2019年03月14日
ロベルト・バルボン86歳 日本でチコさんと呼ばれるキューバ人
ロベルト・バルボンはその陽気さで、日本でたくさんの友人たちを得た。
Granma、2019年3月14日、Sigfredo Barros Segrera記者
キューバ人ロベルト・バルボンは1955年に日本にやって来た。2年間滞在するつもりだったが、そのままずっと残ることになった。以下は彼の物語である
日本は今のような世界第三の経済大国ではなかった。1955年、日本はそれからほど遠い存在であり、第二次世界大戦で敗北してから10年しかたっておらず、1952年4月28日までは米軍支配下にあった。
その日本にキューバ人ロベルト・バルボンは1955年2月に渡航した。それまで米ニューヨークのホーネルでドジャース傘下のCクラスでプレーし、その後カリフォルニアのベーカーズフィールドに移った。ドジャース首脳部は彼を米国南部の人種差別地域テネシーに送ろうとした。彼はキューバに戻る寸前までいったが、日本のチーム阪急ブレーブス(現・オリックス・バッファローズ)との契約が舞い込んできた。
日本への旅はとにかく大変だった。現在のように飛行機は飛んでおらず、キューバ青年バルボン(1933年3月13日マタンサス生まれ)はシカゴを出発し、その後カリフォルニアからハワイに向かい、そこからミッドウエストを経由して、東京に着いた。合計3日間の旅だったが、さらにそこから汽車で10時間かけて大阪にいかなければならなかった。
驚くことはまだあった。バルボンはハワイで黒いTシャツを買っていた。日本の気候は暖かいと思っていたからだ。しかし高知の練習場でチームの同僚選手たちが雪が降るなかトレーニングをしている姿を見て、ほとんど心臓が止まるほどびっくりした。寒すぎる、と彼は思った。
もしこのことが唯一の困難であったなら、マタンサス出身の野球選手バルボンはもっと早く順応していただろう。しかし順応するにはさらに長くかかった。それは、ひじょうに重要でかつ難しい要因のためだった。とても複雑な日本語のためである。使いこなすのに数年かかった。次に食事、これはこれまで習慣としていたものとまったく似ておらず、また睡眠も床の上すぐのところに毛布のようなもの(布団)を敷いて寝る形であった。
チコさん
その快活で陽気な性格がバルボンの大きな力になった。少しずつ、一日一日、言葉も覚えていった。幸運なことに彼は英語をある程度わかっていたので、それが初期には役立った。バルボンは日本では「チコさん」という愛称で知られた。日本の人たちには彼の名前を発音するのがひじょうに難しかったためである。
日々あまりの寒さから身を暖めるためにバルボンは、日本人が部屋近くに設置している石炭ストーブに触れていた。寝る時間になるとお湯をいれたビンを脚のあいだにはさみ、それで寝入ることができた。
トレーニングの時間にはまた別の困難さが生じた。その練習時間の長さである。「6〜7時間練習している。休憩は少しだけ。米国の練習はもっと短かった。練習が終わると、ホテルに行き、食事し、そのあと素振りをしなければならない。これに慣れるのが大変で、だからここで外国人選手に会ったら、いつも私は言うんだ。これに順応しなければプレーできないぞって。言われることをやらなければならない」、とバルボンは共同ニュース通信社とのインタビューで語った。
最初の数年間、彼にとって日本の投手陣は未知の存在だった。米国でのマイナーリーグ経験しかなかったからだ。キューバではプレーしていなかった。さらに悪いことに、当時は下手投げ投手がほとんどだった。西洋ではまったく知られていないスタイルである。バルボンは一度ならずスイングしたが、ボールは本塁にすら届かなかった。
これほど長い期間、いかにして彼があらゆる不便さを耐えることができたのか、すべては謎のままである。日本にいる外国人選手の大半は、あまりに異なる趣味や習慣を持つ国に慣れることができずに、数年間で自国に戻る。バルボンは11年間プレーした。これはいまだに驚きを生じさせる長さである。
おそらくその秘訣は彼の個人的規律にあるのかもしれない。仕事や勉学などでの厳しい義務の達成が高く評価される国で、バルボンはグラウンドでの献身の模範であり、つねに全力を尽くす用意ができていた。この厳しい日本的規律に耐えられなかった外国人野球選手は少なくない。日本では、言い訳は許されず、つねに最大のパフォーマンスが求められる。
風のように素早く
マタンサスのサトウキビ刈り労働者の貧しい家庭に12人兄弟のひとりとして生まれたバルボンは、すぐれた内野手であり、主に二塁付近、二塁手か遊撃手を担当した。強打者ではなかったが、走塁のスピードは当初から注目された。
デビュー1年目から3年連続で盗塁王になった。1955年49盗塁、1956年55盗塁、1957年33盗塁。1956年の55盗塁は外国人選手の最多記録としていまだ破られていない。当時22歳で、野球のキャリアはマイナーリーグのCクラスに限られていたバルボンだったが、デビュー1年目には163安打、三塁打13本を放った。阪急ブレーブスとの11年間で合計308盗塁を記録し、これは日本での外国人選手史上最多記録である。
また試合出場数1353試合は、外国人選手としてベネズエラ人アレックス・ラミレス(1744試合)に次ぐ史上2位であり、通算1000本安打達成は外国人選手初だった(引退時1123安打)。4666打数で打率.241、644得点、166二塁打、52三塁打、33本塁打を記録。パシフィックリーグのオールスターゲームに2回出場した。
あとからやってきた選手たち
日本リーグに2人目のキューバ選手が来るまでには10年間が過ぎねばならなかった。1965年に阪神タイガースにやって来たウンベルト・フェルナンデスは、大リーグでのキャリアを終えたあと、1年間だけ、遊撃手、二塁手、三塁手としてプレーした。
このあと、大リーグのパイレーツ、コルト45's(現アストロズ)、レッドソックスで9年間プレーしたロマン・メヒアスがやってきた。産経アトムズと1年だけ契約し、52打数で打率.288を記録した。
その6年後、広島東洋カープに2人のスター選手が加入した。シエゴ・デ・アビラ出身のトニー(アイティアーノ)ゴンサーレス外野手と、ハバナ出身のソイロ(ソーロ)ベルサジェス遊撃手である。アイティアーノはもっともすぐれたキューバ人中堅手の一人として評価されている選手であり、203試合で無失策、通算打率.287、史上最高レベルの強肩をほこった。
ベルサジェスは1965年に得点、二塁打、三塁打、長打、塁打数部門でトップに立ち、ラテン系選手としてはじめてMVPを獲得する栄誉を得ている。
この2選手が広島でなしえたことは多くはなかった。両選手ともすでにその輝かしいキャリアの終盤を迎えていたからである。
日本でプレーしたことのあるキューバ選手は非常に多岐にわたり、オジー・カンセコ、フアン・カルロス・ムニィス、ミチェル・アブレウ、バルバロ・セニィサレス、レスリー・アンダーソン、ユニエスキ・ベタンコート、フアン・ミゲル・ミランダといった選手たちの名前を含む。忘れてならないのはオマール・リナーレスで、2002年から2004年まで中日ドラゴンズに在籍し132試合に出場、打率.246、11本塁打、61打点を記録して現役に別れを告げた。2004年の日本シリーズでは打率.389、2本塁打と活躍した。
ロベルト・バルボンは昨日3月13日に86歳の誕生日を迎えた。そのうち64年間を日本で過ごし、家庭を築き、野球の通訳と先生として働き続けている。その彼の献身は日本での新世代のラテンアメリカ系選手たちに道を開いた。
86歳のバルボン、野球に取り組み続けている
Chico-San, el pionero
http://www.granma.cu/temas-beisboleros/2019-03-14/chico-san-el-pionero-14-03-2019-23-03-18
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