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2016年10月11日

よしの565−3七アブラハムの しんこう。

よしの565−3七アブラハムの しんこう。
そうせいき22しょう。

わたしたちが けっこんして まず かかげた しきし。

「しゅ の やまに そなえあり」

という せいく。

(わたしが かかげた せいくは
「つねに よろこべ、
たえず いのれ、
すべてのことに かんしゃせよ。」
です。)

こんげつは きんけつだ と おもった しゅんかん
「なあに しゅの やまに そなえありだ」
と みうらがいう。かいけつの こんなんな じけんが もちあがると
「だいじょうぶ しゅのやまに そなえありだからね」
とくる。
「しゅの やまに そなえあり」は わたしたち ふうふの あいことばでもあった。

この せいくは そうせいき22−14の ゆうめいなことば。

アブラハムが100さい つまの サラが90さいのとき ひとりむすこの イサクが うまれた。

このことを かみから よこくされたとき アブラハムは(100さいの ものに どうして こどもが うまれよう。サラは90さいにもなって どうして うむことができよう)と おもわず わらっている。

イサクとは「わらい」という いみ だとか。
にほんりゅうにいえば 笑一(しょういち)とか笑太郎(しょうたろう)とか いうなであろう。

じょせいなら さしずめ笑子(しょうこ)かもしれない。

この むすこが しょうねんと なったころ アブラハムは かみの こえを きいた。
「あなたの あいする ひとりむすこを つれて わたしの しめすやまで かれを 燔祭(はんさい)として ささげなさい」

https://kotobank.jp/word/%E7%87%94%E7%A5%AD-118030
燔祭
はんさい
holocaust
旧約聖書『レビ記』でモーセが定めた供犠の1つ。供物を必要とし,雄牛,羊,やぎ,はと (この場合は,雄,雌を問わない) のみが用いられた。その目的は神の崇敬と賛美,神への感謝,祈願,贖罪の4つに大別され,供物が供壇で焼尽され,神のみに捧げられ,供犠中最も高貴なものとされた。

はん‐さい【×燔祭】
古代ユダヤ教における最も古く、かつ重要とされた儀式。いけにえの動物を祭壇上で焼き、神にささげた。

はんさい【燔祭】
古代ユダヤ教で,生け贄の動物を祭壇で焼き,神に捧げた儀式。 〔古代中国で,柴を焼き煙を上げて天をまつることを燔柴はんさいという〕

燔祭
はんさい
‘ l hヘブライ語
burnt offering英語
動物犠牲の一種。奉献された犠牲動物は完全に祭壇で焼かれるため、特別に神聖な捧(ささ)げ物とされる。その一部なりとも祭司なり奉献者の食用に供してはならない。犠牲獣としては雄ウシ、ヤギ、ヒツジ、ハトなどが使われ、いずれも健全なものであることを要した。エルサレム神殿では毎日朝と午後、さらに安息日、新月の日に、個人的には祭司の聖別、ハンセン病患者や産婦の清めなどに際して捧げられた。[石川耕一郎]

かみは なんと イサクを まるやきにして ささげよ と めいじられたのである。

せいしょには
<アブラハムは あさはやくおきて ろばに くらをおき ふたりの わかものと そのこ イサクとを つれ また 燔祭の たきぎを わり たって かみが 示された 所にでかけた>とかいてある。

かみの みことばに おどろき あわてたとも つま サラに つげたとも きされていない。

わたしたちならば かみの しめしは ひどすぎる、しとも したがうことは できないそんなかみは しんじられない といいたくなるところではないか。

イサクが おおきな つみを おかしたわけでも アブラハムが ふしんこうな ふるまいが あったわけでもない。

しかし アブラハムは まったく じゅうじゅんに もくもくと かみのことばに したがった。
これを あるいはひとは盲従(もうじゅう)というかもしれない。
が アブラハムは かみを しんじたのである。
かみの なさることは ただしいと しんじきっていたのだと おもう。

「なんと れいこくな」「なんと りふじんな」と かれは おもわない。それは にんげんが わがみ かわいさから はっする ことばである。

かみさまの なさることは、ぜったいに まちがいがない。
かみは ひとより ぜったいに ただしいとする この ぜったいてきしんらい、これが「しんこう」というものでは ないだろうか。

にんげんの いいぶんのほうが ただしい にんげんのほうに りがあるというのは かみを ふせいとして しんじていないことになる。

わたしたちの じんせいには どうも かみのすることは わからない ということはある。が わかりはしないが それは かみの ながいけいかくでは ただしいことなのだということだけは しんじたいと おもう。

さて アブラハムはみっかめに ようやく かみの しめした やまに きた。
なぜ かみは こんなに とおいやまを えらばれたのか。
すぐに そのばで 燔祭に ささげよとは おおせられず みっかも あるかねばならぬほど とおいやまで ささげよと いわれたのか。
それは おそらく あいする むすこと じゅうぶんに わかれを おしませるためでは なかったかと おもう。
みっかという ながさは かなり ながい にっすうである。
ぞくに「みっかぼうず」という。
じぶんから すすんで いきおいこんで はじめても みっかたてば そのいきおいも どこえやら もう あきたり するきが なくなってしまうものだ。

まして かみの めいれいに したがって わがこを まるやきにして ささげるけついは みっかめに なれば もろくも くずれてしまうはずだ。 もともと よろこんで したがえない めいれいである。かみへの ぜったい じゅうじゅんの しんこうが たとえ あったにせよ みっかのうちに かなり どうようするはずである。
その みっかかん アブラハムの かみへの しんらいは ふどうであった。

いよいよ そのときがきた。 アブラハムが そのこ イサクを かみのまえにやいて ささげるときが きたのである。その ばめんを せいしょには つぎのように かいてある。

そうせいき22−6
<アブラハムは 燔祭の たきぎを とって そのこ イサクに 負(お)わせ てに 火(ひ)と はものとを とって ふたり いっしょに いった。

やがて イサクは ちち アブラハムに いった、「ちちよ」かれは こたえた、「こよ、わたしは ここにいます」イサクは いった、「ひと たきぎは ありますが 燔祭の こひつじは どこにあのますか」アブラハムは いった、「こょ かみ みずから 燔祭の こひつじを そなえてくださるであろう」

こうして ふたりは いっしょに いった。
かれらが かみの しめされた ばしょにきたとき、アブラハムは そこに さいだんを きずき たきぎを ならべ そのこ イサクをしばって さいだんの たきぎの うえに のせた。そして アブラハムが てを さしのべ はものを とって そのこを ころそうとしたとき しゅの 使がてんから かれを よんで いった、
「アブラハムよ アブラハムよ」かれは こたえた、「はい、ここにおります」みつかいが いった、「わらべを てにかけてはならない。また なにも かれにしては ならない。あなたのこ あなたの ひとりごをさえ、わたしのために おしまないので あなたが かみを おそれるものであることを わたしは いま しった」
このとき アブラハムが めを あげてみると うしろに 角を やぶに かけている いっとうの おひつじ がいた。
アブラハムは いって その おひつじを とらえ それを その子のかわりに 燔祭として ささげた。それでアブラハムは そのところを アドナイ・エレとよんだ。これにより ひとびとは きょうもなお「しゅの やまに そなえあり」という>

しんこうとは ようするに かみを しんじて かみに したがうことだと わたしは おもう。ふくじゅうするために「わたくしこころ」をすてねばならない。
イエス・キリストが いのられたように、
「わたしの おもいのままではなく、みこころのままに なさってください」
これこそが かみへの まったき しんらいであり、ふくじゅうであると おもう。
アブラハムは ひとりご イサクを 燔祭として ささげよという めいれいに したがい いままさに わがこの むねに 刃(は)を つきつけんとしたとき「てをかけてはならない」という かみの つかいの みことばが あった。
そして そこに いっぴきの こひつじを はっけんするのである。
この こひつじこそ しんやくにおける イエス・キリストであろう。
かみは つねに わたしたちの つみの あがないのために イエス・キリストを よういして いられるのである。

かみは アブラハムに ひとりこ゜を ようきゅう なさつた。
が その かみ ごじしんが ひとりご イエスを ぜんじんるいに くだされた。
「かみは その ひとりごを たまわったほどに このよを あいして くださった」
と せいしょに あるとおりである。

燔祭というと なんとなく げんぱつろうどう を おもいました。


ところで このあいだ わたしは 二、三のともと はなしあつた。
「じぶんの むすこに ぼくしになってほしいと おもうか」
という はなしである。 ひとりは おおきく あたまを よこにふつた。
「ぼくしになんて とても とても」
とんでもない とばかりの ひょうじょうで
「だってあなた、たべてゆけないじゃないの」
ほかの ははおやも どうようだといい
「できたら いしゃになってほしいわ。しんこうを もった いしゃにね」
わたしは こどもがいない。もしいたとしたら たぶん わたしも わがこを ぼくしとして かみに ささげたいとは おもわないにちがいない。 しんこうは もってほしい。しかし「ぼくしはどうも」と しりごみするに ちがいない。げんに ある ぼくしが いっておられた。
「わたしは クリスチャンホームに そだちました。りょうしんは しんこうねっしんでしたが ぼくが ぼくしになると いいだしたとき もうぜんと はんたいしたのが この りょうしんです。ちちは どなる、ははは なく、いやいや、たいへんでした」

わたしたちは とにかく かみに じぶんの じかんを ささげたり かねを ささげたり することにも しぶってばかりいるのではないだろうか。今治(いまばり)の榎本(えのもと)ぼくしは その せっきょうのなかで つぎのような はなしを されている。
゜ある きょうかいで せっきょうをした。 けんきんのときになり みんなが さんびかを うったた。『捧ぐ、ささぐ、みなささぐ』という かしである。 このうたを うたいながら けんきんするのだが だんじょうから みていると ちいさな おかねを さがしているのか おおきな おかねを さがしているのか みな ひどく てまどっている さんびかは いのりだ。『みな捧ぐ』という いのりをしながら・・・・・・」
せんせいの この せっきょうが みみに いたくないひとは すくないだろう。わたしたちは かみの みことばを わりびきして きいたり みずましして うすめて きいたりして ほんきで かみに したがうせいかつは なかなか できない。

「これでもクリスチャンか」と じぶんを おもうのは かみに したがっていない じぶんを みるからである。かみの ことばに したがうことを アブラハムのように ほんきで なしているか。
「キリストは われわれの たんなる きやすめのために じゅうじかに かかられたのではない」とある ぼくしが いわれたが わたしたちは せいしょを かみの ことばを きやすめに よんでいはしないかと はんせいさせられる。たとえば
゜ひとを さばくな」
という せいく の ひとつさえ、わたしたちは ふくじゅうの せいしんをもって ほんきに とりくんで よんでは いないのではないか。
アブラハムが イサクを ささげようと けついした けついで わたしたちは じぶんの「エゴイズム」をなぜ すてようとは しないのだろう。

わたしたち ふうふは「しゅ のやまに そなえあり」を あいことばに この じゅうなんねんかを ともに いきてきたが、それは けっして かみえの 全きしんらいから でていたのではないことを いまさらのように はんせいさせられる。
わたしたちが しんけんに かみに したがおうとするときのみ「しゅの やまに そなえあるキリスト」が たしかなる じつざいとして、わたしたちに せまるのでは ないだろうか。

(わかったような わからないような イサクは 燔祭に ならなくて よかったです。でも かみさま って むちゃな ようきゅうを するのですね。)

ポール・ボッツを おもいだしました。

https://www.youtube.com/watch?v=PQ6HTz-PcpM
自信を持って/ポール・ポッツ (日本語字幕つき)


ワンチャンスという えいがにも なってます。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B9
『ワン チャンス』ウィキペディア



おとうさんが てっこうしょ で はたらいてて いじめられっこ かしゅに なりたいけど なかなか むつかしく ケータイのはんばいてん に つとめてて びょうきしたり いろいろあって おとうさんのもとで てっこうしょ に つとめようとするが あわなくて やめて やっぱり かしゅを めざすが こうつうじこに あったりして あきらめかけて ゆめを つかむ おはなし。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%84
ポール・ポッツ(Paul Potts、1970年10月13日 - )はイギリスの歌手。


鉄工所と いえば 武田鉄矢さんの おとうさんもですが、
http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/whiteness/page5.html
第5章 白人労働者階級の形成
労働者階級の白人性の問題を取り上げる本章では、まず、E.P.トムスンや、ハーバート・ガットマンなどの、いわゆる「下からの歴史」観に対するデイヴィド・ラディガーの批判を議論の嚆矢としている。ラディガーは、労働者階級が独自の文化や規範を形成していたと主張するトムスンらが、労働者の白人性や、白人労働者自らによる支配体制の構築について、言及をしていないと批判する。つまり、労働者階級の「正」の文化形成にのみ焦点を当て、「負」 の文化形成が無視されているというのである。
このような「負」の文化形成についてラディガーは、「白人性の賃金」という発想を用いて説明する。白人労働者が、現実的には資本主義社会に組み込まれ、従属的な地位に甘んじているにもかかわらず、自尊心を失わず賃金労働と折り合いをつけられたのは、自らを黒人奴隷と差異化することにより、独立した労働者としての公的・心理的な賃金を受け取ることができたからなのだ。このことは、非熟練労働に従事する割合が高く、黒人と大差のない劣悪な生活環境で暮らしていたアイルランド系移民に特に顕著であった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97
ドナルド・トランプ ウィキペディア

ドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump、1946年6月14日 - )は、アメリカの著名な実業家である。2016年アメリカ合衆国大統領共和党予備選挙の候補者であり、共和党大統領候補としての指名獲得が事実上確定している(推定候補[4])。

プロフィール[編集]
生い立ち[編集]
トランプは裕福な家庭の第四子として生まれた。父のフレッド・トランプ(英語版)は、1885年にドイツのラインラント=プファルツ州カルシュタット(ドイツ語版)からアメリカに移民して渡米したドイツ人フレデリック・トランプの子で、ニューヨーク州クイーンズ区の不動産デベロッパー。母のメアリー・アンは、スコットランドのルイス島生まれで1930年にアメリカに渡った慈善家・主婦。トランプの両親は1936年に結婚し、5人兄妹をもうけた。

おかあさんの スコットランドって アイルランドの ちかくですね。

いぜん テレビで アメリカの はくじん の ひとが てっこうしょ で はたらいてて さびれて まやくちゅうどくが まんえんしている はなしが ありました。
しっしょくの おおくは さぎょうの じどうか と テクノロジーの へんかに きいんするとか しんぶんに ありました。
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