2014年02月07日
バスク国 (歴史的な領域)
歴史的な領域としてのバスク国(バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。
スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。
目次 [非表示]
1 地域区分 1.1 南バスク
1.2 北バスク
2 歴史 2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 ガスコーニュ公国
2.4 ナバーラ王国
2.5 フランス・スペインの領土へ
2.6 近代バスク民族運動の勃興
2.7 第二次世界大戦後
3 関連項目
4 外部リンク
地域区分[編集]
バスク国の構成
バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。
南バスク[編集]
南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。
アラバ
中心都市はガステイス(スペイン語:ビトリア)ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ)
中心都市はビルボ(スペイン語:ビルバオ)ギプスコア
中心都市はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年よりナバラ州を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ)
中心都市はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。
北バスク[編集]
北バスク(フランス領バスク)3地域は、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス=ナヴァール)
中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン=ジャン=ピエ=ド=ポル)ラプルディ(フランス語:ラブール)
中心都市はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)スベロア(フランス語:スール)
中心都市はマウレ(フランス語:モレオン=リシャール)
歴史[編集]
先史時代[編集]
フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布
現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
古代[編集]
古代のバスク系部族
ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
ガスコーニュ公国[編集]
ガスコーニュ公国の領域
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエ (Bagaudae) にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国 (Duke of Gascony) の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国 (Duke of Aquitaine) との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公 (Odo of Aquitaine) 、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
ナバーラ王国[編集]
1000年頃のナバーラ王国とその一族(ヒメノ家)の所領(橙色)
詳細は「ナバラ王国」を参照
南バスクではパンプローナ王国(のちのナバーラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。
ナバーラ王国はヒメノ朝のサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、ラ・リオハ、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であったカスティーリャ王国とアラゴン王国も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。
サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ (Sobrarbe) とリバゴルサ (Ribagorza) である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県にはフエロ (Fuero) と呼ばれる自治権が認められた。
フランス・スペインの領土へ[編集]
1512年、アラゴン王フェルナンド2世の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)の領土となる。いっぽう、ピレネー以北のバス=ナヴァール(低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。
1589年、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世はアンリ4世としてフランス王に即位し、ブルボン朝の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。1620年、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。
フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命が起こり、フランス共和国への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。
ナポレオンによるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。
近代バスク民族運動の勃興[編集]
スペイン王国の法域を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた
「バスク国民党」も参照
19世紀、スペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、関税がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。
19世紀後半に行われたカルリスタ戦争において、バスクは自治権を守るために、自由主義的な改革に反対するカルリスタと結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。関税境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。
バラカルドにある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(batzoki)。バルと政治集会の場を兼ねた。
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物にサビーノ・アラナ (Sabino Arana) 、ルイス・アラナの兄弟がいた。今日バスク国の旗として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党としてバスク国民党(EAJ-PNV) が結党された。
バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。
アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。スペイン第二共和政(1931年〜1939年)は、スペイン内戦のさなかの1936年10月、バスク自治政府を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であったゲルニカに爆撃を受けた。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。
第二次世界大戦後[編集]
フランコ政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。
スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なるナバーラ州となる道を選んだ。
バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAはテロリズムを繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。
スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。
目次 [非表示]
1 地域区分 1.1 南バスク
1.2 北バスク
2 歴史 2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 ガスコーニュ公国
2.4 ナバーラ王国
2.5 フランス・スペインの領土へ
2.6 近代バスク民族運動の勃興
2.7 第二次世界大戦後
3 関連項目
4 外部リンク
地域区分[編集]
バスク国の構成
バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。
南バスク[編集]
南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。
アラバ
中心都市はガステイス(スペイン語:ビトリア)ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ)
中心都市はビルボ(スペイン語:ビルバオ)ギプスコア
中心都市はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年よりナバラ州を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ)
中心都市はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。
北バスク[編集]
北バスク(フランス領バスク)3地域は、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス=ナヴァール)
中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン=ジャン=ピエ=ド=ポル)ラプルディ(フランス語:ラブール)
中心都市はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)スベロア(フランス語:スール)
中心都市はマウレ(フランス語:モレオン=リシャール)
歴史[編集]
先史時代[編集]
フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布
現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
古代[編集]
古代のバスク系部族
ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
ガスコーニュ公国[編集]
ガスコーニュ公国の領域
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエ (Bagaudae) にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国 (Duke of Gascony) の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国 (Duke of Aquitaine) との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公 (Odo of Aquitaine) 、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
ナバーラ王国[編集]
1000年頃のナバーラ王国とその一族(ヒメノ家)の所領(橙色)
詳細は「ナバラ王国」を参照
南バスクではパンプローナ王国(のちのナバーラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。
ナバーラ王国はヒメノ朝のサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、ラ・リオハ、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であったカスティーリャ王国とアラゴン王国も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。
サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ (Sobrarbe) とリバゴルサ (Ribagorza) である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県にはフエロ (Fuero) と呼ばれる自治権が認められた。
フランス・スペインの領土へ[編集]
1512年、アラゴン王フェルナンド2世の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)の領土となる。いっぽう、ピレネー以北のバス=ナヴァール(低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。
1589年、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世はアンリ4世としてフランス王に即位し、ブルボン朝の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。1620年、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。
フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命が起こり、フランス共和国への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。
ナポレオンによるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。
近代バスク民族運動の勃興[編集]
スペイン王国の法域を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた
「バスク国民党」も参照
19世紀、スペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、関税がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。
19世紀後半に行われたカルリスタ戦争において、バスクは自治権を守るために、自由主義的な改革に反対するカルリスタと結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。関税境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。
バラカルドにある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(batzoki)。バルと政治集会の場を兼ねた。
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物にサビーノ・アラナ (Sabino Arana) 、ルイス・アラナの兄弟がいた。今日バスク国の旗として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党としてバスク国民党(EAJ-PNV) が結党された。
バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。
アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。スペイン第二共和政(1931年〜1939年)は、スペイン内戦のさなかの1936年10月、バスク自治政府を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であったゲルニカに爆撃を受けた。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。
第二次世界大戦後[編集]
フランコ政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。
スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なるナバーラ州となる道を選んだ。
バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAはテロリズムを繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/2206570
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック