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2020年02月19日
紛失!
お気に入りのピアスを紛失した。
朝、何気なく耳を触った時無いことに気付いた。
瞬間、凍った。
お気に入りで最近は付け替えることなく着けていたピアスだった。
私は、大柄な派手なピアスではなくて付けているかいないか位の小さなピアスが好みだった。
しかし、年齢を重ねていくと、顔の回りを元気にしてくれる少し大きめのピアスが似合うように思ようになった。
それも、プラチナの色よりも、ゴールドの色の方が、より元気にしてくれるように見える。
そんな意味合いで最近お気に入りだった。
ところが、ちょっと変化も欲しくなり、他のに取り換えようかなと気にしていたのがこの最近だった。
そうしたら、あるべき耳たぶに無い!
本当に、凍った。
掃除機を掛ける時も一応、先にその周りを点検しながら掛けた。
金属の物を吸い込んだりすれば「カラカラ」という音がするだろうと音にも耳を澄ませた。
勿論、着替えの際に何かに引っ掛かることも考えて、上着や洗濯したパジャマ、洗濯籠、
洗濯機の内部、お風呂場、浴槽の中、排水溝まで、考えられる範囲のこと、場所全て探してみた。
無い・・・・。
気持ちは次第に、
「諦めよう、縁がなかったんだ。付け替えよう、と考え始めていたのが
何か、引き金になっているのか?」
と、ピアスに抗議されたように感じていた。
でも、それで、気持ちが落ち込むのも嫌だったので縁のものと区切りをつけるつもりでいた。
過去にもピアス片方紛失事件は3回あった。
エアロビ教室のロッカールームで多分着替えの際になくした。
これは、すぐに施設に電話して、落ちていて、遺失物として保管してくれていて手元に戻った。
2回目は、お風呂の浴槽に落ちていて、後で入った家族が見つけてくれた。
3回目は、やはり脱衣所周りで失くして、必死で探したところ、何と、洗濯機のゴミ取りの部分の裏側に張り付いていた。
そんな過去があったので、先に書いたように、探す場所は細かい部分にまでに渡るのだ。
今回は、それでも、無かった。
もう、諦めて、次のピアスに付け替えた。
ゴールドのパールなら元気が出るだろうと決めた。
そして、無いことが発覚したリビングに戻った。
猫が掛けていた毛布を片付けた瞬間、
「ん?、ピアス?!」
絨毯の上に、ゴールドの輪っかのピアスが転がっていた。
「まさか!?、何で?」
朝から、掃除機も途中にして探し回ったのに、無かったのに、今目の前に、ある!
猫の毛布に引っ掛かっていたの?
その瞬間、何故か傍にいた猫に、
「ありがとう!見つけてくれてありがとう!」
と触りまくってしまった。
猫は訳の分からない様子だったが、もう、猫が金色に輝いて見えた!
猫って何か不思議な力があるように思うが、その時は本当に金色の猫に見えた。
その戻って来たピアスがこれ。
凄〜く高価なわけではないけれど、一応本物のゴールドなので大切に使っていきたいと
思っていたので、縁は戻ってきたと嬉しく思っています。
気持ちが下がったり、上がったりの小さな騒動の一幕でした。
それにしても、小さなピアスは着替える時に落ちるケースが多いように思われるので
失くした時の喪失感を味わわないように、注意し、有無を確認するべきだとつくづく思います。
キャッチで止めたものの方が外れにくく、どうも、本体一致型でカチットはめる型の方が引っかかり易いように思います。
ピアス愛用者の方、どうぞご注意下さい。
朝、何気なく耳を触った時無いことに気付いた。
瞬間、凍った。
お気に入りで最近は付け替えることなく着けていたピアスだった。
私は、大柄な派手なピアスではなくて付けているかいないか位の小さなピアスが好みだった。
しかし、年齢を重ねていくと、顔の回りを元気にしてくれる少し大きめのピアスが似合うように思ようになった。
それも、プラチナの色よりも、ゴールドの色の方が、より元気にしてくれるように見える。
そんな意味合いで最近お気に入りだった。
ところが、ちょっと変化も欲しくなり、他のに取り換えようかなと気にしていたのがこの最近だった。
そうしたら、あるべき耳たぶに無い!
本当に、凍った。
掃除機を掛ける時も一応、先にその周りを点検しながら掛けた。
金属の物を吸い込んだりすれば「カラカラ」という音がするだろうと音にも耳を澄ませた。
勿論、着替えの際に何かに引っ掛かることも考えて、上着や洗濯したパジャマ、洗濯籠、
洗濯機の内部、お風呂場、浴槽の中、排水溝まで、考えられる範囲のこと、場所全て探してみた。
無い・・・・。
気持ちは次第に、
「諦めよう、縁がなかったんだ。付け替えよう、と考え始めていたのが
何か、引き金になっているのか?」
と、ピアスに抗議されたように感じていた。
でも、それで、気持ちが落ち込むのも嫌だったので縁のものと区切りをつけるつもりでいた。
過去にもピアス片方紛失事件は3回あった。
エアロビ教室のロッカールームで多分着替えの際になくした。
これは、すぐに施設に電話して、落ちていて、遺失物として保管してくれていて手元に戻った。
2回目は、お風呂の浴槽に落ちていて、後で入った家族が見つけてくれた。
3回目は、やはり脱衣所周りで失くして、必死で探したところ、何と、洗濯機のゴミ取りの部分の裏側に張り付いていた。
そんな過去があったので、先に書いたように、探す場所は細かい部分にまでに渡るのだ。
今回は、それでも、無かった。
もう、諦めて、次のピアスに付け替えた。
ゴールドのパールなら元気が出るだろうと決めた。
そして、無いことが発覚したリビングに戻った。
猫が掛けていた毛布を片付けた瞬間、
「ん?、ピアス?!」
絨毯の上に、ゴールドの輪っかのピアスが転がっていた。
「まさか!?、何で?」
朝から、掃除機も途中にして探し回ったのに、無かったのに、今目の前に、ある!
猫の毛布に引っ掛かっていたの?
その瞬間、何故か傍にいた猫に、
「ありがとう!見つけてくれてありがとう!」
と触りまくってしまった。
猫は訳の分からない様子だったが、もう、猫が金色に輝いて見えた!
猫って何か不思議な力があるように思うが、その時は本当に金色の猫に見えた。
その戻って来たピアスがこれ。
凄〜く高価なわけではないけれど、一応本物のゴールドなので大切に使っていきたいと
思っていたので、縁は戻ってきたと嬉しく思っています。
気持ちが下がったり、上がったりの小さな騒動の一幕でした。
それにしても、小さなピアスは着替える時に落ちるケースが多いように思われるので
失くした時の喪失感を味わわないように、注意し、有無を確認するべきだとつくづく思います。
キャッチで止めたものの方が外れにくく、どうも、本体一致型でカチットはめる型の方が引っかかり易いように思います。
ピアス愛用者の方、どうぞご注意下さい。
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2020年02月18日
病院ラジオ。
昨年の(?)4月29日に放送された再放送を、観た。
「子ども病院偏」
サンドウィッチマンが、東京・世田谷区にある、子どもに関するさまざまな病気を診る国立病院に出向き、
2日間限定のラジオ局を開設。入院しながら難病に向き合う子どもたちや、闘病するわが子に寄り添う家族の、
日ごろ言えない気持ちを、リクエスト曲とともに聞いていく。ラジオを通じて、人々の思いが交錯し、
見る人の心が揺さぶられる、笑いと涙の新感覚ドキュメンタリー。
サンドウィッチマンの二人が病院にだけに向けて流すラジオ局。
考えてみると、学校放送みたいなシステムなんだろうと思った。
子どもの患者さんは年齢が様々だ。
幼児から大学生までいるようだ。
そこには付き添ったり、親御さんの肝臓を子供さんに移植したりというような方まで様々だ。
好きな曲をリクエストするために参加する患者さんは、入院の状況や病気のことなど詳しく
話してくれる。
病気の内容など話してくれるのかな?と思うがご本人は明るく、サンドの二人も深刻にならないで、
友達と話すように進めていく。
患者の子供達とその家族は入院が長期だったり、臓器移植など、結構大変な思いが続いているのではないかと
思われることも笑顔で、決心した後の迷いのない思いを語ってくれるのだ。
病院にいれば、自分の家族だけでない、いろんな病を持った子供達がいるのだと思う。
皆治療を受け、完治することを目指して加療している仲間なのだと思う。
患者本人も、家族も、マイクの前でサンドと話す子供達のドライな発言や家族との約束事などを
オープンに暴露したりするので、苦笑したり、爆笑したりしている。
自分だったらそんな風になれるだろうか?
と思うが子供のためならばやはり、こんな親子になるのかもしれないと想像した。
サンドの明るい番組の進め方、彼等の優しさが根底に流れていて、とてもいい空気感の
ドキュメンタリーだと思った。
病気を避けたり、触れることを怖がったりしないで、患者の子供達の本音を上手く引き出して
いた彼等自身も、
「自分達にできるのかなと思ったが、とてもいいお仕事を頂けたと感謝している。」
と、語っていた。
子供達も、「お笑い芸人」さんのパワーと親しみ易さに惹かれるのだろう。
患者の皆さん、家族の皆さん、皆さんからパワーを頂きました。ありがとうございました!
治療、応援してます!
「子ども病院偏」
サンドウィッチマンが、東京・世田谷区にある、子どもに関するさまざまな病気を診る国立病院に出向き、
2日間限定のラジオ局を開設。入院しながら難病に向き合う子どもたちや、闘病するわが子に寄り添う家族の、
日ごろ言えない気持ちを、リクエスト曲とともに聞いていく。ラジオを通じて、人々の思いが交錯し、
見る人の心が揺さぶられる、笑いと涙の新感覚ドキュメンタリー。
サンドウィッチマンの二人が病院にだけに向けて流すラジオ局。
考えてみると、学校放送みたいなシステムなんだろうと思った。
子どもの患者さんは年齢が様々だ。
幼児から大学生までいるようだ。
そこには付き添ったり、親御さんの肝臓を子供さんに移植したりというような方まで様々だ。
好きな曲をリクエストするために参加する患者さんは、入院の状況や病気のことなど詳しく
話してくれる。
病気の内容など話してくれるのかな?と思うがご本人は明るく、サンドの二人も深刻にならないで、
友達と話すように進めていく。
患者の子供達とその家族は入院が長期だったり、臓器移植など、結構大変な思いが続いているのではないかと
思われることも笑顔で、決心した後の迷いのない思いを語ってくれるのだ。
病院にいれば、自分の家族だけでない、いろんな病を持った子供達がいるのだと思う。
皆治療を受け、完治することを目指して加療している仲間なのだと思う。
患者本人も、家族も、マイクの前でサンドと話す子供達のドライな発言や家族との約束事などを
オープンに暴露したりするので、苦笑したり、爆笑したりしている。
自分だったらそんな風になれるだろうか?
と思うが子供のためならばやはり、こんな親子になるのかもしれないと想像した。
サンドの明るい番組の進め方、彼等の優しさが根底に流れていて、とてもいい空気感の
ドキュメンタリーだと思った。
病気を避けたり、触れることを怖がったりしないで、患者の子供達の本音を上手く引き出して
いた彼等自身も、
「自分達にできるのかなと思ったが、とてもいいお仕事を頂けたと感謝している。」
と、語っていた。
子供達も、「お笑い芸人」さんのパワーと親しみ易さに惹かれるのだろう。
患者の皆さん、家族の皆さん、皆さんからパワーを頂きました。ありがとうございました!
治療、応援してます!
2020年02月17日
ナイトライト事情。
明暗センサー付きナイトライトを買ってみた。
建築当時から設置されていた階段、廊下の足元を照らすナイトライトの照度不足感が気になっていた。
壁に埋め込み式のフットライトなのだがLEDの賞味期限がくるということなんでしょうか?
照明が暗くなってくると階段というのは危険な場所なので気にしていた。
ナイトライトに関しては、
2018/10/20に「ナイトライト」の記事を投稿している。
「階段の照明も吹っ飛ぶ、フットライト。」というタイトルだった。
転居前の家でも建築当初から階段、廊下のナイトライトには拘っていた。
今回買ってみたのは、
「壁コンセントに差し込むだけ。」
「明るさによって自動点灯、消灯。」
「暗さに応じて照度を自動調整。」
「LED使用で長寿命、省電力。」
「30日間点灯状態でも電気代約4円。」
と、いい事ばかり。
その上で税込み723円。
早速設置してみた。
ハウスメ━カ━さんに取り替えてもらった時は埋め込み式だったので8,000円掛かった。
それが、今回は、LED電球が切れたら、電球取り換え不可だけれど、この値段ならLED電球の耐久性次第ということで十分だ。
”暗さに応じて照度を自動調整。”と銘打ってある通り、夜中には十分な照度を発揮してくれている。
もう一つ替えたいと思ったが、コンセント機能が付いていない箇所なので、これは使えないようだ。残念。
それにしても、住宅機器や照明機器、防犯機器などはどんどん進化しているので、今まで
通りなんて考えは捨てて、何かの機会には家電屋さんに実物を見にいくべきだと感じた。
世の中の変化のスピードはささやかな機器でも本当に速い!
建築当時から設置されていた階段、廊下の足元を照らすナイトライトの照度不足感が気になっていた。
壁に埋め込み式のフットライトなのだがLEDの賞味期限がくるということなんでしょうか?
照明が暗くなってくると階段というのは危険な場所なので気にしていた。
ナイトライトに関しては、
2018/10/20に「ナイトライト」の記事を投稿している。
「階段の照明も吹っ飛ぶ、フットライト。」というタイトルだった。
転居前の家でも建築当初から階段、廊下のナイトライトには拘っていた。
今回買ってみたのは、
「壁コンセントに差し込むだけ。」
「明るさによって自動点灯、消灯。」
「暗さに応じて照度を自動調整。」
「LED使用で長寿命、省電力。」
「30日間点灯状態でも電気代約4円。」
と、いい事ばかり。
その上で税込み723円。
早速設置してみた。
ハウスメ━カ━さんに取り替えてもらった時は埋め込み式だったので8,000円掛かった。
それが、今回は、LED電球が切れたら、電球取り換え不可だけれど、この値段ならLED電球の耐久性次第ということで十分だ。
”暗さに応じて照度を自動調整。”と銘打ってある通り、夜中には十分な照度を発揮してくれている。
もう一つ替えたいと思ったが、コンセント機能が付いていない箇所なので、これは使えないようだ。残念。
それにしても、住宅機器や照明機器、防犯機器などはどんどん進化しているので、今まで
通りなんて考えは捨てて、何かの機会には家電屋さんに実物を見にいくべきだと感じた。
世の中の変化のスピードはささやかな機器でも本当に速い!
2020年02月16日
残念な「レストラン」探訪。
年中無休のレストランがネットにあがっていた。
誰かの投稿だ。
興味があって、たまたま同方向の銀行に用事があったので都合がよい。
これは行くべきと、アクセス経路を確かめた。
想像した経路とは道路一本北側だったが、アクセス経路を信用して添って走ったら迷うことなく到着した。
ネットの写真の通りの外観で納得。
近付いて入ってみた。
自動ドアーだが、年代もので木製だったが、塗りが剥げたままだ。
庭は見えるがあまり手入れされていない。
白いピアノが置いてあるとのことだったが、その為に店内を狭くしていて、テーブルの配置が落ち着かない。
どの席も落ち着かない、ゴチャゴチャとした雰囲気だ。
ピアノ・・、弾くのだろうか?
ホール(ウェイトレス)係の女性が、ちょっとそっけない・・。
独りだからといっても、ランチタイムを少し外して行ったにも拘わらず、狭いテーブルのドアーから風が直接吹き込むような
小さなテーブルを指定したので、
「もしも、混み合ってきたら、移動しますから、今空いている窓際のテーブルでもいいですか?」
と訊いてみたら、ちょっとブスッとして、
「いいですよ。」
と、返ってきた。
それが写真の席だ。
ハンバーグ、煮込みハンバーグ、カキフライ、他には・・・、印象がない。
単品でも、結構なお値段なので、サラダ、ライス、コーヒー付きのハンバーグランチを注文してみた。
「う〜ん、柔らかい、ではなくて柔らかすぎるハンバーグだ。ライスも雑に盛ってある。」
添えた人参も柔らかすぎて甘すぎる。
ポテトもお店の御手製ではなくて冷凍物だろう。
いろんなことが残念だ。
ハンバーグそのものがもっと美味しくて、見た目が美しくて、店内のインテリアももっとシャキッと収まっていて、
広い庭の手入れも綺麗で、ランチが1,000円以内のお店は他に私のストックにある。
また、もっと他にも、コーヒーは付いていないが、美味しい自家製のポタージュスープを熱々で出してくれて、
ここより本体の味も美味しくてお値段も100円以上安く提供してくれるお店もある。
私の「レストランストック」に入れようかなと来てみたが「味、見た目、経営方針」にどうも、しっくりいかない感は免れない。
残念なレストラン探訪となった。
何とかいいなと思えたことは「年中無休」のみだ。
何かの時はお世話になれるかもしれないが・・・。
誰かの投稿だ。
興味があって、たまたま同方向の銀行に用事があったので都合がよい。
これは行くべきと、アクセス経路を確かめた。
想像した経路とは道路一本北側だったが、アクセス経路を信用して添って走ったら迷うことなく到着した。
ネットの写真の通りの外観で納得。
近付いて入ってみた。
自動ドアーだが、年代もので木製だったが、塗りが剥げたままだ。
庭は見えるがあまり手入れされていない。
白いピアノが置いてあるとのことだったが、その為に店内を狭くしていて、テーブルの配置が落ち着かない。
どの席も落ち着かない、ゴチャゴチャとした雰囲気だ。
ピアノ・・、弾くのだろうか?
ホール(ウェイトレス)係の女性が、ちょっとそっけない・・。
独りだからといっても、ランチタイムを少し外して行ったにも拘わらず、狭いテーブルのドアーから風が直接吹き込むような
小さなテーブルを指定したので、
「もしも、混み合ってきたら、移動しますから、今空いている窓際のテーブルでもいいですか?」
と訊いてみたら、ちょっとブスッとして、
「いいですよ。」
と、返ってきた。
それが写真の席だ。
ハンバーグ、煮込みハンバーグ、カキフライ、他には・・・、印象がない。
単品でも、結構なお値段なので、サラダ、ライス、コーヒー付きのハンバーグランチを注文してみた。
「う〜ん、柔らかい、ではなくて柔らかすぎるハンバーグだ。ライスも雑に盛ってある。」
添えた人参も柔らかすぎて甘すぎる。
ポテトもお店の御手製ではなくて冷凍物だろう。
いろんなことが残念だ。
ハンバーグそのものがもっと美味しくて、見た目が美しくて、店内のインテリアももっとシャキッと収まっていて、
広い庭の手入れも綺麗で、ランチが1,000円以内のお店は他に私のストックにある。
また、もっと他にも、コーヒーは付いていないが、美味しい自家製のポタージュスープを熱々で出してくれて、
ここより本体の味も美味しくてお値段も100円以上安く提供してくれるお店もある。
私の「レストランストック」に入れようかなと来てみたが「味、見た目、経営方針」にどうも、しっくりいかない感は免れない。
残念なレストラン探訪となった。
何とかいいなと思えたことは「年中無休」のみだ。
何かの時はお世話になれるかもしれないが・・・。
2020年02月15日
心の傷を癒すということ。
NHK 2020/02/08(土)放送。「土曜ドラマ」
今回はドラマ制作スタッフのブログをリブログさせて頂きます。
最近珍しく、見逃さないように録画していた番組でした。
肝臓にガンが見つかってから、治療よりも、家族といられる時間を大事に生きた静かな死の受け入れ方に、涙しました。
ドラマの中のピアノを弾くシーンが美しかった・・・。
以下スタッフブログより。
土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」を最終話までご覧いただきありがとうございました。
このドラマの制作に携わっている時、常に出演者・スタッフの胸にあったのは、
主人公・和隆のモデルになった安克昌さんへの思いでした。
ank_400x600_.jpg
在日韓国人として生まれ、自分のアイデンティティに悩みながらも、精神科医の道に進んだ安さん。
心の病気への理解が進んでいない時代から、心のケアのパイオニアとして奔走された安さん。
読書や映画、漫画、そしてジャズピアノをこよなく愛し、いつもユーモアを忘れなかった安さん。
安さんについて調べれば調べるほど、安さんに魅せられていき、安さんに会いたいという思い、
でも会えないんだという寂しさが募っていきました。
「安さんに会えた、見た人がそんな風に感じられるようなドラマにしよう」
私たちは、そう思いながら、ドラマを制作してきました。
でも振り返ってみれば、安さんはいつも現場にいてくれたような気がしています。
今回40日あまりの撮影を行いましたが、どの日も天候に恵まれました。
毎日100人から300人ものボランティアエキストラの方々に集まってもらって撮影し続けた避難所の1週間。
第1話の冒頭で和隆がピアノを弾く光あふれるシーンの撮影の日。
事前の予報が雨でも、不思議と当日になるとお日様が顔を覗かせてくれました。
そして最終話のラストシーン、神戸のルミナリエの撮影。
このシーンは、神戸ルミナリエ組織委員会と神戸フィルムオフィスのみなさんの御協力の元、
ルミナリエの本番をひかえる東遊園地で撮影させて頂きました。
その日がちょうど去年の12月2日。偶然にもその日は、安さんの命日でした。
撮影当日の朝は雨。でもなんとか午後には雨があがり、撮影は決行できることに。
200人のボランティアエキストラのみなさんに集まってもらい、
2019年の終子と子供たちの春子、洋一、灯、そして愛しい家族をいつまでも見守り続ける和隆を撮影しました。
撮影中、和隆を演じる柄本佑さんの背中が、克昌さんに見えたのは、私だけではなかったと思います。
安さんが実現を願った「傷つきに優しい社会」。心に傷を抱え、弱った人や遅れた人を切り捨てるのではなく、
ちゃんと寄り添っていく。誰も一人ぼっちにさせない。
そういうことができる社会になってほしい。
安さんの願いが叶いますように、という祈りをこめたこのドラマ。
多くの方々の心に長く残り、優しい気持ちで人と過ごせるようになってもらえたなら、制作チームとしてこんなに嬉しいことはありません。
ご視聴、本当にありがとうございました。
今後も、HPを更新したり、ツイッターでお知らせなどするかもしれません。
これからもこの作品のことを一緒に見守っていていただければ、幸いです。
800x600_endroll.jpg
「心の傷を癒すということ」チーム一同 2020.2.8
精神科医・安克昌(あん・かつまさ)氏 プロフィール
1960年大阪市生まれ。神戸大学附属病院精神科勤務を経て、神戸市西市民病院精神神経科医長を務める。
阪神・淡路大震災直後より、全国から集まった精神科ボランティアをコーディネートし、
避難所などでカウンセリングや診療活動を行う。震災一年後に臨床報告としてまとめた「心の傷を癒すということ〜神戸・・・365日〜」
で第18回サントリー学芸賞を受賞。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の若き研究者として治療活動に尽力するも、2000年12月死去。
共訳に「多重人格性障害-その診断と治療」などがある。
今回はドラマ制作スタッフのブログをリブログさせて頂きます。
最近珍しく、見逃さないように録画していた番組でした。
肝臓にガンが見つかってから、治療よりも、家族といられる時間を大事に生きた静かな死の受け入れ方に、涙しました。
ドラマの中のピアノを弾くシーンが美しかった・・・。
以下スタッフブログより。
土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」を最終話までご覧いただきありがとうございました。
このドラマの制作に携わっている時、常に出演者・スタッフの胸にあったのは、
主人公・和隆のモデルになった安克昌さんへの思いでした。
ank_400x600_.jpg
在日韓国人として生まれ、自分のアイデンティティに悩みながらも、精神科医の道に進んだ安さん。
心の病気への理解が進んでいない時代から、心のケアのパイオニアとして奔走された安さん。
読書や映画、漫画、そしてジャズピアノをこよなく愛し、いつもユーモアを忘れなかった安さん。
安さんについて調べれば調べるほど、安さんに魅せられていき、安さんに会いたいという思い、
でも会えないんだという寂しさが募っていきました。
「安さんに会えた、見た人がそんな風に感じられるようなドラマにしよう」
私たちは、そう思いながら、ドラマを制作してきました。
でも振り返ってみれば、安さんはいつも現場にいてくれたような気がしています。
今回40日あまりの撮影を行いましたが、どの日も天候に恵まれました。
毎日100人から300人ものボランティアエキストラの方々に集まってもらって撮影し続けた避難所の1週間。
第1話の冒頭で和隆がピアノを弾く光あふれるシーンの撮影の日。
事前の予報が雨でも、不思議と当日になるとお日様が顔を覗かせてくれました。
そして最終話のラストシーン、神戸のルミナリエの撮影。
このシーンは、神戸ルミナリエ組織委員会と神戸フィルムオフィスのみなさんの御協力の元、
ルミナリエの本番をひかえる東遊園地で撮影させて頂きました。
その日がちょうど去年の12月2日。偶然にもその日は、安さんの命日でした。
撮影当日の朝は雨。でもなんとか午後には雨があがり、撮影は決行できることに。
200人のボランティアエキストラのみなさんに集まってもらい、
2019年の終子と子供たちの春子、洋一、灯、そして愛しい家族をいつまでも見守り続ける和隆を撮影しました。
撮影中、和隆を演じる柄本佑さんの背中が、克昌さんに見えたのは、私だけではなかったと思います。
安さんが実現を願った「傷つきに優しい社会」。心に傷を抱え、弱った人や遅れた人を切り捨てるのではなく、
ちゃんと寄り添っていく。誰も一人ぼっちにさせない。
そういうことができる社会になってほしい。
安さんの願いが叶いますように、という祈りをこめたこのドラマ。
多くの方々の心に長く残り、優しい気持ちで人と過ごせるようになってもらえたなら、制作チームとしてこんなに嬉しいことはありません。
ご視聴、本当にありがとうございました。
今後も、HPを更新したり、ツイッターでお知らせなどするかもしれません。
これからもこの作品のことを一緒に見守っていていただければ、幸いです。
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「心の傷を癒すということ」チーム一同 2020.2.8
精神科医・安克昌(あん・かつまさ)氏 プロフィール
1960年大阪市生まれ。神戸大学附属病院精神科勤務を経て、神戸市西市民病院精神神経科医長を務める。
阪神・淡路大震災直後より、全国から集まった精神科ボランティアをコーディネートし、
避難所などでカウンセリングや診療活動を行う。震災一年後に臨床報告としてまとめた「心の傷を癒すということ〜神戸・・・365日〜」
で第18回サントリー学芸賞を受賞。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の若き研究者として治療活動に尽力するも、2000年12月死去。
共訳に「多重人格性障害-その診断と治療」などがある。
2020年02月14日
選別しにくいCD収蔵。
CDを買うと車で聴くためのコピーを作るためにパソコン書き込みしてアルバムを作るのが常だ。
CD本体は写真のように背中が上になるように収納している。
しかし、時間が経ってから特定の曲を聴きたくなって(特にドライブ中用に)探そうとすると、一枚一枚取り出して確認する必要に迫られる。
これでは整理というものになっていない。
すぐに取り出せるようになっていてこその整理だ。
どうするか?
事務書類の整理のように「あいうえお順、あるいはABC順」でか、「歌手別」か考えた。
その区切りをどうするかも問題だ。
百均で、ブックエンドのようなもので区切ろうと買ってみたが、最初の物は大きすぎ、2度目に選んだものは小振りでよかったが、
例え2mmの厚さでも、それによってCDそのものを並べる枚数が減ってしまう。
以前やっていたように「インデックス」を挟む(表示)する方が収納枚数が得られる。
聴く頻度が高そうなものを上段の引き出しに、頻度は下がるけれど、分かり易くしたい物は
残りを「ABC順」にして下段の引き出しに、ということにすることにした。
昨今はCDを買うというより好きな曲だけネットからダウンロードして買ってUSBに収録して
自分好みのアルバムにするようだけれど、私は自分の好みの歌手のアルバムが可視化できるCDは収蔵しておきたい。
だから、その収蔵のCDの中から、好みの曲を抜粋してMP3に「選曲集」を編集、収納してある。
”収蔵”という程沢山あるわけではないが一種の自分史のようなもので、
「あの時期流行っていた曲、あそこへ行った時によく聴いていて買い込んだもの、あの映画のサウンドトラックが欲しかった時」
とかいろんな思いが詰まっている。
だから、私はCDを大事にし、いつでも好きな一曲を取り出せるようにしておきたいのです。
でも、最近は忙しくて・・・、ゆっくりと音楽に浸っている時間が取れなくて、車移動中のみ
になってしまっている。
CD本体は写真のように背中が上になるように収納している。
しかし、時間が経ってから特定の曲を聴きたくなって(特にドライブ中用に)探そうとすると、一枚一枚取り出して確認する必要に迫られる。
これでは整理というものになっていない。
すぐに取り出せるようになっていてこその整理だ。
どうするか?
事務書類の整理のように「あいうえお順、あるいはABC順」でか、「歌手別」か考えた。
その区切りをどうするかも問題だ。
百均で、ブックエンドのようなもので区切ろうと買ってみたが、最初の物は大きすぎ、2度目に選んだものは小振りでよかったが、
例え2mmの厚さでも、それによってCDそのものを並べる枚数が減ってしまう。
以前やっていたように「インデックス」を挟む(表示)する方が収納枚数が得られる。
聴く頻度が高そうなものを上段の引き出しに、頻度は下がるけれど、分かり易くしたい物は
残りを「ABC順」にして下段の引き出しに、ということにすることにした。
昨今はCDを買うというより好きな曲だけネットからダウンロードして買ってUSBに収録して
自分好みのアルバムにするようだけれど、私は自分の好みの歌手のアルバムが可視化できるCDは収蔵しておきたい。
だから、その収蔵のCDの中から、好みの曲を抜粋してMP3に「選曲集」を編集、収納してある。
”収蔵”という程沢山あるわけではないが一種の自分史のようなもので、
「あの時期流行っていた曲、あそこへ行った時によく聴いていて買い込んだもの、あの映画のサウンドトラックが欲しかった時」
とかいろんな思いが詰まっている。
だから、私はCDを大事にし、いつでも好きな一曲を取り出せるようにしておきたいのです。
でも、最近は忙しくて・・・、ゆっくりと音楽に浸っている時間が取れなくて、車移動中のみ
になってしまっている。
2020年02月13日
よく咲くパンジー?
昨年の暮れに、お正月を迎えるに備えて植え替えをした鉢植え。
市内各所にあるJA(農協)の前庭で年中色とりどりの季節の花苗を売っている場所で仕入れたものだ。
冬場はパンジー、夏場は日日草、インパチェンスなどその季節に強い花苗を植えることにしている。
寒い季節に色採りを与えてくれる花を選んで玄関ポーチに置いて楽しんでいる。
パンジーは花が小さいものだと一つ一つは可愛いが全体の中で見ると迫力?がない。
以前からある普通の花ビラの大きさのものが元気で鉢全体に咲き誇ってくれる。
だから、いつもは従来物のパンジーを選んでいた。
しかし、ちょっと惹かれる名前が付いていたパンジーがあった。
「良く咲くパンジー」と。
「わあ〜、すぐお正月に咲いてくれるかもしれないのか?いいなあ〜。」
と、鉢植えに合う数の苗を買って早速植え替えをした。
ところが・・・・・、従来物のパンジーがさっさと花を付けているのにそのパンジーは葉っぱが
繁るだけでちっとも花を咲かせない。
小さな蕾があるようだけれど、一体いつになったら咲くの?という状態だった。
勿論お正月にも、葉っぱのみの鉢植えでいた。
それが、今、2月上旬になって元気に花開いているのだ。
2か月弱の間葉っぱだけだったのが”良く咲く”状態を誇っている。
「う〜ん、騙されてしまったのかな?」
と、ずっと残念な気持ちで見ていたが、その苗によって咲く時期というのがあるんだと納得した。
こうして花の咲く様子を見ているといろんなことを教えてもらうような気がする。
苗の咲く場所が合っているか、季節気温が適切か、土はどうか、等々。
そして、植えて、開花を待つ私は、その本当の”力”を待ってあげているかと。
時間が経ってようやく開花する花、一度開花するとどんどん豊かに花を付けて驚くほど
長く楽しませてくれるものだったりと、咲かせてその花本来の力は咲いてみないと分からないということを知る。
冬場に強いベコニアに期待をよせていたのが、場所が合わなければ一冬持たなかったり、
夏場のインパチェンスがまだ頑張って花を付けていたりとなる。
そんな花達を見ていて、いつも連想するのが”子育て”のことになる。
その花に合った場所、屋根の下だとか、全くの空の下だとか、陽当たり具合、水遣り具合、
土との相性等々あって、合った場所で咲く。
早咲き、遅咲き、等々あるだろう、その成長を信じて待つ気持ちで”子育て”したかなあと
振り返ってしまう。
ま、大成功とかそんなことでなくても、心身共に健康で社会人として自立しているだけで
彼等それなりの人間に育ってくれたのだろう、と彼等色の花に見立てて見守っている。
「良く咲くパンジー」は今、良く咲いて、その秘めていた力を発揮している。
騙されたなんて思ったりしてごめんなさい。
市内各所にあるJA(農協)の前庭で年中色とりどりの季節の花苗を売っている場所で仕入れたものだ。
冬場はパンジー、夏場は日日草、インパチェンスなどその季節に強い花苗を植えることにしている。
寒い季節に色採りを与えてくれる花を選んで玄関ポーチに置いて楽しんでいる。
パンジーは花が小さいものだと一つ一つは可愛いが全体の中で見ると迫力?がない。
以前からある普通の花ビラの大きさのものが元気で鉢全体に咲き誇ってくれる。
だから、いつもは従来物のパンジーを選んでいた。
しかし、ちょっと惹かれる名前が付いていたパンジーがあった。
「良く咲くパンジー」と。
「わあ〜、すぐお正月に咲いてくれるかもしれないのか?いいなあ〜。」
と、鉢植えに合う数の苗を買って早速植え替えをした。
ところが・・・・・、従来物のパンジーがさっさと花を付けているのにそのパンジーは葉っぱが
繁るだけでちっとも花を咲かせない。
小さな蕾があるようだけれど、一体いつになったら咲くの?という状態だった。
勿論お正月にも、葉っぱのみの鉢植えでいた。
それが、今、2月上旬になって元気に花開いているのだ。
2か月弱の間葉っぱだけだったのが”良く咲く”状態を誇っている。
「う〜ん、騙されてしまったのかな?」
と、ずっと残念な気持ちで見ていたが、その苗によって咲く時期というのがあるんだと納得した。
こうして花の咲く様子を見ているといろんなことを教えてもらうような気がする。
苗の咲く場所が合っているか、季節気温が適切か、土はどうか、等々。
そして、植えて、開花を待つ私は、その本当の”力”を待ってあげているかと。
時間が経ってようやく開花する花、一度開花するとどんどん豊かに花を付けて驚くほど
長く楽しませてくれるものだったりと、咲かせてその花本来の力は咲いてみないと分からないということを知る。
冬場に強いベコニアに期待をよせていたのが、場所が合わなければ一冬持たなかったり、
夏場のインパチェンスがまだ頑張って花を付けていたりとなる。
そんな花達を見ていて、いつも連想するのが”子育て”のことになる。
その花に合った場所、屋根の下だとか、全くの空の下だとか、陽当たり具合、水遣り具合、
土との相性等々あって、合った場所で咲く。
早咲き、遅咲き、等々あるだろう、その成長を信じて待つ気持ちで”子育て”したかなあと
振り返ってしまう。
ま、大成功とかそんなことでなくても、心身共に健康で社会人として自立しているだけで
彼等それなりの人間に育ってくれたのだろう、と彼等色の花に見立てて見守っている。
「良く咲くパンジー」は今、良く咲いて、その秘めていた力を発揮している。
騙されたなんて思ったりしてごめんなさい。
2020年02月12日
費やす時間がその人の仕事?
費やす時間がその人の仕事?
人それぞれ目に入ること、気になること、許容できること、できないことがある。
音楽を追究してきた人にとって何より重要なことは音の違いだろう。
プロの人達にわかって、普通の人に分からないことだろう。
しかし、音楽以外のことはあまり気にならない、無頓着だったりする。
女性の音楽家であって、主婦も兼ねているという人の日常を拝見して、思うこともあった。
「何かを一途に追及するということは何かを捨てなければできないことなのかもしれない。」と。
社会的に活躍する女性は数知れずいる。
それぞれの人がどんな生活をしているのかは、その家族がお互いに我が家はこんなものだと思って暮らしているものだと想像する。
ただ、何かに成功を収めるということは、女性でも男性でもそこにそれらの人の大部分の時間を費やすということだと思う。
時間と同時に意識もだろう。
音楽家、芸術家、アスリート、建築家や技術者もそうだろう、「仕事」に意識と時間は集中するだろう。
だから、人の仕事とはその人が費やす時間で決まるのだろうと。
主婦中心の私は、あれこれと他のことにも時間は費やすが、それでも、主婦業の時間は一番長いと思う。
社会的には「○○家」と名乗れる職業の人は、他の「▽▽家」の足りている部分を見るものだろう。
しかし、「〜〜家」と名の付かない主婦から見ると、特に女性「○○家」の足りない部分が見えることを理解できるだろうか。
男性の「○○家」には奥様がバックで家庭を支えている場合が多い。
しかし、女性の場合はバックに「主夫」がいてくれることは稀なことだろう。
何故こんなことを言うのかというと、人の意識って”仕事”以外の所は低いものなんだと思うからだ。
人間は完璧ではないから当然なのだろう。
意識の凸凹。
凸が何であって、凹が何か、それの差異が大きければ大きい程、「○○家」は大成するのかもしれないし、
差異が小さい程、並みに生活全般に意識が回るのかもしれない。
過去、現在も継続中であったりするが、私は「一芸に秀でる訓練をした人、仕事中心に生きた人」などに関わった時、
彼、彼女らの足りない部分も見えて、どちらから見ても、同じようなことが言えるのではないかと、
それぞれの生き方を認めればよいのだと、そんな時思ったのだ。
全くの個人的な意見ですが・・・。
草間彌生さん。芸術家としての一例。プライベート部分は存じ上げない。
人それぞれ目に入ること、気になること、許容できること、できないことがある。
音楽を追究してきた人にとって何より重要なことは音の違いだろう。
プロの人達にわかって、普通の人に分からないことだろう。
しかし、音楽以外のことはあまり気にならない、無頓着だったりする。
女性の音楽家であって、主婦も兼ねているという人の日常を拝見して、思うこともあった。
「何かを一途に追及するということは何かを捨てなければできないことなのかもしれない。」と。
社会的に活躍する女性は数知れずいる。
それぞれの人がどんな生活をしているのかは、その家族がお互いに我が家はこんなものだと思って暮らしているものだと想像する。
ただ、何かに成功を収めるということは、女性でも男性でもそこにそれらの人の大部分の時間を費やすということだと思う。
時間と同時に意識もだろう。
音楽家、芸術家、アスリート、建築家や技術者もそうだろう、「仕事」に意識と時間は集中するだろう。
だから、人の仕事とはその人が費やす時間で決まるのだろうと。
主婦中心の私は、あれこれと他のことにも時間は費やすが、それでも、主婦業の時間は一番長いと思う。
社会的には「○○家」と名乗れる職業の人は、他の「▽▽家」の足りている部分を見るものだろう。
しかし、「〜〜家」と名の付かない主婦から見ると、特に女性「○○家」の足りない部分が見えることを理解できるだろうか。
男性の「○○家」には奥様がバックで家庭を支えている場合が多い。
しかし、女性の場合はバックに「主夫」がいてくれることは稀なことだろう。
何故こんなことを言うのかというと、人の意識って”仕事”以外の所は低いものなんだと思うからだ。
人間は完璧ではないから当然なのだろう。
意識の凸凹。
凸が何であって、凹が何か、それの差異が大きければ大きい程、「○○家」は大成するのかもしれないし、
差異が小さい程、並みに生活全般に意識が回るのかもしれない。
過去、現在も継続中であったりするが、私は「一芸に秀でる訓練をした人、仕事中心に生きた人」などに関わった時、
彼、彼女らの足りない部分も見えて、どちらから見ても、同じようなことが言えるのではないかと、
それぞれの生き方を認めればよいのだと、そんな時思ったのだ。
全くの個人的な意見ですが・・・。
草間彌生さん。芸術家としての一例。プライベート部分は存じ上げない。
2020年02月11日
回復の証はいつものポ━ズ。
ジ厶でのお喋りの中で。
ペットが病気になったそうだ。
小さな身体のチワワちゃんだ。
チワワちゃんが下痢状態になって食事をしなくなりどんどん衰弱してしまい、獣医さんにかかったそうだ。
ペットの話になるとやっぱり診療費のことが頭が痛い。
しかし、だからと言って症状が出ているペットを放っておく飼い主はいないだろう。
そのお宅でも、初診料48、000円だと言っていた。
解る、我が家の猫も各種検診料、注射、投薬、等重なると40,000円位当然請求される。
だから、ペットの飼い主は最近ではペット保険に加入している。
チワワちゃんの飼い主さんも3,000円/月の保険料を払っていると言う。
我が家でも、31,000円/年の保険料を払っている。
これも、ペットの健康状態、大きさ(特に犬の場合は大型犬と小型犬では保険料が違う。)
年齢等によって保険料は違ってくる。
我が家では猫が10歳を迎える頃保険加入を考えた。
加入前の健康状態、持病などによっては加入できないからだ。
だから当然、保険会社が指定する動物病院で検査して加入が認められた。
それでも、診療費の50%とか70%の支払いを選んで保険料が決められる。
話は逸れるが、柴犬の牡を飼っていた方がまだ5歳だったので保険加入を延ばしていたところ
その犬に腫瘍が見つかって、診療費が80、000円強ということがあったらしい。
それでも、飼い主は治療をしたいと思うのだ。
結局、入院させるとか手術とかの治療は止めて、緊急の治療などだけにして、自宅で安心して
家族と過ごすことを選んで数か月後にその柴犬は亡くなった。
その飼い主さんはペット保険加入が遅かったかもと、少し悔やんでいたけれど、5歳くらいだとまだいいだろうと
思うのは仕方のないことだ。
その家族は現在ペットロス状態だと話していて、ワンコにはするだけのことはしたので、
次に迎えるワンコを探しているそうだ。
話を衰弱したチワワちゃんに戻すと、家の中で走り回って遊んでいたのに、全く動かなくなって
飼い主さんに甘えることもしなくなりぐったりしていたそうだ。
病院で10種混合の注射をして具合は快方に向かったそうだ。
その証が、いつもの飼い主の女性に甘えて、身体全体を使って、
「抱っこして!抱っこして!」
が戻った事だったと言う。
「抱っこ、抱っこ」
がひどくて、その女性が言うには、
「小鳥が肩に乗るようにずっと肩に乗っていて降りないの〜。もう大変。」
「解る解る、最近”おんぶ犬”っているじゃない?おんぶしてあげれば安心するかもね。」
と、私。
「おんぶ犬、おんぶ猫、みんな安心しきって可愛い」
いずれにしても、ペットと言えども子供と同じ、家族なのだ。
大型犬にも、小型犬にも躾けは必要だけれど、甘えてくれるのが嬉しいのも飼い主
の勝手なところなのだ。
元気な時の日常は何気ないことだけれど、ペットにとっても飼い主にとっても大事な大事なことなんだって、
感謝していないといけないんだと思った。
ペットが病気になったそうだ。
小さな身体のチワワちゃんだ。
チワワちゃんが下痢状態になって食事をしなくなりどんどん衰弱してしまい、獣医さんにかかったそうだ。
ペットの話になるとやっぱり診療費のことが頭が痛い。
しかし、だからと言って症状が出ているペットを放っておく飼い主はいないだろう。
そのお宅でも、初診料48、000円だと言っていた。
解る、我が家の猫も各種検診料、注射、投薬、等重なると40,000円位当然請求される。
だから、ペットの飼い主は最近ではペット保険に加入している。
チワワちゃんの飼い主さんも3,000円/月の保険料を払っていると言う。
我が家でも、31,000円/年の保険料を払っている。
これも、ペットの健康状態、大きさ(特に犬の場合は大型犬と小型犬では保険料が違う。)
年齢等によって保険料は違ってくる。
我が家では猫が10歳を迎える頃保険加入を考えた。
加入前の健康状態、持病などによっては加入できないからだ。
だから当然、保険会社が指定する動物病院で検査して加入が認められた。
それでも、診療費の50%とか70%の支払いを選んで保険料が決められる。
話は逸れるが、柴犬の牡を飼っていた方がまだ5歳だったので保険加入を延ばしていたところ
その犬に腫瘍が見つかって、診療費が80、000円強ということがあったらしい。
それでも、飼い主は治療をしたいと思うのだ。
結局、入院させるとか手術とかの治療は止めて、緊急の治療などだけにして、自宅で安心して
家族と過ごすことを選んで数か月後にその柴犬は亡くなった。
その飼い主さんはペット保険加入が遅かったかもと、少し悔やんでいたけれど、5歳くらいだとまだいいだろうと
思うのは仕方のないことだ。
その家族は現在ペットロス状態だと話していて、ワンコにはするだけのことはしたので、
次に迎えるワンコを探しているそうだ。
話を衰弱したチワワちゃんに戻すと、家の中で走り回って遊んでいたのに、全く動かなくなって
飼い主さんに甘えることもしなくなりぐったりしていたそうだ。
病院で10種混合の注射をして具合は快方に向かったそうだ。
その証が、いつもの飼い主の女性に甘えて、身体全体を使って、
「抱っこして!抱っこして!」
が戻った事だったと言う。
「抱っこ、抱っこ」
がひどくて、その女性が言うには、
「小鳥が肩に乗るようにずっと肩に乗っていて降りないの〜。もう大変。」
「解る解る、最近”おんぶ犬”っているじゃない?おんぶしてあげれば安心するかもね。」
と、私。
「おんぶ犬、おんぶ猫、みんな安心しきって可愛い」
いずれにしても、ペットと言えども子供と同じ、家族なのだ。
大型犬にも、小型犬にも躾けは必要だけれど、甘えてくれるのが嬉しいのも飼い主
の勝手なところなのだ。
元気な時の日常は何気ないことだけれど、ペットにとっても飼い主にとっても大事な大事なことなんだって、
感謝していないといけないんだと思った。
2020年02月10日
俺と私の全盛期。
車で移動中FM放送のラジオを聴いていた。
毎日の話題が変わる中で、リスナーからの体験を募集するという方法らしい。
その話題が「俺と私の全盛期」というものだった。
「へ〜、リスナーの方はどんな全盛期を発信してくるんだろう?」
と、耳をダンボにしていた。
(この表現、分からない世代の方もおられるかもしれないので、「耳を大きくして」と捉えて下さい。
「ダンボ」というアニメーション映画があったのです。)
それで、誰かの体験を聴きたいと思っていたのですが、生憎すぐには発表がなく、パーソナリティーの独り言が続いていた。
目的地に到着してしまって、その後のことは解らずじまいでしたが、この「俺と私の全盛期」
ということを自分に当てはめたら何だろうと考えてみたくなった。
「全盛期。」っていうことは過去のことであって、その人にはもう「全盛期。」は終ったと認める
ってことなのか?と意地悪く思ってしまった。
「今までの人生の中で一番嬉しかったこと」とか、「一番感動したこと」、あるいは「失敗しちゃったこと」
とか「モテていた時期」とかならエピソードとして聞いてみたいと思う。
でも、生きてれば、幾つになっても、
「もう、終わった!」
と、扉閉めてしまうなんて勿体ないと思うんですよね。
死の床について初めて、自分の人生振り返って、
「ああ、楽しかった。」とか、「いい人生だったな〜。」とか「これが人生というものなんだな。」
とか感じたいと思うのですが。
もっと単純に受け入れればいいじゃないかとも思うけど、私は思う。
「え〜、こんな歳になってこんなことが起こるの〜?!」
と、いうようなことがあるかもしれないと密かに楽しみにして生きていたいと思ってるんです。
それには、それなりの努力や行動があっての話だけれど、そう思っていると、ささやかなことにも文句言ったり
不平を呟いたりしないで、
「これを何とかして乗り越えよう、頑張ってみなくちゃ!」
とチャンスに切り替えられるかなとポジティブに行動できるように思う。
何にもご褒美は無かったとしても、自分の中で
「できた!」
の結果は自信と喜びとして感じることができる。
日々の、日常の生活の中に、そんなことはいくらでも転がっている。
「今日も、予定していたことを全てクリアーできた!満足〜!」
だけで、また明日の予定を計画できる。
究極の話として、人生の最期、ベッドに横たわって死を迎える時、
「あの時の事楽しかった〜!あそこへ行ったからあの人に会えた〜!あの人に会えたから
、そこからあそこへと続いてあんな経験ができた〜!一歩踏み出してよかった〜!」
などと、経験を振り返って自然と笑みが浮かんでくるような情景を想像したいと思っているのです。
それを想像するだけで、その時の為に思い出すコンテンツをいっぱい作ろうと思う。
だから、過去の「全盛期」で終わらないで、それを越える「全盛期」が来るかもしれないことの方が楽しみだと思っているんです。
歳を重ねる毎に、物事に対して多角的に幅を持って、深さも厚みも持ってゆったりと感じることができるようになる。
だから、「全盛期」の内容もどんな風に変わっていくのか想像してみる。
私が、FM放送に投稿するなら、
「いろんな年代に、素敵な出会い、経験は其々あったけど、終わっていません。
全盛期はまだまだ先に行ってから見極めたいと思っています。」
と、なるでしょう。
毎日の話題が変わる中で、リスナーからの体験を募集するという方法らしい。
その話題が「俺と私の全盛期」というものだった。
「へ〜、リスナーの方はどんな全盛期を発信してくるんだろう?」
と、耳をダンボにしていた。
(この表現、分からない世代の方もおられるかもしれないので、「耳を大きくして」と捉えて下さい。
「ダンボ」というアニメーション映画があったのです。)
それで、誰かの体験を聴きたいと思っていたのですが、生憎すぐには発表がなく、パーソナリティーの独り言が続いていた。
目的地に到着してしまって、その後のことは解らずじまいでしたが、この「俺と私の全盛期」
ということを自分に当てはめたら何だろうと考えてみたくなった。
「全盛期。」っていうことは過去のことであって、その人にはもう「全盛期。」は終ったと認める
ってことなのか?と意地悪く思ってしまった。
「今までの人生の中で一番嬉しかったこと」とか、「一番感動したこと」、あるいは「失敗しちゃったこと」
とか「モテていた時期」とかならエピソードとして聞いてみたいと思う。
でも、生きてれば、幾つになっても、
「もう、終わった!」
と、扉閉めてしまうなんて勿体ないと思うんですよね。
死の床について初めて、自分の人生振り返って、
「ああ、楽しかった。」とか、「いい人生だったな〜。」とか「これが人生というものなんだな。」
とか感じたいと思うのですが。
もっと単純に受け入れればいいじゃないかとも思うけど、私は思う。
「え〜、こんな歳になってこんなことが起こるの〜?!」
と、いうようなことがあるかもしれないと密かに楽しみにして生きていたいと思ってるんです。
それには、それなりの努力や行動があっての話だけれど、そう思っていると、ささやかなことにも文句言ったり
不平を呟いたりしないで、
「これを何とかして乗り越えよう、頑張ってみなくちゃ!」
とチャンスに切り替えられるかなとポジティブに行動できるように思う。
何にもご褒美は無かったとしても、自分の中で
「できた!」
の結果は自信と喜びとして感じることができる。
日々の、日常の生活の中に、そんなことはいくらでも転がっている。
「今日も、予定していたことを全てクリアーできた!満足〜!」
だけで、また明日の予定を計画できる。
究極の話として、人生の最期、ベッドに横たわって死を迎える時、
「あの時の事楽しかった〜!あそこへ行ったからあの人に会えた〜!あの人に会えたから
、そこからあそこへと続いてあんな経験ができた〜!一歩踏み出してよかった〜!」
などと、経験を振り返って自然と笑みが浮かんでくるような情景を想像したいと思っているのです。
それを想像するだけで、その時の為に思い出すコンテンツをいっぱい作ろうと思う。
だから、過去の「全盛期」で終わらないで、それを越える「全盛期」が来るかもしれないことの方が楽しみだと思っているんです。
歳を重ねる毎に、物事に対して多角的に幅を持って、深さも厚みも持ってゆったりと感じることができるようになる。
だから、「全盛期」の内容もどんな風に変わっていくのか想像してみる。
私が、FM放送に投稿するなら、
「いろんな年代に、素敵な出会い、経験は其々あったけど、終わっていません。
全盛期はまだまだ先に行ってから見極めたいと思っています。」
と、なるでしょう。