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2014年02月07日

ヴァロワ朝

ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、仏: dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。

1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップが即位しヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年のシャルル8世の代にブルターニュ公女アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、庶家に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 成立と百年戦争
1.2 イタリア侵略

2 歴代国王
3 関連項目


歴史[編集]

成立と百年戦争[編集]

カペー朝第10代国王フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。

ところが、当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。

名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。

そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。

イタリア侵略[編集]





フランソワ1世
フランスを事実上統一したヴァロワ朝はイタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、フィリップ4世に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代シャルル5世の子オルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。

1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの息子フランソワ1世を娘婿とするとともに王位継承者とした。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。なお、アンリ3世はフランス王即位前に一時ポーランド国王(ポーランド名:ヘンリク・ヴァレジ)に選出されているが、自ら放棄している。

その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。

ただし、断絶したのはヴァロワ家の嫡流で、庶流では絶えていない。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とするヴァロワ=ロングウィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミーを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。

歴代国王[編集]
1.フィリップ6世(1328年 - 1350年)
2.ジャン2世(善王(le Bon) 1350年 - 1364年)
3.シャルル5世(賢明王(le Sage) 1364年 - 1380年)
4.シャルル6世(親愛王、狂気王(le Fol) 1380年 - 1422年)
5.シャルル7世(勝利王(le Victorieux) 1422年 - 1461年)
6.ルイ11世(商人王 1461年 - 1483年)
7.シャルル8世(温厚王 1483年 - 1498年)
8.ルイ12世(民衆の父 1498年 - 1515年) ヴァロワ=オルレアン家
9.フランソワ1世(1515年 - 1547年) 以下5代ヴァロワ=アングレーム家
10.アンリ2世(1547年 - 1559年)
11.フランソワ2世(1559年 - 1560年)
12.シャルル9世(1560年 - 1574年)
13.アンリ3世(1574年 - 1589年) ポーランド王兼リトアニア大公(1573年 - 1575年)
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百年戦争

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百年戦争

Jeanne d'Arc - Panthéon III.jpg
シャルル7世の戴冠とジャンヌ・ダルク。
戦争:
年月日:1337年11月1日 - 1453年10月19日
場所:主にフランス、ネーデルラント
結果:フランス王国側の勝利。ヴァロワ朝によるフランスの事実上の統一

交戦勢力

Flag of Île-de-France.svgフランス王国側
Blason France moderne.svgヴァロワ家
Escudo Corona de Castilla.png カスティーリャ王国
Royal coat of arms of Scotland.svg スコットランド王国
CoA civ ITA milano.png ジェノヴァ共和国
Armoiries Majorque.svg マヨルカ王国
Small coat of arms of the Czech Republic.svg ボヘミア王国
Aragon Arms.svg アラゴン連合王国
COA fr BRE.svgブルターニュ Flag of England.svgイングランド王国側
England Arms 1340.svg プランタジネット家
Lancashire rose.svg ランカスター家
Blason fr Bourgogne.svg ブルゴーニュ公国
Blason de l'Aquitaine et de la Guyenne.svg アキテーヌ
COA fr BRE.svg ブルターニュ
Armoires portugal 1385.png ポルトガル王国
Blason Royaume Navarre.svg ナバラ王国
Blason Nord-Pas-De-Calais.svg フランドル
Hainaut Modern Arms.svg エノー
Luxembourg New Arms.svg ルクセンブルク
Holy Roman Empire Arms-single head.svg 神聖ローマ帝国
百年戦争
百年戦争(1337年 - 1360年)
キャドザント - スロイス - サン・トメール - オーブロッシェ - カーン - クレシー - カレー - ネヴィルズ・クロス - ポワティエ


ブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)
シャントソー - ブレスト - モルレー - サン・ポル・ド・レオン - ラ=ロシュ=デリアン - 30人の戦い - モーロン - オーレ


百年戦争(1369年 - 1389年)
ナヘラ - モンティエル - ポンヴァヤン - ラ・ロシェル


百年戦争(1415年 - 1453年)
アジャンクール - ルーアン - ラ・ロシェル(第2次) - ボージェ - モー - クラヴァン - ヴェルヌイユ - オルレアン - ジャルジョー - モン=シュル=ロワール - ボージャンシー - パテー - コンピエーニュ - コンピエーニュ - ジュルブヴォワ - フォルミニー - カスティヨン


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百年戦争(ひゃくねんせんそう、英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争である。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。

伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。



目次 [非表示]
1 背景 1.1 ギュイエンヌ問題
1.2 フランス王位継承問題
1.3 フランドル問題
1.4 スコットランド問題

2 戦争の経過 2.1 宣戦
2.2 エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張 2.2.1 フランドルの反乱
2.2.2 ブルターニュ継承戦争
2.2.3 フランス王軍の大敗

2.3 賢王シャルル5世による国家内政の転換 2.3.1 ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催
2.3.2 シャルル5世による税制改革と戦略転換
2.3.3 カスティーリャ王国遠征
2.3.4 再征服戦争

2.4 休戦 2.4.1 ランカスター朝の成立
2.4.2 オルレアン派とブルゴーニュ派の対立

2.5 イングランド・フランス統一王国 2.5.1 ヘンリー5世の攻勢
2.5.2 アングロ・ブールギニョン同盟

2.6 フランスの逆襲 2.6.1 ジャンヌ・ダルクの出現
2.6.2 イングランドの撤退


3 戦争の影響
4 その他
5 参考文献
6 百年戦争をモチーフにした作品 6.1 映画
6.2 ゲーム

7 関連項目
8 外部リンク


背景[編集]

詳細は「百年戦争の背景」を参照

百年戦争はプランタジネット家とヴァロワ家との確執によってもたらされた。対立の第一義的な火種はギュイエンヌ問題で、その意義は両家にとって極めて大きい。

ギュイエンヌ問題[編集]





1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)
プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン欠地王の失策とフィリップ尊厳王の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にヘンリー3世が聖王ルイに臣下の礼をとることで安堵されたものである。このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ端麗王とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。

フランス王位継承問題[編集]





百年戦争前のフランス王家の家系図
987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは、1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップのフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。

フランドル問題[編集]

フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールが都市同盟の反乱により追放されると、フランス王フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイを戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。

スコットランド問題[編集]

13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。

戦争の経過[編集]

宣戦[編集]

スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、1337年10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。

エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張[編集]

詳細は「百年戦争 (1337-1368)」を参照

フランドルの反乱[編集]

百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。このため、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、 1337年にはアルテベルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放され、1340年にフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。

1338年、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。





スロイスの海戦、フロワサールの年代記の挿絵
これに対してフランス王軍は直接対決を避け、海軍を派遣してイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦をとった。両王軍は海峡の制海権をめぐり、1340年6月24日にエクリューズで激突、イングランド王軍はフランス王軍200隻の艦隊を破った(スロイスの海戦)。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。

ブルターニュ継承戦争[編集]

詳細は「ブルターニュ継承戦争」を参照

1341年、ジャン3世が亡くなるとブルターニュ公領の継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。

フィリップ6世はシャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向けナントを攻略し、モンフォール伯を捕らえたが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドはブルターニュに対しても前線を確保することができた。

フランス王軍の大敗[編集]





クレシーの戦い




ポワティエの戦い
1346年7月、イングランド王軍はノルマンディーに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。

勢いづいたイングランド王軍は港町カレーを陥落させ、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。

両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。

1350年、フランス王フィリップ6世が死去、ジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。

1356年、エドワード黒太子率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュからの出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。

賢王シャルル5世による国家内政の転換[編集]

ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催[編集]

国王ジャン2世を捕縛されたフランス王国では、王太子シャルルが軍資金と身代金の枯渇、王不在の事態に対処するために1356年10月17日、パリで全国三部会を開いた。しかし、敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に支配され、特にパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により、国政の運営を国王から剥奪する案も提出された。

平民議員との交渉は1年以上にもわたって続けられたが平行線をたどり、このためシャルルはパリでの三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、1358年4月から5月にかけてプロヴァンスやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、またジャックリーの乱を鎮圧すると、シャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7月31日にはエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。





ブレティニィ条約、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土
この間、ロンドンにて1358年1月に1回目の、1359年3月24日に2回目の和平交渉が行われており、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、王太子シャルルが三部会においてその条約を否決、これを受けて1359年10月28日、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を始めた。

王太子シャルルはこの挑発には応じず、イングランド王軍の資金枯渇による撤退を待ち、1360年5月8日、教皇インノケンティウス6世の仲介による、ブレティニィ仮和平条約の締結を行った。これは10月24日にカレー条約として本締結され、アキテーヌ、カレー周辺、ポンティユー、ギーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。

ジャン2世は、身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとって1364年1月3日、ロンドンに再渡航した。4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、王太子シャルルはシャルル5世として即位した。

シャルル5世による税制改革と戦略転換[編集]

シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみ年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。

シャルルは外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ・ド・マールによって平定されていたが、ルイ自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には弟フィリップとマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。

また、1364年にはブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでイングランド王軍が勝利を収めたが、シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでブルターニュ公ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世)を認めた。しかし、ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。

カスティーリャ王国遠征[編集]

1366年、シャルル5世はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラを国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これはエンリケ・デ・トラスタマラをエンリケ2世として戴冠させることのほかに、国内で盗賊化している傭兵隊の徴収と、彼らを国外に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。

フランス王の介入によって王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌの黒太子エドワードの元に亡命し、復位を求めた。1366年9月23日、黒太子エドワードとペドロ1世の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。

1367年、ナヘラの戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。戦費はペドロ1世の負担だったはずだが、彼は資金不足を理由にこれを果たさず、遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われた。しかし、これはアキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子エドワードに対する不服申し立てが行われた。

1369年1月、黒太子エドワードにパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子エドワードに領地の没収を宣言した。

再征服戦争[編集]





ベルトラン・デュ・ゲクラン
1370年3月14日、モンティエルの戦いでカスティーリャ王ペドロ1世を下したデュ・ゲクランはパリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。シャルル5世は会戦を避け、敵の疲労を待って着実に城、都市を奪回して行く戦法を取った。1370年12月4日、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、ポワトゥー、オニス、サントンジュを占拠、7月7日にはポワティエを、7月22日のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍を破った後、9月8日にはラ・ロシェルを陥落させ、イングランド王軍の前線を後退させた。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、デュ・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。

1375年7月1日、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至った。しかし、両陣営は互いに主張を譲らず、また1376年には黒太子エドワードが、1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。

両陣営の動きが膠着する中、1378年12月18日、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあった。また、国内ではラングドック、モンペリエで重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月16日に死去した。1381年4月4日、第二次ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の国庫没収(併合)はさけられた。

休戦[編集]

ランカスター朝の成立[編集]

1375年に休戦が合意された後、両国は和平条約締結にむけての交渉がはじまった。1381年5月には、ルーランジャンで新王リチャード2世とシャルル6世の和平交渉がはじめられる。話し合いはまとまらなかったが、この間、休戦の合意はずるずると延長された。

イングランドでは、年少のリチャード2世即位にあたってランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭とする評議会が設置されていたが、1380年に戦費調達のための人頭税課税に端を発するワット・タイラーの乱が勃発、この乱を鎮めたリチャード2世は評議会を廃して親政を宣言した。しかし、彼が寵臣政治を行い、かつ親フランス寄りの立場を採ったため、主戦派の諸侯とイングランド議会は王に閣僚の解任を求めた。

1387年12月20日、議会派諸侯はラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り、1388年2月3日にはいわゆる無慈悲議会において王の寵臣8人を反逆罪で告発した。これに対して、1392年のアミアン会議や1393年のルーランジャン交渉、1396年のアルドル会議などでフランス王との交渉に忙殺されていたリチャード2世は、交渉が一段落した1397年7月10日、対フランス和平案にも反発した議会派の要人グロスター公トマス・オブ・ウッドストック、アランデル伯らを処刑した。

これらの政情不安の最中、ランカスター公ジョンの息子ヘリフォード公ヘンリー・オブ・ボリングブロクがリチャード2世に狙われているという陰謀を議会で告訴、リチャード2世がその報復としてヘリフォード公を追放刑に処したことにより、王と議会派諸侯はさらに激しく対立することになった。

ヘリフォード公からランカスター公領を剥奪したことにより、議会派は再び軍事蜂起してリチャード2世を逮捕、1399年9月29日には退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された。翌日、ヘリフォード伯ヘンリーがイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立した。

オルレアン派とブルゴーニュ派の対立[編集]

イングランドの一連の内紛によって、フランスとイングランドとの和平交渉は早急にまとめられつつあった。1392年のリチャード2世、シャルル6世の直接会談(アミアン会議)の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。

しかし、和平交渉はイングランドの内紛だけでなく、フランス国内の混乱によるためでもあった。幼少のシャルル6世の後見人となったアンジュー伯ルイ、ベリー公ジャン、ブルボン公ルイ1世らは、国王課税を復活させて財政を私物化し、特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定したブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行った。これに対して、1388年、シャルル6世による親政が宣言され、オルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。しかし、1392年、突如シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。

国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の対立は壮絶な泥仕合となった。当初、王妃イザボー・ド・バヴィエールの愛人であったオルレアン公が財務長官、アキテーヌ総指令となり国政をにぎったが、ブルゴーニュ派はフィリップの後を継いだブルゴーニュ公ジャンによって1405年にパリの軍事制圧を行い、1407年11月23日にはオルレアン公ルイを暗殺して政権を掌握した。しかし、ルイの跡目を継いだオルレアン公シャルルの一派は、アルマニャック伯ベルナール7世を頼ってジアン同盟を結び、ブルゴーニュ派と対立した。両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。

イングランド・フランス統一王国[編集]

「イングランド・フランス二重王国」も参照

ヘンリー5世の攻勢[編集]

アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は、1412年8月10日、ノルマンディーに上陸、ボルドーまでの騎行を行った。1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位する。ヘンリー5世は1414年5月23日にブルゴーニュ公と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した。

内紛によって動きのとれないフランス宮廷を尻目に、イングランド王軍は1415年8月12日にノルマンディー北岸シェフ・ド・コーに再上陸した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド王軍に対して軍を派遣した。1415年10月25日、アジャンクールの戦いでフランス王軍は勢力差4倍以上の軍勢を揃えたが、全く足並みが揃わず大敗を喫した。オルレアン公シャルルは捕らえられ、アルマニャック派は弱体化したが、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。1417年、フランス王軍を破って再上陸したイングランド王軍は、 ルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握した。

アングロ・ブールギニョン同盟[編集]





トロワ条約時の勢力範囲、フランス(青)、イングランド(赤)、ブルゴーニュ(紫)、及び主要な戦場、アジャンクール(Azincourt)、オルレアン(Orleans)、パテー(Patay)、フォルミニー(Formigny)、カスティヨン(Castillon)
この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした)に接近して王太子シャルルを追放した。ブルゴーニュ公ジャンは親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子シャルルがブルゴーニュ公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。

両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世および彼ら(ヘンリー5世とカトリーヌ)の子をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。

国王代理である王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、このためイングランドは着実に勢力を拡大した。

しかし、1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランド王国はヘンリー6世をイングランド王位とフランス王位(ただしフランス王としての正式な戴冠式は1431年)に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、また、王太子シャルルは10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。

フランスの逆襲[編集]

ジャンヌ・ダルクの出現[編集]





シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク ドミニク・アングル画
イングランド摂政ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディー三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。

これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。

オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ、1429年6月18日のパテーの戦いに勝利し、ランスに到達し、シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。その後、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、1431年5月30日に火刑に処された。

イングランドの撤退[編集]





百年戦争の変遷、フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)
1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。

ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、平民からは各教会区について一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税が免除されたため、自由(franc)という名前の付いた「自由射手隊francs archers」が組織されている。

これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、12月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルチュール・ド・リッシュモン元帥が指揮を執るフランス軍と激突、このフォルミニーの戦いにおいて、イングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方を制圧されてしまった。

シャルル7世は、イングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいと、すぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌年10月にイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年7月17日、フランス軍はカスティヨンの戦いに大勝し、10月19日、再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。

戦争の影響[編集]

この戦争の後、イングランドでは、「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、祖国が統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。

その他[編集]

ヘンリー6世以降のイングランド王は、百年戦争以降も「フランス王」の称号を用い続けた。これはハノーヴァー朝まで続いており、ジェームズ1世以降はフランス、イングランド、スコットランド、アイルランドの4ヶ国の王を称した。

ジェフリー・チョーサー

ジェフリー・チョーサー(英語: Geoffrey Chaucer、 1343年頃 - 1400年10月25日)は、イングランドの詩人である。当時の教会用語であったラテン語、当時イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中英語を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられている。

アメリカ合衆国の女優・外交官シャーリー・テンプルはその末裔に当たる。

来歴[編集]

彼の家系はもともとイプスウィッチの豪商であり、祖父と父はロンドンの豊かなワイン商人の家に生まれた。父親ジョンを大金持ちの叔母が無理やりに連れ出し、自分の12歳の娘と結婚させて跡取りにしようとしたことがあり、そのため叔母は投獄の上に250ポンドの罰金を支払う事となったと言う。結局父親ジョンはその娘と結婚し、叔母の所有するロンドンの大店舗を受け継ぐ事になる。チョーサーは当時のイングランドの裕福な上流中産階級の出自だったと言える。チョーサーは1357年のエリザベス・ドゥ・バーグ(ウルスター伯爵夫人)の台帳にその名が見られる事から父親の縁故を使い上流社会への仲間入りをしたと思われる。廷臣、外交使節、官吏としてエドワード3世、リチャード2世に仕えた。エドワード3世に仕えていた時にウルスター伯爵夫人の夫であるライオネル・アントワープ(第1代クラレンス伯)とともに敵国フランスへ渡航、ランスにて捕虜となり獄につながれたが、エドワード王が16ポンドの身代金を支払い釈放される。

それ以降しばらくの間チョーサーの消息は記録から消える事となるが、恐らくは使節としてフランス、スペイン、フランドルに赴いていたものと思われる。またこの間サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の旅を行っていた可能性もある。1366年になると彼の名が再び現れ、エドワード3世妃フィリッパ・エノー(Phillippa of Hainault)の侍女であったフィリッパ・ドゥ・ロエ(Philippa de Roet)と結婚する。そして後に王妃の妹の夫であったジョン・オブ・ゴーントが彼のパトロンとなる。

この頃のチョーサーは法律を学んでいたと思われるが、資料にはそれを示すものは残ってはいない。1367年6月20日に彼は王の側近として、騎士に次ぐ身分であるエスクワイアの身分となったと記録されている。彼は何回も海外へ出かけていたが、その中の何回かは王族の側近として赴いたものであった。

チョーサーは外交使節としてイタリアを訪問、この時イタリアの人文主義者で詩人のペトラルカと親交を結ぶ事になるが、この2人を結びつける事例として1368年に主人であるライオネルがガレアッツォ1世・ヴィスコンティの娘ヴィオランテと再婚した事が指摘されている。ミラノで行われたこの婚儀にペトラルカは出席しており、この時チョーサーも出席していた可能性がある。そしてペトラルカの影響からチョーサーは彼が用いたソネット形式を英文学に導入する。 多彩な学歴を持ち、学識が豊かで、"The father of English poetry"(英詩の父)と呼ばれる大詩人となった。「アストロラーベに関する論文」は同天体観測機器の初の英語版解説書である。

また1370年には軍事出征の一環としてジェノヴァ、1373年にはフィレンツェに赴いている。また1377年にもチョーサーは旅に出かけているが、この内容は分かっていない。後世の書類から、百年戦争の終結を図るためにジャン・フロワサールとともにリチャード2世とフランス王女との婚儀を進める密命を帯びていたと思われる。後世の我々から見た場合、現実には婚姻はされていないのは分かっているので、もしそうであったのなら、これは不成功に終わった事になる。

1378年にチョーサーはリチャード2世の密命を帯びてミラノに渡航。ヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触、傭兵を雇い入れるために交渉する。この時チョーサーと出会ったホークウッドの出で立ちがカンタベリー物語の「騎士の物語」への影響が見られる。ホークウッドの装いは騎士というより14世紀の傭兵そのものであった。

なお、彼を称えて、小惑星(2984)チョーサーが彼の名をとり命名されている。

著作[編集]

主著『カンタベリー物語』はボッカッチョ『デカメロン』の影響を受けた作品で、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼者たちが語るという体裁の説話集。未完ながら中英語を代表する文学作品のひとつである。

チョーサーを題材にした映画[編集]

2001年製作のアメリカ映画『ROCK YOU!(ロック・ユー!)』は、チョーサーが何をしていたか不明とされている1370年頃のヨーロッパを舞台とした物語で、チョーサーはジュースティング(馬上槍試合)に挑む主人公の仲間となる、重要なキャラクターとして登場。ポール・ベタニーがチョーサーを演じた。

カンタベリー物語

『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales)は、14世紀にイングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語集である。

聖トマス・ベケット廟[1]があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っている。これはボッカッチョの『デカメロン』と同じ構造で、チョーサーは以前イタリアを訪問した時に『デカメロン』を読んだと言われている。各人が語る物語は、オリジナルもあれば、そうでないものもあり、ジャンルは騎士道物語(ロマンス)、ブルターニュのレー、説教、寓話、ファブリオーと様々である。中英語で書かれている。



目次 [非表示]
1 登場人物
2 あらすじ 2.1 総序(General Prologue)
2.2 騎士の話(The Knight's Tale)
2.3 粉屋の話(The Miller's Tale) 2.3.1 粉屋の話・序
2.3.2 粉屋の話

2.4 親分の話(The Reeve's Tale) 2.4.1 親分の話・序
2.4.2 親分の話

2.5 料理人の話(The Cook's Tale) 2.5.1 料理人の話・序
2.5.2 料理人の話

2.6 法律家の話(The Man of Law's Tale) 2.6.1 法律家の話・序
2.6.2 法律家の話

2.7 バースの女房の話(The Wife of Bath's Tale) 2.7.1 バースの女房の話・序
2.7.2 バースの女房の話

2.8 托鉢僧の話(The Friar's Tale) 2.8.1 托鉢僧の話・序
2.8.2 托鉢僧の話

2.9 刑事の話(The Summoner's Tale) 2.9.1 刑事の話・序
2.9.2 刑事の話

2.10 学僧の話(The Clerk's Tale) 2.10.1 学僧の話・序
2.10.2 学僧の話

2.11 貿易商人の話(The Merchant's Tale) 2.11.1 貿易商人の話・序
2.11.2 貿易商人の話

2.12 騎士の従者の話(The Squire's Tale) 2.12.1 騎士の従者の話・序
2.12.2 騎士の従者の話

2.13 郷士の話(The Franklin's Tale) 2.13.1 郷士の話・序
2.13.2 郷士の話

2.14 医者の話(The Physician's Tale)
2.15 免罪符売りの話(The Pardoner's Tale) 2.15.1 免罪符売りの話・序
2.15.2 免罪符売りの話

2.16 船長の話(The Shipman's Tale)
2.17 尼寺の長の話(The Prioress' Tale) 2.17.1 尼寺の長の話・序
2.17.2 尼寺の長の話

2.18 チョーサーの話 サー・トーパス物語(Chaucer's Tale of Sir Topas) 2.18.1 チョーサーの話 サー・トーパス物語・序
2.18.2 チョーサーの話 サー・トーパス物語

2.19 メリベ物語(The Tale of Melibee)
2.20 修道僧の話(The Monk's Tale) 2.20.1 修道僧の話・序
2.20.2 修道僧の話

2.21 尼院侍僧の話(The Nun's Priest's Tale) 2.21.1 尼院侍僧の話・序
2.21.2 尼院侍僧の話

2.22 第二の尼の話(The Second Nun's Tale) 2.22.1 第二の尼の話・序
2.22.2 第二の尼の話

2.23 僧の従者の話(The Canon's Yeoman's Tale) 2.23.1 僧の従者の話・序
2.23.2 僧の従者の話

2.24 大学賄人の話(The Manciple's Tale) 2.24.1 大学賄人の話・序
2.24.2 大学賄人の話

2.25 牧師の話(The Parson's Tale) 2.25.1 牧師の話・序
2.25.2 牧師の話

2.26 チョーサーの撤回(Chaucer's Retraction)

3 テキストと順番
4 分析 4.1 ジャンルと構造
4.2 スタイル
4.3 歴史的文脈
4.4 影響

5 評判 5.1 発表当時
5.2 15世紀

6 ロケーション
7 大衆文化の中の『カンタベリー物語』 7.1 小説
7.2 映画
7.3 演劇
7.4 音楽

8 参考文献 8.1 日本語訳テキスト

9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク


登場人物[編集]


騎士
粉屋
親分
料理人

法律家
バースの女房
托鉢僧
刑事

学僧
貿易商人
騎士の従者
郷士

医者
赦罪状売り
船長
尼寺の長

チョーサー
修道院僧
尼寺侍僧
第二の尼

僧の従者
大学賄人
牧師
宿屋の主人


あらすじ[編集]

総序(General Prologue)[編集]







Hengwrt写本の『総序』の冒頭の詩行




リチャード・ピンソンによる1492年版の『総序』から騎士の挿絵。3詩行含む




1850年頃の「陣羽織」

Whan that Aprill, with his shoures soote
The droghte of March hath perced to the roote
And bathed every veyne in swich licour,
Of which vertu engendred is the flour;

4月、チョーサーはカンタベリー大聖堂への巡礼を思い立ち、ロンドンのサザーク(Southwark)にある「陣羽織(Tabard Inn)」という宿屋(実在の宿屋で1307年開業)に泊まっている。そこに、聖職者・貴族・平民と雑多な構成の巡礼団がやってくる。チョーサーと宿屋の主人も仲間に加わり一緒に旅することになる。この時、宿屋の主人ハリー・ベイリー(Harry Bailey)がある提案をする。旅の途中、全員が2つずつ面白い話をし、誰の話が最高の出来か、競い合おうというのである。全員がそれに賛成し、宿を出発する。最初の語り手はクジで騎士に決まる。(858行)

騎士の話(The Knight's Tale)[編集]






エルズミア写本の『騎士の話』の表紙 セーセウス公によって捕虜としてアテネに連れて来られたアルシータとパラムンはテーベの王族で従兄弟同士だった。最初は励まし合っていた二人だが、牢獄の窓から偶然見た美女エメリー(セーセウスの妃イポリタの妹)にともに恋をし、不和になる。アルシータは国外追放になるがアテネに戻り、パラムンは脱獄。偶然再会して争っているところをセーセウス公に見つかり、100対100の大がかりな決闘を提案される。そして、戦闘がはじまるが−−。
ボッカッチョの叙事詩『Teseida delle nozze di Emilia』に基づいているが、『Teseida』が9000行なのに対して『騎士の話』は2000行ちょっとしかなく、さらに内容も「騎士道物語」に変更されている。プロットの一部が失われているが、以前チョーサーが翻訳したことのあるボエティウスの『哲学の慰め』に主に想を得た哲学的な伏線が加えられている。

この物語はウィリアム・シェイクスピアとジョン・フレッチャー共作の戯曲『二人の貴公子』の原作となった他、1700年にはジョン・ドライデンによってとして当時の英語に翻訳された(『パラモンとアルシット(Palamon and Arcite)』)。


粉屋の話(The Miller's Tale)[編集]





1492年のフォリオから粉屋の絵
粉屋の話・序[編集]

チョーサーはこれから語る話は下品な話だが、あくまで粉屋が語ったことで、読む読まないは読者の自由だと断ってから、話を始める。

粉屋の話[編集]

大工の家に下宿していた書生ニコラスは、大工の若妻アリスーンと恋仲になる。『聖書』の「ノアの方舟」規模の大洪水が来ると大工を騙して、屋根の下に吊り下げた桶の中に避難させた隙に、二人は大工のベッドでいちゃつく。そこに、アリスーンに横恋慕する教会役員のアブソロンがやってきて、窓越しにキスさせろと頼むので、ニコラスが尻をつきだし、屁をかませるが−−。

『騎士の話』で描かれた「宮廷の愛」とは対照的な、下品・猥褻・風刺的な「寝取られ」がテーマのファブリオーである。

親分の話(The Reeve's Tale)[編集]

親分の話・序[編集]

全員が粉屋の話に大笑いしたが、荘園の親分オズワルドは面白くない。昔、大工をしていたからだった。そこで逆襲とばかり、粉屋をばかにした話を始める。

親分の話[編集]

粉屋のシムキンは大悪党で、見学に来たカンテブリッジ大学ソレル・ハルの学生ジョンとアレンから汚い手で粉を騙し取る。しかし、学生たちに一夜の宿を貸したところ−−。

『デカメロン』第9日第6話にも使われた、当時人気のファブリオーに基づいている。

料理人の話(The Cook's Tale)[編集]





エルズミア写本の料理人の絵
料理人の話・序[編集]

料理人のロジェルが話を始める。

料理人の話[編集]

道楽者の丁稚小僧の話。しかし58行で中途半端に終わっていて、未完と言われるが、チョーサーはわざとそうしたのだと主張する研究者もいる[2]。

法律家の話(The Man of Law's Tale)[編集]





1492年のフォリオから法律家の絵
法律家の話・序[編集]

この中で、法律家がチョーサーの作品(『公爵夫人の書(The Book of the Duchess)』と『善女伝説(The Legend of Good Women)』)について言及している。

法律家の話[編集]

数奇な運命を辿るローマ皇帝の王女クスタンス姫の話。クスタンス姫に恋をしたシリアのサルタンはキリスト教に改宗し、クスタンスを王妃に迎える。しかし、サルタンの母親の陰謀でサルタンは虐殺され、クスタンスは海に流される。長い漂流の末、クスタンスは奇跡的にグレートブリテン島のノーサンバーランドに漂着する。その地の王アラ(モデルとなったのは実在のノーサンバランド王Ælla)はクスタンスを気に入り、キリスト教に改宗し、結婚。マウリシュウスという子が生まれるが、王の母親の陰謀で子供とともに海に流されるが−−。

1387年頃に書かれた。ジョン・ガワーが『恋人の告白(Confessio Amantis)』で取り上げた、ニコラス・トリヴェット(Nicholas Trivet)の『年代記』の中の挿話に基づく。

バースの女房の話(The Wife of Bath's Tale)[編集]





エルズミア写本の『バースの女房の話』の表紙
バースの女房の話・序[編集]

5度の結婚歴のあるバースの女房(アリスーン)が、自分の人生について長々と語る。その中で、バースの女房は、イエス・キリストは決して複数の結婚を否定しなかったし、アブラハムやヤコブやソロモン王も二人以上の妻を持ったと例証することで自分の生き方を正当化し、さらに貞節や処女性を重視する価値観を次々と論破してゆく。

バースの女房の話[編集]

アーサー王は、死刑の決まった家来の若い騎士に対して、命を助ける条件として「女は何が一番好きか」の答えの探索を命じ、1年と1日の猶予を与える。騎士は旅の途中に出会った醜い老婆からその答えを教えてもらい、王宮でそれを言うと、女性全員の同意を得られ、無事死刑を免れた。しかし、老婆はその御礼に騎士に「結婚」を求め、無理矢理結婚させられる。そして、新婚の床に入ることになったが−−。

中世文学の「Loathly lady(嫌でたまらない女)」モチーフを利用している。その古い例ではアイルランド神話の『Niall Noígíallach』がある。アーサー王の甥ガウェインを主人公にした『ガウェイン卿とラグネル婦人の結婚(The Wedding of Sir Gawain and Dame Ragnelle)』やバラッド『ガウェイン卿の結婚(The Marriage of Sir Gawain)』も『バースの女房の話』と同じ話である。

托鉢僧の話(The Friar's Tale)[編集]

托鉢僧の話・序[編集]

托鉢僧が、巡礼団の中の刑事を挑発する話を始める。

托鉢僧の話[編集]

無実の人を偽りの罪で教会裁判所(Ecclesiastical court)に召喚すると脅して、金をまきあげる悪徳刑事は、偶然出会った郷士と兄弟の契約を交わすが、実は郷士は悪魔だった。刑事は、相手が悪魔と知りながら、さらなる悪事を働こうとするが−−。

刑事の話(The Summoner's Tale)[編集]

刑事の話・序[編集]

『托鉢僧の話』に対する刑事の逆襲。

刑事の話[編集]

物乞いして暮らしている托鉢僧の話。托鉢僧からしつこく寄進を迫られた病人が、托鉢僧の仲間たちに等分することを条件にとんでもないものを寄進する。

学僧の話(The Clerk's Tale)[編集]





1492年のフォリオから学僧の絵
学僧の話・序[編集]

オックスフォルド大学の学僧が話を始める。

学僧の話[編集]

サルッツォー侯ワルテルは家臣から結婚を迫られ、貧しい田舎娘グリセルダを妻に娶る。グリセルダは良妻の鑑のような女性だったが、ワルテルはグリセルダの自分への愛を試そうと、とんでもないことを考える。

『デカメロン』に出てくる話で、おそらく口承文学から採られたものだろうと指摘されている。1734年にペトラルカが高徳・貞節を表す教訓的逸話としてラテン語に翻訳し、学僧はそのペトラルカから聞いた話と「序」で前置きしている。ペトラルカの詩は1382年から1389年頃、Philippe de Mézièresによってフランス語にも翻訳されている。

『バースの女房の物語』のアンチテーゼとも言える話だが、結句がついていて、その中でチョーサーは自分の妻を試す夫は愚か者だと注釈している。

貿易商人の話(The Merchant's Tale)[編集]

貿易商人の話・序[編集]

人生経験豊かな貿易商人が話を始める。

貿易商人の話[編集]

ロムバルジヤの独身騎士ジャニュアリは60歳にして結婚を思い立ち、メイという若妻を娶る。しかし、ジャニュアリは失明し、妻の浮気を警戒して、片時とも自分のそばから離さない。メイにはダミアンという恋人がいて、庭の樹の上(夫の頭上)で密会しようと計画するが−−。

『デカメロン』第7日第9話、ユスタシュ・デシャン(Eustache Deschamps)の『Le Miroir de Mariage』、ギヨーム・ド・ロリス(Guillaume de Lorris)の『薔薇物語』(伝えられるところではチョーサーが英訳した)、アンドレアス・カペラヌス(Andreas Capellanus)、スタティウス(Statius)、『Catonis Disticha(カートーの二行連句)』の影響が見られる。神々(プルートーとプロセルピナ)が事件を見守っていたり、話の途中途中に作者の注釈が挿入されている。テオフラストス作品のような反フェミニズム文学を揶揄っている。

騎士の従者の話(The Squire's Tale)[編集]

騎士の従者の話・序[編集]

この従者は騎士の息子にあたる。

騎士の従者の話[編集]

第1部はダッタンの王カムビンスカンの在位20年を祝う話。瞬間移動能力を持つ馬、誰が敵で誰が味方かわかる鏡、鳥と会話ができる指輪がお祝いの品として献上される。第2部は、指輪でハヤブサと会話をするカナセ姫の話。第3部は未完。

郷士の話(The Franklin's Tale)[編集]





Haweis夫人による1877年版の『郷士の話』の挿絵
郷士の話・序[編集]

ブルターニュのレーを紹介すると前置きして、話を始める。

郷士の話[編集]

ブルターニュの騎士アルヴェラグスがグレートブリテン島で武者修行をしている間、フランスに残された妻ドリゲンにアウレリュウスという若者が恋をする。ドリゲンはアウレリュウスの求愛を断るため、ブルターニュに現実では絶対起こりえない満潮を起こすことができたら応じてもいいという条件を出す。しかし、アウレリュウスは奇術家に頼み、それが起きたように見せる。ドリゲンは絶望して自殺を覚悟する。そこに夫のアルヴェラグスが帰還して−−。

「序」ではブルターニュのレーに由来すると言っているが、実際にはボッカッチョの作品から採られたものである。

医者の話(The Physician's Tale)[編集]

ローマの貴族ヴィルジニュウスの美しい娘ヴィルジニヤを手に入れたい裁判官アビュウスは、手下に「その娘は自分の娘で、子供の時誘拐された」と偽証させ、引き渡しを求める。しかしヴィルジニヤは、恥辱よりもいっそ殺して欲しいと父親に懇願する。

ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史(Ab Urbe condita)』の話で、『薔薇物語』、ジョン・ガワー『恋人の告白』にも取り上げられている。チョーサーは『聖書』のエフタ(Jephthah)の話からも着想を得ている。

免罪符売りの話(The Pardoner's Tale)[編集]





1492年のフォリオから免罪符売りの絵
免罪符売りの話・序[編集]

金儲けの説教で鍛えたことを前置きして、赦罪状売りが話を始める。

免罪符売りの話[編集]

フランドルに住む大酒飲みの悪漢3人が「死」(俗に言う死神)を退治に出かけ、大金を見つける。1人に酒を買いに行かせ、その間、残りの2人はその男の殺害を企むが−−。

「教訓的逸話」の形式。オリエント起源の民話に基づいている。

船長の話(The Shipman's Tale)[編集]

成金でケチな商人と贅沢好きの妻の話。家に出入りする僧は、妻から100フランの借金を申し込まれる。お金を貸してくれればどんなサービスをしてもいいと言う。僧は夫から別の理由で100フラン借りて、その金で妻と寝るが−−。

ファブリオーの形式。似た話が『デカメロン』の中にある。

尼寺の長の話(The Prioress' Tale)[編集]

尼寺の長の話・序[編集]

聖母マリアへの祈りを捧げてから、尼寺の長は話を始める。

尼寺の長の話[編集]

ユダ人に殺されて殉教した子供の話。子供は信仰篤く、死んでも賛美歌を歌い続けた。

中世キリスト教ではありふれた話だったが、後には反ユダヤ主義的な話として批判されている。

チョーサーの話 サー・トーパス物語(Chaucer's Tale of Sir Topas)[編集]





エルズミア写本からチョーサー本人の肖像
チョーサーの話 サー・トーパス物語・序[編集]

チョーサーが宿屋の主人に乞われて、韻文で話を始める。

チョーサーの話 サー・トーパス物語[編集]

妖精の女王との結婚を望むサー・トーバスは、妖精の国を見つけるが、女王を守る巨人サー・オリファウント(象)から決闘を挑まれるが−−まで話したところで、宿屋の主人から「つまらないから話をやめてくれ」と言われ、打ち切られる。チョーサーはしかたなく、代わりに散文で『メリベ物語』を話し始める。

騎士道物語のパロディ。擬似英雄詩の趣もある。サー・トーパスの名前はトパーズに由来する。

メリベ物語(The Tale of Melibee)[編集]

メリベウスとその妻プルデンスの物語。留守中、妻と娘を襲って怪我を恐れた連中に対し、メリベウスは相談役の人々を招集し、復讐することを決める。しかしプルデンスはおびただしい古人の格言やことわざを引用して、夫に復讐を思いとどまらせる。

アルベルターノ(Albertano)の『慰安と忠告(Liber consolationis et consili)』をフランス語に翻訳したRenaud de Louensの『メリベとプリデンス(Livre de Melibée et de Dame Prudence)』の翻訳。当時人気のあった話と思われる。冗談にしては1000行以上と長いため、現代英語版では省略され、あらすじや宗教的・哲学的意図を簡単に紹介するにとどめることが多い(たとえばNevill Coghill訳のペンギン・クラシック版)。

修道僧の話(The Monk's Tale)[編集]

修道僧の話・序[編集]

修道僧は100以上の悲劇を知っていると前置きして、話を始める。

修道僧のいう「悲劇」とはアリストテレスの定義する「悲劇」、つまり王侯・貴族など高貴な人が転落していく話を指す。

修道僧の話[編集]

悲劇を短く次々に紹介してゆく。順に、ルシファー、アダム、サムソン、ヘラクレス、ネブカドネザル、ベルシャザル、ゼノビア、ペドロ1世、キプロスのペトロ王(Peter I of Cyprus)、ベルナボ・ヴィスコンティ(Bernabò Visconti)、ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ、ネロ、ホロフェルネス、アンティオコス4世エピファネス、アレクサンドロス大王、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)、クロイソス。しかし、騎士から「もうたくさんだ」と言われ、話は打ち切られる。

基本構造はボッカッチョの『王侯の没落(De Casibus Virorum Illustrium)』から、また、ウゴリーノ・デッラ・ゲラールデスカの話はダンテ『神曲』から取られている。

尼院侍僧の話(The Nun's Priest's Tale)[編集]

尼院侍僧の話・序[編集]

修道院僧の話が打ち切られ、面白い話を求められ、話が始まる。

尼院侍僧の話[編集]

雄鶏のチャンティクリアはずる賢い狐にさらわれるが−−。

「狐物語」と呼ばれるもので、『チャンティクリアときつね(Chanticleer and the Fox)』という名前でも知られる。動物寓話であり、擬似英雄詩でもある。チョーサーはマリー・ド・フランスの『Del cok e del gupil』(12世紀)と『ロマン・ド・ルナール(Le Roman de Renart)』を翻案した。アイソーポス(イソップ)の影響もある。1480年代頃、ロバート・ヘンリスン(Robert Henryson)は『尼院侍僧の話』を、自著『イソップ寓話集(The Morall Fabillis of Esope the Phrygian)』の中の『Taill of Schir Chanticleir and the Foxe』の素材とした。1951年にゴードン・ジェイコブが、1976年にマイケル・ジョン・ハード(Michael John Hurd)がそれぞれこの詩に作曲した(ハード版の題名は『Rooster Rag』)。ウォルト・ディズニー・カンパニーは映画原作として『Chanticlere and the Fox - A Chaucerian Tale』を出版したが、映画は完成しなかった。1991年のドン・ブルース(Don Bluth)の映画『Rock-a-Doodle』の主人公の雄鶏の名前は「チャンティクリア」だった。

第二の尼の話(The Second Nun's Tale)[編集]

第二の尼の話・序[編集]

聖母マリアへの祈りを捧げてから、話を始める。

第二の尼の話[編集]

聖セシリアの話。敬虔なキリスト教徒セシリアはヴァレリアン(ヴェレリアヌス)という男の元に嫁ぐ。その初夜、セシリアはヴァレリアンを説得し、ウルバンのところに向かわせ、ヴァレリアンはキリスト教に改宗する。その後、弟のティブルスも改宗するが、ことごとく殉教する。

中世に人気のあった聖人伝(Hagiography)の形式。

僧の従者の話(The Canon's Yeoman's Tale)[編集]

僧の従者の話・序[編集]

巡礼団が旅を続けていると、カノン(僧)とその従者が追いつく。従者が何か喋ろうとすると僧は逃げてゆく。残った従者が、主人は錬金術師であることを告げ、別の錬金術師の話を始める。

僧の従者の話[編集]

錬金術師のいかさまの手口が詳細に語られる。

ベン・ジョンソンの戯曲『錬金術師(The Alchemist)』と多くの類似点がある。

大学賄人の話(The Manciple's Tale)[編集]

大学賄人の話・序[編集]

酔っぱらいの賄人が話を始める。

大学賄人の話[編集]

まだ白く、声も美しかったカラスをアポロが黒く、汚い声に変えた話。

オウィディウスの『変身物語』にある話で、ジョン・ガワーの『恋人の告白』にも含まれ、当時人気があった。

牧師の話(The Parson's Tale)[編集]

牧師の話・序[編集]

牧師の話[編集]

『カンタベリー物語』中、最も長い話で、高徳な生き方についての説教で、七つの大罪について語られる。散文で書かれている。

チョーサーの撤回(Chaucer's Retraction)[編集]

最後にチョーサーは、これまで書いてきた世俗的作品を撤回すると言う。その作品とは、『トロイラスとクレセイデ(Troilus and Criseyde)』、『誉の館(The House of Fame)』、『善女伝説(The Legend of Good Women)』、『公爵夫人の書(The Book of the Duchess)』、『百鳥の集い(Parlement of Foules)』、そして『カンタベリー物語』の一部の話である。

『牧師の話』を受けてのチョーサーの懺悔の表明か、作品の宣伝かは不明である。こうした詩はパリノードと呼ばれる。






ワシントンD.C.、Library of Congress John Adams Buildingのエズラ・ウィンターによる壁画(1939年)
なお、『総序』で約束した「全員が2つずつ」語らず、「勝者」も決まらずに話は終わる。チョーサーは元々は120の話(30人x往路2・復路2)を語るつもりだったが、24を語り終えただけで亡くなってしまった。

テキストと順番[編集]

『カンタベリー物語』の中世の写本は全部で83あることとがわかっていて、その数は、中英語で書かれた本では『Ayenbite of Inwyt』(ケント方言)を除いて他に並ぶものはない。これは『カンタベリー物語』の人気の高さを表している[3]。83の写本のうち55は完全版だったと見られ、残り28(もしくはそれ以上)は断片だが、それが個別の話の写しなのか、あるいは、一部なのかを特定することは難しい[4]。話の細かな差異は明らかに筆耕のミスである。しかし、それ以外はチョーサー本人が絶えず加筆・修正をしていたことを暗示している。これこそ『カンタベリー物語』の決定版だというものは存在しない。話の順番についても同様である[4][3]。話の繋がりから、『カンタベリー物語』の各話を以下の断片に分けることができる[4]。


断片



断片1(A) 総序、騎士、粉屋、親分、料理人
断片2(B1) 法律家
断片3(D) バースの女房、托鉢僧、刑事
断片4(E) 学僧、貿易商人
断片5(F) 騎士の従者、郷士
断片6(C) 医者、赦罪状売り
断片7(B2) 船長、尼寺の長、チョーサー、メリベ、修道院僧、尼院侍僧
断片8(G) 第二の尼、僧の従者
断片9(H) 大学賄人
断片10(I) 牧師

この順番は、写本のうちもっとも美麗なエルズミア写本(Ellesmere manuscript、略称:El)の順番で、数世紀にわたって、そして現在でもなお、多くの編者がこの順番に従っている[3][4]。現在、エルズミア写本の筆耕はチョーサーの下で働いていたアダム・ピンクハースト(Adam Pinkhurst)だということがわかっている。しかし、現存する中で最古の写本と見られているHengwrt写本(Hengwrt Chaucer、略称Hg)は順番が異なっていて、抜けている話もある[5]。Hengwrt写本にしてもチョーサーの死後編纂されたもので、チョーサーのオリジナルのものはない。また、ヴィクトリア朝には断片2の後に断片7を置くことが多かったり[4]、他にもいろいろな順番がある[6]。

印刷されたもので最古のものはウィリアム・キャクストン(William Caxton)による1478年の版だが、その元となった写本は現在では失われている(しかし83の写本の中には数えられている)[3]。

分析[編集]

ジャンルと構造[編集]

『カンタベリー物語』の構造は枠物語と呼ばれるものである。しかし、チョーサーは他の枠物語には見られない工夫を凝らしている。多くの枠物語は1つの(たいていは宗教的な)テーマに絞っている。『デカメロン』ですら日ごとのテーマが決められていた。しかし『カンタベリー物語』では、テーマのみならず、語り手の階級、各話の韻律、スタイルにも多様化がはかられている。巡礼団という設定がそれを可能にし、さらに話を競い合うという設定は、話をバラエティ豊かにし、様々なジャンル、スタイルに精通したチョーサーの腕の見せ所となった[4]。

物語の構造が線形であるが、ただ話が順番に語られるだけではない。『総序』においてチョーサーは物語を語らず、語り手となる登場人物たちを紹介する。これは『カンタベリー物語』が全体的なテーマより、登場人物のキャラクターに重きを置いていることをはっきりと示している。話が済んだ後で登場人物たちが感想を述べ合ったり、他人の話を遮ったり、話の途中で口を挟んだりする。

巡礼団がいつ・どこにいるのかに関して、チョーサーはあまり気を遣っていない。巡礼そのものではなく、語られる話に専念しているように見える[4]。

スタイル[編集]

話のバラエティさは、チョーサーの様々な修辞形式、文学様式への熟知を示している。当時の修辞学はこうした多様性を奨励し、(ウェルギリウスが提起したように)修辞形式と語彙の濃さによって文学が格付けされた。一方、アウグスティヌスは話の内容よりも聴き手の反応に重きを置き、文学を説得力などから3段階に分類した。つまり、作家は語り手・テーマ・聞き手・目的・流儀・機会を心に留めて書くことを求められた。チョーサーは自由にスタイルを変え、そのどれにも偏愛を示していない。聞き手は読者だけでなく、本の中の語り手もそうだと考え、多層的・多義的な修辞的パズルを作り上げた。

しかし、階級が低いからといって知識も低いようにはしなかった。たとえば下層階級の粉屋の話は確かに下品だが、その語り口には驚くべき修辞技法を駆使している。しかし、語彙に関しては、「女性」のことを上流階級には「lady」と言わせているのに対して、下層階級には「wenche」と例外なく言わせている。時には、同じ語が階級によって違うものを意味することもある。たとえば「pitee」という語は、上流階級にとっては高貴さの概念だが、貿易商人には「性交」の意味である。騎士の話が当時としては極端なくらい単純な語り口なのに対して、尼院侍僧の話などは、下層階級で使われていた語を用いて、驚くべき技巧を見せている[4]。

『メリベ物語』と『牧師の話』が散文で、残りはすべて韻文で書かれている。韻文はほぼ全部が10音節詩行(Decasyllable)である。おそらくフランスとイタリアの詩形から借りてきたものと思われる。他に「riding rhyme」(『カンタベリー物語』で馬に乗りながら話すことから)も使われ、時々、行の中央にカエスーラ(中間休止)が入る。riding rhymeは15世紀・16世紀にヒロイック・カプレットに発展し、弱強五歩格の原型でもあった。しかし、チョーサーはカプレットだけになることを避け、4つの話(法律家、学僧、尼寺の長、第二の尼)では帝王韻律(ライム・ロイヤル)を使っている[4]。

歴史的文脈[編集]





『カンタベリー物語』の中でも言及されている1381年のワット・タイラーの乱を描いた絵(1385年 - 1400年頃、British Library Royal MS 18)
『カンタベリー物語』が書かれた時期は、イングランド史の中でも騒然とした時代だった。カトリック教会は教会大分裂の真っ只中にあった。ヨーロッパではまだ唯一のキリスト教権威だったが、激しい議論が交わされていた。『カンタベリー物語』の中では、ジョン・ウィクリフから始まったイングランド初期の宗教運動ロラード派についての言及がある(『法律家の話』結語)。赦罪状売りがそこから来たとある「ルースイヴァルの僧院(St. Mary Rouncesval hospital)」もある事件を指している[7]。

ワット・タイラーの乱(1381年)やリチャード2世の廃位(1399年)といった事件もこの当時起こり、チョーサーの親友の多くが処刑され、チョーサー自身もロンドンからケントに疎開することを余儀なくされた[4]。

影響[編集]

『カンタベリー物語』以降、イングランドの作家たちはフランス語やラテン語より自国語である英語を使うようになり、その点で『カンタベリー物語』は英文学に大きな貢献をしたとよく言われる。しかし、チョーサー以前から文学に英語は使われていたし、チョーサーの同時代人でも、ジョン・ガワー、ウィリアム・ラングランド(William Langland)、パール詩人(Pearl Poet。『Pearl 』という詩の作者)らが英語で書いていた。しかし、チョーサーが大きな影響力を持っていたのは確かである。

評判[編集]

発表当時[編集]

『カンタベリー物語』がどのような人々を想定して書かれたかはわからない。チョーサーは廷臣だったが、宮廷詩人で貴族のために『カンタベリー物語』を書いたことを記す歴史的文献、知人たちの言及は存在しない。声に出して読んで聞かせるために作ったのではないかと示唆する意見もあり、それは当時としては一般的なことだったので、ありうることではある。しかし、『カンタベリー物語』の中でチョーサーが語り手(登場人物)としてではなく作者として自己言及している部分もあり(たとえば『貿易商人の話』)、「読者」も想定していたように見える。

チョーサーが存命中に作品が断片として、あるいは個別作品として出回っていたことは明かである。友人たちの間で回覧されていたが、大部分の人はチョーサーの死後までその存在を知らなかったという説がある。しかし、それ以降は写本の数からもその人気の高かったことは言うまでもない。

15世紀[編集]

『カンタベリー物語』を最初に評価したのはジョン・リドゲイト(John Lydgate)とトマス・オックリーヴ(Thomas Occleve)で、15世紀中頃になると、多くの評論家がそれに同意した。当時の写本の注解では、中世の評論家が詩を評価する2つの柱、「文」と修辞技術の両方を賞賛している。とくに、『騎士の話』がその両方が充実していると、高い評価を受けていた[3]。

ロケーション[編集]





カンタベリー大聖堂(撮影:Hans Musil、2005年9月)
カンタベリー市には『カンタベリー物語』博物館がある[8]。

巡礼のルートがどうなっていたのかの興味の対象で、それに関する続編も書かれている。作者不詳の15世紀の写本『Tale of Beryn』は貿易商人が復路で最初に語る話である。ジョン・リドゲイトの『Siege of Thebes』も復路に語られる話だが、内容は『騎士の話』のオリジナルの前編部分である。

大衆文化の中の『カンタベリー物語』[編集]

小説[編集]
ベルギーの作家ジャン・レーによる幻想小説『新カンタベリー物語(Les Derniers Contes de Canterbury)』(1944年、フランス語)。題名どおり『カンタベリー物語』へのオマージュである。
SF作家ダン・シモンズのヒューゴー賞受賞作『ハイペリオン』(1989年)は『カンタベリー物語』へのオマージュで、ハイペリオンへ向かう巡礼団がそれぞれの話を物語る。
歴史ミステリ作家P・C・ドハティー(P. C. Doherty)は『カンタベリー物語』の登場人物と枠を使った『Canterbury Tales』シリーズ(1994年 - )を書いている。
動物行動学者リチャード・ドーキンスのノンフィクション『祖先の物語 - ドーキンスの生命史』(2004年。原題は『The Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life』で、直訳すると『祖先の話:生命の黎明への巡礼』)は『カンタベリー物語』の構造を使い、動物たちから成る巡礼団がそれぞれの祖先について語る。
ヘンリー・アーネスト・デュードニーのパズル集『Canterbury Puzzles』。カンタベリー物語の登場人物が互いにパズルを出し合うという趣向であり、本来ならカンタベリー物語に収録されるはずであったという設定付けがされている。

映画[編集]
カンタベリー物語(I racconti di Canterbury、1972年) - 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ。ベルリン国際映画祭金熊賞。『貿易商人の話』、『托鉢僧の話』、『料理人の話』(ニネット・ダボリが道楽者ペルキンをチャールズ・チャップリン風に演じる)、『粉屋の話』、『バースの女房の話』、『親分の話』、『赦罪状売りの話』、『刑事の話』(序も含む)。パゾリーニ本人がチョーサーを演じている。
カンタベリー物語(A Canterbury Tale、1944年) - 監督:マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー。中世の巡礼団の描写から映画は始まるが、すぐに第二次世界大戦に移行する。『カンタベリー物語』の完全映画化ではなく、枠と構造を使って、イギリスへの愛国心を鼓舞するために作られた戦時宣伝映画。ちなみにマイケル・パウエルはカンタベリーにあるキングズ・スクールの出身。
セブン(1995年) - モーガン・フリーマン扮するサマセット刑事の愛読書の1つとして登場。
ロック・ユー!(2001年。原題は『A Knight's Tale』で『騎士の話』にちなんでいる) - チョーサー自身が登場し、これから執筆するカンタベリー物語についてほんの少し触れられている。

演劇[編集]
Mike Poulton訳でロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演。

音楽[編集]
エリック・チゾームのオペラ『カンタベリー物語』(1961年完成) - 『バースの女房の話』、『赦罪状売りの話』、『尼院侍僧の話』から成る3幕もの。
プロコル・ハルムの『青い影』(1967年)の詞の中に『粉屋の話』への言及がある[9]。
『テン・サマナーズ・テイルズ』(スティング)

カンタベリー大司教

カンタベリー大司教( - だいしきょう、Archbishop of Canterbury)は、 イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教であった。

597年、「アングロ・サクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇グレゴリウス1世の命を受けて、イングランドへやってきたカンタベリーのアウグスティヌスがカンタベリーに教会を建てて布教の根拠地とし、初代カンタベリー大司教となる。

タルソスのテオドルス(669〜690年)によって、イングランドの司教区はカンタベリー大司教座を中心に組織された。最初はベネディクト会の教会として建立されたが、16世紀半ばに修道院は解散させられ、以降はヘンリー8世の離婚問題が引き金となって創立されたイングランド国教会の総本山となる。

歴代カンタベリー大司教の中では、「スコラ哲学の父」と称されるアンセルムス、1170年に国王ヘンリー2世との不和が原因で大聖堂内で暗殺されたトマス・ベケット、リチャード1世の大法官を兼任して遠征で不在の国王に代わって政務を執ったヒューバード・ウォルター、メアリー1世に抗して刑死したトマス・クランマーが有名である。

関連項目[編集]
カンタベリー大主教の一覧 ‐ カトリック時代のカンタベリー大司教も列挙する
カンタベリー大主教
イングランド国教会
聖公会
ヨーク大司教
カンタベリー物語

カンタベリー大主教

カンタベリー大主教(カンタベリーだいしゅきょう、Archbishop of Canterbury)は、カンタベリー大聖堂を主教座とする、イギリス国教会の大主教であり、イギリスにおける人臣としては宮中席次第1位である(第2位は大法官、その次にヨーク大主教(Archbishop of York))。イギリス国教会とその世界的組織である聖公会(アングリカン・コミュニオン)の最上席の聖職者である。イングランドの大主教の間では、次席はヨーク大主教となる。カンタベリー大主教の職務は、カンタベリー管区総監督ならびに全イングランドの首位聖職(the Metropolitan of the Province of Canterbury and as the Primate of All England)と呼ばれる。カンタベリー大主教区自体は、東ケントを範囲とする。カンタベリー大主教は、ヨーク大主教、他の24名の主教とともに、大主教職にある間、貴族院の議員となる。

元来はローマ・カトリック教会のカンタベリー大司教であった。 ヘンリー8世がローマ教皇庁から離脱し、イギリス国教会を創設して以来、イングランド王(後にはイギリス王)に選任される。現在では、国王(ないし女王)の名により指名されるものの、実際の選任はイギリス首相により、聖職者と信徒からなる委員会が選んだ二名の候補から選択される。二十世紀以降は、高教会と低教会から一名ずつが候補となる。

現在のカンタベリー大主教は、2002年から2012年末までローワン・ウィリアムズが第104代大主教をつとめたあと引退し、 2013年1月からジャスティン・ウェルビーがあとをついでいる。

初代のカンタベリー大主教(大司教)は、アウグスティヌスである(ヒッポのアウグスティヌスとは別人)。アウグスティヌスはケントに597年に到着した。以来、カンタベリー大主教職は「聖アウグスティヌスの椅子」の異名を持つ。 カンタベリー大主教の公邸はロンドンのランベス宮殿である。

関連項目[編集]
カンタベリー大主教の一覧
カンタベリー大司教

神の存在証明

神の存在証明 (かみのそんざいしょうめい,英語:Arguments for the Existence of God) とは、主として、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示を意味する。神の存在は、諸事物の存在が自明であると同様に、自明と考えられていたが、トマス・アクィナスが『神学大全』において取った立場が示すように、神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である。このように神の存在を、理性(推論)によって導出する手順が、「神の存在証明」と呼ばれる。神の存在証明は、古代から中世にかけての哲学的思索の中で、代表的には3つのものが知られ、これに、3つの神の存在証明を全て論駁し否定したイマニュエル・カントが、彼自身の哲学の帰結として要請した「神の存在」の根拠が加わって、4種類が存在する。

また、この4種類の存在証明は、いわば典型的な論証形式のパターン区別に当たり、他の様々な個別的な思想家が、神の存在証明を試みてきた。



目次 [非表示]
1 4種類の存在証明 1.1 目的論的証明
1.2 本体論的証明
1.3 宇宙論的証明
1.4 道徳論的証明

2 様々な存在証明の試み 2.1 アタナシウス・キルヒャーによる神の存在論証
2.2 オイラーによる神の存在証明
2.3 アシモフへの反論による神の存在証明

3 現代における存在証明
4 関連項目
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク


4種類の存在証明[編集]

4種類の存在証明は、カントがなした分類に従って、通常、次のように言う。
目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。

前3者は、カントが『純粋理性批判』の第三章「純粋理性の理想」において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものである。しかし、神の存在証明の分類としてよくまとまっているため説明の際にしばしば使用される。

目的論的証明[編集]

世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は、適切な季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の熟成を、太陽の光が促す。

このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに超えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。

これはカントにおいては自然神学的証明とも呼ばれる。西暦1世紀に使徒パウロは「神の永遠の力と神性は被造物に現れておりこれを通して神を知ることができる」と言っている。現代においては、インテリジェント・デザインが目的論的証明と同様の立場を取る運動として著名である。

本体論的証明[編集]

アンセルムスやデカルトが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。この証明はいくつかのヴァリエーションを持つが、「存在する」という事態を属性として捉え、例えば次のような論理を展開する。


我々は「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟することができる。ところで「任意の属性Pを備えた存在者S」と、「Sとまったく同じだけの属性を備えているが(Sは備えていない)「実際に存在する」という属性を余計に備えている存在者S'」では、S'のほうが大きい。よって「可能な存在者の中で最大の存在者」は(最大の存在者であるためには、論理的必然として)「実際に存在する」という属性を持っていなければならない。ゆえに「可能な存在者の中で最大の存在者」は我々の思惟の中にあるだけでなく実際に存在する。ところで、可能な存在者の中で最大の存在者とは神である。したがって、神は我々の思惟の中に存在するだけでなく実際に存在する。

この証明は一見して詭弁じみており、アンセルムスの同時代人ガウニロによっても批判されているが、中世哲学においては一般的な議論であった。 ヒュームやカントによる決定的な論駁がなされてからは、誤謬とみなされて今日に至っている。

宇宙論的証明[編集]

中世哲学で、「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明の論証手順は、古代ギリシアのアリストテレスに遡る。事物や出来事には、全て「原因」と「結果」があると考えたのはアリストテレスである。従って、神の宇宙論的証明は、アリストテレスがすでに行っていた。

中世スコラ哲学は、13世紀の「アリストテレス・ルネッサンス」の言葉で知られるように、アラビア・スコラ哲学を介して、古代ギリシアの哲学者、とりわけアリストテレスの思想を取り入れたところで成立したとも言える。トマス・アクィナスは、アリストテレスの根本の原因者の概念を、キリスト教の神に当て嵌めて、この証明を行った。

全ての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、初めてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。

この証明に対し、出来事の原因と結果は、必ずしも一対一ではないという考えがある。原因は1つとは限らないし、結果も1つとは限らない。しかし、原因が仮に非常に多数あったとしても、それらの多数の原因となる出来事の原因を尋ねて行けば、やはり、根源の宇宙の初原の原因に辿り着かざるを得ない。この初原の原因が、すなわち神である。

あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。

道徳論的証明[編集]

カントは理論理性によっては神の存在を証明することはいかなる方法でもできないと考えた。この点でまずデカルトやアクィナスの存在証明とは質を異にする。カントの証明の特質は、たとえ理論理性では神の存在の証明が不可能であるとはいえ、道徳的実践の見地からすると、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためにぜひとも神の実在が“要請”されねばならない、とした点にある(『実践理性批判』)。

カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない、とした。したがって厳密に言えばカントは神の現実存在を決して証明したわけではない。この要請論をヘーゲルが「ずらかし」として批判したのは有名である(『精神現象学』)。

様々な存在証明の試み[編集]

4種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、一人の思想家・哲学者の神の存在論証において、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする例もある。

近世以降にも神の存在論証はあるが、それぞれの思想家で、何を強調するかのバリエーションであるとも言える。「神の不在証明」の問題と共に、人間の思想の歴史を通じて、世界の根源、存在の根拠、人間の存在意味などを問いかけるとき、神の存在と不在の議論がそこには恒に伏在しているとも言える。

例えば、スピノザは神とは「自然」であるとしたが、自然の存在は自明であり、そうとすれば神の存在も自明となる。しかし、このような形の議論は存在証明というより、存在の独断であるとも言える。対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の二実体論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であり、しかし、にもかかわらず、現に精神と物体の調和性が存在することは、両者の仲介者としての「神の存在」が、ここから導かれるとも言える。

あるいはスピノザの場合でも、彼の語る自然は、必然法則を備え、更にその法則は倫理的法則でもあって、物体世界と精神世界が一元論的に統合され、かつ、このような一元実体が倫理的な必然法則を備えるというのであるから、このような意味では、スピノザの思想そのものが、神の存在証明になっているとも言える。

アタナシウス・キルヒャーによる神の存在論証[編集]

以下はしばしばニュートンの逸話として語られている神の存在論証であるが、このやり取りに触れた最も古い資料は1800年代初めのものであり、それによればニュートンではなく、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話とされている。

彼は太陽系の模型を上手な機械工に作らせた。その太陽系模型は、惑星を表す球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていた。
ある日、1人の無神論者の友人が彼を訪ねた。友人は模型を見るとすぐにそれを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げた、「誰が作ったのかね?」。彼は答えた。「誰が作ったのでもないさ!」無神論者は言い返した。「君はきっと、私のことを愚か者だと考えているのだろう。勿論、誰かが作ったのに違いないが、その人は天才だな。」彼はその友人に言った。「これは、君もその法則を知っている、遥かに壮大な体系のごく単純な模型に過ぎないものだ。私はこの単なる玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君は、この模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている、と言うのだ!」その友人は神の存在を認めるようになった。
オイラーによる神の存在証明[編集]

18世紀の数学者レオンハルト・オイラーは、ロシアに滞在していた時、エカチェリーナ2世から「ディドロが無神論を吹聴しているので何とかしてほしい」という依頼をうけた。オイラーはディドロと対決し、
「閣下、{\frac {a+b^{n}}{n}}=x 故に神は存在する。何かご意見は?」
と問いかけたところ、数学の素養のないディドロは尻尾をまいて逃げた、というエピソードが語られている。無論、この数式は何の意味もない全くのデタラメである。しかし実際のところ、ディドロは数学の教養が十分にあったことから、この逸話は単に見かけ倒しの学識でいかに相手を困惑させられるかという発想に当てられただけの可能性が高い[1]。

アシモフへの反論による神の存在証明[編集]

生化学者・SF作家であるアイザック・アシモフは神秘主義を否定し、神の創造がなくても生命は発生できるというエッセイを発表したが、読者から次のような反論が届いた。

「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されるということは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたものだと考えると、その構成パターンは3×10^{{724}}である。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×10^{{63}}なので[2] 、3×10^{{724}}と比べればゼロに等しい」(ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する)

これは目的論的証明の一種である。アシモフはこれに対して「現在までに存在したDNA分子のパターンだけで、有用な組み合わせ全てを使い尽くしたわけではない。この宇宙に存在しない別の組み合わせであっても、別の生命に至るのではないか」と反論している。

現代における存在証明[編集]

20世紀のカトリック思想家で、考古学者であったテイヤール・ド・シャルダンの人間精神の進化思想と、その究極目標としての「オメガ点」の措定は、生物進化の多様さと精緻さ、その「目的性」という観点からは、「目的論的証明」の一種であるとも言える。またオメガが、人間の倫理性から進化するとの考えからは、「道徳論的証明」の一種とも考えられる。

また、20世紀後半以降、「人間原理」の概念が提唱されている。これには「弱い人間原理」と「強い人間原理」があるが、とりわけ強い人間原理の思想的背景は、人間の現象の意味の根拠として、「神の存在」を論証していると解釈することも可能である。

関連項目[編集]
アリストテレス
アンセルムス
トマス・アクイナス
バールーフ・デ・スピノザ
イマニュエル・カント
マーリン・グラント・スミス
クルト・ゲーデル
衆人に訴える論証
パスカルの賭け

脚注[編集]

1.^ J.ファング、『ブルバキの思想』、森毅訳、東京図書、p.13。本書ではディドロが微分方程式の専門的な知識を要する論文を完璧に発表していたことから、この逸話の事実性を否定している。( ディドロが書いた数学に関する書物 )しかし、この逸話でオイラーが行ったような学術的はったりはしばしば見受けられ、近年ではデタラメな自然科学・数学用語を用いた論文を文芸評論雑誌が掲載してしまったソーカル事件などが有名である。
2.^ アシモフによる推計。人間の細胞1つには2万5000種類のDNAがあり、全ての細胞は異なったDNAを持つと仮定すると、1人の人間が持つDNAの種類は1.25×10^{{18}}。地球には40億人の人間がいる(1970年代当時)ので、全人類の持つDNAの種類は5×10^{{27}}。地球上の全生命のDNAはこの1000万倍だとして5×10^{{34}}。さらに30分ごとに新しいDNAが誕生し、30億年前からDNAの多様さが変わらないと仮定して2.5×10^{{41}}。地球だけにとどまらず、銀河の中には地球と同じ惑星が1000億個あるとして、そのような銀河がさらに1000億存在すると考える。するとDNAの種類は合計2.5×10^{{63}}となり、これを宇宙に存在するDNAの総数だと推計している。

アンセルムス

カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 ル・ベックの修道士
1.2 聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教

2 思想
3 日本語文献情報
4 関連項目


生涯[編集]

ル・ベックの修道士[編集]

神聖ローマ帝国治下のブルグンド王国の都市アオスタで誕生した。アオスタは、今日のフランスとスイス両国の国境と接する、イタリアのヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグンドの貴族の出自であり、大地主であった。

父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ、放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスはブルグンドとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグンドにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのはこの時からである。

3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるハールインの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのもこの時期である。

聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教[編集]

その後アンセルムスは、師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時はオットー1世の「オットーの特権」(963年)、ハインリヒ3世の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱(1077年)で最盛期を迎える聖職者叙任権闘争の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスはイングランド国王たちと、長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。

ノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年にイングランド国王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ、尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと、当然のように思われていた。

しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王ウィリアム2世は、司教座の土地と財産を押さえ、新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほどチェスターにおける修道院設立などの任務により同地に拘束された後、アンセルムスがノルマンディーへ帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。翌年、ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教を任命しなかった罪の許しを欲したウィリアム2世は、アンセルムスをしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名した。いざこざがあったものの、アンセルムスは司教座を引き受けることを納得した。

ノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムスは1093年12月4日に司教叙階を受けた。彼は大司教座を引き受ける代わりに、イングランド王に次の事項を要求した。すなわち、
1.没収した大司教管区の財産を返すこと
2.大司教の(宗教的な)勧告を受け入れること
3.対立教皇クレメンス3世を否認し、ウルバヌス2世を教皇として認めること

である。自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初の事項が部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項はアンセルムスとイングランド王を険悪な関係に追い込むことになる。

幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復して、アンセルムスの大司教座の見返りに多大な財産の贈呈を要求した。これを聖職売買と見たアンセルムスはきっぱりと断り、これに怒った国王は復讐に出る。教会の決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、パリウムを直接、教皇の手から授与されなくてはならない。したがって、アンセルムスはパリウムを受け取りにローマへ行くことを主張したが、これは実質的に王室が教皇ウルバヌス2世の権威を認めることとなるため、ウィリアム2世はローマ行きを許さなかった。

イングランド教会の首都大司教の叙任問題は、その後2年にわたって続いた。1095年、国王はひそかにローマへ使いを出し、教皇ウルバヌス2世を認める旨を伝え、パリウムを持った教皇特使を送ってくれるよう教皇に頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウムを授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄に俗界の王権が入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ることはなかった。

1097年10月、アンセルムスは国王の許可を得ずにローマへ赴いた。怒ったウィリアム2世はアンセルムスの帰還を許さず、直ちに大司教管区の財産を押さえ、以降彼の死まで保ち続けた。ローマでのアンセルムスはウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ、翌年のバーリにおける大会議にて、正教会の代表者らの主張に対抗して、カトリック教会のニカイア・コンスタンティノポリス信条で確認された聖霊発出の教義を守る役に指名された(東西教会の分裂は1054年の出来事である。また、聖霊問題に関してはフィリオクェ問題を参照)。また、同会議は教会の聖職者叙任権を再確認したが、ウルバヌス2世はイングランド王室と真っ向から対決することを好まず、イングランドの叙任権闘争は決着を見ずに終わった。ローマを発ち、カプア近郊の小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで受肉に関する論文『神はなぜ人間になられたか』を書き上げ、また、翌1099年のラテラノ宮殿での会議に出席した。

1100年、ウィリアム2世は狩猟中に不明の死を遂げた。王位を兄のロバートが不在の間に継承したヘンリー1世は、教会の承認を得たいがために、ただちにアンセルムスを呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権を要求したヘンリー1世とアンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王は教皇に何度かこれを認めようと仕向けたものの、当時の教皇パスカリス2世が認めることはなかった。この間、1103年4月から1106年8月まで、アンセルムスは追放の身にあった。そしてついに1107年、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し、和解がもたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争に幕を下ろす1122年のヴォルムス協約のモデルとなる。こうして、アンセルムスは長きにわたった叙任権闘争から解放されたのである。

彼の最後の2年間は大司教の職務に費やされた。カンタベリー大司教アンセルムスは1109年4月21日に死亡した。彼は1494年に教皇アレクサンデル6世によって列聖され、また1720年には学識に優れた聖人に贈られる教会博士の称号を得た。

思想[編集]





カンタベリー大聖堂に飾られているステンドグラス
アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『モノロギオン』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでの迷信にも似た、キリスト教の威光をもって神を論ずるものとは一線を画した。

もうひとつの主要論文『プロスロギオン』は、構想当初「理解を求める信仰」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとしてしばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。

神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。
1.神はそれ以上大きなものがないような存在である。
2.一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3.もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。
4.そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。

この証明は、後にイマヌエル・カントによって存在論的な神の存在証明と呼ばれ、ルネ・デカルトなど中世以降の哲学者にも大きな影響を与えたと言われる(歴史上、神学者や哲学者によって、神の存在証明は多くの側面から検討された。)

日本語文献情報[編集]

アンセルムスは「スコラ哲学の父」と哲学入門書などで紹介されることは多いものの、その著書を入手することは非常に困難となっているのが現状である。聖文舎より全1巻の『アンセルムス全集』(1980年:古田暁訳)が出ている。上智大学中世思想研究所(編訳、1996年)『中世思想原典集成7 前期スコラ学』(平凡社)は、『モノロギオン』、『プロスロギオン』を始めとするアンセルムスの主著を納めている。また、主要著作は単書としても存在する。
聖アンセルムス(1942年)『プロスロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)
--(1946年)『モノロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)
--(1948年)『クール・デウス・ホモ - 神は何故に人間となりたまひしか』長澤信壽(訳)(岩波文庫)

アンセルムスに関する著作、研究書には、印具徹(1981年)『聖アンセルムスの生涯』(中央出版社)などがあり、また日本でも有名なカール・バルトによる研究書も存在する。

スコラ学

スコラ学はラテン語「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。



目次 [非表示]
1 概要
2 スコラ学的方法
3 スコラ学的分野
4 スコラ学学校
5 歴史
6 著名なスコラ学者
7 著名な反スコラ学的学者
8 脚注
9 関連項目


概要[編集]

スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである。スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。

スコラ学の究極の目的は問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決することにある。スコラ学の最大のテーマは信仰と理性である[1]などと言われ、神学の研究のみが知られているきらいがあるが、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず哲学から諸学問におよぶ広いものであった。「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である[2]」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。

スコラ学は西方教会のキリスト教においては大きな位置を占めたが、他方正教会では17世紀頃に西方教会からスコラ学を含め影響を蒙ったものの[3]、19世紀以降の正教会では東方の伝統に則った見地から批判的に捉えられており[4]、20世紀以降21世紀に入った現在においても、論理と理性に基盤を置く西方の神学は、静寂に基盤を置く東方の神学とは方法が異なると捉えられている[5]。

スコラ学的方法[編集]

スコラ学の方法においては、まず聖書などの、著名な学者の記したテキストが題材として選ばれる。テキストを丹念に、かつ批判的に読むことによって学習者はまず著者の理論を修得する。次にテキストと関連のある文献を参照する(たとえば聖書についていえば古代から同時代にかけての公会議文書集、教皇書簡など)。一連の作業によって、それらのテキストのあいだにある不調和点や論議の点が抜き出される。たとえば聖書についていえば、古代から同時代にかけての学者たちによって書かれた文書と聖書の間の矛盾点、論点がすべてあげられ、多方面から偏見なしに考察をおこなう。

矛盾点や論議となる点があきらかになると、弁証法的に二つの対照的な立場(たとえば賛成と反対)が示され、議論がつくされ、やがて合意点が見出される。この合意点にいたるために二つの方法がある。第一は哲学的分析である。用語が徹底的に吟味され、筆者の意図する意味が検証される。意味が不明瞭な用語においては相対する立場で合意に至るような意味を検討する。第二に、論理の規則に従った理論的分析を通じて矛盾自体を読者の主観的なものとして解消してしまう方法である。

スコラ学的分野[編集]

スコラ学は文学における二つの分野を発展させた。第一は「クエスティオネス」(質疑)と呼ばれるものであるが、これは特定の学者に限定されるものではない。基本的にすでに説明してきた手法であるが質疑応答へ適用されたスコラ学的方法論である。たとえば「自分の身を守るために人を殺しても良いか?」という質問があるとすると、過去のあらゆる著作から賛成意見と反対意見の両方が集められる。第二のジャンルは「スンマ」(大全)とよばれるものである。スンマにおいてキリスト教に関するすべての質問に対する解答が用意されている。こうしてすべての疑問に対する解答が用意され、これによってさらなる疑問に対する解答の論拠となる。スンマの中でもっとも有名なものはトマス・アクィナスの『スンマ・テオロジカ』(『神学大全』)であり、キリスト教神学の大全を目指したものであった。

スコラ学学校[編集]

スコラ学の学校では教育において二つの方法が用いられた。一つは「レクツィオ」(読解)である。教師がテキストを読み、ある用語や思想について詳しく解説する。そこでは疑問をさしはさむことは許されない。とにかく丹念にテキストを読み込むことが目的であり、教師だけが語ることを許される時間なのである。第二は「ディスプタツィオ」(討議)であり、これこそがスコラ学の肝ともいえる。討議には二つの型がある。一つは「通常討議」で、質問は前もって提示されている。もう一つは「クォドリベタル」(自由討議)というもので、教師に対して生徒から前もって提示することなしに自由に質問がぶつけられる。教師はこれにしっかりと答えなければならない。たとえば「盗んでもよいか」という質問が出るとすると、教師は聖書のような権威あるテキストから引用して自らの立場を示す。生徒はそれに対して反論し、時には本筋から脱線しながらも議論が繰り返される。このような無計画に行われる議論においても筆記者がおり、翌日には教師は筆記録から議論を要約し、すべての反論に答え、自らの最終的な立場をあきらかにする。

歴史[編集]

通常のスコラ哲学は論理、形而上学、意味論などを一つの分野に統合したものであり、人間の事物理解を過去の文献によりながら深化させたものである。

盛期スコラ学の時代(1250年-1350年)、スコラ学の方法は神学はもちろんのこと、自然哲学、自然学(物理学)、認識論(≒科学哲学)などに応用されていた。スペインにおいては経済理論の発展に大きく寄与し、後にオーストリア学派へ影響した。ただ、スコラ学はやはりキリスト教の教義に束縛されるものであり、信仰そのものをゆるがすような質問は異端へ向けられない限り許されないものであった。

1400年代から1500年代にかけての人文主義者の活躍した時代以降、スコラ学は目の敵にされ、忘れ去られたかのようになっていた。スコラ学が ”ガチガチで形式主義的で古臭く、哲学において不適切な方法”とみなされるようになったのは人文主義者たちの吹聴によるところが大きい。

19世紀の後半に入るとカトリック教会においてスコラ学のリバイバル運動である新トマス主義が興り、再びスコラ学が注目を浴びた。それはトマス・アクィナスなどに限定された非常に狭い範囲でのスコラ学であった。ここでいわれるスコラ学とは神学と同義であり、他の分野への波及については考慮されていなかった。

スコラ学は歴史的にはマイモニデスなどのユダヤ哲学とアヴェロエスなどのイスラーム哲学などの動きと連動した思想運動であったといえよう。

スコラ学において、以下のような著者の著作が論拠として用いられた。
アリストテレス(単に「哲学者」といえば彼のこと)およびアヴェロエス (イブン=ルシュド)による『注解』(単に『注解』といえばこの著作)
ボエティウス(特に『哲学の慰め』)
アウグスティヌス
プラトン(特に『ティマイオス』)
ペトルス・ロンバルドゥス(特に『命題集』)
聖書

著名なスコラ学者[編集]
初期スコラ学期(1000年-1200年)カンタベリーのアンセルムス
コンピエーニュのロスケリヌス
ピエール・アベラール
ソロモン・イブン・ガビーロール
ペトルス・ロンバルドゥス
ギルベルト・デ・ラ・ポリー
盛期スコラ学期(1200年-1350年)ヘールズのアレクサンダー
ロバート・グロステスト
ロジャー・ベーコン
アルベルトゥス・マグヌス
トマス・アクィナス
ブラバンティアのシゲルス
ガンのヘンリクス
ダキアのボエティウス
後期スコラ学期(1350年-1500年)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
ラドゥルフス・ブリト
パドヴァのマルシリウス
オッカムのウィリアム
ジャン・ビュリダン
リミニのグレゴリウス
ガブリエル・ビール
ピエール・ダイイ
ジャン・ジェルソン
近代スコラ学期(1500年以降)フランシスコ・スアレス

著名な反スコラ学的学者[編集]
クレルヴォーのベルナルドゥス 常にスコラ学に対する論駁者であり続けた。
ルネ・デカルト デカルト思想の方法論はスコラ学によっているが、スコラ学を厳しく批判。
トマス・ホッブズ
ジョン・ロック 著書『人間知性論』においてスコラ学の論理学の空虚性などを批判。
ロバート・ボイル
ガリレオ・ガリレイ

アルベルトゥス・マグヌス

アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, 1193年頃 - 1280年11月15日・ケルン)は大聖アルベルト(St.Albert the great)、ケルンのアルベルトゥスとも呼ばれる13世紀のドイツのキリスト教神学者である。またアリストテレスの著作を自らの体験で検証し注釈書を多数著す。錬金術を実践し検証したこともその一端である。

カトリック教会の聖人(祝日は命日にあたる11月15日)で、普遍博士(doctor universalis)と称せられる。トマス・アクィナスの師としても有名である。ピウス10世によって教会博士の称号を与えられている。



目次 [非表示]
1 生涯
2 思想
3 錬金術
4 著作
5 関連項目
6 外部リンク


生涯[編集]

ドイツのシュヴァーベン地方ラウインゲンに貴族の子弟として生まれたアルベルトゥスは、イタリアのパドヴァ大学で哲学、自然科学、医学を学び、30歳のときにヨルダヌスにつきドミニコ会会員となりボローニャで神学を学んだ。パリ大学やケルンのドミニコ会の学校など各地で神学と哲学の教鞭をとった他、教会行政にも手腕を発揮した。

1254年にドミニコ会のドイツ(テウトニカ)管区長に就任し、また1259年にヴァレンシアの院長会議でトマス他とドミニコ会学校の修学規則を作成したほか、1261年から数年の間、レーゲンスブルクの司教を務めた。

晩年は主にケルンを中心とするドイツ各地で活動したが、1274年には第2リヨン公会議に出席した。またトマスの死後、1277年パリにおいてトマスに異端の嫌疑を掛けられたときは、老境にあったアルベルトゥスはケルンからパリまで徒歩で旅行して、その弟子を弁護した。

思想[編集]





ヨース・ファン・ワッセンホフによるアルベルトゥス・マグヌス像
アルベルトゥスの思想の特徴はアリストテレス思想の受けいれに対して積極的だったことにある。この点で、同時代のボナヴェントゥラなどのフランシスコ会学派の思想の潮流とは対称をなす。ただ、アヴェロエスなどアラブの学者の注釈の翻訳から主に学んだため、アルベルトゥスのアリストテレス理解には、プラトン思想が混入している部分がある。

アリストテレスの注解書のほか、『被造物についての大全』(Summa de creaturis)をあらわし、自然の観察に基づく自然学を推し進めた。また神学においては、アリストテレス思想に基づく思弁とともに、偽ディオニシウス・アレオパギタへの注解書を書き、ドイツ神秘主義へ影響を与えた。またアルベルトゥスの弟子たちを「アルベルトゥス学派」と呼ぶ研究者もいる。

錬金術[編集]

『鉱物書』において、マグヌス自身で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにすぎないと述べられている。

『錬金術に関する小冊子』では自分で実験したことのみを記し金と銀の製法とできた金属についてふれている。

また1250年に著作にヒ素について言及し、その発見者とされる。

著作[編集]

ウィキクォートにアルベルトゥス・マグヌスに関する引用句集があります。
『植物について』(De vegetabilibus)
『動物について』(De animalibus)全26巻(第19巻まではアリストテレスの注釈書)
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