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2014年02月07日

ナバラ王国

ナバラ王国(ナバーラ王国とも、バスク語: Nafarroako Erresuma、スペイン語: Reino de Navarra、フランス語: Royaume de Navarre)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。



目次 [非表示]
1 起源
2 王国の興隆 2.1 拡大と分割
2.2 カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立

3 フランス人王朝
4 王国の衰退 4.1 フアン2世と後継者を巡る内乱
4.2 カトリック王フェルナンドの征服
4.3 バス=ナヴァール

5 参考文献
6 関連項目


起源[編集]

パンプローナ王国、のちのナバラ王国は、従来よりピレネー山脈西部の南側及びビスケー湾に居住していたバスクとガスコン(ガスコーニュ)などのヴァスコン族(Vascone)の地域の一部分を占めた。この国の起源の詳細は不明だが、ローマ人も西ゴート人もアラブ人も、常に自分たちの言語を守り通したこの西ピレネー地域を、完全に征服できた訳ではなかったと言うことである。6世紀中頃には、西ゴート王国の南西側からの圧力と、アキテーヌのフランク王国の勢力範囲の限界があったことにもよって、バスク族はピレネー山脈北側への大規模な移動を行い、独立を維持した。現在でもスペインのナバラ州北西部は主にバスク族で占められている。

王国の興隆[編集]

拡大と分割[編集]

史上最初のナバラ王国の王はアバルカというあだ名のあるサンチョ2世で、970年から994年までナバラ王及びアラゴン伯としてパンプローナを治めた。アラゴンの谷は母親から相続した。ジェーム・デル・ブルゴ(Jaime del Burgo)の『ナバラの概略史』によると、パンプローナ王が987年にアラスチュの邸宅をサンファン・デ・ラ・ペーニャに寄贈した際に、ナバラ王という称号をはじめて使用した。様々な場面で初代ナバラ王と名乗っていたが、第3代を名乗ることもあった。

サンチョ2世と次代の王の治世下、ナバラ王国は最大勢力に達した。サンチョ3世(サンチョ大王、在位:1000年 - 1035年)はカスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚した。その結果、ナバラ王国は当時のイベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国はレオン王国に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、ガリシア国境からバルセロナまでの間を支配した。

大王の死後、領地は4人の息子に分割相続された。領土は再度ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれたが、それぞれの地域をナバラのヒメノ王家が治めた。しかしその後(フェルナンド・カトリック王までは)大王の領土は融合することなく、カスティーリャはレオンと連合し、アラゴンは領土を拡大し、政略結婚を通じてカタルーニャと連合した。

カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立[編集]

ナバラ王国はその後独立を維持することが困難になり、近隣の大勢力の国々に依存することになる。ガルシア5世(1035年 - 1054年)の後、自らの弟に暗殺されたサンチョ4世(1054年 - 1076年)が治め、その後はアラゴン王がナバラ王国の地を治めることとなる。カスティーリャ王国はナバラ王国の西部を支配した。12世紀にはカスティーリャ王国は徐々にリオハとアラバを併合した。ナバラはアラゴンと連合(1076年 - 1234年)することにより東部の紛争を避けることが出来たが、西部はカスティーリャに取られたままとなった。1200年前後にはカスティーリャ王国のアルフォンソ8世が他のバスクの2地域(現在では県)であるビスカヤとギプスコアを併合した。タラソナは1134年のナバラの再独立後もアラゴンの所有のままとなった。バスクのビスカヤ統治はカスティーリャ保護下でも独立に近い状態が続き、そのため、これらの王子たちはビスカヤ統治公と呼ばれた。

サンチョ4世の暗殺(1076年)後、カスティーリャ王アルフォンソ6世とアラゴンのサンチョ・ラミレスは共同でナバラの統治にあたった。エブロ川以南の町とバスク地方がカスティーリャの統治となり、残りがアラゴン統治となり、1134年まで続いた。アラゴン統治者3代、サンチョ・ラミレス(1076年 - 1096年)と息子のペドロ・ラミレス(1094年 - 1104年)はウエスカを征服し、ペドロ・サンチェスの弟アルフォンソ・エル・バタラドール(戦闘王、1104年 - 1134年)は王国最大の領土拡張を達成した。ムーア人からトゥデラを奪取(1114年)し、1042年に失したブレバ全土を奪還し、ブルゴ州へと侵攻した。さらに、ロハ、ナヘラ、ログローニョ、カラオラ、アルファロは彼に従い、ギプスコアの港に戦艦を停泊させている間の短期間ではあるがバイヨンヌも従った。1134年、特に何事もなく彼が死んだ後は、ナバラとアラゴンは分離した。アラゴンでは聖職者であったアルフォンソの弟ラミロが王位に就いた。

ナバラでは、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の孫であり、サンチョ大王の子ガルシア5世(ナバラ王としては3世)の庶流であるモンソン卿ガルシア・ラミレスが、大王の庶子ラミロ1世の系統であるアラゴン王家に奪われていたナバラ王位を、1134年に取り戻した。ガルシア・ラミレスは1136年にはリオハをカスティーリャに明け渡し、1157年にはタラゴナをアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャのアルフォンソ7世の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている。

ガルシア・ラミレスの息子サンチョ・ガルシア・エル・サビオ(賢王、1150年 - 1194年)は学習熱心の末、政治家としても有能となり、ナバラを内外共に強固にし、多くの町に憲章を制定し、戦争でも負けなかった。賢王は娘ベレンゲーラをイングランド王リチャード1世と結婚させることに同意する。ナバラまでピレネー山脈を越えやって来たリチャードの母アリエノール・ダキテーヌがベレンゲーラをシチリアへと連れて行き、まさに第3回十字軍に身を投じんとする息子に引きあわせ、1191年5月12日にキプロス島で2人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である。

フランス人王朝[編集]

賢王の息子サンチョ7世が隠棲生活の後、1234年に死去した時、正嫡の子はおらず、ナバラ系ヒメノ家の男系は断絶した。そこで、サンチョの妹ブランカの息子でフランス貴族であるシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王に迎えられた。その息子テオバルド2世(ティボー5世)はフランス王ルイ9世の王女イザベルと結婚するなど、フランス王家とは近い関係にあり、シャンパーニュ伯家(ブロワ家)はフランスでも屈指の名門貴族であった。そのためにイベリア半島の領地よりはフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになる。

ブロワ家では1274年にエンリケ1世(アンリ3世)が没して男子が絶え、幼い娘フアナ1世(ジャンヌ)を女王としたナバラは周囲の諸国から狙われることになった。フアナの母でフランス王族であったブランシュはフランス王フィリップ3世に庇護を求め、王太子フィリップ(のちのフィリップ4世)とフアナの結婚が取り決められた。フィリップは1284年にナバラ王フェリペ1世となり(翌1285年にフランス王位も継承)、ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、カペー朝の断絶までフランスとナバラの同君連合は続いた。ナバラ王家の血を引かないヴァロワ家のフィリップ6世の即位によって1328年に同君連合は解消され、ルイ10世の娘ジャンヌ(フアナ2世)とその夫でフランス王族のエヴルー伯フィリップ(フェリペ3世)がナバラ王位に就いた。

エヴルー家のナバラ王はフアナとフェリペの孫カルロス3世(シャルル3世)で男子が絶え、1425年にカルロスの娘ブランカとその夫のアラゴン王子フアン(のちのフアン2世)が継いだ。

王国の衰退[編集]

フアン2世と後継者を巡る内乱[編集]

ナバラ女王ブランカ1世の夫フアン2世は、たびたび外征を重ねる兄アルフォンソ5世に代わってアラゴンを統治し、ナバラの統治を長男ビアナ公カルロスに任せた。ブランカは夫に先立って死去した際、カルロスが父の同意の下にナバラ王位を継承するよう遺言したが、フアンは同意を与えず、ナバラの王位継承法に反して王位にとどまった。カルロスには総督の地位のみが授けられた。1450年にフアンはナバラを自身の統治下に戻し、野心家の後妻フアナ・エンリケスから、彼らの間に生まれた息子フェルナンド(のちのカトリック王フェルナンド)をアラゴンおよびナバラの王位継承者とするように執拗に迫られた。その結果、王と王妃を支持した強力なアグラモンテス党と、カルロスの主張に賛同した大臣ボーモントのフアンを指導者とし、その名に由来するベアウモンテス党との間で激しい内乱が勃発した(ナバーラ内戦)。高地が王太子の側に、平野が王の側にあった。

不幸な王太子は、1451年にアイバルで父に敗れ、2年間投獄された。その間にカルロスは、この事件に関する現在の知識の典拠となったナバラの年代記を書いた。カルロスは釈放後、フランス王シャルル7世と伯父アルフォンソ5世(ナポリ在住)の支援をむなしく求めた。1460年、継母のそそのかしによりカルロスは再び投獄された。しかし、カタルーニャの人々がこの不正に抗議し、暴動を起こした。カルロスは再び解放され、カタルーニャの総督に任命された。カルロスはナバラ王国を奪回することができないまま、1461年に死去した。彼は相続人として同母妹ブランカを指名した。しかし、ブランカはフアン2世によって直ちに投獄され、1464年に死去した。

ブランカの権利は、フアン2世の同盟者であるフォワ伯兼ベアルン伯ガストン4世の夫人となっていた、同母妹のレオノールに受け継がれた。レオノールはフアン2世の死後間もなく死去したため、1479年にほんの僅か玉座にあっただけだが、彼女が死んだ後はその孫であるフォワ家のフランシスコ・フェボ(在位:1479年 - 1483年)が王位を継承した。早世したフランシスコも、次に王位に就いたその妹カタリナも未成年者だったため、2人の母であるフランス王シャルル7世の王女マドレーヌが摂政を続けた。

カトリック王フェルナンドの征服[編集]

カトリック王フェルナンドは、カタリナを長男フアンと結婚させようとしたが、彼女は南フランスに広大な領地を有するペリゴール伯兼アルブレ伯ジャン(ジャン・ダルブレ)との結婚を選んだ(1494年)。カトリック王フェルナンドはそれに懲りずに、ナバラに対して長く抱いてきた計画を諦めず、カタリナの従妹である自身の姪孫ジェルメーヌと再婚した(ジェルメーヌの父ジャン・ド・フォワは、兄の遺児カタリナを差し置いてナバラ王位を要求したこともあった)。ナバラはフランスに対する神聖同盟への加盟を拒んで中立を宣言し、フェルナンド軍の国内通過を妨害しようとしたため、後にフェルナンドは将軍ファドリケ・デ・トレド(第2代アルバ公)を1512年にナバラ侵攻のために派遣した。ジャン・ダルブレは逃れ、パンプローナ、エステーリャ、オリテ、サングエサ、およびトゥデラは占領された。ナバラ王家および神聖同盟のすべての敵対者は教会から破門されたため、ナバラの人々は、フェルナンドが1515年6月15日に王国領を獲得したと宣言した。王国領のうちピレネー山脈の北側については、フェルナンドは寛大にも敵に譲った。

カトリック王フェルナンドはジャン・ダルブレを破った後、1515年にナバラの大部分を自領に加えた。1511年または1516年に、スペインのナバラ、すなわち王国領の大部分にあたるピレネー山脈の南側部分は、最終的にフェルナンドによって併合された。後にフェルナンドは、この王国領を娘のカスティーリャ女王フアナ1世に譲った。このため、スペインのナバラはアラゴンではなく、カスティーリャの統治下にあると理解されることになった。しかし、スペインのナバラは副王領として統治され、公式には1833年までスペイン王国に併合されなかった。国土の2つの部分の歴史は、スペインのナバラがカトリック王フェルナンドに征服され、北側の一部がフランスに残る1512年までは同一である。

バス=ナヴァール[編集]

ナバラのピレネー山脈北側のわずかな部分は、低ナバラ(フランス語で Basse-Navarre:バス=ナヴァール)と呼ばれ、隣接するベアルヌ公領と共に、相続によって継承された小さな独立君主国として生き残った(この王国はフランスの封建制度下にあるため、日本語ではフランス語風に「ナヴァール王国」とも呼ばれる。以下その表記を使用する)。ナヴァールは、ジャンの息子アンリ2世の代から王国として承認され、代表議会、バイヨンヌとダクスの司教によって代表される聖職者ら、サン=ジャン=ピエ=ド=ポルの教区司祭、サン=パレ、ユトゥジア及びアランプレの小修道院長が置かれた。

1589年アンリ4世のフランス国王即位に伴いその政府がフランス政府に統合されたとき、それはまだ王国と呼ばれていた。アンリ4世以後、フランスの王はその称号に「ナヴァールの王」を追加した。バスク語はこの地方の大部分でまだ話されている。ナヴァール王アンリ3世がフランス王アンリ4世となり、フランスの王位によって統合した1589年まで、ピレネー山脈の北側地域、すなわちナヴァールはフランス人の土地を大きく加えた独立王国のまま存続した。ナヴァールはベアルヌ公領と統合し、フランスの州となった。

参考文献[編集]
レイチェル・バード 著、狩野美智子 訳『ナバラ王国の歴史 山の民バスク民族の国』(彩流社)
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ヒメノ朝

ヒメノ朝 (ヒメノちょう、Dinastía Jimena)は、中世イベリアのバスク人王朝。パンプローナ王国(ナバーラ王国)の有力貴族で、バスク人の英雄イニゴ・アリスタの親族(諸説あり)ヒメノ1世により創始されたヒメノ家を起源とする。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 中世における隆盛
1.2 衰退とその名残

2 ヒメノ朝の君主 2.1 パンプローナ副王
2.2 ナバーラ王
2.3 アラゴン王
2.4 カスティーリャ王、レオン王

3 家系図
4 関連項目


歴史[編集]





11世紀時点でのヒメノ朝の領域。赤色がナバラ本領で、オレンジ色が本家の領地、桃色が分家の領地を指す。




サンチョ3世時代
中世における隆盛[編集]

イニゴ・アリスタ家に男子が絶えると、当時のヒメノ家当主サンチョ・ガルセス1世がアリスタの曾孫である女王トダを娶り、ヒメノ朝を創始した。サンチョ・ガルセス3世の治世では妻と母の領地を継承してカスティーリャ伯とアラゴン地方の支配者を兼ね、更に息子たちの婚姻外交や外征でカタルーニャ、レオン王国をも支配下に収めた。更に縁の深いガスコーニュの一部も獲得し、イベリアのキリスト教諸国を統一したサンチョ3世は「大王」「ヒスパニア皇帝」を自称し、後者に関しては正式な戴冠式を行っている。

サンチョ3世の帝国は死後に息子たちの領土分割で潰えたが、それが北イベリア諸国にヒメノ家が拡散する結果を生んだ。息子たちはレコンキスタの前半を主導してタイファ諸国と激しい戦いを繰り広げつつ、父祖の所領を統一しようとたびたび争った。また有力な者は再び「ヒスパニア皇帝」を自称した。

衰退とその名残[編集]

12世紀から13世紀の間に、ヒメノ家は各系統とも男子が絶え、歴史から姿を消し始める。しかしあくまで西欧的な王朝交代であり、後の諸王もイニゴ・アリスタやヒメノ1世、サンチョ3世の血を引いている。イベリアのキリスト教諸国が勢威を取り戻した時代に、ほぼ全ての有力国の王家に血を広めたヒメノ家は、決して少なくない影響をイベリア史に残している。

ナバーラ王国のヒメノ朝もサンチョ7世で断絶しているが、ヒメノ家の血を引くシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王位を継承した。以後、ナバーラ王位はその血を引くフランスの貴族(カペー朝末期のフランス国王を含む)によって継承され、その末裔であるアンリ4世に始まるブルボン朝の歴代フランス王は、いずれも「フランスとナバーラの王」を称した。

ナバーラ王国は一方で、フランスへの統合以前にその大部分がアラゴン王フェルナンド2世に征服され、後のスペイン王国へ統合されているが、フェルナンド2世もその妻であるカスティーリャ女王イサベル1世も、カスティーリャ女王ウラカの血を引く(女系では他の系統の血も引く)トラスタマラ家の国王・女王である。その血はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)からスペイン・ハプスブルク家へと受け継がれた。

ボルボン朝の初代国王フェリペ5世はブルボン・ハプスブルク両家の血を引いており、その末裔である現スペイン国王フアン・カルロス1世もまた、ヒメノ1世の末裔としてバスク人の血統を継いでいることになる。

ヒメノ朝の君主[編集]

パンプローナ副王[編集]
ヒメノ1世(9世紀頃) 初代パンプローナ王イニゴ・アリスタの分家筋とされる。
ガルシア・ヒメネス(9世紀頃)

ナバーラ王[編集]
サンチョ・ガルセス1世(905年 - 925年)アリスタ家の末裔トダと結婚
ヒメノ・ガルセス(925年 - 931年)
ガルシア・サンチェス1世(931年 - 970年)
サンチョ・ガルセス2世(970年 - 994年)
ガルシア・サンチェス2世(994年 - 1004年)
サンチョ・ガルセス3世(1004年 - 1035年) 大王・ヒスパニア皇帝
ガルシア・サンチェス3世(1035年 - 1054年)
サンチョ・ガルセス4世(1054年 - 1076年)
サンチョ5世ラミレス(1076年 - 1094年) アラゴン王サンチョ1世
ペドロ1世(1094年 - 1104年) アラゴン王ペドロ1世
アルフォンソ1世(1104年 - 1134年) アラゴン王アルフォンソ1世
ガルシア・ラミレス(1134年 - 1150年)
サンチョ6世(1150年 - 1194年)
サンチョ7世(1194年 - 1234年)

アラゴン王[編集]
ラミロ1世(1035年 - 1069年)
サンチョ・ラミレス(1069年 - 1094年)
ペドロ1世(1094年 - 1104年)
アルフォンソ1世(1104年 - 1134年)
ラミロ2世(1134年 - 1137年)
ペトロニラ(1137年 - 1164年)

カスティーリャ王、レオン王[編集]
フェルナンド1世(1037年 - 1065年、カスティーリャ伯:1035年 - 1037年)
サンチョ2世(カスティーリャ王:1065年 - 1072年、レオン王:1072年)
アルフォンソ6世(カスティーリャ王:1072年 - 1109年、レオン王:1065年 - 1072年、1072年 - 1109年)
ウラカ(1109年 - 1126年)

家系図[編集]
サンチョ・ガルセス1世以前の系図については諸説が存在する事に注意

























イニゴ・アリスタ
パンプローナ王







































































ガルシア・イニゲス
パンプローナ王







































































フォルトゥン・ガルセス
パンプローナ王























































ヒメノ1世
パンプローナ副王

アズナール・サンチェス
ララウン領主

フォルトゥス
パンプローナ王女

























































ガルシア・ヒメネス
パンプローナ副王





トダ
パンプローナ王女

































































ヒメノ・ガルセス
ナバラ王

サンチョ・ガルセス1世
ナバラ王























































































ガルシア・サンチェス1世
ナバラ王

ガリンデス
アラゴン伯女











































































































サンチョ・ガルセス2世
ナバラ王

ウラカ・フェルナンデス
カスティーリャ伯女



















































































































ガルシア・サンチェス2世
ナバラ王



















































































































サンチョ・ガルセス3世
ナバラ王
ヒスパニア皇帝































































































































































フェルナンド1世
カスティーリャ王
レオン王





























ガルシア・サンチェス3世
ナバラ王

ラミロ1世
アラゴン王















































































































サンチョ2世
カスティーリャ王

アルフォンソ6世
カスティーリャ王
レオン王

















サンチョ・ガルセス

サンチョ・ガルセス4世
ナバラ王

サンチョ・ラミレス
アラゴン王
ナバラ王























































































































ライムンド
ガリシア伯

ウラカ
カスティーリャ女王
レオン女王

テレサ

エンリケ
ポルトゥカーレ伯

ラミロ・サンチェス

ペドロ1世
アラゴン王
ナバラ王

アルフォンソ1世
アラゴン王
ナバラ王

ラミロ2世
アラゴン王























































































(イヴレーア家)
アルフォンソ7世
カスティーリャ王
レオン王









(ボルゴーニャ家)
アフォンソ1世
ポルトガル王





ガルシア・ラミレス
ナバラ王









ラモン・ベレンゲー4世
バルセロナ伯

ペトロニラ
アラゴン王











































































































サンチョ6世
ナバラ王













(バルセロナ家)
アルフォンソ2世
アラゴン王















































































































サンチョ7世
ナバラ王

ブランカ

ティボー3世
シャンパーニュ伯





























































































































(シャンパーニュ家)
テオバルド1世
ナバラ王







ペルピニャン

ペルピニャン(フランス語:Perpignan、カタルーニャ語:Perpinyà [pərpiˈɲa] パルピニャー)はフランス南部、ラングドック=ルシヨン地域圏、ピレネー=オリアンタル県の県庁所在地。周辺のコミューンを含め人口約28万人の都市圏を形成している。フランス領カタルーニャ(北カタルーニャ)の中心都市。



目次 [非表示]
1 地理
2 気候
3 歴史
4 史跡・行事
5 料理
6 産業
7 交通
8 環境対策
9 スポーツ
10 友好都市・姉妹都市
11 脚注
12 外部リンク


地理[編集]

市内をテート川(Têt)が流れ、川から市内に水を供給する数か所の灌漑用水路がある。

ペルピニャンは、ルシヨン平野 (Plaine du Roussillon) の中央に位置する。南はピレネー山脈、西はコルビエール地方 (Corbières) 、東は地中海、北はラバネール川である。

気候[編集]

地中海性気候であり、冬は温暖で氷点下まで冷え込む日は年4日ほどである。夏は暑くて乾燥するが、北西風トラモンターヌ (en:Tramontane) がしばしば吹き(日に4時間ほど)、夏には新鮮な空気をもたらす。年間平均気温は15.9℃である。夏期の最高気温は30℃を上回る。ペルピニャンのあるルシヨン平野は、フランス有数の暑い地域である。


[隠す]ペルピニャンの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
12.3
(54.1) 13.4
(56.1) 15.7
(60.3) 17.6
(63.7) 21.3
(70.3) 25.3
(77.5) 28.8
(83.8) 28.4
(83.1) 25.1
(77.2) 20.4
(68.7) 15.6
(60.1) 13.2
(55.8) 19.8
(67.6)

平均最低気温 °C (°F)
4.4
(39.9) 5.1
(41.2) 7.0
(44.6) 8.9
(48) 12.4
(54.3) 16.1
(61) 18.8
(65.8) 18.8
(65.8) 15.6
(60.1) 11.9
(53.4) 7.6
(45.7) 5.3
(41.5) 11.0
(51.8)

降水量 mm (inch)
50.6
(1.992) 44.8
(1.764) 43.5
(1.713) 55.9
(2.201) 50.1
(1.972) 28.3
(1.114) 17.1
(0.673) 32.0
(1.26) 47.3
(1.862) 89.8
(3.535) 58.6
(2.307) 54.4
(2.142) 572.4
(22.535)

平均降雨日数
5.2 4.7 4.5 5.9 5.5 4.1 3.0 3.9 4.2 5.1 5.1 5.3 56.5

平均月間日照時間
147.5 153.2 206.2 214.2 240.1 270.6 313.9 270.7 217.7 182.3 147.7 141.9 2,506
出典: Météo France[1]

歴史[編集]





現存する城壁
ローマ時代から人が定住していた。中世のペルピニャンの建設が始まったのは10世紀初め、927年に初めて地名ヴィラ・ペルピニナルム(villa Perpiniarum)として名が現れた。ルサリョー(フランス語ではルシヨン)伯領の本拠地としてである。1172年、ルサリョー伯ジラルドに嗣子がなくルサリョー伯家が断絶するとバルセロナ伯領に吸収され、アラゴン王国の一部となった。1197年、ペルピニャンは半自治的なコミューンとして法令を獲得した。アラゴン王ハイメ1世がマヨルカ王国を建国した1276年から1344年まで、本土にあるペルピニャンが王国の首都として黄金時代を迎えた。王国はバレアレス諸島、ルサリョー、サルダーニャを領有する他、モンペリエ領主でもあった。布地製造、革製品製造、金細工やその他手の込んだ工芸品の中心地として栄えた。アラゴンに対する十字軍遠征が不成功に終わった1285年、フランス王フィリップ3世は、ペルピニャンで病死した。

1344年、アラゴン王ペドロ4世がマヨルカ王国を併合すると、ペルピニャンは再びバルセロナ伯領となった。数年の後、ペルピニャンは黒死病の流行で人口のおよそ半分を失った。1463年、ルイ11世に攻撃され占領された。1473年、フランス支配に対する暴動は長い包囲戦の後無慈悲に弾圧された。しかし1493年、イタリア侵攻を自由に行うためにシャルル8世はカスティーリャ王国を懐柔しようと、ペルピニャンをフェルナンド2世(カスティーリャ王家であるトラスタマラ家と同族)へ割譲した。

1642年9月、三十年戦争の最中にフランス軍が再び包囲しペルピニャンを占領した。1659年、ピレネー条約によってペルピニャンを含むルサリョーはフランス領となった。

史跡・行事[編集]
サン=ジャン=バティスト大聖堂 (Cathédrale Saint-Jean-Baptiste de Perpignan) - 1324年から1509年にかけて建設された。
マヨルカ王国の王城 - 13世紀に建てられた。城壁はルイ11世とシャルル5世によって強化され、17世紀にはルイ14世に仕えた軍人ヴォーバンによって改善が加えられた。市街を取り囲んでいた城壁は、1904年に市域の拡大によって破壊され、現在は一部が残る。
セメーヌ・サント(Semaine Sainte) - カトリック教会の聖週間のこと。Sanchと呼ばれる礼拝行進が行われる。
中世市(Le marché médiéval) - 毎年9月に開催。







サン=ジャン=バティスト大聖堂







カタルーニャ時代の旧ジャナラリター(市代表部)庁舎







2007年のセメーヌ・サント。異様に見える衣装は告解者の扮装である







中世市。中世の衣装を身につける



料理[編集]

ペルピニャンの伝統料理は、明らかにカタルーニャ料理である。オリーブ・オイルをかけて食す野菜と魚介のグリル、エスカリヴァーダ (Escalivada) 、ポトフに似た伝統的な煮込み料理オジャーダ (Ollada) 、パエーリャの一種リズ・ア・ラ・カタラーナ (Riz à la Catalane) 、コリウールで水揚げされたアンチョビ、ヌガーなどがある。

産業[編集]

観光以外では、ワインやオリーブ・オイル、コルクの生産が主である。他に羊毛製品、皮革製品が知られる。

交通[編集]





BIP!のロゴが目印の貸し自転車鉄道 - フランス国鉄 (SNCF) のナルボンヌ=ポルトボウ線とLGVペルピニャン-フィゲラス線が通る。市の後背地では、ピレネー山中のモン=ルイへ向かうセルダーニュ線が通っている。TGVはパリ・リヨン駅およびリール・ユーロップ駅、シャルル・ド・ゴール空港第2TGV駅からの直通列車が設定されている。TERは、ナルボンヌ、カルカソンヌ、トゥールーズ、モンペリエ、マルセイユ方面の列車が発着する。
空港 - ペルピニャン=リヴサルト空港
道路 - オトルートA9がナルボンヌからバルセロナへと通じている。
貸し自転車 - 2008年2月より、ペルピニャン市の施策により、150台の自転車を集めた15箇所の貸し自転車ステーションが設けられた。

環境対策[編集]

2009年4月に、周辺の23自治体とともに、2015年までに太陽光と風力発電で地域内の民生部門電力を全て自給する計画を発表した。フランス国内最長の日照時間と、ピレネー山脈に沿って流れる風を利用し、約7万平方メートルのソーラーパネル、3箇所の太陽光発電所、40基の風力発電機、公共施設の屋根を全面太陽光パネル化、廃熱利用施設を1か所整備することで、年間消費電力である毎時437ギガワットに対応した毎時440ギガワットの電力生産を目指す[2] [3]。

スポーツ[編集]
USAペルピニャン - ラグビークラブ。フランス一部リーグTOP14所属。非常に熱狂的なサポーターを持つことで知られる。

友好都市・姉妹都市[編集]
ドイツの旗 ハノーファー、ドイツ
イギリスの旗 ランカスター、イギリス
アメリカ合衆国の旗 レイクチャールズ、ルイジアナ州、アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の旗 サラソータ、フロリダ州、アメリカ合衆国
レバノンの旗 ティルス、レバノン
スペインの旗 ジローナ、スペイン
スペインの旗 バルセロナ、スペイン
スペインの旗 フィゲーラス、スペイン
イスラエルの旗 Ma'alot-Tarshiha、イスラエル
ポルトガルの旗 タヴィラ、ポルトガル

ジャナラリター・デ・カタルーニャ

ジャナラリター・デ・カタルーニャ (カタルーニャ語:Generalitat de Catalunya 発音: [ʒənəɾəliˈtat də kətəˈluɲə])は、スペイン、カタルーニャ自治州の自治政府である[1]。議会(「州議会」とも。Parlament de Catalunya ; ca、es)、州政府首相(President de la Generalitat de Catalunya ; ca、es)、内閣(Govern de Catalunya ; ca、es)によって構成される。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 常設代表機関の誕生
1.2 最初の廃止
1.3 最初の復活
1.4 2度目の廃止
1.5 2度目の復活

2 現在の地位
3 政府の自治システム
4 スペイン国外での存在感
5 参照
6 外部リンク


歴史[編集]

常設代表機関の誕生[編集]

ジャナラリターは、バルセロナ伯ジャウマ1世(アラゴン王としてはハイメ1世)時代に、王が当時の社会的階層の代表を召集して面会するものであった、コルツ(Corts Catalanes ; ca、es、聖職者、軍人または貴族、市民代表の3身分で構成。コルテスに相当)にて誕生した。ペラ3世時代の1283年、バルセロナでのコルツにて、最初のカタルーニャ憲法が誕生した。この時期に、王は毎年通常のコルツを開催するよう義務化された。1289年、モンソンのコルツで、全体会議(Diputación del General)という、コルツが開催されない合間に常設代表機関を設置することが決められ、王に納める税金を集めることになった。この税金は一般的にジャナラリタツ(Generalitats ; ca、es)として知られ、王が戦費調達目的で行った。時を経て、税金から派生したジャナラリターという非公式の名が、全体会議の名に取って代わって常設代表機関を意味するようになった。

1358年から1359年にかけ、バルセロナ、ビラフランカ・ダル・パナデス、サルベラでコルツが開催された。このコルツで、税問題についての執行権を持つ12人の議員を選出した。同様に、ジャナラリター初代代表に選出されたジローナ司教バランゲーの権威の下で、幾人かの監督者たちが行政部門を管理していた。

マルティー1世が後継者を指名しないまま急逝したことで生じた空位時代、ジャナラリターが政治的な責任を負った。議員選出のシステムは一定の議論の対象であった。1455年のコルツでは、縁故者登用による寡頭政治を避けるため、投票を採用した。任期を満了する議員が、無作為に選ばれた12人の候補のうちから選ぶようにしたのである。中世後期のジャナラリターは、君主に次いでカタルーニャの主たる統治機関であった。

最初の廃止[編集]

ジャナラリターに依存していたカタルーニャの機関は、ピレネー条約の1年後にスペインからフランスへ宗主権が委譲されたことで、北カタルーニャ(現在のピレネー=オリアンタル県)で廃止された。

その後、18世紀初頭の新国家基本法(en)成立によって、スペイン領のカタルーニャにおいても廃止された。

最初の復活[編集]





ジュゼップ・タラデーリャス
スペイン第二共和政時代の1932年、カタルーニャの自治政府としてその近代政治性と代表的機能を与えられ、スペイン領カタルーニャにおいてジャナラリターが復活した。

1934年のスペイン総選挙で右翼同盟が勝利すると、ジャナラリターの左翼指導者たちがスペイン当局に対し反抗した。一時的に1934年から1936年までジャナラリターは停止させられた。1936年2月のスペイン総選挙でスペイン人民戦線が勝利するまで、停止は解除されなかった。

2度目の廃止[編集]

1939年、共和国側の敗退によってスペイン内戦が終結し、フランシスコ・フランコはジャナラリターの廃止を宣した。ジャナラリターとその代表は国外へ亡命し、その状態は1975年のフランコの死と1976年の自由選挙施行まで続いた。

2度目の復活[編集]

1939年から1977年まで、ジャナラリターとその代表は国外へ亡命したままであった。フランコ没後、マドリードの政府との合意によって、当時の亡命ジャナラリター代表ジュゼップ・タラデーリャス(es )はカタルーニャへ帰国し、スペイン政府によって合法的なジャナラリタ代表と認定された。カタルーニャへ帰国した際のタラデーリャスの第一声、Ciutadans de Catalunya: ja sóc aquí(カタルーニャ国民たちよ、今、私はここへ戻った)は、カタルーニャが自治を取り戻した瞬間、現代スペインの歴史的愛国主義の一つとしてしばしば引用される。

1977年9月、ジャナラリター・デ・カタルーニャは再びバルセロナのジャナラリター庁舎に入った。この後、1978年スペイン憲法によって自治権がジャナラリターに与えられた。カタルーニャにおける国民投票での承認とスペイン国会での可決を得て、1979年にカタルーニャ自治憲章(ca)が成立した。

現在の地位[編集]





現ジャナラリター代表アルトゥール・マス
現在の、選挙で選ばれたジャナラリター代表は、2010年11月カタルーニャ州議会選挙で勝利したアルトゥール・マス(ca)である。彼はカタルーニャ・ナショナリズム政党カタルーニャ民主集中党(Convergència Democràtica de Catalunya、略称CDC)とカタルーニャ民主同盟党(Unió Democràtica de Catalunya、略称UDC)の政党連合である集中と統一(略称CiU)の代表であり、2010年12月27日に就任した[2].[3]。前任は、カタルーニャ社会党(es、略称PSC)党首でもあるホセ・モンティージャ(es:José Montilla)で、カタルーニャ左翼共和党(ca、ERC)やカタルーニャ緑の党イニシアティブ(ca、ICV)などとの三党連立を基盤としていた。モンティージャの所属する社会党は実際、2006年カタルーニャ議会選挙(議席数が過半数に達した政党はなかった)において野党第一党のCiUに次いで議席数は2番目であった。しかし議会内で他党議員から彼は幅広い支持を集めており、彼の前任者(パスクアル・マラガイ)が23年間に及んだジョルディ・プジョール政権後初めてCiUを野党の地位にするため、繰り返し連立政権を発足させたように、複数政党による連立を繰り返していた。

2006年6月18日、改正カタルーニャ自治州法が承認され、8月から効力を発生した。改正法の議事開始において、自治州法改正は政権側である左翼政党及び野党第一党(CiU)からも支持された。これはスペイン政府レベルからの地方分権を要請するために足並みをそろえたものであった。自治州の会計と財源を増強し、カタルーニャの民族的アイデンティティーの認識を明らかにする目的もあった。しかし、自治州法改正の最終段階ではその細部について厳しく争われ、カタルーニャの政治シナリオにおける主な論争となっているものが主題となった。

政府の自治システム[編集]

ジャナラリターの執行部門は、代表、議会、内閣から構成される。一部の人々は、誤ってこの名前が執行部門のみならず内閣と意味が同じだとして用いる。しかし、ジャナラリター・デ・カタルーニャとは、カタルーニャ自治州の自治機構全体を指すのである。

1979年以降、カタルーニャは徐々に自治の割合を高めてきた。ナバーラ自治州とバスク自治州に次いで、カタルーニャはスペイン国内で最大級の自治政府を持っている。ジャナラリターは、文化、環境、電気通信、輸送、商業、公安、自治政府といった様々な事項で、高度で広範囲な管轄権を保持している[1]。教育、健康、司法に関係する多くの面では、州はスペイン中央政府と管轄を分担している [2]。

カタルーニャの自治の度合いを示す例の一つとして、独自の警察組織モソス・デスカドラー("La Policia de la Generalitat de Catalunya"とも。 : ca、en)がある。これは現在カタルーニャ州内で、グアルディア・シビルとスペイン国家警察隊(Policía Nacional)の持つ警察機能のほとんどを引き継いでいる。.

いくつかの例外を除き、司法制度は国の司法機関によって運営されている。法制度は民法を除いて、スペイン国内で統一されている。カタルーニャでは、民法が州内で独自に運用されている [3]。ジャナラリターから別の機関として発足しているが、そのチェックとバランス機能において独立した機関であるシンディック・ダ・グレウジェス(Síndic de Greuges ; ca)と呼ばれるオンブズマン[4]は、民間人または組織、ジャナラリターまたは地方自治体との間に生じる問題に対処する。

スペイン国外での存在感[編集]

現在のカタルーニャは、国際連合加盟国からもデ・ファクト国家からも、主権国家としてまったく承認されておらず、「スペインという主権国家の一自治体」とみなされている。しかし、近年のカタルーニャは徐々に、より高度な自治を獲得しており、ジャナラリター・デ・カタルーニャは国外の機関との二国間関係をほぼ確立している。ほとんどの場合、これらの関係はカナダ・ケベック州のような別の『国家でない国』(en:Stateless nations)の州政府とであるか [5]、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のような政治権力のある準国家政体との間で結ばれている[6]。加えて、大半のスペイン自治州のように、カタルーニャはヨーロッパ連合のような国際機関において、恒久的な代表団を持っている[7]。

カタルーニャは世界中に40箇所以上の駐在員事務所を抱えている[8] [9]。これらの事務所のほとんどが、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、パリ、東京といった世界の主要都市に置かれている。それぞれの事務所は、省庁や部署によって特定の職務を持つ。一般的には、これらの事務所の機能はジャナラリターの、貿易、外国投資、カタルーニャ文化・言語支援、観光振興や国際協力活動といった、特定の利益を代表している [10] [11]。

フランスに属するピレネー=オリアンタル県は北カタルーニャと称されるが、特定の政治機関をもたない。しかし2003年9月5日以降、ペルピニャンにカサ・ド・ラ・ジャナラリタ(Casa de la Generalitat)が設置され、西仏国境の両側からのカタルーニャ文化振興及び交流促進を目指している[12]。

バルセロナ伯

バルセロナ伯 (カタルーニャ語:Comtes de Barcelona)は、9世紀から17世紀まで続いたカタルーニャの君主。



目次 [非表示]
1 概要
2 バルセロナ伯の一覧 2.1 群雄時代(801年から878年)
2.2 バルサローナ家(878年から1162年)
2.3 アラゴン家(1162年から1410年)
2.4 トラスタマラ家(1412年から1516年)
2.5 アブスブル家(1516年から1700年)
2.6 スペイン継承戦争(1700年から1714年)

3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]

バルセロナ伯領は、カール大帝がエブロ川の北の土地を征服後に創設した。これらの土地は、スペイン辺境伯領と呼ばれ、多様な伯領に分割されていた。バルセロナ伯領は常に他の伯領を同時に保有しており、その後すぐ一帯の第一位の座を獲得してきた。

伯領として一つの家系が世襲し、カペー朝がカロリング朝に取って代わった後すぐ、伯爵と宗主国・フランク王国との関係は弱まった。

11世紀、バルセロナ伯はアラゴン王国との同君連合(アラゴン連合王国)を形成、1人の君主の下で2カ国統治を行うようになった。1258年、フランス王がコルベイユ条約においてバルセロナ伯領への封建的な宗主権を放棄した(それまで、形式上はフランスがカタルーニャの宗主国のままであった)。

バルセロナはアラゴン王国の一部のままであり、1500年前後にはカスティーリャ王国と統合し、スペイン王国を形成した。伯領の最後の残存した証拠は、18世紀のスペイン継承戦争後取り除かれた。

バルセロナ伯は現在、スペイン国王が持つ世襲称号の一つとなって残っている。またスペイン国王の法定推定相続人たるアストゥリアス公も、カタルーニャ貴族としてサルベラ伯(Conde de Cervera)及びバラゲー領主(Señorío de Balaguer)の称号を有する。

20世紀、「バルセロナ伯」の称号が久方ぶりに公に現れた。亡命していたスペイン・ブルボン家の王位継承権保持者フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグがバルセロナ伯とされたのである。フアンは長男フアン・カルロスが当時のスペインの独裁者フランシスコ・フランコによって後継者にされると、王位請求権を取り下げ、代わりに歴史ある王家の称号を欲したのである。フアン・カルロス1世は1975年のフランコの死で即位すると、1977年に父フアンの王位継承権を認め、バルセロナ伯の称号を与えた。フアンは1993年に亡くなるまでこの称号を保持し続けた。その後、バルセロナ伯の称号はフアン・カルロス1世へ返され(代わりにフアンはスペイン王を追尊された)、現在に至っている。バルセロナ伯フアンの未亡人マリア・デ・ラス・メルセデスは2000年に亡くなるまでバルセロナ伯妃(Comtessa de Barcelona)の称号を使用していた。

バルセロナ伯の一覧[編集]

人名はカタルーニャ語表記を優先する。

群雄時代(801年から878年)[編集]




肖像

治世

説明

ベラー 801年 - 820年 トゥールーズ伯ギヨームの子。同時にジローナ伯、バサルー伯、アウソーナ伯、ラゼースとコンフレン伯
ランポー 820年 - 826年 ジローナ伯、バサルー伯
ベルナト1世 826年 - 832年 トゥールーズ伯ギヨームの子。セプティマニア辺境伯
ベレンゲー 832年 - 835年 トゥールーズ伯
ベルナト
(Bernat) 836年 - 844年 シャルル2世の命で任命。
スニフレー1世 844年 - 848年 カルカソンヌ伯ベロの子、アウソーナ伯、バサルー伯、ジローナ伯、ナルボンヌ伯、アグド伯、ベジエ伯、ロデーヴ伯、メルゲイユ伯、サルダーニャ伯、ウルジェイ伯、コンフレン及びニーム伯
ギリェン
(Guillem) 848年 - 850年 ベルナト1世の子、トゥールーズ伯。反乱を起こして殺害された。
アレラン 850年 - 852年 イセンバルーと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯、セプティマニア辺境伯
イセンバルー 850年 - 852年 プロヴァンス伯グェランの子、アレランと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯およびセプティマニア辺境伯
オダリック 852年 - 858年 イストラ辺境伯スニフレーの子、ジローナ伯、ルサリョー伯、アンプリアス伯、セプティマニア辺境伯
ウンフリー 858年 - 864年 ラエティア伯ウンフリーの子、ジローナ伯、アンプリアス伯、ルサリョー伯、ナルボンヌ伯、ゴティア辺境伯
ベルナト2世
(Bernat II) 865年 - 878年 ポワティエ伯ベルナールの子、ジローナ伯、ゴティア及びセプティマニア辺境伯。反乱を起こした。





スペイン辺境伯領
バルサローナ家(878年から1162年)[編集]




肖像

治世

説明

ギフレー1世(スペイン語版)
(Guifré I)
多毛伯 (el Pelós) Wilfredo el Velloso 01.jpg 878年 - 897年 ギフレー・ダリアー伯の子。自身の子孫による世襲制を確立。
ギフレー2世ボレイ(スペイン語版)
(Guifré II Borrell) 897年 - 911年 ギフレー多毛伯の子
スニェー1世(スペイン語版) 911年 - 947年 ギフレー2世の弟。修道院へ引退する
ボレイ2世(スペイン語版) 947年 - 992年 スニェー1世の子
ミロー1世と共同統治(947年 - 966年)、ラモン・ボレイと共同統治(988年 - 992年)、
ウルジェイ伯(948年 - 992年)。サラセン人との戦いで西フランク王ロテールへ支援を依頼したが不成功に終わり、987年にユーグ・カペーをフランス王として承認するのを拒絶した。
ミロー1世(スペイン語版) 947年 - 966年 スニェー2世の子、ボレイ2世と共同統治。
ラモン・ボレイ(スペイン語版) 988年 - 1018年 ボレイ2世の子、父王とともに共同統治(988年 - 992年)。
バランゲー・ラモン1世(スペイン語版)
背曲がり伯 (el Corbat) 1018年 - 1035年 ラモン・ボレイの子。母親であるカルカソンヌ伯女エルメシンダが摂政を務め、彼はナバーラ王サンチョ大王の宗主権を認めることを強いられた。
ラモン・バランゲー1世(スペイン語版)
老伯 (el Vell) 1035年 - 1076年 バランゲー・ラモン1世の子
ラモン・バランゲー2世(スペイン語版)
糸屑頭伯 (el Cap d'Estopes) 1076年 - 1082年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるバランゲー・ラモン2世と共同統治。
バランゲー・ラモン2世(スペイン語版)
兄弟殺し伯 (el Fratricida) 1076年 - 1097年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるラモン・バランゲー2世と共同統治(1076年 - 1082年)。甥であるラモン・バランゲー3世と共同統治(1082年 - 1097年)
ラモン・バランゲー3世(スペイン語版)
偉伯 (el Gran) Ramon Berenguer III.jpg 1082年 - 1131年 ラモン・バランゲー2世の子
ラモン・バランゲー4世
聖人伯 (el Sant) Petronila Ramon Berenguer.jpg 1131年 - 1162年 ラモン・バランゲー3世の子。1137年、アラゴン王女ペトロニーラと婚約、1150年に結婚。





ラモン・バランゲー1世の墓碑
アラゴン家(1162年から1410年)[編集]

ラモン・ベレンゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(カタルーニャ語名パルネリャ)と結婚し、アラゴンとの同君連合(アラゴン連合王国)を成立させた。2人の息子であるアルフォンス2世はカタルーニャとアラゴンの君主位につき、バルセロナ伯領とアラゴン王国を共に統治した。アラゴン史ではこの王家はバルセロナ家と呼ばれている。




肖像

治世

説明

アルフォンス1世
純潔王 (el Cast)
吟遊詩人王 (el Trobador) Aragon 1162年 - 1196年 ラモン・ベレンゲー4世とアラゴン女王パルネリャの子
ペラ1世
(Pere I)
カトリック王 (el Catòlic) Pietro II d'Aragón.jpg 1196年 - 1213年 アルフォンス2世の子
ジャウマ1世
(Jaume I)
征服王 (el Conqueridor) Jaume I Palma.jpg 1213年 - 1276年 ペラ1世の子。1258年にコルベイユ条約を締結。これにより、カタルーニャはフランスの属国状態から脱する。
ペラ2世
(Pere II)
大王 (el Gran) PedroIII.jpg 1276年 - 1285年 ジャウマ1世の子
アルフォンス2世
自由王 (el Franc) Alifonso III d'Aragón.jpg 1285年 - 1291年 ペラ2世の子
ジャウマ2世
(Jaume II)
公正王 (el Just) Chaime II d'Aragón.jpg 1291年 - 1327年 アルフォンス2世の弟
アルフォンス3世
慈悲王 (el Benigne) Alifonso IV d'Aragón.jpg 1327年 - 1336年 ジャウマ2世の子
ペラ3世
(Pere III)
尊儀王 (el Cerimoniós)
el del Punyalet Pietro IV d'Aragón.jpg 1336年 - 1387年 アルフォンス3世の子
ジュアン1世
(Joan I)
狩猟王 (el Caçador)
不注意王 (el Descurat)
優雅者の愛好者 (l'Amador de la Gentilesa) Chuan I d'Aragón.jpg 1387年 - 1396年 ペラ3世の子
マルティー1世
(Martí I)
人文王 (l'Humà)
聖職者王 (l'Eclesiàstic) Marti l'humà.jpg 1396年 - 1410年 ジュアン1世の弟。男子後継者なしに亡くなる。

トラスタマラ家(1412年から1516年)[編集]

マルティー1世の死により、ギフレ多毛伯以来男系で世襲されてきたバルセロナ伯家が断絶した。カスペの妥協に至った2年後、カスティーリャ王家であるトラスタマラ家からフェラン1世を迎えた。フェランの母エリオノールがペラ4世の娘であり、最近親の男子であったためである。




肖像

治世

説明

フェラン1世
(Ferran I)
アンテケラ王 el d'Antequera Ferrando I d'Aragón.jpg 1412年 - 1416年 カスティーリャ王フアン1世と王妃エリオノール・ダラゴーの子
アルフォンス4世
寛大王 el Magnànim Alfonso-V-el-Magnanimo.jpg 1416年 - 1458年 フェラン1世の子
ジュアン2世
(Joan II) Chuan II d'Aragón.jpg 1458年 - 1479年 フェラン1世の子。最初の王妃であるナバラ女王ブランカの生んだ王子、ビアナ公カルラスとの対立から、国王派とビアナ公派に分かれて争うカタルーニャ内戦が起きた。
フェラン2世
(Ferran II)
カトリック王 el Catòlic Michel Sittow 004.jpg 1479年 - 1516年 ジュアン2世の子。カスティーリャ女王イサベルと1469年に結婚。

ジュアン2世の保持していたアラゴン王とバルセロナ伯の称号は、カタルーニャ内戦(1462年 - 1472年)の間、アラゴン王家の血を引く以下の人物たちによって争われた(バレンシア王の称号は含まれていない):

エンリック4世 Enrique IV.jpg 1462年 - 1463年 フアン2世と王妃マリア・ダラゴー・イ・アルブルケルケ(フェラン1世王女)の子。
ペラ4世 1463年 - 1466年 アヴィシュ家のコインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベの子。
レナト1世
(Renaut I) 04.Le roi Rene.jpg 1466年 - 1472年 アンジュー公ルイ2世とビオラン・ダラゴー(ジュアン1世王女)の子。

アブスブル家(1516年から1700年)[編集]

フェラン2世はカスティーリャ女王イサベル1世と結婚し、スペイン王国が成立した。彼の死後、ハプスブルク家の孫カルラスが継いだ。




肖像

治世

説明

カルラス1世
(Carles I) Emperor charles v.png 1516年 - 1556年 フェラン2世の孫
フェリプ1世
(Felip I) King PhilipII of Spain.jpg 1556年 - 1598年 カルラス1世の子
フェリプ2世
(Felip II) PhilipIIISpain.jpg 1598年 - 1621年 フェリプ1世の子
フェリプ3世
(Felip III) Philip IV of Spain.jpg 1621年 - 1665年 フェリプ2世の子

収穫人戦争の間、バルセロナ伯の称号をブルボン家のフランス王らが僭称した:

ルイ13世 Louis XIIIval grace.jpg 1641年 - 1643年
ルイ14世 Louis XIV of France.jpg 1643年 - 1652年


カルラス2世
(Carles II) Juan de Miranda Carreno 002.jpg 1665年 - 1700年 フェリプ3世の子。男子を残さなかったため家系が断絶した。

スペイン継承戦争(1700年から1714年)[編集]

スペイン継承戦争の間、スペイン王位(バルセロナ伯位も含む)を請求したのは以下の人物である。

カルラス2世没後、スペイン王位を継承したのはブルボン家のフェリプ4世であった。イングランド王国、ネーデルラント連邦共和国、オーストリアら大同盟諸国は、対立候補としてハプスブルク家のスペイン王位請求者カール大公(レオポルト1世の子)を推し、軍事支援を行った。カタルーニャは事実上フェリプを受け入れていたが、これをついにやめてしまった。1705年にカール大公はバルセロナに到着し、1706年にスペイン王であることを宣言した。

1705年から1714年まで続いた戦争の結果、カール大公の外国人同盟側が恩恵を受け、カタルーニャとアラゴンの両方にとっては災いとなった。1710年以後、バレンシアとアラゴンにおける独自の政治行政機構と特権が廃止された。1711年、兄ヨーゼフ1世の死により、カール大公は皇帝カール6世として即位するため、オーストリアへ戻った。大同盟諸国は、ハプスブルク家の領土拡大につながるとしてカール6世支持に消極的となり、フェリプ4世を推すスペイン・フランス側と交渉を始めた。徹底抗戦を呼びかけていたカタルーニャ、そして同時にスペイン王家に反旗を翻したバレンシアとアラゴンは、他勢力からの支援を失い、スペイン・フランス両軍の侵入で国土が荒廃した。ユトレヒト条約によって、カタルーニャの抵抗運動は封じられた。1714年9月11日にバルセロナがスペイン軍によって陥落した。




肖像

治世

説明

フェリプ4世
(Felip IV) Felipe V; Rey de España.jpg 1700年 - 1714年 フランスのドーファン・ルイの子。1700年から1705年までバルセロナ伯と承認された。
カルラス3世
(Carles III) Carles-III-de-Catalunya.jpg 1705年 - 1714年 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の子。1705年から1714年までバルセロナ伯と承認された。

1707年から1716年の間に、フェリプ4世は全領土を中央集権体制下のスペイン王国に統一した。バルセロナにおいて、1716年1月の新国家基本法(en)によって、ジャナラリター、コルツといった中世以来の組織が全て廃止された。マドリードから軍・民両方を統括する総督が派遣され、大学が廃止された。カタルーニャ法は廃止され、公の場でのカタルーニャ語の使用も禁止された。バルセロナ伯の称号は、独立したカタルーニャ君主が名乗るものではなく、スペイン王が名乗る多くの称号の一つにすぎなくなったのである。

カタルーニャ君主国

カタルーニャ君主国またはカタルーニャ公国(カタルーニャ語: Principat de Catalunya, アラン語: Principautat de Catalonha, アラゴン語: Prencipato de Catalunya, スペイン語: Principado de Cataluña, フランス語: Principauté de Catalogne, ラテン語: Principatus Cathaloniae)は、イベリア半島北東部にかつて存在した国家。現在は大半がスペインのカタルーニャ州に属し、一部がフランス南部ピレネー=オリアンタル県となっている。「君主国」ないし「公国」という呼称については後述する。

カタルーニャ君主国は、レコンキスタ時代に生じたスペイン辺境領の別々の伯爵領が、バルセロナ伯の支配下で連合したものである。1137年、アラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、アラゴン連合王国の一部と見なされるようになったが、実際はカタルーニャ君主国とアラゴン王国は対等な関係であった。ラモン・ベレンゲー4世の子アルフォンソ2世は、アラゴンではアラゴン王ではあったが、カタルーニャではバルセロナ伯アルフォンス1世を名乗った。

カタルーニャ君主国という呼称はスペイン第二共和政時代まで使用されたが、君主制との歴史的関係を理由に使用されなくなった。現在でも時折使われることがある。[要出典]



目次 [非表示]
1 カタルーニャの成立 1.1 1283年のカタルーニャ憲法
1.2 中世以後のカタルーニャ

2 「君主国」という呼称
3 言語
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


カタルーニャの成立[編集]

イベリア半島の地中海沿岸地方のように、古代ギリシャ人がロザス(現ジローナ県の自治体)を植民地化した。ギリシャ人・カルタゴ人はどちらもイベリア人住民に影響を及ぼした。カルタゴの敗退後、ローマ属州ヒスパニアの一部となり、首都タラッコ(現在のタラゴナ)がイベリア半島におけるローマの駐屯地となった。





アラゴン王国の家系を示す絵。ラモン・バランゲー4世と女王ペトロニラ、2人の長男であるアルフォンソ2世が描かれている。
ローマ帝国の崩壊後、事実上西ゴート族が支配したが、8世紀にアルアンダルスのムーア人が権力を掌握した。太守のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガフィキワ軍が732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで退けられると、ムーア人が治めていたかつての西ゴート王国領をフランク人が征服した。そしてカタルーニャ北部の諸伯領とは同盟関係を結んだ。795年、カール大帝はスペイン辺境領の名で知られる緩衝地帯を創設した。この緩衝地帯は、地元諸侯が治める別々の小王国からなるセプティマニア地方を越え、ウマイヤ朝支配下のアルアンダルスのムーア人とフランク王国間の防衛用の盾にされた。

カタルーニャ文化は中世に発展を始めた。カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれた。バルセロナ伯はフランク王国に臣従を誓っていた(801年から987年まで)。

987年、バルセロナ伯ボレイ2世はユーグ・カペーを(西)フランク王と承認するのを拒否し、これによってバルセロナ伯はフランク王国のくびきから脱した。1137年、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)と結婚、アラゴン王国との同君連合によるアラゴン連合王国が成立した。

1258年のコルベイユ条約締結までは、フランス王は公式にカタルーニャ君主国及びアラゴン王国への封建的宗主権を放棄しなかった。この条約は、フランス支配からアラゴン人の支配への合法な過渡期の中で、カタルーニャを事実上の独立国家へと転換させたものである。これは歴史的な不平等も解消した。アラゴン王国の一部として、カタルーニャは大きな海事力を持つようになり、バレンシア、バレアレス諸島、サルデーニャ島やシチリア島までの貿易や征服の拡大が進んだ。

1265年、バルセロナにおける市議会として百人議会(en、クンセイ・ダ・サン)が誕生した。議員定数100人と決められていたことからこの名がついた議会は、カタルーニャにおける地方自治の象徴であった。

1283年のカタルーニャ憲法[編集]





1413年に編纂されたカタルーニャ憲法
初めてのカタルーニャ憲法はハイメ(ジャウマ)1世時代の1283年にバルセロナで開催されたカタルーニャ議会(コルテスと同義で、カタルーニャ語ではコルツ)から生まれた。この時、全ての法律の成立にコルツの承認が必要とされることが決められた。1192年以降から行われているコルツは、最初カタルーニャ各地を巡回して開催された。最後の憲法は1702年の議会によって発布された。カタルーニャの憲法及び他の権利の編集は、ローマ法典の伝統にならった。13世紀からの歴史を持つジャナラリター・デ・カタルーニャ(議会の常設代表部。現在のカタルーニャ自治州政府もジャナラリターを名乗る)は、ヨーロッパ大陸最初の政府の一つであった。やがてジャナラリターは、王が不在であったり、戦争のような非常事態になれば、君主に代わってカタルーニャを統治した。

中世以後のカタルーニャ[編集]





現在のジャナラリター庁舎
カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド(フェラン)2世の結婚によって、イベリア半島のキリスト教王国が(ポルトガル王国、および1513年に併合されたナバラ王国を除いて)統合された1492年、最後まで残っていたグラナダ周辺のアル=アンダルスの残党が征服され、レコンキスタが完了した。そして同時期にはアメリカ大陸進出が始まった。政治的権力はアラゴンからカスティーリャへ移り始め、その結果としてカタルーニャはスペイン帝国の一部となり、世界征服のためヨーロッパで頻発する戦争に従事した。

長期間、カタルーニャは独自の法と憲法を維持し続けた。しかしこの法的・行政的特権は、封建国家から近代国家へと移り変わり、スペイン継承戦争の結果カタルーニャがブルボン家に最終的に敗退させられるまで、可能な限りカタルーニャから権力をもぎ取ろうとするスペイン王との格闘が続き、徐々に浸食されていった。続く数世紀以上の間、カタルーニャは、スペインでのさらなる中央集権化へ結びつく連戦で、全般的に敗者の側であった。フェリペ4世が締結した1659年のピレネー条約後、ルサリョー、クンフレン、ヴァリャスピー、サルダーニャ北部がフランスへ割譲された。近年のこの一帯は北カタルーニャ(フランス語名:ルシヨン)として知られている。





1659年のピレネー条約で分断されたカタルーニャ君主国




バルセロナ包囲戦
フランスへ割譲された旧カタルーニャ領ではカタルーニャ憲法が抑圧され、カタルーニャ語の公での使用が禁止された。現在、この地域はピレネー=オリアンタル県となっている。

スペイン継承戦争において、カタルーニャはハプスブルク家のカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)を担いで敗退した。第3次バルセロナ包囲戦の終わった1714年9月11日は、現在カタルーニャの公式の休日となっている。勝者となったブルボン家のアンジュー公フィリップはフェリペ5世として即位し、新国家基本法(Nueva Planta decrees)によってアラゴン連合王国の旧制度、そして残存するカタルーニャ憲法全て(その他コルツ、ジャナラリター、百人議会も同様)を廃止し、行政・司法の場でのカタルーニャ語の使用を禁じた。

18世紀と19世紀の間、スペイン支配下のカタルーニャは、対アメリカ大陸貿易の解禁(それまでは対アメリカ貿易参加をカタルーニャは禁じられていた)、スペイン政府による保護貿易政策実行によって恩恵を受け、スペインにおける産業革命の中心となった。今日までカタルーニャは、マドリードやバスク州と共にスペインで最も工業化の進んだ地域のままである。20世紀に入ってからの30年間、スペイン領カタルーニャは数度にわたって多様な自治権を得たり失ったりした。しかしスペインの他の地方のように、カタルーニャの自治権と文化は、スペイン内戦(1936年 - 1939年)でスペイン第二共和政が打破された後に権力を掌握したフランシスコ・フランコの独裁政権によって、弾圧を受けた。公共の場でのカタルーニャ語の使用は、事実上の復権期間後に再度禁止された。

フランコ独裁は、1975年の彼の死とともに終わった。その後のスペインの民主体制への以降において、カタルーニャは政治的・文化的な自治を回復した。現在はカタルーニャ自治州となっている。それに比べ、北カタルーニャの自治権ははるかに制限されている。

「君主国」という呼称[編集]





15世紀のジャナラリターの図
カタルーニャ君主国という名称は、カタルーニャ語ではPrincipat de Catalunya、英語ではPrincipality of Cataloniaとなる。日本語ではprincipalityは通常、公国または大公国と訳されるため、「カタルーニャ公国」と訳されることも多い。これは誤りではないが、公(プリンス、prince)が統治した国ではないため、本項では「君主国」の訳語を採っている[3](後述のように「君主国」ないし「公国」は誤解に由来する名称であり、「公国」はこの誤解を正しく反映した、ある意味正確な訳語である)。

バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世はアラゴン女王ペトロニラと結婚した際、2人の間の子孫が「バルセロナ伯」に加えて「アラゴン王」を称することとしたが、自身は女王の王配として「プリンケプス」(princeps、貴族の第一人者を意味するラテン語)を称した。

プリンケプスの称号が(アラゴン王国においてであるが)使用されたのは、長男アルフォンソ(アルフォンス)2世が成人し、アラゴン王兼バルセロナ伯(その支配領域にはカタルーニャを含む)となるまでの短い期間であった。成人したアルフォンソ2世もその子孫たちも二度とプリンケプスを使わず、アラゴン王を称した。

14世紀、カタルーニャのローマ法学者は、上述の「プリンケプス」を領主の称号としての意味(すなわち通常「公」と訳される意味)と解釈した。したがってその領地を「公国」(principatus)、すなわちカタルーニャ公国(カタルーニャ君主国、Principatus Cathaloniae)と呼び、王国の地位を持っていないことを明示した。例えば、1362年から1363年アラゴンにおけるコルツ法令(Actas de las cortes generales de la Corona de Aragón 1362-1363)に見られるようにである[4]。公的記録上、「カタルーニャ君主国」という語の初出は、1350年パルピニャー(現ペルピニャン)でペドロ(ペラ)4世臨席の下に開かれたコルツにおけるものである。

当時、別にバルセロナ伯領(Comitatus Barchinone)という語も使われていたが、バルセロナ伯の支配下には、本来の意味のバルセロナ伯領以外にもウルジェイ伯領のような多くの伯領が加わっていた。このためバルセロナ伯領の支配する領地全体を指す別の名称を作る必要が生じており、カタルーニャ君主国という名称が適当と考えられたのである。カタルーニャは、それぞれバルセロナ伯領とその他の伯領を包含する地域名だったからである。

「カタルーニャ君主国」あるいはその省略形としての「君主国」という用語は、カタルーニャという地域そのものの多様な定義ともあいまって、長く公的な地位を持つに至らなかった[5][6]。しかしのちにフェリペ5世がヌエバ・プランタ法令においてカタルーニャ地域の領土を記述するためにこの語を用い、公的用語としても定着した[7]。1931年、スペインの共和主義勢力はこの名称を廃止する途を選んだ。歴史的に、この用語が君主制(monarchy)と関係していたためだった。

カタルーニャ自治憲章 (en) 、スペイン1978年憲法、フランス共和国憲法のいずれにもこの「カタルーニャ君主国」なる語は現れない。しかしカタルーニャのナショナリストや独立運動家の間では(両者とも大部分は共和制支持であるにもかかわらず)、割合に人気のある呼び方である。[要出典]

言語[編集]

カタルーニャの中核を構成するのは、カタルーニャ語話者である。カタルーニャ語は、イベリア半島で話されるイベロ・ロマンス語と主にフランスで話されるガロ・ロマンス語の特徴を併せ持っているため、言語学者によって、イベロ・ロマンス語に分類されたり、あるいはガロ・ロマンス語に分類される。

カタルーニャ自治法によって、カタルーニャ語はカタルーニャ州における3つの公用語の1つとされる(その他はスペイン語(カスティーリャ語)と、オック語に近いアラン語)。北カタルーニャでは、カタルーニャ語は公用語となっていない。

トラスタマラ家

トラスタマラ家(スペイン語:Casa de Trastámara)は、イベリア半島を発祥とする王家。14世紀から16世紀にかけて、イベリア半島(カスティーリャ王国、アラゴン王国、ナバラ王国など)、南イタリア(シチリア王国、ナポリ王国)を支配した。



目次 [非表示]
1 概要
2 系図 2.1 王位についた人物
2.2 カスティーリャ=レオン王家
2.3 アラゴン=カタルーニャ王家、ナバラ王家
2.4 ナポリ王家

3 関連項目


概要[編集]

家名のトラスタマラは、始祖であるカスティーリャ王エンリケ2世(生没年:1333年 - 1379年)が即位前にトラスタマラ伯であったことに由来する。エンリケ2世はブルゴーニュ(イヴレーア)家のカスティーリャ王アルフォンソ11世の庶子であったが、第一次カスティーリャ継承戦争において嫡子である異母弟ペドロ1世を倒し、1369年に王位に就いた。カスティーリャ王位はその後フアン1世(1358年 - 1390年)からエンリケ3世(1379年 - 1406年)、そしてその子孫へと継承された。

一方、エンリケ3世の弟フェルナンド1世(1380年 - 1416年)は、母方の伯父であるバルセロナ家のマルティン1世に嗣子がなかったことから、1412年にアラゴン王に選ばれ、併せてシチリア王位も継承した。その子アルフォンソ5世(1396年 - 1458年)はナポリ王国を1442年に獲得した。アルフォンソ5世には嫡子がなかったため、アラゴンとシチリアの王位は弟フアン2世(1397年 - 1479年)が継承したが、ナポリの王位は庶子フェルディナンド1世(1423年 - 1494年)の家系に継承された。

フアン2世はまた、これに先立つ1425年に妃ブランカ1世がナバラ王位を継承したことで、自身もナバラ王となった。しかし、2人の末娘レオノール(1426年 - 1479年)の死後、ナバラ王位は一旦トラスタマラ家から離れた。

これらの諸国は、カトリック両王と称されたカスティーリャ女王イサベル1世(1451年 - 1504年)とアラゴン王フェルナンド2世(1452年 - 1516年)の結婚、およびフェルナンド2世の征服によって大部分が統合された。また、両王の下でグラナダ王国が征服され、レコンキスタが終焉を迎えた。このうちイベリア半島の諸国から、今日に至るスペイン王国が形成された。一方、南イタリアはフェルナンド2世以降、ナポレオン戦争の時代を除いて一人の君主の下に治められるようになった。そして海外植民地や南イタリアの諸国も含めて、両王の娘フアナ(1479年 - 1555年)の長男であるハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に受け継がれ、スペイン・ハプスブルク朝が成立する。

系図[編集]

以下は男系による区分で、呼称は便宜上のものである。
 :カスティーリャ系
 :アラゴン系
 :ナポリ系

王位についた人物[編集]

代表的な王位のみを記す。


エンリケ2世
カスティーリャ王











































































フアン1世
カスティーリャ王































































































エンリケ3世
カスティーリャ王









フェルナンド1世
アラゴン王













































































フアン2世
カスティーリャ王





フアン2世
アラゴン王

アルフォンソ5世
アラゴン王





















































































エンリケ4世
カスティーリャ王



レオノール
ナバラ女王











フェルディナンド1世
ナポリ王







































































イサベル1世
カスティーリャ女王

フェルナンド2世
アラゴン王





アルフォンソ2世
ナポリ王

フェデリーコ1世
ナポリ王

























































フアナ
カスティーリャ女王









フェルディナンド2世
ナポリ王










カスティーリャ=レオン王家[編集]



















































































































































マリア・デ・ポルトゥガル

アルフォンソ11世

レオノール・デ・グスマン





































ペドロ1世
ポルトガル王























































































































































ペドロ1世

ペドロ4世
アラゴン王

フアナ・マヌエル

エンリケ2世

ファドリケ・アルフォンソ

サンチョ・デ・アルブルケルケ

ベアトリス・デ・ポルトゥガル

フェルナンド1世
ポルトガル王

































































































































































































































































ジョン・オブ・ゴーント
ランカスター公

コンスタンサ

マルティン1世
アラゴン王

レオノール

フアン1世

ベアトリス
ポルトガル女王



























































































































































































カタリナ

エンリケ3世

フェルナンド1世
アラゴン王

レオノール・デ・アルブルケルケ









(エンリケス家)

















































































































































イサベル・デ・ポルトゥガル

フアン2世



マリア

アルフォンソ5世
アラゴン王



マリア

フアン2世
アラゴン王

フアナ・エンリケス























































































































































































































































































フアナ・デ・ポルトゥガル

エンリケ4世

ブランカ

































































































































イサベル1世



アルフォンソ

アフォンソ5世
ポルトガル王





フアナ・ラ・ベルトラネーハ



















フェルナンド2世/5世
アラゴン王兼カスティーリャ王













































































































































































































































































































































































































イサベル

マヌエル1世
ポルトガル王

マリア

フアン
アストゥリアス公

マルグリット

フィリップ美公

フアナ

カタリナ

ヘンリー8世
イングランド王

































































































































































































































































ジョアン3世
ポルトガル王

エンリケ1世
ポルトガル王

イザベル









レオノール



カール5世/カルロス1世
神聖ローマ皇帝
スペイン王

フェルディナント1世
神聖ローマ皇帝
ハンガリー王
ボヘミア王





メアリー1世
イングランド女王










































































































アラゴン=カタルーニャ王家、ナバラ王家[編集]

バレンシア、マヨルカ、シチリアの王位はアラゴン王位と兼位された。

エンリケ2世
カスティーリャ王

フアナ・マヌエル









































































































































































































































































































































フアン1世
カスティーリャ王

レオノール

フアン1世
アラゴン王

マルティン1世
アラゴン王

レオノール

カルロス3世
ナバラ王





































































































































































フェルナンド1世

レオノール・デ・アルブルケルケ

マリア
シチリア女王

マルティーノ1世
シチリア王

ブランカ1世
ナバラ女王













































































































































































































































アルフォンソ5世





マリア

フアン2世
カスティーリャ王

















フアン2世
兼ナバラ王

フアナ・エンリケス











レオノール

ドゥアルテ1世
ポルトガル王









































































































































































































フェルディナンド1世
ナポリ王



カルロス
ビアナ公



エンリケ4世
カスティーリャ王

ブランカ

レオノール
ナバラ女王

ガストン4世
フォワ伯



フェルナンド2世
兼カスティーリャ王
ナバラ王

イサベル1世
カスティーリャ女王



フアナ

アフォンソ5世
ポルトガル王



フアナ・デ・ポルトゥガル







































































































































































































































































































































































































































































































マドレーヌ・ド・フランス

ガストン・ド・フォワ
ビアナ公

マリー・ドルレアン
ルイ12世の姉

ジャン・ド・フォワ
ナルボンヌ子爵



マルグリット・ド・フォワ

フランソワ2世
ブルターニュ公































































































































































































フランシスコ1世
ナバラ王

カタリナ
ナバラ女王

ガストン・ド・フォワ
ヌムール公

ジェルメーヌ・ド・フォワ



シャルル8世
フランス王

アンヌ・ド・ブルターニュ
ブルターニュ女公

ルイ12世
フランス王
























ナポリ王家[編集]















































































































ヒラドルナ・デ・カルリノ

アルフォンソ5世/1世
アラゴン王兼ナポリ王

マリア・デ・カスティーリャ

フアナ・エンリケス

フアン2世
アラゴン王

ブランカ1世
ナバラ女王

























































































































イザベッラ・ディ・キアロモンテ

フェルディナンド1世

ジョヴァンナ(フアナ)









フェルナンド2世
アラゴン王



レオノール
ナバラ女王

ガストン4世
フォワ伯











































































































































































































































イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ

アルフォンソ2世

フェデリーコ1世

イザベッラ・デル・バルツォ

ベアトリーチェ
ハンガリー王妃



ジョヴァンナ



ジャン・ド・フォワ
ナルボンヌ子爵

マリー・ドルレアン





































































































































フェルディナンド2世











フェルディナンド
カラブリア公



























ジェルメーヌ・ド・フォワ

カスペの妥協

カスペの妥協(スペイン語:Compromiso de Caspe、カタルーニャ語:Compromís de Casp)は、1412年にカスペで成立した、アラゴン王国、カタルーニャ君主国、バレンシア王国(これらはアラゴン連合王国を構成する)の各国代表による決議およびその合意内容のこと。これは1410年にバルセロナ家のアラゴン王マルティン1世が後継者を定めないまま没した後の空位を解消するためのもので、カスティーリャ王子であったトラスタマラ家のフェルナンド1世が後継者に選出された。



目次 [非表示]
1 概要
2 カスペの妥協以後
3 系図
4 脚注
5 参考文献


概要[編集]

当時のアラゴン連合王国には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄フアン1世に娘ビオランテがいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、ペトロニラ女王がナバラにいたヒメノ家の同族(ナバラ王ガルシア・ラミレスら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子アルフォンソ2世の王位継承によってバルセロナ家がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの同君連合はこの時に成立していた。

J.N ヒルガースはこう記述している:



男系子孫の中では、マルティン1世に最も近い血統を持つのはウルジェイ伯ジャウマ(スペイン語名:ウルヘル伯ハイメ)であった[1]。

またT.N.ビッソンはこう記述している:



…王位継承は単純な正当性というよりはむしろ政治的な問題であり、王朝に何らかの縁のある候補者のうちでいずれの者が最良の王となるだろうか、という実際的な問題である[2]。

有力な候補者は以下の人物であった(年齢は1410年末時点)。
ルナ伯ファドリケ(es, 1402年 - 1438年、8歳) - マルティン1世と王妃マリア・デ・ルナ(en, 1358年 - 1406年)の唯一の男子だった若マルティン(シチリア王マルティーノ1世)の庶子。王妃マリアと同じルナ家出身の教皇ベネディクトゥス13世がファドリケを正当な継承者として認めていた。
ウルジェイ伯ジャウマ2世(en, 1380年 - 1433年、30歳) - アルフォンソ4世の男系の曾孫で、マルティン1世が王国の長官職に任命していた。マルティンの従兄の子にあたり、またマルティンの異母妹イサベル(en, 1380年 - 1424年、30歳)と結婚していた。
ガンディア公アルフォンソ(es, 1332年 - 1412年、78歳) - ハイメ2世の男系の孫。マルティン1世の父ペドロ4世の従弟にあたる。候補者の中で最高齢である上、系図でも上位であった。アラゴン王候補の最右翼とされていたが、1412年に死去した。
ルイ3世・ダンジュー(1403年 - 1434年、7歳) - アンジュー公、プロヴァンス伯およびナポリの対立王ルイ2世・ダンジュー(1377年 - 1417年、33歳)の長男。母ヨランド(ビオランテ、1384年 - 1442年、26歳)はフアン1世の王女で、マルティン1世の姪にあたる。
フェルナンド・デ・アンテケラ(1380年 - 1416年、30歳) - カスティーリャ王子。当時のカスティーリャ王フアン2世(1405年 - 1454年、5歳)の叔父で摂政も務めていた。母レオノール(1358年 - 1382年)はペドロ4世の王女でマルティン1世の同母妹。

アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世はイベリア半島へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。

各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、アルカニス)、彼らはサラゴサ近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
ウエスカ司教ドメネク・ラム
ベネディクトゥス13世の全権大使フランセスク・デ・アランダ
アラゴン王国のコルテス代表ベレンゲル・デ・バルダイシー
タラゴナ大司教ペレ・デ・サガーリガ
バルセロナ評議員ベルナト・デ・グアルベス
カタルーニャのコルテス代表ギリェン・デ・バイセカ
ポルタセリ修道院長ボニファシ・フェレール
ドミニコ会派聖職者ビセンテ・フェレール
ペレ・ベルトラン - 法に精通していることでバレンシア代表となった

1412年6月28日、6票(アラゴン3票、バレンシア2票、カタルーニャ1票)を獲得したカスティーリャ王子フェルナンドが、フェルナンド1世として即位した。アラゴン王家(バルセロナ家)の血を引いているとはいえ、3カ国の臣民は外国人の王を戴くことを選択したことになる。それには、投票で選ばれた王ならば、各国の自治制度(3カ国とも独自の法体系を持っていた)を尊重するに違いないという期待が働いていた。その期待は、結果的にはフェルナンド1世の後継者たちによって裏切られることになる。

カスペの妥協以後[編集]

バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。

カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。

また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。

1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。

系図[編集]





















ハイメ2世
(1)

ブランカ・デ・ナポレス









































































































































































































アルフォンソ4世
(2)

テレサ・デ・エンテンサ













ペドロ

フアナ・デ・フォワ































































































































































レオノール・デ・シシリア

ペドロ4世
(3)

シビラ・デ・フォルティア

ジャウマ1世
ウルジェイ伯

セシリア・デ・コミンゲス

アルフォンソ
ガンディア公

























































































































































































































































































































































ビオランテ・デ・バル

フアン1世
(4)

マルティン1世
(5)

マリア・デ・ルナ

レオノール

フアン1世
カスティーリャ王



















ペラ2世
ウルジェイ伯

マルガリタ・デ・モンフェラート

































































































































ルイ2世
アンジュー公

ビオランテ

タルシア・リッツァーリ

マルティーノ1世
シチリア王

カタリナ・デ・ランカステル

エンリケ3世
カスティーリャ王

フェルナンド1世
(6)

レオノール・デ・アルブルケルケ

イサベル

ジャウマ2世
ウルジェイ伯



































































































































































































ルイ3世
アンジュー公

ルネ
ナポリ王

ファドリケ
ルナ伯

イサベル・デ・ポルトゥガル

フアン2世
カスティーリャ王



アルフォンソ5世
(7)



マリア

フアン2世
(8)

フアナ・エンリケス

エリサベ
ウルジェイ女伯

ペドロ
コインブラ公





























































































































































イサベル1世
カスティーリャ女王





エンリケ4世
カスティーリャ王

















フェルナンド2世
(9)









ペドロ5世




































































































































凡例 :マルティン1世没後の王位請求者
 :フアン2世およびその対立王
( ):アラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王位の継承順(対立王を除く)

アラゴン王国

アラゴン王国(アラゴンおうこく、アラゴン語:Reino d'Aragón カタルーニャ語:Regne d'Aragó スペイン語:Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国。



目次 [非表示]
1 起源
2 アラゴン連合王国 2.1 カタルーニャとの連合
2.2 地中海への発展
2.3 ナポリ王国の領有
2.4 カスティーリャとの連合

3 年表
4 関連項目
5 外部リンク


起源[編集]

アラゴン王国はナバーラ王(イベリア王とも自称した)サンチョ3世(在位:1004年 - 1035年)による庶子ラミロ1世への領土分割に端を発する。サンチョ3世は大王と称される傑物で、イベリア半島北方のレオン王国のベルムード3世をガリシアへ敗走させ、カスティーリャ伯爵領(カスティーリャ王国の前身)を1029年、妃マヨールに継がせるなど、イベリアのキリスト教世界に覇を唱えた人物である。サンチョ大王は死に臨んで、息子たちに遺領を分割した。当時、アラゴン川流域のチャカ(アラゴン語;スペイン語ハカ)を中心とするアラゴンの領域は庶子ラミロ1世に与えられ、国王の称号も許された。アラゴン王国の成立である。12世紀レコンキスタ(再征服運動)の進展とともに、アラゴン王国はより広いエブロ川流域に進出し、1118年にはアルフォンソ1世がサラゴサの町をイスラム教徒から奪回した。以後サラゴサはアラゴン王国の都となっている。

アラゴン連合王国[編集]

「アラゴン連合王国」も参照

カタルーニャとの連合[編集]

カタルーニャはアラゴンとは別の起源をもつ地域で、801年にカロリング王朝のルイ敬虔王が南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北西部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりである。フランク王国のスペイン辺境伯領として成立し、住民は南フランスのセプティマニアから来た者が多かった。このため今日でもこの地方の言語(カタルーニャ語)はスペインの他地域とは異なる。やがてフランク王国の解体によって政治的に自立し、現在のカタルーニャ州に当たる地域はバルセロナ伯領(カタルーニャ君主国)となった。アラゴン王家はこのバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス(議会)を持ち、法制度の違いも残ったが、2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合された。こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立した。

地中海への発展[編集]





アラゴン王国 (濃) と アラゴン連合王国 (淡)
強大化したアラゴン連合王国はレコンキスタを加速化させ、1229年にはハイメ1世がイスラム教徒が支配するバレアレス諸島を占領し、1238年にはバルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服した。これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国はバルセロナを拠点に地中海へ発展していく。1282年シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起したシチリアの晩鐘事件が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられた。これ以後、アラゴン王家の分家が代々シチリアを支配することになる。またサルデーニャ島の領有権をイタリアのジェノヴァ共和国と争ったこともある。アラゴン王家とは無関係であるが、東ローマ帝国に傭兵として雇われたアラゴンとカタルーニャの騎士たち(アルモガバルス)が反乱を起こし、1311年から1390年頃までアテネ公国を支配したこともあった。

ナポリ王国の領有[編集]

アンジュー家はナポリ王国でさらに100年近く続いたが、女王ジョヴァンナ2世の時代に後継問題がこじれて内紛が起こる。後継者のいないジョヴァンナ2世はフランスのアンジュー公ルネを後継指名したり、アラゴン王国のアルフォンソ5世に指名を変えたりと、気の変わりやすい女王だった。このためナポリ王国の政治に巻き込まれたアルフォンソ5世は、本国の政治を妃マリアに任せてナポリを征服し、1443年には「両シチリア王」を称してイタリアの政治に深くかかわることになる。アルフォンソ5世没後はその弟フアン2世が本国とシチリアなど旧来の領土を受け継いだが、ナポリの王位はアルフォンソの庶子ドン・フェランテ(フェルディナンド1世)に与えられた。中世ヨーロッパでは私生児が君主になることは珍しく、ローマ教皇はドン・フェランテのナポリ王位を無効とした。これに乗じてヴァロワ朝のフランス王シャルル8世が1494年ナポリに侵攻し、ナポリ王位に就くが、シャルルの即位は関係諸国の反感を買った。結局ナポリのフランス軍はアラゴン王フェルナンド2世の軍勢によって追放され、ナポリはアラゴン王家の領土となる。

カスティーリャとの連合[編集]

1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)がカスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ=レオン王国の同君連合が形成された。いわゆるスペイン王国(Monarquía Española)の成立である。ローマ教皇アレクサンデル6世はこの2人を「カトリック両王」と呼んだ。ただし各地方はそれぞれ独自のコルテス(身分制議会)や法制度を有し、自治制度が尊重された(この自治制度の温存がスペインを近代的国民国家に変質させる最大の足かせともなった)。1492年にはイベリア半島に最後まで残ったイスラム王朝のグラナダ王国も征服され、同年にはクリストファー・コロンブスが新大陸を発見する。もっとも、アメリカ大陸への進出はもっぱらカスティーリャ人によって担われ、アラゴン人、カタルーニャ人はバルセロナを拠点に地中海で活躍することになる。しかしカスティーリャ王国との連合、スペイン王国の成立は、アラゴン王国の地位を低下させることとなった。両国の国力の差は歴然で、次第にカスティーリャ王国を中心に統合され、さらにスペインの政策が地中海から新大陸へと移ったことで地中海への影響力は弱体化し、16世紀以降、西地中海にまで影響力を拡大したオスマン帝国によって、地中海帝国の座を奪われていった。

その後、スペイン継承戦争を経てスペイン・ブルボン朝の支配が確立し、18世紀初めには、新国家基本法により旧来の政治機構は解体されて中央集権化が図られた。かつてのアラゴン連合王国としてのイタリアの領土は、ブルボン家の分家によって支配される事となった。

年表[編集]
1035年 アラゴン王国(Reino d'Aragón)成立、初代国王ラミロ1世即位。
1118年 アラゴン王アルフォンソ1世のサラゴサ占領。
1137年 アラゴン王国とバルセロナ伯国の連合によるアラゴン連合王国(Corona d'Aragón)の成立。
1229年 アラゴン王ハイメ1世、バレアレス諸島を占領(1235年まで)。
1238年 アラゴン王ハイメ1世、バレンシアを占領。
1258年 アラゴン王ハイメ1世とカペー朝フランスのルイ9世が条約締結。
1282年 アラゴン王ペドロ3世、シチリア島を領有(シチリアの晩鐘事件)
1343年 アラゴン王ペドロ4世、バレアレス諸島を併合。
1412年 カスペの妥協(アラゴン王フェルナンド1世即位)。トラスタマラ朝の成立。
1442年 アラゴン王アルフォンソ5世、ナポリ王国を領有。
1469年 アラゴン王子フェルナンド(のちのフェルナンド2世)、カスティーリャ王女イサベル(のちのイサベル1世)と結婚。
1479年 アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合の成立(スペイン王国(Monarquía Española)の成立)。

関連項目[編集]
アラゴン君主一覧
バルセロナ伯
アラゴン連合王国
カタルーニャ君主国
バルセロナ家
トラスタマラ家
カスペの妥協

イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。

イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。一方、イベリア半島を属州としたローマ人たちは、この地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」(英語名)は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。



目次 [非表示]
1 概要
2 存在する国家
3 歴史 3.1 旧石器時代
3.2 新石器時代
3.3 青銅器時代
3.4 ローマ帝国による統治
3.5 イスラムによる統治
3.6 レコンキスタから現代まで

4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


概要[編集]

面積は約59万平方km、形状は東西約1100km、南北約1000kmのほぼ方形をなす。北緯44度と北緯36度、西経9度と東経3度の間に広がっている。半島の付け根にあたる北東部は、幅約30キロにわたりピレネー山脈[1]によってフランスと画されている。一方、南西端は最も狭いところが約14キロのジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合っている。半島の周囲8分の7にあたる4000キロを上回る海岸線は、地中海と大西洋に大きく開かれている。
北にはピレネー山脈、ビスケー湾(ビスカヤ湾)、カンタブリア海
南にはジブラルタル海峡、アフリカ
東には地中海、バレアレス諸島
西には大西洋

存在する国家[編集]
スペイン
ポルトガル
アンドラ
イギリス(ジブラルタル)

歴史[編集]

旧石器時代[編集]

イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50〜40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。

1848年、半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃には活動しており、氷河期最後のビュルム氷河期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、このビュルム氷河期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、マドレーヌ文化と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランス・ドルドーニュ地方と、北スペイン・カンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものはアルタミラ洞窟で、約1万5000年前ごろのもので、1879年に発見された。壁画を描いた目的は、狩りの成果を祈る呪術的なものであったとされている。

新石器時代[編集]

約1万年前に氷河時代が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。アジル文化[2]、アストゥリアス文化[3]、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端メソポタミアで農耕は始まっており、紀元前5000年紀か前4000年紀にイベリア半島を伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の土器[4]とドルメン(支石墓)[5]がある。

青銅器時代[編集]

新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、鉱山資源が豊富な半島なのでそのうちに自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、氏族社会であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名からエル・アルガール文化(青銅器文化)と呼ぶ。この頃から籠や壺形の甕棺を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方と並んで二大中心地と成り、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。

ローマ帝国による統治[編集]

古くはローマ帝国の支配にまで遡る。

イスラムによる統治[編集]

ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが711年ウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝が代わって支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡、後ウマイヤ朝を建てる。

レコンキスタから現代まで[編集]

イベリア半島北部においては、アラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラム系小王国(タイファ)が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラム王朝であるムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれた。

次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラム王朝は完全に駆逐された。

以降はスペイン王国とポルトガル王国がイベリア半島を支配することになった。
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