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2020年01月07日
長宗我部国親
長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)
戦国時代の土佐国の大名。
長宗我部兼序の嫡男。
長宗我部氏復興に尽力し、
野の虎と評される。
時代
戦国時代
生誕
永正元年(1504年)
死没
永禄3年6月15日(1560年7月8日)
改名
千雄丸(幼名)→国親
別名
受領名:信濃守、宮内少輔
渾名:野の虎
戒名
瑞王覚世
墓所
高知県南国市北谷の瑞応寺
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部兼序、母:不明
兄弟
国親、元春、国康、親吉[要出典]、女(吉田孝頼室)、理春尼 (片岡茂光室)
妻
正室:祥鳳
子
元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島親益、本山夫人(本山茂辰室)、女(池頼和室)、養甫尼(波川清宗室)
生涯
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる[1]。幼名は千雄丸。
通説では、永正5年(1508年)、父・兼序が本山氏などに攻められ居城の岡豊城で自害した際に、国親は落ち延びて[2]、一条房家に養育された[3]。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した[4]。しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている[5]。
土佐守護を兼ねる室町幕府管領・細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて国親と名乗る(三弟の長宗我部国康(くにやす)も同様である)。
国親は吉田周孝を登用して内政や軍備の充実に努めた。天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた[6]。
天文16年(1547年)[7]、近隣の大津城を攻めて天竺氏を滅ぼした。次いで大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、下田の勇猛で名高い[8]下田駿河守を討って下田城を落とした。さらに細川定輔(十市細川氏)を屈服させ、定輔の次男・池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔した。こうして長岡郡南部を制圧した。この勢力拡大で近隣の領主も恐れをなして布師田や一宮の領主も国親に降伏し、土佐郡南西部も制圧することになった。また父を滅ぼした仇敵の山田氏を天文18年(1549年)秋に滅ぼした。また、弘治2年(1556年)には三男の親泰を香宗我部氏に養子として従属化し、土佐国人の従属化を進めていくと同時に高知平野の制圧も成し遂げていった。天文年間末期に剃髪入道し、瑞応覚世と号した[9]。
弘治元年(1555年)になって本山茂宗が病死し、娘婿の茂辰が後を継ぐと本山氏を討つべく兵を挙げた[10]。弘治2年(1556年)、国親は本山家臣の秦泉寺氏を服属させ、さらに大高坂氏や国沢氏も討った。
『土佐物語』によると、永禄3年(1560年)、岡豊より長宗我部方の兵糧を積んだ船1艘が種崎に向かったが、その途中で潮江より本山方の船2艘が漕ぎ出して襲撃し、兵糧を奪った[11]。このため国親はその報復のために元家臣だが訳あって本山方についていた建築の達人である福留左馬丞を甘言で誘い、長浜城の城門を簡単に開くように工作させたうえでに夜討ちをかけて5月26日に長浜城を攻略した[12]。茂辰は朝倉城に2000余の軍を集めて長浜城奪還を目指したが、国親軍1000人の奮戦により5月27日に兵力で勝りながら敗れ、浦戸城も国親の支配下に入った[12]。
しかし直後、病を得て6月15日に急死した。享年57[13][12]。家督は嫡男・元親が継いだ。
人物・逸話
安芸の毛利元就が吉川氏、小早川氏に対して行ったのと同様、土佐国衆の香宗我部氏を養子縁組によって従属化させている。また、家督を継いだ元親も同じように吉良氏を養子縁組により従属化している。長宗我部氏の軍制である「一領具足」は国親の発案といわれる。
家臣
吉田孝頼 - 国親の義兄弟にあたる。
吉田重俊
戦国時代の土佐国の大名。
長宗我部兼序の嫡男。
長宗我部氏復興に尽力し、
野の虎と評される。
時代
戦国時代
生誕
永正元年(1504年)
死没
永禄3年6月15日(1560年7月8日)
改名
千雄丸(幼名)→国親
別名
受領名:信濃守、宮内少輔
渾名:野の虎
戒名
瑞王覚世
墓所
高知県南国市北谷の瑞応寺
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部兼序、母:不明
兄弟
国親、元春、国康、親吉[要出典]、女(吉田孝頼室)、理春尼 (片岡茂光室)
妻
正室:祥鳳
子
元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島親益、本山夫人(本山茂辰室)、女(池頼和室)、養甫尼(波川清宗室)
生涯
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる[1]。幼名は千雄丸。
通説では、永正5年(1508年)、父・兼序が本山氏などに攻められ居城の岡豊城で自害した際に、国親は落ち延びて[2]、一条房家に養育された[3]。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した[4]。しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている[5]。
土佐守護を兼ねる室町幕府管領・細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて国親と名乗る(三弟の長宗我部国康(くにやす)も同様である)。
国親は吉田周孝を登用して内政や軍備の充実に努めた。天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた[6]。
天文16年(1547年)[7]、近隣の大津城を攻めて天竺氏を滅ぼした。次いで大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、下田の勇猛で名高い[8]下田駿河守を討って下田城を落とした。さらに細川定輔(十市細川氏)を屈服させ、定輔の次男・池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔した。こうして長岡郡南部を制圧した。この勢力拡大で近隣の領主も恐れをなして布師田や一宮の領主も国親に降伏し、土佐郡南西部も制圧することになった。また父を滅ぼした仇敵の山田氏を天文18年(1549年)秋に滅ぼした。また、弘治2年(1556年)には三男の親泰を香宗我部氏に養子として従属化し、土佐国人の従属化を進めていくと同時に高知平野の制圧も成し遂げていった。天文年間末期に剃髪入道し、瑞応覚世と号した[9]。
弘治元年(1555年)になって本山茂宗が病死し、娘婿の茂辰が後を継ぐと本山氏を討つべく兵を挙げた[10]。弘治2年(1556年)、国親は本山家臣の秦泉寺氏を服属させ、さらに大高坂氏や国沢氏も討った。
『土佐物語』によると、永禄3年(1560年)、岡豊より長宗我部方の兵糧を積んだ船1艘が種崎に向かったが、その途中で潮江より本山方の船2艘が漕ぎ出して襲撃し、兵糧を奪った[11]。このため国親はその報復のために元家臣だが訳あって本山方についていた建築の達人である福留左馬丞を甘言で誘い、長浜城の城門を簡単に開くように工作させたうえでに夜討ちをかけて5月26日に長浜城を攻略した[12]。茂辰は朝倉城に2000余の軍を集めて長浜城奪還を目指したが、国親軍1000人の奮戦により5月27日に兵力で勝りながら敗れ、浦戸城も国親の支配下に入った[12]。
しかし直後、病を得て6月15日に急死した。享年57[13][12]。家督は嫡男・元親が継いだ。
人物・逸話
安芸の毛利元就が吉川氏、小早川氏に対して行ったのと同様、土佐国衆の香宗我部氏を養子縁組によって従属化させている。また、家督を継いだ元親も同じように吉良氏を養子縁組により従属化している。長宗我部氏の軍制である「一領具足」は国親の発案といわれる。
家臣
吉田孝頼 - 国親の義兄弟にあたる。
吉田重俊
タグ:長宗我部
本山茂辰
本山 茂辰(もとやま しげとき)
戦国時代の武将。
土佐七雄と称された本山氏当主。
本山茂宗の嫡男。
時代
戦国時代
生誕
大永5年(1525年)
死没
永禄7年(1564年)または天正年間末以降
氏族
本山氏
父母
父:本山茂宗
妻
正室:本山夫人 (長宗我部国親の娘)
子
本山貞茂(のちに本山親茂)、
本山茂慶(内記) 、
本山茂直(又四郎)、
娘2人
生涯
大永5年(1525年)、土佐国本山郷の豪族・本山茂宗の子として誕生。
土佐一条氏と敵対の姿勢を見せ、一条氏と通じていた土佐吉良氏の攻撃を決意。天文9年(1540年)、当主の吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけて留守になっていた隙を狙って攻撃を開始。本山氏側は軍を二手に分け、茂辰は城主が不在であった吉良峰城に向かってこれを落とした。一方、仁淀川に向かった軍勢も宣直を討ち取り、土佐吉良氏を滅亡させた。
弘治元年(1555年)、父・茂宗の死を受けて跡を継ぎ、中央平野部の朝倉城に拠る。茂辰は依然一条兼定と敵対し[1]、2月25日には高岡郡の蓮池城を落とした。ところが、弘治2年(1556年)から舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、国親及びその子・元親と抗争を続ける。永禄3年(1560年)5月、長浜の戦いで長宗我部氏に大敗。6月には浦戸城を失って朝倉城に立て籠もった。以後も元親によって朝倉支城を悉く落とされ、永禄4年(1561年)3月にも侵攻を受けて敗北した。
永禄5年(1562年)9月には長宗我部元親の大規模な侵略を受けるが、子の貞茂の活躍で勝利した。しかし本山軍の被害も大きく、以後は長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩された。このため永禄6年(1563年)1月10日、朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退く。5月に茂辰は挽回のために岡豊に攻め入るも敗北。永禄7年(1564年)4月には本山城を棄てて瓜生野に籠もって抗戦した。
茂辰はこの戦いの最中に病死したとされているが、実はこれについては文献上に茂辰の名前が登場しなくなる[2]というだけで、茂辰の死去日や場所を裏付ける具体的な史料が存在する訳ではなく、行方不明というのが正しい。
また一方で、永禄7年から20年以上経過した天正年間末期に編纂された『長宗我部地検帳』に「本山大夫法師殿」という人物が登場する。茂辰の嫡男・貞茂(後に親茂)が長宗我部氏に降伏しその家臣となって以降に長宗我部氏の文書で「殿」の称号で呼ばれたのは本山氏嫡流の人物のみであり、貞茂(親茂)兄弟は別に記載があるため、「本山大夫法師殿」に該当する可能性があるのはその先代である茂辰しか考えられず、茂辰は永禄7年以降に出家して長宗我部元親の庇護下にあったする説が浮上した。この説を提唱した朝倉慶景は茂辰は降伏して出家を条件に助命されたものの、これに納得しない茂辰の妻(元親の姉)や家臣が貞茂を擁して抵抗を継続したと推測している。
戦国時代の武将。
土佐七雄と称された本山氏当主。
本山茂宗の嫡男。
時代
戦国時代
生誕
大永5年(1525年)
死没
永禄7年(1564年)または天正年間末以降
氏族
本山氏
父母
父:本山茂宗
妻
正室:本山夫人 (長宗我部国親の娘)
子
本山貞茂(のちに本山親茂)、
本山茂慶(内記) 、
本山茂直(又四郎)、
娘2人
生涯
大永5年(1525年)、土佐国本山郷の豪族・本山茂宗の子として誕生。
土佐一条氏と敵対の姿勢を見せ、一条氏と通じていた土佐吉良氏の攻撃を決意。天文9年(1540年)、当主の吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけて留守になっていた隙を狙って攻撃を開始。本山氏側は軍を二手に分け、茂辰は城主が不在であった吉良峰城に向かってこれを落とした。一方、仁淀川に向かった軍勢も宣直を討ち取り、土佐吉良氏を滅亡させた。
弘治元年(1555年)、父・茂宗の死を受けて跡を継ぎ、中央平野部の朝倉城に拠る。茂辰は依然一条兼定と敵対し[1]、2月25日には高岡郡の蓮池城を落とした。ところが、弘治2年(1556年)から舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、国親及びその子・元親と抗争を続ける。永禄3年(1560年)5月、長浜の戦いで長宗我部氏に大敗。6月には浦戸城を失って朝倉城に立て籠もった。以後も元親によって朝倉支城を悉く落とされ、永禄4年(1561年)3月にも侵攻を受けて敗北した。
永禄5年(1562年)9月には長宗我部元親の大規模な侵略を受けるが、子の貞茂の活躍で勝利した。しかし本山軍の被害も大きく、以後は長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩された。このため永禄6年(1563年)1月10日、朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退く。5月に茂辰は挽回のために岡豊に攻め入るも敗北。永禄7年(1564年)4月には本山城を棄てて瓜生野に籠もって抗戦した。
茂辰はこの戦いの最中に病死したとされているが、実はこれについては文献上に茂辰の名前が登場しなくなる[2]というだけで、茂辰の死去日や場所を裏付ける具体的な史料が存在する訳ではなく、行方不明というのが正しい。
また一方で、永禄7年から20年以上経過した天正年間末期に編纂された『長宗我部地検帳』に「本山大夫法師殿」という人物が登場する。茂辰の嫡男・貞茂(後に親茂)が長宗我部氏に降伏しその家臣となって以降に長宗我部氏の文書で「殿」の称号で呼ばれたのは本山氏嫡流の人物のみであり、貞茂(親茂)兄弟は別に記載があるため、「本山大夫法師殿」に該当する可能性があるのはその先代である茂辰しか考えられず、茂辰は永禄7年以降に出家して長宗我部元親の庇護下にあったする説が浮上した。この説を提唱した朝倉慶景は茂辰は降伏して出家を条件に助命されたものの、これに納得しない茂辰の妻(元親の姉)や家臣が貞茂を擁して抵抗を継続したと推測している。
タグ:もとやましげとき