2017年03月16日
街中を歩く(1)
先日、久しぶりに新京極通りを四条から三条まで歩きました。
フル走破したのはおそらく10年ぶりくらいです。
ご存知のとおり、新京極は明治の初めに廃仏毀釈によって荒廃した寺町通りにあった寺院を京都府が整備した街で、明治時代には東京の浅草、大阪の千日前と並んで日本の三大歓楽街といわれたそうです。
我々の世代にとっては「修学旅行生のメッカ」というイメージが強いですね。
昔は平日の夕方に三条通の通称「たらたら坂」(注)から南方向を見ると通りは修学旅行生であふれかえっていました。今は修学旅行生さることながら「ここは外国か?」と思うほど外国人観光客で賑わっています。
四条から新京極を北に上がると、東側には昔からある漢方薬の店やロンドン焼の店、蒸し寿司で有名な寿司屋などが並んでいますがその他はすっかり変わってしまいました。
新京極通りは昔は映画の街でした。そのあたりのことは商店街振興組合の方が「映画のまち新京極」というタイトルのブログにまとめられているので、興味のある方はのぞいてみてください。
現在も映画館として残っているのは新京極三条下がるのMOVIX京都(元松竹座)だけですが、昭和30年代の最盛期には新京極通りに10館ほどの映画館が軒を連ねていたそうです。(私もそのほとんどは知っていますが笑)
まさに昭和の河原町が「書店の街」なら昭和の新京極は「映画の街」だったようですね。
(続く)
注:「たらたら坂」→新京極三条下がるにある坂。天正年間に豊臣秀吉が東海道を三条大橋から寺町まで延伸したさいにこの辺りまでが鴨川の川原だったので三条通をかさ上げした名残だといわれています。「たらたら坂」は草履や雪駄(せった)を履いて坂を下ると「たらたら」という音がしたので「たらたら坂」と呼ばれるようになったそうです。
「映画のまち 新京極」http://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/013/013.htm
フル走破したのはおそらく10年ぶりくらいです。
ご存知のとおり、新京極は明治の初めに廃仏毀釈によって荒廃した寺町通りにあった寺院を京都府が整備した街で、明治時代には東京の浅草、大阪の千日前と並んで日本の三大歓楽街といわれたそうです。
我々の世代にとっては「修学旅行生のメッカ」というイメージが強いですね。
昔は平日の夕方に三条通の通称「たらたら坂」(注)から南方向を見ると通りは修学旅行生であふれかえっていました。今は修学旅行生さることながら「ここは外国か?」と思うほど外国人観光客で賑わっています。
四条から新京極を北に上がると、東側には昔からある漢方薬の店やロンドン焼の店、蒸し寿司で有名な寿司屋などが並んでいますがその他はすっかり変わってしまいました。
新京極通りは昔は映画の街でした。そのあたりのことは商店街振興組合の方が「映画のまち新京極」というタイトルのブログにまとめられているので、興味のある方はのぞいてみてください。
現在も映画館として残っているのは新京極三条下がるのMOVIX京都(元松竹座)だけですが、昭和30年代の最盛期には新京極通りに10館ほどの映画館が軒を連ねていたそうです。(私もそのほとんどは知っていますが笑)
まさに昭和の河原町が「書店の街」なら昭和の新京極は「映画の街」だったようですね。
(続く)
注:「たらたら坂」→新京極三条下がるにある坂。天正年間に豊臣秀吉が東海道を三条大橋から寺町まで延伸したさいにこの辺りまでが鴨川の川原だったので三条通をかさ上げした名残だといわれています。「たらたら坂」は草履や雪駄(せった)を履いて坂を下ると「たらたら」という音がしたので「たらたら坂」と呼ばれるようになったそうです。
「映画のまち 新京極」http://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/013/013.htm
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