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2017年01月11日
おかしむぜ?
鹿児島市内にお堀と石垣が、かつての名残をとどめる鶴丸城跡、石垣の内側には県立の博物館である黎明館、県立図書館、市立美術館等の公共施設が建っています。
その市立美術館の敷地正面入り口(国道に面した方です。)を入り、左に行くと木々が生い茂る涼やかな一角があり、よく見るとに人の顔が描かれた石があります。
これは島津家16代当主、義久の三女で18代当主家久に嫁いだ亀寿様を偲んで作られた石像です。
16代義久と18代家久は異母兄弟になります。ちなみに関ヶ原の戦いに参戦した17代当主義弘も義久、家久と異母兄弟にあたります。
亀寿様はのちに持明院(じみょういん)という法名を名乗り、それが薩摩言葉でなまって「じめさぁ」と呼ばれるようになりました。伝聞として伝わっているのは、器量には恵まれなかったが、慈愛の心と思いやりをもった、素晴らしい方で家来達からも慕われていたようです。
命日の10月5日には、毎年選ばれた市役所の女性職員の手で、お化粧することが習わしになっています。
ところで、薩摩弁では器量のよい女性を「よかおごじょ」と呼びますが、反対語として「おかしむぜ」という言葉があります。美人ではないが、愛嬌のあるかわいい女性の事をこう呼ぶのですが、どちらかといえば褒め言葉で、「結婚するならよかおごじょよりおかしむぜをもろやんせ」と昔から言われています。「じめさぁ」もきっとそんなおかしむぜな方だったのでしょう。
その市立美術館の敷地正面入り口(国道に面した方です。)を入り、左に行くと木々が生い茂る涼やかな一角があり、よく見るとに人の顔が描かれた石があります。
これは島津家16代当主、義久の三女で18代当主家久に嫁いだ亀寿様を偲んで作られた石像です。
16代義久と18代家久は異母兄弟になります。ちなみに関ヶ原の戦いに参戦した17代当主義弘も義久、家久と異母兄弟にあたります。
亀寿様はのちに持明院(じみょういん)という法名を名乗り、それが薩摩言葉でなまって「じめさぁ」と呼ばれるようになりました。伝聞として伝わっているのは、器量には恵まれなかったが、慈愛の心と思いやりをもった、素晴らしい方で家来達からも慕われていたようです。
命日の10月5日には、毎年選ばれた市役所の女性職員の手で、お化粧することが習わしになっています。
ところで、薩摩弁では器量のよい女性を「よかおごじょ」と呼びますが、反対語として「おかしむぜ」という言葉があります。美人ではないが、愛嬌のあるかわいい女性の事をこう呼ぶのですが、どちらかといえば褒め言葉で、「結婚するならよかおごじょよりおかしむぜをもろやんせ」と昔から言われています。「じめさぁ」もきっとそんなおかしむぜな方だったのでしょう。
幻の宰相 小松帯刀を偲ぶ
町村合併により旧伊集院町は、隣接していた日吉町、吹上町と共に日置市となりました。
これまで県外の観光客の方々にはほとんど縁の無い町でしたが、幕末から明治維新にかけての歴史に日が当たり、この地にも次第に目が向けられるようになってきました。
伊集院町の商店街から歩いていける所に「有馬新七」の墓があります。
伊集院郷士の子として生まれ、長じては京都において西郷、大久保らと共に討幕活動に大きな働きをしました。
しかし、志し半ば1862年に京都の寺田屋で38歳の生涯を閉じました。
京都の伏見大黒寺に埋葬されて墓も有るそうですが、故郷伊集院の墓は通称「陰墓」といって、親族や国許の仲間達が偲んで建てた墓です。
そこから車で20分程の所に「吉利」という土地があり、大河ドラマ篤姫をご覧になられた方ならご存知の尚五郎さんこと「小松帯刀」の墓があります。
喜入の肝付家(こちらも歴史ある名家です)より養子として小松家に入った人ですが、その小松家の領地が旧日吉町の吉利にあり、菩提寺だった園林寺跡に歴代当主の墓が並んでいます。
帯刀が29代当主だったということは家格の高さを知らされます。
激動の時代に生きた彼の働きはいまさら言うこともありませんが、明治3年に36歳の若さで病に倒れた事は、共に維新を戦いぬいた仲間達から非常に惜しまれました。
彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく新政府の指導者になっていたでしょう。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、ひょっとしたら西南戦争も起こらず、西郷どん達も城山で死ぬこともなかったかもしれませんね。
これまで県外の観光客の方々にはほとんど縁の無い町でしたが、幕末から明治維新にかけての歴史に日が当たり、この地にも次第に目が向けられるようになってきました。
伊集院町の商店街から歩いていける所に「有馬新七」の墓があります。
伊集院郷士の子として生まれ、長じては京都において西郷、大久保らと共に討幕活動に大きな働きをしました。
しかし、志し半ば1862年に京都の寺田屋で38歳の生涯を閉じました。
京都の伏見大黒寺に埋葬されて墓も有るそうですが、故郷伊集院の墓は通称「陰墓」といって、親族や国許の仲間達が偲んで建てた墓です。
そこから車で20分程の所に「吉利」という土地があり、大河ドラマ篤姫をご覧になられた方ならご存知の尚五郎さんこと「小松帯刀」の墓があります。
喜入の肝付家(こちらも歴史ある名家です)より養子として小松家に入った人ですが、その小松家の領地が旧日吉町の吉利にあり、菩提寺だった園林寺跡に歴代当主の墓が並んでいます。
帯刀が29代当主だったということは家格の高さを知らされます。
激動の時代に生きた彼の働きはいまさら言うこともありませんが、明治3年に36歳の若さで病に倒れた事は、共に維新を戦いぬいた仲間達から非常に惜しまれました。
彼がもう少し永く生きていたら、間違いなく新政府の指導者になっていたでしょう。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、ひょっとしたら西南戦争も起こらず、西郷どん達も城山で死ぬこともなかったかもしれませんね。