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2018年01月29日

テルマリー インタビュー 私の第一の愛は音楽 キューバの天才ラッパー

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テルマリー

Radio Rebelde、2018年1月29日、Alejandro Rojas記者

テルマリーはラッパー、ジャズ詩人、スポークン・ワード・アーティスト、ことばの魔術師、などと呼ばれる。それらすべてが彼女を定義している。彼女の体験や言葉の力に惹かれて信奉する大衆とコミュニケーションをとること、それが彼女の人生における使命だ。

彼女が天職に出会うのはそれほど簡単ではなかった。「実際わたしはいつも母のようなジャーナリストになりたかった。でも人生にはいろいろあって、適正試験で受からずに、そのことが私のすべてを変えた」

「レーニン学校で学んでいたけど、物理学は成績がもっとも良かった科目のひとつだった。言語は常に私の得意科目だった」

- 音楽に出会う以前・・・レーニン学校がきみの学校で、そこで過ごしていた人たちが何かを残していった。きみにとってはそんな感じ?

そうもちろん。私は実際に多くのことを残した。第一に経験。私は11歳から中学校のあいだ奨学金を受けていて、それからIPVCEのような機関に向けて出発するのは、なにか他人の目ですべてを見るような形になった。つまり人生が変わった。誰も自分をコントロールしていない。学校は自分で決断するよう、学ぶよう、責任を持つよう要求する。でももしある時期を選べと言われたら、私はトランポリンがあった4階を選ぶ。空っぽのダイビング用タンクを選ぶ。あの上にいるとすべてから脱出して真に生きるようだった。

- そしてようやく、音楽を発見した・・・

17歳の誕生日を迎えてから私は家を出ることに決めた。そのころまだ若いときに、節約とは部屋代のために貯金することだということを学んだ。そしてそれが私の本当の天職を探しに出たときでもあった。私は複数の音楽プロジェクトに関わっていた。ほとんど知らず知らずのうちにパーティーの主催者になろうとしていた。エレクトリック・ムーブメントに入れ込み、DJのジョイバンとともにその世界に入っていった。私は、それらのパーティーで観客が望んだものの温度計のようなものだった。

はじめて「音楽」を作ったときのことは覚えている。それは無意識だった。友人があるパーティーでメガネを失くして、よく見えずにうろうろしてキャビンに近づいたとき、私はマイクをとって音楽のリズムで言い始めた。「メガネを返してください。メガネを返してください。」、するとまわりの人たちもコーラスし始めた。私は、これは本当のことなんです、と説明しなければならなかったけど、このとき人びととコミュニケーションする確かな力を持ったと気づいて、そのことに気分が良かった。

そのあと、DJのレステルがこのグループに入ってきた。彼はファンク、ソウル、ラップをクロスオーバーしていた。しばらくあとで私はプロジェクトを始めた。それが私の音楽における実際はじめてのものだった。

- そのプロジェクトはフリー・ホールズ・ネグロス。なぜその名前を?

そのころ私はDJのレステルの家にあった部屋を借りていたの。彼がつくっていたテーマのためのアイデアをわたしたちが出し始めたとき、優秀な料理人である彼のママが黒豆料理(フリホーレス・ネグロス)を用意していた。そのとき誰かが言ったの。グループ名をフリホーレス・ネグロスにしないかって。私は英語流に言ってみた、自由のフリー、穴のホール。すると英語のほうが良い。「黒い穴のなかの自由」というふうに聞こえる。エネルギーがわいてきて、そうやってプロジェクトが生まれた。つまりそうやってプロジェクトに名前を付けたの。

- でもそのあとインテラクティボがやってきた・・・

実際は同時だった。フリー・ホールズ・ネグロスにいたときロベルトが私とレステルを呼んだの。グループをつくるためにね。その最初の顔合わせで「ノ・モア」という歌ができて、そこからこのプロジェクトが始まったの。私はより多くの責任を負った。私はすでにフリー・ホールズ・ネグロスでラッパーの一人であり、女性で、プロジェクトのリーダーだったけど、インテラクティボではほかに誰もラッパーはおらず、私がそのムーブメントを代表するラッパーであり、ミュージシャンのなかではもっとも年長だった。

- そしてきみの最初のアルバムが出る・・・

私のファースト・アルバム「ディアリオ」は大いなる愛を持って作った。私の最初の赤ちゃんよ。はじめ10曲の予定が15曲になった。すべてとてもよく覚えている。これでクーバディスコの賞を獲得したんだから。ほかの賞もとったけどクーバディスコはとても印象深い。というのはそのときまでラップのカテゴリーは存在してなくて、私が大会に登録したとき参加しようとしていたカテゴリーはフュージョンだったけど私のアルバムはフュージョンじゃなかった。それで新しいカテゴリーがつくられたの。

- アーティスト同士はとても簡単に恋に落ちやすいという神話がある。。。このテーマについてきみの認識は?

私はほかのアーティストと同居するのは難しいと思う。恋をするのはとても簡単だけど、それを維持するのは難しい。なぜならふたりの何らかのエゴがぶつかり始めるから。

それに私は良い主婦ではないということもある。男はみんな女性が家にいることを必要とすると私は思う。私は愛のためにそれをやろうとしたけど、それを偽ってやっていたけど、遅かれ早かれ、疲れてしまった。私は私のあるがままに私の情熱に忠実に生きなければならない。

一方、アーティストではない人と関係を持つ場合は、その人がとても特別な人じゃないといけない。私が彼のことを愛す以上に、彼が私のことを愛している、というところまで。というのは、もっと大きな関係が存在するということを理解する人でなければならない。私の場合はそれが音楽。私の第一の愛は音楽。他のことはすべてその二の次。

- 愛について話しているけど、きみはファーストキスを覚えている?

私のファーストキスは・・・早い時期だったわよ、7年生のとき、11歳だった。私は保育園にも行かなかったので、お絵かきがうまく出来ない、粘土で遊べない、破れない。一年生から登校しはじめたとき、つねに私は教室でいちばん小さな女の子だった。

中学が始まるとき、私はサン・アントニオ・デ・ロス・バーニョスで奨学金を得た。そこで私より大きな男の子と、一年生の終わりに。それはとても素敵な恋の物語で、私はとてもよく覚えている。

- 特に記憶に残っている誰かのことを話すとしたら?

フアン・フォルメルのことを話そうかな。彼はあるインタビューで大きな光を私に与えてくれた。彼は私について話していて、私自身が気づいてなかった私の芸術の要素を教えてくれた。それでとても覚えているのは、そのとき彼は私のことを詩人だといってくれたの。それはつねにとても私の支えになった。とりわけ彼の歌「マリルー」の歴史にかかわることで。

私の母は若いころトロピカーナのダンサーで、クラシック・バレエを夢見ていた彼女はフォルメルに頼んだの。もっとゆっくりしたテーマを書いてくださいって。そこから母のソロが生まれる。そのずっとあとに、期待はせずにカバーさせてと頼んだら、私の好きにさせてくれて驚いたけど、それはとても大きな挑戦になった。

- テルマリー、きみは身体的のみならず精神的にとてもエネルギーがある人だ。それはどこからくるの?

そのエネルギーは母が私に与えてくれてるものだと思う。天国の母とコミュニケーションをとり続けている。母が若くして亡くなったとき、私は小さな女の子で、妹は9ヶ月だった。でも私を見守っていて、私を世話していることが心の奥深くで私はわかっている。母は私のやってきたことを誇りに思っていて、私はステージに上がるたびに母のことをとても感じるの。


Interactivo Marilu (Live @ Karl Marx, la Habana)

Telmary: Mi primer amor es la música
http://www.radiorebelde.cu/de-cuba-y-de-los-cubanos/telmary-mi-primer-amor-musica-20180129/
posted by vivacuba at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | cuba
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