2017年01月22日
≪大相撲 稀勢の里≫ 男泣きの初優勝!大関昇進後31場所は史上最遅・・待ちに待った勝利・・
長く苦しい時を経て、大関・稀勢の里(30=田子ノ浦部屋)が涙の初優勝を飾った。
単独トップで迎えた平幕・逸ノ城(23=湊部屋)との一戦を寄り切りで退けて13勝1敗とすると、ただ一人の2敗だった横綱・白鵬(31=宮城野部屋)が貴ノ岩(26=貴乃花部屋)に敗れ、千秋楽を待たずに初優勝が決まった。
新入幕から73場所目での初優勝は史上2番目の遅さで、大関在位31場所での初優勝は昭和以降最も遅い記録。
2横綱1大関が休場する中で先場所の12勝に続いて結果を出し、場所後の第72代横綱昇進も濃厚となった。
優勝決定の瞬間は支度部屋の上がり座敷でテレビに背を向けていた。帰り支度で足袋をはいていた時、付け人から「横綱が負けました」と知らされた。
報道陣の方を振り返った時には目は真っ赤。これまで支えてきてくれた人について尋ねられると「本当に感謝しかない」と答え、直後に右目から一筋の涙がこぼれた。あまり感情を表に出さない大関に、さまざまな思いがこみ上げてきた。
04年九州場所、史上2位の18歳3カ月の若さで新入幕を果たした。入門時の師匠だった鳴戸親方(元横綱・隆の里)の厳しい指導で、順調に番付を上げた。
その師匠は11年11月に急逝。「あれだけ稽古をやることで学ぶこともあったし、人間としても成長できた。いい教育を受けた」と今でも感謝の気持ちは忘れない。強く意識していたのは「自分を信じてやること」という言葉。
幾度となく優勝争いを繰り広げながら白鵬らの壁にはね返され、優勝に準ずる成績は12回。「相撲を楽しいと思ったことはない」というが、自分を信じられたからこそ耐えられた。
「おしん横綱」と呼ばれた亡き師匠は、新入幕から45場所目の29歳11カ月で初優勝を飾った。自らを「晩成」と捉える大関は、隆の里よりも耐え抜き賜杯にたどり着いた。
素直に「うれしい」という言葉が出て、ここまでの道のりについては「長かった?そうですね」と答えた。やってきたことは間違いではなかった。
ライバルの活躍も転機となった。昨年初場所では琴奨菊が日本出身力士で10年ぶりの優勝を果たした。
同じ大関に初優勝で先を越され「言いたいことは山ほどある。胸にしまって頑張ります」と唇をかんだ。この後から勝利への執着が強くなった。
続く春場所では珍しく立ち合いの変化で琴奨菊を破るなど13勝を挙げた。「自分でどうにかするしかない」。秋場所では豪栄道が全勝優勝を果たしたが、安定感は稀勢の里が一番で、69勝で年間最多勝に輝いた。
その実績が落ち着きを呼び、逸ノ城戦も突っ張ってから冷静に右を差し、優勝へとつなげた。
初優勝を果たし、横綱昇進は濃厚といえる状況だ。番付編成を預かる審判部は千秋楽に横綱昇進について議論する見通し。
周囲を納得させるためにも、千秋楽の白鵬戦は重要になる。15日制定着後の1949年(昭24)夏場所以降、横綱昇進直前場所で対戦した横綱から勝利を挙げられなかったのは26人中、北の湖ただ一人だ。
「また明日、しっかり締めて(優勝を)味わいたい」。3代目若乃花以来19年ぶりの和製横綱誕生に花を添えるため、最強横綱も突破すると意気込む。
◆稀勢の里 寛(きせのさと・ゆたか)本名・萩原寛。
1986年(昭61)7月3日生まれ、茨城県牛久市出身。小3から中学まで野球少年。
茨城・長山中時代はエースで4番だった。
中学卒業前に鳴戸部屋に入門し、02年春場所初土俵。
17歳9カ月での十両昇進と18歳3カ月での幕内昇進は貴花田(元横綱・貴乃花、現貴乃花親方)に次ぐ歴代2位の年少記録。
大関昇進は所要42場所で史上5位のスロー出世。
新入幕時に改名したしこ名は故鳴戸親方(元横綱・隆の里)が「稀(まれ)なる勢いをつくってほしい」と名付けた。
家族は両親と姉。
単独トップで迎えた平幕・逸ノ城(23=湊部屋)との一戦を寄り切りで退けて13勝1敗とすると、ただ一人の2敗だった横綱・白鵬(31=宮城野部屋)が貴ノ岩(26=貴乃花部屋)に敗れ、千秋楽を待たずに初優勝が決まった。
新入幕から73場所目での初優勝は史上2番目の遅さで、大関在位31場所での初優勝は昭和以降最も遅い記録。
2横綱1大関が休場する中で先場所の12勝に続いて結果を出し、場所後の第72代横綱昇進も濃厚となった。
優勝決定の瞬間は支度部屋の上がり座敷でテレビに背を向けていた。帰り支度で足袋をはいていた時、付け人から「横綱が負けました」と知らされた。
報道陣の方を振り返った時には目は真っ赤。これまで支えてきてくれた人について尋ねられると「本当に感謝しかない」と答え、直後に右目から一筋の涙がこぼれた。あまり感情を表に出さない大関に、さまざまな思いがこみ上げてきた。
04年九州場所、史上2位の18歳3カ月の若さで新入幕を果たした。入門時の師匠だった鳴戸親方(元横綱・隆の里)の厳しい指導で、順調に番付を上げた。
その師匠は11年11月に急逝。「あれだけ稽古をやることで学ぶこともあったし、人間としても成長できた。いい教育を受けた」と今でも感謝の気持ちは忘れない。強く意識していたのは「自分を信じてやること」という言葉。
幾度となく優勝争いを繰り広げながら白鵬らの壁にはね返され、優勝に準ずる成績は12回。「相撲を楽しいと思ったことはない」というが、自分を信じられたからこそ耐えられた。
「おしん横綱」と呼ばれた亡き師匠は、新入幕から45場所目の29歳11カ月で初優勝を飾った。自らを「晩成」と捉える大関は、隆の里よりも耐え抜き賜杯にたどり着いた。
素直に「うれしい」という言葉が出て、ここまでの道のりについては「長かった?そうですね」と答えた。やってきたことは間違いではなかった。
ライバルの活躍も転機となった。昨年初場所では琴奨菊が日本出身力士で10年ぶりの優勝を果たした。
同じ大関に初優勝で先を越され「言いたいことは山ほどある。胸にしまって頑張ります」と唇をかんだ。この後から勝利への執着が強くなった。
続く春場所では珍しく立ち合いの変化で琴奨菊を破るなど13勝を挙げた。「自分でどうにかするしかない」。秋場所では豪栄道が全勝優勝を果たしたが、安定感は稀勢の里が一番で、69勝で年間最多勝に輝いた。
その実績が落ち着きを呼び、逸ノ城戦も突っ張ってから冷静に右を差し、優勝へとつなげた。
初優勝を果たし、横綱昇進は濃厚といえる状況だ。番付編成を預かる審判部は千秋楽に横綱昇進について議論する見通し。
周囲を納得させるためにも、千秋楽の白鵬戦は重要になる。15日制定着後の1949年(昭24)夏場所以降、横綱昇進直前場所で対戦した横綱から勝利を挙げられなかったのは26人中、北の湖ただ一人だ。
「また明日、しっかり締めて(優勝を)味わいたい」。3代目若乃花以来19年ぶりの和製横綱誕生に花を添えるため、最強横綱も突破すると意気込む。
◆稀勢の里 寛(きせのさと・ゆたか)本名・萩原寛。
1986年(昭61)7月3日生まれ、茨城県牛久市出身。小3から中学まで野球少年。
茨城・長山中時代はエースで4番だった。
中学卒業前に鳴戸部屋に入門し、02年春場所初土俵。
17歳9カ月での十両昇進と18歳3カ月での幕内昇進は貴花田(元横綱・貴乃花、現貴乃花親方)に次ぐ歴代2位の年少記録。
大関昇進は所要42場所で史上5位のスロー出世。
新入幕時に改名したしこ名は故鳴戸親方(元横綱・隆の里)が「稀(まれ)なる勢いをつくってほしい」と名付けた。
家族は両親と姉。
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