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2014年02月08日
小麦粉
小麦粉(こむぎこ)とは、小麦を挽いて作られた粉。英語ではwheat flour(ウィート・フラワー)と呼ぶが、穀物の粉の中でも最も頻繁に用いられるため単にflourと呼ぶことが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 性質
3 種類 3.1 強力粉
3.2 中力粉
3.3 薄力粉
3.4 浮き粉
3.5 全粒粉 3.5.1 グラハム粉
3.6 セモリナ粉
4 等級
5 小麦粉を主成分とする調合原料
6 主に小麦粉を使って作る食品
7 歴史
8 メリケン粉とうどん粉の違い
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
小麦粉は7〜8割がデンプンだが、タンパク質も約1割含んでいる。主なタンパク質はグリアジンとグルテニンで、これらは水を吸収すると、粘りのあるグルテンとなる。このグルテンが小麦粉独特の料理を生み出し、様々な食品に生まれ変わる。このグルテンのみを取り出したものが、麩(ふ)である。
他の穀物と同様、小麦タンパクもヒトに不可欠な必須アミノ酸のいくつかが欠如もしくは不足しているため、小麦だけをタンパク源にするとさまざまな健康障害を引き起こす。それらは不足しているアミノ酸を別の食品から摂取することで解消できる。世界各地における小麦粉を主要な穀物源とする地域には古くからそのような健康障害を回避するための料理法や食材がある。
うどん粉、メリケン粉ともいう。メリケン粉は俗称であり、日本産の小麦を製粉したものをうどん粉、アメリカから輸入した小麦を製粉したものをメリケン粉と呼んでいた[3]。メリケンはアメリカン(American)のことで、英語発音がそう聞こえるためである。
小麦粉は小麦粒の胚乳の部分を挽いたものであるが、小麦粒の果皮や胚芽の部分はふすまとして取り除かれる。100kgの小麦粒からはおおよそ72〜75kgの小麦粉が得られる。胚乳部分のみを残し果皮や胚芽を完全に取り除くと真っ白で純粋な小麦粉が取れるが、パンに使用する場合、パンに風味を与えるために必ずしもふすま部分を完全に取り除いたものが良いとも限らない。素朴な味わい風味を出すために、小麦粒をふすまごと丸々挽いた全粒粉も用いられる[4]。
性質[編集]
カロチノイド色素により淡いクリーム色をしている[5]。粒子は直径150ミクロン以下と細かく、粉塵爆発のおそれもあるため東京都など一部の自治体では指定可燃物に規定している[6]。ほかの粉末と混ざりやすく、粉末調味料などを混ぜてプレミックスとしたり、ビタミンなどの添加に応用される。表面に水気を帯びたものに付着しやすく、ムニエルなどの衣や、麺類の打ち粉として使われる。匂いを吸着しやすく、香り付けの加工ができる反面、保管の仕方によっては異臭が付くことがある[5]。液体を加えることにより状態が変化し、小麦粉100に対し水60でパン生地、水45でうどん生地となる。こうした、こねることができる固めの生地をドウ(Dough)と総称する。小麦粉の2倍の水または卵を加えて混ぜた緩やかな生地はバッター(Batter)と呼び、天ぷらの衣やケーキに使われる。小麦粉の5~20倍の水を加えて加熱しながら混ぜると糊になる。合板の接着にも使われる。等級の低い末粉が適する。小麦粉と同量のバターとを共に炒るとルーとなり、ソースやシチューのとろみをつけるのに用いられる[5]。
種類[編集]
小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジン、グルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉に分類される。タンパク質分を除いた残渣を精製したものは浮き粉と呼ぶ。澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。
グルテンの量は品種の他に、開花期・収穫期に雨が降るかどうかによっても変動する。この時期に雨が多いと小麦はグルテンを形成しにくくなる為である。
強力粉[編集]
強力粉(きょうりきこ)はタンパク質の割合が12%以上のもので、パン・中華麺・学校給食で出てくるソフト麺等に使われる他、国産の一部乾燥パスタは粗挽きの強力粉を用いて作られる。主にアメリカ・カナダ産の硬質小麦(パンコムギ)を使用している。焼くと硬い仕上がりになるので洋菓子には向かない。英語圈の分類ではbread flourがこれに近い。
中力粉[編集]
中力粉(ちゅうりきこ)はタンパク質の割合が9%前後のものでうどんによく使われるほか、お好み焼き、たこ焼きなどに用いる。主にオーストラリア・国内産の中間質小麦を使用している。強力粉と薄力粉を混ぜれば性質は中間になるため中力粉の代用とすることができるが、本来の中力粉とは加工特性がやや異なるため工夫を要する。
薄力粉[編集]
薄力粉(はくりきこ)はタンパク質の割合が8.5%以下のものでケーキなどの菓子類・天ぷらに使われる。主にアメリカ産の軟質小麦を使用している。タンパク質の含有量を抑えれば抑えるほど繊細な仕上がりになるので、含有量を減らした、主に製菓に使われる超薄力粉も存在する。また、乾燥パスタ原料からの連想で誤解されがちなのであるが、卵を用いて生パスタを作る場合に使われるのは薄力粉である。英語圏の表記ではcake flourがこれに近い。
浮き粉[編集]
浮き粉(うきこ)は、小麦粉の生地から麩の原料としても使われるグルテンを分離した残りの澱粉分をいう。グルテンを分離するには、こねた生地を水につけて洗い流すのだが、この水に浸かっている状態では沈粉(じんこ)という。主に明石焼きや和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。
全粒粉[編集]
詳細は「全粒粉」を参照
「ぜんりゅうふん」。小麦の表皮、胚芽、胚乳をすべて粉にしたものである。精製された小麦粉に比べて食物繊維、ミネラル、ビタミンが豊富。主にパンやビスケット、シリアル食品の材料として用いられる。
グラハム粉[編集]
グラハム粉(グラハムこ、Graham flour)とは、全粒粉の一種。小麦を胚乳と表皮および胚芽に分けてから、胚乳は普通の小麦粉と同じ細かさに挽き、表皮と胚芽は粗挽きにして両方を混ぜ合わせたもの。全粒粉よりもざらざらしている。
セモリナ粉[編集]
詳細は「セモリナ」を参照
セモリナ粉(セモリナこ)とは、小麦粉より粒子の粗い(210μmの布ふるいに残留する)粉をいう[7]。セモリナ(Semolina)は英語であり、イタリア語のSemolaから由来している。Semolaはラテン語のSimila(穀粉)に由来する。クスクスなどを作るために使用されるデュラム粉から精製されており、蛋白質の量が強力粉よりも多く、グルテンが少ない。実際には乾燥パスタ、シリアル、プリンなどに使用されている。
等級[編集]
日本では、ミネラルの含有率により一等粉〜三等粉、末粉などの等級に分類される。等級が上位のものほどミネラル分が少なく、くすみの少ない淡いクリーム色をしている。種類と組み合わせて「強力一等粉」や「中力三等粉」のように表記される[5]。
小麦粉を主成分とする調合原料[編集]
作る料理によって、タンパク質の割合が適した小麦粉を選び、他の穀粉や膨らし粉、粉乳、ショートニング、調味料、香料、着色料などの原料を調合した商品(調製粉、プレミックス)が多種市販されている。
天ぷら粉
から揚げ粉
お好み焼きミックス粉
ホットケーキミックス
食パンミックス
蒸しパンミックス粉
スポンジケーキミックス粉
ドーナツミックス粉
主に小麦粉を使って作る食品[編集]
強力粉 パン、パン粉、ラーメン、ジャイアントクスクス
中力粉 うどん、素麺、冷や麦、お好み焼き、たこ焼き、餃子の皮
薄力粉 ホットケーキ、クッキー
浮き粉 明石焼き
全粒粉 パン、クッキー、ビスケット
セモリナ粉 パスタ、クスクス
パスタに使われる粉は粗挽きである。
その他、小麦粉を使って作る食品としては、饅頭、もんじゃ焼き、トルティーヤ、などがあるほか、餃子の皮やピザクラストにも小麦粉の生地を用いる。
麩は小麦グルテンを原料として作られ、焼麩の種類(車麩や庄内麩など)により異なる種類と等級の小麦粉が合わせ粉として使われる[8]。
歴史[編集]
日本では、戦後、食糧不足対策としてという名目ではあるが、アメリカの小麦戦略から余剰小麦粉を援助物資として供給されたことや学校給食でパン食が取り入れられたことなどから食習慣が広まった。
メリケン粉とうどん粉の違い[編集]
現在、日本では料理用として薄力粉(天ぷら粉など)が普及しているが、強力粉以外をうどん粉と呼ぶ場合が多い(中力粉または薄力粉の意味)。
目次 [非表示]
1 概要
2 性質
3 種類 3.1 強力粉
3.2 中力粉
3.3 薄力粉
3.4 浮き粉
3.5 全粒粉 3.5.1 グラハム粉
3.6 セモリナ粉
4 等級
5 小麦粉を主成分とする調合原料
6 主に小麦粉を使って作る食品
7 歴史
8 メリケン粉とうどん粉の違い
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
小麦粉は7〜8割がデンプンだが、タンパク質も約1割含んでいる。主なタンパク質はグリアジンとグルテニンで、これらは水を吸収すると、粘りのあるグルテンとなる。このグルテンが小麦粉独特の料理を生み出し、様々な食品に生まれ変わる。このグルテンのみを取り出したものが、麩(ふ)である。
他の穀物と同様、小麦タンパクもヒトに不可欠な必須アミノ酸のいくつかが欠如もしくは不足しているため、小麦だけをタンパク源にするとさまざまな健康障害を引き起こす。それらは不足しているアミノ酸を別の食品から摂取することで解消できる。世界各地における小麦粉を主要な穀物源とする地域には古くからそのような健康障害を回避するための料理法や食材がある。
うどん粉、メリケン粉ともいう。メリケン粉は俗称であり、日本産の小麦を製粉したものをうどん粉、アメリカから輸入した小麦を製粉したものをメリケン粉と呼んでいた[3]。メリケンはアメリカン(American)のことで、英語発音がそう聞こえるためである。
小麦粉は小麦粒の胚乳の部分を挽いたものであるが、小麦粒の果皮や胚芽の部分はふすまとして取り除かれる。100kgの小麦粒からはおおよそ72〜75kgの小麦粉が得られる。胚乳部分のみを残し果皮や胚芽を完全に取り除くと真っ白で純粋な小麦粉が取れるが、パンに使用する場合、パンに風味を与えるために必ずしもふすま部分を完全に取り除いたものが良いとも限らない。素朴な味わい風味を出すために、小麦粒をふすまごと丸々挽いた全粒粉も用いられる[4]。
性質[編集]
カロチノイド色素により淡いクリーム色をしている[5]。粒子は直径150ミクロン以下と細かく、粉塵爆発のおそれもあるため東京都など一部の自治体では指定可燃物に規定している[6]。ほかの粉末と混ざりやすく、粉末調味料などを混ぜてプレミックスとしたり、ビタミンなどの添加に応用される。表面に水気を帯びたものに付着しやすく、ムニエルなどの衣や、麺類の打ち粉として使われる。匂いを吸着しやすく、香り付けの加工ができる反面、保管の仕方によっては異臭が付くことがある[5]。液体を加えることにより状態が変化し、小麦粉100に対し水60でパン生地、水45でうどん生地となる。こうした、こねることができる固めの生地をドウ(Dough)と総称する。小麦粉の2倍の水または卵を加えて混ぜた緩やかな生地はバッター(Batter)と呼び、天ぷらの衣やケーキに使われる。小麦粉の5~20倍の水を加えて加熱しながら混ぜると糊になる。合板の接着にも使われる。等級の低い末粉が適する。小麦粉と同量のバターとを共に炒るとルーとなり、ソースやシチューのとろみをつけるのに用いられる[5]。
種類[編集]
小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジン、グルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉に分類される。タンパク質分を除いた残渣を精製したものは浮き粉と呼ぶ。澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。
グルテンの量は品種の他に、開花期・収穫期に雨が降るかどうかによっても変動する。この時期に雨が多いと小麦はグルテンを形成しにくくなる為である。
強力粉[編集]
強力粉(きょうりきこ)はタンパク質の割合が12%以上のもので、パン・中華麺・学校給食で出てくるソフト麺等に使われる他、国産の一部乾燥パスタは粗挽きの強力粉を用いて作られる。主にアメリカ・カナダ産の硬質小麦(パンコムギ)を使用している。焼くと硬い仕上がりになるので洋菓子には向かない。英語圈の分類ではbread flourがこれに近い。
中力粉[編集]
中力粉(ちゅうりきこ)はタンパク質の割合が9%前後のものでうどんによく使われるほか、お好み焼き、たこ焼きなどに用いる。主にオーストラリア・国内産の中間質小麦を使用している。強力粉と薄力粉を混ぜれば性質は中間になるため中力粉の代用とすることができるが、本来の中力粉とは加工特性がやや異なるため工夫を要する。
薄力粉[編集]
薄力粉(はくりきこ)はタンパク質の割合が8.5%以下のものでケーキなどの菓子類・天ぷらに使われる。主にアメリカ産の軟質小麦を使用している。タンパク質の含有量を抑えれば抑えるほど繊細な仕上がりになるので、含有量を減らした、主に製菓に使われる超薄力粉も存在する。また、乾燥パスタ原料からの連想で誤解されがちなのであるが、卵を用いて生パスタを作る場合に使われるのは薄力粉である。英語圏の表記ではcake flourがこれに近い。
浮き粉[編集]
浮き粉(うきこ)は、小麦粉の生地から麩の原料としても使われるグルテンを分離した残りの澱粉分をいう。グルテンを分離するには、こねた生地を水につけて洗い流すのだが、この水に浸かっている状態では沈粉(じんこ)という。主に明石焼きや和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。
全粒粉[編集]
詳細は「全粒粉」を参照
「ぜんりゅうふん」。小麦の表皮、胚芽、胚乳をすべて粉にしたものである。精製された小麦粉に比べて食物繊維、ミネラル、ビタミンが豊富。主にパンやビスケット、シリアル食品の材料として用いられる。
グラハム粉[編集]
グラハム粉(グラハムこ、Graham flour)とは、全粒粉の一種。小麦を胚乳と表皮および胚芽に分けてから、胚乳は普通の小麦粉と同じ細かさに挽き、表皮と胚芽は粗挽きにして両方を混ぜ合わせたもの。全粒粉よりもざらざらしている。
セモリナ粉[編集]
詳細は「セモリナ」を参照
セモリナ粉(セモリナこ)とは、小麦粉より粒子の粗い(210μmの布ふるいに残留する)粉をいう[7]。セモリナ(Semolina)は英語であり、イタリア語のSemolaから由来している。Semolaはラテン語のSimila(穀粉)に由来する。クスクスなどを作るために使用されるデュラム粉から精製されており、蛋白質の量が強力粉よりも多く、グルテンが少ない。実際には乾燥パスタ、シリアル、プリンなどに使用されている。
等級[編集]
日本では、ミネラルの含有率により一等粉〜三等粉、末粉などの等級に分類される。等級が上位のものほどミネラル分が少なく、くすみの少ない淡いクリーム色をしている。種類と組み合わせて「強力一等粉」や「中力三等粉」のように表記される[5]。
小麦粉を主成分とする調合原料[編集]
作る料理によって、タンパク質の割合が適した小麦粉を選び、他の穀粉や膨らし粉、粉乳、ショートニング、調味料、香料、着色料などの原料を調合した商品(調製粉、プレミックス)が多種市販されている。
天ぷら粉
から揚げ粉
お好み焼きミックス粉
ホットケーキミックス
食パンミックス
蒸しパンミックス粉
スポンジケーキミックス粉
ドーナツミックス粉
主に小麦粉を使って作る食品[編集]
強力粉 パン、パン粉、ラーメン、ジャイアントクスクス
中力粉 うどん、素麺、冷や麦、お好み焼き、たこ焼き、餃子の皮
薄力粉 ホットケーキ、クッキー
浮き粉 明石焼き
全粒粉 パン、クッキー、ビスケット
セモリナ粉 パスタ、クスクス
パスタに使われる粉は粗挽きである。
その他、小麦粉を使って作る食品としては、饅頭、もんじゃ焼き、トルティーヤ、などがあるほか、餃子の皮やピザクラストにも小麦粉の生地を用いる。
麩は小麦グルテンを原料として作られ、焼麩の種類(車麩や庄内麩など)により異なる種類と等級の小麦粉が合わせ粉として使われる[8]。
歴史[編集]
日本では、戦後、食糧不足対策としてという名目ではあるが、アメリカの小麦戦略から余剰小麦粉を援助物資として供給されたことや学校給食でパン食が取り入れられたことなどから食習慣が広まった。
メリケン粉とうどん粉の違い[編集]
現在、日本では料理用として薄力粉(天ぷら粉など)が普及しているが、強力粉以外をうどん粉と呼ぶ場合が多い(中力粉または薄力粉の意味)。
2014年02月07日
パン
パン(葡: pão)とは、小麦粉やライ麦粉などに水、酵母、塩などを加えて作った生地を発酵させた後に焼いた食品(発酵パン)。変種として、蒸したり、揚げたりするものもある。また、レーズン、ナッツなどを生地に練り込んだり、別の食材を生地で包んだり、生地に乗せて焼くものもある。生地を薄くのばして焼くパンや、ベーキングパウダーや重曹を添加して焼くパンの中には、酵母を添加せずに作られるもの(無発酵パン)も多い。これらは、多くの国で主食となっている。
日本語および朝鮮語・中国語での漢字表記は「麺麭」(繁体字:麵包、簡体字:面包)。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 表記・語源
1.2 日本
2 原料
3 種類と製法
4 製造工程の図解
5 製造と供給
6 種類(地域別) 6.1 フランス
6.2 ドイツ
6.3 イタリア
6.4 イギリス
6.5 その他のヨーロッパ地域
6.6 北アメリカ
6.7 中南米
6.8 インド・中近東
6.9 アフリカ
6.10 日本
6.11 中国
6.12 台湾
6.13 韓国
6.14 東南アジア
7 パンを利用した料理、再加工品
8 ホームベイク
9 日本におけるパン製品の表示
10 文化
11 脚注
12 参考文献
13 外部リンク
14 関連項目
歴史[編集]
ポンペイで出土したパン
中世のパン職人
日本に定着したパン販売店
(大阪市北区)
テル・アブ・フレイラ遺跡で最古の小麦とライ麦が発見されている。麦は外皮が固いため炒ったり、石で挽いて粉状にしたものに水を加えて煮て粥状にして食べ始めたと発掘物から推定される。また、チャタル・ヒュユク遺跡の後期において、パン小麦(寒暖に強いため広範囲で栽培でき、グルテンが多いため膨らますことができる)が発見されている。なお、パン小麦の親が二粒小麦(野生種同士の一粒小麦とクサビ小麦の子)と野生種のタルホ小麦であることを発見したのは木原均である[1]。
トゥワン遺跡(スイス)の下層(紀元前3830-3760)からは「人為的に発酵させた粥」が発見され、中層(紀元前3700-3600)からは「灰の下で焼いたパン」と「パン窯状設備で焼いたパン」が発見されている[2]。粥状のものを数日放置すると、天然の酵母菌や乳酸菌がとりつき、自然発酵をはじめ、サワードウができる。当初これは腐ったものとして捨てられていたが、捨てずに焼いたものが食べられるだけでなく、軟らかくなることに気付いたことから、現代につながる発酵パンが発明されたと考えられている。
パンは当初、大麦から作られることが多かったが、しだいに小麦でつくられることのほうが多くなった。古代エジプトではパンが盛んに作られており、給料や税金もパンによって支払われていた。発酵パンが誕生したのもこの時代のエジプトである。古代ローマ時代になると、パン屋や菓子パンも出現した。ポンペイから、当時のパン屋が発掘されている。すでに石でできた大型の碾臼(ひきうす)が使われていた。ポンペイで出土したパンとほぼ同一の製法・形のパンは現代でも近隣地方でつくられている。この時代から中世までは、パンの製法等には大きな変化はなかった。
ヨーロッパ中世においてはコムギのパンが最上級のパンとされたが、特に農民や都市下層住民はコムギに混ぜ物をしたパンやライ麦パンを食べることが多かった。飢饉の際にはさらに混ぜ物の量は多くなった。また、当時は大きな丸いパンを薄く切ったものをトランショワールと称して皿の代わりに使用していたことや、穀物以外の栄養源が不足していたこともあり、15世紀のフランス・オーヴェルニュの貴族はひとりあたり500sのパンを年間に消費していた[3]。このころにはすでに都市にはパン屋が成立していたが、都市の当局は住民の生活のためにパンの価格を一定に抑えるよう規制を敷いており、このためコムギなど原料の価格が高くなると価格は一定の代わりにパンの重さは軽くなっていったり混ぜ物が多くなったりした[4]。しかし、都市の当局は一般にパンの質に対しても厳しい規制を敷くのが常であった。パンは人々の生活に欠かせないものであり、パン屋のツンフトは肉屋とともに半ば公的な地位を持ち、大きな力を持つことが多かった。この場合のパン屋とは自ら粉を練りパンを焼き上げるまでを一貫して行うもののことで、市民が練った粉を持ち込んで、手間賃をもらってパンを焼くものとの間には明確な格差があった。農村においては領主の設置したパン焼き釜を領民は利用せねばならないという使用強制権が設定されていたが、のちには農村でもパン屋によってパンが焼かれるようになっていった[5]。
18世紀ごろからヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった[6]。その後、大型のオーブンの発明や製粉技術の発達により、大規模なパン製造業者が出現した。19世紀に入って微生物学の発達により酵母の存在が突き止められ、これを産業化して酵母から出芽酵母を単一培養したイーストを使うことができるようになった。また、酵母の代わりに重曹やベーキングパウダーで膨らませたパンも作られるようになったほか、現代では生地の発酵の管理にドゥコンディショナーを用いるなど発酵の技術の向上もみられる。
表記・語源[編集]
日本では、古くは「蒸餅」、「麦餅」、「麦麺」、「焙菱餅」[7]、「麺包」とも表記したが、現代日本語ではポルトガル語のパン(pão)に由来する「パン」という語を用い、片仮名表記するのが一般的である。フランス語(pain)やスペイン語(pan)でもパンと言い、イタリア語(pane)でパネという。これらはラテン語のパン、食料を意味する「panis:パニス」[8]を語源とした単語である[9]。また日本語を経由する形で、韓国より少々長く日本による統治を受けた台湾でも、台湾語、客家語などでパンと呼び、また、韓国でも、韓国語でパン(빵)と呼んでいるが、これも日本統治時代に日本語を経由して借用されたと考える説がある。
日本[編集]
「食パン」も参照
安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来した。しかし、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い。一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったと思われる。江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。
1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。 最初にパン(堅パン)を焼いた日本人は江戸時代の末の江川英龍とされる。江川は兵糧としてのパンの有用性に着目し、1842年4月12日に伊豆の韮山町の自宅でパン焼きかまどを作成し、パンの製造を開始した。このため、彼を日本のパン祖と呼ぶ[10]。明治時代に入ると文明開化の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、コメ志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられなかった。この状況が変化するのは、1874年に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明してからである。これは好評を博し、以後これに倣って次々と菓子パンが開発され、さらにその流れで惣菜パンも発達した。次いで、テオドール・ホフマンが桂弥一(軍人)にパン食を勧めて脚気が治り評判となり、脚気防止のためにパン食導入の流れができ、日本海軍では1890年(明治23年)2月12日の「海軍糧食条例」の公布によっていち早くパン食が奨励されていた(日本の脚気史 参照)。
第二次世界大戦後、学校給食が多くの学校で実施されるようになると、アメリカからの援助物資の小麦粉を使ってパンと脱脂粉乳の学校給食が開始され、これが日本におけるパンの大量流通のきっかけとなった。これにより、1955年以降、日本でのパン消費量は急増していった[11]。
現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方である[12]。日本におけるパンの年間生産量は、2005年には食パンが601552t、菓子パンが371629t、そのほかのパンが223344tとなっており、約半分を食パンが占めている。同年の1世帯当たりの年間パン購入量は食パン19216g、そのほかのパンが20725gである[13]。日本のパンの生産量は平成3年に119万3000t、平成23年に121万5000tと、年度ごとにやや増減があるものの総体としてはこの20年ほぼ横ばいが続いている[14]。しかし、主食であるコメの消費量が激減を続けていることから相対的にパンの比重が増加し、2011年度の総務省家計調査においては1世帯当たりのパンの購入金額が史上初めてコメを上回った[15]。
原料[編集]
米粉パンの一例
一般的に生地に用いられる穀物粉は次のようなものがある。
小麦粉
ライ麦粉
オオムギ粉
麦芽粉
トウモロコシ粉
エンバク粉
米粉
これらのうち、最も一般的なパン製造の材料は小麦粉である。これは、小麦粉の中にはグルテンが含まれるため、水を加えてこねることで粘りが出るうえ、酵母を使って発酵させると生地が膨らみ、柔らかく美味なパンが作れるからである。これに対し、オオムギやライムギといったほかの材料ではグルテンが形成されないため、パンは硬く重いものになる。ライムギの場合、グルテンがないため酵母で膨らませられず、乳酸菌主体のサワードウによって膨らませるが、小麦粉に比べて膨らみは悪く重いパンとなる。このほか、メキシコのトルティーヤのようにトウモロコシ粉を用いたり、ブラジルのポン・デ・ケイジョのキャッサバ粉、エチオピアのインジェラに用いるテフの粉など、世界各地では様々な独自の材料を用いている。近年では、日本において米の利用促進や製造技術の進歩により、米粉から作られる米粉パンの利用が増加している。
小麦粉には様々な種類があるが、パン作りに主に使用されるものは強力粉である。これは、強力粉にはグルテンが多く含まれるためよく膨らみ、ふっくらとしたパンを作ることができるためである。これに対し、あまり膨らませる必要がなくどっしりとしたフランスパンなどを作る際には、強力粉より1%ほどタンパク質の少ない準強力粉(フランス粉)が使用される。
酵母(イースト)、出芽酵母は、コムギによる発酵パンを作る際には必須の材料である。パン作りに使用される酵母は大きく分けて、工業生産された酵母と天然酵母とに分けられる。工業生産されたイーストは、生イースト、ドライイースト、インスタントドライイーストの3種からなる。生イーストは一週間ほどで使用期限が過ぎてしまうため、乾燥させて長期保存ができるようにしたドライイーストが作られ、さらに予備発酵過程が不要で直接粉に混ぜ込めるインスタントドライイーストが開発された。ライムギの場合には上記のように、天然酵母であるサワードウが使われる。天然酵母にはほかにもアンパンなどに使われるコメと麹で作る酒種や、ホップ種、ヨーグルト種、レーズン種など、様々な酵母が存在する[16]。また、スコーンなどのように発酵ではなくベーキングパウダーや重曹などの膨張剤を使って膨らませるクイックブレッドと呼ばれる種類もある。
上記の生地材料に、必要に応じて各種材料を加える。ほぼどのパンにも使用されるものは上記のほかには水と食塩のみであり、この主材料4種(穀物粉、酵母、水、食塩)のみで作られたもの、またはほかの副材料の配合が少ないものは「リーン」なパンと呼ばれ、余計な雑味が少なく穀物本来の味が生かされるために主に食事用のパンに用いられる。水は硬水よりも軟水のほうがパンが膨らみやすく良いとされる。塩には味を調えるほか、酵母の活動を遅らせたり、雑菌の活動を抑えたり、グルテンを強固にするなどの作用がある。
このほかの材料はパン作りに必須ではないが、パンの味や仕上がりに大きな影響を及ぼすため副材料としてよく使用される。砂糖、鶏卵、牛乳、バター、ラード、ショートニングなどが主に使われる副材料である。こうした副材料を多く配合したパンは「リッチ」なパンと呼ばれ、甘くふっくらと仕上がるため菓子パンなどに多く使用される。
また、大規模工場での製造によくつかわれる添加物として上記の他に炭酸水素ナトリウム、ソルビット、乳化剤、イーストフード、臭素酸カリウム、アスコルビン酸(ビタミンC)、グリシン、タンパク質(サケ白子由来、大豆由来、小麦由来など)、着色料、増粘多糖類などがある。
生地以外に、ナッツ類、ドライフルーツ、ジャム、肉類、チーズ、生クリーム、豆類、野菜類、各種調味料などを用いる場合もある。これらは主にパンにトッピングしたり具として中に入れて使用することが多い。
種類と製法[編集]
まずパンは、膨らませるものと膨らませないものとに大きく分けられる。膨らませないパンは平焼きパンや無発酵パンと呼ばれ、中東からインドにかけての地域で盛んに食べられている。膨らませるものは、酵母を使って発酵させるもの、種を使って発酵させるもの、発酵させず膨張剤を使うもの(クイックブレッド)の3種に分けられる。もっとも一般的なものは酵母を使って発酵させるコムギのパンである。
パン生地の作り方としてもっとも単純で古くからあるものは、材料をそのまま一度に混ぜ込んでこねる直捏ね法(ストレート法)であり、現在でも家庭でのパン作りにおいてはこの方法が主流である。これに対し、まず材料の70%程度を捏ねておいて発酵させ中種とし、それに残りの材料を混ぜ込んで作る中種法は、柔らかな生地ができるうえ調整がしやすく、大量生産に向いているため、大手のパン製造業者のほとんどが採用している。粉の20%から40%程度に同量の水と酵母を混ぜ込んでつくる液種法(水種法、ポーリッシュ法)や、一晩おいた中種を新しい生地の10%から20%混ぜて作る老麺法などの方法もある[17]。
一般的なパン作りの流れとしては、まず材料を混ぜ合わせ、捏ね上げて発酵させる。これを一次発酵と呼ぶ。中種法の場合はこのあと残りの材料を混ぜ込んでもう一度発酵させる。一次発酵が終わると、発酵したパン生地のガスを抜き、状態をととのえた後でもう一度発酵させる(二次発酵)。二次発酵後、生地を切り分けて丸め、いったん生地を寝かせ熟成させる。寝かせた生地は成形し、この過程で再びこれまでにたまったガスを抜いていく。パンの形が完成すると、もう一度最終的に発酵させ膨らませる。そして膨らんだ生地を焼き上げて、パンが完成する。
各国の食文化との関係で、それぞれの国において好まれるパンの傾向は異なる。まず、原材料である小麦の開花・収穫時期である5月から8月に雨が多く降るとグルテンの形成が悪くなる為、フランスなどこの時期に雨が降りやすい地域では柔らかいパンが作りづらいため固いパンが作られる。次に、ヨーロッパではパンは主食であり、日本でいうところの米飯の位置づけに近い。また、肉食が中心で硬い歯触りを好む傾向がある。そのため、あまり余計な味付けをせず小麦粉本来の味を重視し、柔らかなものより硬くどっしりしたものを好む傾向がある。一方日本においては、主食の地位には米飯があったため、主食としてよりも惣菜や菓子としてパンは主に発達した。主食として使用される食パンにおいても、米飯と同じように水分が多くやわらかなパンが好まれる傾向にある。[18]
製造工程の図解[編集]
パンのできるまでの一つの例を以下に図示する。
パンのできるまで
1. 酵母と生地を完全に混ぜ合わせる。
2. 生地からパン一個分を切り分け、形を整える。
3. 棚に生地を入れるためのバスケットを準備する。
4. バスケットに生地がくっつかないようにあらかじめ粉を振っておく。
5. 生地を粉を振ったバスケットに置く。
6. 生地を暖かな場所に置き発酵させる。
7. 生地に切れ込みを入れて成形し、発酵中にたまったガスを抜く。
8. 生地を焼き上げる準備が整う。
9. 生地をピールの上に乗せる。
10. 生地をオーブンの中に入れ、焼き上げる。
11. パンが完成する。
12. 棚の上において冷却する。
製造と供給[編集]
パンの市場規模は巨大なものであり、世界のかなりの国において製パン産業が成立している。大手食品企業による工業生産されたパンが大量に供給される一方、地域に密着した小規模なパン製造業者や、個人経営のベーカリーなど様々な種類の業者が存在する。
種類(地域別)[編集]
クロワッサン
ブリオッシュ
ブレーツェル
フォカッチャ
ロゼッタ
スコーン
デニッシュ
ベーグル
マッツァー
トルティーヤ
ポン・デ・ケイジョ
ナーン
あんパン
食パン
カレーパン
焼餅(シャオビン)
ポシュカル
菠蘿包(パイナップルパン)
ロティ・チャナイ
フランス[編集]
フランス
パン (Le pain, 400 g のパン、バゲットとともに最も一般的)
バゲット (La baguette, パンより細くて、250 g)
プティ・パン(プチパン)(petits pains, 12cmぐらいのミニバゲット)
ブール (La boule, 玉の形)
ミシュ (La miche, 1 kg)
フィセル (La ficelle)
バタール (Le bâtard, バゲットと同じ重さで、パンと同じ太さ)
エピ (L'épi)
パン・クーペ (Pain coupé)
パン・ド・ドゥ・リーヴル (Pain de deux livres)
パン・ド・ミー (Pain de mie, 食パン)
パン・ド・カンパーニュ (Pain de campagne)
パン・ド・セグル (Pain de seigle)
パリジャン (Le Parisien)
ファンデュ (Le fendu)
リュスティク (Pain rustique)
パン・オー・ルヴァン (Pain au levain)
パン・オ・ヌワ (Pain aux noix, くるみパン)
ピサラディエール (Pissaladière, プロヴァンス地方のピザ風のパン)
ヴィエノワズリ (Les viennoiseries, 菓子パン) クロワッサン (Le croissant)
ベニェ (Le beignet)
ショソン・オ・ポム (Le chausson aux pommes, りんごのショソン)
パン・オ・レ (Pain au lait)
パン・オ・ショコラ (Pain au chocolat)
ブリオッシュ (La brioche)
パン・オ・レザン (Le pain aux raisins)
ガレット・デ・ロワ (La galette des rois)
サヴァラン (Le savarin)
ババ (baba)
クイニーアマン (kouign amann)
ドイツ[編集]
ドイツ Brot
ヴァイツェンブロート (Weizenbrot)
キプフェル (Kipfel, Kipferl)
ブレートヒェン/ゼメル (Brötchen/Semmel)
ゾンタークスブロート (Sonntagsbrot)
ツォプフ (Zopf, ツォプ)
ブレーツェル (Brezel, プレッツェル)
ロゲンブロード (Roggenbrot)
プンパーニッケル (Pumpernickel)
ホルン (Horn, Hörnchen)
シュトレン (Stollen)
ミシュブロート (Mischbrot)
バウアーンブロート (Bauernbrot)
乾パン (Hartkeks)
キューヘレ Küchle – 小麦粉・塩・バター・酵母を混ぜ平らにし一晩寝かせ低温で揚げシナモン・粉砂糖をかけ完成となるバイエルン料理。
カイザーゼンメル (Kaisersemmel)
イタリア[編集]
イタリア
グリッシーニ (Grissini)
パネットーネ (Panettone)
フォッカッチャ (Foccaccia)
ロゼッタ (Rosetta)
ピザ (Pizza)
パーネ・カラザウ (Pane Carasau)
パンドーロ (Pandoro)
スフォリアテッレ (Sfogliatelle)
チャバッタ (Ciabatta)
イギリス[編集]
イギリス (Bread)
スコーン (Scone)
イングリッシュ・マフィン (English muffin)
ホットクロスバン (Hot cross bun)
ウェルシュケーキ (Welsh cake)
イングリッシュ・ブレッド (White bread, 食パン)
クランペット (Crumpet)
バノック (スコットランド、Bannock)
その他のヨーロッパ地域[編集]
デニッシュ(デンマーク)
クリングル(デンマーク、Kringle)
セムラ(スウェーデン)
クリスプ・ブレッド(北ヨーロッパ)
ババ(ロシア、ウクライナ、ポーランド)
ピロシキ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)
チェブレキ(クリミア)
ソーダブレッド(アイルランド)
ツレキ(ギリシャ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
クック・ド・ディナン(ベルギー - 小麦粉と蜂蜜が原料の壁紙に使われる長期保存用のパン)
ピサラディエール(モナコ–薄いパンに、ペースト状に炒めたたまねぎを乗せ、更にその上にアンチョビとブラックオリーブを乗せる)
エンパナーダ(スペイン)
北アメリカ[編集]
北アメリカ
ベーグル (bagel, 中欧起源)
ハッラー (challah, 中欧起源)
ビアリ (bialy, 中欧起源)
シナモンロール (Cinnamon Roll, 中・北欧起源)
ビスケット (biscuit, 英国起源)
スコーン (scone, 英国起源)
ピザ (pizza, イタリア起源)
コーンブレッド (cornbread)
トルティーヤ (tortilla)
マッツォ (matzo, 中欧起源)
フライブレッド (frybread)
マフィン (Muffin, 英国起源)
エンパナーダ(メキシコ)
アメリカ合衆国とカナダでは、イーストの代わりに重曹とベーキングパウダーで膨らませた、発酵いらずのパン(クイックブレッド)の種類が豊富である。
中南米[編集]
南アメリカ
ポン・デ・ケイジョ Pão de Queijo(ブラジル)
クニャペ Cuñape(ボリビア)
サルテーニャ Salteña(ボリビア)
アレパ Arepa(コロンビア、ベネズエラ)
エンパナーダ empanada(ほぼラテンアメリカ全域)
エンパーダ empada(ブラジル)
カリブ海諸国
ロティ Roti トリニダード・トバゴ
シリアン・ブレッド Syrian Bread ジャマイカ
インド・中近東[編集]
インド・中近東
ナーン Naan(インド、イラン、中央アジア)
チャパティ Chapati(インド、パキスタン、アフガニスタン)
プーリー Puri(インド、パキスタン)
パラーター Paratha(インド、パキスタン)
ロティ Roti(インド)
ピタパン Pita(中近東)
ホブズ Khubz(中近東)
ムタッバク Mutabbaq(サウジアラビア、イエメン)
ラホーハ Lahoh, Laxoox(イエメン、イスラエル)
チョレギ choreg(アルメニア - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ çörek(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
ハッラー Challah(イスラエル)
マッツァー Matzah(イスラエル)
アフリカ[編集]
アフリカ
インジェラ Injera(エチオピア、エリトリア)
ラホーハ Lahoh(ソマリア、ジブチ)
日本[編集]
ウィキメディア・コモンズには、日本のパンに関連するカテゴリがあります。
菓子パン あんパン
ジャムパン
メロンパン
クリームパン
チョコレートパン
レーズンパン
味噌パン
蒸しパン
コロネ
かにぱん
甘食
ぼうしパン
ウグイスパン
コッペパン
バターロール
食パン
米粉パン
乾パン
保存パン
堅パン
揚げパン カレーパン
中国[編集]
中国
饅頭(マントウ)、饃饃(モーモー)
焼餅(シャオビン)
油条(ヨウティアオ)
ポシュカル(ウイグル料理の揚げパン)
香港
パイナップルパン(ポーローパーウ)
台湾[編集]
台湾
太陽餅(タイヤンピン) (台中起源)
鳳梨酥(パイナップルケーキ) (台中起源)
胡椒餅(フージャオピン) (福州起源)
K糖糕(澎湖起源)
牛舌餅(鹿港・宜蘭起源)
韓国[編集]
韓国
ホットク
東南アジア[編集]
バインミー(ベトナム)
ムルタバッ Murtabak (マレーシア、インドネシア、タイ王国、シンガポール、ブルネイ)
ロティ Roti (マレーシア、シンガポール、タイ王国)
ロティ・ビリス Roti bilis (マレーシアの「イカン・ビリス」(サンバル風味の雑魚)入りパン。)
カヤ・ジャムパン Roti kaya (マレーシア、シンガポール、インドネシア。)
パンを利用した料理、再加工品[編集]
パニーノ
西多士(香港式フレンチトースト)
かつサンドトースト クロックムッシュ
クロックマダム
フレンチトースト Le pain perdu(パン・ペルデュ)(固くなったパンを利用して、卵、牛乳と砂糖を追加して、フライパンで焼く) トリハス
ハニートースト
ブレッドプディング
ラスク
パニーノ (Panino、Panini)
ハンバーガー
チビート
ホットドッグ
惣菜パン 焼きそばパン
コロッケパン
サラダパン
明太フレンチ
サンドイッチ クリームサンドパン
パニーニ
ハトシ
カナッペ
ギロピタ
タコス
ブリート
ガスパチョ
チーズフォンデュ
エッグベネディクト
ミガス
パン粉
ホームベイク[編集]
ホームベーカリーがなくても家で簡単に焼きたての味が味わえるパン、パート・ベイクド・ブレッド(part-baked bread)などもあり、半焼き状態で売っていて、オーブンでさらに焼いて食べる。
日本におけるパン製品の表示[編集]
農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)および「包装食パンの表示に関する公正競争規約」に基づき、表示が決められている。
JAS法では、原材料や製造方法に応じて「食パン」「菓子パン」「パン」の3つに区分される。さらに市販食パンについては、上記公正競争規約による表示内容が決められている。
文化[編集]
パンは世界の多くの地域で基本的な食料として重視されていたため、しばしば文化的に象徴性を持った。キリスト教やユダヤ教においては、特にパンは象徴として重要であり、宗教儀式に使用される。
キリスト教においてはパンはキリストの肉体、ワインはキリストの血を象徴するとされており、聖餐において重要な意味合いを持つ。聖餐は正教会では聖体礼儀、カトリック教会ではミサ、聖公会(アングリカン・チャーチ)やプロテスタントの一部では聖餐式という名で行われ、いずれも重要な意味を持つ。
ユダヤ教においては安息日やユダヤ教の祝祭日にのみ食されるハッラーと呼ばれるパンが作られている。
ローマ帝国においては社会保障の一環としてローマ市民権保有者のうちの貧困者にパンの原料となる穀物の無料給付が行われており、同じく為政者によって市民に無料で供給された剣闘士試合や戦車競走と並んで、市民を政治から遠ざけるものだとして同時代の詩人ユウェナリスが「パンとサーカス」という表現で批判した。この表現は21世紀の現代においても、為政者による人気取りや愚民政策を批判する語として存在している。
また、フランス革命時に王妃マリー・アントワネットが困窮する民衆に対し「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と発言したとされ、フランス革命時のエピソードとして非常によく引用されるものの、実際にアントワネットがこのような発言をしたという証拠は見つかっておらず、後世の挿話だとされている。
日本語および朝鮮語・中国語での漢字表記は「麺麭」(繁体字:麵包、簡体字:面包)。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 表記・語源
1.2 日本
2 原料
3 種類と製法
4 製造工程の図解
5 製造と供給
6 種類(地域別) 6.1 フランス
6.2 ドイツ
6.3 イタリア
6.4 イギリス
6.5 その他のヨーロッパ地域
6.6 北アメリカ
6.7 中南米
6.8 インド・中近東
6.9 アフリカ
6.10 日本
6.11 中国
6.12 台湾
6.13 韓国
6.14 東南アジア
7 パンを利用した料理、再加工品
8 ホームベイク
9 日本におけるパン製品の表示
10 文化
11 脚注
12 参考文献
13 外部リンク
14 関連項目
歴史[編集]
ポンペイで出土したパン
中世のパン職人
日本に定着したパン販売店
(大阪市北区)
テル・アブ・フレイラ遺跡で最古の小麦とライ麦が発見されている。麦は外皮が固いため炒ったり、石で挽いて粉状にしたものに水を加えて煮て粥状にして食べ始めたと発掘物から推定される。また、チャタル・ヒュユク遺跡の後期において、パン小麦(寒暖に強いため広範囲で栽培でき、グルテンが多いため膨らますことができる)が発見されている。なお、パン小麦の親が二粒小麦(野生種同士の一粒小麦とクサビ小麦の子)と野生種のタルホ小麦であることを発見したのは木原均である[1]。
トゥワン遺跡(スイス)の下層(紀元前3830-3760)からは「人為的に発酵させた粥」が発見され、中層(紀元前3700-3600)からは「灰の下で焼いたパン」と「パン窯状設備で焼いたパン」が発見されている[2]。粥状のものを数日放置すると、天然の酵母菌や乳酸菌がとりつき、自然発酵をはじめ、サワードウができる。当初これは腐ったものとして捨てられていたが、捨てずに焼いたものが食べられるだけでなく、軟らかくなることに気付いたことから、現代につながる発酵パンが発明されたと考えられている。
パンは当初、大麦から作られることが多かったが、しだいに小麦でつくられることのほうが多くなった。古代エジプトではパンが盛んに作られており、給料や税金もパンによって支払われていた。発酵パンが誕生したのもこの時代のエジプトである。古代ローマ時代になると、パン屋や菓子パンも出現した。ポンペイから、当時のパン屋が発掘されている。すでに石でできた大型の碾臼(ひきうす)が使われていた。ポンペイで出土したパンとほぼ同一の製法・形のパンは現代でも近隣地方でつくられている。この時代から中世までは、パンの製法等には大きな変化はなかった。
ヨーロッパ中世においてはコムギのパンが最上級のパンとされたが、特に農民や都市下層住民はコムギに混ぜ物をしたパンやライ麦パンを食べることが多かった。飢饉の際にはさらに混ぜ物の量は多くなった。また、当時は大きな丸いパンを薄く切ったものをトランショワールと称して皿の代わりに使用していたことや、穀物以外の栄養源が不足していたこともあり、15世紀のフランス・オーヴェルニュの貴族はひとりあたり500sのパンを年間に消費していた[3]。このころにはすでに都市にはパン屋が成立していたが、都市の当局は住民の生活のためにパンの価格を一定に抑えるよう規制を敷いており、このためコムギなど原料の価格が高くなると価格は一定の代わりにパンの重さは軽くなっていったり混ぜ物が多くなったりした[4]。しかし、都市の当局は一般にパンの質に対しても厳しい規制を敷くのが常であった。パンは人々の生活に欠かせないものであり、パン屋のツンフトは肉屋とともに半ば公的な地位を持ち、大きな力を持つことが多かった。この場合のパン屋とは自ら粉を練りパンを焼き上げるまでを一貫して行うもののことで、市民が練った粉を持ち込んで、手間賃をもらってパンを焼くものとの間には明確な格差があった。農村においては領主の設置したパン焼き釜を領民は利用せねばならないという使用強制権が設定されていたが、のちには農村でもパン屋によってパンが焼かれるようになっていった[5]。
18世紀ごろからヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった[6]。その後、大型のオーブンの発明や製粉技術の発達により、大規模なパン製造業者が出現した。19世紀に入って微生物学の発達により酵母の存在が突き止められ、これを産業化して酵母から出芽酵母を単一培養したイーストを使うことができるようになった。また、酵母の代わりに重曹やベーキングパウダーで膨らませたパンも作られるようになったほか、現代では生地の発酵の管理にドゥコンディショナーを用いるなど発酵の技術の向上もみられる。
表記・語源[編集]
日本では、古くは「蒸餅」、「麦餅」、「麦麺」、「焙菱餅」[7]、「麺包」とも表記したが、現代日本語ではポルトガル語のパン(pão)に由来する「パン」という語を用い、片仮名表記するのが一般的である。フランス語(pain)やスペイン語(pan)でもパンと言い、イタリア語(pane)でパネという。これらはラテン語のパン、食料を意味する「panis:パニス」[8]を語源とした単語である[9]。また日本語を経由する形で、韓国より少々長く日本による統治を受けた台湾でも、台湾語、客家語などでパンと呼び、また、韓国でも、韓国語でパン(빵)と呼んでいるが、これも日本統治時代に日本語を経由して借用されたと考える説がある。
日本[編集]
「食パン」も参照
安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来した。しかし、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い。一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったと思われる。江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。
1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。 最初にパン(堅パン)を焼いた日本人は江戸時代の末の江川英龍とされる。江川は兵糧としてのパンの有用性に着目し、1842年4月12日に伊豆の韮山町の自宅でパン焼きかまどを作成し、パンの製造を開始した。このため、彼を日本のパン祖と呼ぶ[10]。明治時代に入ると文明開化の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、コメ志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられなかった。この状況が変化するのは、1874年に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明してからである。これは好評を博し、以後これに倣って次々と菓子パンが開発され、さらにその流れで惣菜パンも発達した。次いで、テオドール・ホフマンが桂弥一(軍人)にパン食を勧めて脚気が治り評判となり、脚気防止のためにパン食導入の流れができ、日本海軍では1890年(明治23年)2月12日の「海軍糧食条例」の公布によっていち早くパン食が奨励されていた(日本の脚気史 参照)。
第二次世界大戦後、学校給食が多くの学校で実施されるようになると、アメリカからの援助物資の小麦粉を使ってパンと脱脂粉乳の学校給食が開始され、これが日本におけるパンの大量流通のきっかけとなった。これにより、1955年以降、日本でのパン消費量は急増していった[11]。
現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方である[12]。日本におけるパンの年間生産量は、2005年には食パンが601552t、菓子パンが371629t、そのほかのパンが223344tとなっており、約半分を食パンが占めている。同年の1世帯当たりの年間パン購入量は食パン19216g、そのほかのパンが20725gである[13]。日本のパンの生産量は平成3年に119万3000t、平成23年に121万5000tと、年度ごとにやや増減があるものの総体としてはこの20年ほぼ横ばいが続いている[14]。しかし、主食であるコメの消費量が激減を続けていることから相対的にパンの比重が増加し、2011年度の総務省家計調査においては1世帯当たりのパンの購入金額が史上初めてコメを上回った[15]。
原料[編集]
米粉パンの一例
一般的に生地に用いられる穀物粉は次のようなものがある。
小麦粉
ライ麦粉
オオムギ粉
麦芽粉
トウモロコシ粉
エンバク粉
米粉
これらのうち、最も一般的なパン製造の材料は小麦粉である。これは、小麦粉の中にはグルテンが含まれるため、水を加えてこねることで粘りが出るうえ、酵母を使って発酵させると生地が膨らみ、柔らかく美味なパンが作れるからである。これに対し、オオムギやライムギといったほかの材料ではグルテンが形成されないため、パンは硬く重いものになる。ライムギの場合、グルテンがないため酵母で膨らませられず、乳酸菌主体のサワードウによって膨らませるが、小麦粉に比べて膨らみは悪く重いパンとなる。このほか、メキシコのトルティーヤのようにトウモロコシ粉を用いたり、ブラジルのポン・デ・ケイジョのキャッサバ粉、エチオピアのインジェラに用いるテフの粉など、世界各地では様々な独自の材料を用いている。近年では、日本において米の利用促進や製造技術の進歩により、米粉から作られる米粉パンの利用が増加している。
小麦粉には様々な種類があるが、パン作りに主に使用されるものは強力粉である。これは、強力粉にはグルテンが多く含まれるためよく膨らみ、ふっくらとしたパンを作ることができるためである。これに対し、あまり膨らませる必要がなくどっしりとしたフランスパンなどを作る際には、強力粉より1%ほどタンパク質の少ない準強力粉(フランス粉)が使用される。
酵母(イースト)、出芽酵母は、コムギによる発酵パンを作る際には必須の材料である。パン作りに使用される酵母は大きく分けて、工業生産された酵母と天然酵母とに分けられる。工業生産されたイーストは、生イースト、ドライイースト、インスタントドライイーストの3種からなる。生イーストは一週間ほどで使用期限が過ぎてしまうため、乾燥させて長期保存ができるようにしたドライイーストが作られ、さらに予備発酵過程が不要で直接粉に混ぜ込めるインスタントドライイーストが開発された。ライムギの場合には上記のように、天然酵母であるサワードウが使われる。天然酵母にはほかにもアンパンなどに使われるコメと麹で作る酒種や、ホップ種、ヨーグルト種、レーズン種など、様々な酵母が存在する[16]。また、スコーンなどのように発酵ではなくベーキングパウダーや重曹などの膨張剤を使って膨らませるクイックブレッドと呼ばれる種類もある。
上記の生地材料に、必要に応じて各種材料を加える。ほぼどのパンにも使用されるものは上記のほかには水と食塩のみであり、この主材料4種(穀物粉、酵母、水、食塩)のみで作られたもの、またはほかの副材料の配合が少ないものは「リーン」なパンと呼ばれ、余計な雑味が少なく穀物本来の味が生かされるために主に食事用のパンに用いられる。水は硬水よりも軟水のほうがパンが膨らみやすく良いとされる。塩には味を調えるほか、酵母の活動を遅らせたり、雑菌の活動を抑えたり、グルテンを強固にするなどの作用がある。
このほかの材料はパン作りに必須ではないが、パンの味や仕上がりに大きな影響を及ぼすため副材料としてよく使用される。砂糖、鶏卵、牛乳、バター、ラード、ショートニングなどが主に使われる副材料である。こうした副材料を多く配合したパンは「リッチ」なパンと呼ばれ、甘くふっくらと仕上がるため菓子パンなどに多く使用される。
また、大規模工場での製造によくつかわれる添加物として上記の他に炭酸水素ナトリウム、ソルビット、乳化剤、イーストフード、臭素酸カリウム、アスコルビン酸(ビタミンC)、グリシン、タンパク質(サケ白子由来、大豆由来、小麦由来など)、着色料、増粘多糖類などがある。
生地以外に、ナッツ類、ドライフルーツ、ジャム、肉類、チーズ、生クリーム、豆類、野菜類、各種調味料などを用いる場合もある。これらは主にパンにトッピングしたり具として中に入れて使用することが多い。
種類と製法[編集]
まずパンは、膨らませるものと膨らませないものとに大きく分けられる。膨らませないパンは平焼きパンや無発酵パンと呼ばれ、中東からインドにかけての地域で盛んに食べられている。膨らませるものは、酵母を使って発酵させるもの、種を使って発酵させるもの、発酵させず膨張剤を使うもの(クイックブレッド)の3種に分けられる。もっとも一般的なものは酵母を使って発酵させるコムギのパンである。
パン生地の作り方としてもっとも単純で古くからあるものは、材料をそのまま一度に混ぜ込んでこねる直捏ね法(ストレート法)であり、現在でも家庭でのパン作りにおいてはこの方法が主流である。これに対し、まず材料の70%程度を捏ねておいて発酵させ中種とし、それに残りの材料を混ぜ込んで作る中種法は、柔らかな生地ができるうえ調整がしやすく、大量生産に向いているため、大手のパン製造業者のほとんどが採用している。粉の20%から40%程度に同量の水と酵母を混ぜ込んでつくる液種法(水種法、ポーリッシュ法)や、一晩おいた中種を新しい生地の10%から20%混ぜて作る老麺法などの方法もある[17]。
一般的なパン作りの流れとしては、まず材料を混ぜ合わせ、捏ね上げて発酵させる。これを一次発酵と呼ぶ。中種法の場合はこのあと残りの材料を混ぜ込んでもう一度発酵させる。一次発酵が終わると、発酵したパン生地のガスを抜き、状態をととのえた後でもう一度発酵させる(二次発酵)。二次発酵後、生地を切り分けて丸め、いったん生地を寝かせ熟成させる。寝かせた生地は成形し、この過程で再びこれまでにたまったガスを抜いていく。パンの形が完成すると、もう一度最終的に発酵させ膨らませる。そして膨らんだ生地を焼き上げて、パンが完成する。
各国の食文化との関係で、それぞれの国において好まれるパンの傾向は異なる。まず、原材料である小麦の開花・収穫時期である5月から8月に雨が多く降るとグルテンの形成が悪くなる為、フランスなどこの時期に雨が降りやすい地域では柔らかいパンが作りづらいため固いパンが作られる。次に、ヨーロッパではパンは主食であり、日本でいうところの米飯の位置づけに近い。また、肉食が中心で硬い歯触りを好む傾向がある。そのため、あまり余計な味付けをせず小麦粉本来の味を重視し、柔らかなものより硬くどっしりしたものを好む傾向がある。一方日本においては、主食の地位には米飯があったため、主食としてよりも惣菜や菓子としてパンは主に発達した。主食として使用される食パンにおいても、米飯と同じように水分が多くやわらかなパンが好まれる傾向にある。[18]
製造工程の図解[編集]
パンのできるまでの一つの例を以下に図示する。
パンのできるまで
1. 酵母と生地を完全に混ぜ合わせる。
2. 生地からパン一個分を切り分け、形を整える。
3. 棚に生地を入れるためのバスケットを準備する。
4. バスケットに生地がくっつかないようにあらかじめ粉を振っておく。
5. 生地を粉を振ったバスケットに置く。
6. 生地を暖かな場所に置き発酵させる。
7. 生地に切れ込みを入れて成形し、発酵中にたまったガスを抜く。
8. 生地を焼き上げる準備が整う。
9. 生地をピールの上に乗せる。
10. 生地をオーブンの中に入れ、焼き上げる。
11. パンが完成する。
12. 棚の上において冷却する。
製造と供給[編集]
パンの市場規模は巨大なものであり、世界のかなりの国において製パン産業が成立している。大手食品企業による工業生産されたパンが大量に供給される一方、地域に密着した小規模なパン製造業者や、個人経営のベーカリーなど様々な種類の業者が存在する。
種類(地域別)[編集]
クロワッサン
ブリオッシュ
ブレーツェル
フォカッチャ
ロゼッタ
スコーン
デニッシュ
ベーグル
マッツァー
トルティーヤ
ポン・デ・ケイジョ
ナーン
あんパン
食パン
カレーパン
焼餅(シャオビン)
ポシュカル
菠蘿包(パイナップルパン)
ロティ・チャナイ
フランス[編集]
フランス
パン (Le pain, 400 g のパン、バゲットとともに最も一般的)
バゲット (La baguette, パンより細くて、250 g)
プティ・パン(プチパン)(petits pains, 12cmぐらいのミニバゲット)
ブール (La boule, 玉の形)
ミシュ (La miche, 1 kg)
フィセル (La ficelle)
バタール (Le bâtard, バゲットと同じ重さで、パンと同じ太さ)
エピ (L'épi)
パン・クーペ (Pain coupé)
パン・ド・ドゥ・リーヴル (Pain de deux livres)
パン・ド・ミー (Pain de mie, 食パン)
パン・ド・カンパーニュ (Pain de campagne)
パン・ド・セグル (Pain de seigle)
パリジャン (Le Parisien)
ファンデュ (Le fendu)
リュスティク (Pain rustique)
パン・オー・ルヴァン (Pain au levain)
パン・オ・ヌワ (Pain aux noix, くるみパン)
ピサラディエール (Pissaladière, プロヴァンス地方のピザ風のパン)
ヴィエノワズリ (Les viennoiseries, 菓子パン) クロワッサン (Le croissant)
ベニェ (Le beignet)
ショソン・オ・ポム (Le chausson aux pommes, りんごのショソン)
パン・オ・レ (Pain au lait)
パン・オ・ショコラ (Pain au chocolat)
ブリオッシュ (La brioche)
パン・オ・レザン (Le pain aux raisins)
ガレット・デ・ロワ (La galette des rois)
サヴァラン (Le savarin)
ババ (baba)
クイニーアマン (kouign amann)
ドイツ[編集]
ドイツ Brot
ヴァイツェンブロート (Weizenbrot)
キプフェル (Kipfel, Kipferl)
ブレートヒェン/ゼメル (Brötchen/Semmel)
ゾンタークスブロート (Sonntagsbrot)
ツォプフ (Zopf, ツォプ)
ブレーツェル (Brezel, プレッツェル)
ロゲンブロード (Roggenbrot)
プンパーニッケル (Pumpernickel)
ホルン (Horn, Hörnchen)
シュトレン (Stollen)
ミシュブロート (Mischbrot)
バウアーンブロート (Bauernbrot)
乾パン (Hartkeks)
キューヘレ Küchle – 小麦粉・塩・バター・酵母を混ぜ平らにし一晩寝かせ低温で揚げシナモン・粉砂糖をかけ完成となるバイエルン料理。
カイザーゼンメル (Kaisersemmel)
イタリア[編集]
イタリア
グリッシーニ (Grissini)
パネットーネ (Panettone)
フォッカッチャ (Foccaccia)
ロゼッタ (Rosetta)
ピザ (Pizza)
パーネ・カラザウ (Pane Carasau)
パンドーロ (Pandoro)
スフォリアテッレ (Sfogliatelle)
チャバッタ (Ciabatta)
イギリス[編集]
イギリス (Bread)
スコーン (Scone)
イングリッシュ・マフィン (English muffin)
ホットクロスバン (Hot cross bun)
ウェルシュケーキ (Welsh cake)
イングリッシュ・ブレッド (White bread, 食パン)
クランペット (Crumpet)
バノック (スコットランド、Bannock)
その他のヨーロッパ地域[編集]
デニッシュ(デンマーク)
クリングル(デンマーク、Kringle)
セムラ(スウェーデン)
クリスプ・ブレッド(北ヨーロッパ)
ババ(ロシア、ウクライナ、ポーランド)
ピロシキ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)
チェブレキ(クリミア)
ソーダブレッド(アイルランド)
ツレキ(ギリシャ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
クック・ド・ディナン(ベルギー - 小麦粉と蜂蜜が原料の壁紙に使われる長期保存用のパン)
ピサラディエール(モナコ–薄いパンに、ペースト状に炒めたたまねぎを乗せ、更にその上にアンチョビとブラックオリーブを乗せる)
エンパナーダ(スペイン)
北アメリカ[編集]
北アメリカ
ベーグル (bagel, 中欧起源)
ハッラー (challah, 中欧起源)
ビアリ (bialy, 中欧起源)
シナモンロール (Cinnamon Roll, 中・北欧起源)
ビスケット (biscuit, 英国起源)
スコーン (scone, 英国起源)
ピザ (pizza, イタリア起源)
コーンブレッド (cornbread)
トルティーヤ (tortilla)
マッツォ (matzo, 中欧起源)
フライブレッド (frybread)
マフィン (Muffin, 英国起源)
エンパナーダ(メキシコ)
アメリカ合衆国とカナダでは、イーストの代わりに重曹とベーキングパウダーで膨らませた、発酵いらずのパン(クイックブレッド)の種類が豊富である。
中南米[編集]
南アメリカ
ポン・デ・ケイジョ Pão de Queijo(ブラジル)
クニャペ Cuñape(ボリビア)
サルテーニャ Salteña(ボリビア)
アレパ Arepa(コロンビア、ベネズエラ)
エンパナーダ empanada(ほぼラテンアメリカ全域)
エンパーダ empada(ブラジル)
カリブ海諸国
ロティ Roti トリニダード・トバゴ
シリアン・ブレッド Syrian Bread ジャマイカ
インド・中近東[編集]
インド・中近東
ナーン Naan(インド、イラン、中央アジア)
チャパティ Chapati(インド、パキスタン、アフガニスタン)
プーリー Puri(インド、パキスタン)
パラーター Paratha(インド、パキスタン)
ロティ Roti(インド)
ピタパン Pita(中近東)
ホブズ Khubz(中近東)
ムタッバク Mutabbaq(サウジアラビア、イエメン)
ラホーハ Lahoh, Laxoox(イエメン、イスラエル)
チョレギ choreg(アルメニア - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ çörek(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
ハッラー Challah(イスラエル)
マッツァー Matzah(イスラエル)
アフリカ[編集]
アフリカ
インジェラ Injera(エチオピア、エリトリア)
ラホーハ Lahoh(ソマリア、ジブチ)
日本[編集]
ウィキメディア・コモンズには、日本のパンに関連するカテゴリがあります。
菓子パン あんパン
ジャムパン
メロンパン
クリームパン
チョコレートパン
レーズンパン
味噌パン
蒸しパン
コロネ
かにぱん
甘食
ぼうしパン
ウグイスパン
コッペパン
バターロール
食パン
米粉パン
乾パン
保存パン
堅パン
揚げパン カレーパン
中国[編集]
中国
饅頭(マントウ)、饃饃(モーモー)
焼餅(シャオビン)
油条(ヨウティアオ)
ポシュカル(ウイグル料理の揚げパン)
香港
パイナップルパン(ポーローパーウ)
台湾[編集]
台湾
太陽餅(タイヤンピン) (台中起源)
鳳梨酥(パイナップルケーキ) (台中起源)
胡椒餅(フージャオピン) (福州起源)
K糖糕(澎湖起源)
牛舌餅(鹿港・宜蘭起源)
韓国[編集]
韓国
ホットク
東南アジア[編集]
バインミー(ベトナム)
ムルタバッ Murtabak (マレーシア、インドネシア、タイ王国、シンガポール、ブルネイ)
ロティ Roti (マレーシア、シンガポール、タイ王国)
ロティ・ビリス Roti bilis (マレーシアの「イカン・ビリス」(サンバル風味の雑魚)入りパン。)
カヤ・ジャムパン Roti kaya (マレーシア、シンガポール、インドネシア。)
パンを利用した料理、再加工品[編集]
パニーノ
西多士(香港式フレンチトースト)
かつサンドトースト クロックムッシュ
クロックマダム
フレンチトースト Le pain perdu(パン・ペルデュ)(固くなったパンを利用して、卵、牛乳と砂糖を追加して、フライパンで焼く) トリハス
ハニートースト
ブレッドプディング
ラスク
パニーノ (Panino、Panini)
ハンバーガー
チビート
ホットドッグ
惣菜パン 焼きそばパン
コロッケパン
サラダパン
明太フレンチ
サンドイッチ クリームサンドパン
パニーニ
ハトシ
カナッペ
ギロピタ
タコス
ブリート
ガスパチョ
チーズフォンデュ
エッグベネディクト
ミガス
パン粉
ホームベイク[編集]
ホームベーカリーがなくても家で簡単に焼きたての味が味わえるパン、パート・ベイクド・ブレッド(part-baked bread)などもあり、半焼き状態で売っていて、オーブンでさらに焼いて食べる。
日本におけるパン製品の表示[編集]
農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)および「包装食パンの表示に関する公正競争規約」に基づき、表示が決められている。
JAS法では、原材料や製造方法に応じて「食パン」「菓子パン」「パン」の3つに区分される。さらに市販食パンについては、上記公正競争規約による表示内容が決められている。
文化[編集]
パンは世界の多くの地域で基本的な食料として重視されていたため、しばしば文化的に象徴性を持った。キリスト教やユダヤ教においては、特にパンは象徴として重要であり、宗教儀式に使用される。
キリスト教においてはパンはキリストの肉体、ワインはキリストの血を象徴するとされており、聖餐において重要な意味合いを持つ。聖餐は正教会では聖体礼儀、カトリック教会ではミサ、聖公会(アングリカン・チャーチ)やプロテスタントの一部では聖餐式という名で行われ、いずれも重要な意味を持つ。
ユダヤ教においては安息日やユダヤ教の祝祭日にのみ食されるハッラーと呼ばれるパンが作られている。
ローマ帝国においては社会保障の一環としてローマ市民権保有者のうちの貧困者にパンの原料となる穀物の無料給付が行われており、同じく為政者によって市民に無料で供給された剣闘士試合や戦車競走と並んで、市民を政治から遠ざけるものだとして同時代の詩人ユウェナリスが「パンとサーカス」という表現で批判した。この表現は21世紀の現代においても、為政者による人気取りや愚民政策を批判する語として存在している。
また、フランス革命時に王妃マリー・アントワネットが困窮する民衆に対し「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と発言したとされ、フランス革命時のエピソードとして非常によく引用されるものの、実際にアントワネットがこのような発言をしたという証拠は見つかっておらず、後世の挿話だとされている。
う〜・・・
寒いなぁ。。。
明日は雪が降るらしいですねーー;
家から出たくないです。。。。
今日、ベーキングパウダー買ってきました^^
今度パンをつく手見ようと思って
ここのブログで写真張り付けられるのかな?
出来たら載せてみたいです♪
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フランシスコ・フランコ
フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。ガリシア出身。
一般には、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco、IPA : [fɾan'θisko 'fɾaŋko])として知られる。フルネームはフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde)。称号は「カウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de España)」。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 軍人として
1.2 スペイン内戦
1.3 総統就任
1.4 スペイン統一
1.5 第二次世界大戦 1.5.1 枢軸国寄りの「中立」
1.5.2 連合国への傾斜
1.6 独裁者フランコ
1.7 後継者指名と王政の復活
2 フランコ没後のスペイン 2.1 王政復古と民主化
2.2 クーデター未遂事件
2.3 歴史の記憶法
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
6 関連項目
生涯[編集]
軍人として[編集]
フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の造船と海軍基地の町フェロルの軍人の子として生まれた[1]。1907年8月15歳の時トレドの陸軍士官学校に入学し、卒業は18歳で少尉となった。母を人生の師としていた。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(第三次リーフ戦争を参照)の鎮圧に当たった。フランコは現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。
1931年、スペインではボルボン王朝が倒されて第二共和政が成立し、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネラル・ストライキを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により翌1935年、陸軍参謀総長に任命された。
スペイン内戦[編集]
以前は「スペイン内乱」と呼ばれていたが、スペインを代表する正統な政権が転覆している事や、反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在では「スペイン内戦」の呼称がより一般的である。
1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派として知られたフランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主や資本家、カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。
同年7月にスペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。反乱軍の中心人物は当初ホセ・サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍などであり、フランコは反乱側の一将軍でしかなかった。初戦に反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラが飛行機の墜落で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。
総統就任[編集]
1936年10月1日にブルゴスにおいて、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官に指名され、国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官としてGeneralísimo(ヘネラリシモ、総帥と訳される)、国家元首としてCaudillo(カウディーリョ、総統と訳される)の称号を用いた。
また、フランコは総統就任以来、仮政府としてブルゴスに「国家行政委員会」を設置していたが、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相となった。
スペイン統一[編集]
その後フランコは、ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。
なおフランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、ドイツ軍やイタリア軍、そして政府からの強力な支援を受ける国民戦線軍に対する劣勢は覆せなかった。
最終的にフランコ率いる国民戦線軍は1939年3月27日にマドリードを陥落させて人民戦線政府を倒し、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコ総統は内戦終結宣言を発した。これにより数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦による国土の荒廃は著しかった。フランコは統一されたスペインの国家元首(総統)となり、同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
第二次世界大戦[編集]
枢軸国寄りの「中立」[編集]
「第二次世界大戦下のスペイン」も参照
妻とともに地方視察を行うフランコ(1940年)
ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940年)
スペイン内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[2]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄し、非交戦(en:Non-belligerent)を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジールに侵攻し、11月これをスペイン・モロッコ領として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、英国降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。同時に独英休戦の仲介をすることで、ジブラルタルと北アフリカの領土要求をドイツに認めさせようとしたのだが、ドイツの反応は冷淡だった[3]。
ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月、スペイン内戦時代からの盟友であるナチス指導者でドイツ総統アドルフ・ヒトラーと、ヴィシー政権が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイエで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。ヒトラーはスペインの領土要求をヴィシーフランスを考慮すると、仏領北アフリカの大幅割譲はできないとしながら、対英戦後の英国植民地処理でスペインに代償が与えられるので領土調整は可能と述べた。フランコはこの時ヒトラーが要求した英領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、独伊鋼鉄同盟参加と将来的な日独伊三国同盟への参加を約束し、条件として軍事・経済の「莫大な戦略物資」を要求しつつ、参戦の意思を宣誓した[4]。しかし、英国本土航空戦や地中海戦線特にギリシャ戦線での英国有利な状況と経済的な英米との依存関係はフランコの参戦意欲を減退させ、翌年にフランコはこの合意を無効とし[5]、その後も参戦要求をかわし続けた。
一方でヒトラーがソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦を発動すると、国中の熱狂的なファシスト一万人近くを集め青師団を創設し、義勇兵部隊として、ドイツに送り込んでいる。(国内には、ドイツ・イタリアに共感する参戦推進派も存在し、それはフランコから見れば中立政策や国内の安定を危うくしかねない不穏分子とも言えた。その為、両国の好感を得、かつそうした反動分子を一掃する方法として、青の師団創設・派遣は一石二鳥であった。[6])さらに内戦の経緯もあって、ソ連を仇敵と見なす国内世論とこれまでの自身の言動を無視できない面や内戦期におけるドイツ援助への返礼的意味合いもあった。
1941年の真珠湾攻撃後には日本に祝電を送り、アメリカの不興を買った[7]。一方でスペインの旧植民地で権益が存在したフィリピンに日本軍が進攻すると、かつての植民地であるフィリピンに残る利権の扱いを巡り両国間で軋轢が生まれた[8]。
連合国への傾斜[編集]
しかし、1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から批判が集まり、対してフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらにアジア太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、現地スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した[9]。
フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。『世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である』とし、ドイツ、アメリカ、イギリスを含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。フランコはこの考えにそって連合国とドイツの講和調停を行った[10]。
なおこの工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった[11]。また、ヨーロッパ及びアフリカ戦線においてドイツやイタリアの劣勢が決定的となり、またアジア太平洋戦線においても日本軍が劣勢の色を見せ始めていた1943年7月28日にアメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインのアメリカ大使ヘイズ(en:Carlton J. H. Hayes)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている[12]。しかし連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった[13][14]。
結果としてスペインは、第二次世界大戦中において「中立国」として振る舞うことにより、自国及び植民地の戦禍を完全に免れたが、その風見鶏的な態度は連合国、特にアメリカに不信感を植え付けることとなった[15]。
独裁者フランコ[編集]
フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、フランコ率いるスペインとの関係の修復を模索し始めた。
アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領とともに(1959年)
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。
また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。
その後フランコは、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一方では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対して「バスク祖国と自由」(ETA)によるテロなどが活発化した。
後継者指名と王政の復活[編集]
スペイン総統としてフランコに与えられた紋章
「スペイン国 (1939年-1975年)」も参照
フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[16]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。
1947年に、フランコ総統は「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの息子に自らの地位を継がせ、カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが、これらの意見は王制移行を希望するフランコにより否定された。
最終的にフランコは、前国王アルフォンソ13世の孫でフアン・デ・ボルボンの息子であるフアン・カルロスを1969年に自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。長い闘病生活の末に1975年に83歳で没した。
フランコ没後のスペイン[編集]
王政復古と民主化[編集]
戦没者の谷にあるフランコの墓
ヨーロッパにおいてドイツとイタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のルイス・カレーロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAによるテロで乗っていた自動車ごとブランコが爆殺され、この計画は頓挫した。
1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は、即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり、1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれた。
クーデター未遂事件[編集]
また、1981年2月23日に発生した軍部右派のアントニオ・テヘーロ中佐によるクーデター未遂事件「23-F」では、国王親裁の復活を求める軍部右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は軍部右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
歴史の記憶法[編集]
2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura(内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法)」通称「Ley de Memoria Histórica(歴史の記憶法)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。
2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタザール・ガルソン(英語版)予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、国民戦線軍によって住民が虐殺されるなどの「人道に対する罪」「戦争犯罪」が行われたとして、スペイン全土に1400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下で行われた犯罪はすべて許されるという立場を示し、対立が起きた。
10月17日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人を「人道に対する罪」等で起訴した。[17]
11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[18]。
アムネスティは、内戦中及びフランコ政権下で市民11万4千人が殺害若しくは行方不明になっているとして、スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている。
なお、スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデール市の広場の7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[19]。
一般には、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco、IPA : [fɾan'θisko 'fɾaŋko])として知られる。フルネームはフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde)。称号は「カウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de España)」。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 軍人として
1.2 スペイン内戦
1.3 総統就任
1.4 スペイン統一
1.5 第二次世界大戦 1.5.1 枢軸国寄りの「中立」
1.5.2 連合国への傾斜
1.6 独裁者フランコ
1.7 後継者指名と王政の復活
2 フランコ没後のスペイン 2.1 王政復古と民主化
2.2 クーデター未遂事件
2.3 歴史の記憶法
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
6 関連項目
生涯[編集]
軍人として[編集]
フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の造船と海軍基地の町フェロルの軍人の子として生まれた[1]。1907年8月15歳の時トレドの陸軍士官学校に入学し、卒業は18歳で少尉となった。母を人生の師としていた。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(第三次リーフ戦争を参照)の鎮圧に当たった。フランコは現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。
1931年、スペインではボルボン王朝が倒されて第二共和政が成立し、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネラル・ストライキを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により翌1935年、陸軍参謀総長に任命された。
スペイン内戦[編集]
以前は「スペイン内乱」と呼ばれていたが、スペインを代表する正統な政権が転覆している事や、反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在では「スペイン内戦」の呼称がより一般的である。
1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派として知られたフランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主や資本家、カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。
同年7月にスペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。反乱軍の中心人物は当初ホセ・サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍などであり、フランコは反乱側の一将軍でしかなかった。初戦に反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラが飛行機の墜落で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。
総統就任[編集]
1936年10月1日にブルゴスにおいて、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官に指名され、国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官としてGeneralísimo(ヘネラリシモ、総帥と訳される)、国家元首としてCaudillo(カウディーリョ、総統と訳される)の称号を用いた。
また、フランコは総統就任以来、仮政府としてブルゴスに「国家行政委員会」を設置していたが、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相となった。
スペイン統一[編集]
その後フランコは、ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。
なおフランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、ドイツ軍やイタリア軍、そして政府からの強力な支援を受ける国民戦線軍に対する劣勢は覆せなかった。
最終的にフランコ率いる国民戦線軍は1939年3月27日にマドリードを陥落させて人民戦線政府を倒し、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコ総統は内戦終結宣言を発した。これにより数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦による国土の荒廃は著しかった。フランコは統一されたスペインの国家元首(総統)となり、同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
第二次世界大戦[編集]
枢軸国寄りの「中立」[編集]
「第二次世界大戦下のスペイン」も参照
妻とともに地方視察を行うフランコ(1940年)
ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940年)
スペイン内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[2]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄し、非交戦(en:Non-belligerent)を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジールに侵攻し、11月これをスペイン・モロッコ領として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、英国降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。同時に独英休戦の仲介をすることで、ジブラルタルと北アフリカの領土要求をドイツに認めさせようとしたのだが、ドイツの反応は冷淡だった[3]。
ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月、スペイン内戦時代からの盟友であるナチス指導者でドイツ総統アドルフ・ヒトラーと、ヴィシー政権が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイエで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。ヒトラーはスペインの領土要求をヴィシーフランスを考慮すると、仏領北アフリカの大幅割譲はできないとしながら、対英戦後の英国植民地処理でスペインに代償が与えられるので領土調整は可能と述べた。フランコはこの時ヒトラーが要求した英領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、独伊鋼鉄同盟参加と将来的な日独伊三国同盟への参加を約束し、条件として軍事・経済の「莫大な戦略物資」を要求しつつ、参戦の意思を宣誓した[4]。しかし、英国本土航空戦や地中海戦線特にギリシャ戦線での英国有利な状況と経済的な英米との依存関係はフランコの参戦意欲を減退させ、翌年にフランコはこの合意を無効とし[5]、その後も参戦要求をかわし続けた。
一方でヒトラーがソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦を発動すると、国中の熱狂的なファシスト一万人近くを集め青師団を創設し、義勇兵部隊として、ドイツに送り込んでいる。(国内には、ドイツ・イタリアに共感する参戦推進派も存在し、それはフランコから見れば中立政策や国内の安定を危うくしかねない不穏分子とも言えた。その為、両国の好感を得、かつそうした反動分子を一掃する方法として、青の師団創設・派遣は一石二鳥であった。[6])さらに内戦の経緯もあって、ソ連を仇敵と見なす国内世論とこれまでの自身の言動を無視できない面や内戦期におけるドイツ援助への返礼的意味合いもあった。
1941年の真珠湾攻撃後には日本に祝電を送り、アメリカの不興を買った[7]。一方でスペインの旧植民地で権益が存在したフィリピンに日本軍が進攻すると、かつての植民地であるフィリピンに残る利権の扱いを巡り両国間で軋轢が生まれた[8]。
連合国への傾斜[編集]
しかし、1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から批判が集まり、対してフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらにアジア太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、現地スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した[9]。
フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。『世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である』とし、ドイツ、アメリカ、イギリスを含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。フランコはこの考えにそって連合国とドイツの講和調停を行った[10]。
なおこの工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった[11]。また、ヨーロッパ及びアフリカ戦線においてドイツやイタリアの劣勢が決定的となり、またアジア太平洋戦線においても日本軍が劣勢の色を見せ始めていた1943年7月28日にアメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインのアメリカ大使ヘイズ(en:Carlton J. H. Hayes)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている[12]。しかし連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった[13][14]。
結果としてスペインは、第二次世界大戦中において「中立国」として振る舞うことにより、自国及び植民地の戦禍を完全に免れたが、その風見鶏的な態度は連合国、特にアメリカに不信感を植え付けることとなった[15]。
独裁者フランコ[編集]
フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、フランコ率いるスペインとの関係の修復を模索し始めた。
アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領とともに(1959年)
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。
また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。
その後フランコは、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一方では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対して「バスク祖国と自由」(ETA)によるテロなどが活発化した。
後継者指名と王政の復活[編集]
スペイン総統としてフランコに与えられた紋章
「スペイン国 (1939年-1975年)」も参照
フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[16]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。
1947年に、フランコ総統は「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの息子に自らの地位を継がせ、カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが、これらの意見は王制移行を希望するフランコにより否定された。
最終的にフランコは、前国王アルフォンソ13世の孫でフアン・デ・ボルボンの息子であるフアン・カルロスを1969年に自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。長い闘病生活の末に1975年に83歳で没した。
フランコ没後のスペイン[編集]
王政復古と民主化[編集]
戦没者の谷にあるフランコの墓
ヨーロッパにおいてドイツとイタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のルイス・カレーロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAによるテロで乗っていた自動車ごとブランコが爆殺され、この計画は頓挫した。
1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は、即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり、1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれた。
クーデター未遂事件[編集]
また、1981年2月23日に発生した軍部右派のアントニオ・テヘーロ中佐によるクーデター未遂事件「23-F」では、国王親裁の復活を求める軍部右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は軍部右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
歴史の記憶法[編集]
2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura(内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法)」通称「Ley de Memoria Histórica(歴史の記憶法)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。
2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタザール・ガルソン(英語版)予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、国民戦線軍によって住民が虐殺されるなどの「人道に対する罪」「戦争犯罪」が行われたとして、スペイン全土に1400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下で行われた犯罪はすべて許されるという立場を示し、対立が起きた。
10月17日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人を「人道に対する罪」等で起訴した。[17]
11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[18]。
アムネスティは、内戦中及びフランコ政権下で市民11万4千人が殺害若しくは行方不明になっているとして、スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている。
なお、スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデール市の広場の7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[19]。
コンドル軍団
コンドル軍団(独:Legion Condor[* 1])は、ナチス政権下のドイツからスペイン内戦に派遣されたドイツ国防軍による遠征軍。ドイツ空軍を主体に、少数の陸海軍部隊を加え組織されたコンドル軍団は、1936年から1939年まで義勇兵の名目でフランシスコ・フランコの国民戦線軍を支援した。ドイツ語のLegion レギオーンは、直訳すると義勇軍や傭兵部隊、外人部隊の意味となる。
目次 [非表示]
1 概要
2 第二次世界大戦への影響
3 第二次世界大戦後の対応
4 編成(1936年11月時点)
5 人物
6 脚注 6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
概要[編集]
コンドル軍団とHe111爆撃機(1939年)
コンドル軍団仕様のBf109C
1936年7月、スペイン本土とモロッコで軍隊による軍事蜂起が発生、フランシスコ・フランコが反乱軍(国民戦線軍)の総司令官となり、スペイン内戦に突入した。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは国民戦線軍の支援を決定し、早くも8月には最初の航空部隊を北アフリカへ派遣した。増援は続々と到着し、11月にはコンドル軍団として正式に編成された。フーゴ・シュペルレ少将が司令官を務め、100機の航空機と約5,000人の兵員によって構成されていた。内戦の終結までに延べ15,000人から20,000人がコンドル軍団に参加した。ドイツは対外的には内戦への不干渉を表明していたが、アドルフ・ヒトラーは「ボルシェビズムに対する闘争」の一部であると主張し、介入を正当化した。
スペイン内戦はドイツにとって新兵器や新戦術の格好の実験場となった。メッサーシュミット Bf 109戦闘機、ハインケル He 111爆撃機、ユンカース Ju 87急降下爆撃機は、コンドル軍団で初めて実戦投入された。これらの機体はおおむね良好な成績を収め、特に戦闘機隊ではヴェルナー・メルダースのようなエース・パイロットも誕生した[* 2]。露呈した問題点を改良された新兵器は、続く第二次世界大戦で大々的に投入されることとなった。ただし新兵器のみを投入したのではなく、旧式の複葉機ハインケル He 51を、初期は戦闘機として、後期は対地攻撃機や練習機として使用するなどもしていた[* 3]。
コンドル軍団には航空部隊以外の部隊も所属していた。陸軍は1937年1月からヴィルヘルム・フォン・トーマ中佐の指揮するイムカー戦闘団 (Kampfgruppe "Imker") を派遣した[* 4]。イムカー戦闘団は、約100両のI号戦車を装備した三個戦車中隊を基幹に編成されていた。海軍は数十人の将校と専門家からなるチームを派遣した。彼ら陸海軍将兵は、実戦に参加するとともに国民戦線軍の訓練を指導した。また、8.8cm高射砲が初めて配備され、これは対空のみならず、対戦車、対陣地に極めて有効であることがわかった。
1937年4月26日、コンドル軍団とイタリア空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃した。これはその後の第二次世界大戦でしばしば見られる都市に対する無差別爆撃の初期の例であった。わずかに24機の爆撃機(He111:2機・Do 17:1機・Ju 52:18機・SM.79:3機)による空襲であったにもかかわらず、市街の60%から70%が破壊された。死傷者の詳細は現在においても不明である。フランコ政権下で発刊された新聞「アリーバ」の1970年1月30日付けの記事では、死傷者はわずか12人に過ぎないとした。一方でバスク亡命政府は1650人が死亡し、889人が負傷したと主張した。近年の研究では確実な死者は250人から300人とされている。
画家のパブロ・ピカソは、ゲルニカ爆撃を題材とした大作壁画「ゲルニカ」を書き上げた。この作品は大きな反響を呼び、爆撃に対して国際的な非難が浴びせられることとなった。フランスに亡命していたドイツ人作家ハインリヒ・マンは「ドイツの兵士よ! 悪党が君らをスペインに送っている!」というスローガンを打ち出して介入を非難した。
1939年4月1日、フランコが勝利宣言を出し、スペイン内戦はほぼ終結した。
第二次世界大戦への影響[編集]
コンドル軍団は順次ドイツへ帰還し、同年6月6日にはベルリンで凱旋式典が行われた。スペイン内戦で経験を積んだ熟練パイロットたちは、その後のポーランド侵攻やフランス侵攻において空軍の中核となって活躍した。また、支援を受けたフランコは代償としてドイツに兵力を提供し、スペイン人からなる青師団(独:Blaue Division)が編成された。青師団は主に東部戦線におけるソヴィエト連邦との作戦に従事した(もっともフランコが行った見返りはその程度であり、第二次大世界大戦ではドイツの要請をかわし続け、絶えず日和見的な中立を保ち、ヒトラーを憤慨させた)。
第二次世界大戦後の対応[編集]
1998年4月、ドイツ連邦議会は名誉剥奪法を制定し、連邦軍組織の名称からコンドル軍団関係者の名を外すことを議決した。2005年1月、同法に基づきペーター・シュトルック国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪した。それに伴い、ドイツ連邦空軍の第74戦闘航空団(Jagdgeschwader 74:JG74)の部隊名に継承されたメルダースの名は抹消された。100人以上の退役軍人らが、この決定に抗議した[10]。
編成(1936年11月時点)[編集]
司令官 - フーゴ・シュペルレ少将
S/88(参謀本部)
J/88(第88戦闘飛行隊) - He 51装備の四個中隊(48機)
K/88(第88爆撃飛行隊) - Ju 52装備の四個中隊(48機)
A/88(第88偵察飛行隊) - 以下の四個飛行中隊 He 70 装備の三個長距離偵察中隊(18機)
He 45 装備の一個短距離偵察中隊(6機)
AS/88(第88海上偵察飛行隊) - 以下の二個中隊 He 59 装備の一個偵察中隊(10機)
He 60 装備の一個偵察中隊(6機)
LN/88(第88航空情報大隊) - 二個中隊
F/88(第88高射砲兵大隊) - 以下の六個中隊 8.8cm 高射砲装備の四個中隊(16門)
2.0cm 高射砲装備の二個中隊(20門)
P/88(第88整備大隊) - 二個中隊
人物[編集]
アドルフ・ガーランド
フーゴ・シュペルレ
オスカール・ディルレヴァンガー
ヴィルヘルム・フォン・トーマ
ハヨ・ヘルマン
ヴェルナー・メルダース
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
ギュンター・リュッツオウ
蒋緯国(訓練生として参加)
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1 概要
2 第二次世界大戦への影響
3 第二次世界大戦後の対応
4 編成(1936年11月時点)
5 人物
6 脚注 6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
概要[編集]
コンドル軍団とHe111爆撃機(1939年)
コンドル軍団仕様のBf109C
1936年7月、スペイン本土とモロッコで軍隊による軍事蜂起が発生、フランシスコ・フランコが反乱軍(国民戦線軍)の総司令官となり、スペイン内戦に突入した。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは国民戦線軍の支援を決定し、早くも8月には最初の航空部隊を北アフリカへ派遣した。増援は続々と到着し、11月にはコンドル軍団として正式に編成された。フーゴ・シュペルレ少将が司令官を務め、100機の航空機と約5,000人の兵員によって構成されていた。内戦の終結までに延べ15,000人から20,000人がコンドル軍団に参加した。ドイツは対外的には内戦への不干渉を表明していたが、アドルフ・ヒトラーは「ボルシェビズムに対する闘争」の一部であると主張し、介入を正当化した。
スペイン内戦はドイツにとって新兵器や新戦術の格好の実験場となった。メッサーシュミット Bf 109戦闘機、ハインケル He 111爆撃機、ユンカース Ju 87急降下爆撃機は、コンドル軍団で初めて実戦投入された。これらの機体はおおむね良好な成績を収め、特に戦闘機隊ではヴェルナー・メルダースのようなエース・パイロットも誕生した[* 2]。露呈した問題点を改良された新兵器は、続く第二次世界大戦で大々的に投入されることとなった。ただし新兵器のみを投入したのではなく、旧式の複葉機ハインケル He 51を、初期は戦闘機として、後期は対地攻撃機や練習機として使用するなどもしていた[* 3]。
コンドル軍団には航空部隊以外の部隊も所属していた。陸軍は1937年1月からヴィルヘルム・フォン・トーマ中佐の指揮するイムカー戦闘団 (Kampfgruppe "Imker") を派遣した[* 4]。イムカー戦闘団は、約100両のI号戦車を装備した三個戦車中隊を基幹に編成されていた。海軍は数十人の将校と専門家からなるチームを派遣した。彼ら陸海軍将兵は、実戦に参加するとともに国民戦線軍の訓練を指導した。また、8.8cm高射砲が初めて配備され、これは対空のみならず、対戦車、対陣地に極めて有効であることがわかった。
1937年4月26日、コンドル軍団とイタリア空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃した。これはその後の第二次世界大戦でしばしば見られる都市に対する無差別爆撃の初期の例であった。わずかに24機の爆撃機(He111:2機・Do 17:1機・Ju 52:18機・SM.79:3機)による空襲であったにもかかわらず、市街の60%から70%が破壊された。死傷者の詳細は現在においても不明である。フランコ政権下で発刊された新聞「アリーバ」の1970年1月30日付けの記事では、死傷者はわずか12人に過ぎないとした。一方でバスク亡命政府は1650人が死亡し、889人が負傷したと主張した。近年の研究では確実な死者は250人から300人とされている。
画家のパブロ・ピカソは、ゲルニカ爆撃を題材とした大作壁画「ゲルニカ」を書き上げた。この作品は大きな反響を呼び、爆撃に対して国際的な非難が浴びせられることとなった。フランスに亡命していたドイツ人作家ハインリヒ・マンは「ドイツの兵士よ! 悪党が君らをスペインに送っている!」というスローガンを打ち出して介入を非難した。
1939年4月1日、フランコが勝利宣言を出し、スペイン内戦はほぼ終結した。
第二次世界大戦への影響[編集]
コンドル軍団は順次ドイツへ帰還し、同年6月6日にはベルリンで凱旋式典が行われた。スペイン内戦で経験を積んだ熟練パイロットたちは、その後のポーランド侵攻やフランス侵攻において空軍の中核となって活躍した。また、支援を受けたフランコは代償としてドイツに兵力を提供し、スペイン人からなる青師団(独:Blaue Division)が編成された。青師団は主に東部戦線におけるソヴィエト連邦との作戦に従事した(もっともフランコが行った見返りはその程度であり、第二次大世界大戦ではドイツの要請をかわし続け、絶えず日和見的な中立を保ち、ヒトラーを憤慨させた)。
第二次世界大戦後の対応[編集]
1998年4月、ドイツ連邦議会は名誉剥奪法を制定し、連邦軍組織の名称からコンドル軍団関係者の名を外すことを議決した。2005年1月、同法に基づきペーター・シュトルック国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪した。それに伴い、ドイツ連邦空軍の第74戦闘航空団(Jagdgeschwader 74:JG74)の部隊名に継承されたメルダースの名は抹消された。100人以上の退役軍人らが、この決定に抗議した[10]。
編成(1936年11月時点)[編集]
司令官 - フーゴ・シュペルレ少将
S/88(参謀本部)
J/88(第88戦闘飛行隊) - He 51装備の四個中隊(48機)
K/88(第88爆撃飛行隊) - Ju 52装備の四個中隊(48機)
A/88(第88偵察飛行隊) - 以下の四個飛行中隊 He 70 装備の三個長距離偵察中隊(18機)
He 45 装備の一個短距離偵察中隊(6機)
AS/88(第88海上偵察飛行隊) - 以下の二個中隊 He 59 装備の一個偵察中隊(10機)
He 60 装備の一個偵察中隊(6機)
LN/88(第88航空情報大隊) - 二個中隊
F/88(第88高射砲兵大隊) - 以下の六個中隊 8.8cm 高射砲装備の四個中隊(16門)
2.0cm 高射砲装備の二個中隊(20門)
P/88(第88整備大隊) - 二個中隊
人物[編集]
アドルフ・ガーランド
フーゴ・シュペルレ
オスカール・ディルレヴァンガー
ヴィルヘルム・フォン・トーマ
ハヨ・ヘルマン
ヴェルナー・メルダース
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
ギュンター・リュッツオウ
蒋緯国(訓練生として参加)
テルエルの戦い
テルエルの戦いは、スペイン内戦中の1937年12月から1938年2月にかけてテルエルの都市内外で行われた戦闘であり、スペイン内戦中で最も多くの血が流れた戦闘の内の1つである。テルエルは冬季の寒さが厳しい土地柄であり、テルエルの戦いの年はここ20年で最も過酷な冬であった[9]。テルエルの町は初め反乱軍(フランコ軍)が守備に当たっていたが共和国軍によって占領され、最終的に反乱軍が再奪還した。戦闘中にテルエルの町は砲撃や空爆を受け、およそ2カ月間の戦闘で反乱軍と共和国軍合わせて140,000人の死傷者が出た。テルエルの再奪還によって反乱軍は人員と資材の面で共和国軍に対して優位に立つこととなり[10]、テルエルの戦いはスペイン内戦の趨勢を決定付ける戦いの一つとなった[9]。
目次 [非表示]
1 背景 1.1 地形
1.2 兵力
2 戦闘 2.1 共和国軍の前進と包囲
2.2 反乱軍による救援
2.3 反乱軍の反撃
3 影響
4 死傷者
5 著名人
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク
背景[編集]
共和国がテルエルを攻めるという決断を下した理由として、いくつかの戦略的な状況が挙げられる。1937年までに反乱軍の支配下となっていたテルエルは共和国領に食い込んだ突出部となっており、共和国領の内陸部とバレンシア沿岸部との連絡線がテルエルによって分断された状態になっていた。そのため、共和国がテルエルを占領することは内陸部と沿岸部の連絡線を短縮することを意味していた[11]。また、3方向から共和国の領域に囲まれていたテルエルを反乱軍が保持しているということが、アラゴン戦線における反乱軍の勢力の象徴にもなっていた[12]。共和国の内部事情としては、共和国軍の再編を主導した国防相のインダレシオ・プリエート(英語版)が、自身の国防相としての実績を上げるために彼が再編した軍が有効に機能して華々しい勝利を収めることを望んでいたという事情もあった[13]。さらに、共和国政府首相のフアン・ネグリン(英語版)はカタルーニャの産業を労働者から接収したいと考えており、彼もまたテルエルへの攻撃を支持した。共和国軍の指導者たちは、反乱軍によるテルエルの占有は強固なものではなく、共和国軍がテルエルを占領したとしても反乱軍は積極的に奪還しようとはしないだろうと考えていた。そのような状況の中で、共和国の情報部は、フランコが12月18日にグアダラハラ区域のマドリードに対して大規模な攻撃を行うつもりであるという情報を掴んだため、共和国に反乱軍の注意をマドリードから逸らせる必要が生じたことが最後の一押しとなった。それらの結果、共和国軍は12月15日にテルエルにおける戦いを開始した[13]。
地形[編集]
詳細は「テルエル」を参照
アラゴン州南部に位置する人口20,000人[14]の町であるテルエルは「テルエルの恋人(英語版)」の悲劇的伝説で有名な[14]、荒涼とした岩壁に囲まれたテルエル県の県都であった。テルエルはトゥリア川とアルファンブラ川の合流地点よりもさらに上流、高さ3050 フィートの山の高台に位置しているため[15]、例年冬の気温がスペインで最も低い都市だった。テルエルは県都としてはスペインの最も奥地に位置しており、険しい渓谷、歯のような形をした山頂、湾曲した尾根といった険しい地形に囲まれた自然の要塞だった[15]。周囲の交通としては町の西にあるコンクー村周辺の平坦な丘をカタラユー高速が通っていたが、それもテルエルからはおよそ3マイルほど離れていた[16]。テルエルの歯 (La Muela de Teruel)として知られるテルエル西方に位置する峰がテルエル攻防の鍵となった[14]。テルエルは共和国支配地域へと突き出た位置にあったため、防衛ポイントはあらかじめ用意された塹壕と鉄条網によって強化されていた。1170年にも、テルエルはレコンキスタで交戦中だったムーア人とキリスト教国の状況を和らげるために要塞化されており、テルエルが要塞化されることで内陸部と沿岸部が隔てられるという状況は、スペイン内戦における1937年の共和党が置かれた状況と同一であった[17]。
兵力[編集]
共和党軍は、軍をほとんど一から再編成したフアン・エルナンデス・サラビア(英語版)の指揮下にあった[18]。サラビアの指揮下にいた指揮官の一人に共産党指導者のエンリケ・リステルがおり、彼はテルエル攻撃の先発隊として師団を率いた[19]。テルエルに対する襲撃は多国籍部隊であった国際旅団の援助なしに、全てスペイン人によって実行された。レバンテ(バレンシア沿岸)の共和国軍は、東部の軍によって支援された攻撃の主要部分を指揮することになっていた。共和国軍は全兵力として100,000人を有していた[20]。
レイ・ダルクール(英語版)大佐は戦闘開始時のテルエルにおける反乱軍の指揮官であった[21]。テルエル突出部を防衛する反乱軍は一般人を含めておよそ9,500人の戦力であった。攻撃が開始された後、最終的にダルクールは町を守るため、残った兵をテルエルの駐屯軍へと統合した。テルエルに配備されていた反乱軍の数は2,000人から6,000人の間で様々な見積もりがされている[22]。駐屯軍は恐らくはおよそ4,000人であり、その半数が一般人であったともいわれる[23]。
戦闘[編集]
地図の赤い線は戦闘開始時の前線を、紫の線は共和国軍がテルエルを包囲した12月20日の前線を、緑の線は戦闘終了時の前線をそれぞれ示している。テルエルの西に位置するLa Muela(テルエルの歯)に注目のこと。
1937年12月15日、リステルが指揮する共和国軍の師団は降雪の中、空襲や砲撃による予備攻撃なしにテルエルへの攻撃を開始した。リステルおよび、彼の同僚の指揮官であるエンリケ・フェルナンデス・ヘレディア大佐は町を包囲するために移動した。彼らはすぐさまテルエルの歯に対峙する陣地を敷き、夕方までには町の包囲を完了した[24]。レイ・ダルクールは彼の率いる部隊を直ちに町へと引き下げ、12月17日までにテルエルの歯における足場の維持を断念した[24]。反乱軍の指揮官のフランシスコ・フランコは、12月23日にやっとテルエルへ援軍を送る決定を下した。フランコは敵への譲歩はしないという決心のもとで県都が共和党軍の手に落ちてはならないということを方針として決定したが、それは政治的な失敗であった[25]。フランコはちょうどグアダラハラで大きな攻撃を始めたところであり、テルエルを救援するということはグアダラハラにおける攻撃の多くを断念しなければならないことを意味しており、同盟国であるイタリアおよびドイツの不興を買うことにもなった。反乱軍がテルエルへ救援を送るということはまた、フランコが戦争を終わらせるための決定的な一打についての構想を断念したということをも意味し、武器と外国からの援助の影響力が勝敗を左右する長い消耗戦へと突入することをフランコが容認していたということもまた示していた[26]。
共和国軍の前進と包囲[編集]
12月21日までに、共和国軍はテルエルの町へと進軍した。アーネスト・ヘミングウェイおよび2人の記者、ニューヨークタイムスの通信員であったハーバート・マシューズ(英語版)はテルエルを襲撃する軍隊に同行した[27]。反乱軍の指揮官レイ・ダルクールは最後の抵抗(英語版)のための体勢を取ることが可能だった町の南部地域へと彼の持つ残りの守備隊を引き上げた。クリスマスまでに反乱軍は、民政長官ビル、スペイン銀行、サンタ・クララ修道院および神学校の4つの要所をまだ占拠していた。共和国のバルセロナ・ラジオはテルエルが陥落したと発表したが、ダルクールおよび4,000人の守備隊の生き残りたちはまだ抵抗していた[28]。建物から建物へと接近戦を伴う包囲が続けられた。共和党軍は大砲で建物へと激しく砲撃した後、銃剣突撃を行った。
反乱軍による救援[編集]
フランコは12月23日のグアダラハラ攻撃を取りやめたが、救援軍は12月29日まで攻撃を開始することができなかった。フランコは、どんな犠牲を払ってでも死守するようにダルクールにメッセージを送るので精いっぱいだった[29]。一方、共和国軍はひどい悪天候の中で攻撃を強行した。反乱軍の攻撃は、経験豊富な将校アントニオ・アランダ(英語版)とホセ・エンリケ・バレーラ(英語版)の指揮の下でドイツ遠征軍であるコンドル軍団による支援を受けつつ、予定通り12月29日に行動を開始した。反乱軍は最大限の努力で大晦日までにテルエルの歯を抑え[28]、闘牛場と駅を占領するため町へと侵攻した。しかしながら、反乱軍は町の中で前進し続けることはできなかった[30]。その後、4日間の吹雪とともに天候が悪化し、雪は4フィートも降り積もり気温はマイナス18度まで下がった。銃や機械は凍結して使い物にならなくなり地上戦は停止し、軍は凍傷によってひどく苦しんだ。反乱軍は防寒着を持っていなかったため寒さに苦しみ、凍傷による手足の切断も多く行われた。
フランコは兵と兵器を送り続け、戦いの流れは徐々に変わり始めた。共和党軍は包囲を強行し、1938年の元日までには修道院の守備兵は死亡していた。1月3日には民政長官ビルも陥落したが、それでもダルクールは戦い続けた。アーネスト・ヘミングウェイは民政長官ビルの陥落の場に居合わせた。共和国軍とテルエル守備隊は互いに建物の異なる階から床の穴を通じて発砲し合った。その時、守備隊は水をまったく持たず、医薬品や食料もほとんど持っていなかったが、死骸の山を築きながらも抵抗した。悪天候のために反乱軍の援軍は進軍が遅れ、1月8日、ダルクールと彼のそばにいたテルエルのローマカトリック司教はついに降伏した[31]。後に共和党は、スペイン内戦最後の行為として、アンセルモ・ポランコやテルエル司教を含む42人の捕虜とともにダルクールを殺害した[32]。ダルクールの降伏後テルエルの一般人たちは立ち退かされ、テルエルを陥落させた共和党軍は逆に反乱軍に包囲される側となった[33]。
反乱軍の反撃[編集]
ダルクールが降参した後、反乱軍の増援の情報が共和国軍へ伝わり始めた。天候が回復し、1938年1月17日から反乱軍は新たに進軍を始めた。共和国側の指導者はテルエルの戦いをスペイン人のみでの遂行することをついに諦め、19日からの戦闘に加わるように国際旅団に命令した[34]。これらの部隊の多くは戦地にはあったが予備部隊であったため、有名人や政治家はこの間に戦地訪問して国際旅団の部隊を歓待した。アメリカの共産主義の歌手ポール・ロブスンはクリスマスイブに戦地訪問し、「インターナショナル」を含み「Ol' Man River」で終わる演奏曲目で歌を披露した[35]。後にイギリスの首相となる労働党の左翼政治家クレメント・アトリー、後に労働党の官僚となるエレン・ウィルキンソン(英語版)、外交官であるフィリップ・ノエル=ベーカーはイギリスの部隊を訪問した[36]。
両軍の最高司令官はその時、戦場近くの暖房の効いた列車の中から軍隊を指揮していた。ゆっくりと、しかし確実に反乱軍は進軍し、テルエルの歯は反乱軍の手によって陥落した。1月25日から3日間に渡って反乱軍は激しい反撃を開始したが進撃は一時的なものだった。2月7日にようやく、反乱軍はテルエル北部からの攻撃を開始した(アルファンブラの戦い)。ほとんどの共和国軍がテルエル南部に集中していたため北部の防備は薄くなっていた。騎兵大隊の突撃は共和国軍の防御を乱し、追い散らした。騎馬大隊の活躍は第二次世界大戦におけるカスピ海での1、2の例外を除き、戦争史上これが最後だった。反乱軍を率いるアランダとフアン・ヤグエ(英語版)はすぐさま進軍し、アルファンブラの戦いは反乱軍の完勝だった。何千もの捕虜が連行され、数千トンより多くの物資や弾薬が反乱軍の手に渡った。逃げることのできた共和国軍兵は命からがら逃走した[37]。
最後の戦いは2月18日に始まった。アランダとヤグエは北側から町を切り取っていき、そして共和国軍を包囲した。それは、12月に共和国軍が完成させた包囲網に類似していた。2月20日、テルエルは共和国の旧首都バレンシアから切り離され、反乱軍が町に入り、共和国軍のエルナンデス・サラビアは撤退命令を出した。大部分の軍は退路が断たれる前に脱出したが、およそ14,500人が捕らえられた。共和国軍指揮官のバレンテイン・ゴンサレス(エル・カンペシーノ)は包囲されたものの脱出に成功した。彼はリステルおよび他の共産党指揮官は彼が死ぬか捕らえられることを望んで彼を残して行ったと主張した。テルエルは2月22日に反乱軍によって奪還された[38]。反乱軍は戦いが終結した後のテルエルで10,000もの共和党軍兵の死体を発見した[39]。
影響[編集]
テルエルの戦いで共和国軍はリソースを使い果たした。スペイン共和国空軍(英語版)はテルエルの戦いで失った飛行機や兵器を補充することができなかった[40]。一方で反乱軍はアラゴンを通過してカタルーニャおよびレバンテへと移動する準備のために東方へと大半の軍を集中させた。[41]。反乱軍はその時、効率的に働く工業力を有していたバスク地方を支配下に置いていたため、フランコは補給において勝っていた。共和国政府はアナキストたちの手によってカタルーニャの軍需工場を手放さざるを得なかった。一人のアナキストのオブザーバーは「この要求に対する贅沢な資金の支出にもかかわらず、我々の産業組織はただ一種類のライフル、機関銃、大砲も仕上げるることができなかった…」と報告した[42]。テルエルを再奪取したフランコの行為は、テルエルを占領することによる様々な効果を期待していた共和国軍にとって大きな打撃だった。テルエルの再奪取はフランコの最後の障壁を取り除き、地中海へと進む突破口となった[43]。
フランコは多くの時間を浪費することなく、1938年3月7日にアラゴンへの攻撃(英語版)を開始した。共和国軍はテルエルにおける2月22日の戦闘での損失の後、再編成を目的に主力軍を引っ込めた[44]。テルエルでの大きな損失への動揺が残っていた共和党軍は、アラゴンでの戦いにおいてほとんど抵抗できないまま敗走した。その後、反乱軍はアラゴンを通過してさらに進軍してカタルーニャおよびバレンシア州に侵入、地中海にまで到達した。1938年4月19日までに40マイルの海岸線を支配し、共和国軍の勢力を2つに分断した[45]。
イギリスの詩人、作家であり、国際旅団に所属していたローリー・リー(英語版)は共和国軍のテルエルにおける攻撃を以下のように要約した。「クリスマスプレゼントは共和国軍にとって毒入りのおもちゃにしかならなかった。それは戦争を変えるための勝利であるはずだったが、実際には敗北の証だった。」[46]。
死傷者[編集]
テルエルの戦いでの犠牲者数は推定するのが困難である。反乱軍の救援隊の損失はおよそ14,000人の死者と16,000の負傷者と17,000の病人であった。駐屯軍を含めた元々のテルエル守備隊の犠牲者はおよそ9,500人であり、守備隊のほとんど全てが死ぬか捕らえられた。それらの合計として、反乱軍は全体で56,500人の死傷者を出した。共和党軍の死傷者数はそれよりも50 %多いおよそ84,750人であるという推定は非常にもっともらしい。共和党軍は多くの捕虜を失った[47]。ラウンドは反乱軍57,000人、共和国軍85,000人の計142,000人であろうと考えており、140,000を超える両軍の死傷者表が作成された。
著名人[編集]
前述のマシューズやヘミングウェイ、ロブソンおよびイギリスの政治家の他にも、多くの著名人がこの戦いに惹きつけられた。その内の一人として、戦争をタイムズ紙の特派員として反乱軍側から参加したソビエトのスパイであるキム・フィルビーがいる。彼はスペインにいた当時から既に、明らかにモスクワの命令下にいたが、フランコについて賞賛するレポートを書いた[48]。1937年12月、テルエルの近郊でフィルビーおよび他の3人(ブラディッシュ・ジョンソン、エディー・ネイルおよびアーネスト・シープシャンクス(英語版))が乗っていた自動車に砲弾が当たり、フィルビー以外の3人は死亡した。この事故はフィルビーのスパイ行為に気付いたシープシャンクスを暗殺するために行われたフィルビーによる自作自演であるという説もある[49]。フランコはフィルビーを個人的に叙勲した[50]。
目次 [非表示]
1 背景 1.1 地形
1.2 兵力
2 戦闘 2.1 共和国軍の前進と包囲
2.2 反乱軍による救援
2.3 反乱軍の反撃
3 影響
4 死傷者
5 著名人
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク
背景[編集]
共和国がテルエルを攻めるという決断を下した理由として、いくつかの戦略的な状況が挙げられる。1937年までに反乱軍の支配下となっていたテルエルは共和国領に食い込んだ突出部となっており、共和国領の内陸部とバレンシア沿岸部との連絡線がテルエルによって分断された状態になっていた。そのため、共和国がテルエルを占領することは内陸部と沿岸部の連絡線を短縮することを意味していた[11]。また、3方向から共和国の領域に囲まれていたテルエルを反乱軍が保持しているということが、アラゴン戦線における反乱軍の勢力の象徴にもなっていた[12]。共和国の内部事情としては、共和国軍の再編を主導した国防相のインダレシオ・プリエート(英語版)が、自身の国防相としての実績を上げるために彼が再編した軍が有効に機能して華々しい勝利を収めることを望んでいたという事情もあった[13]。さらに、共和国政府首相のフアン・ネグリン(英語版)はカタルーニャの産業を労働者から接収したいと考えており、彼もまたテルエルへの攻撃を支持した。共和国軍の指導者たちは、反乱軍によるテルエルの占有は強固なものではなく、共和国軍がテルエルを占領したとしても反乱軍は積極的に奪還しようとはしないだろうと考えていた。そのような状況の中で、共和国の情報部は、フランコが12月18日にグアダラハラ区域のマドリードに対して大規模な攻撃を行うつもりであるという情報を掴んだため、共和国に反乱軍の注意をマドリードから逸らせる必要が生じたことが最後の一押しとなった。それらの結果、共和国軍は12月15日にテルエルにおける戦いを開始した[13]。
地形[編集]
詳細は「テルエル」を参照
アラゴン州南部に位置する人口20,000人[14]の町であるテルエルは「テルエルの恋人(英語版)」の悲劇的伝説で有名な[14]、荒涼とした岩壁に囲まれたテルエル県の県都であった。テルエルはトゥリア川とアルファンブラ川の合流地点よりもさらに上流、高さ3050 フィートの山の高台に位置しているため[15]、例年冬の気温がスペインで最も低い都市だった。テルエルは県都としてはスペインの最も奥地に位置しており、険しい渓谷、歯のような形をした山頂、湾曲した尾根といった険しい地形に囲まれた自然の要塞だった[15]。周囲の交通としては町の西にあるコンクー村周辺の平坦な丘をカタラユー高速が通っていたが、それもテルエルからはおよそ3マイルほど離れていた[16]。テルエルの歯 (La Muela de Teruel)として知られるテルエル西方に位置する峰がテルエル攻防の鍵となった[14]。テルエルは共和国支配地域へと突き出た位置にあったため、防衛ポイントはあらかじめ用意された塹壕と鉄条網によって強化されていた。1170年にも、テルエルはレコンキスタで交戦中だったムーア人とキリスト教国の状況を和らげるために要塞化されており、テルエルが要塞化されることで内陸部と沿岸部が隔てられるという状況は、スペイン内戦における1937年の共和党が置かれた状況と同一であった[17]。
兵力[編集]
共和党軍は、軍をほとんど一から再編成したフアン・エルナンデス・サラビア(英語版)の指揮下にあった[18]。サラビアの指揮下にいた指揮官の一人に共産党指導者のエンリケ・リステルがおり、彼はテルエル攻撃の先発隊として師団を率いた[19]。テルエルに対する襲撃は多国籍部隊であった国際旅団の援助なしに、全てスペイン人によって実行された。レバンテ(バレンシア沿岸)の共和国軍は、東部の軍によって支援された攻撃の主要部分を指揮することになっていた。共和国軍は全兵力として100,000人を有していた[20]。
レイ・ダルクール(英語版)大佐は戦闘開始時のテルエルにおける反乱軍の指揮官であった[21]。テルエル突出部を防衛する反乱軍は一般人を含めておよそ9,500人の戦力であった。攻撃が開始された後、最終的にダルクールは町を守るため、残った兵をテルエルの駐屯軍へと統合した。テルエルに配備されていた反乱軍の数は2,000人から6,000人の間で様々な見積もりがされている[22]。駐屯軍は恐らくはおよそ4,000人であり、その半数が一般人であったともいわれる[23]。
戦闘[編集]
地図の赤い線は戦闘開始時の前線を、紫の線は共和国軍がテルエルを包囲した12月20日の前線を、緑の線は戦闘終了時の前線をそれぞれ示している。テルエルの西に位置するLa Muela(テルエルの歯)に注目のこと。
1937年12月15日、リステルが指揮する共和国軍の師団は降雪の中、空襲や砲撃による予備攻撃なしにテルエルへの攻撃を開始した。リステルおよび、彼の同僚の指揮官であるエンリケ・フェルナンデス・ヘレディア大佐は町を包囲するために移動した。彼らはすぐさまテルエルの歯に対峙する陣地を敷き、夕方までには町の包囲を完了した[24]。レイ・ダルクールは彼の率いる部隊を直ちに町へと引き下げ、12月17日までにテルエルの歯における足場の維持を断念した[24]。反乱軍の指揮官のフランシスコ・フランコは、12月23日にやっとテルエルへ援軍を送る決定を下した。フランコは敵への譲歩はしないという決心のもとで県都が共和党軍の手に落ちてはならないということを方針として決定したが、それは政治的な失敗であった[25]。フランコはちょうどグアダラハラで大きな攻撃を始めたところであり、テルエルを救援するということはグアダラハラにおける攻撃の多くを断念しなければならないことを意味しており、同盟国であるイタリアおよびドイツの不興を買うことにもなった。反乱軍がテルエルへ救援を送るということはまた、フランコが戦争を終わらせるための決定的な一打についての構想を断念したということをも意味し、武器と外国からの援助の影響力が勝敗を左右する長い消耗戦へと突入することをフランコが容認していたということもまた示していた[26]。
共和国軍の前進と包囲[編集]
12月21日までに、共和国軍はテルエルの町へと進軍した。アーネスト・ヘミングウェイおよび2人の記者、ニューヨークタイムスの通信員であったハーバート・マシューズ(英語版)はテルエルを襲撃する軍隊に同行した[27]。反乱軍の指揮官レイ・ダルクールは最後の抵抗(英語版)のための体勢を取ることが可能だった町の南部地域へと彼の持つ残りの守備隊を引き上げた。クリスマスまでに反乱軍は、民政長官ビル、スペイン銀行、サンタ・クララ修道院および神学校の4つの要所をまだ占拠していた。共和国のバルセロナ・ラジオはテルエルが陥落したと発表したが、ダルクールおよび4,000人の守備隊の生き残りたちはまだ抵抗していた[28]。建物から建物へと接近戦を伴う包囲が続けられた。共和党軍は大砲で建物へと激しく砲撃した後、銃剣突撃を行った。
反乱軍による救援[編集]
フランコは12月23日のグアダラハラ攻撃を取りやめたが、救援軍は12月29日まで攻撃を開始することができなかった。フランコは、どんな犠牲を払ってでも死守するようにダルクールにメッセージを送るので精いっぱいだった[29]。一方、共和国軍はひどい悪天候の中で攻撃を強行した。反乱軍の攻撃は、経験豊富な将校アントニオ・アランダ(英語版)とホセ・エンリケ・バレーラ(英語版)の指揮の下でドイツ遠征軍であるコンドル軍団による支援を受けつつ、予定通り12月29日に行動を開始した。反乱軍は最大限の努力で大晦日までにテルエルの歯を抑え[28]、闘牛場と駅を占領するため町へと侵攻した。しかしながら、反乱軍は町の中で前進し続けることはできなかった[30]。その後、4日間の吹雪とともに天候が悪化し、雪は4フィートも降り積もり気温はマイナス18度まで下がった。銃や機械は凍結して使い物にならなくなり地上戦は停止し、軍は凍傷によってひどく苦しんだ。反乱軍は防寒着を持っていなかったため寒さに苦しみ、凍傷による手足の切断も多く行われた。
フランコは兵と兵器を送り続け、戦いの流れは徐々に変わり始めた。共和党軍は包囲を強行し、1938年の元日までには修道院の守備兵は死亡していた。1月3日には民政長官ビルも陥落したが、それでもダルクールは戦い続けた。アーネスト・ヘミングウェイは民政長官ビルの陥落の場に居合わせた。共和国軍とテルエル守備隊は互いに建物の異なる階から床の穴を通じて発砲し合った。その時、守備隊は水をまったく持たず、医薬品や食料もほとんど持っていなかったが、死骸の山を築きながらも抵抗した。悪天候のために反乱軍の援軍は進軍が遅れ、1月8日、ダルクールと彼のそばにいたテルエルのローマカトリック司教はついに降伏した[31]。後に共和党は、スペイン内戦最後の行為として、アンセルモ・ポランコやテルエル司教を含む42人の捕虜とともにダルクールを殺害した[32]。ダルクールの降伏後テルエルの一般人たちは立ち退かされ、テルエルを陥落させた共和党軍は逆に反乱軍に包囲される側となった[33]。
反乱軍の反撃[編集]
ダルクールが降参した後、反乱軍の増援の情報が共和国軍へ伝わり始めた。天候が回復し、1938年1月17日から反乱軍は新たに進軍を始めた。共和国側の指導者はテルエルの戦いをスペイン人のみでの遂行することをついに諦め、19日からの戦闘に加わるように国際旅団に命令した[34]。これらの部隊の多くは戦地にはあったが予備部隊であったため、有名人や政治家はこの間に戦地訪問して国際旅団の部隊を歓待した。アメリカの共産主義の歌手ポール・ロブスンはクリスマスイブに戦地訪問し、「インターナショナル」を含み「Ol' Man River」で終わる演奏曲目で歌を披露した[35]。後にイギリスの首相となる労働党の左翼政治家クレメント・アトリー、後に労働党の官僚となるエレン・ウィルキンソン(英語版)、外交官であるフィリップ・ノエル=ベーカーはイギリスの部隊を訪問した[36]。
両軍の最高司令官はその時、戦場近くの暖房の効いた列車の中から軍隊を指揮していた。ゆっくりと、しかし確実に反乱軍は進軍し、テルエルの歯は反乱軍の手によって陥落した。1月25日から3日間に渡って反乱軍は激しい反撃を開始したが進撃は一時的なものだった。2月7日にようやく、反乱軍はテルエル北部からの攻撃を開始した(アルファンブラの戦い)。ほとんどの共和国軍がテルエル南部に集中していたため北部の防備は薄くなっていた。騎兵大隊の突撃は共和国軍の防御を乱し、追い散らした。騎馬大隊の活躍は第二次世界大戦におけるカスピ海での1、2の例外を除き、戦争史上これが最後だった。反乱軍を率いるアランダとフアン・ヤグエ(英語版)はすぐさま進軍し、アルファンブラの戦いは反乱軍の完勝だった。何千もの捕虜が連行され、数千トンより多くの物資や弾薬が反乱軍の手に渡った。逃げることのできた共和国軍兵は命からがら逃走した[37]。
最後の戦いは2月18日に始まった。アランダとヤグエは北側から町を切り取っていき、そして共和国軍を包囲した。それは、12月に共和国軍が完成させた包囲網に類似していた。2月20日、テルエルは共和国の旧首都バレンシアから切り離され、反乱軍が町に入り、共和国軍のエルナンデス・サラビアは撤退命令を出した。大部分の軍は退路が断たれる前に脱出したが、およそ14,500人が捕らえられた。共和国軍指揮官のバレンテイン・ゴンサレス(エル・カンペシーノ)は包囲されたものの脱出に成功した。彼はリステルおよび他の共産党指揮官は彼が死ぬか捕らえられることを望んで彼を残して行ったと主張した。テルエルは2月22日に反乱軍によって奪還された[38]。反乱軍は戦いが終結した後のテルエルで10,000もの共和党軍兵の死体を発見した[39]。
影響[編集]
テルエルの戦いで共和国軍はリソースを使い果たした。スペイン共和国空軍(英語版)はテルエルの戦いで失った飛行機や兵器を補充することができなかった[40]。一方で反乱軍はアラゴンを通過してカタルーニャおよびレバンテへと移動する準備のために東方へと大半の軍を集中させた。[41]。反乱軍はその時、効率的に働く工業力を有していたバスク地方を支配下に置いていたため、フランコは補給において勝っていた。共和国政府はアナキストたちの手によってカタルーニャの軍需工場を手放さざるを得なかった。一人のアナキストのオブザーバーは「この要求に対する贅沢な資金の支出にもかかわらず、我々の産業組織はただ一種類のライフル、機関銃、大砲も仕上げるることができなかった…」と報告した[42]。テルエルを再奪取したフランコの行為は、テルエルを占領することによる様々な効果を期待していた共和国軍にとって大きな打撃だった。テルエルの再奪取はフランコの最後の障壁を取り除き、地中海へと進む突破口となった[43]。
フランコは多くの時間を浪費することなく、1938年3月7日にアラゴンへの攻撃(英語版)を開始した。共和国軍はテルエルにおける2月22日の戦闘での損失の後、再編成を目的に主力軍を引っ込めた[44]。テルエルでの大きな損失への動揺が残っていた共和党軍は、アラゴンでの戦いにおいてほとんど抵抗できないまま敗走した。その後、反乱軍はアラゴンを通過してさらに進軍してカタルーニャおよびバレンシア州に侵入、地中海にまで到達した。1938年4月19日までに40マイルの海岸線を支配し、共和国軍の勢力を2つに分断した[45]。
イギリスの詩人、作家であり、国際旅団に所属していたローリー・リー(英語版)は共和国軍のテルエルにおける攻撃を以下のように要約した。「クリスマスプレゼントは共和国軍にとって毒入りのおもちゃにしかならなかった。それは戦争を変えるための勝利であるはずだったが、実際には敗北の証だった。」[46]。
死傷者[編集]
テルエルの戦いでの犠牲者数は推定するのが困難である。反乱軍の救援隊の損失はおよそ14,000人の死者と16,000の負傷者と17,000の病人であった。駐屯軍を含めた元々のテルエル守備隊の犠牲者はおよそ9,500人であり、守備隊のほとんど全てが死ぬか捕らえられた。それらの合計として、反乱軍は全体で56,500人の死傷者を出した。共和党軍の死傷者数はそれよりも50 %多いおよそ84,750人であるという推定は非常にもっともらしい。共和党軍は多くの捕虜を失った[47]。ラウンドは反乱軍57,000人、共和国軍85,000人の計142,000人であろうと考えており、140,000を超える両軍の死傷者表が作成された。
著名人[編集]
前述のマシューズやヘミングウェイ、ロブソンおよびイギリスの政治家の他にも、多くの著名人がこの戦いに惹きつけられた。その内の一人として、戦争をタイムズ紙の特派員として反乱軍側から参加したソビエトのスパイであるキム・フィルビーがいる。彼はスペインにいた当時から既に、明らかにモスクワの命令下にいたが、フランコについて賞賛するレポートを書いた[48]。1937年12月、テルエルの近郊でフィルビーおよび他の3人(ブラディッシュ・ジョンソン、エディー・ネイルおよびアーネスト・シープシャンクス(英語版))が乗っていた自動車に砲弾が当たり、フィルビー以外の3人は死亡した。この事故はフィルビーのスパイ行為に気付いたシープシャンクスを暗殺するために行われたフィルビーによる自作自演であるという説もある[49]。フランコはフィルビーを個人的に叙勲した[50]。
第二次世界大戦
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英語: World War II、フランス語: Seconde Guerre mondiale、ドイツ語: Zweiter Weltkrieg、ロシア語: Вторая мировая война)は、1939年から1945年の6年にかけ、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス連邦、フランス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、仏英による対独宣戦布告とともにヨーロッパ戦争として始まり、1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。
目次 [非表示]
1 概要
2 参戦国
3 背景 3.1 ヴェルサイユ体制
3.2 共産主義の台頭
3.3 ファシズムの台頭
3.4 宥和政策とその破綻
3.5 勃発直前
4 経過(欧州・北アフリカ・中東) 4.1 1939年
4.2 1940年
4.3 1941年
4.4 1942年
4.5 1943年
4.6 1944年
4.7 1945年
5 経過(アジア・太平洋) 5.1 日本の参戦
5.2 1941年
5.3 1942年
5.4 1943年
5.5 1944年
5.6 1945年
6 戦争状態の終結と講和
7 戦時下の暮らし 7.1 日本
7.2 ドイツ
7.3 フランス
7.4 イギリス
7.5 アメリカ
7.6 ポルトガル
8 影響 8.1 損害
8.2 戦後処理
8.3 戦争裁判
9 新たに登場した兵器・戦術・技術
10 評価 10.1 植民地戦争時代の終結
10.2 大戦と民衆
10.3 『よい戦争』
10.4 民主主義と戦争
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要[編集]
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[1]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。
ドイツも1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成した。1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。1941年12月8日(日本時間)には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告した。自らの戦争を「大東亜戦争」と位置づけた日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行い、インドシナ半島に現地協力者政府を構築するなどしてその勢力を拡大した。しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦、北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降伏する。太平洋戦線では1942年6月5日ミッドウェー海戦で大敗し半年間の攻勢が挫折した後も日本が優勢を保ったものの、補給線が国力を超えて伸びきった事などから1942年後半には連合国が次第に優勢になっていきガダルカナル戦では1943年1月4日大本営の撤退命令が正式に下り敗北が確定し、大局は暗転した[2]。1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。また日本も同年8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦、さらに9日の長崎市への原子爆弾投下を受けて10日の御前会議で降伏の決定と諸外国への発表を行い、8月14日にポツダム宣言を正式に受諾、9月2日に降伏文書に調印した。
第二次世界大戦の戦域を大別すると、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋全域を含むものに分けられる。このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、日本等とアメリカ・イギリス・中華民国・オーストラリア等が戦った後者は太平洋戦線、または特に太平洋戦争[3]と呼称される。ヨーロッパ戦線はさらに西部戦線、東部戦線(独ソ戦)に大別され、西部ではアメリカ・イギリス・フランス、東部ではソ連がドイツ他の枢軸国と戦った。太平洋戦線はアメリカ軍と日本海軍が戦った太平洋戦域(英語版)、インドネシアなどで日本と連合国軍と戦った南西太平洋戦域(英語版)、ビルマなどで日本とイギリス軍などが戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸における日中戦争に大別される。しかしこれらの地域以外でも、中南米やカリブ海、マダガスカル島など世界各地で戦闘が行われた。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
航空機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、民間人および捕虜の多くが命を失った。またドイツは自国および占領地域においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的殺害を戦争と並行して進めており、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした様々な要因による大戦中の民間人死者は総数約5500万人の半分を超える、3000万人に達することとなった。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され[4]、その途上で200万人が死亡した[4]、新たにソビエト領とされたポーランド東部ではポーランド人の追放が行われルナ度大幅な住民の強制移住が行われた。アジア・太平洋では日本人強制送還が行われた。また、捕虜となった枢軸国の将兵や市民はシベリアなどで強制労働させられた[5]。
戦争中から連合国では、国際連合などによる戦後秩序作りが協議されていた。しかし戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きなものとなった。こうして両国は世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、長い冷戦時代の構図をもたらした。アジアやアフリカの旧植民地では独立運動の動きが高まり、多くの国が独立することになったが、冷戦構造の影響を受けずにはいられなかった。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
参戦国[編集]
詳細は「第二次世界大戦の参戦国」を参照
枢軸国は1940年に成立した三国条約に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わない事もあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中華民国の5か国である。
背景[編集]
詳細は「第二次世界大戦の背景」を参照
「戦間期」も参照
ヴェルサイユ体制[編集]
ドイツがヴェルサイユ条約によって喪失した領土
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割された。また、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。また、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[6]。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[7]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行した[7]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[8]。これによりハイパーインフレーションが発生した。軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[7]。マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆等の反乱が発生した。
戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、内政上の理由から伝統的な孤立主義(モンロー主義)に舞い戻り、国際政治の舞台から退いた。
1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。計画は1935年にも更新されたが欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年には更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、各国との戦争を想定した計画を立案していた。その後計画は第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭[編集]
ロシア内戦における白軍のプロパガンダポスター。ボリシェヴィキのトロツキーを"ユダヤの悪魔"として描いている。
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭するようになった。これを阻止すべく欧米列強は、シベリア出兵を行うなど赤化を食い止めようとしたが失敗した[9]。旧勢力の駆逐に成功したソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立し、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。また、新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と弾圧が行われ、餓死や処刑により最終的に1,450万人のウクライナ人が命を落とした(ウクライナ大飢饉)[10]。また、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣するなど(ソ連空軍志願隊)、国際紛争に積極的に介入した。同時にソ連とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
ヴィーンヌィツャ大虐殺の犠牲者を捜す遺族。枢軸国のウクライナ侵攻により共産勢力が駆逐され、事件が明らかにされた。
1937年にはウクライナでヴィーンヌィツャ大虐殺が行われた。1939年にはノモンハン事件が引き起こされた。このような中でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばしていった。これらの動きを食い止めようとする右派からファシズムが生み出されることとなった。
ファシズムの台頭[編集]
ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[11]勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。
ファシズムの指導者ヒトラーとムッソリーニ。1937年、ミュンヘン
ドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。25年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制をロカルノ体制という。
日本も22年にワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、大正デモクラシーの興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。さらに、28年にはパリで不戦条約が結ばれ、63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして、平和維持の試みは達成されるかに思われた。
しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。
英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられた。
一方アメリカの資金で潤っていたドイツ、金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。ドイツでは失業者が激増、政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[12]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に広まった。日本も恐慌状態(昭和恐慌)となり、農村では子女の身売りが相次いだ。
1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。
宥和政策とその破綻[編集]
英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス党政権下のドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。1935年には再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。しかし間もなくイギリスはドイツと英独海軍協定を結び、再軍備を事実上容認した。その後もヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策が続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。
そのころ日本は1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していった(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対して国際連盟や列強は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。ドイツ、イタリア、日本の三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ドイツのヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでヒトラーはチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニア等領有要求が承認された。
しかしヒトラーはミュンヘンでの合意を守る気はなかった。1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策を捨てることを決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前[編集]
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはドイツ・イタリア間に鋼鉄協約が結ばれた。そして8月23日にはドイツ・ソビエト連邦間に独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れない、と考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことで対抗した。
1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう英仏ポーランドに要請した[13]。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)[編集]
詳細は「ポーランド侵攻」、「バルト諸国占領」、「冬戦争」、「西部戦線 (第二次世界大戦)」、「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照
1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、続いて1939年9月17日にソビエト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援護条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、ポーランド侵攻は第二次世界大戦に拡大した[14]。ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[15]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。バルト三国に対しては、ソ連はまず軍隊を駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割後、約半年の非戦闘期間にドイツからイギリス・フランスへの和平工作が何度もなされたが、イギリス・フランスが要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れなかった[16]。1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦。6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始。イギリス空軍戦闘機隊と激しい空中戦となる。その結果、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵入し、独ソ戦が始まった。ソ連軍はフィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、フィンランド領内で空爆を行ったため、フィンランドはソ連に宣戦布告を行い冬戦争の継続としての継続戦争が勃発した。これに対して、連合国はソ連側に立ったため、ソ連を加えた連合国と枢軸国にヨーロッパを二分する戦争となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃するなど圧倒的な優勢を保っていた。
1943年2月にはスターリングラードでドイツ第6軍が敗北。以降は東部戦線において連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。7月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権のイタリア社会共和国が設立され、9月に本土上陸を果たした連合国軍と対峙することとなる。
1944年6月にはフランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が大規模反抗を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連により、ポーランド東部のソ連領化とオーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割とドイツ人追放が決定される。同年4月30日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは自殺、5月2日のソ連軍によるベルリン占領を経て5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年[編集]
ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
9月1日未明、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約150万人、5個軍でポーランド侵攻[17]。ドイツ軍は北部軍集団と南部軍集団の2つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計画であった。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべも無く殲滅された。ただ、当時のドイツ軍は、まだ実戦経験に乏しく、9月9日のポーランド軍の反撃では思わぬ苦戦を強いられる場面も有った。
ソビエト連邦は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにもかかわらず、イギリスとフランスは、ソ連に対し宣戦布告を行わなかった。また両国はドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍との交戦は行わなかった。またヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくるとは想定していなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までに、ポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命した。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年の春まで西部戦線に大きな戦闘はおこらなかった事(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に、「たぶんクリスマスまでには停戦だろう」という、根拠の無い期待が広まった。11月8日にはミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了したため難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたが、全て失敗に終わる。
ソ連はバルト三国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。しかしフィンランドはソ連による基地使用及びカレリア地方の割譲などの要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランドに侵攻(冬戦争)。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年[編集]
ドイツのフランス占領(1940年)
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアにおけるオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。
マジノ線の要塞
パリでパレードを行うドイツ軍
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。
一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[18]。なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
イギリス海軍との砲撃戦の末に炎上するフランス海軍艦艇(1940年7月3日)
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止し、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有り様であった。この年には日本、ドイツ、イタリアが三国条約(日独伊三国同盟)を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年[編集]
ドイツのバルカン半島侵攻(1941年)
詳細は「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照
3月11日、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、ソ連・イギリス・中華民国などのドイツや日本との交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
イギリスはイベリア半島先端の植民地[19]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[20]を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
砂漠の狐ことロンメル
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン半島の戦い)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった。6月26日、フィンランドがソ連に宣戦布告し継続戦争も併行して勃発した[21]。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト諸国などに侵攻した枢軸軍は共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族からは解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願することとなった。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、約960km離れたクイビシェフへの政府機能の一部疎開を余儀なくされた。しかし、急激な侵攻を続けていたドイツ軍は、その頃から泥まみれの悪路に悩まされるようになっていた。補給の滞りから、進撃の速度が緩んだ。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。
イランを経由してアメリカからソ連に送られる軍需物資
8月9日にイギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を締結し世界に発表した。8月25日、ソ連・イギリス連合軍は中立国のイランに南北から進撃すると直ちに占領下においた(イラン進駐)。イラン国王は中立国のアメリカに連合軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒絶した。イランを占領下においたことでペルシア回廊を確保したイギリス・アメリカはソ連への大規模軍事援助を行うことに成功した。
ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていたイギリス・アメリカは、独ソ戦開始後、ソ連をイギリス側に受け入れることを決定。武器貸与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連はリヒャルト・ゾルゲなど日本に送り込んだスパイの情報により、この情報を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日には南部のロストフ・ナ・ドヌを占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。
政権取得以後、ナチ党の一党独裁国家となったドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では、レジスタンス関係者の容疑をかけられた者に対する過酷な恐怖政治が行われていた。秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、ユダヤ人に対する迫害が行われた。しかしそのような条件下においても、「白いバラ」などの勢力が粘り強い抵抗運動を続けた他、ヒトラーによる独裁に反対するドイツ軍関係者によるヒトラー暗殺計画が多数行われたり、ナチ党内においても覇権争いが行われているなど、その体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦)。その直後に日本海軍もハワイの真珠湾を攻撃(真珠湾攻撃)し、ここに太平洋戦争が勃発した。12月8日にアメリカ・オランダが日本に宣戦を布告[22]。12月9日には日本と英米蘭の間で開戦したことを受け、これに乗じて中華民国が日本に正式に宣戦布告。日本が参戦したことで12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。
1942年[編集]
ドイツのソビエト侵攻(1941年から1942年)
スターリングラードで戦うドイツ兵
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。
8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行った。ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。
大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。
1943年[編集]
連合国に東西から追い詰められるドイツ(1943年から1945年)
アラブ解放のため枢軸軍に参加した自由アラブ軍 (de)(1943年ギリシャ)
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。しかし、3月には、マンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊
連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日、ドイツへ宣戦布告した。
チュニジア戦線におけるド・ゴール
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。
さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14 - 24日ケベック会談、10月19 - 30日第3回モスクワ会談、11月22 - 26日カイロ会談、11月28 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行なった。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化する事になった。
1944年[編集]
インド解放のために連合軍と戦う自由インド軍(1944年)
フランスのノルマンディーに上陸する連合軍
パリ市内を行く自由フランス軍と連合軍の装甲車
この年の1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からはバグラチオン作戦が行われ[23]、ソ連軍の物量作戦の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡して10月2日、蜂起は失敗に終わった。また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアで政変が起き、親独政権が崩壊して枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも連合軍に降伏しようとしたが、動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦によって全土を占領し、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を食い止めた。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失はドイツの石油供給を逼迫させた。
一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。上陸時にはノルマンディーの民間人には同数の犠牲者を出し[24]、上陸後にはノルマンディー地方の女性たちは強姦された[24][25]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり1944年7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心とする反ヒトラー派によりヒトラー暗殺計画が決行されるも、失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した[26]。
ノルマンディーのドイツ軍は、必死の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦で、ついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。また8月16日には南フランスにも連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。6月にアルジェで成立したフランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大部分が連合軍の支配下に落ちた事で、ヴィシー政権は崩壊した。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、国外に逃亡するものも現れた。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[27]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約130km押し戻した。しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。
この頃ドイツ政府は、イギリス経済を疲弊させることを目的としたイギリスポンドの偽札製作作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。
なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
1945年[編集]
連合軍による強制収容所解放を祝うユダヤ人
ドイツ人捕虜を銃殺するアメリカ軍(1945年4月29日、ダッハウ)
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵やまともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ヒトラーの自殺を報じる星条旗新聞
詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」を参照
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。
4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
ベルリンでソ連軍に対する降伏批准文書に署名するヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった[28]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという。
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌5月8日午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ヨーロッパ戦線での連合軍とドイツ軍の戦闘はプラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員がバチカンやスペイン、ノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリなどの南アメリカ諸国に逃亡した。
ポツダムに集まった3ヶ国首脳。
ソ連領となった東プロイセンからのドイツ人難民
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相[29]、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が行われた。一方で、この会談のさなかには日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も行われている。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[4][30]。
経過(アジア・太平洋)[編集]
詳細は「太平洋戦争」を参照
アジアでは、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降、日中間の戦争状態が続いていた。日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派を中心に1940年9月、日独伊三国同盟を締結し、枢軸側に接近した。さらに日本軍は同月に本国がドイツの支配下に下ったフランス領インドシナ(仏印)北部への進駐を行った(仏印進駐)。1941年4月からは日米交渉が本格化したが、三国同盟の空文化・仏印や中国戦線からの撤退を求めるアメリカと、南進論が台頭する日本の溝は埋まらなかった。7月にアメリカは両洋艦隊法を成立させ大軍拡に着手するとともに在米日本資産の凍結を行い、日本は南部仏印への進駐を行った。
1941年12月8日(JST)に、日本陸軍がイギリス領マレーを攻撃し、その数時間後には日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃した事で日本とアメリカ合衆国との間で開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告し、戦争は世界的規模で戦われるようになった。
日本軍は東南アジアのイギリスやアメリカ、オランダの植民地から中部太平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でイギリス海軍を放逐したほか、アフリカ南部のマダガスカルまでその攻撃範囲を広げた。1942年中盤にミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗北したものの、日本軍による攻撃によりアメリカ海軍は稼働空母が無くなる等の打撃を受け、さらに日本軍はアメリカ本土空襲をはじめとするアメリカ本土への攻撃やオーストラリア本土への空襲を行った。またソロモン諸島の戦いでアメリカ軍と対峙を続けたほか、ビルマ戦線でも攻勢を継続した。さらにオーストラリア本土への空襲を継続するなど1943年後半まで一進一退の戦況となった。
しかし、当初の予想を超えて広がり過ぎた占領区域の維持が困難になり、同年後半より各方面で連合国軍の攻勢が増す。1944年6月にはインパール作戦で敗北、7月にはサイパンの戦いでマリアナ諸島のサイパン島を失陥。日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機ボーイング B-29の行動範囲内に入る。戦略ミスを続けた日本海軍は、連合艦隊が壊滅状態に陥ったために本土への補給路における制海権を喪失し、商船隊も壊滅状態になり生産力が激減、神風特攻隊による攻撃が始まる。
1945年になると、仏領インドシナのフランス植民地政府を放逐し、インドシナ半島を勢力下に置くものの(明号作戦)、本土における制空権を喪失したことでB-29の本土空襲が激化し、軍需産業と国民の戦意に打撃を与えた。さらに硫黄島、沖縄が陥落。広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、天皇の意思により日本はポツダム宣言を受諾。8月15日終戦となったが、ソ連軍の攻撃は終戦後も続き、日本は北方領土を占領された。満州にもソ連の大軍が侵攻、満州にいた関東軍が必死に防戦して大量の民間人を日本へ脱出させたが、逃げ遅れた民間人や関東軍兵はシベリアへ抑留された。9月2日、米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本は正式に降伏した。
日本の参戦[編集]
タイ王国がフランスから獲得した領土
影響圏を拡大する日本軍
詳細は「日米交渉」を参照
1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職し、対独同盟派の勢いは停滞した。しかし1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、日米関係は開国以来の無条約時代に突入しており、情勢の打開が求められた。同年6月にフランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及び、近衛文麿内閣の松岡洋右外相ら枢軸国との提携を主張する声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。ヴィシー政権成立後の9月22日には、フランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。ルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけており、10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止した。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。また他方でオランダ領東インド(インドネシア)政府との石油等物品の買い付け交渉が行われていたが、6月17日に交渉は打ち切られた。
1941年4月からは日米交渉が本格化され、一時は「日米諒解案」に沿った合意が形成されつつあったが松岡外相の反対で白紙に戻った。松岡は三国同盟にソ連を加えたユーラシア四ヶ国同盟締結を構想していたが、6月22日の独ソ戦開始はその望みを打ち砕いた。松岡は即時対ソ宣戦を主張したが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、松岡は事実上更迭された。6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった(南進論)。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。
7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し、同日日本は南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油禁輸をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。8月1日、アメリカは日本を含む「全侵略国」に対する石油禁輸に踏み切った。対日制裁にはイギリスやオランダ領東インド政府も追随し、日本ではアメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、10月末を目処とした開戦準備が決定された[31]。アメリカは8月に大西洋憲章を締結したイギリス首相チャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
10月12日に近衛首相は五相会議を開いたが、日米交渉妥結の可能性があるとする豊田貞次郎外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條英機陸相の間で対立が見られた[32]。10月16日に近衛は突然辞職し、重臣会議で東條内閣成立が決まった。この推薦には東條しか軍部を押さえられないという木戸幸一内大臣の強い主張があった。10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[33]。
10月14日に日本は最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。11月6日には帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤなどの攻略を目的とする南方作戦準備が指令され[34]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[35]。11月26日早朝に日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。11月27日(アメリカ時間11月26日)アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈し、事実上の最後通牒と認識した。一方でこの文書には「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれており[36]、この文書が最後通牒であったかについては論争がある。
12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。
1941年[編集]
マレー半島へ上陸した日本陸軍
真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機
1941年12月8日午前1時30分(JST)、日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、タイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アジア太平洋戦線における戦闘はこの時間に開始されたのである。佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。
マレー半島上陸開始の約1時間半後、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。
日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)
日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
日本の、日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となったが、当時は一般的な流れであった[37]。なお、イギリスへの攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への交渉打ち切り文書の交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間以上遅れた。日本側では、宣戦布告文書として扱われているが、実際には、開戦を示唆する記述はない。
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
コタバルへ上陸した日本陸軍はシンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[38]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。
ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
12月25日にはイギリス領香港を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった[39]。
中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲国[40]や中華民国南京国民政府[41]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
1942年[編集]
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。
1月に日本はオランダとも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[42]、ジャワ島とスマトラ島[43]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。
サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将
日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、連合国は連戦連敗により、アジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、日本の軍部に衝撃を与えた。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[44]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
日本軍の攻撃を受け沈むイギリス海軍巡洋艦「コーンウォール」
イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[45]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン
ミッドウェー海戦で急降下爆撃機の爆撃を受け炎上する日本海軍の空母飛龍
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
6月20日には乙型潜水艦の「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかったが、翌21日に「伊25潜水艦」がオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたスティーブンス海軍基地はパニックに陥り、「伊25」に対して何の反撃も行えなかったばかりか、結果的に基地に駐屯する兵士に数名の負傷者を出した。なおこの攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であった。
アメリカ本土空襲を行った日本国海軍の零式小型水上偵察機
9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府は爆撃があった事実をひた隠しにする。
ガダルカナル島でのアメリカ海兵隊
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカ・オーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。
伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ
日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。
しかし、日本軍の攻勢はその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、年末になっても継続して行われ、同地のオーストラリア空軍の基地に大きな被害を出していた。
1943年[編集]
日本軍の攻撃を受け浸水した重巡洋艦シカゴ(左)
山本五十六連合艦隊司令長官
この年に入ってもオーストラリア北部に対する日本軍の空襲や攻撃は継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇パトリシア・キャムを撃沈させた他、ダーウィンの燃料タンクを破壊するなどの戦果を挙げていた。同月に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈するという戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっており、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
なおこの頃ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、「第一次アキャブ作戦」によりビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしインド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。
4月18日に、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[46]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、この年の中盤に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ、大きな損害を与え連合国軍への後方支援を弱体化させた。一方5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。
ソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍に勝利する。ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
大東亜会議に参加した各国首脳
太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)
11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、イギリスからの独立運動を行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ・シンガポールや香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。さらにビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始した。
これ以降は、ようやく態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦軍、中華民国軍など数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、戦線が予想しないほど伸びたために兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は次第に後退を余儀なくされていく。
1944年[編集]
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
サイパンに上陸するアメリカ兵
5月頃には、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は大成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国の成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
昨年半ばまでは勢いを保ち続けていたものの、予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
東條首相と閣僚
6月に、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月にはかつてアメリカから奪取したテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。
アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型
戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン
開戦時から日本の快進撃を支え続け、日本最高の歴戦艦と評された空母瑞鶴の撃沈の際、乗組員たちが脱出する前に、降旗する瑞鶴軍艦旗に対し最敬礼を行う劇的な写真。1944年10月25日)
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。
ビルマ戦線がイギリス軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
1945年[編集]
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、バシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。
なお日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、臨時政府によるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。
硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT
硫黄島で戦死した栗林忠道陸軍大将
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有するアメリカ海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。
焼夷弾を投下するアメリカ軍のB-29戦略爆撃機
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化していた。3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。
低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m の五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「橘花」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊やイギリス海軍の空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
4月1日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は沖縄本島へ上陸して沖縄戦が勃発。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、ここに日本海軍連合艦隊は事実上その戦闘能力を喪失した。連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリスなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員による猛反撃で、アメリカ軍とイギリス軍に10万人を上回る大損害を与え、連合軍が沖縄を退却する直前になるまで奮戦したが最後に力尽き、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。沖縄での日本軍の猛反撃により連合軍に与えた膨大な被害量の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止せざるを得なくなる。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。連合軍は沖縄での膨大な被害を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦を中止に追い込む一因となった。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。
またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。
広島に投下された原子爆弾のきのこ雲
原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上が死亡した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、必死に反撃を行うも総崩れとなった。降伏決定が報道された8月10日以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成されたソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。
日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、8月10日の御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送(現在のNHKワールドの前身)を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。8月14日、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
8月16日、タイは日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した[47]。日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。その他占領地に日本が構築した諸政権も次々に崩壊した。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、アメリカ、中華民国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[48]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結した。
戦争状態の終結と講和[編集]
詳細は「パリ条約 (1947年)」、「ドイツ最終規定条約」、および「日本国との平和条約」を参照
連合国軍が進撃した地域と、降伏文書調印後の日本本土および朝鮮半島などには連合国軍による占領統治が開始された。旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[49]。
ドイツに関しては占領状態が続き、その後東西に分裂したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ(西ドイツ)との戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ民主共和国(東ドイツ)との戦争状態終結を宣言している。1990年にはドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域は確定して最終的な講和が実現し、1994年にはドイツ駐留ソ連軍が撤退した。
また大多数の連合国と日本との講和は1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)によって行われ、日本は占領状態から解放された。この条約にはソ連などが参加しておらず、特にソ連および承継国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。しかしロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は個別に戦争終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的にすべて終結している。
戦時下の暮らし[編集]
「第二次世界大戦下の銃後(英語版)」および「第二次世界大戦下の各国情勢」も参照
日本[編集]
日用品・食料
木炭バス(1940年)
日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。また、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入されたが、生活必需品や食量の生産及び流通はこれまでと変わらず、レストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われた。1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[50]他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。ただし、食料の配給の優遇を受けたレストランや食堂、ホテルなどで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食糧の調達も可能になったこともあり、大戦終結の前年の1944年の初頭頃までは電気やガスの供給、生活必需品や食料が不足することはなかった[51]。その後南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1944年暮れになると、外地からの食糧のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が減ったことから、食糧の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していったため、窮乏生活を余儀なくされ闇取引が盛んになった[52]。1945年に入ると、連合国軍機による相次ぐ空襲や商船隊の活動制限による供給の悪化により電気やガスの供給が滞るようになった他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。なおこのような窮乏生活は戦後も2、3年間続くこととなった。
空襲
勤労動員され働く女性工員
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものにすぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[50]。しかし本土に対する連合国軍機の空襲は1944年6月の九州北部からはじまり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面も空爆にさらされた。1945年に入ると、沿岸地域ではアメリカ軍艦による艦砲射撃やイギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。さらに、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が、南樺太や北方領土の島々ではソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
教育
日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
出陣学徒壮行会
小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。1941年の国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による基礎教育、中等教育は変わらず行われたものの、本土に対する連合国軍機の空襲を受け、1944年8月4日には学童疎開が開始された。対英米戦の開戦以降も大学や高等専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化した1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。また熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員。しかしこの施策は資材不足の日本にとって致命的な失策であり、戦車・航空機などの各種兵器の無闇な乱造を招き、結果的に敗北の一因となった[要出典])。
対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、マスコミや国粋派により「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された上、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされた。しかし、その後も日常会話や軍隊内で英仏語が広く使われ続けた上、「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」という朝日新聞などのマスコミや国粋派の要求に対し、東條内閣はこれを「英語教育は必要である」として拒否している[50]。
娯楽・スポーツ
1940年に開催される予定であった東京オリンピックは、日中戦争の激化により開催権返上を余儀なくされた。高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたものの、プロ野球はその後も継続して開催され、日本の敗色が濃くなりつつあった1944年夏まで開催された。
日中戦争当時より娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、この頃より欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作されるようになった。対英米戦開戦後には映画配給社により映画の配給が統合されたものの、その後も多くの娯楽作品が制作され、終戦の年に至るまで映画の製作と配給は継続された。
日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具などが出回り、空き地では戦争ごっこが定番になった。
言論と思想の統制
「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)
対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、さらに「隣組」を通じて管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求されたが、国民の間では政府に対する批判も行われた他、新聞などでは政府批判も比較的自由に行われた[50]。しかし、東條内閣になった後は、戦争に反対する言論、特に共産主義者などの思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧し、この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
外地
日本の統治下にあった朝鮮半島は大きな戦禍に見舞われなかったものの、大戦終盤には連合国軍機の空襲を受ける地域があった他、1945年8月には、かねてから朝鮮半島に対する領土的野心を持っていたソ連軍が東北部に侵攻した。また主要植民地の1つで、重要な軍事戦略拠点であった台湾島も、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受ける地域があった。
在日外国人
日中戦争開戦後もタイ王国(当時日本以外でアジア唯一の独立国)や欧米諸国の駐在員や外交官の多くは、日本やその植民地で戦前と変わらない生活を行ったが、対英米開戦後には、日本とその占領地、そして枢軸国として参戦したタイ王国に取り残されたイギリス人やアメリカ人は開戦後軟禁、逮捕され、1942年から1943年にかけて3回運航された交換船で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人と交換される形で帰国した[53]。
ドイツやイタリア、タイ王国やフランス(ヴィシー政権)などの同盟国や、スウェーデンやスイス、バチカンなどの中立国の外交官やジャーナリストは、英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、ヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同盟国の外交官や駐在員のみならず、中立国の駐在員や外交官の多くも本国への帰国もままならなかった。なおソ連やトルコなどの中立国の外交官の多くは、1945年以降に本土への空襲が増加した後は軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。なお、1943年9月のイタリアの敗戦後には、サロ政権側に付くことを拒否した外交官を含む在日イタリア人が警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。またフランス人は、ヴィシー政権の崩壊後もフランス領インドシナの植民地政府が日本との友好関係を保っていたために、ドゴール側に付くことを表明した外交官以外の在日フランス人は中立国民と同様の扱いを受けていたものの、1945年3月に行われた日本軍によるフランス領インドシナの植民地政府への攻撃(明号作戦)以降は、在日イタリア人同様に警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。
ドイツ人は外交官や軍関係者のみならず、駐在員の多くが対英米戦開戦後も日本に残留したほか、封鎖突破船やUボートの乗組員などのドイツ軍人は日本国内やシンガポール、ペナンなどの占領地に駐留し、日本占領地の近隣地域における連合国軍との戦闘や、日本の占領地間の輸送に従事した。しかし1945年5月のドイツの敗戦後には、占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態におかれ、戦争終結まで富士五湖近辺などの地方の別荘地などに送られた[51]。
ドイツ[編集]
防空壕に避難するベルリン市民
総統アドルフ・ヒトラーは、戦争中盤までは国民の生活水準をある程度考慮していたものの、食糧などの生活必需品が配給制度となることは避けられなかった。その一方で、秘密警察ゲシュタポの監視により、国民の反政府・反戦的な言動は徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘンの大学生による反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」が行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始され、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。
連合軍による空襲はすでに1940年から開始され、1942年にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。
総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレーなど庶民の娯楽の場が次々と閉鎖に追い込まれた。そのような苦しい状況下において、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団といったドイツのみならず世界を代表する楽団は1945年の敗戦直前まで何とか活動を続けた[54]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭った事で、ドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるために西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポや親衛隊はなおも国民や兵士を監視し、逃亡と見なした者を処刑して回ったという。
フランス[編集]
本土と植民地
「ナチス・ドイツのフランス占領」も参照
開戦後ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いたものの、ドイツの侵攻を受けた後は、兵士として徴兵された多くの農民がそのまま捕虜となったこと、植民地との貿易が途絶したこと、ドイツの戦争経済体制に組み込まれたこともあり農産物の生産量が激減し、食糧や生活物資の供給は逼迫したために生活は困窮することとなった。また戦場となった地では、多くの一般市民が戦闘に巻き込まれ命を落とした。
ハーケンクロイツが掲げられたパリのオペラ座
キャバレー「ムーラン・ルージュ」の前でフランス人女性と談笑するドイツ軍兵士
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコなど多くの植民地もヴィシー政権につき、同政権の管理下に置かれた。しかしその後フランス領西アフリカなど、ほとんどが自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。インドシナは1940年にヴィシー政権の了解のもとで日本軍の駐留を受け入れたものの、引き続きフランス植民地政府が行政を行なうこととなった。なおインドシナの多くが戦場とならなかったこともあり食糧や生活物資の供給状況はそれほど悪化しなかった。
ドイツ占領下の本土
ドイツ軍の占領、管理下となったパリをふくむ北部と西部地域では、警察をはじめとする行政機構はドイツ軍の管理下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。なお、フランスでもドイツ国内と同じくユダヤ人迫害政策がとられ、外出時にはダビデの星を衣服に付けることを義務付けられたほか、強制収容所に送られるものの多かった。ドイツ軍の支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成した。その動きはマキ (抵抗運動)のように、右派から共産主義者まで含んだ広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側もこれに対抗して親ナチス的な民兵団 を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、ドイツ占領下で自己の保身や利害の為に自発的にドイツ軍に協力したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。しかし、1944年にドイツ軍がパリから撤退した後に彼等は「対独協力者」として糾弾され、住民からリンチを受けることになる者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、戦後その行為を非難された。
非武装都市となり破壊をまぬがれ、その後ドイツ軍の占領、管理下となった北部と西部の中心都市となったパリでは、ドイツ軍の管理の下でインフラストラクチャーの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したものの、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったこともあり、占領開始から暫くの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れたほか、ドイツ軍の統制下で各種制限はあるものの、オペラをはじめとする芸術活動も継続された。
イギリス[編集]
爆撃を受け炎上するロンドン
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は、単独でドイツと戦った。ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。
また、ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために魚業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり、国民は困窮した生活を余儀なくされた。
1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。
アメリカ[編集]
本土への攻撃と防衛体制
アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系アメリカ人
日本軍によるハワイ占領に伴い押収されることを恐れ「HAWAII」の印を押された20ドル紙幣
軍需工場に動員され働く女性工員
開戦後に、ハワイのパールハーバーにある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍の潜水艦による砲撃や日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲を受けた他、西海岸一帯からハワイ、アラスカにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。しかし、アジア太平洋地域やヨーロッパの主戦場から距離が離れていたこともあり、大戦の全期間を通じて本土の大都市が大きな被害を受けることはなかった。
しかし、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯及びハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢におかれ続けたほか、ロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出るありさまであった。さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されているすべてのアメリカドル紙幣にスタンプが押された[55]。また、この様な対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が行われた[56]。
なお、ドイツ軍やイタリア軍による本土への攻撃は行われなかったものの、東海岸やメキシコ湾沿岸でのドイツ海軍潜水艦による通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[57]。
1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[58]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
日用品と食糧
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、他国同様に肉類[55]や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。なお、同盟国である当時世界最大の食肉産出国のアルゼンチンやブラジル、メキシコからの食肉の輸入が出来たことや、本土での原油生産が出来たこと、そして本土が大きな戦災を受けることがなかったこともあり、1940年以降のイギリス本土やドイツ、1945年以降の日本本土のように食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が極端に滞る状況に置かれることはなかった。また、一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[58]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[60]も全土で行われた。ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。
国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[61]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。
人種差別
アフリカ系アメリカ人部隊
人種差別法の元で差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩りだされたものの、アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることは殆どなかった。また、ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[62]ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していたものの、アフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、アメリカの勝利に大きく貢献した。
敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者が第442連隊戦闘団に志願して、戦場へと向かい、ヨーロッパ戦線で数々の戦功をたてたほか、日本語教育や暗号解読などの任務につき、アメリカの勝利に大きく貢献した。
また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
娯楽・スポーツ
戦意高揚を目的に「カサブランカ」をはじめとする娯楽プロパガンダ映画も多く製作された。なお、メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止となるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。
ポルトガル[編集]
本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。
中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[63]。
植民地
東ティモールのディリ
中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力のために連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。
さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[63]。
影響[編集]
損害[編集]
詳細は「第二次世界大戦の犠牲者」を参照
第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。軍人・民間人の被害者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。
戦後処理[編集]
ヤルタ会談における連合国首脳。いすに座った3人の左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
詳細は「第二次世界大戦の影響」を参照
敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連は(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国も)その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本人がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わり近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。
戦争裁判[編集]
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国のものより遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[64]、フィンランドに対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦いなどのドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留などの事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。
敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
新たに登場した兵器・戦術・技術[編集]
V2ロケット
一〇〇式司令部偵察機
大戦末期に開発されたロケット戦闘機バッフェム Ba349a ナッター
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
兵器電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化されたドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイアのような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、アブロ ランカスターやボーイング B-17・ボーイング B-29などの大型爆撃機、三菱 一〇〇式司令部偵察機といった高速戦略偵察機、メッサーシュミット Me 262といったジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊一五型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せることとなった。また、アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車やジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。戦術戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした自殺攻撃である特別攻撃隊(日本)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。技術・代用品の開発・製造絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価[編集]
植民地戦争時代の終結[編集]
第二次世界大戦は帝国主義や植民地主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義と植民地戦争時代を終結させ、植民地の解放を促す引き金となった。
19世紀以来、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国など連合国(白人諸国家)の植民地支配を受けて来たアジア諸地域は、第二次世界大戦序盤における日本軍の勝利と連合国軍の敗北(特にシンガポールの戦いにおけるイギリス軍の敗北)により、一時的に白人宗主国による支配から切り離された。これにより、非白人国が白人の宗主国を打倒した事実を、植民地支配下の住民が直接目にする事となった。これは、被植民地住民にとって、宗主国たる白人に対する劣等感を払拭する大きな力になったと、後年に中華民国総統の李登輝、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相、インドネシアのスカルノ大統領など、当時の被植民地出身の政治家たちが述べている。インドネシア政府が1945年8月17日に独立を宣言した時には、年月日の表記に神武暦が用いられて「2605年8月17日」と表記された。そして、日本軍が敗北すると、日本軍に勝利したイギリス軍など白人宗主国軍がアジア諸地域を再び占領したが、現地住民は、一部の元日本軍兵士も含めて、独立運動に立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動に寄与したと見られている。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。
日本の支配下にあった朝鮮半島や太平洋諸国が戦後に独立し、満州国は中華民国領土へ復帰した。
なお、戦場とならなかったサハラ砂漠以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジアより遅く、1960年以後に本格化した事は、第二次世界大戦が大きく関与しているという意見もある。しかし、それはサハラ以南の地域では白人の宗主国が第二次世界大戦終結後も残存し、また経済と社会の発展がアジア地域より遅れていたに過ぎない、という反論もある。
東ヨーロッパにおいては、勝戦国であるソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ政権を樹立した。第二次世界大戦後の冷戦時代に、これらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配する事になり、その状態は1991年末まで続いた。
大戦と民衆[編集]
第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わる事を余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃、ホロコーストなど一民族への大量虐殺など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。
長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。
原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだ事から、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。
『よい戦争』[編集]
特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[65]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの復興の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。ハワイ州を除き国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いやイスラエル建国にともなう中東での戦いなどにつねに当事者であることを求め続けられ、国民は血の献身を求められ続けた。
降伏後の日本の占領過程では、連合国の代表として日本の占領政策を事実上独占し、戦犯指定をうけた岸信介や児玉誉士夫などを利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど高権的統治をおこない、またGHQや極東委員会の非武装原則(憲法改正における非武装条項、極東委員会1948.2.12など)に反し、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊を整備させ自陣営に組み込んだ」と、ソビエト陣営の影響下の共産主義者・日本の左翼などに批判されたもの、米国にとっては日本敗戦時から規定事項であり、予備隊を増強・再編を繰り返し、自衛隊という形で日本軍を事実上復活させた(ただし米国は負担軽減策として自衛隊を国防軍へ更に再編させるつもりであったが、日本国内の陸軍悪玉論により頓挫した)。
民主主義と戦争[編集]
カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[66]など差別は解消されなかった[67]。参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[68]も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。
目次 [非表示]
1 概要
2 参戦国
3 背景 3.1 ヴェルサイユ体制
3.2 共産主義の台頭
3.3 ファシズムの台頭
3.4 宥和政策とその破綻
3.5 勃発直前
4 経過(欧州・北アフリカ・中東) 4.1 1939年
4.2 1940年
4.3 1941年
4.4 1942年
4.5 1943年
4.6 1944年
4.7 1945年
5 経過(アジア・太平洋) 5.1 日本の参戦
5.2 1941年
5.3 1942年
5.4 1943年
5.5 1944年
5.6 1945年
6 戦争状態の終結と講和
7 戦時下の暮らし 7.1 日本
7.2 ドイツ
7.3 フランス
7.4 イギリス
7.5 アメリカ
7.6 ポルトガル
8 影響 8.1 損害
8.2 戦後処理
8.3 戦争裁判
9 新たに登場した兵器・戦術・技術
10 評価 10.1 植民地戦争時代の終結
10.2 大戦と民衆
10.3 『よい戦争』
10.4 民主主義と戦争
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要[編集]
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[1]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。
ドイツも1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成した。1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。1941年12月8日(日本時間)には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告した。自らの戦争を「大東亜戦争」と位置づけた日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行い、インドシナ半島に現地協力者政府を構築するなどしてその勢力を拡大した。しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦、北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降伏する。太平洋戦線では1942年6月5日ミッドウェー海戦で大敗し半年間の攻勢が挫折した後も日本が優勢を保ったものの、補給線が国力を超えて伸びきった事などから1942年後半には連合国が次第に優勢になっていきガダルカナル戦では1943年1月4日大本営の撤退命令が正式に下り敗北が確定し、大局は暗転した[2]。1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。また日本も同年8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦、さらに9日の長崎市への原子爆弾投下を受けて10日の御前会議で降伏の決定と諸外国への発表を行い、8月14日にポツダム宣言を正式に受諾、9月2日に降伏文書に調印した。
第二次世界大戦の戦域を大別すると、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋全域を含むものに分けられる。このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、日本等とアメリカ・イギリス・中華民国・オーストラリア等が戦った後者は太平洋戦線、または特に太平洋戦争[3]と呼称される。ヨーロッパ戦線はさらに西部戦線、東部戦線(独ソ戦)に大別され、西部ではアメリカ・イギリス・フランス、東部ではソ連がドイツ他の枢軸国と戦った。太平洋戦線はアメリカ軍と日本海軍が戦った太平洋戦域(英語版)、インドネシアなどで日本と連合国軍と戦った南西太平洋戦域(英語版)、ビルマなどで日本とイギリス軍などが戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸における日中戦争に大別される。しかしこれらの地域以外でも、中南米やカリブ海、マダガスカル島など世界各地で戦闘が行われた。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
航空機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、民間人および捕虜の多くが命を失った。またドイツは自国および占領地域においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的殺害を戦争と並行して進めており、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした様々な要因による大戦中の民間人死者は総数約5500万人の半分を超える、3000万人に達することとなった。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され[4]、その途上で200万人が死亡した[4]、新たにソビエト領とされたポーランド東部ではポーランド人の追放が行われルナ度大幅な住民の強制移住が行われた。アジア・太平洋では日本人強制送還が行われた。また、捕虜となった枢軸国の将兵や市民はシベリアなどで強制労働させられた[5]。
戦争中から連合国では、国際連合などによる戦後秩序作りが協議されていた。しかし戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きなものとなった。こうして両国は世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、長い冷戦時代の構図をもたらした。アジアやアフリカの旧植民地では独立運動の動きが高まり、多くの国が独立することになったが、冷戦構造の影響を受けずにはいられなかった。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
参戦国[編集]
詳細は「第二次世界大戦の参戦国」を参照
枢軸国は1940年に成立した三国条約に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わない事もあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中華民国の5か国である。
背景[編集]
詳細は「第二次世界大戦の背景」を参照
「戦間期」も参照
ヴェルサイユ体制[編集]
ドイツがヴェルサイユ条約によって喪失した領土
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割された。また、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。また、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[6]。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[7]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行した[7]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[8]。これによりハイパーインフレーションが発生した。軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[7]。マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆等の反乱が発生した。
戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、内政上の理由から伝統的な孤立主義(モンロー主義)に舞い戻り、国際政治の舞台から退いた。
1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。計画は1935年にも更新されたが欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年には更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、各国との戦争を想定した計画を立案していた。その後計画は第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭[編集]
ロシア内戦における白軍のプロパガンダポスター。ボリシェヴィキのトロツキーを"ユダヤの悪魔"として描いている。
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭するようになった。これを阻止すべく欧米列強は、シベリア出兵を行うなど赤化を食い止めようとしたが失敗した[9]。旧勢力の駆逐に成功したソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立し、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。また、新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と弾圧が行われ、餓死や処刑により最終的に1,450万人のウクライナ人が命を落とした(ウクライナ大飢饉)[10]。また、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣するなど(ソ連空軍志願隊)、国際紛争に積極的に介入した。同時にソ連とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
ヴィーンヌィツャ大虐殺の犠牲者を捜す遺族。枢軸国のウクライナ侵攻により共産勢力が駆逐され、事件が明らかにされた。
1937年にはウクライナでヴィーンヌィツャ大虐殺が行われた。1939年にはノモンハン事件が引き起こされた。このような中でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばしていった。これらの動きを食い止めようとする右派からファシズムが生み出されることとなった。
ファシズムの台頭[編集]
ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[11]勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。
ファシズムの指導者ヒトラーとムッソリーニ。1937年、ミュンヘン
ドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。25年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制をロカルノ体制という。
日本も22年にワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、大正デモクラシーの興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。さらに、28年にはパリで不戦条約が結ばれ、63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして、平和維持の試みは達成されるかに思われた。
しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。
英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられた。
一方アメリカの資金で潤っていたドイツ、金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。ドイツでは失業者が激増、政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[12]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に広まった。日本も恐慌状態(昭和恐慌)となり、農村では子女の身売りが相次いだ。
1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。
宥和政策とその破綻[編集]
英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス党政権下のドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。1935年には再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。しかし間もなくイギリスはドイツと英独海軍協定を結び、再軍備を事実上容認した。その後もヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策が続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。
そのころ日本は1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していった(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対して国際連盟や列強は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。ドイツ、イタリア、日本の三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ドイツのヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでヒトラーはチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニア等領有要求が承認された。
しかしヒトラーはミュンヘンでの合意を守る気はなかった。1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策を捨てることを決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前[編集]
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはドイツ・イタリア間に鋼鉄協約が結ばれた。そして8月23日にはドイツ・ソビエト連邦間に独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れない、と考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことで対抗した。
1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう英仏ポーランドに要請した[13]。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)[編集]
詳細は「ポーランド侵攻」、「バルト諸国占領」、「冬戦争」、「西部戦線 (第二次世界大戦)」、「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照
1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、続いて1939年9月17日にソビエト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援護条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、ポーランド侵攻は第二次世界大戦に拡大した[14]。ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[15]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。バルト三国に対しては、ソ連はまず軍隊を駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割後、約半年の非戦闘期間にドイツからイギリス・フランスへの和平工作が何度もなされたが、イギリス・フランスが要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れなかった[16]。1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦。6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始。イギリス空軍戦闘機隊と激しい空中戦となる。その結果、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵入し、独ソ戦が始まった。ソ連軍はフィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、フィンランド領内で空爆を行ったため、フィンランドはソ連に宣戦布告を行い冬戦争の継続としての継続戦争が勃発した。これに対して、連合国はソ連側に立ったため、ソ連を加えた連合国と枢軸国にヨーロッパを二分する戦争となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃するなど圧倒的な優勢を保っていた。
1943年2月にはスターリングラードでドイツ第6軍が敗北。以降は東部戦線において連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。7月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権のイタリア社会共和国が設立され、9月に本土上陸を果たした連合国軍と対峙することとなる。
1944年6月にはフランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が大規模反抗を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連により、ポーランド東部のソ連領化とオーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割とドイツ人追放が決定される。同年4月30日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは自殺、5月2日のソ連軍によるベルリン占領を経て5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年[編集]
ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
9月1日未明、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約150万人、5個軍でポーランド侵攻[17]。ドイツ軍は北部軍集団と南部軍集団の2つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計画であった。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべも無く殲滅された。ただ、当時のドイツ軍は、まだ実戦経験に乏しく、9月9日のポーランド軍の反撃では思わぬ苦戦を強いられる場面も有った。
ソビエト連邦は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにもかかわらず、イギリスとフランスは、ソ連に対し宣戦布告を行わなかった。また両国はドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍との交戦は行わなかった。またヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくるとは想定していなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までに、ポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命した。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年の春まで西部戦線に大きな戦闘はおこらなかった事(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に、「たぶんクリスマスまでには停戦だろう」という、根拠の無い期待が広まった。11月8日にはミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了したため難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたが、全て失敗に終わる。
ソ連はバルト三国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。しかしフィンランドはソ連による基地使用及びカレリア地方の割譲などの要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランドに侵攻(冬戦争)。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年[編集]
ドイツのフランス占領(1940年)
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアにおけるオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。
マジノ線の要塞
パリでパレードを行うドイツ軍
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。
一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[18]。なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
イギリス海軍との砲撃戦の末に炎上するフランス海軍艦艇(1940年7月3日)
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止し、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有り様であった。この年には日本、ドイツ、イタリアが三国条約(日独伊三国同盟)を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年[編集]
ドイツのバルカン半島侵攻(1941年)
詳細は「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照
3月11日、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、ソ連・イギリス・中華民国などのドイツや日本との交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
イギリスはイベリア半島先端の植民地[19]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[20]を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
砂漠の狐ことロンメル
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン半島の戦い)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった。6月26日、フィンランドがソ連に宣戦布告し継続戦争も併行して勃発した[21]。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト諸国などに侵攻した枢軸軍は共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族からは解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願することとなった。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、約960km離れたクイビシェフへの政府機能の一部疎開を余儀なくされた。しかし、急激な侵攻を続けていたドイツ軍は、その頃から泥まみれの悪路に悩まされるようになっていた。補給の滞りから、進撃の速度が緩んだ。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。
イランを経由してアメリカからソ連に送られる軍需物資
8月9日にイギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を締結し世界に発表した。8月25日、ソ連・イギリス連合軍は中立国のイランに南北から進撃すると直ちに占領下においた(イラン進駐)。イラン国王は中立国のアメリカに連合軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒絶した。イランを占領下においたことでペルシア回廊を確保したイギリス・アメリカはソ連への大規模軍事援助を行うことに成功した。
ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていたイギリス・アメリカは、独ソ戦開始後、ソ連をイギリス側に受け入れることを決定。武器貸与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連はリヒャルト・ゾルゲなど日本に送り込んだスパイの情報により、この情報を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日には南部のロストフ・ナ・ドヌを占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。
政権取得以後、ナチ党の一党独裁国家となったドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では、レジスタンス関係者の容疑をかけられた者に対する過酷な恐怖政治が行われていた。秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、ユダヤ人に対する迫害が行われた。しかしそのような条件下においても、「白いバラ」などの勢力が粘り強い抵抗運動を続けた他、ヒトラーによる独裁に反対するドイツ軍関係者によるヒトラー暗殺計画が多数行われたり、ナチ党内においても覇権争いが行われているなど、その体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦)。その直後に日本海軍もハワイの真珠湾を攻撃(真珠湾攻撃)し、ここに太平洋戦争が勃発した。12月8日にアメリカ・オランダが日本に宣戦を布告[22]。12月9日には日本と英米蘭の間で開戦したことを受け、これに乗じて中華民国が日本に正式に宣戦布告。日本が参戦したことで12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。
1942年[編集]
ドイツのソビエト侵攻(1941年から1942年)
スターリングラードで戦うドイツ兵
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。
8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行った。ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。
大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。
1943年[編集]
連合国に東西から追い詰められるドイツ(1943年から1945年)
アラブ解放のため枢軸軍に参加した自由アラブ軍 (de)(1943年ギリシャ)
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。しかし、3月には、マンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊
連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日、ドイツへ宣戦布告した。
チュニジア戦線におけるド・ゴール
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。
さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14 - 24日ケベック会談、10月19 - 30日第3回モスクワ会談、11月22 - 26日カイロ会談、11月28 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行なった。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化する事になった。
1944年[編集]
インド解放のために連合軍と戦う自由インド軍(1944年)
フランスのノルマンディーに上陸する連合軍
パリ市内を行く自由フランス軍と連合軍の装甲車
この年の1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からはバグラチオン作戦が行われ[23]、ソ連軍の物量作戦の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡して10月2日、蜂起は失敗に終わった。また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアで政変が起き、親独政権が崩壊して枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも連合軍に降伏しようとしたが、動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦によって全土を占領し、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を食い止めた。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失はドイツの石油供給を逼迫させた。
一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。上陸時にはノルマンディーの民間人には同数の犠牲者を出し[24]、上陸後にはノルマンディー地方の女性たちは強姦された[24][25]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり1944年7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心とする反ヒトラー派によりヒトラー暗殺計画が決行されるも、失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した[26]。
ノルマンディーのドイツ軍は、必死の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦で、ついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。また8月16日には南フランスにも連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。6月にアルジェで成立したフランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大部分が連合軍の支配下に落ちた事で、ヴィシー政権は崩壊した。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、国外に逃亡するものも現れた。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[27]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約130km押し戻した。しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。
この頃ドイツ政府は、イギリス経済を疲弊させることを目的としたイギリスポンドの偽札製作作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。
なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
1945年[編集]
連合軍による強制収容所解放を祝うユダヤ人
ドイツ人捕虜を銃殺するアメリカ軍(1945年4月29日、ダッハウ)
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵やまともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ヒトラーの自殺を報じる星条旗新聞
詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」を参照
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。
4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
ベルリンでソ連軍に対する降伏批准文書に署名するヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった[28]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという。
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌5月8日午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ヨーロッパ戦線での連合軍とドイツ軍の戦闘はプラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員がバチカンやスペイン、ノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリなどの南アメリカ諸国に逃亡した。
ポツダムに集まった3ヶ国首脳。
ソ連領となった東プロイセンからのドイツ人難民
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相[29]、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が行われた。一方で、この会談のさなかには日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も行われている。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[4][30]。
経過(アジア・太平洋)[編集]
詳細は「太平洋戦争」を参照
アジアでは、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降、日中間の戦争状態が続いていた。日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派を中心に1940年9月、日独伊三国同盟を締結し、枢軸側に接近した。さらに日本軍は同月に本国がドイツの支配下に下ったフランス領インドシナ(仏印)北部への進駐を行った(仏印進駐)。1941年4月からは日米交渉が本格化したが、三国同盟の空文化・仏印や中国戦線からの撤退を求めるアメリカと、南進論が台頭する日本の溝は埋まらなかった。7月にアメリカは両洋艦隊法を成立させ大軍拡に着手するとともに在米日本資産の凍結を行い、日本は南部仏印への進駐を行った。
1941年12月8日(JST)に、日本陸軍がイギリス領マレーを攻撃し、その数時間後には日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃した事で日本とアメリカ合衆国との間で開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告し、戦争は世界的規模で戦われるようになった。
日本軍は東南アジアのイギリスやアメリカ、オランダの植民地から中部太平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でイギリス海軍を放逐したほか、アフリカ南部のマダガスカルまでその攻撃範囲を広げた。1942年中盤にミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗北したものの、日本軍による攻撃によりアメリカ海軍は稼働空母が無くなる等の打撃を受け、さらに日本軍はアメリカ本土空襲をはじめとするアメリカ本土への攻撃やオーストラリア本土への空襲を行った。またソロモン諸島の戦いでアメリカ軍と対峙を続けたほか、ビルマ戦線でも攻勢を継続した。さらにオーストラリア本土への空襲を継続するなど1943年後半まで一進一退の戦況となった。
しかし、当初の予想を超えて広がり過ぎた占領区域の維持が困難になり、同年後半より各方面で連合国軍の攻勢が増す。1944年6月にはインパール作戦で敗北、7月にはサイパンの戦いでマリアナ諸島のサイパン島を失陥。日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機ボーイング B-29の行動範囲内に入る。戦略ミスを続けた日本海軍は、連合艦隊が壊滅状態に陥ったために本土への補給路における制海権を喪失し、商船隊も壊滅状態になり生産力が激減、神風特攻隊による攻撃が始まる。
1945年になると、仏領インドシナのフランス植民地政府を放逐し、インドシナ半島を勢力下に置くものの(明号作戦)、本土における制空権を喪失したことでB-29の本土空襲が激化し、軍需産業と国民の戦意に打撃を与えた。さらに硫黄島、沖縄が陥落。広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、天皇の意思により日本はポツダム宣言を受諾。8月15日終戦となったが、ソ連軍の攻撃は終戦後も続き、日本は北方領土を占領された。満州にもソ連の大軍が侵攻、満州にいた関東軍が必死に防戦して大量の民間人を日本へ脱出させたが、逃げ遅れた民間人や関東軍兵はシベリアへ抑留された。9月2日、米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本は正式に降伏した。
日本の参戦[編集]
タイ王国がフランスから獲得した領土
影響圏を拡大する日本軍
詳細は「日米交渉」を参照
1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職し、対独同盟派の勢いは停滞した。しかし1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、日米関係は開国以来の無条約時代に突入しており、情勢の打開が求められた。同年6月にフランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及び、近衛文麿内閣の松岡洋右外相ら枢軸国との提携を主張する声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。ヴィシー政権成立後の9月22日には、フランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。ルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけており、10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止した。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。また他方でオランダ領東インド(インドネシア)政府との石油等物品の買い付け交渉が行われていたが、6月17日に交渉は打ち切られた。
1941年4月からは日米交渉が本格化され、一時は「日米諒解案」に沿った合意が形成されつつあったが松岡外相の反対で白紙に戻った。松岡は三国同盟にソ連を加えたユーラシア四ヶ国同盟締結を構想していたが、6月22日の独ソ戦開始はその望みを打ち砕いた。松岡は即時対ソ宣戦を主張したが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、松岡は事実上更迭された。6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった(南進論)。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。
7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し、同日日本は南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油禁輸をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。8月1日、アメリカは日本を含む「全侵略国」に対する石油禁輸に踏み切った。対日制裁にはイギリスやオランダ領東インド政府も追随し、日本ではアメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、10月末を目処とした開戦準備が決定された[31]。アメリカは8月に大西洋憲章を締結したイギリス首相チャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
10月12日に近衛首相は五相会議を開いたが、日米交渉妥結の可能性があるとする豊田貞次郎外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條英機陸相の間で対立が見られた[32]。10月16日に近衛は突然辞職し、重臣会議で東條内閣成立が決まった。この推薦には東條しか軍部を押さえられないという木戸幸一内大臣の強い主張があった。10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[33]。
10月14日に日本は最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。11月6日には帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤなどの攻略を目的とする南方作戦準備が指令され[34]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[35]。11月26日早朝に日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。11月27日(アメリカ時間11月26日)アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈し、事実上の最後通牒と認識した。一方でこの文書には「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれており[36]、この文書が最後通牒であったかについては論争がある。
12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。
1941年[編集]
マレー半島へ上陸した日本陸軍
真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機
1941年12月8日午前1時30分(JST)、日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、タイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アジア太平洋戦線における戦闘はこの時間に開始されたのである。佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。
マレー半島上陸開始の約1時間半後、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。
日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)
日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
日本の、日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となったが、当時は一般的な流れであった[37]。なお、イギリスへの攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への交渉打ち切り文書の交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間以上遅れた。日本側では、宣戦布告文書として扱われているが、実際には、開戦を示唆する記述はない。
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
コタバルへ上陸した日本陸軍はシンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[38]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。
ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
12月25日にはイギリス領香港を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった[39]。
中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲国[40]や中華民国南京国民政府[41]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
1942年[編集]
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。
1月に日本はオランダとも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[42]、ジャワ島とスマトラ島[43]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。
サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将
日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、連合国は連戦連敗により、アジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、日本の軍部に衝撃を与えた。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[44]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
日本軍の攻撃を受け沈むイギリス海軍巡洋艦「コーンウォール」
イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[45]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン
ミッドウェー海戦で急降下爆撃機の爆撃を受け炎上する日本海軍の空母飛龍
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
6月20日には乙型潜水艦の「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかったが、翌21日に「伊25潜水艦」がオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたスティーブンス海軍基地はパニックに陥り、「伊25」に対して何の反撃も行えなかったばかりか、結果的に基地に駐屯する兵士に数名の負傷者を出した。なおこの攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であった。
アメリカ本土空襲を行った日本国海軍の零式小型水上偵察機
9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府は爆撃があった事実をひた隠しにする。
ガダルカナル島でのアメリカ海兵隊
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカ・オーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。
伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ
日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。
しかし、日本軍の攻勢はその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、年末になっても継続して行われ、同地のオーストラリア空軍の基地に大きな被害を出していた。
1943年[編集]
日本軍の攻撃を受け浸水した重巡洋艦シカゴ(左)
山本五十六連合艦隊司令長官
この年に入ってもオーストラリア北部に対する日本軍の空襲や攻撃は継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇パトリシア・キャムを撃沈させた他、ダーウィンの燃料タンクを破壊するなどの戦果を挙げていた。同月に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈するという戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっており、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
なおこの頃ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、「第一次アキャブ作戦」によりビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしインド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。
4月18日に、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[46]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、この年の中盤に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ、大きな損害を与え連合国軍への後方支援を弱体化させた。一方5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。
ソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍に勝利する。ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
大東亜会議に参加した各国首脳
太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)
11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、イギリスからの独立運動を行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ・シンガポールや香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。さらにビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始した。
これ以降は、ようやく態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦軍、中華民国軍など数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、戦線が予想しないほど伸びたために兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は次第に後退を余儀なくされていく。
1944年[編集]
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
サイパンに上陸するアメリカ兵
5月頃には、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は大成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国の成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
昨年半ばまでは勢いを保ち続けていたものの、予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
東條首相と閣僚
6月に、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月にはかつてアメリカから奪取したテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。
アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型
戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン
開戦時から日本の快進撃を支え続け、日本最高の歴戦艦と評された空母瑞鶴の撃沈の際、乗組員たちが脱出する前に、降旗する瑞鶴軍艦旗に対し最敬礼を行う劇的な写真。1944年10月25日)
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。
ビルマ戦線がイギリス軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
1945年[編集]
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、バシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。
なお日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、臨時政府によるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。
硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT
硫黄島で戦死した栗林忠道陸軍大将
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有するアメリカ海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。
焼夷弾を投下するアメリカ軍のB-29戦略爆撃機
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化していた。3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。
低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m の五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「橘花」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊やイギリス海軍の空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
4月1日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は沖縄本島へ上陸して沖縄戦が勃発。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、ここに日本海軍連合艦隊は事実上その戦闘能力を喪失した。連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリスなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員による猛反撃で、アメリカ軍とイギリス軍に10万人を上回る大損害を与え、連合軍が沖縄を退却する直前になるまで奮戦したが最後に力尽き、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。沖縄での日本軍の猛反撃により連合軍に与えた膨大な被害量の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止せざるを得なくなる。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。連合軍は沖縄での膨大な被害を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦を中止に追い込む一因となった。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。
またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。
広島に投下された原子爆弾のきのこ雲
原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上が死亡した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、必死に反撃を行うも総崩れとなった。降伏決定が報道された8月10日以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成されたソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。
日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、8月10日の御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送(現在のNHKワールドの前身)を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。8月14日、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
8月16日、タイは日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した[47]。日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。その他占領地に日本が構築した諸政権も次々に崩壊した。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、アメリカ、中華民国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[48]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結した。
戦争状態の終結と講和[編集]
詳細は「パリ条約 (1947年)」、「ドイツ最終規定条約」、および「日本国との平和条約」を参照
連合国軍が進撃した地域と、降伏文書調印後の日本本土および朝鮮半島などには連合国軍による占領統治が開始された。旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[49]。
ドイツに関しては占領状態が続き、その後東西に分裂したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ(西ドイツ)との戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ民主共和国(東ドイツ)との戦争状態終結を宣言している。1990年にはドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域は確定して最終的な講和が実現し、1994年にはドイツ駐留ソ連軍が撤退した。
また大多数の連合国と日本との講和は1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)によって行われ、日本は占領状態から解放された。この条約にはソ連などが参加しておらず、特にソ連および承継国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。しかしロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は個別に戦争終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的にすべて終結している。
戦時下の暮らし[編集]
「第二次世界大戦下の銃後(英語版)」および「第二次世界大戦下の各国情勢」も参照
日本[編集]
日用品・食料
木炭バス(1940年)
日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。また、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入されたが、生活必需品や食量の生産及び流通はこれまでと変わらず、レストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われた。1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[50]他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。ただし、食料の配給の優遇を受けたレストランや食堂、ホテルなどで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食糧の調達も可能になったこともあり、大戦終結の前年の1944年の初頭頃までは電気やガスの供給、生活必需品や食料が不足することはなかった[51]。その後南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1944年暮れになると、外地からの食糧のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が減ったことから、食糧の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していったため、窮乏生活を余儀なくされ闇取引が盛んになった[52]。1945年に入ると、連合国軍機による相次ぐ空襲や商船隊の活動制限による供給の悪化により電気やガスの供給が滞るようになった他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。なおこのような窮乏生活は戦後も2、3年間続くこととなった。
空襲
勤労動員され働く女性工員
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものにすぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[50]。しかし本土に対する連合国軍機の空襲は1944年6月の九州北部からはじまり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面も空爆にさらされた。1945年に入ると、沿岸地域ではアメリカ軍艦による艦砲射撃やイギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。さらに、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が、南樺太や北方領土の島々ではソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
教育
日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
出陣学徒壮行会
小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。1941年の国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による基礎教育、中等教育は変わらず行われたものの、本土に対する連合国軍機の空襲を受け、1944年8月4日には学童疎開が開始された。対英米戦の開戦以降も大学や高等専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化した1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。また熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員。しかしこの施策は資材不足の日本にとって致命的な失策であり、戦車・航空機などの各種兵器の無闇な乱造を招き、結果的に敗北の一因となった[要出典])。
対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、マスコミや国粋派により「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された上、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされた。しかし、その後も日常会話や軍隊内で英仏語が広く使われ続けた上、「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」という朝日新聞などのマスコミや国粋派の要求に対し、東條内閣はこれを「英語教育は必要である」として拒否している[50]。
娯楽・スポーツ
1940年に開催される予定であった東京オリンピックは、日中戦争の激化により開催権返上を余儀なくされた。高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたものの、プロ野球はその後も継続して開催され、日本の敗色が濃くなりつつあった1944年夏まで開催された。
日中戦争当時より娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、この頃より欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作されるようになった。対英米戦開戦後には映画配給社により映画の配給が統合されたものの、その後も多くの娯楽作品が制作され、終戦の年に至るまで映画の製作と配給は継続された。
日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具などが出回り、空き地では戦争ごっこが定番になった。
言論と思想の統制
「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)
対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、さらに「隣組」を通じて管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求されたが、国民の間では政府に対する批判も行われた他、新聞などでは政府批判も比較的自由に行われた[50]。しかし、東條内閣になった後は、戦争に反対する言論、特に共産主義者などの思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧し、この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
外地
日本の統治下にあった朝鮮半島は大きな戦禍に見舞われなかったものの、大戦終盤には連合国軍機の空襲を受ける地域があった他、1945年8月には、かねてから朝鮮半島に対する領土的野心を持っていたソ連軍が東北部に侵攻した。また主要植民地の1つで、重要な軍事戦略拠点であった台湾島も、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受ける地域があった。
在日外国人
日中戦争開戦後もタイ王国(当時日本以外でアジア唯一の独立国)や欧米諸国の駐在員や外交官の多くは、日本やその植民地で戦前と変わらない生活を行ったが、対英米開戦後には、日本とその占領地、そして枢軸国として参戦したタイ王国に取り残されたイギリス人やアメリカ人は開戦後軟禁、逮捕され、1942年から1943年にかけて3回運航された交換船で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人と交換される形で帰国した[53]。
ドイツやイタリア、タイ王国やフランス(ヴィシー政権)などの同盟国や、スウェーデンやスイス、バチカンなどの中立国の外交官やジャーナリストは、英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、ヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同盟国の外交官や駐在員のみならず、中立国の駐在員や外交官の多くも本国への帰国もままならなかった。なおソ連やトルコなどの中立国の外交官の多くは、1945年以降に本土への空襲が増加した後は軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。なお、1943年9月のイタリアの敗戦後には、サロ政権側に付くことを拒否した外交官を含む在日イタリア人が警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。またフランス人は、ヴィシー政権の崩壊後もフランス領インドシナの植民地政府が日本との友好関係を保っていたために、ドゴール側に付くことを表明した外交官以外の在日フランス人は中立国民と同様の扱いを受けていたものの、1945年3月に行われた日本軍によるフランス領インドシナの植民地政府への攻撃(明号作戦)以降は、在日イタリア人同様に警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。
ドイツ人は外交官や軍関係者のみならず、駐在員の多くが対英米戦開戦後も日本に残留したほか、封鎖突破船やUボートの乗組員などのドイツ軍人は日本国内やシンガポール、ペナンなどの占領地に駐留し、日本占領地の近隣地域における連合国軍との戦闘や、日本の占領地間の輸送に従事した。しかし1945年5月のドイツの敗戦後には、占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態におかれ、戦争終結まで富士五湖近辺などの地方の別荘地などに送られた[51]。
ドイツ[編集]
防空壕に避難するベルリン市民
総統アドルフ・ヒトラーは、戦争中盤までは国民の生活水準をある程度考慮していたものの、食糧などの生活必需品が配給制度となることは避けられなかった。その一方で、秘密警察ゲシュタポの監視により、国民の反政府・反戦的な言動は徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘンの大学生による反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」が行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始され、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。
連合軍による空襲はすでに1940年から開始され、1942年にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。
総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレーなど庶民の娯楽の場が次々と閉鎖に追い込まれた。そのような苦しい状況下において、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団といったドイツのみならず世界を代表する楽団は1945年の敗戦直前まで何とか活動を続けた[54]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭った事で、ドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるために西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポや親衛隊はなおも国民や兵士を監視し、逃亡と見なした者を処刑して回ったという。
フランス[編集]
本土と植民地
「ナチス・ドイツのフランス占領」も参照
開戦後ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いたものの、ドイツの侵攻を受けた後は、兵士として徴兵された多くの農民がそのまま捕虜となったこと、植民地との貿易が途絶したこと、ドイツの戦争経済体制に組み込まれたこともあり農産物の生産量が激減し、食糧や生活物資の供給は逼迫したために生活は困窮することとなった。また戦場となった地では、多くの一般市民が戦闘に巻き込まれ命を落とした。
ハーケンクロイツが掲げられたパリのオペラ座
キャバレー「ムーラン・ルージュ」の前でフランス人女性と談笑するドイツ軍兵士
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコなど多くの植民地もヴィシー政権につき、同政権の管理下に置かれた。しかしその後フランス領西アフリカなど、ほとんどが自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。インドシナは1940年にヴィシー政権の了解のもとで日本軍の駐留を受け入れたものの、引き続きフランス植民地政府が行政を行なうこととなった。なおインドシナの多くが戦場とならなかったこともあり食糧や生活物資の供給状況はそれほど悪化しなかった。
ドイツ占領下の本土
ドイツ軍の占領、管理下となったパリをふくむ北部と西部地域では、警察をはじめとする行政機構はドイツ軍の管理下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。なお、フランスでもドイツ国内と同じくユダヤ人迫害政策がとられ、外出時にはダビデの星を衣服に付けることを義務付けられたほか、強制収容所に送られるものの多かった。ドイツ軍の支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成した。その動きはマキ (抵抗運動)のように、右派から共産主義者まで含んだ広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側もこれに対抗して親ナチス的な民兵団 を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、ドイツ占領下で自己の保身や利害の為に自発的にドイツ軍に協力したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。しかし、1944年にドイツ軍がパリから撤退した後に彼等は「対独協力者」として糾弾され、住民からリンチを受けることになる者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、戦後その行為を非難された。
非武装都市となり破壊をまぬがれ、その後ドイツ軍の占領、管理下となった北部と西部の中心都市となったパリでは、ドイツ軍の管理の下でインフラストラクチャーの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したものの、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったこともあり、占領開始から暫くの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れたほか、ドイツ軍の統制下で各種制限はあるものの、オペラをはじめとする芸術活動も継続された。
イギリス[編集]
爆撃を受け炎上するロンドン
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は、単独でドイツと戦った。ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。
また、ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために魚業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり、国民は困窮した生活を余儀なくされた。
1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。
アメリカ[編集]
本土への攻撃と防衛体制
アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系アメリカ人
日本軍によるハワイ占領に伴い押収されることを恐れ「HAWAII」の印を押された20ドル紙幣
軍需工場に動員され働く女性工員
開戦後に、ハワイのパールハーバーにある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍の潜水艦による砲撃や日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲を受けた他、西海岸一帯からハワイ、アラスカにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。しかし、アジア太平洋地域やヨーロッパの主戦場から距離が離れていたこともあり、大戦の全期間を通じて本土の大都市が大きな被害を受けることはなかった。
しかし、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯及びハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢におかれ続けたほか、ロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出るありさまであった。さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されているすべてのアメリカドル紙幣にスタンプが押された[55]。また、この様な対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が行われた[56]。
なお、ドイツ軍やイタリア軍による本土への攻撃は行われなかったものの、東海岸やメキシコ湾沿岸でのドイツ海軍潜水艦による通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[57]。
1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[58]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
日用品と食糧
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、他国同様に肉類[55]や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。なお、同盟国である当時世界最大の食肉産出国のアルゼンチンやブラジル、メキシコからの食肉の輸入が出来たことや、本土での原油生産が出来たこと、そして本土が大きな戦災を受けることがなかったこともあり、1940年以降のイギリス本土やドイツ、1945年以降の日本本土のように食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が極端に滞る状況に置かれることはなかった。また、一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[58]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[60]も全土で行われた。ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。
国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[61]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。
人種差別
アフリカ系アメリカ人部隊
人種差別法の元で差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩りだされたものの、アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることは殆どなかった。また、ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[62]ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していたものの、アフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、アメリカの勝利に大きく貢献した。
敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者が第442連隊戦闘団に志願して、戦場へと向かい、ヨーロッパ戦線で数々の戦功をたてたほか、日本語教育や暗号解読などの任務につき、アメリカの勝利に大きく貢献した。
また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
娯楽・スポーツ
戦意高揚を目的に「カサブランカ」をはじめとする娯楽プロパガンダ映画も多く製作された。なお、メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止となるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。
ポルトガル[編集]
本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。
中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[63]。
植民地
東ティモールのディリ
中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力のために連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。
さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[63]。
影響[編集]
損害[編集]
詳細は「第二次世界大戦の犠牲者」を参照
第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。軍人・民間人の被害者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。
戦後処理[編集]
ヤルタ会談における連合国首脳。いすに座った3人の左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
詳細は「第二次世界大戦の影響」を参照
敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連は(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国も)その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本人がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わり近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。
戦争裁判[編集]
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国のものより遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[64]、フィンランドに対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦いなどのドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留などの事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。
敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
新たに登場した兵器・戦術・技術[編集]
V2ロケット
一〇〇式司令部偵察機
大戦末期に開発されたロケット戦闘機バッフェム Ba349a ナッター
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
兵器電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化されたドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイアのような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、アブロ ランカスターやボーイング B-17・ボーイング B-29などの大型爆撃機、三菱 一〇〇式司令部偵察機といった高速戦略偵察機、メッサーシュミット Me 262といったジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊一五型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せることとなった。また、アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車やジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。戦術戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした自殺攻撃である特別攻撃隊(日本)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。技術・代用品の開発・製造絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価[編集]
植民地戦争時代の終結[編集]
第二次世界大戦は帝国主義や植民地主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義と植民地戦争時代を終結させ、植民地の解放を促す引き金となった。
19世紀以来、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国など連合国(白人諸国家)の植民地支配を受けて来たアジア諸地域は、第二次世界大戦序盤における日本軍の勝利と連合国軍の敗北(特にシンガポールの戦いにおけるイギリス軍の敗北)により、一時的に白人宗主国による支配から切り離された。これにより、非白人国が白人の宗主国を打倒した事実を、植民地支配下の住民が直接目にする事となった。これは、被植民地住民にとって、宗主国たる白人に対する劣等感を払拭する大きな力になったと、後年に中華民国総統の李登輝、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相、インドネシアのスカルノ大統領など、当時の被植民地出身の政治家たちが述べている。インドネシア政府が1945年8月17日に独立を宣言した時には、年月日の表記に神武暦が用いられて「2605年8月17日」と表記された。そして、日本軍が敗北すると、日本軍に勝利したイギリス軍など白人宗主国軍がアジア諸地域を再び占領したが、現地住民は、一部の元日本軍兵士も含めて、独立運動に立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動に寄与したと見られている。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。
日本の支配下にあった朝鮮半島や太平洋諸国が戦後に独立し、満州国は中華民国領土へ復帰した。
なお、戦場とならなかったサハラ砂漠以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジアより遅く、1960年以後に本格化した事は、第二次世界大戦が大きく関与しているという意見もある。しかし、それはサハラ以南の地域では白人の宗主国が第二次世界大戦終結後も残存し、また経済と社会の発展がアジア地域より遅れていたに過ぎない、という反論もある。
東ヨーロッパにおいては、勝戦国であるソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ政権を樹立した。第二次世界大戦後の冷戦時代に、これらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配する事になり、その状態は1991年末まで続いた。
大戦と民衆[編集]
第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わる事を余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃、ホロコーストなど一民族への大量虐殺など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。
長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。
原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだ事から、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。
『よい戦争』[編集]
特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[65]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの復興の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。ハワイ州を除き国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いやイスラエル建国にともなう中東での戦いなどにつねに当事者であることを求め続けられ、国民は血の献身を求められ続けた。
降伏後の日本の占領過程では、連合国の代表として日本の占領政策を事実上独占し、戦犯指定をうけた岸信介や児玉誉士夫などを利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど高権的統治をおこない、またGHQや極東委員会の非武装原則(憲法改正における非武装条項、極東委員会1948.2.12など)に反し、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊を整備させ自陣営に組み込んだ」と、ソビエト陣営の影響下の共産主義者・日本の左翼などに批判されたもの、米国にとっては日本敗戦時から規定事項であり、予備隊を増強・再編を繰り返し、自衛隊という形で日本軍を事実上復活させた(ただし米国は負担軽減策として自衛隊を国防軍へ更に再編させるつもりであったが、日本国内の陸軍悪玉論により頓挫した)。
民主主義と戦争[編集]
カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[66]など差別は解消されなかった[67]。参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[68]も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。
スペイン内戦
スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
目次 [非表示]
1 概要
2 背景
3 内戦の展開 3.1 反乱軍の進撃
3.2 共和国軍の混迷
3.3 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
4 国際旅団
5 戦後
6 影響
7 交戦国・支援国・団体 7.1 共和派
7.2 ナショナリスト派
8 スペイン内戦を題材とした作品
9 年表 9.1 1936年
9.2 1937年
9.3 1938年
9.4 1939年
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
概要[編集]
フランシスコ・フランコ
スペイン内戦は、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。
内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。また、共産主義とファシスト枢軸との間の代理戦争との見方がなされていた。
この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家アーネスト・ヘミングウェイ、女性戦場特派員マーサ・ゲルホーン(英語版)、全体主義批判作家ジョージ・オーウェル、従軍戦場写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。
背景[編集]
プリモ・デ・リベラ
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。
1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で、従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換。その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ(左翼共和党)を大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガ(es:Santiago Casares Quiroga)を首相とする人民戦線政府が成立した。
しかし、人民戦線も大きく分けて議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではなかった。その中でも強硬派はさらに進んで、警察を使ってスペイン保守派の中心人物の一人であったカルボ・ソテーロ(es:José Calvo Sotelo)を7月13日に暗殺(突撃隊のホセ・カスティージョ(es:José del Castillo Sáenz de Tejada)中尉暗殺への報復)するなど、暴力による右派の排除に乗り出した。キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、果たしてソテーロ暗殺により、かねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。一方、人民戦線内の社労党左派や共産党などは民兵の動員に走り、労働者への武器供与を要求した。また、ストライキの頻発や地方議会の打倒など、革命ムードを高めて行った。
7月17日、エミリオ・モラ・ビダル(es:Emilio Mola)を首謀者として、植民地モロッコのメリージャで反乱が起こった。要注意人物としてカナリア諸島に左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは植民地モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上った。反乱が起こると、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部、外交官、グアルディア・シビルなどの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルーニャ自治を求める勢力などであった。
アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を辞職させ、7月18日、後任に穏健派である共和統一党のディエゴ・マルティネス・バリオ(es:Diego Martínez Barrio)を擁立した。バリオはモラに陸軍大臣の座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。民衆は倒閣のデモを起こし、扇動家はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。バリオ内閣はわずか2日で辞職に追い込まれ、7月19日、徹底抗戦を掲げるホセ・ヒラル(es:José Giral)内閣(左翼共和党)が成立した。また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。
ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。フランコ一族も、兄は反乱軍に付いたが、弟と従兄弟は人民戦線側に付いた。軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。
内戦の展開[編集]
1936年の8月から9月にかけての勢力圏
当初の反乱指導者はモラであったが、トレドを陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出され、指導者の地位に就いた。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリア王国から支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。隣国のポルトガルに成立していたサラザールによる独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。
ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍(CTV)と航空部隊、海軍部隊がスペインに派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。
当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。
そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。
また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。
反乱軍の進撃[編集]
内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。
反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。
空襲を受けた後のゲルニカ
反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(1937年6月)などが重なって権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。
反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲を受けた。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た(共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった)。
さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。
共和国軍の混迷[編集]
共和国軍を率いるバレンティン・ゴンサレス。後に国際旅団を指揮。
一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。
急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党(POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。
「モスクワの金」も参照
当時スペイン銀行は外貨準備用に金を保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるカルタヘナの洞窟に移された。
共和国軍の戦車
当初はカルタヘナからフランス銀行へ金を輸送し、そこで外貨を調達した。輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しの怠業を行った[1]。また、反乱軍は資金の受け取りを「マルクス主義者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、銀行基本法に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。しかしアサーニャに事前の相談はなかったといわれている。
ソ連に輸送された金は約510.08トンにのぼり、当時の価値で5億ドルを超えた。その多くは金塊ではなく各国の金貨だった。また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。戦後、『プラウダ』は1957年4月5日号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルの借款がソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金を横領したという批判も受けている[2]。現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある[3]。いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。
写真はソ連貨物船「クルスク」。1936年12月に支援物資をアリカンテ港に荷卸し中の写真。
更にソ連は人民戦線の指揮権を掌握することを目論み(人民戦線の内部抗争に辟易したためとも言われる)、軍事顧問などに偽装したNKVDが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニン派アナキストのCNT・FAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。これらの非マルクス主義、あるいは非スターリン主義マルクス主義の左翼組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。
第四インターナショナルのスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNT・FAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。
1937年5月、バルセロナで遂に両勢力が衝突へと至り、500名近くの死傷者を出す惨事となった。共産党側は反対派を暗殺で脅したが、相次ぐ内ゲバに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。
国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。
人民戦線最後の攻勢と内戦の終結[編集]
1938年11月時点の勢力圏
1938年7月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者を出し、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。
1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領辞任を余儀なくされた。
フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。4月1日にフランコによって勝利宣言が出された。
国際旅団[編集]
多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員は知識人や学生20%、労働者80%で(人口構成を考えれば特に異常ではない[要出典])、また全構成員の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。 戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。
戦後[編集]
内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑した。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。
カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。例えばメキシコ出版業界の元締めであるフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社は、亡命スペイン人達によって設立された。
戦没者の谷
第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。フランコの腹心で後継者を予定されていたルイス・カレーロ・ブランコ(es:Luis Carrero Blanco)は、米ソの東西冷戦を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。
共和国政府は「スペイン共和国亡命政府」 (en) として、メキシコ、次いでパリにて存続。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年6月15日のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。同年6月21日、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレス (en) が政府の解消を宣言。7月1日、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。
内戦の双方の戦没者はマドリード州にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されているが、フランコ時代に政治犯を動員して建設されたこと、モニュメントなどがいまでもフランコ時代の性格を残していることから、スペイン国内ではいまだ施設の性格の見直しを巡って議論の対象となっている。
影響[編集]
この内戦に参加することによって、ナチス・ドイツは貴重な実戦経験を得る事となった。このことはヴェルサイユ条約下においてさまざまな軍事的な制限を受けていたドイツにとっては得難い経験であり、第二次世界大戦初期の戦闘を優位に進めることにおいて多いに貢献した
交戦国・支援国・団体[編集]
共和派[編集]
スペインの旗 スペイン共和国 Flag of the Popular Front (Spain).svg 人民戦線
Bandera CNT-AIT.svg CNT(全国労働者連合)・FAI(イベリア・アナーキスト同盟)
Socialist red flag.svg UGT(労働総同盟)
Estelada blava.svg ERC(カタルーニャ左翼共和党)・EC
Flag of the Basque Country.svg EG(バスク軍) (1936年 - 37年)
Bandeira galega civil.svg PG(ガリシア党)
Flag of the International Brigades.svg 国際旅団
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
メキシコの旗 メキシコ
ナショナリスト派[編集]
スペインの旗 スペイン Bandera FE JONS.svg ファランヘ党
Flag of Traditionalist Requetes.svg カルロス主義派 (1936年 - 37年)
CEDA flag.svg CEDA(スペイン右翼自治派連盟) (1936年 - 37年)
スペインの旗 アルフォンソ主義派 (1936年 - 37年)
イタリア王国の旗 イタリア王国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Portugal.svg ポルトガル
アイルランドの旗 アイルランド
スペイン内戦を題材とした作品[編集]
関連カテゴリ - Spanish Civil War media
小説 『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ)
『カタロニア讃歌』(ジョージ・オーウェル)
『希望』(アンドレ・マルロー)
『狼たちの月』(フリオ・リャマサーレス) - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。
『サラミスの兵士たち』(ハビエル・セルカス) - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。
『さらばカタロニア戦線』(スティーヴン・ハンター) - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。
ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロベール・ブラジヤックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。
映画 『誰が為に鐘は鳴る』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演。
『命あるかぎり』 - 1955年の西ドイツ映画。ゲルニカを爆撃したとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。
『日曜日には鼠を殺せ』 - 1964年のアメリカ映画。エメリック・プレスバーガーの同名小説を『酒とバラの日々』のJ・P・ミラーが脚色、『尼僧物語』のフレッド・ジンネマンが製作・演出。
『戦争は終った』 - 1965年のフランス映画。アラン・レネ監督。
『ミツバチのささやき』 - 1973年のスペイン映画。ビクトル・エリセ監督。
『鏡』 - 1975年のソ連映画。アンドレイ・タルコフスキー監督。
『歌姫カルメーラ』 - 1990年のスペイン映画。カルロス・サウラ監督。
『ベル・エポック』 - 1992年のスペイン映画。
『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。
『蝶の舌』 - 1999年のスペイン映画。マヌエル・リバスの同名小説の映画化。
『パンズ・ラビリンス』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。
絵画 『ゲルニカ』(パブロ・ピカソ)
写真 ロバート・キャパは『崩れ落ちる兵士』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。
宝塚歌劇 『誰がために鐘は鳴る』 - 鳳蘭・遥くらら主演。
『NEVER SAY GOODBYE』 - 2006年宙組公演。和央ようか・花總まり主演。
年表[編集]
1936年[編集]
人民戦線協定の締結(1月)
人民戦線政府の成立(2月)
スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
フランコ、トレドを占領(9月)
元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)
1937年[編集]
グアダラハーラの戦い(3月)
ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃(4月)
バルセロナで五月事件(5月)
フランコ、ビルバオ占領(6月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
テルエルの戦い(12月から翌年2月)
1938年[編集]
フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
パロス岬沖海戦(5月)
エブロ川の戦い(7月)
国際旅団の解散(10月)
1939年[編集]
フランコ、バルセロナ占領(1月)
イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)
フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
フランコ、マドリード占領(3月)
フランコによる内戦終結宣言(4月)
アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)
第二次世界大戦勃発(9月)
目次 [非表示]
1 概要
2 背景
3 内戦の展開 3.1 反乱軍の進撃
3.2 共和国軍の混迷
3.3 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
4 国際旅団
5 戦後
6 影響
7 交戦国・支援国・団体 7.1 共和派
7.2 ナショナリスト派
8 スペイン内戦を題材とした作品
9 年表 9.1 1936年
9.2 1937年
9.3 1938年
9.4 1939年
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
概要[編集]
フランシスコ・フランコ
スペイン内戦は、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。
内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。また、共産主義とファシスト枢軸との間の代理戦争との見方がなされていた。
この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家アーネスト・ヘミングウェイ、女性戦場特派員マーサ・ゲルホーン(英語版)、全体主義批判作家ジョージ・オーウェル、従軍戦場写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。
背景[編集]
プリモ・デ・リベラ
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。
1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で、従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換。その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ(左翼共和党)を大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガ(es:Santiago Casares Quiroga)を首相とする人民戦線政府が成立した。
しかし、人民戦線も大きく分けて議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではなかった。その中でも強硬派はさらに進んで、警察を使ってスペイン保守派の中心人物の一人であったカルボ・ソテーロ(es:José Calvo Sotelo)を7月13日に暗殺(突撃隊のホセ・カスティージョ(es:José del Castillo Sáenz de Tejada)中尉暗殺への報復)するなど、暴力による右派の排除に乗り出した。キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、果たしてソテーロ暗殺により、かねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。一方、人民戦線内の社労党左派や共産党などは民兵の動員に走り、労働者への武器供与を要求した。また、ストライキの頻発や地方議会の打倒など、革命ムードを高めて行った。
7月17日、エミリオ・モラ・ビダル(es:Emilio Mola)を首謀者として、植民地モロッコのメリージャで反乱が起こった。要注意人物としてカナリア諸島に左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは植民地モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上った。反乱が起こると、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部、外交官、グアルディア・シビルなどの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルーニャ自治を求める勢力などであった。
アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を辞職させ、7月18日、後任に穏健派である共和統一党のディエゴ・マルティネス・バリオ(es:Diego Martínez Barrio)を擁立した。バリオはモラに陸軍大臣の座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。民衆は倒閣のデモを起こし、扇動家はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。バリオ内閣はわずか2日で辞職に追い込まれ、7月19日、徹底抗戦を掲げるホセ・ヒラル(es:José Giral)内閣(左翼共和党)が成立した。また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。
ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。フランコ一族も、兄は反乱軍に付いたが、弟と従兄弟は人民戦線側に付いた。軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。
内戦の展開[編集]
1936年の8月から9月にかけての勢力圏
当初の反乱指導者はモラであったが、トレドを陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出され、指導者の地位に就いた。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリア王国から支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。隣国のポルトガルに成立していたサラザールによる独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。
ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍(CTV)と航空部隊、海軍部隊がスペインに派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。
当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。
そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。
また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。
反乱軍の進撃[編集]
内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。
反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。
空襲を受けた後のゲルニカ
反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(1937年6月)などが重なって権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。
反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲を受けた。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た(共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった)。
さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。
共和国軍の混迷[編集]
共和国軍を率いるバレンティン・ゴンサレス。後に国際旅団を指揮。
一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。
急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党(POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。
「モスクワの金」も参照
当時スペイン銀行は外貨準備用に金を保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるカルタヘナの洞窟に移された。
共和国軍の戦車
当初はカルタヘナからフランス銀行へ金を輸送し、そこで外貨を調達した。輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しの怠業を行った[1]。また、反乱軍は資金の受け取りを「マルクス主義者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、銀行基本法に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。しかしアサーニャに事前の相談はなかったといわれている。
ソ連に輸送された金は約510.08トンにのぼり、当時の価値で5億ドルを超えた。その多くは金塊ではなく各国の金貨だった。また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。戦後、『プラウダ』は1957年4月5日号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルの借款がソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金を横領したという批判も受けている[2]。現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある[3]。いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。
写真はソ連貨物船「クルスク」。1936年12月に支援物資をアリカンテ港に荷卸し中の写真。
更にソ連は人民戦線の指揮権を掌握することを目論み(人民戦線の内部抗争に辟易したためとも言われる)、軍事顧問などに偽装したNKVDが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニン派アナキストのCNT・FAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。これらの非マルクス主義、あるいは非スターリン主義マルクス主義の左翼組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。
第四インターナショナルのスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNT・FAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。
1937年5月、バルセロナで遂に両勢力が衝突へと至り、500名近くの死傷者を出す惨事となった。共産党側は反対派を暗殺で脅したが、相次ぐ内ゲバに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。
国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。
人民戦線最後の攻勢と内戦の終結[編集]
1938年11月時点の勢力圏
1938年7月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者を出し、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。
1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領辞任を余儀なくされた。
フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。4月1日にフランコによって勝利宣言が出された。
国際旅団[編集]
多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員は知識人や学生20%、労働者80%で(人口構成を考えれば特に異常ではない[要出典])、また全構成員の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。 戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。
戦後[編集]
内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑した。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。
カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。例えばメキシコ出版業界の元締めであるフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社は、亡命スペイン人達によって設立された。
戦没者の谷
第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。フランコの腹心で後継者を予定されていたルイス・カレーロ・ブランコ(es:Luis Carrero Blanco)は、米ソの東西冷戦を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。
共和国政府は「スペイン共和国亡命政府」 (en) として、メキシコ、次いでパリにて存続。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年6月15日のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。同年6月21日、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレス (en) が政府の解消を宣言。7月1日、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。
内戦の双方の戦没者はマドリード州にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されているが、フランコ時代に政治犯を動員して建設されたこと、モニュメントなどがいまでもフランコ時代の性格を残していることから、スペイン国内ではいまだ施設の性格の見直しを巡って議論の対象となっている。
影響[編集]
この内戦に参加することによって、ナチス・ドイツは貴重な実戦経験を得る事となった。このことはヴェルサイユ条約下においてさまざまな軍事的な制限を受けていたドイツにとっては得難い経験であり、第二次世界大戦初期の戦闘を優位に進めることにおいて多いに貢献した
交戦国・支援国・団体[編集]
共和派[編集]
スペインの旗 スペイン共和国 Flag of the Popular Front (Spain).svg 人民戦線
Bandera CNT-AIT.svg CNT(全国労働者連合)・FAI(イベリア・アナーキスト同盟)
Socialist red flag.svg UGT(労働総同盟)
Estelada blava.svg ERC(カタルーニャ左翼共和党)・EC
Flag of the Basque Country.svg EG(バスク軍) (1936年 - 37年)
Bandeira galega civil.svg PG(ガリシア党)
Flag of the International Brigades.svg 国際旅団
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
メキシコの旗 メキシコ
ナショナリスト派[編集]
スペインの旗 スペイン Bandera FE JONS.svg ファランヘ党
Flag of Traditionalist Requetes.svg カルロス主義派 (1936年 - 37年)
CEDA flag.svg CEDA(スペイン右翼自治派連盟) (1936年 - 37年)
スペインの旗 アルフォンソ主義派 (1936年 - 37年)
イタリア王国の旗 イタリア王国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Portugal.svg ポルトガル
アイルランドの旗 アイルランド
スペイン内戦を題材とした作品[編集]
関連カテゴリ - Spanish Civil War media
小説 『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ)
『カタロニア讃歌』(ジョージ・オーウェル)
『希望』(アンドレ・マルロー)
『狼たちの月』(フリオ・リャマサーレス) - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。
『サラミスの兵士たち』(ハビエル・セルカス) - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。
『さらばカタロニア戦線』(スティーヴン・ハンター) - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。
ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロベール・ブラジヤックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。
映画 『誰が為に鐘は鳴る』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演。
『命あるかぎり』 - 1955年の西ドイツ映画。ゲルニカを爆撃したとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。
『日曜日には鼠を殺せ』 - 1964年のアメリカ映画。エメリック・プレスバーガーの同名小説を『酒とバラの日々』のJ・P・ミラーが脚色、『尼僧物語』のフレッド・ジンネマンが製作・演出。
『戦争は終った』 - 1965年のフランス映画。アラン・レネ監督。
『ミツバチのささやき』 - 1973年のスペイン映画。ビクトル・エリセ監督。
『鏡』 - 1975年のソ連映画。アンドレイ・タルコフスキー監督。
『歌姫カルメーラ』 - 1990年のスペイン映画。カルロス・サウラ監督。
『ベル・エポック』 - 1992年のスペイン映画。
『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。
『蝶の舌』 - 1999年のスペイン映画。マヌエル・リバスの同名小説の映画化。
『パンズ・ラビリンス』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。
絵画 『ゲルニカ』(パブロ・ピカソ)
写真 ロバート・キャパは『崩れ落ちる兵士』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。
宝塚歌劇 『誰がために鐘は鳴る』 - 鳳蘭・遥くらら主演。
『NEVER SAY GOODBYE』 - 2006年宙組公演。和央ようか・花總まり主演。
年表[編集]
1936年[編集]
人民戦線協定の締結(1月)
人民戦線政府の成立(2月)
スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
フランコ、トレドを占領(9月)
元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)
1937年[編集]
グアダラハーラの戦い(3月)
ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃(4月)
バルセロナで五月事件(5月)
フランコ、ビルバオ占領(6月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
テルエルの戦い(12月から翌年2月)
1938年[編集]
フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
パロス岬沖海戦(5月)
エブロ川の戦い(7月)
国際旅団の解散(10月)
1939年[編集]
フランコ、バルセロナ占領(1月)
イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)
フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
フランコ、マドリード占領(3月)
フランコによる内戦終結宣言(4月)
アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)
第二次世界大戦勃発(9月)
ゲルニカ
ゲルニカ(バスク語:Gernika、スペイン語:Guernica)は、スペインのバスク自治州ビスカヤ県の都市。近隣のルモと連合したため、自治体の正式名称は「ゲルニカ=ルモ(Gernika-Lumo)」、スペイン語で「ゲルニカ・イ・ルノ(Guernica y Luno)」である。人口は16,224人(2009年)。
スペイン内戦の際にドイツ軍の激しい爆撃を受けたことで知られる。その悲惨な様子を描き表したパブロ・ピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。
目次 [非表示]
1 政治的な位置付け
2 歴史
3 姉妹都市
4 外部リンク
政治的な位置付け[編集]
ゲルニカのオーク
ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。
歴史[編集]
爆撃後のゲルニカ
代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。
世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃(1937年4月26日、en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があったほか、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝であった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていた。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケル He111、ユンカース Ju52などの爆撃機が相次いで来襲、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)。
ゲルニカ爆撃が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは
「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」
という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。
ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。ピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もオークの木の前で宣誓を行っている。
姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ボイシ、アメリカ
ドイツの旗 プフォルツハイム、ドイツ
スペインの旗 ベルガ、スペイン
メキシコの旗 セラヤ、メキシコ
スペイン内戦の際にドイツ軍の激しい爆撃を受けたことで知られる。その悲惨な様子を描き表したパブロ・ピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。
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1 政治的な位置付け
2 歴史
3 姉妹都市
4 外部リンク
政治的な位置付け[編集]
ゲルニカのオーク
ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。
歴史[編集]
爆撃後のゲルニカ
代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。
世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃(1937年4月26日、en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があったほか、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝であった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていた。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケル He111、ユンカース Ju52などの爆撃機が相次いで来襲、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)。
ゲルニカ爆撃が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは
「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」
という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。
ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。ピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もオークの木の前で宣誓を行っている。
姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ボイシ、アメリカ
ドイツの旗 プフォルツハイム、ドイツ
スペインの旗 ベルガ、スペイン
メキシコの旗 セラヤ、メキシコ
バスク国 (歴史的な領域)
歴史的な領域としてのバスク国(バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。
スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。
目次 [非表示]
1 地域区分 1.1 南バスク
1.2 北バスク
2 歴史 2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 ガスコーニュ公国
2.4 ナバーラ王国
2.5 フランス・スペインの領土へ
2.6 近代バスク民族運動の勃興
2.7 第二次世界大戦後
3 関連項目
4 外部リンク
地域区分[編集]
バスク国の構成
バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。
南バスク[編集]
南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。
アラバ
中心都市はガステイス(スペイン語:ビトリア)ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ)
中心都市はビルボ(スペイン語:ビルバオ)ギプスコア
中心都市はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年よりナバラ州を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ)
中心都市はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。
北バスク[編集]
北バスク(フランス領バスク)3地域は、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス=ナヴァール)
中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン=ジャン=ピエ=ド=ポル)ラプルディ(フランス語:ラブール)
中心都市はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)スベロア(フランス語:スール)
中心都市はマウレ(フランス語:モレオン=リシャール)
歴史[編集]
先史時代[編集]
フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布
現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
古代[編集]
古代のバスク系部族
ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
ガスコーニュ公国[編集]
ガスコーニュ公国の領域
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエ (Bagaudae) にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国 (Duke of Gascony) の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国 (Duke of Aquitaine) との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公 (Odo of Aquitaine) 、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
ナバーラ王国[編集]
1000年頃のナバーラ王国とその一族(ヒメノ家)の所領(橙色)
詳細は「ナバラ王国」を参照
南バスクではパンプローナ王国(のちのナバーラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。
ナバーラ王国はヒメノ朝のサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、ラ・リオハ、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であったカスティーリャ王国とアラゴン王国も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。
サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ (Sobrarbe) とリバゴルサ (Ribagorza) である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県にはフエロ (Fuero) と呼ばれる自治権が認められた。
フランス・スペインの領土へ[編集]
1512年、アラゴン王フェルナンド2世の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)の領土となる。いっぽう、ピレネー以北のバス=ナヴァール(低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。
1589年、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世はアンリ4世としてフランス王に即位し、ブルボン朝の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。1620年、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。
フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命が起こり、フランス共和国への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。
ナポレオンによるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。
近代バスク民族運動の勃興[編集]
スペイン王国の法域を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた
「バスク国民党」も参照
19世紀、スペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、関税がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。
19世紀後半に行われたカルリスタ戦争において、バスクは自治権を守るために、自由主義的な改革に反対するカルリスタと結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。関税境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。
バラカルドにある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(batzoki)。バルと政治集会の場を兼ねた。
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物にサビーノ・アラナ (Sabino Arana) 、ルイス・アラナの兄弟がいた。今日バスク国の旗として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党としてバスク国民党(EAJ-PNV) が結党された。
バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。
アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。スペイン第二共和政(1931年〜1939年)は、スペイン内戦のさなかの1936年10月、バスク自治政府を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であったゲルニカに爆撃を受けた。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。
第二次世界大戦後[編集]
フランコ政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。
スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なるナバーラ州となる道を選んだ。
バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAはテロリズムを繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。
スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。
目次 [非表示]
1 地域区分 1.1 南バスク
1.2 北バスク
2 歴史 2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 ガスコーニュ公国
2.4 ナバーラ王国
2.5 フランス・スペインの領土へ
2.6 近代バスク民族運動の勃興
2.7 第二次世界大戦後
3 関連項目
4 外部リンク
地域区分[編集]
バスク国の構成
バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。
南バスク[編集]
南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。
アラバ
中心都市はガステイス(スペイン語:ビトリア)ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ)
中心都市はビルボ(スペイン語:ビルバオ)ギプスコア
中心都市はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年よりナバラ州を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ)
中心都市はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。
北バスク[編集]
北バスク(フランス領バスク)3地域は、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス=ナヴァール)
中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン=ジャン=ピエ=ド=ポル)ラプルディ(フランス語:ラブール)
中心都市はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)スベロア(フランス語:スール)
中心都市はマウレ(フランス語:モレオン=リシャール)
歴史[編集]
先史時代[編集]
フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布
現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
古代[編集]
古代のバスク系部族
ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
ガスコーニュ公国[編集]
ガスコーニュ公国の領域
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエ (Bagaudae) にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国 (Duke of Gascony) の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国 (Duke of Aquitaine) との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公 (Odo of Aquitaine) 、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
ナバーラ王国[編集]
1000年頃のナバーラ王国とその一族(ヒメノ家)の所領(橙色)
詳細は「ナバラ王国」を参照
南バスクではパンプローナ王国(のちのナバーラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。
ナバーラ王国はヒメノ朝のサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、ラ・リオハ、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であったカスティーリャ王国とアラゴン王国も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。
サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ (Sobrarbe) とリバゴルサ (Ribagorza) である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県にはフエロ (Fuero) と呼ばれる自治権が認められた。
フランス・スペインの領土へ[編集]
1512年、アラゴン王フェルナンド2世の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)の領土となる。いっぽう、ピレネー以北のバス=ナヴァール(低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。
1589年、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世はアンリ4世としてフランス王に即位し、ブルボン朝の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。1620年、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。
フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命が起こり、フランス共和国への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。
ナポレオンによるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。
近代バスク民族運動の勃興[編集]
スペイン王国の法域を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた
「バスク国民党」も参照
19世紀、スペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、関税がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。
19世紀後半に行われたカルリスタ戦争において、バスクは自治権を守るために、自由主義的な改革に反対するカルリスタと結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。関税境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。
バラカルドにある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(batzoki)。バルと政治集会の場を兼ねた。
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物にサビーノ・アラナ (Sabino Arana) 、ルイス・アラナの兄弟がいた。今日バスク国の旗として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党としてバスク国民党(EAJ-PNV) が結党された。
バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。
アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。スペイン第二共和政(1931年〜1939年)は、スペイン内戦のさなかの1936年10月、バスク自治政府を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であったゲルニカに爆撃を受けた。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。
第二次世界大戦後[編集]
フランコ政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。
スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なるナバーラ州となる道を選んだ。
バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAはテロリズムを繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。