2016年10月09日
よしの565−2四ノア の はこぶね。
よしの565−2四ノア の はこぶね。
山室軍平せんせいの『みんしゅうの せいしょ』
ノアの はこぶね
ながさ 137メートル はば 22.8メートル たかさ 13.7メートル
―
かみは ちじょうに ふえた にんげんの あまりに じゃあくな すがたに あいそを つかされ
にんげんを つくったことも とりや じゅうを つくったことも こうかいなさって
これらを ぜんぶ ほろぼそうと なさった。
―
けれども ノアという じんぶつがいた。このひとは じつに ただしいひとだったので
かみは この ノアと その かぞく それに すべての いきものの ひとつがいだけは ほろぼさずに
おこうと かんがえられた。
そこで ノアに めいじて 3かいだての おおきな はこぶねを つくり かぞくと いきもののすべての ひとつがいを その ふねに いれるよう おめいじになった。
―
やがて ちじょうに おおあめがふり 40にち 40夜にわたって ふりつづいた。
そして その こうずいは 150にちかんに およんだ。
こうして はこぶねに はいっていた ノアの8にんの かぞくと どうぶついがいは すべて ちじょうから わろぼされてしまった。
―
こうずいのあと ノアは のうふとなって ぶどうを つくり ぶどうしゅを つくった。
そして その ぶどうしゅを のみ よって いんぶを ろしゅつしたまま ねいってしまった。
それを みた ノアの むすこ の ハムは そとにいた きょうだいの セムと ヤペテに つげた。
セムと ヤペテは ちちの しゅうたいを みようなどという きもちは おこさず うしろむきに あるいていって ちちの からだに きものを かけた。
よいがさめて ノアは そのことを しり セムと ヤペテを しゅくふくしたが
「ハムのこと カナンは のろわれよ」と のろった。
―
いじょうの じけんは わたしたちに たいする けいこくではないか。
かみが ただしいとして しゅくふくした ノアでさえ おおざけを のんで はだかの はじを さらしたのだ。
しらずしらずに ごうまんに なっていたからだと わたしは そうぞうする。 こうみるとき、かみの おんちょうによって しんじゃとなりながら ごうまんになって ともすれはせ かみから はなれがちな わたしたちじしんの しんこうせいかつを いやでも はんせいさせられるのではないだろうか。
―
こうずいまえの ハムなら きっと だれにも みられぬように すぐに いふくを かけようと はいりょを はらつたであろう。
が かれは そうしなかった。
こうずいまえの ノアでは なくなった ちちを ハムは そんけいて゜きなくなっていたのではなかったか。
そして ちちを そんけいでない ハムじしんも その ありかたが かわっていたのであろう。
―
よいからさめて ノアが ここで ちょくせつ ハムをのろわず ハムの こ カナンを のろってのは なぜか。
ハムの たいどからして カナンは そふを そんけいしなかったからに ちがいない。
こうして せっかく すくわれた ノアの かぞくかんけいは ゆがみ ふしんと のろいが はびこってくる。
その しそんである じんるいが ふたたび つみの せかいを きずくのも とうぜんである。
―
しんこうとは なんと きびしい せかいであろう。
なんじゅうねん しんこうを つづけようと 一朝にして これを うしなうことがあるのだ。
―
あとの カラスが さきになり さきの カラスが あとになる
わたしは ノアの はこぶねを 読んでほんとうに おそろしいと おもう。
―
つまずきながらも なんとか かみの あわれみにより キリストに しがみついて いきていたいものだと おもう。
ノアが じぶんは いきのこるに あたいする にんげんだったと おもわずに かみの めぐみによって いきのこったと おもいつづけえたなら その しんこうは さらに かがやかしいものになったであろう。
にんげんは おんちょうに よらねば そんざいできないのだ。
ノアの はこぶねは ノアの こうせきに よるものでなく かみの おんちょうの はこぶねであったことを かくにんしたいものである。
山室軍平せんせいの『みんしゅうの せいしょ』
ノアの はこぶね
ながさ 137メートル はば 22.8メートル たかさ 13.7メートル
―
かみは ちじょうに ふえた にんげんの あまりに じゃあくな すがたに あいそを つかされ
にんげんを つくったことも とりや じゅうを つくったことも こうかいなさって
これらを ぜんぶ ほろぼそうと なさった。
―
けれども ノアという じんぶつがいた。このひとは じつに ただしいひとだったので
かみは この ノアと その かぞく それに すべての いきものの ひとつがいだけは ほろぼさずに
おこうと かんがえられた。
そこで ノアに めいじて 3かいだての おおきな はこぶねを つくり かぞくと いきもののすべての ひとつがいを その ふねに いれるよう おめいじになった。
―
やがて ちじょうに おおあめがふり 40にち 40夜にわたって ふりつづいた。
そして その こうずいは 150にちかんに およんだ。
こうして はこぶねに はいっていた ノアの8にんの かぞくと どうぶついがいは すべて ちじょうから わろぼされてしまった。
―
こうずいのあと ノアは のうふとなって ぶどうを つくり ぶどうしゅを つくった。
そして その ぶどうしゅを のみ よって いんぶを ろしゅつしたまま ねいってしまった。
それを みた ノアの むすこ の ハムは そとにいた きょうだいの セムと ヤペテに つげた。
セムと ヤペテは ちちの しゅうたいを みようなどという きもちは おこさず うしろむきに あるいていって ちちの からだに きものを かけた。
よいがさめて ノアは そのことを しり セムと ヤペテを しゅくふくしたが
「ハムのこと カナンは のろわれよ」と のろった。
―
いじょうの じけんは わたしたちに たいする けいこくではないか。
かみが ただしいとして しゅくふくした ノアでさえ おおざけを のんで はだかの はじを さらしたのだ。
しらずしらずに ごうまんに なっていたからだと わたしは そうぞうする。 こうみるとき、かみの おんちょうによって しんじゃとなりながら ごうまんになって ともすれはせ かみから はなれがちな わたしたちじしんの しんこうせいかつを いやでも はんせいさせられるのではないだろうか。
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こうずいまえの ハムなら きっと だれにも みられぬように すぐに いふくを かけようと はいりょを はらつたであろう。
が かれは そうしなかった。
こうずいまえの ノアでは なくなった ちちを ハムは そんけいて゜きなくなっていたのではなかったか。
そして ちちを そんけいでない ハムじしんも その ありかたが かわっていたのであろう。
―
よいからさめて ノアが ここで ちょくせつ ハムをのろわず ハムの こ カナンを のろってのは なぜか。
ハムの たいどからして カナンは そふを そんけいしなかったからに ちがいない。
こうして せっかく すくわれた ノアの かぞくかんけいは ゆがみ ふしんと のろいが はびこってくる。
その しそんである じんるいが ふたたび つみの せかいを きずくのも とうぜんである。
―
しんこうとは なんと きびしい せかいであろう。
なんじゅうねん しんこうを つづけようと 一朝にして これを うしなうことがあるのだ。
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あとの カラスが さきになり さきの カラスが あとになる
わたしは ノアの はこぶねを 読んでほんとうに おそろしいと おもう。
―
つまずきながらも なんとか かみの あわれみにより キリストに しがみついて いきていたいものだと おもう。
ノアが じぶんは いきのこるに あたいする にんげんだったと おもわずに かみの めぐみによって いきのこったと おもいつづけえたなら その しんこうは さらに かがやかしいものになったであろう。
にんげんは おんちょうに よらねば そんざいできないのだ。
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