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2024年09月10日

【社会現象】コミュニティー化すべきでなかった「自立誤り」と彼女たちの機能不全な実態

(1)とどまることを知らない人の欲望

ほんの小さな欲望が、人生を狂わせることがある。
食欲、性欲、睡眠欲。
適切に満たせるものならよいが、ことさら今のこの令和の時代では、
その手法でお金が稼げるほど複雑かつ、良心にとって難しいものになっている。

例えば仕事のストレス。
誰もが抱えているありふれた話題だ。
だがこの仕事での小さなストレスが小さな不眠を積もらせるとどうなるか。
それによってその人の生活に小さな「ほころび」や「くるい」が生じはじめ、
やがてその人の職場で周りと人間関係をこじらせはじめたり、或いは自分から仕事をやめたりと・・・
その、個人が負った小さな「人生のほころび」は、スピートの遅い早いはあれど確実に
「ほころび」程度では済まない大きな痛みとなる。
時には自分だけでなく、自分以外に危害を及ぼすことも「当然の事」と自制解除を躊躇しないほどに。


(2)自制教育としての「信仰」の役割
仏教は自分の欲望を抑え、コントロールすることを教える。
キリスト教は自分よりも相手を愛し・・・つつ、やはり自分の欲望を適切に処理する方法を教えているように
私は思う。

「人はひとりではよくない」
これは聖書の創世記における有名な神の言葉だ。なぜか。
人はひとりでいれば問題は起こらない。エデンの園にも罪もなかった。

ではなぜ神はもうひとり「人」を作ったのか。
聖書には「助け手」と書いてあるが、私にはこの「もうひとり」は一人ではないと読める。
このもう一人は、「一人でいるときも常にもうひとりを意識していた」のではないだろうか。


(3)「退屈」によって死にかけてしまったアダム

人は一人ではその思い、行いは正しく無害だったが、なぜか人をひとりにしておくと
彼は退屈によってすぐ生気を失い死にかけてしまった。


実際どうだったかはわからない。これは私の完全な憶測だ。
だが、あながち嘘ではないかもしれない。

実際、人は複雑さを欲している。いや、むしろ問題を欲していると言っても良いかもしれない。
思えば神が作った人も、世界も、相当複雑なシロモノである。
この世界はものすごく緻密に、かつ複雑な調和の下で運営されている。

人は「神の似姿」として創造されたというのなら、人もこの緻密さ、そして複雑さを好むに違いない。
だから神は人を「もう一人」作られた。
そして人はすぐ死にそうになることはなくなった。(注※これは完全な私の憶測です!)


(4)死にかけるアダムを不憫に思い、神はアダムに「複雑さ」を与えるも・・・
実際人類は無用な競争や争いをたくさん起こし、世の中を複雑なものに「見せてきた」。
男と女が一緒になったとて、普通に子どもを産んでそれを育てることを楽しみとして、
夫婦仲良く過ごせばよい。が、実際はそうはならない。

人がひとりだったときは、好き放題させていてもその限度はたかが知れていた。
だが、ふたりになった途端に人と人との関係はややこしくなった。
そしてそこに神が絡んだとなると、いよいよ兄弟でカインとアベルは殺し合いをしてしまった。

兄弟の殺し合いの最中、弟は「やめてよ!兄さん!」と叫んだかもしれない。
しかし兄は止まらない。
なんせこの兄は後に神の前でも悪態をつくほどの「大物」だったから。

そこで「女性」の登場である。
最初の人、男性アダムの”あばら骨”から作られた二人目の人、女性「エバ」は、やはり神の似姿らしく複雑さを好んだがが、その性質には「自制」が宿っていた。

エバはアダムと争うことも、神を疑うこともしなかった。
だがエバにも決して欲望が無かったわけではない。彼女もまた複雑さを好んだが、問題にならなかったのは一重に彼女の中の「自制心」の賜物に尽きる。

人がふたりになっても仲むつまじく暮らせていたのは、アダムの愛とエバの自制心が見事に複雑かつ緻密に絡み合いながら一体となって機能していたからだ。

つまるところ、人が複数いるところでは必ずと言っても良いほど「自制心」と「愛」が必要になると言えよう。
男性は愛する方法が望ましい。自分を捧げて相手を愛する。
女性は(男性から愛のカタチを学び)自分を愛する、すなわち自制に徹することが望ましい。
女性は男性が自分以外に自分を捧げすぎているときに彼に寄り添い、「自制」を促す。これ以上の捧げものは必要ないと彼をさとすことで彼は命を落とすまで捧げあるいは奪われることに「制限」をかけることができるようになる。これが「助け手」の所以であり、男と女が一体であることの根拠である。


(5)聖書の要「自制心」と「愛」
人は男と女、それぞれ単体でもふたり一体でも複雑さの中にいることには変わりない。
だが、そこにはまず、「自制」の実が必要だ。

アダムが善悪の木の実だけは食べるなと命じられていたのも、この「自制」の実を育てるためのレッスン、いわゆるそれは神の愛だったかもしれない。

ともかく私たちには二人以上になるときはまず「自制」が必要だ。自制なき「愛」はやがて自分の命を危機にさらす。

教会においても「愛」をもって神に身を捧げた結果として、職務としての御言葉の代行を行う中で「自制を教える」ことはあっても、実際、黙って聞くなどの自制をその場にいる全員に「しつけ」しているのは「女性会員の態度」であることが多いと思う。
女性がしっかりとしている教会は、奉仕も礼もピカイチである。

男性は、そんな女性に影響されて自分も自制心が「あるように」「最初は」「振る舞う」。
男性が自制心を自分の物として身に着け、社会でそれらしく振る舞えるようになるには13歳以上にならなければならないとタルムードにもある。
それまでは廊下は走るし、モノは散らかし、親や目上の人の言う事は基本聞かない。
男性が奉仕や礼に基づいて行動するようになるきっかけ。例えるなら雄から漢になるような。
それはおそらく「異性への恋心」であろう。


(6)もはや女性に「欲情」することはあっても「恋」をしなくたった雄(オス)たち

しかし現在、この女性におけるその性(サガ)でもあろう「自制心」が社会の中で機能していない。
インスタグラムやFacebookから、女性ファッション誌まで、現在の女性は「自制からの解放」の
シンボルである。
かつての神のデザインとは異なり、女性は人類に自制心を起こさせる存在から、
自制から解放させる存在となった。

自制心なくして人の世は治まらない。
言いすぎを承知で言えば、最近のいじめや戦争は女性のこの「変異化」が原因かもしれない。


(7)欲望に負け、人としての成長をやめた女性たち
人間関係がなぜ複雑か。それは複雑でないと「人は興味を持たない」からだ。
数学、化学、物理・・・理系の学問は複雑だ。
文学・・・これも複雑な方が面白いと私たちは感じる。
自然は・・・複雑にしたのは「人間」だ。

「人はひとりではよくない」
人は複雑さの中で活力を見い出して生きていくものだから。


だが、人の複雑さにはお互いに制限が必要だ。それは
1.自分の欲望における制限だけでなく、
2.相手が自分の中に必要以上に入ってこないようにする制限、
3.相手が自分の必要以上に頑張らせて結果、奪われた格好にしないための制限

も同様である。

1.は実践に易しい。
2.は自分を守るという点では易しいが、相手に失礼を及ぼすリスクを考慮するとやや難易度が上がる。
そして3.は、多くの場合、相手に遠慮しすぎでバランスを欠き挫折する点で、1と2が出来るようにならないと至らない、より高次元での実践となる。

悲しいかな、今は男性がこの2.3.を教え、また実践の教師になっている場合が多い。
周りを見渡せば、昔は尊敬すべき助け手だった対象の自己中心的な態度と要望を、男性が全て受け止めているのが「当たり前」の光景となっている。

育休は特にその典型だと思う。
聞こえは良く聞こえるかもしれないが、それは社会で女性「たち」が全体として担う分担と責任ではなかっただろうか。

女性同士の人間関係の不出来が各家庭まで影響を及ぼし、本来、女性だけの専売特許だった育児を女性自身が「幸せな経験(体験)」から「単なる負担」に落としめ、その「負担部分だけ」を男性に「押し付けて」いる。

男性は命を捧げる生き物だから、たとえ「愛していなくとも」、「男性の責任として」その負担の押し付けにも甘んじるだろう。

「女性としての責務」を男性に「押し付け」て、平気な顔をしている。
これは男女の性差を述べる前に、実に「人として愚かな態度」だと思う。

お金の稼ぎ方のセミナー講師はできても、社会の在り方には無関心で無知。
それでいて、かつての漢たちが「これではいかん」と言って、苦心の末につむぎだした”社会の理想”である「法と律」にまで口(くち)を出し、ずかずかと彼らが築いてきた聖域を台所を片付けるように勝手に自分のしたいような形に「整理」してしまう。

父親のいない家庭の「子どもの貧困」の半分はもしかするとそのせいかもしれない。
その口(くち)一つで所かまわず攻撃するのが自立か。
家の中ですら抑えられない舌を、社会でどう役立つと言えるのか。

聖書時代のタルムードを社会に浸透させ秩序を守ってきたのは、各家庭における女性たちの「教師」としての役割と態度であった。
だが、法にも律にも無知な現代の状態ではいずれ、かつて漢たちが”社会の理想”を掲げ、それによってこれまで「かろうじて」阻止してきた「現実」を、再び歴史で繰り返すことになるかもしれない。

「現実が見えていない」と彼女たちは言うだろう。
だが、「現実にしてはいけない現実」に対しては「理想」で戦うしかないこの社会の「現実」を
哀れなことに彼女たちはまだ知らない。

日本国憲法はその一例である。
「オジたち」の「頭が古いから」「現実に合っていない」ことが「わからない」と彼女たちは笑う。
だが、あれは「過去に起きた現実」を「二度と起こさないため」に「起きてはならない現実」の「回避策」として作られたものだ。
そういうものをむやみに「現実に」「合わせてはいけない」とは思わないところが「無知」と言わざるを得ない。
確かにあなたたちの「現実の生活」には直接には関係なかろう。
だが、あなたの現実の生活から「直接、関わらないように」その「起きては困るもう一つの現実」を遠ざけているのも、今あなたたちが「時代に合わない」と言って変更してしまった「それ」なのだ。

彼女たちは「片方の現実しか見ない。」
そして「もう片方の現実」が来ても、その時に彼女たちはまた、その「責任」を「男性」に「押し付け」、自分の身の回りは台所を整理するように「整理」していくに違いない。
不幸なことに、社会はメディアを通じてその「一端」を既に目撃している。

漢の中の漢「イエス・キリスト」が天からこの光景を見ているとしたら、
もう既に神に祈っていることだろう。
「父よ彼女たちを御赦しください。
彼女たちは自分が何をしているのか、わからないでいるのです。」と。

2024年06月16日

【ショートコント】結婚、育児。そもそも全てが初めからワンマンのワンオペだったら。


そもそも結婚も、子育ても、全部最初から夫抜きで自分が妄想したワンオペレーションで走っていなかっただろうか。


(1)ワンオペ育児からの解放を目指して

「夫が単身赴任していた時は、ワンオペ育児で全く原稿は進まず〜だったが、今は好調だ。」
ある記事で、こんな内容の記事を見た。

「ワンオペ育児」とは、女性が作り出した言葉だ。
ワンオペ、すなわちワンオペレーションという言葉には、「私一人だけでしなければならなかった」という
苦しかったという想いが含まれている。

この言葉を聞くと女性たちは皆こぞって共感し、その甲斐あって、今や男性も昔よりずっと会社での仕事より
家での育児や家事に時間をかけるようになった。

それでもまだまだ男女平等には程遠いとして、「これが平等?」と女性たちの声の高まりの止む気配はない。



(2)じわじわと広がる「弱者男性」いじめ

ワンオペ育児から解放されたとする女性たちの状態は、大きく次の2つがあるようにうかがえる。

1つ目は、夫が前よりも家事、育児に参加して妻である女性を目で見える形でサポートしている状態。

2つ目は、シングルマザーとなった女性が社会的コミュニティーと協力して子育てと仕事を両立していく状態。

この2つに共通しているのは「役に立たない夫」像だ。

「家事、育児を女性に押し付けて、自分は好き勝手している酷い夫に嫌気がさす」というのがワンオペ被害を訴える女性の主訴である。

この主訴を改善すべく既に社会がその構造を変えてまで改善しようとしている一方で、この改善活動が進むにつれて、労働現場における人不足が深刻化したり、「弱者男性」と名付けられた「男性いじめ」が深刻化したりと、主訴に取り組んで改善しているにもかかわらず、社会が良くなっていないように見えるのはなぜだろうか。

それはまるで、昔から言われていた女性社会の悪い面が、家庭や女性同士の友人関係から居場所を社会全体に移しただけのようだとも見えはしないだろうか。



(3)募り続けてきた女性たちの不安と切なさ

ワンオペ育児の改善とは、具体的には女性が目で見てわかるように男性が家事、育児に対して貢献を示していることを指す。

一方で、この改善提案について無視されている事象を1つ挙げるとするならば、男性の仕事は今も昔も、家庭において常にワンオペではなかっただろうか、ということだ。

「家にいなくても、お金さえ家に持ってくればいいのよ」とは、ワンオペ育児被害が社会問題になる以前から現在になっても女性が集まる場所でよく出てくるテーマだ。

「自分たちはずっと役に立たないこの夫からの精神的苦痛に耐えてきた」とはよく聞かれる。しかし、男性は自分の仕事のことを家で愚痴る、あるいは「お前はいいよな」と毒を吐くかもしれないが、女性に自分の仕事を手伝えとは言わないのではないかと思う。

こういうと「女だから出来ないとでも?」と怒られるかもしれない。
でも、実際、男性が職場で何気なく日常的に背負っている社会的責任への重圧を女性は職場で意識的に避けてはいないだろうか。

育児休業を男性が取ったり、残業時間をなくして定時上がりを推奨したりするようになった現代の「社会的正義」を彷彿とさせるこの改革は表向きは良き習慣として社会に浸透しつつあるが、その改革の成果の犠牲となった多すぎる業務の処理や難解な仕事の問題解決は、未だに男性が専業しているといえる。
そして、その状況に対して女性たちは問題にしていない。無視するならまだしも、問題にしないで「常識」のままにしているのではないだろうか。

これまで家庭では「役に立たなかった」男性の企業戦士たちは、それまでの日本社会の豊かさを長い年月をかけて積み重ねてコツコツと築いてきた。それこそ、家庭を忘れるほど没頭して仕事をしてきたゆえに今の社会の発展があることは、否定してはならないと思う。

恋愛経験の少ない私でもわかる。
女性は自分の事を常に気にかけていて欲しいのだ。
それなのに女性である自分の声が何度言っても届かないほどに男性が仕事に対して愛情を注ぎ「家庭を忘れるほど没頭」することが、女性にとっては耐え難かったのだろう。



(4)男性の仕事の無慈悲さ

その気持ちには申し訳ないと思う。
だが一方で、それは女性が男性に対して理解を示すところではないかとも思うのが正直なところだ。

男性の仕事をしてみて見えてきた通り、男性の仕事の量や質は、男性一人のキャパを余裕で超えてくるのが常である。それは「弱者男性」であっても同じことだ。

そのような重圧に対して男性は、愛を持って他を忘れるほど集中することでしか対処できない。一人の力など取るに足らないから、時には何十人もの男性が家庭を顧みず愛を持ってして集中し、1つのプロジェクトを成功させてきた。その結果が、現在も日本に、そして一人一人の家庭、しいては愛する妻と子どもに束の間の豊かさをかろうじて届け続けている。

その無慈悲さは、結果が全てで、失敗すれば社会的損失と共に責めを負い、失業あるいは命すら投げ出しても埋め合わせされないほど過酷と無常を極める。

その過酷さは、一緒に仕事をしていても、その無慈悲さを「ハラスメント」として避け、時には社会に訴えてでも回避しようとしていることから女性たちも肌で感じているに違いない。


(4)理解し合う対象から外される「オジ」たち

このように女性のワンオペ育児の辛さは社会的にあらわになりつつあって改善に向かっているが、男性のワンオペ仕事は未だにそれが男性の専業であるかのように扱われているのが実情ではないか。

「オジ」と称して女性に嫌われる「弱者男性」こそ、社会の中でワンオペ仕事をずっと忍耐してコツコツと成果を積み上げ、女性たちに還元してきた功労者と言っても良いだろう。

そして忘れてはならないのはその「オジ」こと弱きオジサンたちが、弱いくせに「女性は弱い」と信じて不器用なやり方で守ってきている現実だ。

「オジ」たちは『女性たちに嫌われ気持ち悪がられながら』も含めて、その「オジ」としての社会的役割を粛々と今日も果たしている。

時には誰からも「迷惑だ」と呟かれながら電車のホームからダイブすることもある。女性は仕事に命まで賭けないが、男性はその性ゆえに容易に心の針を振り切って仕事に命を捧げてしまうときがある。

令和になってそれを利用して富を搾取している女性たちの実態が明らかになった。極端な例では、仕事は正社員を避け、パパ活なるものを第一の生業としている者もあるらしい。

女性たちはどこまでも平等の成立を認めず自分たちの主張を発信し続ける一方で、「オジ」たちはかつて女性たちが男性に対してぶつけた不満を因果応報のように浴びせられている。それはまるでワンオペ育児の仕返しのようだ。だがそこにはワンオペになった原因について女性である自分は全くの潔白であるかのようにシラを切るズルさが見えはしないか。


(5)相手を見ずに「自分の中の理想の結婚相手と結婚する」間違い

ワンオペ育児から「ワンオペ」だけを取り出すと、その意味は「私だけ」というものだと冒頭で述べた。

一方で、「女性から見て」という見た目の視点をあえて取り除いて家庭の運営を見たとき、その運営のための資金や安全は、家にいない夫がその最低限を保証しているからこそ、その「主訴」は成り立つと言えないだろうか。

「夫とはこうあるものでしょ?」という妻の気持ちには、目の前の夫を見ずに夫を非難する、妻の妄想がそこにはないだろうか。

男性が仕事を自分より愛しているように見えるがゆえに、女性は怒りを燃やし、独立および男性との戦いの火ぶたを切ったということを前述した。その悪化の背景には、夫への理解を示すことを拒否する妻の嫉妬にも似た姿勢がないかという指摘も、おそれながら加えさせてもらった。

婚活へ行くと女性たちは皆、自分の理想とする結婚相手が現れるのを待っている。そして「この人となら幸せになれそう」という男性が現れたらその男性を結婚する。

「この人となら」および「幸せになれそう」は、妻が夫に対して不満を持ち離婚さえ決断し得る「夫の罪」の根拠だが、そもそもの夫の人格や人間性を女性が自身の妄想で包んで理想の結婚生活を夫に結婚前から強制させていないかは罪に問われないのだろうか。

結婚後、夫が妻の思惑と違った動きをすると非難され「公的裁き」の対象にさえされる。だが、その非難が最初に夫に及んだ時、妻は夫の全てを理解していると妄想している、あるいは「この人の考えていることがわからない」と自分の心傷に浸るのに精いっぱいで、夫を理解する努力を放棄していないか。

実は妻が避難するごとに、夫から「俺はお前の妄想の相手でない」とのシグナルが出ていなかっただろうか。自分は察しろという空気を出していながら、自分は察する努力を放棄していないだろうか。

夫がそれを言うと、現在はハラスメントになってしまう。だから実際に伝えようとするときには暴力になってしまうのが夫側の主張だとしたら、令和の結婚は夫側の主張を完全に無視したものになっている。


(6)歯止めの効かなくなった「いじめ社会」をけん引する女性たち

かつて女性が夫からされて嫌だと思ったことを改善しようとして社会改革に乗り出したものが、単に夫への報復と嫌がらせになっていて、夫は今や元夫ではなく、「弱者男性」しいては男性全体にまでその「いじめ」の対象が及んでいないだろうか。

確かに女性に辛くていたことを気づかなかったことに誤りはあろう。しかし、キャバ嬢がめった刺しにされた事件がメディアで公開されたことで、女性の怒りの凄まじいさは男性に届いたはずだ。

世の夫たちは今や自分のキャリアを捨てて、家事や育児を優先させはじめた。
一方、世の子どものいる母たちはこぞってキャリアを優先させ、自分たちの幸せを競い合うようにSNSに投稿している。

女性の立場がまだ弱かった頃は、男性は少しの事でも社会的にハラスメントに対する制裁の対象になっていた。だが、女性の立場が向上しても、未だに男性に対するハラスメントに係る制裁は弱まる気配はない。それどころか、「弱者男性」として嘲笑の的にされているではないか。離婚さえ「男性の罪」ゆえに女性の経済的自立の基盤として正当化されつつあるという。これはやりすぎである。


(7)弱い者でしか知り得ない、巧みな知恵と慈悲の真理

昔の女性の立場は弱かった。だがだからこそ、女性の正論には人としての道に対して力があった。
社会的な地位も低かった。だから小さな優しさが大きな称賛に価した。
弱いことが、更に主張しないことが、女性の懐を海のようだとその広さ、深さ、大きさを際立たせた。

女性の批判は夫ではなく、夫から愛情を奪う社会の仕事に向けられるべきだったかもしれない。

男性は愛する者を責められない。仕事に駆られて愛情の矛先を家庭や妻から奪われたとき、男性は妻か自分を責めるしかなくなるが、その多くは妻を責めることは出来ず、結果として自分を責める。この際の問題は、男性が自分を責める際、女性のように自分を大事にしようとする心理は一切働かず、責められるならと徹底的に責められるまで本来そこまで落ちる必要のないところまで自らを追い込もうとすることだ。切腹文化である。

男性の強さとも言える最も恐ろしいことは、その命すら天秤に乗せてしまえることだ。
女性とは違い、男性は一瞬にして極限まで自分の価値を最小にできる。

この弱さ、脆さを知っていたかつての賢女たちは、夫が本気でヤケを起こす手前でいじめるのをやめて折れたのだが、皮肉な事に、それが夫たちには自分の弱さ、脆さを最も痛感させられる瞬間、自責と回復の転換点となっていた。

弱いはずの女性に気を遣わせるほど弱くなった夫を救い上げるものは何か。
その手はまるで子供の手のように小さく、力なく脱力し、しかも地に手をついたので砂で汚れている。

落ちるところまで落ちた男を救うもの。
それはいつの時代も、もともとあえて低いところに降りて生活を続け、低地での生活の知恵と低地ゆえに届く慈悲を知り尽くしている女性の巧みな導きではないかと私は思う。




(8)社会の誤った運用の担い手とならぬよう

令和を生きる若い女性たちは、もともとの生活のベース、自分の価値や社会的地位が引き上げられているがゆえに、低地で生きる知恵を持ち合わせていないかもしれない。

また、「願えば叶い、言えば意見が通る」時代に生きているがゆえに、生き方に巧みさが育たない。
守られているがゆえに、メンタルが物凄く弱く、他人に対しては驚くほど非情な気がする。

結婚生活は自然の営みであるので、諸行無常だ。
仕事はもっと無常である。

現代の結婚困難と離婚率の高さは、この傾向のせいかもしれない。
加えて団結より自立を選ぶため、種類は豊富だが1つ1つの種は行き場を失い絶滅し易いのではないか。

自分たちで変えた社会だが、その運用の多様性のゆえにパラメーターはかつてよりはるかに多種多様だ。

家庭内の不和ではもはや終わらない雰囲気がある現代社会に対し、変更は簡単だったが、その運用を果たして間違えずにやっていけるのだろうか。

2024年06月01日

【貧困と秩序】ビタミンC足りてますか?聖書が女性を表に出さない理由


ビリギャル2度目の離婚
https://president.jp/articles/-/82210


聖書では、イエスの代わりに殺人鬼バラバに許しと自由を与える民衆の愚かさが描かれている。
リリちゃん事件もそうだが、女性がこのバラバに見えてくることがないだろうか。




Youtubeである女性の発信する内容によって「賢く」なる女性が増えるほど、社会は急速に変化を遂げていた。個人のニーズに応える応えるのは一見素晴らしい。だが、社会全体にそれを認めると、社会は「してほしい人」だらけのバラバラなものだ。

今、日本は「ハラスメント」大国だ。その原因の一つは、他者より「私」を優先する女性の大量社会進出ではないかと思う。
家庭の中で妻が「私だって尊重されてよい」と思うこと。それはどこの家庭でも起こる「妻として真っ当な」悩みだ。
だがそれは、妻になった女性が取り組まなければならない「女性の課題」であって、女性が社会において「家庭」を築き、運営していく上で解決していかなければならない「妻」としての最初の「人として真っ当な」ハードルかもしれない。


こういうと女性を馬鹿にしているように聞こえるかもしれないが、昔はこれをお嫁に行く娘に託す「母からの知恵」として、代々継承していくいわば「国の宝」であった。

「女性は表に出てはいけない。」
これは、現代ではただの男尊女卑の言葉に聞こえるかもしれないが、この「四苦八苦」が常の世の中において、大切なものは世俗から遠ざけておくのは、昔から当たり前の知恵。

「昔は」を連呼すると「今は令和」と笑われるかもしれないが、昔の良き習慣を世俗から隔離し守っていくのは、仏教やキリスト教ではむしろ「知恵」として教えられている。

家庭の中での女性の愚かさの代表である、「それはハラスメント。」それを「察せよ」と態度に表すことが、今や社会で当たり前のムードになりつつある。しかし、それが逆に「男性へのハラスメント」になっていることは誰も口にしてはいけないのはおかしくないだろうか。

「私の不機嫌の理由を察せよ」。今風に言えばこれは「フキハラ」である。
不幸にも、情報発信を加速させる特性をもつインターネットの発展がこの「フキハラ」を社会構造に持ち込み、「自己中心的が正当化された社会」への変化に拍車をかけているように思える。

女性が自分たちの考えをネット上で自由に発言できるようになり、またネット上での発言力、拡散力が個人の収入と結びついてから昨今のこと。そう言った発言力、拡散力の高い女性、またそういったYoutubeを見て賢くなった気がした女性たちは、自分たちが正しいことをしていると思い込んでいる。だがそれは、かつて自分たちが男性に対して「それはおかしい!」と叫んでいたことだ。

元々社会は構造的に「子ども > 女性 > 男性」の順で守られるような秩序になっている。
立場的に一番弱いのは実は「男性」だ。

一方、社会的責任の重さはこれと逆順であるから、最も口に気を付けて、自分より全体の利益を優先させなければならないのも「男性」である。
そして、社会はこの男性で「表」を成している。社会のルールは、このような理由でその多くが「男性を処罰する前提」のものが多い。

ところで、女性は男性に比べるとこれまで社会の「裏側」に隠されてきたと言えるだろう。それゆえに、女性の行動を縛る厳罰が下るルールといういものは、実はそれほど多くはない。

男性が体であるなら、女性はビタミンCである。体の健康を維持するためには多くの秩序ある生活が必要だが、ビタミンCを取り過ぎるな!というルールはない。ビタミンCは不足すれば体に不調をきたすが、多い分には体が自動的に余剰分を外に排出する仕組みを持っているので、変に代謝に人間が外から手を加えたりしない限りは体に影響はないためである。

男女が裁判になれば大抵、男性が負ける。それはルールに女性を罰する規定がないからだ。「社会はこうあるべき」とは、「男性はこうあるべき」と同義語に近い。ゆえに、女性や子どもに自由を与えないのは「社会全体に対してはリスク回避として当然」の配慮であったと言える。

にもかかわらず、ここにきて社会は女性や子供に多くの自由を与えざるを得なくなった。
離婚が恥ずべきことではなく、個人の権利として認知されるようになったのはつい最近のことであるが、それを公にしたのは女性たちである。もはや今の女性はビタミンCではなくなってきていて、それはまるで「ホルモン」のようである。ホルモンは、男性ホルモンが多ければ体は男性化し、女性ホルモンが多ければ体は女性化するというふうに、体全体に対する影響度はビタミンCとは段違いである。法律でもその使用に制限があるように、本来、ホルモンであれば、社会としてもその使い方をよくよく検討して規制を設けなければならない。

日本国憲法が結婚を前提にルール付けされているのは国の繁栄のためであり、家庭を作り子を産み、育て、それをもって次の時代に国の将来を託していくことは私たちの責任である。が、それを今や女性は「嫌だ」と言って拒否している。

自分たちが安全に安心して子育てできる「仕組み」や「サポート」がなければ「できない」。だからそれができるように社会は「察せよ」。「私たちは既に、できることは自分たちでやっている」から。

これは、全体を管理監督する上では最もやりずらい、頭を悩ませる態度である。体で言えば、ホルモンの暴走は体を病気にさせる。

「私たちは既に、できることは自分たちでやっている」
これは、家庭であれば許された態度であろう。なぜなら管理者は夫だけであり、夫は家庭の中で最も立場が低いからである。夫が自立するとは「妻や子どものいう事をまずは黙って聞く」。そして「自由にさせ」かつ「危険から守る」ことである。これは「社会」が夫に対して突きつけている社会的責任という「命令」である。

だが、そのような「命令」の束縛の無い妻や子どもが「自由にやったら」どうなるか。
そもそも幸福になる権利は認めていても、行動をしばるルールが彼らにはない。だから、言えば大抵訴えは通ってしまう。それで離婚してお金だけ手にして「自立した」生活と宣言する「自由」も比較的早く受け入れられてしまった。

そこで問いたい。
「経済的に一人で生活して生きていけるから夫もいらないし、可愛い子どもさえいればOK。何でも私の自由になるのが本当の正しい社会の在り方なの。私を見て!みんなもできるはずよ!」これが本当に女性の自立だろうか。

男性であれば、思いが生じてもこのように思いに対して問いを立てる。これは仏教でもキリスト教でも変わらない。規範があるから問いが生まれる。問いがあるから思いの暴走を避けることができる。これは男性が帝王学等で女性から離れて学ぶ知恵の一つである。真の宝とはこのように外部からは遮断して隠しておき、その維持・管理の性質上、ほとんど表には出さない。

社会には自分以外に、自分より能力の低い者もいれば能力の高い者もいる。それらとも調和して上手くやっていくには「駆け込み寺のような存在」が必要だ。(お寺ではなく「家庭」と男性はそれを呼んでいたけれど。)
海のように広く、大きな包容力。それを持ってして社会の最小単位である家庭を「『表』の社会に対して『裏』で正しく切り盛りできる巧みさ」。それがそう遠くない過去の「女性の自立」の姿だった。

現在も社会の表は建前と不正だらけ。
でも、すれでも捨てたものではないなぁと思えるのは、社会というコインの裏にはきちんと女性たちが人としての正しさ、優しさ、忍耐強さなどの「正論」の土台を守っていてくれていたからだと私は今でも思っている。

表に出ているから偉いわけではない。裏側でも表側でもフィールドはどちらでもいい。大切なことは「そのような社会を前提として、さて今日、どう生きるか。」だ。それを教えてくれたのは女性たちだった。

自分の役割をきちんと果たす「責任感」「誠実さ」「人としての愛」。力もないのに、弱いはずなのに「責任感」「誠実さ」「人としての愛」。それらを今日どう社会の中で楽しんで実践していくか。それを自分たちより必死に考えている女性は男性から見ては特に尊敬の的だった。

一歩家庭の外に出れば、社会の表では「そんなものは建前だ」「空気を読め!わがままいうな!」と潰されてしまってしまう。空気を読んで、規範に従うのが「表」の秩序だ。
秩序にももちろん、その1つ1つに意味がある。1つの秩序はそれに関するある過ちが過去にあって、それを正すためにできるものだから、むやみに変更しようとしてはいけない。
でも逆に、
「個人がどう正しくあるか」は「個人的な事」で、それを「表」である社会に強要してはいけないが、でもそれは「表」を維持する個人にとってはとても大切なものなので、むしろ「裏側で」きちんと維持・管理すべき「国の宝」であったんだろうなぁとも思う。

ところが今は、その宝の蓋がパンドラの箱が開いたが如くに、社会の表に中身が吹き出てきて、しかも重箱の隅をつつくが如く「あれはハラスメント」「これはハラスメント」と駄目出しをして、グループ同士で影口を言い合い、気に入らないものを「気に入らない空気」を出して「排除しようとする」。

「正論」を「正論ぽくいうな!」というのは女性が言い出したことだ。
正論は正論だが、人間はそれほど正論ぽく正しく行動はできないので、それを押し付ければかつて女性が男性にされていたときと同じように「非常に愚かなだ」と相手にも思われて当然だし、それを一番理解し気を付けていたのも女性であったはずではなかったか。

しかもこれらをインターネットに乗せて当たり前のように社会に発信し、大量に進出したがゆえに「女性としてではなく」それが「社会として」それに皆がお金を払ってしまっている。

例えばYouTubeで「私はあなたを幸せにするあなたのパーツではない」系との発言を聞いたことがきっかけで、恋愛や結婚をより困難な課題にした人は少なくないだろう。公共のメディアでそのような発言を平然と言ってしまうような女性たちは、自分以外の人のために自己を少し譲って人に対して善い事をしたときに出てくる良質な心の喜び、嬉しさ、幸せの芽を、「人としては極めて真っ当な悩み」を悩む女性たちから自分の口が刈り取り、またそのような「人が心の正しい成長過程で通過する」人として真っ当な悩みの芽を枯らして回っていることに気づかない。

彼女たは、男性なら大抵誰もが理解している一般常識「この世が一切皆苦であること」を「現代の女性が『皆』」学んでいないことを浮き彫りにさせる。昨今、男女関係を問題にするときには男性女性と分けて発信する人がほとんどだが、例えば日本の同胞という意味では男性も女性も社会や家庭という共同体を営む「パーツである」という立場は変わらない。

パーツである以上、その共同体の中で個人がその共同体の運営理念から外れた意志を持ったり、個人が各々の希望を勝手に述べてはならないし、むしろ同胞の中で長く続く慣習にはまず従う姿勢で臨むべきであるというのは「真っ当な人としての考え」であろう。

だが、現代の女性はまず「自分」を大切にする。共同体より、仕事より、自分を一番にする。安易に例外を認めてはならないというのは聖書の知恵であるが、女性のそのような「自分」という軽口によって、今まで共同体として機能してきたものが、ここにきて次々と崩壊している。

聖書でも、「女性は忍耐強く慎ましくあれ」と警告を発していた。
女性たちの多くはそれを男尊女卑だと否定したが、これはかつて聖書時代には女性たちが先頭に立って家庭で子どもに教えていた内容だ。これらは「タルムード」と呼ばれ、大人の男たちも時にはその学びに同席していた。今のように大っぴらに社会の表で発信しなくても、「このような女性の社会的重要な役割のために」女性たちの社会的地位はけして低くなかった。「慎ましく」あれとは差別用語ではなく、むしろその影響力が大きいため自制せよという意味である。

実際、聖書時代に書かれた律法集であるタルムードの中での女性の尊厳は非常に高いものだ。そこへ来て、「よく学びもせずに」男性社会を否定した現代の女性の責任は大きい。

パソコンのセキュリティーで一般ユーザーのアカウントに多くの権利を与えていないのは、パソコン全体の環境とアプリ間の秩序、そしてアドミニスターという重要な特権を、一般ユーザーの使用環境から守るためだ。

同様に男性社会であっても真っ当な社会では、女性の立場が表で男性より低くても、決して彼らは男性より女性の立場を下に見ているのではない。その共同体の中で「特別に大切に扱う」が故に、あえてそこに責任や権利を与えずに、むしろ有力者と結婚して家庭に入ってもらい「社会の表側から隠しておく」場合がほとんどだ。それは世俗に影響されてしまわないためであり、天皇の家系が一般社会から隔離されて古来の文化のままの生活をし続けているのと同じ理由である。

同じ理由で、社会の中で女性の立場や品位を彼女たち自身のために守るためには、一般社会に出す前に「軽口をやめよと教育する」よりも、「発言する権利を最初から与えない」ことの方が最善の場合がある。

シングル化と共に孤立する女性の多くは、他の女性の発言を鵜呑みにして軽口と軽率な行動に出て、それを繰り返した結果であることが多いという。家庭に入っていくことの方が実は一人の女性としては幸せなことが多い。

男性を上手く手駒に使って共感をあおるのは何も政治家だけではない。女性の本当の敵は、男性ではなく女性なのだ。

ネット環境が発達した現代では、女性も他の女性の発言で、上は高い目標を見上げて、下は男性との関係で男性を見下す、といった性悪になり、実際は個人での幸せから遠のかされていく女性が増えていないか。

元々社会にそのための秩序がないだけに、男性の発言とは違い、女性の発言の影響力にはフィルターがない。その場に女性が多く、「(男性は基本この手の話題に発言することは許されないので)多くが良い」と「その時に判断それば」そのまま実現へと通過してしまう。

女性は気にしていないが、男性がこれまで諦めなければならなかったもの、あるいは努力の果てにようやく得るものを、現代の女性は、(特に経験も浅いはずの若い女性が)いとも簡単に社会の中で得ているようにメディアに映っている。しかも、しれらは女性が自分たちだけで(男抜きで)実現させているだけに、これまでの男性の無念が蓄積している社会の「表」舞台に出すには非常によくないものであることは明白だ。

「誰もが自由」というメッセージは言葉尻素敵だが、結果として社会構造を壊す毒となってその悪しき「性」が循環し、今は良くてもいずれは前より一層、男女の意識的格差すらも広げ、実社会ではなお一層、仕事も家庭も持続しづらい社会の温床となっていくように思える。(あるいは男性が堕落し女性化して、女性の価値観だけの社会へ変貌していくだろうか。)

彼女たちも含めて女性を本当の意味で救うには、嫌がるだろうけれど彼女たちが今持っている発言する権利を取り消し、活躍中の女性は全て「牢」に入れて、まだ影響が少ない女性には再び、社会進出より家庭で穏やかに暮らしていた方が良いと思う方向へ戻していった方がいいかもしれない。

社会は今も昔も構造的に「子ども > 女性 > 男性」の順に立場が強い。それは家庭においても同じである。

一般的に、立場の弱いものは自分が不当な扱いを受けたとき、より弱いと思われる側へその怒りをぶつける傾向にある。夫が家事に参加しないのは、妻が夫を不当に扱うからである。不当に扱われた夫は「男」としてその怒りを「子ども」や「女」にぶつける。これは私の「祖母の知恵」である。

家庭を知らない知恵のない女性が増えただけで、今も昔も、家庭で女性に自分らしさより家族、とりわけ「子どもより夫」を優先する「『より弱い立場の者』に対する女性らしさ」が欠落していなければ、女性が家庭で「子どもを夫より大切にしたい等の自分らしさ」を「夫から」大切にされるのは変わらないのではないか。

つまるところ、ホルモン化した要素を元のビタミンCに戻すことはできないので、暴走したホルモンは不活化するか一旦取り去って、新しいビタミンCをいれるしかないのではないかということだ。

なんだかそれは、もう起こらないと神が約束したはずの「ノアの箱舟」を思い起こさせる。
女性が今、男性が犯した過ちを再び全く気にせずむしろ「正しいと信じて」しているようで、私は恐ろしい。

2024年05月18日

【人間関係】「他人のためになんか祈りたくない」は悪ですか?

(1)他人の不幸をいちいち自分の祈りの課題にしたくない人々


教会で行う祈り会で、祈り会が辛いということを受けてその人に聞いてみたところ、

「自分の事ならいいですが、
他人の問題のことの為に祈るのが嫌だというのは何故ダメなのですかね」

と言われて考えたことがある。

後になって、その時のことを別の体験を通して振り返るきっかけが巡ってきたときに、
そこで出会った「その人の苦しみは、それ以上先に進まないようにするための神様のブレーキ」
という考え方に、当時は素敵だなあと感心したことを思い出す。

「その人の苦しみ」はその人のものだから、共感はしても支持はできないなら、
そのような自分とは関係のない苦しみに
「祈りの時だから」という理由だけで安易にその人のために祈らされるのはいかがなものか。

このような事を言うと非難される方がおられるが、
私もどちらかというと共感はできても支持できないことは支持しない派だ。

雰囲気に呑まれてやることのほとんどは薬であっても害であることが多いと思う。
支持しないことを支持するかのように振る舞うのは、後々祈ってあげた相手との関係にも
自分の心の中にも矛盾が出てきて苦しくなるのは明白だ。

苦しみを自ら背負ったところで、周囲は一時的に称賛するかもしれないが、
その苦しみに最後まで寄り添ってくれるような人は教会に通う信仰者であっても滅多にいない。
特に日本では。


(2)自分の心を見張る習慣をつける


「自分の心を見張れ」との聖書の言葉通り、
自分の心の健康を害するような事が何かを日々、瞑想でも日記で方法は何でもよいから
振り返り見張る習慣をつけたい。

聖書を研究し尽くしたユダヤのラビ達のタルムードには、家庭の教育方針として
「自分がしてもらった良いことを人にしないさい」という教えがある。
※参考文献:絵本「母鳥と三羽のヒナ」

ユダヤ人はお金持ちが多いと言わているが、その根底にある聖書の教え、特に聖書の隣人愛は、
このような「まず自分がしてもらった良いこと」から始まっている。
自分がしてもらったことの良い事を次の世代に引き継ぐ。
それがユダヤ人コミュニティーの民族教育としての強さだ。

家庭において最初に「自分がしてもらった良い事」をしてもらうのは子どもだが
子どもが親にしてもらった良い事が、親の愛情の気まぐれや押し売りではなく、
タルムード、すなわち聖書から出ていることが大事である。

時には親もやりたくなかったかもしれないが、
「タルムードに(すなわち聖書に)そう書いてあるから」を動機としてそれを敬い
感情を殺して聖書の教えを実践する。

大人の感情をしのぐ「(神様の)変わらない真理」をお父さん(またはお母さん)が
自分の感情より聖なるものとして大事にしている。
その聖なるものが、親の実践を通じてお父さん(またはお母さん)の子どもである自分に良くしてくれた。


そのような周り人の気持ちに左右されない小さい、でも確かな自分幸せが
親から子へと時代を経てもなお、良きものとしてユダヤ人コミュニティー全体として家庭を最小単位として今もなお保存、継承され続けている。
彼らはそのようにしてずっと、もちろん今日も自分の心を聖なるものから逸脱していないか見張り続けている。
方法は聖書通読でもシナゴーグでの集会でも、もちろん仏教のような瞑想でもかまわない。
「自分の心を見張る」。これが出来れば。

信仰とはこのような自分の心に見張りと守るべき指針を持つことだと思う。
そしてこれが信仰の本当の素晴らしさではないかとも。


(3)「自分の心を傷つけるもの」から遠ざかる


後に、他の教会でさりげなくこの事、つまり「他の人の不幸のことを自分は祈りたくない」と聞いた事
また、「その人の不幸はその人がそれよりも悪い状況にならないためのブレーキとして神様は備えている」
という考えをシェアしたとき、

一つは「状況は不幸だがそれが御心のブレーキならば、感謝の祈りをすればいい。」
もう一つは「その人は面倒くさいからやりたくないだけ」


この二通りの答えが返ってきた。

私はこのどちらにも共感できるが、支持はしない。

(a)最初の「不幸がその人のブレーキ」論だが、それは神様がブレーキをかけてるだけで、
本人はそれを感謝できる状況ではないはずだ。

不本意な感謝はしなくてもよい。
たとえそれが牧師先生に諭された感謝であっても、それに乗っかることは
その牧師先生の価値観を生きるということだ。
自分の思いより聖書の教えを大切にしなさいと「強要」するのであれば、それは神の御心ではなく牧師先生の聖書研究「に基づく考え」だろう。

聖書の教えは「恵み」を受けた人がそれを良きものだと認識し、この先もずっと残したい、伝えたいと思って書き残し、受け継がれてきたはずだ。そうでなければ「働き方改革」などのように、人は自分に利益が無いと判断したら止めてしまったり、書き換えてしまうから。

感謝も同様に、人から言われてするのはおかしくて、自分の人生を生きる上で感謝したいならすればいいが、そうでないならしなくてもよい。まさに聞く耳があれば(それが良いと思ったなら)、聞くがよい。(従いなさい。)である。

元々、その人の身に降りかかった不幸はその人のものだし、本人が嫌でもそれはあえてこちらがどうこうする必要があるものではない。むしろ、知った事ではないだろう。神様だってそうされる。
祈り会でも何でも、それに出たからといって他人の不幸の片棒を担がされるくらいなら
嫌味を言われながら退場した方が良かろう。それが「自分の心(人生そのもの)を見張る」ということだと私は思う。

鳩のように賢く、それが自分の関わることであるかどうか見張り、無用であれば手を引くことだ。
むしろそのために罵倒や嫌味に耐えなければならないならば、耐えて忍んで、自分の不幸を人に追わせようとする悪しきプレッシャーに勝利しに行こうぞ。
そして(自分が仕組んだのではない)その経験から自分が得た「良きもの」を自分の子(後に同じ経験をする大切な人)に引き継ごうではないか!

(B)については、もはや論外というべきか。
面倒くさがるのがなぜ悪いのか。その人の幸不幸が自分にとって大切でないのに。

教会のイベントがお互いに大事だというのなら関わってもいいだろうが、その人個人の不幸のどうのこうのというのは、その人が自分にとって大切な人でないならば面倒事として避けるのが正しい判断だ。
教会の問題と個人の問題を同じにしないで欲しい。それは協調性とは言わない。教会に協力するかどうかですら、一信徒であっても個人の判断の範疇のはずだ。
もっと言えば、教会を人助けビジネスかサービスと勘違いしないで欲しい。神様の仕事だって「人助け」ではない。

「やりたくないのは皆同じだから」というのなら、やりたくないのに従わなければ自身の人生を維持していけない状況を作ってきた、その人自身の責任だろう。聖書もます神は、「(最初は「私について来なさい」、あるいは「私と共に」と言って)個人を訓練し、整えてから世に派遣される。この流れからしても、「祈りたくない人」はまず自分の問題が優先されるべき人であって、そのような人にも「人のため」を強要してくるような人たちからは、明らかに他人に自分の不幸を担がせようという悪しき集団心理が見てとれる。


(5)執着を離れ、心と行いを清らかに整えていくために「法」に身を委ねる生き方を


他人のために祈る、祈らないの判断は、仏教でいう「自灯明」の考え方と同じだと思う。
自灯明の裏には「私の気持ち」よりもっと聖な、「法(仏教)」による「法灯明」がある。
キリスト教では聖書(タルムード等)が「法」であり、それに従って自分の道を自分で選択して歩んでよい「自由」は「自灯明」である。

どちらも「私」を人生の土台には据えていない。
私より聖なるものが、より良き生き方、より多き幸せには必要なのではないかと思う。

仏教では瞑想、キリスト教では祈りを通じて、
おのおのその「私」より聖なるものに自分の心を委ね、静寂もしくは平安にして
「自分」の心と行いを整えていくところに真の幸福を見い出す営みである。きっとそうだと思う。

自分ではこう思う。
でも人からはこう言われる。
これらを気にしてその場から動けなくなること。これが「執着」だ。

そのいずれからも静寂と平安によって自分を切り離し、まず「自分」に良き気づきを与え、
それを自分の大切な人に「私にもそういう時があったから、そういう時にはこうしたらいいよ」と
伝えてあげられるように人々がなっていける「聖なる、清き力」

それが「法」の恵みなのだ。

2024年05月14日

「ブチ切れてはいけません」正義を馬鹿にされた大人の良識ある聖書的『塩対応』の極意

人ひとりを養うのに必要なもの。
それは正義と愛だ。

聖書的な神様は愛だが、同時に正義でもある。

教会のメッセージはとりわけ愛について語りがちだが、これのせいで多くの人が神は「愛だけ」だと
錯覚していないだろうか。

ちょうだい、ちょうだい。私を愛して頂戴。
愛されることばかりに偏った信仰心は必ずと言っていいほど堕落した人を作る。


(1)自分の正義がむなしく思えてくるとき


ところで、私はどちらかというより愛より正義の傾向が強い。
教会で奉仕するのも、仕事で休日出勤を買って出るのも、愛というよりは正義感で動く傾向があると思う。

長年この傾向を続けてきて、ここで一旦距離を自分から引いて、遠いところから自分を見てみると
正義感を利用する輩に対するフラストレーションの蓄積がここへ来て
噴火寸前まで来ているように思えた。これを「正義疲れ」と言うことにする。

このような経験をした人は少ないと思う。
大抵の人が、ここで爆発して積み上げてきた事を切らして台無しにしてしまう。


(2)正義の性質には2種類ある


正義の性質には2種類ある。
一つは、自分が立て上げた正義。もう一つは、神が立て上げた正義だ。

前者は、立て上げた者が居なくなったり止めてしまったりすると全くの無になってしまうが、
後者は、立て上げた者が居なくなったり止めたりしても、それは残り輝きを失わない。


(3)ブチ切れてしまう、その前に。


正義疲れでストレスフルな時は、自分が積み上げてきたものが何なのかを冷静に見ることができない。
が、それまで積み上げてきた正義は誰が積み上げてきた正義なのかを冷静に見つめてみる。すると、

例えばそれが「聖書に書いてあるから」という純粋な理由から来ていたとしたら、
今、自分がどんなにフラストレーションのたまっている状態であっても、
それはまぎれもなく、神が立てた正義と言える。

神が立てた正義とは、つまり本物の正義。

その正義の根拠を知らない人は、その正義を「お人好し」として笑うだろう。
自分も、周りに散々利用されてきた自分に対して、怒りに身が震えるほど悔しいかもしれない。

しかし、冷静に、瞑想をし、いったんその感情を静かに泳がせててあげて、
心の中で感情の波が穏やかになってきたところでその目線を
聖書的な学びで得た知恵の目、すなわち神の目線に置き換えて見てみる。

すると、どんな悪人にも利用の扉が開かれていて、しかもそれは手抜きなしで
これまで頑張って自分が神の戒めを守るというただ一点で育ててきた本物の正義というものの
天の輝きを見ることができる。


くらい朽ちることの無い、永遠の性質を帯びた本物の正義の輝きは、
今、まだこの手の中で輝いている。
顔は今にもフラストレーションでブチ切れて爆発しまいそうだ。
しかし、そのこの手の中の天の輝きを放つ本物の正義は、そんな私であっても、いや
こんな弱い私であっても私の強さの証しとして日々、着々と私の手の中で積み上がり、
今や誰もが認める正義となっている。


(4)一度、正義という熱湯を取り出し、自分に向けた愛という名の冷水と共に注ぎ直しながら、積み上げてきた正義を心の器に戻す


人ひとりを養うのに必要なもの。
それは正義と愛だ。

タルムードには、
「ある王が空の茶碗を持っていた。これに熱湯を入れれば割れるだろうし、冷水を注げば縮むに違いない。
そこで王はどうしたかというと、熱湯に冷水を混ぜ合わせて茶碗に注いだところ、大丈夫だった。
同様に、ほむべき聖なるお方も仰せられた。『愛だけをもって世界を作ったのでは罪がはびこるだろうし、正義だけをもって造ったのでは永くはもつまい。だから、両方をもって世界を造るとしよう。永久に続いてくれることを願いたい』」


と、人には正義も愛も、バランスよく必要であることが示されている。

今、馬鹿にされたように思える正義は熱湯のようである。
その正義はどうしてこれまで耐えられてきたか。それはそれが聖書の教えだからだ。
ならば同様に聖書に倣い、

熱湯のような正義を感情の爆発するままに捨ててしまうのでなく、
一度、それを熱湯のまま取り出し、冷水のごとく熱気を優しく冷ましてくれる愛と共に注ぎ直し
心の器に戻してみる。

すると、心の器はそのままに、正義の情熱冷水と調和して見事に冷まされ器に収まり大丈夫になる。


(5)冷水なる愛とは何か


「正義の熱を優しく冷ましてくれる冷水なる愛」とは何か。
それは、自分しか知らない、人に見られていない頑張りを自分で認めてあげるということだ。
つまり、正義の熱に水をかけるナメた態度には、冷徹な心で不機嫌になることだ。

不機嫌になって、それを態度で感情にまかせてただまき散らすのは「ブチ切れた」のと同じ。自分の感情だけで打ち立て正義は長続きしないのが理。しかも、
これでは罪悪感を心に植え付けるだけで、絶やしてならないその正義の熱を消してしまいかねない。それでは失敗だ。

具体的には、自分の感情を理性で「ダメだ、ダメだ」と否定したり、無理矢理押さえつけずに
その感情の波から自分が一歩引いて、
最初はただ眺めて、「そうだ、頑張ってきた。だがら今は怒ってもいいんだ」などと、
湧いてくる自分の感情を自然に流してその変化や成り行きを遠目から静かに見つめてやる。

こうすることで、
正義を貫いていたときの努力とか、辛さといものがそのまま肯定される体験へと結びついてくるのを
体験できてくるようになるものだ。

重要なのは、その、今自分が頑張ってきた正義は、聖書の隣人愛に基づくものだから、
イエスの正義も公生涯は十字架にかけられたのと同じくらいその価値がわからない人には
わからないけれども、

そこには十字架と同じくらい否定し難い価値があるということ。神の正義と愛に裏付けられた、まさに
隣人のために心を砕いてここまで打ち立ててきた大事なものがそこにあるのだ。

その価値を「お人好し」と馬鹿にされようものなら大いに怒って結構。
不機嫌になって結構!!<( ̄ロ ̄*)

真の正義にかける情熱を馬鹿にされたことに対しては、自信を持って
冷徹な態度で不機嫌になろう!


編集後記

2024年04月29日

【人間関係】年次総会で年長者に意見を申し上げる態度 = お奉行様に申し開きをするときの態度 = 神に申し開きをするときの態度

(1)雑だと思われた教会奉仕を指摘した時のこと


昨日行われた教会での年次総会で会計報告がなされた際、
若輩者ながら
2023年から引き継いだお茶会の会計が、出費ありきで行われているのではないかとの
懸念をご報告させていただいた。

年長者ばかりだったので、懸念という形で指摘を上げさせていただくのは
大変な畏れ(おそれ)多い事だった。
報告後も気まずさが残り、何か指摘について言われたわけではないが
急ぎ足で会場を後にしてきた。

神の前で申し開きをするときというのはこういう心地なのかもしれない。


(2)若輩者として、この奉仕に召された者として


時代が変わっても、若輩者が年長者の仕事に意見を言うのは畏れ多いことだ。
一般の会社では、自分が若輩に数えられるうちは黙っていて、
言ってよい機会、あるいは言える立場になってから申し上げるのがマナーである。
年長者を敬いつつ、一方でその仕事の雑さと対峙するには、マナーなしには成し得ない。

こちらの意見がどこまで聞いていただけるかはわからないが、
与えられた仕事、こと会計においては「雑さ」がそこにあってはならないので
若輩者から見えるその「雑さ」が本当はどうなのか、問いを上げ学ばせていただく必要がある。

「知恵」とは、キリスト教においても仏教においても「物事をあるがままに見る」こと。
そして「あるがまま」の反対は「我がまま」だ。

若輩者は文字通り年長者にたいして物を見る経験が足りない。
だから自分の見たいように物事をみて、我がままな言葉を口にしがちだ。

会計においては確かに「雑」は学問上タブーであるが、
申し上げたのは「お茶会の会計」の事であるから、教会の会計の中ではそれほど重要では
ないかもしれない。
若輩者は自分の仕事を誇りがちだから、必要以上の評価を求めないよう厳重な注意が必要だ。

会計は、実践の場において、また扱う人において、それが「雑」で良い場合もある。

とにかく次へ怒って寝てはいけない、明日へつなげるためにも、聖書が言う通り
その場で頭の中がモヤモヤするこの態度だけでも解決しておくべきだと思った。

それでこの会計の私の疑問をこの総会で申し上げるべきかと知恵を求めて問うた短いお祈りの後、
総会ならば教会の運営メンバーしかおらず、また一対一でないので年齢と経験で不利に攻撃されることもないだろうとの理由で、その場で申し上げることにした。


(3-1)総会が終わった後に起きたこと(その1)


総会は、司会の方のスムーズな運びと出席された方たちの和やかな空気の恵みもあって無事に終わった。

出しなに時折お茶会の準備とお片付けをお手伝いいただく女性の会員様に
「今日はありがとうございました」と言われた。
僕と同じくお茶会でも会計が雑なのはよくないと思っていたのだろうか。
お茶会でも、企画しただけで任せる側と、それを任され毎月運営していく側とは、
その仕事に抱く熱量に差が出てくるものだ。
僕と同じく、お茶会を大事に思ってくれていたというのなら、あの場で発言して良かったと思う。


(3-2)総会が終わった後に起きたこと(その2)


その夜、運営チームの牧師先生からLINEが来て、僕が「雑」だと指摘した時の場が
どういう場で、どういう意図の会計処理でよかったかを説明していただいた。
そしてそこには、誠実な奉仕と奉仕への御礼も記していただいていた。

「誠実さ」とは聞こえはいいが、若輩者の誠実さは浅い経験に裏打ちされた「彼の正義」である
場合が往々にしてあり、職場などでのトラブルの原因となるので注意が必要だ。

ことに令和の若者は、インターネットなどで簡単に知識が得られるため、
浅い経験、簡単に知り得た知識に、実際よりかなり浅い洞察を加えた「正義」を構築し易い。

職場の面接で、スキルはあっても職務経歴の内容が語れるに薄く、また非常に正義感の強い人を
落とす傾向にあるのは、彼のそのような正義が往々にして、その職場においても「我がまま」な正義で
その職場全体の空気を乱す可能性があるからだ。彼は自分では気づかない職場のトラブルメーカーである。
これは体の年齢に関わらず精神的な若輩者にとてもよく当てはまる。


(4)聖書では、このような誠実さをどのように区分けしているか


貧しくても賢い若者は、どんな忠告も受け付けない年取った愚かな王おりもましです。
(伝道者の書4:13 JCB)


”賢い若者”とは善への衝動のことだ。なぜ若者と言われるのか。この衝動は13歳以上にならないと芽生えないからだ。なぜ貧しいと言われるのか。誰もその言うことを聞かないからだ。なぜ賢いと言われるのか。それは被造物すべてにとって正しい道を示すからである。

また"愚かな王"とは悪への衝動のことだ。なぜ王と呼ばれるのか。誰もがその言うことを聞くからである。なぜ「年取った」と言われるのか。それは生まれたときから人にずっと付きまとうからだ。なぜ愚かと言われるのか。それは人に誤った道を指し示すからである。


年長者が全て正しいとも言うつもりはないし、若輩者が全てにおいて愚かだとも言うつもりはない。

もしこの総会での私の発言が元で、人や教会を正しい道へと進んだなら、
「あの時のことは正しかったのだ」と後でわかるだろう。

もし、この時の私の発言が元で人が、教会が正しくない道へ進んだら、
「あの時のことは間違いだった」と後でわかるだろう。

ただ、これだけは言える。
LINEの本分の結びには「これからもよろしくお願いします。」とも書かれていた。
お奉行様に申し上げるようなことをしてドキドキしたが、
とりあえず、仕事は継続して励んでよろしいようだ。

2024年04月21日

ワーキングプア脱出のカギ「奉献生活=祈り+感謝」両輪の法則

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(ピリピ人の手紙4章16節)


・真の祈りがそこにあるなら、祈りが聞き入れられたときには、感謝の思いと言葉があふれ出します。
祈りが答えをもたらすように、答えは感謝と賛美をもたらします。
・祈りによって神が業をおこなってくださるように、聞き入れられた祈りによって感謝が捧げられます。
夜の後に昼が来るように。
・真の祈りと感謝は、完全な奉献を伴い、奉献は更なる祈りを伴います。
奉献生活とは、祈りと感謝の生活なのです。
※1分間の瞑想「祈りの力」より引用



教会生活の違和感を1つあげるとすれば、それは祈りが感謝から始まることだ。
いや、それは私の教会生活だけのことかもしれないが。

1分間の瞑想「祈りの力」によれば、信仰に伴う奉献生活は次のようなものだそうだ。
奉献生活=祈り(求める)+感謝(捧げる)

だが、これを私はいつの間にか以下のようにとらえてしまっていた。
感謝(捧げる)=奉献生活(捧げる)ー祈り(求める)
これだと左辺と右辺は両立しない。


感謝(捧げる)=奉献生活(求め・捧げる)ー祈り(求める)
当たり前のことだが、感謝は、求めに答えがもたらされたときに捧げられるものだ。
また、
祈り(求める)=奉献生活(求め・捧げる)ー感謝(捧げる)
祈りは、祈りに答えがもたらされたことによる(こちらが捧げる)感謝が、さらなる祈り(こちらの求め)を生む。

教会で祈りに感謝を含めるから、祈りも捧げるものだとばかり思っていた。
だが、祈りは求めるものだ。
奉献生活は、捧げてばかりでは苦しくなる。

さて、奉献生活というと、私たちはどのように理解しているだろうか。
私のように捧げることばかりに注意が生き、やがて消耗して自滅するような愚かなイメージを
もっているならこの記事はあなたの役に立つかもしれない。

今日のテーマは、ワーキングプア。
教会生活では奉仕疲れと言うこともある。だがそれは教会に限ったことではない。
仕事におけるワーキングプアは、むしろ、信仰を持たない無神論者たちの方が辛いだろう。
遣り甲斐搾取などのキーワードは、まさにそのような心の悲しみの声から生まれた言葉だ。

さて、特に会社員が遭遇しがちなこのワーキングプアだが、
いくら働いても仕事が苦しくなるとき、そこにはどのような仕事にまつわるボタンの掛け違いがあるのだろうか。


(1)仕事における奉献生活


奉献生活において大切な事は、主語が全て同じだということだ。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

仕事においては、会社への貢献だとか、お客様への感謝だけが強調される。
だが、貢献(業を行って祈りに答える)を言う前に、どのようなサイクルが
会社に存在するのか整理してみよう。

奉献生活(お客様が求め、捧げる)=祈り(お客様が求める)+感謝(こちらが捧げる)
まずはお客様側の発注サイクルが存在する。

あるいは
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
こちらは、上司、部下、同僚が仕事を頼んでくるケースだ。

仕事においては、お客様や上司、部下、同僚の祈りによってこちらが業を行い祈りに答える側だ。

ん?
答える側にはサイクルがないのか?

仕事が楽しくなくなる場合というのはこういう場合何だと思う。
すなわち、周りには奉献生活があるのに、自分にはそれがない。


(2)信仰による、私生活における奉献生活


さて、私生活に話を戻そう。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

そこにはきちんと私の求める機会と私の答えられる機会が存在していた。
ここで私の求めのために働かれているのは主であるイエス、神様だ。

そして、働かれる神にもきちんと奉献生活のサイクルは存在する。
奉献生活(主が私たちに求め・与える)=祈り(主が私たちに求める)+感謝(主が私たちに与える)

私と神様、お互いの奉献生活がかみ合うとき、私たちはそこにいてその暮らしに満足し、
幸せになれる。そこに行き来するものの程度の差はあれど。


(3)互いの奉献生活における、かみ合わない感謝が仕事を止める


仕事が面白くないとき、私たちはその職場で神の役割をさせられている。
またこのとき、神の側の奉献生活は、以下のように仕事を依頼される側に誤解されている。
奉献生活(神が求め・与える)=祈り(神が聖書で私たちに求める戒めや栄光)+感謝(神が賛美を受ける

このように神の奉献生活が解釈されるとき、上司、部下、同僚の奉献生活である以下
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める仕事)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
は、神の奉献生活とかみ合うだろうか。

否、感謝がかみ合わない。
このようなとき、神の奉献生活における感謝を、私たちは私たちの賛美と勘違いしている。

感謝とは、その主体が欲しいものではない。その主体が対象に対して捧げるものだ。
また、主体のそのような感謝は、その感謝によって主体からの対象に更なる祈りをもたらす。


主体と対象、双方の奉献生活が仕事を通してかみ合いお互いの奉献生活の営みを支えるもの、それが仕事だ。

仕事が回ると双方の独立した奉献生活がかみ合いながら各々の奉献生活のギアを回す。
仕事とは、そういうモーターだと言えよう。

相手に何ができるかで仕事は依頼されるものだから、
仕事を依頼する者と依頼される者との間で大抵、祈りはかみ合うものだ。

しかし、感謝は違う。
独立している2つのギアを1つのモーターで回すとき、そこには必ずかみ合ったベルトが必要だ。
感謝はこのベルトである。
溝の合わないギア同士に無理にベルトをかけてモーターを回すと、ベルトは擦れて焼き切れる。
ベルトがなければ仕事も当然止まるだろう。


(4)仕事における奉献生活はおのおの主体的に。ただし、捧げる感謝のかみ合う仕事をする。


例えば私がライフステージを少しだけ上げるために部屋に花を飾りたいと思った場合、そこには生花を生業とする「お花で人を幸せにしたい」と願うお花屋さんという職人と、今の生活のステージを少しだけアップグレードしたいという私の「祈り」がマッチして仕事が起こる。
もしその生花職人の仕事がこちらの祈りにピタリとハマったなら、そこには対価などの「感謝」、および「もっと他にステージを上げるに相応しい方法はないか」とかいう新しい祈りが生ずる。



このように仕事というベルトの両輪には、互いの奉献生活というギアがあり、仕事を回すことによって
お互いの奉献生活のギアは回る。
このとき、各々の奉献生活は以下のようであった。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

結局のところ、仕事が貧しさに終わらないカギは、こちらが捧げた「感謝」が相手のギアとかみ合うかどうかだ。
だから逆に、自分の希望のみの仕事探しや、頼まれてもいない先行した自分磨きによってはワーキングプアが終わることは決してない。前者は捧げる感謝が相手の奉献生活のギアにかみ合うことはほとんどない。また、後者はこちらの祈りでは無いことを感謝として要求されされる犠牲的な奉献生活を強いられることになる。また、こちらの祈りを相手の祈りに書き換えられる可能性があるため極めて危険だ。

祈りと祈りが溶け合って仕事を生む。
仕事が回ると双方の奉献生活のギアが回り、感謝が生まれる。
生まれた感謝は互いの奉献生活に新たな祈りを生み、それがまた仕事につながり互いのギアを回す。
こうして仕事が1周、2週と回るごとに、そこに営みが生じる。

この営みを長期運営する鍵は、お互いの奉献生活の安定を支える「感謝」の生成だ。
そしてこの感謝の重要な性質は、それが捧げものであることは言うまでもないが、こちらの祈りを増幅させるものでなければならない点だ。自分の相手への感謝が、自分のやる気や生活の豊かさ等、こちらの新たな祈りを生まないならば、それは感謝という名の「搾取」である可能性が高い。そのような感謝の仕方は自分がみじめになるだけだからやめるべきだ。

仕事をした後の後味、すなわち自分の内に生じた感謝が、
「仕事が無いよりマシだから。」や「他にできる仕事が無いから。」だったら得られるものは感謝ではない。
これは祈りを強くもしなければ、新たな祈りも生まないから。

「生活費を稼ぐため」や「資格を取って転職するための腰掛」、これも得られる感謝としては弱い。
はじめの祈りが一定期間は継続するかもしれないが、しかし初めの祈りが強くなったり、新しい祈りが増えることはあまりないから。むしろ、祈りが今の仕事とは関係ない方向へ行きやすいかもしれないという点では、適切な感謝を得にくいものだろう。

ベストな仕事の後味は、その仕事が継続することで、次は(得られたものの質、量において)もっと良いものを、または新しい更なるものを祈れるものだ。

仕事の好循環を生むもの、こちらの奉献生活における感謝を生成のは「祈り」であるから、仕事をする前にまずは何が願いであるか祈ることが重要だ。

ワーキングプアは仕事が先行し、祈りが後回しになることで起こる。
祈りの無い仕事は、相手の奉献生活を回すためのモーターにされやすい。こうなると相手は仕事をしなくてもあなたの犠牲で自分を肥やすようになる。これは最悪のワーキングプアだ。

ワーキングプアを感じたら、まずは手を止めて祈ることだ。
そしてわずかでも今の仕事で答えられた祈りがあるなら、その答えられた祈りに対する感謝を紙に書き出し、
祈りがきちんと答えられているか精査しよう。そして仕事を通じて相手からエネルギーを貰い、自分の新しい祈りの生成、または更なる良質な祈りにつなげることだ。

仕事にまつわる奉献生活は、相手のものと自分のものの、2つが両輪で回っていることを忘れてはならない。




2024年04月05日

【ワークライフバランス】無私の奉仕。素晴らしい、けど正直辛い。そんな時に思い出しててほしい8つの事・・・

(1)キリストの生き方

キリストに従う生き方は聖書における神の愛の実践。
だが、現実社会でこの生き方をするのはとても難しい。

私自身、かつて自分として仏教で説かれるような自分に厳しく他人に感謝する生き方で疲労困憊し、
その時に聞いた神の愛の説法を聞いて、枯渇していた自己愛が少し取り戻せたような気がした。

だが現実では神の教えを実践しようしても、相変わらず利他の実践でエネルギーを出し、
たまに聖書の御言葉、すなわち神の愛、主なるキリスの愛で
自分のしていることは正しいんだと行いの報酬として元気を頂き感謝を増し加え
利他の生き方の中にあって、
今日も(なんとか)心のバランスを(仏と神に)整えて頂きながら日々を送っている。

だが40歳を過ぎてから、利他も相手がこちらの在り方に関心がなければただ「いい人」として
利用されてしまうだけの現実にどうにも目が背けられなくなりつつある自分を無視しずらくなってきた。
そして、これまでの、そしてこれから(ものはず)の利他の実践にだんだんと疲れを感じてきたのが
正直なところだ。

仕事はなくならない。
利他を優先すれば結局は鬱等心が病んで、頼りなる先輩のように力尽きるまで消耗してしまうだけだろう。
増え続ける仕事に潰されて。


(2)ワークライフバランス

ワークライフバランス。
これは個人の自由の保障せよという社会の要求するワークに敵対する言葉だ。
この言葉の起源は確か、女性が社会の煩わしさから自分を守ろうとする願いから生まれたものだ。

だが思うに、これを社会通念にするには準備が足りな過ぎたと思う。
「今だけ、金だけ、自分だけ」。
意識はしてなくともこの3つが現代の正義にとても近い存在ではないだろうか。

社会の要求するワーク、つまり仕事は、個人の思い描くワークの対価とは必ずしも一致しない。
社会の要求するワーク、すなわち仕事とは、人の嫌がること・やりたくない事をお金をもらう代わりに
請け負うことだ。
自分の嫌がることを無償でやってくれるなら感謝もするだろうが、お金を渡すのであれば対価より
要求が上回るのは当然のことだ。

できるだけコストは安く、たくさん自分の願いを叶えたい。
ワークライフバランスの真の狙いは、人々のこのような願いにあるのかもしれない。
自分が不当な扱いを受けているかどうかはおまけの理由で。


(3)自分の善意との闘い

ワークライフバランスが始まっても、働かされ方に変化はほとんどなかった。
そんな中で最近思うようになったことがある。

ただの利他優先では生き残れない。

女性社員が残業もせず、夜勤もせず、やった事のない仕事も覚えず、もちろん無償奉仕など絶対にない。
自分のワークライフバランスを守ろうとする姿には羨ましさを感じる。

毎日女性、みんなが帰った後も会社に残って、「みんながやり残した仕事」を片付ける日々。
そこで小さな闘いが始まった。

それは自分の善意との闘い。
利他の精神で勝手出た小さな善意はいつしか職場では当たり前の空気のようになり、
いつしか今度はその当たり前の中で、始めの小さな善意が宿しだしたアイデンティティーの力、すなわち「自分との約束」とで戦わなくてはならなくなった。

自分の心に描いた善意と、現実の社会の善意の闘い。
社会が自分の心を裏切ったのか、自分の心が社会を裏切ろうとしているのか。
小さな善意をめぐり、それを撤回しようとする自分自身の正義とその撤回を許さない社会的正義の闘い。

一人対多。たとえ霊的に心は負けてなくとも肉体は確実に消耗するため、
心身一体の人間のこの体に、このての戦いは不利だ。


(4)十字架という「無償の自己犠牲」に対して父なる神が与えたもの
十字架に象徴される自己犠牲の生き方。
イエス・キリストは本当にすごいと思う。

無償の愛の象徴とされる十字架だが、これは
イエスの十字架は、父なる神がイエス復活とイエス権威を保証してなければ無駄死にに終わると、
聖書にも、もちろん牧師の説教にもしっかり出てくる。

またイエス自身も十字架の死は、ユダに裏切られ捕らわれの身になった日の夜よりはるか以前から、
すなわち「この神の怒りの盃をできることなら取り除けてください」祈る前ずっと前から知っていて、
それが無駄死にではないことも当然理解していた。

この夜イエスが恐怖だったのは、神から見放されることでこれから起こる現実的な出来事であり、
イエスがこの夜祈っていたのはその恐怖に対して自身の腹をくくるため、
すなわち
「この胚をできることなら取り除けてください(でも真実であるあなた(=父なる神)は、
そののちの私に知らせたご計画とその約束のためにそうはなさらないでしょう。
だからせめて、これから訪れる苦難を耐えきれるよう、私を励まし、勇気づけてください)。」

と祈ったのである。


私自身も体験的に、今もこうして無償の愛の与える側にあっては大きな苦労がある。しかし、
報われるのが今か、3年後5年後、10年後20年後、あるいは死後かはわからない、けれども、
そこには必ず神の約束と、愛の慰めや報いがあるから耐えれられた。

そう、けして、報いなしにイエスが無駄死にする話を聖書は言いたかった訳ではない。
十字架は目的を持ったイエスの生き様のワンシーンに過ぎなかった。
そのことを新約聖書は示している。
私たち人間の感覚からすると、イエスの十字架は行いから報酬を受け取るまでのスパンがとてつもなく長かったというだけだ。つまり、実はイエスでさえも報酬なしでは働かなかったことを聖書は言っているのだ。

一方、我々も、目的があってイエスを介して神から買い戻された者たちだ。
神の目から見たら、人間の目からは到底測り得ない使い道(つまり価値)が人間にはある。
それは(人間にはその意図が到底計り知れないが)、父なる神を永遠に賛美するためと聖書にも書いてある。

ある教会は言う。十字架をイエスの無償の愛だと言い、我々にもそれを模範にせよと。
だがそれは教会が自分たちの権威を誤解しているだけではないか。

聖書が言う十字架の愛の無償である理由、それは単純に、
イエスの十字架の対価の支払い能力が私たちにはないからだ。

聖書はけして、この教会の言うように無償の愛を強要していない。よくよく読めばわかる。
聖書が語る十字架にまつわるイエスの愛の行動は、報酬を支払うのが人間ではなく神様であるだけで、
それはれっきとしたと有償の愛なのだ。
そしてそこに支払われる報酬は、支払う神自身が「はなはだ良い」と誇るほど高価で素晴らしかった。


さてそこで、
キリストの無償の愛を改めて解釈するとこうなるかもしれない。


 人が人に対して自己犠牲的な愛に基づく働きを行うときには、まずそこに
どんな報酬が伴うのかよく考え吟味せよ。安易に無償で自分の資源を切り売りしてはならない。
人間は対して支払い能力がない。にもかかわらず、彼らは自分の支払い能力以上の報酬を
さも当然のように欲しがり、要求してくるから。
 自分の命、自分の誇りを大切にせよ。
神が約束したのでなければ、私(イエス)の十字架に復活とすべての権威と自由が約束されていたのと
同じような対価が、彼らに支払われることはけしてないと知りなさい。


私は先日のイースターから聖書でイエスが十字架にかかり死んで復活するまでの物語をこのようにも
読めるような気がしている。
いや、むしろ経験的にはこの読み方が聖書の真理に近いんじゃないかとさえ思う。


(5)自身の「はじまり」に自分の尺度で決めた報酬が、報酬の奴隷としての未来を自分に約束させてしまう真実

現在、多くの洗礼は、洗礼を受けと神の寵愛によりすべての望みが叶うと誤解されていると思う。
特に女性は神の愛を誤解している。祈ってさえいれば、教会に真面目に通ってさえいれば
自分は神の寵愛を無償で受けられ、以降のすべての苦難から守られ自分の自由が保障されると思っている
ように思える。

彼女たちは新しい主にある兄弟姉妹の洗礼に「おめでとう」と祝福の言葉をかける。
だが、本当に洗礼はおめでたいのだろうか?

例えば港を想像するとき、港を船が出航するときに多くの人は祝福の言葉を述べ、
逆に船が港に入港するときは物事が終わったかのように平然としている。
この4月も、入学式、入社式に皆がその新しい門出をおめでとうと祝福する。
赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」と新しい誕生を祝う。
結婚すれば「おめでとう」と祝福をする。

だがこれは逆だと思う。

本来は、船が港に入港した時こそ、「おめでとう」と祝福されるべきである。
なぜなら、入港は船が無事に航海を終えて帰ってきたからだ。
学業困難や、いじめ、受験の失敗、就職難は入学してから卒業するまでの間、学生には必ず課せられる課題だ。
荷重労働、低賃金、長時間拘束、うつ病などは、社会人なら入社してから大抵ぶちあたる壁だろう。
これらに対して「おめでとう」と言えるだろうか。
否、そうではない。
「おめでとう」の祝福は、実は始まりではなく終わりにこそ存在する。
無事に卒業できておめでとう。
たくさんの苦労もあっただろうが、無事に定年まで勤めあげることができておめでとう。
小さい頃は大変だったけど、ここまで立派な大人に育ってくれてありがとう。
色々衝突もあったけど、最後まで僕の妻でいてくれてありがとう。

今、さまざまな結婚が離婚に終わり、さまざまな職場で人不足や仕事上で問題を抱えている。
そう、報酬や祝福は最後に支払われるまでわからない。
だから、特に最初に変に祝福されるべきではない。
人の歩む未来にはたいてい困難が待ち受けている。にもかかわらず、「云々〜これさえすれば」と
多くの人が「新しい始まり」に異常な情熱を燃やしている。
はじまりこそ祝福。これこそサタンの嘘だ。

冒頭の教会でのお互いの「はじまり」を祝福し合う女性たちも同様で
彼女たちは自分の尺度で考え、しかも自分で勝手に決めた報酬に酔いしれ
単に「はじまりの理想郷」に浮かれてているに過ぎない。

しかし、同じく冒頭で述べた通り、
人には対して報酬の支払い能力はないし、報酬を決めるのは神であって、
その支払いは、彼女たちの浮かれている「はじまり」から「終わりの日」まで
どう歩んだがで決まるものだといういうことを忘れてはならない。

もちろん、人の歩みには困難は付き物だ。
大切な事は、そこで勝手に報酬を自分のでっち上げた理想にすり替えて
自分の貴重な命の営みを歪めないことだ。

人はあの木の実だけは食べるなという(神にとっては)小さな約束ですら守れずに
父なる神の愛と期待に反してエデンの園を追放されてしまった存在で、
キリストの十字架で神との和解はできたものの、以降もずっと罪の性質を負いながら生きている。

神ははじめ人を自分と同じ清い聖なるものとして創造されたから、人の命の営みも自然であれば清くなる。
それはイエスがしたように、貧しい人を見たらちょっと何かをしてあげたくなったり、
ラザロのような親しい友達が死んでしまったら悲しくて、マリアと一緒に泣いたりしたような
人として当たり前のような共感力だったり、自分には力がなくても神に祈ったりして何とかして
この辛い状況を良きものにしようかという発想だったり、行動だったりで表現されるものだ。

けれど、ここに「自分の理想」とか「自分の利益」といった報酬追求の理想が加わると、その営みは
途端に継続不可能な状態になって、人は心や体を病んでしまう。

アダムもエバも、はじまりに「自分の理想」は必要がなかった。
なぜなら、神が彼らの「はじまり」を作りったから。

また神は彼らに「神の人以外の被造物を管理せよ」とこれから先どう生きるべきかを教え、
それが実行できるだけの糧と報酬をも与えてくれていたからだ。

だが、ある日サタンの化けた蛇に女性であるエバが出会ってしまい、
心の清いエバは蛇に誘惑されてしまう。
そのとき蛇はエバにこう言ったんだ。
「神はキミたちの味方ではないよ。あの木の実を食べたら君たちは神のようになれるのに
神はそれを恐れてキミたちにそれを禁じているんだ。どうだい?キミたちだって神様のように
何でも自分で自由に決められて、何でも欲しいものは自由に手に入れてみたいだろう?
と。

ところが実際、神が決めたのはこの世界が清い聖なるものであるための「秩序」に過ぎないんだ。
そしてこれは神のご性質である「真実の愛」から出たもので、神でさえ、自分の性質から逸脱した
自由を行使したりはできなかったんだ。

僕たちも、当然神から作られて、「こうありなさい」という性質を与えられているんだけれども、
僕たちはエバがそうであったように「我」と「慢」が刺激されると「こうありなさい」という性質
つまり「はじまり」の「我」を忘れてしまうんだ。

「はじまり」の「我」とはもちろん、神の似姿としての性質である「真実の愛」なんだけれども、
イエスが地上に降りたときに、彼は僕たちがなんでこんなに自分の理想ばっかりに生きて、
はじめの、本来の生を忘れてしまったのか、と愕然として嘆かれた。

そしてこれこそがイエスの公生涯のトリガーになっていくんだけれども、
この時のイエスの起業理念が、今の僕らが抱くものとは性質が全く違うもの、すなわち
「@神を一番に愛しなさい。作り手を愛することは自分を愛することに等しいことだから」
「A自分を愛するように隣人も愛しなさい。隣人になる人はあなたとどうように神が作られた者だから」
であって、
イエスの公生涯の理想、目的は、自分で作ったものではなく父なる神が作ったそれそのものだったんだ。
そしてそういった「神の創造理念を起点とした」公生涯の出発が、途中十字架を通ったけれども、
最終的には彼(イエス)自身の復活と、彼のすべての権威と栄光につながっていって、
それを僕らはアーメンと言って賛美、祝福をしている訳だ。


(6)神が創造した「はじまり」の想いに従って、終わりまで命の営みを貫く生き方を

話は長くなったが、ではどのようにして物事の「はじまり」を乗り越えていくべきか。
未知、あるいは既知の苦難に対しどう対処していくべきか。

人の命の営みにおける「はじまり」の鍵は、
創造時に神が抱いた希望にある。


たとえば聖書で言えば、神への信仰。だが希望も持ち方を間違えてはいけない。
誤った希望の持ち方は、望み過ぎる報酬と同じで、願った者の将来を未来の奴隷にし生き甲斐を奪い去る。
間違った神への希望。
それには例えば次のようなものがある。
ノーと言わずに自己犠牲的に神の愛を貫け。そうすれば与えた愛が何倍にもなって戻ってくるから。

これは非常にうまくできた嘘、サタンの誘惑だ。
はじまりを自分の理想の希望で満たしてはならない。
だが、多くの人が物事のはじまりを自分の理想で満たし、それを実現するために行動を開始する。
そこで彼らに必要なのは、彼らの理想に共感してくれる言葉、理想の実現を後押ししてくれる仲間、
そしてそれらを約束してくれる神、すなわち地上の権威者だ。聖書的にはそれを「サタン」と呼ぶ。

今、この地上の権威者によって多くの離職が、離婚が、自分勝手な自立が肯定される社会が誕生している。
だが、もちろんサタンは神ではない。いずれ滅びる存在だ。
しかしそれを知りつつも、サタンは希望を失わない。
たとえサタンの肉体は滅びても、サタンの思考を支持する人間がいる限り、
サタンは彼らの中で生き続けられるからだ。
そしてサタンは決して愛が無償だとは語らない。

サタンのつく嘘にも必ず報酬が伴う。
例えばそれが私たちには経済的自由であったり、
サタンにとっては神の民になるはずの人類の死、神の国の不成就だったりする。
いずれにせよ、サタンですら無報酬では働かない。
与えられるのが裁きによる死だとしても、神に対する罪を重ねなくて良くなるという点では、
サタンですら神による報酬を得ているとも言えよう。


(7)神が創造時に想像した自分の貸借対照表、損益計算書を想像してみる

ただノーと言わない、または言えない側でひたすら忍耐する生き方というのは
辛くなって当たり前だ。

無報酬の愛。そんなものは存在しない。
神の愛なる人間の人生設計。それはけして自分自身の無償の切り売りではない。
自分とは愛の製造業みたいなもので、その適切な運営方法は、
わかりやすく言えばそれは簿記のように、自分といいう資本を用いて隣人に尽くす商いをし、
神の目線で損益を適切にやりくりすることによって、自分という命の営みを賜物という資本を用いて
堅牢に維持管理していくものだと言えよう。もちろんそれは自分以外に対して有償だ。

父なる神ですら、私たち一人ひとりに対してそれを買い戻すのに御子の十字架の対価を支払ったほど
私たち人ひとりの命というのは高価で、尊いものだったのだから、

それほどの命の価値が神の民にはあるんだということをを前提として、自分というものの命の運営を
考えていかなければならない。

まずは自分がプラスになるように自分を愛すること。自分の必要をよく知っておくこと。
次は他の人もプラスになるように、他人の必要にも意識を向け、その人の幸せのためにも上手く
自分の資本を使えるようになること。
与える方が、ただ与えられるだけより何倍も幸福度が高いから。


(8)買い戻された清い聖なる人生を、周りに譲らず最後の一押しで勝ち取る

現代は人に与えられる恵みと祝福が、人によって再定義され、神の創造した時よりはるかに劣ったものとして
人間の考える理想の尺度でしか味わえない、すぐ飽きの来る永遠の価値とは程遠いものに変えられてしまっている。

人は自分が再定義した幸せに何度も飽き、何度も壊しては作り直すをただ繰り返して人生を終えるような、
永遠を見据えて設計された神の創造したものに比べてはるかに量でも質でも劣った人生を、
皮肉にも、それをつくった人間によって歩まされているように思えはしないか。

SNSが発達し、誰もが人と比べて少しでもマシな生き方をしていることに安心を見い出そうとする傾向が
近年はとても強いと思う。

だが忘れないでほしい。
人間の書く脚本は全て、現実にはあり得ないから作品になり、人の興味をそそるのだ。
例えば経済的安定を考えるとき、会社員として会社に勤め、それなりに昇進すれば、それなりの安定した
生活を維持できる確率は上がるだろう。会社員であれば「ほぼ」毎月の生活費は100パーセントに近い確率で
調達することができるだろう。
だが、その延長線上に自分の生き方を自分で100パーセントアレンジできると思いあがってはいけない。
自分の一生を自分で決めることなどできない。
もとより、あなたの人生の完璧なアレンジは、神によって清く聖なるものに整っている。

後は、その清く聖なるものをこの薄汚れた地上世界でどう本来の味わいを失わずに終わりの日まで生きられるかどうかだと思う。

福音、それは神が私たちの人生をどうアレンジしたかを知ることのできる天国からのはしごだ。

聖書は読もうと思えば誰でも読むことはできる。はしごは誰にでも見えるところに降ろされている。
しかし、手が届くかどうかは、その人と神の御心の距離によると思う。

自分の時間と自由を捧げて神を知っていくと、ある日ふと天からはしごが降りていることに気づく。
なんだろうと思って利き手をはしごにかける。
ふと気が付くと、利き手じゃない方には聖書を持っていて、周りにはたくさんの人が前を向いて座っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、大勢の人と一緒になって、利き手を上げて讃美歌を歌っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、足はたたまれ自分は床にひざまずいて、頭を垂れてアーメンと小さく呟いて祈っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、はしごに手をかけたはずの利き手にはクイックルワイパーが握られていて、
しばらくしていなかった部屋の掃除をしていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気か付くと、はしごに手をかけたはずの利き手には菜箸が握られていて、
しばらく食べていなかった野菜を自分で調理して食べようとしていた。

このように、本来の清い聖なる人生のはしごに手をかけると、
人生の舵は清く聖なる方向へと修正されていく。


教会の規律は嫌いだし、人間関係も奉仕も面倒だ。だが、天からのはしごに利き手をかけるとき、
足は自然と教会へ向き、体は教会の奉仕活動に身を投じられ、心は聖書の御言葉を詠唱していることに気づく。
そうやって、確かに清く生きるのは辛いし逃げたくもなるのだけど、神が僕たちを創造されたときの
想いに触れて、折しも本来の命の使い方に目を留めるとき、

そこにはこの現実をなんとかしたい、けど自分ではどうにもならないんだよ〜という祈りがあり、
予想通りの苦痛があるんだけれど心には賛美があり、
この現実から逃げずに立ち向かった誇りが大切に守られていて、
なによりそれは、蓄積されると地上の理屈よりもはるかに信頼度の高い人格が自分にも備わっているじゃないかということに気づかされる。

人生は勝ち取るもの。
神が御子を犠牲にしてでも味わって欲しかった清い聖なる命の営みを。
買い戻され祝福に値する、神の手によって差し出されるところまで来ている人生を。

あなたは掴み取り、受け取ることができるだろうか。







2024年03月31日

【イースター】洗礼式を終えて

(1)卵から生まれた、命の正しい使い方とは

今日はイースター。
私の教会では洗礼式も行われ、新しい姉妹がまた一人主の道に加わった。
これは喜ばしいことだ。

イースターは誕生の日。
正確には生まれ変わりの日だが、元々の命でも生まれ変わった命でも、その使い方を間違えたら
意味がない。

(2)洗礼槽組み立て係だった今日の一日

命の正しい使い方、それは仕事ににあると私は思う。
一日の大半、一生の大半を私たちは仕事に使う。だから、レースを走りきる最後の日までに私たちは
どんな仕事をしたかで命の使い方が正しかったか、正しくなかったを問われると思う。

その意味で今日の仕事は大変良いものだった、また正しいものだったと言えるだろう。
聖書に従って皆で主を称え祝福し、主の道に加わる姉妹を洗礼槽という入り口に立って送り出したのだから。
朝早く出勤し一日働いて、お金は一円ももらえなかった。
だが間違いなく、これは良い仕事、正しいことだったと実感する。

居場所があり、他者と自分の必要を満たし、お金や時間の事は忘れて主に栄光を帰した。
主に栄光を!までは正直作業に目が行ってほとんど考えていられなかった。
だが、満点でなくとも、主は喜んで下さるに違いない。
人の王とちがい、主は私の力など必要としていないから。


(3)良き仕事、正しい命の使い方とは
成果にうるさい人の王とちがい、主は私の力など必要としていないから。

主が喜んでくださるのは、新しい兄弟姉妹のために奮闘した今日一日の仕事を後押しした私の信仰。

信仰といえば、今日のイースターランチの終わり際、牧師先生と新しく加わった姉妹とお話した中で、
洗礼の証しの書き方の参考にと私の洗礼式の時に書いた証しが勝手に渡っていたことが発覚。

証しせず、私の証しがバレた訳だが、彼女は今日、自身で涙を流しながら語ることのできた自身の証しを
しっかりと書き上げることができたとわかった。

私は何もしていない。主が御手を動かしたとも言い難い。
これは明らかに牧師先生が思いつきで勝手にやったことだ(笑)

だがこれでいい。
以前何かで読んだが、一流の仕事とは、素晴らしい陶器の脇を、すれ違った人が思わず足を止めて
見入ってしまうように、見ている人を感動させてしまうような仕事のことを言うらしい。

一流のボクサーの試合に人々が熱狂するように、それを見た人を引き付ける成果を出す仕事。
それが一流の仕事だとするなら、

牧師先生が思いつき出した証しは、牧師先生の目に適って、また姉妹がそれを見て疑いなく参考にしたなら
間違いなく一流の仕事だったに違いない。

今日は間違いなくいい仕事、いい命の使い方をしたに違いない。
夕ご飯もおいしく、体もくたくたでもう眠いや〜

年度末お疲れ様です。
明日からまた新年度の闘いが始まる。
普通の仕事も、教会の仕事も、プライベートも頑張るぞ!

みんなも頑張れ〜



2024年03月30日

【受難の日】伝道メッセージのハレルヤだけでは終わらない信仰生活とキリストの恵み

(1)バベルの塔の建造とそれに伴う自己陶酔のサタンまがいな誘惑

昨日は受難日。
消化しなければいけない有給がたまっていたのもあって、イースターを口実に久々に有給を取り
一日を自分のために使いました。

びっくりしたのは訂正が必要で戻ってきていたアパートの契約更新の書類がまだ家にあったこと。
仕事に捧げる時間は、考えて捧げないといけないと思った。
いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。
バベルの塔とは、こうして自分の中に立て上げあれる。


4彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 5時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 6言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 8こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
(創世11:4-8)



バベルの塔。この聖書箇所には大いなる皮肉がある。
どんなに私が高い塔を立てようとも、

さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

神はそれを見るために天から降りてこられなければならないほど
ちっぽけなのだ。もっとも、もちろん神は全てを見ておられるのだから私が塔を建てていることはご存じ
なのだが・・・

「いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。」


自分では偉いと思ってしまう。しかし現実は、私生活をおろそかににしていただけだった。
けれど、自分自身に目が向いている限り、その建造作業から手を引くことは難しい。


(2)イエスの受難日の大きさ
そんな建造作業も、昨日はイエスの受難日で中断した。

実際は仕事の疲れが蓄積したところへイースターの知らせが届き、有給消化の圧のタイミング
もあって自分自身の目が仕事から離れただけなのだろうが、イースターという福音の知らせが
なければ転換が起こらなかっただけに、これを神の御手の業(わざ)と言わずにはいられない。

36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(マタイ福音書26:36-42)


受難が開始されるこの日、イエスが弟子に「〜してください」と頼んだのはこの一度きりかもしれない。
しかし、苦闘のさなかイエスが最も気にかけたのは、弟子ペテロのことだった。

33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(マタイ福音書26:33)

イエスは彼のこの言葉を心に留めておられた。この後に彼が最もつらい経験をし心が傷つく事への心配が
自分の受難のこと以上にイエスにとって、深い思い煩いとなっていた。

41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。今はよく休息しておきなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。(マタイ福音書26:41)

イエス自身は何度もご自身で受難を予告しておられたので、この日、受難の内容が「神から切り離される」
事だと知って驚き、心が騒いだ。
人としてのイエスは死ぬ。だが、人でしかないペテロはイエスの受難、すなわち神の怒りの鱗片に触れるときに果たして耐えられるだろうか・・・。


(3)受難のイエスの苦悩、そしてペテロは

かつてイエスは天に向かって次のようなことを祈られた。

22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 25正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。 26そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。(マタイ福音書17:22-26)

人は自分に起こったことを基本に物事を考える。
洗礼を受けたクリスチャンが世迷い出る原因として、クリスチャンライフが思ったのと違ったこと、
これが最も多いだろう。これは洗礼へのためらいの理由にも言えると思う。

神は愛だ。しかし、その愛は激しい。
人は刺激を望む。安定を望むのは疲れた人だけだ。しかしその疲れた人も、時が経てば別の希望をいだいて
また激しさの中に身を投じていく。

お釈迦様が人に対して涅槃(ねはん)を説くのはこのためである。幸福に刺激はいらない。心の安定・安心が
まず第一だとお釈迦さまは人々に説いた。

クリスチャンにとっての涅槃は神への信仰だ。神への信仰が安定していることで、そこから愛の授受へと
発展していけるので、信仰の無い人よりも結果として人生が幸多く実り豊かなものになると私は思う。

ところが先ほどのペテロにおいては、師であるイエスが神に殺される。しかも、ただの殺され方ではない。
イエスの無残な十字架刑の死に様を目にし、ペテロの信仰は揺らがないだろうか。これが神であるイエスの
心配だった。ましてや自ら神を呪い、神から切り離された生活を選択しないだろうか。イエスの脳裏には
かつてのアダムとエバの息子たち、兄弟のカインとアベルの末路が思い起こされたかもしれない。


(4)神との交わりのある生活、クリスチャンライフ

クリスチャンライフは残存する罪の中を神の思い沿って聖く(きよく)生きるライフステージを生きることだ。
冒頭の仕事に多くの時間を費やし私生活をないがしろにした私が、受難の日に神に目を向けたことで私生
活の乱れに気づき、神の下へ集い教会の兄弟姉妹とともに祈りながら、再び神が御子を見殺しにしてでも
与えたかった光のライフステージへ戻っていく営みが、幾度となく繰り返され、やがてその繰り返しの頻
度が少なくて済むようになり、幸福感が長続きする聖い(きよい)生活、聖書的涅槃の境地へと導かれていく。

この時に欠かせないのが、神への信仰と祈りだ。
人であるイエスに祈りがちだが、@祈りの本質は神への信頼、A被造物である不完全な自身の受容、そして
瞑想によるこの@Aの統合だと私は思う。時代に左右されない歴史ある堅牢なライフスタイルとして、
現在でも根強く愛されている。

ハレルヤだけがクリスチャンライフではない。
実際、特に日本の教会生活は、献金献上と無償労働の連続で大変である。献金献上は幕藩体制のそれと
似ているし、会社の労働と変わらず拘束時間が長いのに賃金は出ない。
また、教会独自のルールに生活が縛られ個人の生活の自由度は著しく低い。それはとてもハレルヤの一言で
片づけられるものではない。

クリスチャンがこれほどの不自由を負ってでも信仰に留まるのには理由がある。
それは一言で言えば「創造主である神の素晴らしさ」だ。

プロのプログラマーが勉強による拘束を嫌うだろうか。
プロのボクサーが減量と練習による拘束を嫌うだろうか。
バイクライダーが装備品の費用やツーリング計画に係るミーティングの拘束を嫌うだろうか。

自由度は実際、低くて良い。
自分を幸せに縛るものが信頼できるものであれば尚の事、人は喜んでその拘束の奴隷になれる。


実際、プロのプログラマーもボクサーもライダーも、例えば結婚し、それぞれの生活を守りながら、
幸せなライフステージを維持している。
意外にも自由度の高さを望む人ほど、きらびやかなライフスタイルを求めつつも生活費や労働の問題の多い
低いライフステージに留まり続けているようにも見えないだろうか。

洗礼は、イエスのような神が支配されるにライフステージにとどまる生き方の入り口だと思う。
扉は開かれているが、茨(いばら)である人間の思いで教会生活を覆ってしまったせいでその敷居は高く、
洗礼、そして信仰生活への入り口は狭い。

だが、教会生活の茨(いばら)を取り除け、神が用意された教会生活、聖さの保たれた制限されたライフ
ステージを得る資格は、私にも、また読者のあなたにも神の赦しのお墨付きで与えられているはずだ。

簿記の資格を取っても生かせない人がいるように、洗礼を受けてキリスト者の資格を受けても生かせない人がいる。生かせるか、生かせないか、その差の原因はどちらも同じで、勉強不足に違いない。

資格は取ったら終わりではない。
簿記も試験日までテキストで猛勉強した事は日常業務のほんの一部であるように、キリストも洗礼式を
終えたらハレルヤではない。裕福で有名なユダヤ人たちは子どもの頃からタルムードの金言集を膨大な
時間を費やして勉強し続けている。

日本人はいい話を聞いてハレルヤして一丁上がりで終わるのか。否、そうではない。
明日はイースター。我が教会も洗礼式があり、私も洗礼槽準備チームの一員で参加する。
当教会はバイリンガルで、奉仕と言えど通訳、音響・照明、受付、会計など職業人の宝庫だ。

どうか、明日も主の祝福がありますように。



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