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2019年01月17日

言葉と感情

少し前の話ですが、ある日入塾したての子が問題を解いていて、質問をしてくれました。

生徒:先生、これってなんで間違いなんですか?
私:どれどれ?えーっと、「次の中(ア)〜(エ)の中から適当なものを選んで答えなさい」、ん?なんで(ウ)を選んだの?
生徒:だって、「テキトー」って書いてあったから・・・。

こういうノリは、私はとても大好きなので、場所が場所であれば、座布団を3枚でも差し上げたいところなのですが、悲しいかなここは学びの場。
「適当」は「エイ、ヤーと決める」ということではなくて、「丁度合っているところ」という意味なんだ。
理科などで「適当な温度」というのは、「エイ、ヤーといって見つける温度」ではなくて、「その条件で丁度いい温度」という意味なんだ。

このようにお話ししていますと、私も前職で法律用語に少し触れたことを思い出しました。
「善意」と「悪意」
一見しますと、「善意」とは、いかにも清らかで何ら間違いのないイメージであるのに対し、「悪意」とは、いかにも腹黒くて近寄りがたいイメージを持ってしまいます。
ところが、法律用語としての「善意」「悪意」とは、前者は単に「ある事実について知らない」という意味で用いられるのに対し、後者は単に「ある事実について知っている」ということを示すだけで、どちらの場合も、そこに道徳的な善悪の判断を含むものではなく、ただ事実を示す言葉として使われるだけなのです。

よく日常会話で耳にする、「先公」「貴様!」「てめぇ!」などという言葉は、いかにも汚くて怖いイメージを持ってしまいがちですが、元を正せば(諸説ありますが)、本来「公」は「対象を敬う言葉」、「貴様」は「陛下よりお預かりしている貴重なあなた様」、「てめぇ(手前)」は、「あなたのお手前にいる私」という、いずれも自分を下に置き、相手を上に据える美しい意味合いを持った言葉だったのです。そこにわずかばかりの「皮肉」が入ってしまい、「尊称」がいつの間にか「蔑称」に変わってしまったようなのです。

言葉というものは、人の感情や解釈によってどのようにも捉えられ、それが支持を受けたとき、本来の意味とはかけ離れたイメージとして定着することも多々あるものなのだと感じております。
意思疎通のツールの1つである「言葉」は、使う側が用途に応じて使い分ける能力を持っていないと、本人の意図しない方向に事が進むことも考えられます。
言葉って怖いなと、つくづく感じている昨今です。

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posted by あんとん at 00:00| その他
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あんとん
2018.12まで6年間、小中学生を対象にした個別学習塾を営んでおりました。 一身上の都合により、サラリーマン生活に戻ることになりましたが、6歳児の息子の育児はまだまだこれから。 この6年の器量な経験を振り返りつつ、これからを真剣に生きていきたいと思っているところです。
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