2014年02月07日
カスペの妥協
カスペの妥協(スペイン語:Compromiso de Caspe、カタルーニャ語:Compromís de Casp)は、1412年にカスペで成立した、アラゴン王国、カタルーニャ君主国、バレンシア王国(これらはアラゴン連合王国を構成する)の各国代表による決議およびその合意内容のこと。これは1410年にバルセロナ家のアラゴン王マルティン1世が後継者を定めないまま没した後の空位を解消するためのもので、カスティーリャ王子であったトラスタマラ家のフェルナンド1世が後継者に選出された。
目次 [非表示]
1 概要
2 カスペの妥協以後
3 系図
4 脚注
5 参考文献
概要[編集]
当時のアラゴン連合王国には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄フアン1世に娘ビオランテがいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、ペトロニラ女王がナバラにいたヒメノ家の同族(ナバラ王ガルシア・ラミレスら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子アルフォンソ2世の王位継承によってバルセロナ家がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの同君連合はこの時に成立していた。
J.N ヒルガースはこう記述している:
男系子孫の中では、マルティン1世に最も近い血統を持つのはウルジェイ伯ジャウマ(スペイン語名:ウルヘル伯ハイメ)であった[1]。
またT.N.ビッソンはこう記述している:
…王位継承は単純な正当性というよりはむしろ政治的な問題であり、王朝に何らかの縁のある候補者のうちでいずれの者が最良の王となるだろうか、という実際的な問題である[2]。
有力な候補者は以下の人物であった(年齢は1410年末時点)。
ルナ伯ファドリケ(es, 1402年 - 1438年、8歳) - マルティン1世と王妃マリア・デ・ルナ(en, 1358年 - 1406年)の唯一の男子だった若マルティン(シチリア王マルティーノ1世)の庶子。王妃マリアと同じルナ家出身の教皇ベネディクトゥス13世がファドリケを正当な継承者として認めていた。
ウルジェイ伯ジャウマ2世(en, 1380年 - 1433年、30歳) - アルフォンソ4世の男系の曾孫で、マルティン1世が王国の長官職に任命していた。マルティンの従兄の子にあたり、またマルティンの異母妹イサベル(en, 1380年 - 1424年、30歳)と結婚していた。
ガンディア公アルフォンソ(es, 1332年 - 1412年、78歳) - ハイメ2世の男系の孫。マルティン1世の父ペドロ4世の従弟にあたる。候補者の中で最高齢である上、系図でも上位であった。アラゴン王候補の最右翼とされていたが、1412年に死去した。
ルイ3世・ダンジュー(1403年 - 1434年、7歳) - アンジュー公、プロヴァンス伯およびナポリの対立王ルイ2世・ダンジュー(1377年 - 1417年、33歳)の長男。母ヨランド(ビオランテ、1384年 - 1442年、26歳)はフアン1世の王女で、マルティン1世の姪にあたる。
フェルナンド・デ・アンテケラ(1380年 - 1416年、30歳) - カスティーリャ王子。当時のカスティーリャ王フアン2世(1405年 - 1454年、5歳)の叔父で摂政も務めていた。母レオノール(1358年 - 1382年)はペドロ4世の王女でマルティン1世の同母妹。
アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世はイベリア半島へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。
各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、アルカニス)、彼らはサラゴサ近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
ウエスカ司教ドメネク・ラム
ベネディクトゥス13世の全権大使フランセスク・デ・アランダ
アラゴン王国のコルテス代表ベレンゲル・デ・バルダイシー
タラゴナ大司教ペレ・デ・サガーリガ
バルセロナ評議員ベルナト・デ・グアルベス
カタルーニャのコルテス代表ギリェン・デ・バイセカ
ポルタセリ修道院長ボニファシ・フェレール
ドミニコ会派聖職者ビセンテ・フェレール
ペレ・ベルトラン - 法に精通していることでバレンシア代表となった
1412年6月28日、6票(アラゴン3票、バレンシア2票、カタルーニャ1票)を獲得したカスティーリャ王子フェルナンドが、フェルナンド1世として即位した。アラゴン王家(バルセロナ家)の血を引いているとはいえ、3カ国の臣民は外国人の王を戴くことを選択したことになる。それには、投票で選ばれた王ならば、各国の自治制度(3カ国とも独自の法体系を持っていた)を尊重するに違いないという期待が働いていた。その期待は、結果的にはフェルナンド1世の後継者たちによって裏切られることになる。
カスペの妥協以後[編集]
バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。
カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。
また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。
1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。
系図[編集]
ハイメ2世
(1)
ブランカ・デ・ナポレス
アルフォンソ4世
(2)
テレサ・デ・エンテンサ
ペドロ
フアナ・デ・フォワ
レオノール・デ・シシリア
ペドロ4世
(3)
シビラ・デ・フォルティア
ジャウマ1世
ウルジェイ伯
セシリア・デ・コミンゲス
アルフォンソ
ガンディア公
ビオランテ・デ・バル
フアン1世
(4)
マルティン1世
(5)
マリア・デ・ルナ
レオノール
フアン1世
カスティーリャ王
ペラ2世
ウルジェイ伯
マルガリタ・デ・モンフェラート
ルイ2世
アンジュー公
ビオランテ
タルシア・リッツァーリ
マルティーノ1世
シチリア王
カタリナ・デ・ランカステル
エンリケ3世
カスティーリャ王
フェルナンド1世
(6)
レオノール・デ・アルブルケルケ
イサベル
ジャウマ2世
ウルジェイ伯
ルイ3世
アンジュー公
ルネ
ナポリ王
ファドリケ
ルナ伯
イサベル・デ・ポルトゥガル
フアン2世
カスティーリャ王
アルフォンソ5世
(7)
マリア
フアン2世
(8)
フアナ・エンリケス
エリサベ
ウルジェイ女伯
ペドロ
コインブラ公
イサベル1世
カスティーリャ女王
エンリケ4世
カスティーリャ王
フェルナンド2世
(9)
ペドロ5世
凡例 :マルティン1世没後の王位請求者
:フアン2世およびその対立王
( ):アラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王位の継承順(対立王を除く)
目次 [非表示]
1 概要
2 カスペの妥協以後
3 系図
4 脚注
5 参考文献
概要[編集]
当時のアラゴン連合王国には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄フアン1世に娘ビオランテがいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、ペトロニラ女王がナバラにいたヒメノ家の同族(ナバラ王ガルシア・ラミレスら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子アルフォンソ2世の王位継承によってバルセロナ家がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの同君連合はこの時に成立していた。
J.N ヒルガースはこう記述している:
男系子孫の中では、マルティン1世に最も近い血統を持つのはウルジェイ伯ジャウマ(スペイン語名:ウルヘル伯ハイメ)であった[1]。
またT.N.ビッソンはこう記述している:
…王位継承は単純な正当性というよりはむしろ政治的な問題であり、王朝に何らかの縁のある候補者のうちでいずれの者が最良の王となるだろうか、という実際的な問題である[2]。
有力な候補者は以下の人物であった(年齢は1410年末時点)。
ルナ伯ファドリケ(es, 1402年 - 1438年、8歳) - マルティン1世と王妃マリア・デ・ルナ(en, 1358年 - 1406年)の唯一の男子だった若マルティン(シチリア王マルティーノ1世)の庶子。王妃マリアと同じルナ家出身の教皇ベネディクトゥス13世がファドリケを正当な継承者として認めていた。
ウルジェイ伯ジャウマ2世(en, 1380年 - 1433年、30歳) - アルフォンソ4世の男系の曾孫で、マルティン1世が王国の長官職に任命していた。マルティンの従兄の子にあたり、またマルティンの異母妹イサベル(en, 1380年 - 1424年、30歳)と結婚していた。
ガンディア公アルフォンソ(es, 1332年 - 1412年、78歳) - ハイメ2世の男系の孫。マルティン1世の父ペドロ4世の従弟にあたる。候補者の中で最高齢である上、系図でも上位であった。アラゴン王候補の最右翼とされていたが、1412年に死去した。
ルイ3世・ダンジュー(1403年 - 1434年、7歳) - アンジュー公、プロヴァンス伯およびナポリの対立王ルイ2世・ダンジュー(1377年 - 1417年、33歳)の長男。母ヨランド(ビオランテ、1384年 - 1442年、26歳)はフアン1世の王女で、マルティン1世の姪にあたる。
フェルナンド・デ・アンテケラ(1380年 - 1416年、30歳) - カスティーリャ王子。当時のカスティーリャ王フアン2世(1405年 - 1454年、5歳)の叔父で摂政も務めていた。母レオノール(1358年 - 1382年)はペドロ4世の王女でマルティン1世の同母妹。
アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世はイベリア半島へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。
各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、アルカニス)、彼らはサラゴサ近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
ウエスカ司教ドメネク・ラム
ベネディクトゥス13世の全権大使フランセスク・デ・アランダ
アラゴン王国のコルテス代表ベレンゲル・デ・バルダイシー
タラゴナ大司教ペレ・デ・サガーリガ
バルセロナ評議員ベルナト・デ・グアルベス
カタルーニャのコルテス代表ギリェン・デ・バイセカ
ポルタセリ修道院長ボニファシ・フェレール
ドミニコ会派聖職者ビセンテ・フェレール
ペレ・ベルトラン - 法に精通していることでバレンシア代表となった
1412年6月28日、6票(アラゴン3票、バレンシア2票、カタルーニャ1票)を獲得したカスティーリャ王子フェルナンドが、フェルナンド1世として即位した。アラゴン王家(バルセロナ家)の血を引いているとはいえ、3カ国の臣民は外国人の王を戴くことを選択したことになる。それには、投票で選ばれた王ならば、各国の自治制度(3カ国とも独自の法体系を持っていた)を尊重するに違いないという期待が働いていた。その期待は、結果的にはフェルナンド1世の後継者たちによって裏切られることになる。
カスペの妥協以後[編集]
バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。
カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。
また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。
1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。
系図[編集]
ハイメ2世
(1)
ブランカ・デ・ナポレス
アルフォンソ4世
(2)
テレサ・デ・エンテンサ
ペドロ
フアナ・デ・フォワ
レオノール・デ・シシリア
ペドロ4世
(3)
シビラ・デ・フォルティア
ジャウマ1世
ウルジェイ伯
セシリア・デ・コミンゲス
アルフォンソ
ガンディア公
ビオランテ・デ・バル
フアン1世
(4)
マルティン1世
(5)
マリア・デ・ルナ
レオノール
フアン1世
カスティーリャ王
ペラ2世
ウルジェイ伯
マルガリタ・デ・モンフェラート
ルイ2世
アンジュー公
ビオランテ
タルシア・リッツァーリ
マルティーノ1世
シチリア王
カタリナ・デ・ランカステル
エンリケ3世
カスティーリャ王
フェルナンド1世
(6)
レオノール・デ・アルブルケルケ
イサベル
ジャウマ2世
ウルジェイ伯
ルイ3世
アンジュー公
ルネ
ナポリ王
ファドリケ
ルナ伯
イサベル・デ・ポルトゥガル
フアン2世
カスティーリャ王
アルフォンソ5世
(7)
マリア
フアン2世
(8)
フアナ・エンリケス
エリサベ
ウルジェイ女伯
ペドロ
コインブラ公
イサベル1世
カスティーリャ女王
エンリケ4世
カスティーリャ王
フェルナンド2世
(9)
ペドロ5世
凡例 :マルティン1世没後の王位請求者
:フアン2世およびその対立王
( ):アラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王位の継承順(対立王を除く)
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