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2017年03月29日

街中を歩く(6)〜若冲の寺〜

無題3.png無題1.png

裏寺通りにある宝蔵寺は昨年の若冲生誕300年のフィーバーもようやく落ち着き、知らないと通り越してしまそうなの静かな佇まいのお寺でした。
京都の場合はビルに囲まれたお寺という構図が違和感なくあちこちで見られますが、この宝蔵寺もその一つでした。
何しろ本堂の裏手にすぐRAUND1の大きなビルが目に入ってきます。
ご住職の話によると、昨年はオリジナルの御朱印帳や御朱印をもらう人の長蛇の列ができたそうですが、今回はまったく待たされることもなく御朱印をいただくことができました。
有名な「髑髏図」や「竹に雄鶏図」は非公開のため見られませんでしたが、今後、季節ごとの特別公開や寺宝展で見ることが可能と思われます。
新京極や河原町の喧騒を少し離れると、裏寺にはこのような穴場のお寺がまだまだたくさん残っています。











posted by ookini8008 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

2017年03月28日

街中を歩く(番外編1)

今回は新京極を少し離れて、京都御所について書いてみたいと思います。
正式には公園は「京都御苑」という名前で環境省が管理、また京都御所、大宮御所、仙洞御所は宮内庁が管理しているらしいのですが、我々ジモティにとっては小さいころから「御所」という名前でひとくくりにしていました。
周りは地元の中高生がよく一周約4kmのランニングコース、これは昔も今も変わりません。
また「御所」は知る人ぞ知る桜の名所なのです。苑内には約1000本の桜があり3月から4月にかけてはツアーも組まれるほど大勢の観光客で賑わっています。
特に苑内で有名なのは近衛低跡の「糸桜」や清所門近くの「車返桜」、紫宸殿の前に咲く「左近の桜」など天皇や公卿に関する名前がつけられています。
現在は夜間は閉門になるようですが、私の小さい頃は一晩中門が開いており自由に苑内に入れたような気がします。
街灯の薄暗い灯以外真っ暗な御所の中を徘徊するのはとてもスリルがあり、たまにベンチに座っている若いカップル(当時はアベックといいました笑)を見かけるとなぜか子供心にもドキドキしたものです。
最近できた京都迎賓館では大型連休中に開館時間を8時まで延長するようなので、久しぶりに行ってみようかなと思っています。
参考リンク:http://www8.cao.go.jp/geihinkan/kyoto/koukai_kyoto/night.html







このえさくら.png
posted by ookini8008 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

2017年03月23日

街中を歩く(4)

錦市場.png
新京極を少し外れて錦小路に出ると、ビルに刺さっている錦天満宮の鳥居の下を西に抜けるとと錦市場に出ます。
本当の名前は錦小路通、平安京の昔は具足小路(具足=武具を扱っていた店が多かったから)といわれています。
しかしその後、通りは衰退して汚れ、尾篭な話ですがそれがなまって糞小路と呼ばれた時代もあったそうです。
その後、四条通の一本南の綾小路に対応して、勅命(ちょくめい=天皇の命令)で錦小路に改められたそうです。
錦小路というと「京の台所」というイメージが強く、歳末には関西や京都のローカルニュースで買物客で賑わう風景が映し出されますが、実際には地元の人間は錦(ジモティは錦市場を略して「錦=にしき」といいます。)へ買物に行くということはまずありません。
いまや錦市場は観光客(特に外人観光客)にとっての観光と食べ歩きの街になっています。
先日、久しぶりに錦市場を高倉通から寺町通まで通り抜けたのですが、外国人観光客の自撮り棒とテイクアウトの食べ物の串で危なくて通れたものではありません。
またスーパーでは198円で売っている京野菜が800円とか、高級料亭向けの商品が多くとてもじゃないけどジモティが簡単に買える商品はありません。
最近できた某アニメキャラクターの店などはファンでもない限り、まず行くことはないと思います。




posted by ookini8008 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

街中を歩く(3)

新京極通りについて少し書きましたが、地元では「京極が栄えると寺町が廃れ、寺町が栄えると京極が廃れるという謂れがあります。
寺町はもともと豊臣秀吉が天正年間に整備した通りですが、大正時代に河原町通りが拡張されるとメインストリートの座こそ河原町にゆずったものの、御池通りから四条通の間はアーケード街として整備されています。
昭和30〜40年代は「紳士服の街」として知られ個人経営の洋服店が軒を連ねていました。今では若者向きの最先端のフアッション街として栄えているのもその名残かもしれませんね。
前回、「新京極は映画の街」と書きましたが、厳密に言うと「興行の街」であり、現在の姿からは想像もできませんが映画館の前身はほとんどが芝居小屋や寄席だったそうです。
また地元では「京極」といえば繁華街の代名詞であり、京都市内には他には「松原京極」「西陣京極」「山科京極」などの名前がついた商店街があるのは、全国に無数にある「〜銀座」に対抗した京都人のプライドの高さを象徴しているような気がします。(例外的に「山科銀座」という商店街?もあるそうですが、私は行ったことがありません。)
なお、寺町通りも三条〜四条間は「寺町京極商店街」という名称になっています。
これらの名前を見るたびに京都人の、「京極」というネーミングに対する愛着の深さを感じさせずにはいられません。
(続く)









posted by ookini8008 at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

2017年03月16日

街中を歩く(2)

新京極通りについてですが、四条通から北上すると西側に「染殿地蔵院」というお寺があります。
(林万昌堂という地元では有名な甘栗屋さんの裏手あたりです。)
実は最近までこのお寺があることすら知りませんでした。「安産祈願」で有名なお寺で腹帯も授与されているそうです。
新京極七福神巡りの一つでもあるので興味のある方は一度覗いてみられてはいかがでしょうか。
ちなみに私が行ったときは、やはり女性の参拝客が多かったように思います。
さて、もう少し新京極を北上すると左手には「CAFE de CRIE」がありこの店は西側の寺町通りにも通り抜けられます。
右手には前回書いた「カステラ饅頭 ロンドン屋」や「乙羽寿司」があり手前右側の道は「花遊小路」、こちらは突き当りを右に折れると四条通りへ出ることができます。
右側の建物は京都松竹第3ビル、ここも昔はSY松竹京映という松竹映画の封切館でした。(その昔は「歌舞伎座」という劇場だったようです。)
この通りはさすが映画発祥の地京都で、しかも松竹系の映画館跡がMOBIX京都を始め六角広場前のホテル建設地(昔は京都ピカデリー劇場という映画館でした。)などに残っています。
(続く)



posted by ookini8008 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

街中を歩く(1)

先日、久しぶりに新京極通りを四条から三条まで歩きました。
フル走破したのはおそらく10年ぶりくらいです。
ご存知のとおり、新京極は明治の初めに廃仏毀釈によって荒廃した寺町通りにあった寺院を京都府が整備した街で、明治時代には東京の浅草、大阪の千日前と並んで日本の三大歓楽街といわれたそうです。
我々の世代にとっては「修学旅行生のメッカ」というイメージが強いですね。
昔は平日の夕方に三条通の通称「たらたら坂」(注)から南方向を見ると通りは修学旅行生であふれかえっていました。今は修学旅行生さることながら「ここは外国か?」と思うほど外国人観光客で賑わっています。
四条から新京極を北に上がると、東側には昔からある漢方薬の店やロンドン焼の店、蒸し寿司で有名な寿司屋などが並んでいますがその他はすっかり変わってしまいました。
新京極通りは昔は映画の街でした。そのあたりのことは商店街振興組合の方が「映画のまち新京極」というタイトルのブログにまとめられているので、興味のある方はのぞいてみてください。
現在も映画館として残っているのは新京極三条下がるのMOVIX京都(元松竹座)だけですが、昭和30年代の最盛期には新京極通りに10館ほどの映画館が軒を連ねていたそうです。(私もそのほとんどは知っていますが笑)
まさに昭和の河原町が「書店の街」なら昭和の新京極は「映画の街」だったようですね。
(続く)
注:「たらたら坂」→新京極三条下がるにある坂。天正年間に豊臣秀吉が東海道を三条大橋から寺町まで延伸したさいにこの辺りまでが鴨川の川原だったので三条通をかさ上げした名残だといわれています。「たらたら坂」は草履や雪駄(せった)を履いて坂を下ると「たらたら」という音がしたので「たらたら坂」と呼ばれるようになったそうです。
「映画のまち 新京極」http://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/013/013.htm

posted by ookini8008 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

2017年03月14日

河原町の衰退を考える(4)

前回まで古き良き時代の河原町のことを書いてきましたが、今の河原町の現状はといわれると、はっきり言って、我々中高年には魅力の無い街というか、別にわざわざ行かなくてもいい街になってしまいました。
全国どこの繁華街もそうなのかも知れませんが、河原町(御池〜四条間)いわゆる「ファスト風土」化した街になってしまっている気がします。
もちろん商店街の方はいろいろ工夫され、シーズンの装飾や各種のイベントをされたりしているのですが、我々歩行者にとってはそれがイマイチ分かりづらいのが現状です。
一番目に見える取組はというと、自転車の歩道や車道の24時間走行禁止の取組キャンペーンですが、これは街の魅力というより、警察と連携した地元商店街の方の地道な取組ですね。
この間も白昼に正々堂々と河原町通を自転車で走っている若いお兄ちゃんが、商店街と警察の方に制止されていました。(四条通でも時々見かけますが、この取組は河原町の方が盛んなようです。)
それでは商店街の活性化はどうすればいいのか?これはこのブログの本題ではないのでここでは書きませんが、他の商店街のように学生向けのアンテナショップなどを作るというのも、テナント料の問題など素人が考えてもハードルが高そうですね。
やっぱり街には見るだけでも楽しい個性的なショップや商店街あげての集客力をアップするイベントなど、地元の市民ががリピーターとして何度も足を通ってみたいという魅力が必要ですね。
とりあえず昔の河原町を知る一市民としては一刻も早い河原町の活性化を望みます。
posted by ookini8008 at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

河原町の衰退を考える(3)

河原町が一番にぎわっていたのはやはり自分の記憶にある昭和30年代から50年代くらいでしょうか。道路に市電も通っており、看板条例?もない昔の写真を見るとびっくりするほどの看板が街に林立しています。
現在、ミーナビルのある河原町六角の角には駸々堂という大きな書店があり、併設の映画館(京都宝塚劇場・スカラ座)とともにたいそうにぎわっていました。駸々堂はたしか現在のラウンドワンのビルにも店舗があったような気がします。
その後本屋はブックファーストに変わりましたが、しばらくしか持たず映画館の廃館とともにあっさりと撤退してしまいました。(現在は四条河原町北東のコトクロスビルに入っていますね。)
現在、四条河原町にあるOPAビルも元はオーム社と京都書院という書店が入っていたところです。
ちょうどそのころに元は住友銀行だった四条河原町の東南角に阪急百貨店(現マルイ京都店)がオープンして、近隣の高島屋や藤井大丸への買い物客で街はまさに京都の中心にふさわしい賑わいでした。今の学生もそうかも知れませんが、ケータイもない学生時代には飲み会の待合せ場所といったら「阪急前」でしたね。
今のスーパージャンカラがあるところにも丸善ブランドの書店があり、その他個人経営の本屋さんが十数店もあったりして河原町はまさに「書店の街」でした。(続く)
posted by ookini8008 at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都

2017年03月10日

河原町の衰退を考える(2)

先日、河原町の衰退を考えるというテーマで少し書いてみましたが、河原町はもともと豊臣秀吉の時代まではその名のとおり、鴨川の河原でした。天正年間(1591年)には御土居(おどい)がつくられましたが、その場所はなんと今の河原町通りの西側、商店が立ち並ぶアーケード街のあたりだったそうです。
その後、江戸時代の初期には鴨川に新しい堤防が建設され、現在の河原町あたりの御土居はだんだんと取り壊され河原町通りが開通しました。
東海道の終点である三条大橋にも近く交通の要所だったため、河原町通りの東側に土佐や長州の藩邸が置かれたのも納得できますね。(続く)





posted by ookini8008 at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都
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