2014年02月07日
ゲルニカ
ゲルニカ(バスク語:Gernika、スペイン語:Guernica)は、スペインのバスク自治州ビスカヤ県の都市。近隣のルモと連合したため、自治体の正式名称は「ゲルニカ=ルモ(Gernika-Lumo)」、スペイン語で「ゲルニカ・イ・ルノ(Guernica y Luno)」である。人口は16,224人(2009年)。
スペイン内戦の際にドイツ軍の激しい爆撃を受けたことで知られる。その悲惨な様子を描き表したパブロ・ピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。
目次 [非表示]
1 政治的な位置付け
2 歴史
3 姉妹都市
4 外部リンク
政治的な位置付け[編集]
ゲルニカのオーク
ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。
歴史[編集]
爆撃後のゲルニカ
代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。
世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃(1937年4月26日、en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があったほか、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝であった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていた。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケル He111、ユンカース Ju52などの爆撃機が相次いで来襲、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)。
ゲルニカ爆撃が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは
「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」
という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。
ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。ピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もオークの木の前で宣誓を行っている。
姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ボイシ、アメリカ
ドイツの旗 プフォルツハイム、ドイツ
スペインの旗 ベルガ、スペイン
メキシコの旗 セラヤ、メキシコ
スペイン内戦の際にドイツ軍の激しい爆撃を受けたことで知られる。その悲惨な様子を描き表したパブロ・ピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。
目次 [非表示]
1 政治的な位置付け
2 歴史
3 姉妹都市
4 外部リンク
政治的な位置付け[編集]
ゲルニカのオーク
ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。
歴史[編集]
爆撃後のゲルニカ
代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。
世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃(1937年4月26日、en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があったほか、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝であった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていた。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケル He111、ユンカース Ju52などの爆撃機が相次いで来襲、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)。
ゲルニカ爆撃が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは
「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」
という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。
ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。ピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もオークの木の前で宣誓を行っている。
姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ボイシ、アメリカ
ドイツの旗 プフォルツハイム、ドイツ
スペインの旗 ベルガ、スペイン
メキシコの旗 セラヤ、メキシコ
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