2020年03月20日
仕事をしていてツライことA
仕事があって嬉しい。
今とりかかっているのは、久々に、96ページもある長編。
原稿に3カ月かかるから、3カ月はこの原稿に集中していれば良い。
海外ドラマなどを観ながら、ひたすら完成まで作業していれば良い。
それなのに、なぜだかモヤモヤが残る、気持ちが晴れないのはなぜだ。
「忙しいの?」と聞かれ「忙しいよ」と答えると
「凄いねー」とか「忙しいのはいいことですよ」と諭される。
それは昔から。何千回も繰り返されてきたやり取り。
でも、そのやりとりにどうしても、気持ちがついていかない。
違和感が残る。モヤモヤする。
別に私は「忙しいアピール」をしているわけではないのだ。
今日、ハッと気が付いた。
たとえば…
今描いている作品は、もちろん、私が考えた物語だ。
今回は今までよりも、だいぶ私の意見を押し通した。
途中で何度も相談しつつも、
これは私が考え、私が作画すべてを担う
私の仕事だ。
そして「何をハッと気が付いた」のかというと、
私の作品でありながら、
タイトルは私の意見は通らなかった。
普通、もちろん自分でタイトルをつけるのだけど
それは「売れるため」、よりキャッチーなものにするため
編集者、出版社の人たちと相談する、ことはいつものこと。
だけど、今回、私がこれがいいと言った意見は無視された。
むこうでタイトルをつけられた。
こういうことは珍しいわけじゃなくて
過去にも何度もあった。
「タイトルの希望はありますか?」と聞かれて
私がいくつか提案しても、
最終的に「これに決まりましたから」と
知らない人たちの間で決められる。
それは…いつもではないけど、何度かあったこと。
よく考えると、ものすごく、理不尽でくやしく感じた。
タイトルを自分でつけられないなんて、
自分の子どもの名前を他人に決められるのと一緒やん。
私はすっかり心が鈍感になっていて、
この理不尽さに慣れてしまっていたことに気づいた。
もう昔昔…うんと昔、私がまだデビューしたなっかりの新人のころ。
滅多に通るはずのないネームを私は毎日せっせと
描いていた。
私は1カ月に2本のネームを作ることを目標にしていた。
3本作ることもあった。
とにかく作った。バンバン描いた。
それで何度も描くうちに
「通りそうなネーム」と「これは通らないであろうネーム」が
わかってきた。
「通りそうなネーム」とは、
主人公がちょっと内気な女の子。
ステキな男の子(ぶっきらぼう)片思いとかして切なかったりして、最後はなんとなくハッピーエンド。
「これは通らないであろうネーム」とは、
とにかく曖昧。答えが出ない物語。手探りで描く物語。
私はこの2種類の話を順番に描いた。
2本に1本は通りたい。
でも、通るためのネームばかり描いていては
心が滅入ってしまい、もたない。
でも、そんなことは忘れて、いつしか
私は冒険せずに、通りそうなネームばかりを効率よく
描くようになってしまった。
それは、「仕事」としては合理的で無駄が無いように
おもえるけど、実はそうではなかった。
編集者が「OK」と言ったって、
それが読者に「OK」とは限らない。
私はもっと、自分を信じなければいけなかった。
ずっと「売れたい、売れたい」とおもいながら
私はいつまでも、編集者に気に入られるような
漫画ばかりを描いていた。
本当に「売れたい」のならば
読者のための漫画を
描かなければいけなかったのに。
じゃあ「読者のため」の漫画って何?
て話ですけど。
それはなにも読者に媚びる漫画でもないはずだ。
もっと素直に、自分を信じて、
私はこう思うんですけど、あなたはどう!?
ということを感じてもらえるような物語なのだとおもうのだ。
私にとって、漫画とは会話だと思う。
読んでいる人を置いてけぼりにしないように、
ずっとつきてきてもらえるように気をつかって
描いている。
対話をするように、気持ちを、主人公と同期してもらえるように
描いている。
そのうえで、楽しんでもらえる、ワクワクしてもらえる
話の展開を、考えている(漫画家ならばこれらのことは当たり前のことですが)
そして、さらに、私の考えを知ってもらう。
そういうものを描いていきたい。
(人によって、それぞれです。私はそうしたい、というだけのことです)
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