教
ピエール1世・ド・クルトネー
(クルトネー家)
ユーグ2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ1世
ポルトガル王
フィリップ2世
フランス王
ロベール2世
ドルー伯
ルイ8世
フランス王
フィリップ・ユルプル
クレルモン伯
ロベール3世
ドルー伯
ピエール1世
ブルターニュ公
ルイ9世
フランス王
ロベール1世
アルトワ伯
(アルトワ家)
シャルル・ダンジュー(カルロ1世)
シチリア王
(アンジュー=シチリア家)
フィリップ3世
フランス王
ロベール
クレルモン伯
フィリップ4世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ(フアナ)1世
ナバラ女王
シャルル
ヴァロワ伯
(ヴァロワ家)
ルイ
エヴルー伯
(エヴルー家)
ルイ1世
ブルボン公
(ブルボン家)
ルイ10世
フランス王
ナバラ王
フィリップ5世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ2世
ブルゴーニュ女伯
シャルル4世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ・デヴルー
フィリップ6世
フランス王
フィリップ(フェリペ)3世
ナバラ王
ジャン1世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ(フアナ)2世
ナバラ女王
ジャンヌ3世
ブルゴーニュ女伯
マルグリット1世
ブルゴーニュ女伯
ブランシュ
フィリップ
オルレアン公
ジャン2世
フランス王
シャルル(カルロス)2世
ナバラ王
カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。
目次 [非表示]
1 カペー家の諸分枝 1.1 カペー家 1.1.1 フランス王家
1.1.2 ナバラ王家
1.2 ブルゴーニュ家
1.3 ポルトガル王家 1.3.1 ボルゴーニャ家
1.3.2 アヴィシュ家
1.3.3 アヴィシュ=ベージャ家
1.3.4 ブラガンサ家
1.3.5 ペドロ1世以降のブラガンサ家 1.3.5.1 ポルトガル王家
1.3.5.2 ブラジル皇帝家
1.3.5.3 ミゲル1世系
1.4 ヴェルマンドワ家
1.5 ドルー家 1.5.1 ドルー伯家
1.5.2 ドルー=ブルターニュ家
1.6 クルトネー家
1.7 アルトワ家
1.8 アンジュー=シチリア家 1.8.1 アンジュー=シチリア家
1.8.2 アンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1 ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1.1 ハンガリー王家
1.8.2.1.2 ポーランド王家
1.8.3 アンジュー=ドゥラッツォ家
1.8.4 アンジュー=ターラント家
1.9 ブルボン家 1.9.1 ブルボン公家
1.9.2 第一ブルボン=モンパンシエ家
1.9.3 ブルボン=ラ・マルシュ家
1.9.4 ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)
1.9.5 第二ブルボン=モンパンシエ家
1.10 ヴァロワ家
1.11 エヴルー家
2 系図
3 外部リンク
カペー家の諸分枝[編集]
カペー家[編集]
詳細は「カペー朝」を参照
カロリング朝断絶を受けて、987年に婚姻関係にあったユーグ・カペーがフランス王位に就き、1328年にシャルル4世が死去するまで15代の国王が続いた。フィリップ4世以降はナバラ王も兼ねている。
なお、カペー朝以後のフランスの王朝は皆カペー家の分家によるものであり、その支配は1789年(広義では1848年)まで続いている。
フランス王家[編集]
ユーグ・カペー(987年 - 996年)フランス王:987年 - 996年
ロベール2世(996年 - 1031年)フランス王:996年 - 1031年
アンリ1世(1031年 - 1060年)フランス王:1031年 - 1060年
フィリップ1世(1060年 - 1108年)フランス王:1060年 - 1108年
ルイ6世(1108年 - 1137年)フランス王:1108年 - 1137年
ルイ7世(1137年 - 1180年)フランス王:1137年 - 1180年
フィリップ2世(1180年 - 1223年)フランス王:1180年 - 1223年
ルイ8世(1223年 - 1226年)フランス王:1223年 - 1226年
ルイ9世(1226年 - 1270年)フランス王:1226年 - 1270年
フィリップ3世(1270年 - 1285年)フランス王:1270年 - 1285年
フィリップ4世(1285年 - 1314年)ナバラ王:1284年 - 1305年、フランス王:1285年 - 1314年
ルイ10世(1314年 - 1316年)ナバラ王:1305年 - 1316年、フランス王:1314年 - 1316年
ジャン1世(1316年)フランス王:1316年、ナバラ王:1316年
フィリップ5世(1316年 - 1322年)フランス王:1316年 - 1322年、ナバラ王:1316年 - 1322年
シャルル4世(1322年 - 1328年)フランス王:1322年 - 1328年、ナバラ王:1322年 - 1328年
サリカ法によりヴァロワ家が継承(フィリップ6世)。
ナバラ王家[編集]
フアナ2世(1328年 - 1349年)ナバラ女王:1328年 - 1349年
男系断絶のためエヴルー家が継承(配偶者:フェリペ3世)。
ブルゴーニュ家[編集]
詳細は「ブルゴーニュ家」を参照
ブルゴーニュは11世紀初頭に一時フランス王の支配下にあったが、アンリ1世の弟ロベール1世がブルゴーニュ公に封じられて以降、その子孫によって支配された。この家系がカペー系ブルゴーニュ家である。1361年にフィリップ1世が嗣子無くして断絶すると、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世が公位を継承し、1363年に息子のフィリップ2世に引き継がれた(この家系はヴァロワ=ブルゴーニュ家と呼ばれる)。
ロベール1世(1032年 - 1076年)ブルゴーニュ公:1032年 - 1076年
ユーグ1世(1076年 - 1079年)ブルゴーニュ公:1076年 - 1079年
ウード1世(1079年 - 1103年)ブルゴーニュ公:1079年 - 1103年
ユーグ2世(1103年 - 1143年)ブルゴーニュ公:1103年 - 1143年
ウード2世(1143年 - 1162年)ブルゴーニュ公:1143年 - 1162年
ユーグ3世(1162年 - 1192年)ブルゴーニュ公:1162年 - 1192年
ウード3世(1192年 - 1218年)ブルゴーニュ公:1192年 - 1218年
ユーグ4世(1218年 - 1271年)ブルゴーニュ公:1218年 - 1271年
ロベール2世(1271年 - 1306年)ブルゴーニュ公:1271年 - 1306年
ユーグ5世(1306年 - 1315年)ブルゴーニュ公:1306年 - 1315年
ウード4世(1315年 - 1350年)ブルゴーニュ公:1315年 - 1350年
フィリップ1世(1350年 - 1361年)ブルゴーニュ公:1350年 - 1361年
断絶のためヴァロワ家が継承(ジャン2世)。
ポルトガル王家[編集]
詳細は「ブルゴーニュ王朝」、「アヴィシュ王朝」、および「ブラガンサ王朝」を参照
ブルゴーニュ公ウード1世の弟エンリケはイベリア半島でレコンキスタに参加し、カスティーリャ王アルフォンソ6世によってポルトゥカーレ伯に封じられた。その息子アフォンソ1世は初代ポルトガル王に即位してブルゴーニュ王朝を開く。
最後の王フェルナンド1世が死ぬと、異母弟ジョアン1世がアヴィシュ王朝を新たに立て、この王朝の下でポルトガルは黄金時代を迎える。その断絶後にポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の統治下に入るが、1640年にアヴィシュ家傍系のジョアン4世がポルトガル王として独立する。以後、ブラガンサ王朝が1910年までポルトガルを支配し、ブラジル皇帝も出している。
ボルゴーニャ家[編集]
エンリケ(1093年 - 1112年)
アフォンソ1世(1112年 - 1185年)ポルトガル王:1139年 - 1185年
サンシュ1世(1185年 - 1211年)ポルトガル王:1185年 - 1211年
アフォンソ2世(1211年 - 1223年)ポルトガル王:1211年 - 1223年
サンシュ2世(1223年 - 1248年)ポルトガル王:1223年 - 1248年
アフォンソ3世(1248年 - 1279年)ポルトガル王:1248年 - 1279年
ディニス1世(1279年 - 1325年)ポルトガル王:1279年 - 1325年
アフォンソ4世(1325年 - 1357年)ポルトガル王:1325年 - 1357年
ペドロ1世(1357年 - 1367年)ポルトガル王:1357年 - 1367年
フェルナンド1世(1367年 - 1383年)ポルトガル王:1367年 - 1383年
ベアトリス(1383年 - 1385年)
アルジュバロータの戦いによりアヴィシュ家が継承。
アヴィシュ家[編集]
ジョアン1世(1385年 - 1433年)ポルトガル王:1385年 - 1433年
ドゥアルテ1世(1433年 - 1438年)ポルトガル王:1433年 - 1438年
アフォンソ5世(1438年 - 1481年)ポルトガル王:1438年 - 1477年、1477年 - 1481年
ジョアン2世(1481年 - 1495年)ポルトガル王:1477年、1481年 - 1495年
嫡流断絶のためアヴィシュ=ベージャ家が継承。
アヴィシュ=ベージャ家[編集]
マヌエル1世(1495年 - 1521年)ポルトガル王:1495年 - 1521年
ジョアン3世(1521年 - 1557年)ポルトガル王:1521年 - 1557年
セバスティアン1世(1521年 - 1578年)ポルトガル王:1521年 - 1578年
エンリケ1世(1578年 - 1580年)ポルトガル王:1578年 - 1580年
嫡流断絶のためスペイン・ハプスブルク家が継承(フェリペ2世)。
ブラガンサ家[編集]
アフォンソ1世(1442年 - 1461年)
フェルナンド1世(1461年 - 1478年)
フェルナンド2世(1478年 - 1483年)
ジャイメ1世(1483年 - 1532年)
テオドジオ1世(1532年 - 1563年)
ジョアン1世(1563年 - 1583年)
テオドジオ2世(1583年 - 1630年)
ジョアン4世(1630年 - 1656年)ポルトガル王:1640年 - 1656年
アフォンソ6世(1656年 - 1683年)ポルトガル王:1656年 - 1683年
ペドロ2世(1683年 - 1706年)ポルトガル王:1683年 - 1706年
ジョアン5世(1706年 - 1750年)ポルトガル王:1706年 - 1750年
ジョゼ1世(1750年 - 1777年)ポルトガル王:1750年 - 1777年
マリア1世(1777年 - 1816年)ポルトガル女王:1777年 - 1816年、ブラジル女王:1815年 - 1816年
(共同統治) ペドロ3世(1777年 - 1786年)
ジョアン6世(1816年 - 1826年)ポルトガル王:1816年 - 1826年、ブラジル王:1816年 - 1822年
ペドロ1世(1826年 - 1834年)ブラジル皇帝:1822年 - 1831年、ポルトガル王:1826年
ペドロ1世以降のブラガンサ家[編集]
ポルトガル王家[編集]
マリア2世(1834年 - 1853年)ポルトガル女王:1826年 - 1828年、1834年 - 1853年
男系断絶のためブラガンサ=コブルゴ家へ(配偶者:フェルナンド2世)。
ブラジル皇帝家[編集]
ペドロ2世(1834年 - 1891年)ブラジル皇帝:1831年 - 1889年
イザベル(1891年 - 1921年)
男系断絶のためオルレアンス=ブラガンサ家へ(配偶者:ガスタン)。
ミゲル1世系[編集]
ミゲル1世(1834年 - 1866年)ポルトガル王:1828年 - 1834年
ミゲル2世(1866年 - 1920年)
ドゥアルテ・ヌノ(1920年 - 1976年)
ドゥアルテ・ピオ(1976年 - )
ヴェルマンドワ家[編集]
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「:de:Haus Frankreich-Vermandois」も参照
フィリップ1世の弟ユーグは、ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚してヴェルマンドワ伯となった。この家系をヴェルマンドワ家と呼ぶ。ユーグは破門中の兄に代わって第1回十字軍に参加した。
ユーグ1世(1080年 - 1102年)
ラウール1世(1102年 - 1152年)
ラウール2世(1152年 - 1167年)
エリザベート(1167年 - 1183年)
男系断絶のためアルザス家が継承(配偶者:フィリップ1世)。
ドルー家[編集]
詳細は「ドルー家」を参照
ルイ7世の弟ロベール1世はドルー伯に封じられ、その家系であるドルー家の本家は14世紀まで続いた。
ドルー伯ロベール3世の弟ピエール1世はブルターニュ公国の女公アリックスと結婚し、この家系はフランス内で独自の勢力を築いた。しかし、最後の公フランソワ2世には娘のアンヌしかおらず、彼女がヴァロワ家のシャルル8世と結婚したことで、ブルターニュは後にフランス王領へと併合される。
ドルー伯家[編集]
ロベール1世(1137年 - 1184年)
ロベール2世(1184年 - 1218年)
ロベール3世(1218年 - 1234年)
ジャン1世(1234年 - 1249年)
ロベール4世(1249年 - 1282年)
ジャン2世(1282年 - 1309年)
ロベール5世(1309年 - 1329年)
ジャン3世(1329年 - 1331年)
ピエール1世(1331年 - 1345年)
ジャンヌ1世(1345年 - 1346年)
ジャンヌ2世(1346年 - 1355年)
男系断絶のためトゥアール家が継承(配偶者:ルイ1世)。
ドルー=ブルターニュ家[編集]
ピエール1世(1213年 - 1237年)ブルターニュ公:1213年 - 1237年
ジャン1世(1237年 - 1286年)ブルターニュ公:1237年 - 1286年
ジャン2世(1286年 - 1305年)ブルターニュ公:1286年 - 1305年
アルテュール2世(1305年 - 1312年)ブルターニュ公:1305年 - 1312年
ジャン3世(1312年 - 1341年)ブルターニュ公:1312年 - 1341年
ジャン(1341年 - 1345年)
ジャン4世(1345年 - 1399年)ブルターニュ公:1365年 - 1499年
ジャン5世(1399年 - 1442年)ブルターニュ公:1399年 - 1442年
フランソワ1世(1442年 - 1450年)ブルターニュ公:1442年 - 1450年
ピエール2世(1450年 - 1457年)ブルターニュ公:1450年 - 1457年
アルテュール3世(1457年 - 1458年)ブルターニュ公:1457年 - 1458年
フランソワ2世(1458年 - 1488年)ブルターニュ公:1458年 - 1488年
アンヌ(1488年 - 1514年)ブルターニュ女公:1488年 - 1514年
男系断絶のためヴァロワ家が継承(配偶者:ルイ12世)。
クルトネー家[編集]
ルイ7世の弟ピエール1世を祖とするクルトネー家 (en) は18世紀まで存続した。ピエールの息子ピエール2世は第四回十字軍の後に建てられたラテン帝国の皇帝位に就いた。しかし、ピエール1世の息子ボードゥアン2世の時にニカイア帝国によって駆逐された。
ピエール(1150年 - 1183年)
ピエール(1183年 - 1219年)ラテン皇帝:1216年 - 1219年
ロベール(1219年 - 1228年)ラテン皇帝:1219年 - 1228年
ボードゥアン2世(1228年 - 1273年)ラテン皇帝:1228年 - 1261年
フィリップ(1273年 - 1283年)
カトリーヌ(1283年 - 1307年)
男系断絶によりヴァロワ家が継承(配偶者:シャルル)。
アルトワ家[編集]
ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世を祖とするアルトワ家 (fr) は15世紀まで続いた。ロベール1世の娘ブランシュはナバラ王エンリケ1世と結婚して女王フアナ1世の母后となり、カペー朝末期にナバラとフランスの同君連合を成立させた。ロベール1世から4代後のロベール3世はイングランド王エドワード3世に加担して百年戦争の原因の一つを作った。
ロベール1世(1237年 - 1250年)
ロベール2世(1250年 - 1302年)
マオー(1302年 - 1320年)
男系断絶のためアンスカリ家が継承(配偶者:オトン4世)。
アンジュー=シチリア家[編集]
詳細は「アンジュー=シチリア家」、「ナポリ・アンジュー朝」、「ハンガリー・アンジュー朝」、および「ポーランド・アンジュー朝」を参照
ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューはシチリア王国を支配していたホーエンシュタウフェン家を滅亡させて、1268年にシチリア王に即位する。しかし、シチリアの晩祷事件を契機としてシチリア島をアラゴン王国に奪われ、最後の君主となったジョヴァンナ2世が1435年に死去するまではナポリ王家として続いた。
一方、一族のカーロイ・ローベルトはハンガリー王となり、その息子ラヨシュ1世はポーランド王も兼ねている。ラヨシュ死後は2人の娘に王国は分割されているが、両人とも夫との間に子を生さなかったため血筋は絶えている。
ルイ10世の2番目の王妃でジャン1世を生んだクレマンス・ド・オングリー、ヴァロワ伯シャルルの最初の妃でフィリップ6世の母であるマルグリット・ダンジューはこの家系の出身である。
アンジュー=シチリア家[編集]
カルロ1世(1247年 - 1285年)シチリア王:1266年 - 1282年、アカイア公:1278年 - 1285年、ナポリ王:1282年 - 1285年
カルロ2世(1285年 - 1309年)ナポリ王:1285年 - 1309年、アカイア公:1285年 - 1289年
ロベルト1世(1309年 - 1343年)ナポリ王:1309年 - 1343年、アカイア公:1318年 - 1322年
ジョヴァンナ1世(1343年 - 1382年)ナポリ女王:1343年 - 1382年、アカイア女公:1373年 - 1381年
断絶のためアンジュー=ドゥラッツォ家が継承(カルロ3世)。
アンジュー=ハンガリー家[編集]
カーロイ(1290年 - 1295年)
カーロイ1世(1295年 - 1342年)ハンガリー王:1308年 - 1342年
ラヨシュ1世(1342年 - 1382年)ハンガリー王:1342年 - 1382年、ポーランド王1370年 - 1382年
ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家[編集]
ハンガリー王家[編集]
マーリア(1382年 - 1395年)ハンガリー女王:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年
男系断絶のためルクセンブルク家が継承(配偶者:ジギスムント)。
ポーランド王家[編集]
ヤドヴィガ(1382年 - 1399年)ポーランド女王:1382年 - 1399年
男系断絶のためヤギェウォ家が継承(配偶者:ヴワディスワフ2世)。
アンジュー=ドゥラッツォ家[編集]
ジョヴァンニ(1332年 - 1336年)アカイア公:1322年 - 1332年
カルロ(1336年 - 1348年)
ルイージ(1348年 - 1362年)
カルロ3世(1362年 - 1386年)ナポリ王:1382年 - 1386年、ハンガリー王:1385年 - 1386年
ラディズラーオ1世(1386年 - 1417年)ナポリ王:1382年 - 1389年、1399年 - 1417年
ジョヴァンナ2世(1413年 - 1435年)ナポリ女王:1413年 - 1435年
断絶のためヴァロワ=アンジュー家が継承(ルネ)。
アンジュー=ターラント家[編集]
フィリッポ1世(1294年 - 1332年)アカイア公:1307年 - 1313年
ローベルト(1332年 - 1364年)アカイア公:1332年 - 1364年
フィリッポ2世(1364年 - 1374年)アカイア公:1364年 - 1373年
断絶のためレ・ボー家が継承(ジャコモ)。
ブルボン家[編集]
詳細は「ブルボン家」、「ブルボン朝」、「スペイン・ブルボン朝」、「シチリア・ブルボン朝」、および「ブルボン=パルマ家」を参照
フィリップ3世の弟クレルモン伯ロベールを祖とするブルボン家はアンリ4世の時代にフランス王位を獲得してブルボン朝を築き、更にはスペイン・ナポリ・シチリアの王位も獲得している。
ブルボン公家[編集]
ロベール(1287年 - 1317年)
ルイ1世(1317年 - 1342年)
ピエール1世(1342年 - 1356年)
ルイ2世(1356年 - 1410年)
ジャン1世(1410年 - 1434年)
シャルル1世(1434年 - 1456年)
ジャン2世(1456年 - 1488年)
シャルル2世(1488年)
ピエール2世(1488年 - 1503年)
シュザンヌ(1503年 - 1521年)
男系断絶のためブルボン=モンパンシエ家が継承(配偶者:シャルル3世)。
第一ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ1世(1434年 - 1486年)
ジルベール(1486年 - 1496年)
ルイ2世(1496年 - 1501年)
シャルル3世(1501年 - 1527年)
断絶のためブルボン=ヴァンドーム家が継承(シャルル)。
ブルボン=ラ・マルシュ家[編集]
ジャック1世(1356年 - 1362年)
ピエール1世(1362年)
ジャン1世(1362年 - 1393年)
ジャック2世(1393年 - 1435年)
エレオノール(1435年 - 1462年)
男系断絶のためアルマニャック家が継承(配偶者:ベルナール8世)。
ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)[編集]
ルイ1世(1393年 - 1446年)
ジャン8世(1446年 - 1477年)
フランソワ(1477年 - 1495年)
シャルル(1495年 - 1537年)
アントワーヌ(1537年 - 1562年)ナバラ王:1555年 - 1562年
アンリ4世(1562年 - 1610年)ナバラ王:1562年 - 1610年、フランス王:1589年 - 1610年
ルイ13世(1601年 - 1643年)ナバラ王:1610年 - 1620年、フランス王:1610年 - 1643年
ルイ14世(1643年 - 1715年)フランス王:1643年 - 1715年
ルイ15世(1715年 - 1774年)フランス王:1715年 - 1774年
ルイ16世(1774年 - 1793年)フランス王:1774年 - 1792年
ルイ17世(1793年 - 1795年)
ルイ18世(1795年 - 1824年)フランス王:1814年 - 1815年、1815年 - 1824年
シャルル10世(1824年 - 1836年)フランス王:1824年 - 1830年
ルイ・アントワーヌ(1836年 - 1844年)
アンリ(1844年 - 1883年)
第二ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ3世(1561年 - 1582年)
フランソワ(1582年 - 1592年)
アンリ(1592年 - 1608年)
マリー(1608年 - 1627年)
男系断絶のためブルボン家が継承(配偶者:ガストン)。
ヴァロワ家[編集]
詳細は「ヴァロワ家」および「ヴァロワ朝」を参照
フィリップ4世の弟シャルルはヴァロワ伯となったが、その息子フィリップ6世はカペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、ヴァロワ朝を開いた。 最後の王アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。
エヴルー家[編集]
詳細は「エヴルー家」を参照
フィリップ4世の弟ルイはエヴルー伯に封じられたが、その息子フィリップはルイ10世の娘ジャンヌと結婚してナバラ王位を獲得した。カペー家嫡系およびヴァロワ家とは他にも複雑な婚姻関係を結んでいる。
エヴルー家はヴァロワ家に次いでカペー家嫡系に近い家系であったことから、フランス王位やブルゴーニュ公位の獲得に野心を燃やしたが果たされず、ナバラ女王ブランカ1世が1441年に死去して断絶した。
系図[編集]
ロベール
ネウストリア辺境伯
ウード
西フランク王
ロベール1世
西フランク王
ベアトリス・ド・ヴェルマンドワ
ハインリヒ1世
ドイツ王
ユーグ
パリ伯
ヘートヴィヒ
オットー1世
神聖ローマ皇帝
ユーグ・カペー
フランス王
ウード=アンリ
ブルゴーニュ公
ロベール2世
フランス王
ユーグ
フランス共同統治王
アンリ1世
フランス王
ロベール1世
ブルゴーニュ公
(ブルゴーニュ家)
フィリップ1世
フランス王
ユーグ1世
ヴェルマンドワ伯
(ヴェルマンドワ家)
アンリ
ルイ6世
フランス王
ユーグ1世
ブルゴーニュ公
ウード1世
ブルゴーニュ公
アンリ(エンリケ)
ポルトゥカーレ伯
フィリップ
フランス共同統治王
ルイ7世
フランス王
アンリ
ランス大司教
ロベール1世
ドルー伯
(ドルー家)
フィリップ
パリ司教
ピエール1世・ド・クルトネー
(クルトネー家)
ユーグ2世
ブルゴーニュ公
アフォンソ1世
ポルトガル王
フィリップ2世
フランス王
ロベール2世
ドルー伯
ルイ8世
フランス王
フィリップ・ユルプル
クレルモン伯
ロベール3世
ドルー伯
ピエール1世
ブルターニュ公
ルイ9世
フランス王
ロベール1世
アルトワ伯
(アルトワ家)
シャルル・ダンジュー(カルロ1世)
シチリア王
(アンジュー=シチリア家)
フィリップ3世
フランス王
ロベール
クレルモン伯
フィリップ4世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ(フアナ)1世
ナバラ女王
シャルル
ヴァロワ伯
(ヴァロワ家)
ルイ
エヴルー伯
(エヴルー家)
ルイ1世
ブルボン公
(ブルボン家)
ルイ10世
フランス王
ナバラ王
フィリップ5世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ2世
ブルゴーニュ女伯
シャルル4世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ・デヴルー
フィリップ6世
フランス王
フィリップ(フェリペ)3世
ナバラ王
ジャン1世
フランス王
ナバラ王
ジャンヌ(フアナ)2世
ナバラ女王
ジャンヌ3世
ブルゴーニュ女伯
マルグリット1世
ブルゴーニュ女伯
ブランシュ
フィリップ
オルレアン公
ジャン2世
フランス王
シャルル(カルロス)2世
ナバラ王
ヴァロワ家
ヴァロワ家(maison de Valois メゾン・ドゥ・ヴァルワ)は、フランス王国の王家。カペー家の分家であり、フィリップ3世の四男でフィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルに始まる。1328年から1589年の間に13代の王を出したが、庶流は19世紀末まで続いた。ここではヴァロワ家及びその分家について解説する。
目次 [非表示]
1 ヴァロワ家の諸系統 1.1 ヴァロワ家嫡系
1.2 ヴァロワ=オルレアン家 1.2.1 ヴァロワ=アングレーム家
1.2.2 ヴァロワ=ロングウィル家
1.2.3 ヴァロワ=サン=レミ家
1.3 ヴァロワ=アランソン家
1.4 ヴァロワ=アンジュー家
1.5 ヴァロワ=ベリー家
1.6 ヴァロワ=ブルゴーニュ家
2 系図
3 関連項目
4 外部リンク
ヴァロワ家の諸系統[編集]
ヴァロワ家嫡系[編集]
詳細は「ヴァロワ朝」を参照
ヴァロワ伯シャルルの息子であるフィリップ6世は、カペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、以後7代の国王が続いた。最後のシャルル8世が1498年に嗣子を残さず没して嫡系は断絶した。
ヴァロワ=オルレアン家[編集]
詳細は「ヴァロワ=オルレアン家」を参照
シャルル5世の次男であるルイがオルレアン公に叙されたのが始まり。ルイの息子シャルルはアルマニャック伯ベルナール7世の娘と結婚してアルマニャック派を形成した。その息子のルイ12世はヴァロワ家嫡系の断絶を受け、1498年にフランス王位に就くが、1代で断絶した。
フランスで最初にオルレアン公に叙されたのはルイの大叔父に当たるフィリップであるが、子供がなく1代で公位は消滅した。
ヴァロワ=アングレーム家[編集]
オルレアン公ルイの息子ジャンがアングレーム伯に叙されたのが始まり。その孫フランソワ1世が、1515年にルイ12世の死去を受けてフランス王に即位する。1589年にアンリ3世が暗殺されるまで、5代の王が続いた。アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。
アングレーム公位はシャルル9世の庶子シャルル (en) が相続し、その家系は17世紀前半まで存続した。
ヴァロワ=ロングウィル家[編集]
詳細は「オルレアン=ロングヴィル家」を参照
オルレアン公ルイの庶子であるジャン・ド・デュノワがロングウィル伯に叙されたのが始まり。後にロングウィル公に昇爵し、17世紀末まで家系が続いた。
ヴァロワ=サン=レミ家[編集]
アンリ2世の庶子アンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続した。首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワはこの家系の出身とされる。
ヴァロワ=アランソン家[編集]
詳細は「ヴァロワ=アランソン家」を参照
ヴァロワ伯シャルルは同時にアランソン伯となり、その次男シャルル2世 (en) の系統が所領を相続した。曾孫のアランソン公ジャン2世はジャンヌ・ダルクの戦友として知られている。庶子の系統を除けば最も長い期間続いた家系であったが、1525年にシャルル4世が嗣子を残さず死去し、断絶した。なお、シャルル4世の妹フランソワーズはブルボン朝の祖アンリ4世の父方の祖母である。
ヴァロワ=アンジュー家[編集]
詳細は「ヴァロワ=アンジュー家」を参照
ヴァロワ伯シャルルは3度結婚したが、フィリップ6世やアランソン伯シャルル2世の母である最初の妃は、アンジュー=シチリア家のナポリ王カルロ2世の娘マルグリットであった。2人の曾孫でジャン2世の次男であるアンジュー公ルイ1世は、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の養子となった。このルイの家系をヴァロワ=アンジュー家と呼ぶ。この一族はアンジュー=シチリア家の別系統やトラスタマラ家とナポリ王位やプロヴァンス伯領を争った。また結婚によりロレーヌ公位を獲得している。シャルル7世の王妃マリー・ダンジューはルイ1世の孫の一人であり、百年戦争期には一族でシャルル7世に与してイングランドと敵対したが、後に和平の一環としてマリーの姪マーガレット・オブ・アンジューがイングランド王ヘンリー6世に嫁いでいる。
1481年にシャルル5世が嗣子無くして没した後、マリー・ダンジューの孫であるシャルル8世はアンジュー家の継承権を主張してイタリア戦争が勃発する。
ヴァロワ=ベリー家[編集]
ジャン2世の三男ジャンがベリー公に叙されたのが始まり。長命であったベリー公ジャンはヴァロワ家の長老として権勢を誇ったが、息子に先立たれ、かつ男系の継承者がなかったため、その死とともに家系としては断絶した。遺領の一部はブルボン家に相続されたが、ベリー公位はその時々の王の近親者に授けられるものとなった。
ヴァロワ=ブルゴーニュ家[編集]
詳細は「ヴァロワ=ブルゴーニュ家」を参照
ジャン2世の末子フィリップ豪胆公は断絶したカペー家系ブルゴーニュ家の跡を継ぎ、ブルゴーニュ公となった。その息子ジャン無怖公はブルゴーニュ派としてフランスで勢力を持った。3代目のフィリップ善良公は関心をフランスからネーデルラントに変えた。事実上最後の当主シャルル突進公はルイ11世との抗争に敗れて滅亡する。その後、遺領を巡る争いが契機となり、フランス王家とハプスブルク家の抗争が勃発する。
系図[編集]
シャルル
ヴァロワ伯
フィリップ6世
フランス王
シャルル2世
アランソン伯
(ヴァロワ=アランソン家)
ジャン2世
フランス王
フィリップ
オルレアン公
シャルル5世
フランス王
ルイ1世
アンジュー公
(ヴァロワ=アンジュー家)
ジャン
ベリー公
(ヴァロワ=ベリー家)
フィリップ2世
ブルゴーニュ公
(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)
シャルル6世
フランス王
ルイ
オルレアン公
(ヴァロワ=オルレアン家)
ルイ2世
アンジュー公
シャルル
モンパンシエ伯
カトリーヌ
ジャン
モンパンシエ伯
ルイ
ルイ
ギュイエンヌ公
ジャン
トゥーレーヌ公
シャルル7世
フランス王
マリー・ダンジュー
シャルル1世
オルレアン公
イザベル
イングランド王妃
ジャン
アングレーム伯
(ヴァロワ=アングレーム家)
ジャン・ド・デュノワ
(ヴァロワ=ロングウィル家)
ルイ11世
フランス王
シャルル
ベリー公
ルイ12世
フランス王
シャルル
アングレーム伯
シャルル8世
フランス王
ジャンヌ
クロード
ブルターニュ女公
フランソワ1世
フランス王
フランソワ3世
ブルターニュ公
アンリ2世
フランス王
シャルル2世
オルレアン公
フランソワ2世
フランス王
シャルル9世
フランス王
アンリ3世
フランス王
ポーランド王
フランソワ
アンジュー公
アンリ・ド・サン=レミ
(ヴァロワ=サン=レミ家)
シャルル
アングレーム公
目次 [非表示]
1 ヴァロワ家の諸系統 1.1 ヴァロワ家嫡系
1.2 ヴァロワ=オルレアン家 1.2.1 ヴァロワ=アングレーム家
1.2.2 ヴァロワ=ロングウィル家
1.2.3 ヴァロワ=サン=レミ家
1.3 ヴァロワ=アランソン家
1.4 ヴァロワ=アンジュー家
1.5 ヴァロワ=ベリー家
1.6 ヴァロワ=ブルゴーニュ家
2 系図
3 関連項目
4 外部リンク
ヴァロワ家の諸系統[編集]
ヴァロワ家嫡系[編集]
詳細は「ヴァロワ朝」を参照
ヴァロワ伯シャルルの息子であるフィリップ6世は、カペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、以後7代の国王が続いた。最後のシャルル8世が1498年に嗣子を残さず没して嫡系は断絶した。
ヴァロワ=オルレアン家[編集]
詳細は「ヴァロワ=オルレアン家」を参照
シャルル5世の次男であるルイがオルレアン公に叙されたのが始まり。ルイの息子シャルルはアルマニャック伯ベルナール7世の娘と結婚してアルマニャック派を形成した。その息子のルイ12世はヴァロワ家嫡系の断絶を受け、1498年にフランス王位に就くが、1代で断絶した。
フランスで最初にオルレアン公に叙されたのはルイの大叔父に当たるフィリップであるが、子供がなく1代で公位は消滅した。
ヴァロワ=アングレーム家[編集]
オルレアン公ルイの息子ジャンがアングレーム伯に叙されたのが始まり。その孫フランソワ1世が、1515年にルイ12世の死去を受けてフランス王に即位する。1589年にアンリ3世が暗殺されるまで、5代の王が続いた。アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。
アングレーム公位はシャルル9世の庶子シャルル (en) が相続し、その家系は17世紀前半まで存続した。
ヴァロワ=ロングウィル家[編集]
詳細は「オルレアン=ロングヴィル家」を参照
オルレアン公ルイの庶子であるジャン・ド・デュノワがロングウィル伯に叙されたのが始まり。後にロングウィル公に昇爵し、17世紀末まで家系が続いた。
ヴァロワ=サン=レミ家[編集]
アンリ2世の庶子アンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続した。首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワはこの家系の出身とされる。
ヴァロワ=アランソン家[編集]
詳細は「ヴァロワ=アランソン家」を参照
ヴァロワ伯シャルルは同時にアランソン伯となり、その次男シャルル2世 (en) の系統が所領を相続した。曾孫のアランソン公ジャン2世はジャンヌ・ダルクの戦友として知られている。庶子の系統を除けば最も長い期間続いた家系であったが、1525年にシャルル4世が嗣子を残さず死去し、断絶した。なお、シャルル4世の妹フランソワーズはブルボン朝の祖アンリ4世の父方の祖母である。
ヴァロワ=アンジュー家[編集]
詳細は「ヴァロワ=アンジュー家」を参照
ヴァロワ伯シャルルは3度結婚したが、フィリップ6世やアランソン伯シャルル2世の母である最初の妃は、アンジュー=シチリア家のナポリ王カルロ2世の娘マルグリットであった。2人の曾孫でジャン2世の次男であるアンジュー公ルイ1世は、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の養子となった。このルイの家系をヴァロワ=アンジュー家と呼ぶ。この一族はアンジュー=シチリア家の別系統やトラスタマラ家とナポリ王位やプロヴァンス伯領を争った。また結婚によりロレーヌ公位を獲得している。シャルル7世の王妃マリー・ダンジューはルイ1世の孫の一人であり、百年戦争期には一族でシャルル7世に与してイングランドと敵対したが、後に和平の一環としてマリーの姪マーガレット・オブ・アンジューがイングランド王ヘンリー6世に嫁いでいる。
1481年にシャルル5世が嗣子無くして没した後、マリー・ダンジューの孫であるシャルル8世はアンジュー家の継承権を主張してイタリア戦争が勃発する。
ヴァロワ=ベリー家[編集]
ジャン2世の三男ジャンがベリー公に叙されたのが始まり。長命であったベリー公ジャンはヴァロワ家の長老として権勢を誇ったが、息子に先立たれ、かつ男系の継承者がなかったため、その死とともに家系としては断絶した。遺領の一部はブルボン家に相続されたが、ベリー公位はその時々の王の近親者に授けられるものとなった。
ヴァロワ=ブルゴーニュ家[編集]
詳細は「ヴァロワ=ブルゴーニュ家」を参照
ジャン2世の末子フィリップ豪胆公は断絶したカペー家系ブルゴーニュ家の跡を継ぎ、ブルゴーニュ公となった。その息子ジャン無怖公はブルゴーニュ派としてフランスで勢力を持った。3代目のフィリップ善良公は関心をフランスからネーデルラントに変えた。事実上最後の当主シャルル突進公はルイ11世との抗争に敗れて滅亡する。その後、遺領を巡る争いが契機となり、フランス王家とハプスブルク家の抗争が勃発する。
系図[編集]
シャルル
ヴァロワ伯
フィリップ6世
フランス王
シャルル2世
アランソン伯
(ヴァロワ=アランソン家)
ジャン2世
フランス王
フィリップ
オルレアン公
シャルル5世
フランス王
ルイ1世
アンジュー公
(ヴァロワ=アンジュー家)
ジャン
ベリー公
(ヴァロワ=ベリー家)
フィリップ2世
ブルゴーニュ公
(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)
シャルル6世
フランス王
ルイ
オルレアン公
(ヴァロワ=オルレアン家)
ルイ2世
アンジュー公
シャルル
モンパンシエ伯
カトリーヌ
ジャン
モンパンシエ伯
ルイ
ルイ
ギュイエンヌ公
ジャン
トゥーレーヌ公
シャルル7世
フランス王
マリー・ダンジュー
シャルル1世
オルレアン公
イザベル
イングランド王妃
ジャン
アングレーム伯
(ヴァロワ=アングレーム家)
ジャン・ド・デュノワ
(ヴァロワ=ロングウィル家)
ルイ11世
フランス王
シャルル
ベリー公
ルイ12世
フランス王
シャルル
アングレーム伯
シャルル8世
フランス王
ジャンヌ
クロード
ブルターニュ女公
フランソワ1世
フランス王
フランソワ3世
ブルターニュ公
アンリ2世
フランス王
シャルル2世
オルレアン公
フランソワ2世
フランス王
シャルル9世
フランス王
アンリ3世
フランス王
ポーランド王
フランソワ
アンジュー公
アンリ・ド・サン=レミ
(ヴァロワ=サン=レミ家)
シャルル
アングレーム公
ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア
ラ・モット=ヴァロワ伯爵夫人ことジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミ(Jeanne de Valois-Saint-Rémy, comtesse de la Motte-Valois, 1756年7月22日 - 1791年8月23日)は、首飾り事件の首謀者と思われるフランスの伯爵夫人。通称ラ・モット夫人。フランスの旧王家ヴァロア家の末裔を称した。肩にVの焼印を付けられ投獄されたが、脱獄してフランス革命期にロンドンで転落死を遂げた。
目次 [非表示]
1 生涯
2 首飾り事件
3 著作
4 脚注
5 関連項目
生涯[編集]
父ジャック・ド・サン・レミ男爵はアンリ2世の認知されなかった庶子アンリ・ド・サン=レミの子孫で、困窮していた。9歳で両親を喪う。少女時代、貴族の娘としての教養を身につけるため、ロンシャン修道院の寄宿女学校に入学。22歳の時、修道女になる事を嫌って逃亡した。1780年、バール=シュル=オーブでマルク・アントワーヌ・ニコラ・ド・ラ・モット伯爵と知り合い結婚した。ジャンダルムリの士官であったこの夫は、伯爵を名乗っていたが、本当に貴族であったかどうかは疑わしい。
1786年、首飾り事件を起こし、裁判でジャンヌは有罪となった。監獄でジャンヌは鞭打ちの刑を受けた後、両肩に「V」の焼き鏝(当時の刑法では泥棒、窃盗犯にはフランス語で「泥棒」を意味する「Voleuse」(女性形)の頭文字「V」の焼き鏝を両肩に捺される刑罰があったen)を捺された後、サルペトリエール監獄enでの終身禁錮刑となった。しかしジャンヌは、たくさんの民衆から同情され、いつの間にかイギリスへと脱走した。
1791年、精神錯乱の発作により窓から転落して死んだ。35歳没。ロンドンで強盗に襲われたために窓から転落したと言う説もある。
首飾り事件[編集]
ド・ロアンは、枢機卿にして宮廷司祭長という地位にある聖職者でありながら大変な放蕩家であったため、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアとその娘であるフランス王妃マリー・アントワネットに嫌われていた。宰相になりたいという野望を持つロアンに近づいたジャンヌは、自分が王妃の親しい友人であると吹聴し、王妃の名を騙って金品を騙し取っていた。
かつて先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブル相当のダイヤが、宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額だったのを理由にマリーに断られた。1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ジャンヌの巧みな嘘に騙されたロアンは、言われるがままに首飾りを代理購入し、ジャンヌに首飾りを渡してしまう。しかし、首飾りの代金が支払われないことに業を煮やした宝石商の申し出により事件が発覚。ジャンヌとロアンをはじめ事件にかかわった者が次々逮捕された。なお、当の首飾りはジャンヌが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失したという(現存するのはそのレプリカ)[1]。
この事件に激怒したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)で身の潔白を証明しようと試みたが、政治的に宮廷と対立していた高等法院は、王妃にとって都合の悪い判決を下した。1786年3月に下された判決は、ロアン無罪、ジャンヌ有罪というものであった。
著作[編集]
ジャンヌはロンドンに脱走した際に、「回想録」と首飾り事件のあらましについて書いた書籍を出版した。
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1 生涯
2 首飾り事件
3 著作
4 脚注
5 関連項目
生涯[編集]
父ジャック・ド・サン・レミ男爵はアンリ2世の認知されなかった庶子アンリ・ド・サン=レミの子孫で、困窮していた。9歳で両親を喪う。少女時代、貴族の娘としての教養を身につけるため、ロンシャン修道院の寄宿女学校に入学。22歳の時、修道女になる事を嫌って逃亡した。1780年、バール=シュル=オーブでマルク・アントワーヌ・ニコラ・ド・ラ・モット伯爵と知り合い結婚した。ジャンダルムリの士官であったこの夫は、伯爵を名乗っていたが、本当に貴族であったかどうかは疑わしい。
1786年、首飾り事件を起こし、裁判でジャンヌは有罪となった。監獄でジャンヌは鞭打ちの刑を受けた後、両肩に「V」の焼き鏝(当時の刑法では泥棒、窃盗犯にはフランス語で「泥棒」を意味する「Voleuse」(女性形)の頭文字「V」の焼き鏝を両肩に捺される刑罰があったen)を捺された後、サルペトリエール監獄enでの終身禁錮刑となった。しかしジャンヌは、たくさんの民衆から同情され、いつの間にかイギリスへと脱走した。
1791年、精神錯乱の発作により窓から転落して死んだ。35歳没。ロンドンで強盗に襲われたために窓から転落したと言う説もある。
首飾り事件[編集]
ド・ロアンは、枢機卿にして宮廷司祭長という地位にある聖職者でありながら大変な放蕩家であったため、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアとその娘であるフランス王妃マリー・アントワネットに嫌われていた。宰相になりたいという野望を持つロアンに近づいたジャンヌは、自分が王妃の親しい友人であると吹聴し、王妃の名を騙って金品を騙し取っていた。
かつて先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブル相当のダイヤが、宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額だったのを理由にマリーに断られた。1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ジャンヌの巧みな嘘に騙されたロアンは、言われるがままに首飾りを代理購入し、ジャンヌに首飾りを渡してしまう。しかし、首飾りの代金が支払われないことに業を煮やした宝石商の申し出により事件が発覚。ジャンヌとロアンをはじめ事件にかかわった者が次々逮捕された。なお、当の首飾りはジャンヌが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失したという(現存するのはそのレプリカ)[1]。
この事件に激怒したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)で身の潔白を証明しようと試みたが、政治的に宮廷と対立していた高等法院は、王妃にとって都合の悪い判決を下した。1786年3月に下された判決は、ロアン無罪、ジャンヌ有罪というものであった。
著作[編集]
ジャンヌはロンドンに脱走した際に、「回想録」と首飾り事件のあらましについて書いた書籍を出版した。