2021年10月22日
私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて
本書は余が宮崎縣の委囑によりて編纂せる日向國史の古代史に關する部分を別冊とせるものなり。
日向の古代史は實に我が日本帝國の建國史として、叉日本民族の發達史として、關渉する所頗る多く、一般地方史を以て目すべかざるものあり。
されば余の該書を編纂するや、特に重きを其の古代史の部に置き、親しく實地を踏査して之を遺物遺蹟に徴し、更に之を廣く傍例に求めて、其の沿革する所を明にせんことを務めたり。
かくて其の成果は、貧弱ながらも余が日本古代史に關する、抱負と研究との一斑を披瀝し得たるを信ず。
余多年京都及び東北兩帝國大學に於て日本古代史を講義し、同好者の之に關する著書を公にせんことを慫慂する者頗る多し。
而も余が研究未だ完からず、余をして自ら滿足せしむるの域に達せず、心ならずも之に背くや久し。
今次日向國史を公にするに當り、縣の諒解を得て特に其の古代史の部を分冊發行せしむるものは、是によりて余が日本古代史に關する研究の一斑を學界に提示し、熱心なる同好者の希望に副はんが爲のみ。(著者識)
序
日向國史が喜田君によりて公表せらるるに方り、自分は最初より之に関係を有するを以て、同君の嘱に応じ、一言を寄せて其の来歴を叙べ、併せて序に代ふる所あらんとす。
回顧すれば、明治四十四年の三月と覚ゆ、自分が宮崎縣知事を拝命せる際、赴任に先立ち、参内して 天機並 御機嫌を奏伺したりしが、退出の際香川皇后宮大夫にも新任の挨拶をなせるに、同太夫は、其の時容を正して、「宮崎縣知事とあらば是非御聞き申したい事があります。それは霊峯と知られた高千穂の峯は高い山でありますか、低い山でありますか。」と、いとも熱心に問はれたり。
もとより突然のことなれば、其の場は、「赴任の後委曲を調査して何づれ申上げん。」とて、此の對話は簡単に打切りたるが、自分の心琴には一種の高鳴を覺えざるを得ざりき。
實は、皇祖発祥の聖地たる宮崎縣は、自分も一度任官したき希望を有せし處にして、曾って一木内務次官にまで其の旨を申出でたることありしに、このたび宿望を達し、將に任に赴かんとして心操の新なるに際し、場所は宮中、しかも純情その儘なる香川老大夫より、靈境に就いて話しかけられては、遠く~代に心の馳するを禁ぜざりしなり。
かかれば着任後常に念頭を去る能はず、聖迹その他史蹟に就き調査を進め、やがて縣史公刊の準備ともなさんとしたりしが、諸説紛々として明かならず、ここに於て十分に之を檢討し、的確たる典據を得ることは、同縣のまさに努むべき處にして、叉同縣が帝國並びに全國民に對する責務の一部なることを痛感し、是が事業の進捗を講ぜんとしたりき。
然るに、當時既に園山前知事時代に縣史編纂を企畫し、中村文學博士に囑して執筆せるもあり。
就いて之を熟讀するに、研鑽燕ラ其の勞效の頗る大なるものあり。
然れども唯往々獨自の見を加へたる處あるを以て、若し夫れ私人の著作なりせば、或は世の好評を博すべきも、公署の公刊物としては、學界の定説にして、信憑するに足るべきものをと望むや切なりき。
茲に於て是が改訂を圖り、之を我史學界の碩學喜田博士に委囑せしは大正二年の春なりしと記憶す。
爾来同君は鋭意材料の蒐集檢討に從事し、遠近實地踏査を試むること前後幾囘なるを知らず。
博引旁索大いに努め、之に加ふるに多數篤學同好の士の熱誠なる援助を得て、著しく進捗を期しつつありたり。
然るに、自分は大正四年八月同縣を去り、爾来本事業と關係を絶ちたりしも、是が竣成は心潜かに翹望して止まず。
常に間接に其の消息を傳承しつつ、公表の日を待つこと久しかりしが、其の大成せるを今次宮崎縣との交渉の結果、喜田君の手に依りて世に問はるることとなりたるを聞き、衷心欣快の念を禁ずる能はざるなり。
是れ自分は本書に對し、前述の因縁を有すると共に、本史が一般地方史と異なり、其の古代の記録は帝國の建國史にして、叉同時に我日本民族の發達史たるを想ふが故なり。
殊に斯學の權威喜田君が前後十數年攷覆討究餘薀なきを期せられたるは、學界の珍とする處なると共に、廣く一般に裨益する處も亦大なるべし。
仍て自分は茲に往年着手せる事業の完結せるを悦び、宮崎縣が終始克く其の完結に意を注ぎ、喜田君が其の他の援助者と共に之を大成せしめたる甚大なる勞效に對し、滿腔の敬意を表して遏まざるなり。
昭和四年晩秋
有吉忠一識
「日向國史」の編纂と發行とに就きて
大正二年余の日向に遊ぶや、當時の長官有吉忠一君、「宮崎縣史稿本」と題する一書を余に示して曰く、本書はかって縣に於て委員を命じ編纂せしものなり。
而もなほ再調を要するものありて、其の發行遅延し今日に及ぶ。
請ふ縣の爲に是に適當なる改訂を加へよと。
余もと有吉君と同窓の舊友たり。
拒否すべきにあらず。
當時余公私頗る多忙にして、多くの時日を之に割くは事情の許さざるものありしも、縣の希望する所は、單に机上朱を加ふるの程度を以て、よく其の需に應ずるに足るべきを豫想し、輕卒に之を承諾したり。
然るに受けて之を精讀し、之を實地に徴するに及びて、其の豫想の如くなる能はざることを發見せり。
何となれば、本稿は遠く明治三十三年より、三十八年に渉りて編纂せられたるものにして、爾来既に八年餘の歳月を經過し、編者が特に其の力を用ひられたりと思はるる古代の研究に關しては、爾後の學界の進歩頗る著しきものあるが上に、其の中世以後の事蹟に關しても、編者が其の完成を急ぎたりしが爲にや、時に材料の蒐集及び整理の上に於て不備の憾あるもの亦尠きにあらざるを感知したればなり。
されば余は更に之が研究を新にするの方針を執り、縣の諒解の下に、平安朝時代以前の部は余親ら是に當り、鎌倉時代以後の部は縣出身の文學士日高重孝君の執筆を煩はし、全部其の稿を新にして、大正七年三月に至り、漸く之が完成を見るに至れり。
然るに當時有吉知事既に他に榮轉し、後繼の當局者更に愼重なる審査を之に加へて、該書古代史の部が事往々~蹟に渉り、皇室及び國民の祖先に關するものありて、而も之を徴すべき文献乏しく、随って時に一己の私見に出づるもの少からざる嫌あり、之を個人の著として世に問はんは可ならんも、縣の出版として之を公にせんには、更に考慮すべきものあるべきことを指摘し、余に對して再考を求められたり。
然れども本書はもと既成縣史稿本編者の方針を尊重し、日本建國史として、叉日本民族史としての、日向國史の地位を闡明ならしむるの抱負を以て編纂したる物なれば、之を普通一般の地方史の體に改めんには、殆ど全部其の太古上古の部を改刪して、本史本來の趣意を没却するの結果とならざるを得ず。
是れ實に余に於て忍びざる所なりとす。
是が爲に荏苒時日を經過するうちに、不幸にして余が宿痾再發し、藥餌に親むこと歳餘、之に加ふるに家族其の他にも種々の故障續發して、爲に委囑に背くこと滿二年の久しきに及べり。
而も官廰の事徒に私事を以て遷延すべきにあらず。
乃ち其の後の學界の進歩に徴し、當局の憂慮せらるる所に鑑み、大要原書の體裁を存し、余が學術的良心の許す範圍に於て是が改訂を了し、大正十年三月に至りて再び之を縣に致したり。
而も其の後の縣當局者の更迭頻繁にして、親しく是が審査を爲すに遑あらざるの事情あり、荏苒發行を遷延すること更に七年の久しきに及べり。
昭和二年有吉實君本縣内務部長に任ぜらる。
君は實に余に本書の編纂を委囑せられたる有吉忠一君の令弟にして、余夙に親交あり。
乃ち之を機として本書の公表の實行を慫慂し、當時の長官古宇田晶君亦之に同意せられ、ここに漸く之が發行の計畫を見るに至り、後任の當局者之を踏襲して、今夏いよいよ之が印刷に着手せり。
然るに間もなく復當局者の更迭あり、現長官石田馨君任に赴かれて、更に愼重なる審査を之に加へられんとす。
是れ洵に用意周到なる縣當局として、當に然るべき所なれども、斯くては再び既往の經過を繰り返すの結果となる虞あるのみならず、既に印刷に着手して其の業著々進行し、今に於て根本的修正を之に加ふるの餘裕なし。
乃ち既定計畫の一部を變更し、縣の諒解を得て暫く余の名を以て之を公にすることとせり。
言ふまでもなく日向は~祖發祥の聖地として、其の古代史は實に我日本帝國の建設史、日本民族の成立史とも謂ふべく、普通の地方史を以て目すべからず。
縣史稿本の編者深くここに見る所あり。
主として重きを太古上古の史に置き、之を和漢古代の史籍に徴し、之を遺物遺蹟の實際に考へ、從來殆ど學界未拓の原野とも謂ふべかりし日向古代の事情につきて、闡明頗る努められたり。
而も其の論斷頗る鋭利にして、爲に當時の縣當局者をして、之が發行を躊躇せしめたるものなりきと解せらる。
而して余が日向國史亦其の方針を踏襲し、再び當局者をして危惧の念を生ぜしむるに至る。
顧みて忸怩たるものありと雖、事情洵に已む能はざりしなり。
余の本書編纂の事に當るや、努めて空論を避け、正確なる史料に基づいて是が推論を得んことを期せり。
而も日向は其の地南陬に僻在して、~祖發祥の聖地たるに拘らず、大和奠都後に於ける中央歴史との交渉極めて少く、随って特に其の古代の事蹟に關しては、僅に記紀の熊襲征伐に關する古傳説を収録するの外、文献上の史料絶無なりと謂ふも敢て誇大の言にあらず。
叉其の遺物遺蹟に關しても、從來學界の調査を經たるもの頗る少きの狀態にありき。
ここに於てか余は先づ以て是が考古學的考察を加ふるの必要を認め、親しく縣下に出張して實地を調査するの外、別に助力を本縣考古學者たる故三浦敏君に委囑せり。
かくて同君は從來有せられたる知識の上に、更に親しく西北兩諸縣郡及び薩隅二國の實地を踏査して、大いに余が研究の上に貢献すべく期待せられたりしが、不幸にして其の結果を報告するに及ばざる中に、病を獲て溘焉長逝せられたり。
是れ啻に同君の不幸たりしのみならず、本書に取りても亦一大不幸にして、本書完成期の遷延せる理由一は實にここにありき。
茲に於て余は更に屢々實地に臨み、故縣書記田村正一君、教育會書記若山甲藏君、京都帝國大學教務囑託梅原末治君等の援助を得、ともかくも其古代遺物遺蹟の概要に通曉することを得たり。
かくて其の貧弱なる知識の上に、更に幾多の考案を重ね、廣く之を傍例に求めて、尠からざる臆説を試み、漸くにして其の古代史に關する部分の稿を畢ふるを得たりしなり。
されば其の記する所、自から一の考證的史論集のごときものなり、所論往々一己の私見に出でて、未だ悉く學界の定説とのみ謂ふべからざるものなりきにあらず。
蓋し已むを得ざるに出づる所なりとはいへども、是が爲に屢々縣當局者の考慮を煩はして、久しく發行を遷延せしむるに至りしこと、洵に其の故なきにあらざるなり。
其の記述する所頗る既成縣史稿本と所見を異にするものあり、爲に該書編者の勞を空しうし、其の功を没するの嫌なきにあらずといへども、稿本記述の諸研究は、實は其の後編者が私著として公にせられたる日本開闢史に於て詳悉せられたれば、讀者若し是を知らんと欲せば、請ふ該書に就いて之を見られんことを。
鎌倉時代以後の史に就きては、余が監督の下に専ら日高文學士の執筆せるものなること既記の如し。
而して是が史料の供給と、研究の指導とに就きては、故東京帝國大學文科大學史料編纂官文學士藤田明君を煩はす所頗る多かりき。
然るに不幸にして同君亦業未だ央ならざるに卒去せられて、ここに進行上一頓挫を致せしが、日高文學士の熱心なる、周ねく史料を東京帝國大學圖書館、同史料編纂所、其の他諸方の秘庫に探り、特に藩制の事に關しては、大藏省所藏の藩制録の披閲を求め、博引旁策終によく其の業を卒ふるを得たり。
思ふに鎌倉時代以後の日向に關する史籍としては、日向記、延陵世鑑、日向纂記等、其の他の少許の俗書あるも、固より史學上の批判の下に於て、信據し難きもの少きにあらず。
ここに於て日高學士は、主として材料を正確なる古文書古記録に取り、傍ら島津家編纂の島津國史等に參照し、更に之を實地に徴して俗説の誤れるを正し、幾多の困難を排して其の事に當られたり。
かくて其の引用古文書以外は、煩を避けて多くは其の出典の記載を省略したりと雖、孰れも信憑すべき典據の下に之を記述せられたるは勿論なりとす。
されば同君執筆の部分に關しては、余は名義上其の監督の任にありきと雖、實は單に大體の方針を協定したるに止まるものにして、之に關する責任は余自ら之を負ふべきも、其の功績は擧げて同君に歸せざるべからず。
殊に本書の編纂がもと單に既成稿本を修正するの程度を以て成さるべしとの豫想の下に着手せられたりしものなれば、おのづから物質的には其の酬ゐらるる所極めて僅少なりしに拘らず、君が其のク國の事蹟を明にせんとの熱誠を以て終始事に當られ、終によく此の大編を了するに至られたることは、余の特に同君に對して感謝する所なりとす。
本書の成るや、其の着手より發行に至るまで、實に前後十七年の歳月を經過せり。
其の間縣長官の更迭せるもの十一名、縣吏員にして事に關與せられたる者其の數亦多かりしが、或は夙に職を他に轉じ、或は既に物故せられて、終始變らざりしものは縣屬深見和彦君ただ一人あるのみ。
深見君の熱心なる、常に余を獎勵し、余を慰撫し、陰に、陽に、本書の發行の爲めに盡力せられたる所甚多く、今日漸く是が發表を見るを得るに至りしもの、實に君が熱誠に負う所少からざるなり。
是れ亦ここに特記して甚深なる感謝の意を表す。
本書別に地圖及び冩眞等を収めたる附圖を添ふ。
而も發行の都合上、本年度に於ては先づ本文のみを公にし、附圖は追って更に印刷せんとす。
本書の脱稿すでに遠く大正七年の交にありて、爾後の學界の進歩頗る著しきものあり、新に發見せられたる遺物遺蹟亦少きにあらず。
随って今次其の發行に際して、多少の修正を加へたる所ありと雖、固より到底十分なる能はず、遺憾頗る多しと雖、今に於ては之を如何ともするを得ざるなり。
されば其の誤謬及び遺漏は、出來得る限り該附圖發行の際、其の附録として訂正摯竄試みんと欲す。
讀者若し是等の諸點につきて心付き給ふ所あらんには、謂ふ猶豫なく教示を賜はらんことを。
至囑至囑。
昭和四年十二月
文學博士 喜田貞吉識
日向國史 上
第一編 太古史
第一章 國土の發生に關する古傳説
日向の國名
日向は九州島の東南隅にありて、西と北とに山を負ひ、東と南とは海に臨み、直ちに日の出づる方に向ふ。故に日向の名ありと稱せらるる。
筑紫島の産成
傳へ言ふ。太古伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神、此の漂へる國を修理固(つくりかため)成(な)せとの天神(あまつかみ)の命を奉じて、高天原より降り、我が大八洲(おおやしま)の諸島を生み給ふ。
中に筑紫島(つくしのしま)あり。
筑紫島は即ち九州島なり。
此の島身一つにして面四つあり。
筑紫國を白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊國(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を速日別(はやひわけ)と謂ひ、日向國を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)と謂ひ、熊襲國を建日別(たけひわけ)と謂ふと。
或は言ふ。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)と謂ひ、熊曾國を建日別と謂ふと。是れ我が日向の名の古書に見ゆる初なり。
日向の名に關する故事
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。
筑紫四面の疑問
筑紫四面の事は古事記及び舊事本紀に見ゆ。
古事記諸本異同あり。
所謂筑紫等の四面を解して、前記の如く、或は筑紫、豊、肥、日向、熊襲の五國となすものあり。
未だ其の是非を詳にせず。
而も四面にして五國ありと謂ふは、其の孰れかに於て誤謬あるを承認せざるべからず。
ここに於てか本居宣長は、古訓古事記を著はして四國説を採用し、平田篤胤は五國説に従ひて、古史成文に「面五つ」と改めたり。
古訓本の四國説によれば、日向の北部半國ばかりは、もとは肥の國の中なりしを、やや後に分れて一國となれるなりと解し、其の南半を以て大隅及び薩摩と共に、もと熊襲の一部を成したりとするものの如し。
然れども、肥前、肥後と共に、日向の北部を通じて筑紫島の一面とせんは、もとより地理の實際に副はざるなり。
又古史成文の五國説に従ふも、日向の南半と薩、隅二國とを以て熊襲國となし、後の日向の北半のみを以て、日向の一國なりきと解するなり。
而も日向を二分することの、地理自然の状態に副はざるは前説と同一なるのみならず、古へ熊襲族居住の地と傳へられたりし境域が、必ずしも後の日向南部以南に限られざることに於て、此の兩説ともに妥當なりと謂ふべからず。
固より國土産成の事如きは、其の説幽玄にして、強ひて人事を以て論ずるを要せず。
ただ古事記が成りし奈良朝初に於て、我等の先祖が語部(かたりべ)の傳へによりて、なほ斯くの如きの説を有したりしを信ずるを以て満足せんのみ。
隼人族と熊襲國
今奈良朝初期の形勢を按ずるに、大隅、薩摩の両國地方には、當時異族として認められたりし隼人族ここに占據したるの事實あり。
養老年中に薩摩、大隅二國の隼人亂を為し、皇軍の大征討を要するに至れるなり。
後人或は此の際の叛亂を以て、日向、大隅二國の隼人の所為なりきと云ひ、當時なほ我が日向にも、隼人族として認められたりし民族の住居せしことを傳へたり。
更に遡りては景行天皇及び日本武尊の熊襲御征討が、主として日向の域内に於て行はれたりしが如く傳へらるるあり。
されば其の日向の域を以て、大隅、薩摩と共に嘗って異民族占據の堺なりとし、隼人即ち熊襲なりとの見解のもとに、之を以て熊襲國と稱したりとなさんは、頗る其の理由あるに似たり。
日向は筑紫の四面の一
而も又一方より之を觀れば、日向は其の域山によりて他の地方と隔離し、殊に古く神祖發祥、天孫降臨の傳説を有する地方なれば、之を以て異族熊襲の國なりと謂はんは、妥當ならざるの感なき能わず。
況や日向國の名は古くより存し、歴史時代に於て現實に隼人族の占據せし薩、隅二國は、却って行政上漠然と其の域内に含まれたりしの事實すらあるをや。
筑紫島内の諸國の一として、日向の名は到底之を逸すべからざるなり。
而も我が古傳説は、明かに我が南陬に於て太古異族占據の國ありし事を傳ふるなり。
ここに於て奈良朝初の人士、所謂大八洲國(おおやしまぐに)の島々を數ふるに當り、九州島に於て熟知の筑紫、豊、肥、日向の四國ありとし、其の四國以外に、別に漠然と古傳説によりて、此の異族の國の存在を認めんは、亦其の理由なきにあらず。
大八洲の説
元來大八洲國とは群島國の義にして、必ずしも八個の大島ありとのみ、狭義に解釋すべきにあらず。
「や」は數の多きを謂ふなり。
然るに奈良朝初の人士此の義に暗く、「や」の假字として用ひられたる「八」なる文字の意義に泥みて、強ひて著名なる八島を數へんとせしが為に、遂には日本紀の本文及び其の引用せる多數の一書に見るが如く、種々雜多の異りたる説を生ずるに至りしなり。
古事記には、淡路、四國、隠岐、九州、壹岐,對馬、佐渡及び本州の八大島を、大八洲と數へて、吉備兒島(きびのこじま)、小豆島(あづきのしま)、大島、女島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、及び兩兒島(ふたごじま)を、其の以外に置き、又日本紀本文には、本州、四國、九州、隠岐、佐渡、越洲(こしのしま)、大洲(おほしま)及び吉備子洲(きびのこじま)を以て大八洲と數へ、淡路を別に置き、其の以外の對馬、壹岐、並びに諸々の小島は、諾冉二尊の生み給へるにはあらずして、潮沫(しほのあわ)の自然に凝りて成れるものなりとなせるが如き、皆此の思想に基づけるなり。
其の他、日本紀引用の多數の一書、又それぞれに大八洲の島々に就きて、異なりたる數へ方を爲せるなり。
斯くの如きは畢竟數多の島嶼の中より、特に八個の大島を擇ばんとせし結果にして、固より是れ古意にあらず。
本來の古傳説には、必ずしも八個の大島とのみは限らず、我が群島悉く大八洲の中なりしものなるべし。
されば蝦夷の國を之に數ふるも可なり。
熊襲の國
熊襲の國を之に數ふるも亦不可なきなり。
論者或は謂はん、熊襲國は筑紫島以外別に島を成すにあらず、之を一島と數ふべきにあらずと。
復謂はん、熊襲は古事記之を特に國といひ、島とはいはざるを如何にと、然れども古代都人士の僻遠の地理に暗き、必ずしも其の實地を踏査せしにあらねば、深く是が言辭の末に拘泥すべきにあらず。
彼の越洲(こしのしま)の如き、名義は越(こし)人即ちアイヌ族占據の地の謂にして、漠然と今の北陸兩羽地方を指せしものなるべく、固より本州の一部にして、別に一島を成すにあらずと雖、而も其の地がもと越人(こしびと)占據の地方として、自ら別個の國の如く考へられたりしかば、之を特に越ノ洲として、日本紀には大八洲の一にしも數ふるなり。
而して熊襲の場合亦之を以て類推すべからずや。
尚言はば、當時薩南海中にも島嶼の存在することは、之を熟知したるべければ、之を以て熊襲占據の島と想像し、之を別個に數ふること、亦これなしと謂ふべからず。
其の之を國と云ひて島と謂はざるは、上に筑紫四國の名を擧げたるによりて紛れたるものか、或は熊襲征討の古傳説によりて、熊襲國の名人口に膾炙せしより生ぜし誤りならんも知るべからず。
舊事本紀の筑紫四面に關する記事
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。
舊事本紀の價値
元來舊事本記は僞書として、従來多くの學者の排斥する所なれども、そは本書を以て聖徳太子御撰の書なりと稱するが為にして、其の記事の内容、必ずしも悉く捨つべきもののみにあらず。
本書はもと日本紀、古事記、其の他の古書の章句を抄録して、編を成せるものなれば、中には重複もあり、矛盾もあり、一編の著書として整備せるものにはあらず。
随って其の記事が抄録せられたる原書以上に、史料としての價値なきは勿論なれども、而も編次は少なくも平安朝當時にして、恐らくは延喜以前にありきと認めらるるほどの古書なれば、中には其の抄録せられたる原本の、全く後世に失はれてもはや見るべからざるもの少なからず。
又其の存するものと雖、本書によりて後に傳冩の失より生じたる魯魚焉馬の誤謬を訂正すべきものなきにあらず。
而して此の熊襲國の記事の如き、亦實に其の一例とすべきに似たり。
即ち當初の古事記は、舊事本紀之を轉載するが如く、漠然九州東南部の地方を日向の域とし、筑紫筑前筑後、豊豊前豊後、肥肥前肥後、の三國とともに之を筑紫四國と數へ、別に熊襲島を其の次に置きしものにして、所謂大八洲中にはもと佐渡を脱せしものにてはあらざりしか。
されど日本紀編纂せられて、此の書世間に流布し、景行天皇西征の際の熊襲の位置が、日向の南部に當るが如く世人に解せらるるに至りてより、後には日向を以て熊襲國と同一視し、遂に此の誤謬を生ずるに至りしにてもあるべし。
今古事記の諸本を取りて之を閲するに、本居宣長古訓古事記に於て、筑紫四面に日向國を除くの説を採りてより、世人多く是に見慣れたれども、寛永の版本、渡會延佳の〇頭古事記を始めとして、元々集所引古事記等、皆日向を四面の一に數へ、其の説もと一般に行はれたりしを知る。
然るに古事記傳には、
と云ひて、上の「面四つ」といふことに重きを置き、又舊事本紀の記事を引きて、
とて、甚しき臆説をさへ加へたり。
されど熊襲を舊事紀の如く筑紫四面の外に置かんには、面四つといふに何等の支障を生ずべからず。
況や肥の國の別名を建日向日豊久士比泥別としては、此の名のみ特に長くて、他と權衡を失するのみならず、一方には日向の名を東方に向ふの義と解しながら、主として西海に面する肥の國の別名に、日向日の語あることも如何と思はれ、又西肥の域より九州脊梁山脈を越えて、遠く東海岸にまで渉り、之を通じて肥國として、筑紫四面の一に置かんこと、地理上到底首肯すべからざるあるをや。
本居氏の説蓋し千慮の一失なるべし。
熊襲國の位置に關する思想
熊襲のことは後に詳説すべきも、もと是れ或る民族の名稱にして、定まりたる一國の名にあらず。
又日本紀の傳ふる所によるも、其の域必ずしも日向、大隅、薩摩の地方と一致すべきにあらざるなり。
仲哀天皇朝の熊襲征討が、筑前香椎宮を根據として行はれ、其の陣中賊矢に當り給へりと言はるる同天皇が、痛身(いたづき)の翌日香椎宮にて崩じ給ひきと傳へらるるが如き、又其の後神功皇后神教のままに、吉備臣の祖鴨別を遣して討たしめ給ひし熊襲國が、浹辰(しばらく)を経ずして自ら服せりと稱せらるるが如き、又皇后自ら兵を用ひ給ひし範圍が、筑前、筑後の外に出でたりとは見えざるが如き、偶々(たまたま)以て古への熊襲の國が、筑前香椎を距る甚だしく遠からざりし地方にも存したりと信ぜられたりし證とすべし。
されば日隅薩地方と熊襲とを一國とし、之を以て筑紫四面の一とせんは、之を孰れの方面より論ずるも到底容るべきにあらざるなり。
古事記に所謂熊襲國は、實は古傳説に存する異族熊襲占據の國を、漠然と然か呼稱せるものにして、天孫降臨三代神都の地と信ぜられたる日向國と同視すべきにあらざるなり。
後に隼人の國として認められたる薩、隅二國が、行政上漠然日向の域内に編入せられたりしは當時の地方に於ける異民族が多く夙に邦人に同化し、是と融合して其の蹟を邦人中に没せし後の事にして、なほ平安朝に於て本州北端の蝦夷の國が、漠然陸奥、出羽の中なりと認められたりしと同一の現象なりとすべし。
されば此の形勢を以て、必ずしも太古の傳説を律すべきにあらず。
奥羽の南部も嘗ては蝦夷の國たり。更に遡りては關東地方も、又其の西の地方も、同じく蝦夷の國たりし時代のありしことを考へ合すべきなり。
豊久士比泥別の名と日向
更に思ふに「豊久士比泥別(とよくしひねわけ)」の名、既に日向に縁故あるが如し。
「豊」は美稱にして「別」は男子の別稱なれば、暫く其の名より之を除き、其の中間なる「久士比泥」の語に就いて考ふるに、其の音蓋しクシフル、又はクシヒといふに近し。
天孫降臨の地を日向の高千穂の久士布流(くしふる)の嶽といひ、或は槵日(くしひ)の高千穂の峰と云ふ。
國音往々良好と奈良と相轉ず。
日本紀に武夷鳥(たけひなとり)命とある神を、古事記に武比良鳥(たけひらとり)命と云ひ、越前の角賀(つぬが)を後世ツルガ(敦賀)と呼び當國財部(たからべ)を後にタカナベ(高鍋)と稱し、周防の束荷(つかに)をツカリと呼び、信濃の小谷(おだに)をヲダリといひ、近江の男鬼(ををに)をヲヲリと讀み、又「稲荷」と書きてイナリと訓ずるの類皆是なり。クシヒネとクシフルと、其の語源を一にすと解する、其の理由なしと謂ふべからず。
而して其のクシヒと謂ふは、或は其の末音を略したるものにてもあるべきか。
果して然らば、豊久士比泥別の名を以て、肥國の別名なりとせんよりは、之を日向の別名なりとするを當れりとせん。
此の事亦以て、筑紫四国を筑、豊、肥、日の四国となす古傳説の傍證となすべからんか。
而もなほ疑ひなきにあらず。
試みに記して後の考を俟たん。
若し夫れ熊襲の事、並びに其の隼人との關係に就きては、更に第二編第三章景行天皇西征の條以下の諸章に詳説すべし。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現
黄泉國
伊弉諾、伊弉冉の二尊は、大八洲國を始めとして、多くの神々を生み給ひしが、最後に火の神なる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生み給ふ事によりて、伊弉冉尊火傷して崩じ給ひ、黄泉國(よもつぐに)に入り給ひき。
黄泉國は即ち根國(ねのくに)なり。
伊弉諾尊之を悲しみ給ひ、追ひて其の國に到り給ひしに、伊弉冉尊の御肉體腐爛して、極めてあさましき御態(おんさま)にてましまししかば、見畏(みかしこ)みて逃れ還り給ふ。
乃ち黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引の石を引さ塞へ給ひ、是より我が現國(うつしぐに)と、黄泉國との交通は絶へたりといふ。
其の所謂黄泉比良坂は、出雲國の伊賦夜坂(いふやさか)なりと古事記に見ゆ。
今同國八束郡に揖屋村(いやむら)あり、延喜式内に揖夜(いふや)神社あり。
蓋し其の古傳説地の名を傳ふるなり。
伊弉諾尊黄泉國に到り、其の穢れに觸れ給ひしかば御身を清め給はんが為に、粟門(あはと)と速吸名門(はやすひなと)とに到り給ふ。
兩所共に潮流急なり。
乃ち更に轉じて筑紫日向の橘の小戸の檍原(あはきはら)に到り、ここに海水に浴して禊祓(みそぎはらひ)し給へり。
これ禊祓行事の濫觴なり。
天照大~以下の諸~日向に生れ給ふ
此の時八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)、伊豆能賣神(いづのめのかみ)、底津少童神(そこつわだつみのかみ)、中津少(なかづわだ)童神(つみのかみ)、表津少童神(うはつわだつみのかみ)、底筒男神(そこづつをのかみ)、中筒男神(なかつつをのかみ)、表筒男神(うわづつをのかみ)の諸神、御身を濯ぎ給ふ事によりて生じ、最後に左の眼を洗ひ給ふ事によりて天照(あまてらす)大神(おほみかみ)生じ、右の眼を洗ひ給ふ事によりて月讀尊生じ、鼻を洗ひ給ふ事によりて素戔鳴尊生じ給ひきと言ふ。
此の中、底筒男、中筒男、表筒男の三神は、即ち住吉大神(すみのえのおほかみ)にして、底津少童、中津少童、表津少童の三神は、是れ阿曇連等(あづみのむらじ)が齋(いつ)き祭れる筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)なりとあり。
或は云、衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)、道之長乳歯神(ながちはのかみ)、時置師神(ときおかしのかみ)、和豆良比能宇斯能神(わずらひのうしのかみ)、道(ち)俟神(またのかみ)、飽咋之宇斯能神(あきくひのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那藝佐毘古神(おきつなぎきびこのかみ)、奥津甲斐辨(おきつかひべ)羅神(らのかみ)、邊疎神(へさかるのかみ)、邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)等、また此の時に生ずと。或は又云ふ、磐土命(いはつちのみこと)、底土命(そこつちのみこと)、大綾津日神(おほあやつひのかみ)、赤土命(あかつちのみこと)、及び大地(おほつち)、海原(うなばら)の諸神生ずと。
古書の傳ふる所其の説一ならず。
天照大神等の御出現に就きても異説多し。
年代悠遠、所傳簡古にして、今より其の詳細を知るを得ず。
されど天照大神、月讀尊、素戔鳴尊の三貴神を始めとして、住吉神、綿津見神(海神少童神と云ふに同じ)等の諸神が、日向の地に生れ出て給ふとの古傳説は、此の國が天孫降臨以前、既に我が大日本國發祥の縁由を有せし地なりとして、古人によりて語り傳へられたることを示せるものなりと謂はざるべからず。
天照大神靈徳あり、光華明彩六合の内に照徹し給ふ。
伊弉諾尊乃ち之を天に上(のぼ)して、高天原を治めしめ給ひ、月讀尊光彩之に亞(つ)ぎ給へるを以て、亦天に送りて之に配せしめ給ふ。
かくて素戔鳴尊は天が下を治らすべく定められ給ひしが、此の神勇悍にして粗暴の御行為多くまししかば、伊弉諾尊遂に之を根ノ國に逐(お)ひ給ふ。
或は云ふ、尊高天原にありて、天照大神に對し奉り、粗暴の御行為多かりしかば、諸神相議して科するに千座置戸(ちくらおきど)の祓(はらひ)を以てし、之を根ノ國に逐ひ奉ると。
根ノ國は即ち伊弉冉尊のまします黄泉國なり。
ここに於て大八洲國未だ定まれる君を得ず。
或は云ふ、月讀尊夜食國(よるのおすくに)を治らすと。
又曰く、滄海原(あをうなばら)を治らすと。
三神分治に就きても異説多く、今之を詳にすべからず。
私按一、 禊祓(みそぎはらひ)の意義
清潔を尚ぶの習俗
伊弉諾尊が日向の檍原にて禊祓し給ひしことは、尊が黄泉國に到りて其の穢に觸れ給ひしかば、之を清め給はんとてなり。
禊は身滌(みそそぎ)なり。
祓は拂(はらひ)なり。
水に浴して身を滌ぎ、穢れを拂ふなり。
邦俗清潔を尚(たっと)びて死穢血穢を忌むこと甚だしく、或は海岸河畔等に産小屋、月小屋を設けて、婦人一定の期間ここに移り住み、産穢の期間を経過し、或は終りて、水に浴して身の穢を去りたる後にあらざれば決して自宅に歸らず、神に近づかざるの習慣は、後の世までもなほ處々の海岸部落に遺れり。
維新後教育の普及と共に、古俗舊慣の廢せらるるもの多く、禊祓の遺風の如きも僅に神事にのみ存して、一般には之を見る少なきに至れるも、なほ越前敦賀彎西岸地方の如き、或は特殊の地方には、嚴に其の俗を保存せるあり。
なほ此の事は第八章産屋の條下に詳説すべし。
海水浴の習慣
禊祓を行ふは、或は之を海に於てし、或は之を川に於てすること、其の地の便に従ふが如きも、本來海水に浴するを以て其の本體とせしよしは、今に至ってなほ盬祓と稱し、食盬を蒔き散らして穢を除くの習慣あるによりても知らるべし。
延喜式祝詞の大祓ノ詞にも、天津罪、國津罪を速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津媛といふ神、大海原(おほうなばら)に持ち出で、荒盬の盬の八百道(やほぢ)の八盬道の、盬の八百會(やをあひ)に坐す速開都媛(はやあきつひめ)といふ神、之をカカと呑み、氣吹戸(いぶきど)にます氣吹戸主(いぶきどぬし)といふ神、之を根ノ國、底ノ國に氣吹(いぶ)き放ち、根ノ國、底ノ國に坐す速佐須良媛(はやさすらひめ)と云ふ神をさすらひ失ひ、かくて罪と云ふ罪はあらじと、祓ひ清むるの行作を述べたるを思ふに、海水は一切の罪悪汚穢を収容して、之を根ノ國の送達するものなりとして信ぜられたりしものの如し。
而して其の禊祓のことは、既に此の伊弉諾尊が我が日向の檍原に於て行ひ給ひしと傳へらるるなり。
以て我が古俗を見るべし。
尊が御身を穢し給へりとのことは、古事記に、黄泉國に伊弉冉尊を訪(とぶら)ひ給ひし時の狀(かたち)を記して、
伊弉諾尊の黄泉國訪問
蓋し古俗觸穢を以て罪悪の一となしたりなり。
されば伊弉諾尊は、千引の磐石を以て黄泉比良坂を塞ぎ、黄泉國との交通を絶ちて、我が日向の檍原に來り、茲に禊祓し給ひきと傳へらるるなり。
私按二、黄泉國の辨
根國と出雲地方
黄泉國は、伊弉冉尊が崩じて後入り給ひし暗黒の國にして、尊の御形骸はそこに腐爛の状を呈し、恰も墳墓の壙内なるかの如く、極めて忌はしき穢れたる處として傳へられたり。
而も現國(うつしくに)より此の國に通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、古事記に之を出雲國の伊賦夜坂(いふやざか)なりといへり。
蓋し古へ黄泉國即ち根ノ國を以て、出雲地方、若しくは其の方角にありとし、此所よりして其の國へ交通せしものなりと信ぜられたりし事を示せり。
出雲風土記に闇見(くらみ)ノ國あり。
夜見ノ島あり。
闇見(くらみ)ノ國は今は八束郡の内なる、もとの島根郡の地にして、延喜式には同郡久良彌(くらみ)神社といふもあり。
出雲風土記には椋見(くらみ)社に作る。
又夜見島は、今は砂嘴(さし)之を連ねて、伯耆の夜見ガ濱となれり。
黄泉國は一に夜見ノ國とも、又根ノ國ともいふ。
暗黒の國として信ぜられたれば、其の夜見と云ひ、闇見と云ふも、名義に於て互に縁由ありげに見ゆるなり。
されば是等の地も、嘗ては夜見ノ國に關する傳説を有し、若しくは其の一部として信ぜられたりしものか。
出雲風土記には、別に出雲郡宇賀郷の條下に、
とありて、黄泉國を出雲の海岸より通ずる地下の國として信ぜし狀(かたち)を示せり。
尚言はば、黄泉國に入り坐せる伊弉冉尊を、古事記には黄泉津(よもつ)大神と云ひ、出雲國と伯伎國との境なる比婆ノ山に葬るともあれば、此の地方亦黄泉國の中として信ぜられたりしものか。
ともかくもこの國が、出雲地方若しくはその方角にありとして信ぜられたりしことは明なりとす。
かく黄泉國の位置に就きては、種々の古傳説ありといへども、ともかくも其の國はもと出雲系統の諸神の祖國として信ぜられたりしなり。
而してそこには、伊弉冉尊の長(とこ)しへに鎭(しずま)りませるなり。
されば古事記には、素戔鳴尊の御語(ことば)を録して、「妣國(ははのくに)の根之堅洲國(ねのかたすくに)に罷(まか)らんと欲す」と云ひ、日本紀には、「母に根ノ國に従はんと欲す」とも見ゆるなり。
根國と朝鮮地方
而も其の根ノ國に就き給へる須戔鳴尊は、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅國に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居ますと、日本紀にあり。或は韓ク(からくに)の島より、其の御子神たちを紀伊國に渡し給ひて後、熊成峯(くまなりのたけ)にましますとも云へり。
熊成と熊野
熊成は日本紀雄略天皇條引日本舊記に見ゆる久麻那利の地にして、任那國下哆呼利(あるしたこり)縣の別邑なりとあり。
須戔鳴尊はここに鎭まりましきと傳へられたるなり。
出雲に國幣大社熊野神社あり。
此の神を祭り奉る。
熊野は蓋し熊成と同語の轉訛なり。
紀伊の熊野亦此の系統の神々に縁あり。
出雲系統の諸神と紀伊
尊の御子神達は多く紀伊に鎭まり給ひ、又日本紀の一書には、其の妣神(ははがみ)とます伊弉冉尊を、紀伊の熊野の有馬村に葬り奉るともあるなり。
紀伊の熊野の名も、亦此の熊成及び熊野の大神に縁あるを否定すべからず。
更に其の御子五十猛神(いたけるのかみ)の事を、延喜式には、韓國伊太氏神(からくにのいだてのかみ)ともあり。
出雲各地に鎭まり給ふ。
而して此の神亦日本紀に、大屋津姫、抓津姫(つまつひめ)など、素戔鳴尊の他の御子神達と共に、韓國より渡りて樹種を傳へ給ひきと傳へられ、共に紀伊國に祭られ給へるなり。
今是等の諸説を合せ考ふれば、根ノ國とは、或は朝鮮地方の國なりとして信ぜられたりしものなりとも解せられざるにあらず。
而して素戔鳴尊の御子神として、八十神達を従へて、もと我が國を領し給ひし大國主神は、後に出雲の大社に鎭まり給ひしも、其の魂は大物主神として、大和の三輪山に鎭まり給ひ、其の三柱の御子神達も、亦大和各所に鎭まり給ひて、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護り神となり給ひきと傳へらるるなり。
蓋し出雲の神の系統に属する民族は、もと朝鮮方面と特殊の關係を有し、大和平野を中心として、紀伊其の他、廣く大八洲國に繁延せしが、後漸次大和民族に同化融合して、其の民族的獨立を失ひし後までも、出雲及び紀伊の地方には、久しく其の系統の民族が維持せられ、ここに其の祖神を祭り、祖神の陵(みささぎ)を傳へ、祖神の傳説を保存せしものなるべし。
殊に大國主神は、國を天孫に譲り奉りて後、出雲なる杵築大社に鎭まり給ふと傳へられて、此の系統の諸神の御事蹟に關しては、出雲地方に於て最も濃厚に保存せらるるものか。
根國と黄泉國
而も其の祖國たる根ノ國が、死後の黄泉國の思想と合體するに及びて、或は暗黒の國なるが如く、或は地下の國なるが如く、或は墳墓の壙内なるが如くにも傳へられ、伊弉諾尊の千引の岩を置き給ふことによりて、現國(うつしくに)との交通の絶えたることを言ふに至れるものならん。
されば日本紀の一書には、伊弉冉尊の入り給ひし黄泉國を以て、「殯歛(ひんかん)の處」なりとし、他の一書には、「所謂黄泉比良坂は復別に處あるにあらず、ただ臨死氣絶の際を謂ふか」とも解せるなり。
こは自ら別問題なれども、ともかくも伊弉諾尊は、黄泉國にて其の穢に觸れ給ひ、之を清め給はんとて、粟門、速吸名門を過ぎ、遠く我が日向の檍原に來り給へりとは、古く語り傳へられたりしところなりとす。
私按三、粟門と速吸名門との所在
粟門
粟門は従来、學者多く解して阿波の鳴戸となす。
其の潮流の急なりといふに恰當す。
或は云ふ、紀淡海峽なる友が島を古へ淡島(あはしま)と稱し、もと紀伊加太(かだ)なる淡島明神の鎭座せしところにして、其の海峽卽ち所謂由良の門は潮流の頗る急なれば、アハ門或は此の海峽ならんかと。
速吸名門
次に速吸名門は、神武天皇東征の時國ツ神珍彦(うづひこ)を得て海路の嚮導(きょうどう)となし給ひし處にして、古事記には、之を吉備と難波との間に叙す。
卽ち明石海峽なり。
亦潮流急なりと云ふに相當たる。
然るに日本紀には、其の速吸名門を日向と宇佐との間に叙し、之を佐賀ノ關海峽に當つ。
此の地亦潮流急なるのみならず、延喜式に豊後海部郡早吸日女(はやすひひめ)神社の、其の古地名を傳ふるあれば、是を以て之に擬するもの多し。
蓋し速吸名門とは、早吸(はやすひ)の門(と)と卽ち海水を速く吸ひ込むが如き潮流の急なる瀬戸の義にして、もと普通名詞なるべければ、必ずしも一所とのみ限るべきにあらず。
同一の事件を數所の速吸名門に就きて、各自地方的に語り傳へしこともあるべし。
而して伊弉諾尊が、此の粟門と速吸名門とを過ぎて、最後に我が日向の地に到り給へりとせんには、之を鳴戸と解し、由良の門と解し、又明石海峽となし、佐賀ノ關海峽となす。
何れにても通ずべし。
私按四、檍原出現の諸神に就きて
天津神と國津神
我が古傳説に見ゆる諸神は、之を大別して天津神、國津神の二系統となす。
傳ふる所一ならずして、其の區別頗る困難なるも、之を槪説すれば、天津神とは高天原の諸神にして、國津神とは、天孫降臨以前より此の國土にます諸神なり。
卽ち高天原より來れりと傳へらるる民族の祖神として祭る神と、其の以前より此の國土に住する民族の祖神として祭る神との別を云ふなり。
而して其の國津神と呼ばるるもの多き中にも、出雲の大國主神の系統の諸神と、伊弉諾尊の檍原に於ける禊祓の時に出現せる諸神との二大流派あり。
海神
住吉大神(すみのえのおほかみ)、筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)の如きは、此の後者中の重なるものとす。
大寶令の古記に住吉大神を天津神となす。
こは同じく此の禊祓によりて出現し給へりと傳へらるる天照大神以下の三貴神を、天津神と稱するにより、其の關係にて同じく天津神の中に収め奉れるものならんも、新撰姓氏録には、海神の系に属する諸家を、地祇、卽ち國津神の系に列したり。
三貴神降誕の御事は、別の傳へには冉尊の黄泉國に入り給ふ前にありて、諾冉二尊の御間に生まれ給ひし御子ともありて、殊に尊き神にませば、自ら區別あるべし。住吉神、斯我神は、山神の山を守り給ふと同じく、此の國土にありて海を守り給ふ神として信ぜられ、主として漁業航海に從事せし海人等の齊(いつ)き奉る神にますなり。
而して是等の神々が、檍原の禊祓によりて出現せりと傳へらるるは、自から海人系統の民族の祖先を語れるものに似たり。
道祖神
船戸神(ふなどのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)等、俗に道祖神(さいのかみ)として祭らるる神々の、此の禊祓の際に出現せりと傳へらるることも、亦古く此等の神々を祭れる民族の、同じ系統に属することを語れるものと解すべし。
なほ是等の事は第五章に於て詳説する所あるべし。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現
私按五、三貴神分治の説
天照大神以下三貴神の出現に就いて種々の異傳あるが如く、其の治(し)らし給ふ所に就いても亦種々の異説あり。
三神分治の異説
天照大神が日の神たる最貴の神として、高天原に君とます御事には論なきも、月讀尊は或は高天原にありて日の神に配し給うと云ひ、或は夜食國(よるのおすくに)を治らし給ふとも云ふ。
又素戔鳴尊は海原(うなばら)を治らすべしとし、或はもと天が下を治らすべく定められ給ひしも、粗暴の行為おはししにより、妣(はは)の國として伊弉冉尊のます根ノ國へ遣はされ給ひきとも傳へらるるなり。
月讀尊が夜の食國を治らし給ふと云ひ、日の神に配し給ふといふは、日月共に天空に懸れるに擬したる説なるべきも、其の海原を治らし給ふとは、蓋し素戔鳴尊と混同したる結果なるが如し。
月の神と素戔鳴尊との混同
日本紀には此の神保食神(うけもちのかみ)の許に使して、其の無體を怒り、之を斬り給へるの傳説あり。
此の事は古事記に、素戔鳴尊が大氣都比賣(おほげつひめ)の許に使して、之を斬り給へると同一の説話なりとす。
以て兩神の混同せらるるものあるを見るべし。
海原
海原(うなばら)は滄海の事にして、漁撈航海を業とする民の以て生活する所。
我が海國にありては、もと海の幸(さち)によりて生活するもの頗る多く、海は陸と共に人生上必要なる場所たりしを知るべし。
而も一方には韓ク(からくに)を海表の國と云ひ、神武天皇の皇兄稻飯尊、妣(はは)の國として海原(うなばら)に入り給ひしことを傳へ、而も後に新羅の國主となり給ひ、後裔新良貴(しらぎ)氏となれりといふを思ふに、素戔鳴尊が朝鮮と深き關係を有し給ふことと、海原を領し給ふといふことと、互に相關係する所あるが如し。
須戔鳴尊が一旦天が下の君たるべく定められ給ひきといふことは、其の御子大國主神が其の御名の如く大國の主となり給ひ、後に其の國を天孫に譲り奉りて、大地主神として大倭神社(おほやまとじんじゃ)に祭られ給ふといふと同じ筋の説話にして、此の系統の神はもと我が國を領し給ふべき尊き神にてましまししが、故ありてそれを去り給ひきとのことを語れるものと解すべし。
斯(か)く高天原を治らし給へる日ノ神も、之に次ぎて日ノ神に配し給へる月ノの神も、又一旦天が下を領すべく定められ、其の御子に大國主神を有し給へる須戔鳴尊も、共に我が日向の橘の小戸の檍原にて、出現し給へる神として語り傳へらるるなり。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第二節 檍原の古傳説地
檍原の所在に關する諸説
諾尊禊祓の地なる檍原が、我が日向の域内なるべく古人によりて信ぜられたりしことは、其の地名に「筑紫日向」の名を冠する事のみによりても徴證甚だ明なりとす。
而も之に關して古來亦頗る異説なきにあらず。
或は之を以て長門の赤間關附近にありし、或は之を以て、筑前に其の所ありとするものあるなり。
之を長門なりとするの説の如きは、今日に於て特に之を辨ずるの價値を認めざれば擱(お)く。
之を筑前なりとする説は先輩の間に頗る有力にして、亦多少の據なきにあらず。
よりて聊(いささ)か之を辨ぜん。
筑前説
本居宣長の著古事記傳には、
未だ斷定を與へたるにはあらざれども、其の日向なる舊蹟と云ふを後の附會と疑ひ、更に貝原篤信の説を引きて、
筑前説の批評
とて、頗る筑前説に傾けり。此の説今なほ有力にして、學者往々之を唱道するものなきにあらず。
如何にも其の地が筑紫の國の中にありて、地名を橘と稱し、附近に青木、又小戸の名もありて、諾尊禊祓の際に出現し給へる、住吉、斯我の二神の鎭座せることなどの事實を綜合すれば、數多の材料殆どここに具備して、古傳説と符節を合すが如き觀あり。
其の説の有力なる故なきにあらず。
然れども、更に飜(ひるがえ)りて考ふるに、筑紫とはただに兩筑地方にのみ限らざるなり。
之を廣く九州全島の意義に用ふる事、四面を合せて筑紫の島と云へる古事記の傳説は更に言はず、後世までもなほ其の例多し。
令集解引古民部省式の如き、明かに西海道諸國を總括して筑紫國となし、又古くは之を管する大宰駐剳(ちゅうさつ)の府を、筑紫ノ大宰府としも言へるなり。
又タチバナの地名の如きも、必ずしも此の筑前の地にのみ限るべからず。
續日本紀寶龜九年條には、肥前國松浦郡橘浦あり、阿波國那賀郡にも亦現に橘浦の名を存し、其の他武藏國に橘樹(たちばな)郡橘樹(たちばな)郷あり、山城、大和、河内、伊勢、遠江、駿河、上總、下總、常陸、美濃、上野、陸中、加賀、越後等の諸國にも、皆それぞれにタチバナの地名を存するなり。
されば其の名義の由來は如何にもあれ、或る共通せる地形に就いて、若しくは何等かの關係に依りて、各地に同一なる此の名は起りたるものなりと見るべく、ひとり筑前にのみ之を求むべしとするを要せざるなり。
又彼の青木、小戸等の名の其の、附近に存するに至りては、所謂「古書によりて設け作られたる舊蹟」としても解し得べきものか。
殊に其の筑前なる住吉大神の鎭座の事の如きに至りては、古事記、日本紀に於て、明かに神功皇后の征韓の際、皇軍を護り給ふべく此の地に顯れ給ひしを記したることによりて解すべく、必ずしも以て此の神發生の地たるの證とはなし難かるべし。
若し夫れ綿津見ノ神なる斯我ノ神の鎭座の事は、此の神を奉祀する阿曇連が、海人(あま)の長として此の地方に勢力を有したりしが爲ならんのみ。
又其の「日向」の二字を以て、國名にあらずして日の向へる地の形容に用ひたりとなすが如きは、是れ古傳の眞意にあらず。
「日向」は國名
其の國名として用ひられたりしものなることは、古事記傳にもすでに引けるが如く、日本紀神功皇后條に、住吉三神の託宣を記して、
諾尊禊祓の筑紫ノ日向ノ橘ノ小門の地名に見ゆる日向は、是れ直に我が日向の國にして、所謂橘の小門が其の域内の地なりと信ぜられたりしことは、毫末(ごうまつ)の疑を容れざるなり。
橘小門は日向の地名
尚更に言はんに、同じ日本紀神代巻の一書に、火折尊(ほをりのみこと)卽ち彦火火出見尊を海神宮に導き奉りし八尋鰐(やひろわに)の事を記して、
古傳説によるに、彦火火出見尊の御事蹟は、常に我が日向地方に於て演ぜられたるものとして信ぜられたり。
然るに如何ぞ遠く筑前に八尋鰐を尋ねて、是に海神宮の嚮導(きょうどう)を求めたりと語り傳へんや。
古へに所謂橘の小門が、古代人士によりて、我が日向の域なりと信ぜられたりしこと疑あるべからず。
芥屋大門説
更に一説には、同じ筑前の中にも、糸島郡なる芥屋(けや)の大門(おほと)を以て、橘の小門に擬せんとするものあり。
而も是れただ玄武岩より成れる自然の一大岩洞のみ。
大門(おほと)と小門(をと)と名の稍(やや)似寄りたりと云ふの外、深く據(よ)るべきものあるにあらず。
固(もと)より以て辨ずるまでもなかるべし。
橘小門檍原の義
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。
檍原は宮崎附近の地
之を宮崎地方の海岸にありとする説に就いても、亦本居翁が巳に指摘せるが如く、古書に其の徴證あるを見ず。
然れども、由來日向の地西陲(すい)に僻在して、中央との交渉甚だ少かりしが故に、ただに檍原の事のみならず、他の事件に就いても、其の古書に見ゆる極めて少なく、奈良朝の古風土記、亦僅に一二節を存するに過ぎざる程なれば、古書に見る所なきの故を以て、直に之を排斥すべきにあらず。
少なくも往時に於て宮崎郡の海岸地方に、小戸ノ渡、住吉神社などの存せしことは明かにして、當時之を以て檍原の地なりと解したりしものなるは、推測するに難からず。
之を近き代の文献に求むるに、伊東義祐が永禄五年の飫肥紀行と云ふものに、
飫肥紀行の檍原
此の書義祐の作として、果して信ずべくば、少なくも戰國時代の頃、此の地に此の説のありしことを認むべし。
一ノ宮巡詣記檍原
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。
住吉~社
義祐が、「住吉の里近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る」と云ひし筒男の三~を祭れりと稱せらるるなり。
人或は云ふ、此の~延喜式内に列せられず、國史に著はれず、何ぞさる由緒ある古社なりとせんやと。
然れども、卽に云へる如く、日向は僻遠の國なれば、古代に於て中央と交渉極て少く、~祖發祥の地として信ぜられたる古國にてありながら、なほ且式内の~社僅に四社を數ふるに過ぎざる程なれば、此の住吉社の所見なき、必ずしも怪しむを要せざるなり。
小戸~社
又宮崎市上野町なる小戸~社は、もと大淀河口下別府にありしが、寛文二年九月十九日の地震に海岸陥没し、社地亦其の難に罹りしかば、ここに移轉せるものにて、傳へて伊弉諾尊を祭るといふ。
亦以て小戸の地名の古く存せし一傍證とすべきか。
之を要するに、諾尊禊祓の~蹟と稱する橘の小戸の檍原が、我が日向の域内にありきと信ぜられ、其の地が古く宮崎附近なりきと認められたりしことは疑を容れず。
或は思ふ、此の地大淀川西北より來りて海に朝す、流れ緩やかに、水淀むを以て大淀川の名を得たり。
而して後世其の河口に近く小戸の名あるは、蓋し大淀の轉訛より新に言ひ出だせしものにはあらざるかと。
されば現今傳ふる宮崎附近の遺蹟が、たとひ古書によりて後より設け作られたるものなりとするも、小戸の名の存する卽に戰國時代にありて、勿論近時の附會にあらず。
而して日向一國内他に之を傳ふる有力なる候補地なきに於ては、暫く之を以て諾尊禊祓、三貴~出現の古傳説地と定るを至當とせんか。
第三章 天孫降臨
第一節 大國主~の國土奉献
大國主~の國土經營
素戔鳴尊の逐はれて根ノ國に入り給ふや、途出雲を過ぎて簛の川上に八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稻田(くしいなだ)姫を娶りて、大已貴~(おほなむちのかみ)を生み給ふ。
大已貴~一に大國主~、又大物主~と云ふ。
少彦名命と力を戳せ、心を一にして、天下を經營し、廣矛を提げて服(まつろ)はぬ荒振~等(あらぶるかみたち)を從へ、遂に所謂大國の主となり給ふ。
後少彦名命は去りて常世(とこよ)ノ國に行き、大國主、~止まりて出雲にあり。
然れども、もと是れ天~の依(よ)ざし給ふ所にあらず。
以て此の國の主たるべからず。
乃ち天照大~は、御子天忍穂耳尊を下して葦原ノ中ツ國の主となし給はんとす。
然るに其の地には、蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)、蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)多(さは)にありて、草木又皆物言ふの狀態なりき。
大國主~國土を天孫に奉る
ここに於て天照大~は、高皇産靈~と共に、八百萬~を天安河の河原に會して衆議を徴し、之を鎭定せしめ給はんが爲に、大國主~の許に使者を遣はし給ふこと三度に及びき。
而も彼等は孰れも皆其の目的を達せず。
最後に經津主(ふつぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給ふに及びて、大國主~は其の子事代主~と共に、謹んで天ツ~の命を奉じ、身を避けて潔く國土を奉る。
時に事代主~の弟建御名方~あり、ひとり之を拒む。
乃ち之を追ひて信濃の諏訪に至り、遂に之を服せしめ、更に他の服(まつろ)はぬ荒振~等をも平らげて、高天原に復命し奉る。
第三章 天孫降臨
私按一、大國主~の國土經營
天孫降臨以前の大八洲國の狀態
天孫降臨以前に於ける我が大八洲國の狀態は、古事記に天照大~の~誥(こう)を記して、
又日本紀には前文引けるが如く、
ここに於てか之を安國(やすくに)と定め給ふべく、天孫降臨の要はありしなり。
されど其の統一なかりきと云ふが中にも、出雲を根據とせりと傳へらるる大國主~の如きは、夙に多くの多くの荒振~等を從へて、所謂大國の主となり、ここに有力なる政治上の一勢力を形成せしものなりと信ぜられき。
大國主~は素戔鳴尊の御子なりとも、又其の六世孫なりとも傳へられる。
素戔鳴尊既に簛ノ川上に於て高志(ごし)の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し給ふ。
高志は越(こし)にして、越人(こしびと)は卽ち日本海方面に占據せし蝦夷族の人民なりしならんか。
「蝦夷」正しくは之を「カイ」と讀むべし。
蓋し現に北海道、樺太等に住めるアイヌ族と、其の系統を同じくするものなり。
之を「アイヌ」といふは、蓋し「カイナ」の轉なり。
北海道及び樺太のアイヌ、嘗て己が族を「カイ」、又は「カイナ」と呼びき。
「ナ」は美稱の添辭にして、「カイ」蓋し其の本語なり。
されば樺太アイヌの事を、漢土の書に往々「苦夷」といひ。今も同島に住するオロツコ族、ニクブン族などより、之を「クエ」など呼ぶなり。
クイ、クエ、共にカイの轉なるべし。又同じアイヌ族にして、千島に住するもの、之を「クシ」といふ。
是れ亦もとクイと同語なるべく、コシ蓋し是と原を同じうする語なるべし。
越洲は蝦夷の島
日本紀に越洲(こしのしま)あり、大八洲の一に數ふ。
蓋し亦蝦夷の國の義なるべきか。而して其の「高志」を名に負へる八岐大蛇(やまたのおろち)とは、蓋し蝦夷族の數多の酋長の義なるべし。
素戔鳴尊此等の蝦夷族をも從へて、遺業を大國主~に附與し、根ノ國に入り給ふ。
大國主~は地主~
大國主~は、既記の如く一に大巳貴~、又大物主~などと云ひ、或は大國魂~、顯國魂(うつしくにだま)~、八千矛(やちほこ)~等の別名あり。
實にもと我が大八洲國を領せし國津~の首なるものにして、其の八千矛とは、蓋し武勇勝れたりしことを示せる美稱なるべし。
古事記に素戔鳴尊の此の~に告げ給ひし語を録して曰く、
大国主~には庶兄弟八十~(やそかみ)ましきといふ。
八十~とは多數の~の義なり。
是等の八十~悉く此の~に從ひきとの傳説は、大國~が、所謂八千矛を提げて、多數の土着の豪族等を從へたりし事蹟を語れるものなりと解すべし。
而して其の從へられたる土豪等の中には、高志(こし)の八岐大蛇(やまたのおろち)等と同じく、越人卽ち蝦夷の族もあるべく、又奇稻田姫の親、手摩乳、足摩乳等と同じく、古くより出雲其の他の地方に住せし山~系統の民族もあるべし。
手摩乳~、足摩乳~等は、傳へて大山祇~の後稱せらるる。
大山祇~の事は後に説くべし。
この~の族はなほ海~の族たる海人(あま)が、海(うみ)の幸(さち)によりて生活する如く、山の幸によりて生活する部族なりしなるべし。
此の族もと廣く九州より、中國地方にまで蕃延せしが、其の中には一時越人(こしびと)の脅すところとなりしこと、彼の奇稻田姫傳説の示すが如きものありしならん。
而して素戔鳴尊が八岐大蛇を退治して、其の難を救ひ給ひきと傳ふるは、出雲の~が越人の壓迫より是等の民を救ひ給ひしことを傳ふるものならんなり。
大國主~既に庶兄弟八十~を從へ、又越の八國(やくに)を平げて大國の主となり、高志の國の沼河毘賣(ぬながはびめ)を婚(よば)ひて妃となし給ふ。
ただに幾多の土豪のみならず、越人の國をも從へ、又之を懐柔し、同化し給へるを云へるなり。
夷~三郎殿
後世或は此の~を夷(えびす)~(かみ)として崇敬す。
其の社は延喜式内攝津國菟原郡大國主西ノ~社にして、所謂西宮夷是なり。
もと其の攝社に三郎殿ありき。
或は夷三郎殿と稱す。
古事記に大國主~の御子を列記する中の、第三の男子に當れる事代主~を祭れるなり。
一説に三郎殿を蛭子(ひるこ)~なりと稱するも、毫も徴證を得ず。
中世以後此の西ノ宮の分靈所々に祭られて、大國主~は其の字音大黒に通ずるより、つひに印度の~たる大黒天に附會せられ、三郎殿専ら夷~の名を有し、大黒、夷、相並びて~と仰がるることとなれり。
大黒像の袋を負へるは、古事記に、大國主~が負袋者としてとして、庶兄弟なる八十~に從ひ行けりとある傳説に基づけるものにして、其の袋に代ふるに魚を以てしたる夷~像は、是れ即ち古への三郎殿の像なりしなり。
三郎殿の魚を持てるは、同書に、事代主~が出雲三穂が崎にて魚を釣れりとある傳説に基づけるものなり。
かくて其の大黒天と夷~とは、後世には共に破顔微笑の~として祭らるるも、古への夷~と三郎~とは、むしろ勇猛なる武~として信ぜられき。
古書の本地を云ふもの、夷~を毘沙門天となし、三郎殿を不動明王となす。
大黒天の古~像の今に存するもの、往々忿怒の形相を呈する少からず。
而して是れ實に大國主~と、事代主~とが、勇猛なる素戔鳴尊の後に出で、武を以て國土平定し、先住土着の諸民族を服從せしめたりし由来を語れるものなりと謂はざるべからず。
中世武士をエビスといふ。
エビス~蓋し武士~の義か。
此の~もと主として漁業航海を守る~として、海岸住民の尊崇する所なりき。
海邊人亦古くエビスと呼ばれき。
エビス~或は海邊人の~の義か。
後に我が商業が多く航海業者におりて撥達せしより、夷~つひに商家の祭る~となり、財b授け給ふの~となりしものならむ。
第三章 天孫降臨
私按二、大國主~の隱退
大國主~の招諭
大國主~既に勇猛なる武~にして、先住土着の民を從へて大國の主たり。
されば天~の之に臨む亦頗る愼重にして、國土の授受決して平和談笑の間にのみ行はれたるにはあらざりき。
之を古事記及び日本紀の記事に見るに、初め高皇産靈~及び天照大~、八百萬~を天ノ安ノ河原に會して、之を如何にすべきかを議り給ふ。
乃ち思金~(おもひがねのかみ)、八百萬~と議して天穂日命(あめのほひのみこと)を遣はし、國土を天孫に奉るべき命を大國主~に傳へしむ。
天穂日命は天忍穂耳尊などと共に、素戔鳴尊が天照大~と高天原に於て誓約し給ひし際に生れ出で給ひし~にして、實に出雲國造、土師臣(はじのをみ)等の祖にます。
然るに大國主~、勢威強大にして、穂日命使命を完うする能はず、却って大國主~に媚びつきて、三年を經るも復命せず。
乃ち更に其の子武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣はし給ひしが、是れ亦父に從ひて歸らず、よりて更に天稚彦(あめのわかひこ)に授くるに天鹿兒弓(あめのかごゆめ)と天波々矢(あめのはばや)とを以てし、之を遣はし給ひき。
されど稚彦、亦大國主~の女下照姫(したてるひめ)を娶りて、其の國を得んとし、八年に至るも復命せず、爲に高皇産靈~の矢に中りて命を落と殞すに至り、最後に天津~は、更に武甕槌(たけみかづち)~に天鳥船~を副へて遣はし給ひき。
日本紀には、之れを經津(ふつ)主(ぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給へりとなす。
二~降りて出雲の五十田狭(いたさ)の小濱(をばま)に到り、十握劒を抜きて浪の穂の上に逆しまに立て、其の劒の前に跌座し、天ツ~の命を傳へて此の國土を奉るべきか否かを問ふ。
大國主~の服命
大國主~の御子事代主~、謹しみて命を奉じ、身を避け奉る。
別に大國主~の御子建御名方(たけみなかた)~あり。
ひとり之に抗す。
武甕槌~乃ち追ひて信濃の諏訪に到り、遂に之を服す。
建御名方~は卽ち諏訪大~なり。
ここに於て大國主~奏して曰く、「我が子二~卽に命を奉ず、我れ何んぞ違はんや、此の葦原ノ中ツ國は命のままに献らん。
我れもし禦がましかば、國内の諸~必ずまさに同じく禦ぎなん。
今我れ避け奉る。
誰か亦敢て順(まつろ)はざるものあらん」と。
乃ち國を平げし時に杖つきし廣矛を以て二~に授けて曰く、「我れ此の矛を以て卒(つひ)に功をなせり。
天孫若し此の矛を以て國を治め給はば、必ず當に平ぎなん」と。
是より二~諸の順(まつろ)はぬ鬼~等を誅して復命す。
其の大國主~は出雲の杵築大社に、事代主~は同國三穂~社に、又經津主~は下總の香取~宮に、武甕槌~は常陸の鹿島~宮に祭らるるなり。
武甕槌、經津主二~の此の行、大國主、事代主二~を從へたるを以て、功の最なるものとす。
故に日本紀の一書に曰く、「此の時歸順せる首渠は、大物主~(大國主~の別名)及び事代主~なり」と。
二~の勢盛なりし狀觀るべきなり。
大國主~の崇敬
大國主~既に國を譲り奉る。天津~乃ち厚く之を遇し給ひて、委ぬるに~事(かんごと)を以てし、其の鎭まります杵築ノ宮の宮造りは、底津磐根に宮柱太知り、高天原に千木高知りて、天津~の御子天津日嗣知ろしめす瑞(みづ)の御舍(みあらか)の如くに造り給ひき。
蓋し此の國譲りは、近く韓國の併合にも比すべきものにして、是が爲に、自他共に其のwを増進すること甚多く、從來「いたく騒ぎてありけり」と言はれたりし此の葦原ノ中ツ國も、天孫の御稜威によりて、安國と知ろしめることとなりしなり。
されば近くもとの韓國皇帝を遇するに、特に皇族の尊貴を以てし給ふが如く、大國主~に對するにも、天皇に對し奉るとほぼ相當する程の尊敬を以てし給ひしなり。
其の現露(あらは)の事は天孫自ら之を統治し給ひ、大國主~に委するに~事(かんごと)を以てし給ひしは、大化の改新に際して國造の政權を朝廷に収め給ひ、爾後國造は専ら祭祀を掌ることとなりしにも比すべきものならんか。
第三章 天孫降臨
私按三、地主~の崇敬
大國主~は地主~
右の古傳説は、天孫降臨以前既に大八洲國には數多の住民あり、互いに割據して國を成せるが中にも、大國主~の領するところ最も大にして、後までも此の~が、我が帝國の大地主(おほとこつかさ)の~として崇敬せらるる所以を語れるものなりとす。
出雲の~は皇家の外戚
~武天皇東征の後、事代主~の大女媛鞱鞴(ひめたたらい)五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を立てて皇后と爲し給ふ。
古事記には、三輪大物主~の女比賣多多良伊須氣余理(ひめたたらいすけより)比賣(ひめ)となす。
三輪の大物主~は卽ち大國主~の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)にして、延喜式なる出雲國造~賀詞に、此の~の和魂(にぎみたま)を八咫鏡に取りつけて、此の山に鎭めますとある是なり。
尋いで綏靖天皇の皇后は、事代主~の小女五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)にまし、安寧天皇の皇后は、事代主~の孫鴨王の女、渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)にましきと傳へらるる。
斯くの如きは是れ皆大國主~の系統に屬する出雲の~裔が、代々我が皇家の外戚となり、我が皇室の起原が、天津~の系たる天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御後と、國津~の系たる大國主~の御後と、相依り相合して成れることを語れるものなりと解すべきに似たり。
ただに皇室の御上のみならず、我が國民亦實に高天原より天降れる天~系統のものと、先住土着の國~系統のものと、相依り相合して成立せるなり。
天照大~と倭大國魂~
されば太古天皇の宮中には、代々天照大~と、倭大國魂~(やまとのおほくにみたまのかみ)を並べ祭り奉りき。
倭大國魂~、一に大地主(おほとこつかさ)~と云ひ、實に大國主~と同~にますといはるるなり。
かく皇室の御先祖たる天照大~と、地主~としての此の大國魂~とを、共に太古以來宮中に並べ祭り奉りしことは、此の兩~に對する崇敬の、特に他~にも揩オて厚かりしを示すものと謂ふべし。
此の大國魂~は、今の官幣大社大倭~社(おほやまとじんじゃ)に祭れる~なり。
大倭~社注進狀に
其の傳ふる所以て觀るべし。
然るに崇~天皇の御代に至り、天皇特に敬~の念篤くおはししかば、かく~祇と同じく大殿の中に住み給ふことは、~威を瀆し奉るを虞ありとなし、天照大~を皇女豊(とよ)鍬入姫命(すきいりひめのみこと)に託して、倭の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭らしめ奉り、又倭大國魂~は、皇女渟名城入姫命(ぬなぎいりひめのみこと)に託して、別の地に之を祭らしめ給ひしが、渟名城入姫命、髪落ち、體瘠せて祭ること能はず。
乃ち更に~託によりて、市磯長尾市(いちしのながをいち)なるものをして、代りて之を祭らしめる奉るとあり。
卽ち今の大倭~社なり。
三輪大物主~
崇~天皇は、斯く大國主~の荒魂を倭大國魂~として、齋き祭り給ふ外、別に同じ神の和魂を、大物主~として、其の~裔なる大田田根子を求めて、三諸山に祭らしめ給ひき。
官幣大社大三輪~社是なり。
初め大國主~の國を避け奉るや、高皇産靈尊特に勅してのたまはく、「汝若し國ツ~を以て妻ととせば、なほ汝に疎き心ありと謂はん。
故に今我が女三穂津姫を以て、汝に配して妻と爲ん。宜しく八十萬~を領(ひき)ゐて、永く皇孫(すめみま)の爲に護り奉れ」と。
大國主~天孫を護り奉る
されば大國主~は、其の御子~等と共に大和の各地に鎭座して、皇孫尊の守護に任じ奉る。
延喜式所収出雲國造~賀詞に、
以て國土授受の業の容易ならざりし事と、大國主~我が國家に對する關係とを見るべきなり。
此の~の後裔に大三輪君賀茂君等あり。
前記大田田根子は大三輪の祖なり。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
天孫日向に降り給ふ
天忍穂耳尊高天原に在りて、高皇産靈尊の女栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津(あまつ)彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)を生み給ふ。
天照大~乃ち瓊瓊杵尊に、八咫鏡、八坂瓊曲玉、草薙劒の三種の~寶を授け賜ひ、又中臣連の祖天兒屋命(あめのこやねみこと)、忌部首の祖太玉命(ふとだまのみこと)、猨女君(さるめのきみ)の祖天鈿女命(あめのうづめのみこと)、鏡作連の祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖玉祖命、すべて五部の~を以て配侍せしめ給ふ。
よりて詔してのたまはく、「葦原千五百秋瑞穂國(あしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
宜しく爾皇孫就(ゆ)いて治(し)らしむべし。
寶祚(みくらゐ)の隆(さか)えまさんこと、天壌(あめつち)と窮(きはま)りなかるべし」と。
ここに於て尊は天の磐座(いはくら)を放ち、天の八重雲を排し分け、稜威(いづ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂の峯に天降り給ふ。
大伴連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命、天之石靭(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の劒を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挟み、御前に立ちて仕へ奉る。
高千穂ノ峯一に高千穂ノ槵觸(くしふる)之峯とも、槵日(くしひの)高千穂之峯とも、高千穂之槵日ノ二上峯とも、或は日向の襲の高千穂ノ添山峯(そほりのやまのたけ)ともあり。
其の傳ふる所一ならず。
天孫降臨の狀を叙するもの古書の記事亦頗る異説なきにあらず。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
私按一、天孫降臨の意義
祖先天降の説
天孫瓊瓊杵尊は、畏くも我が皇室の御先祖として、我が國土に後を垂れ給ひし最初の~にまします。
古傳説の示す所によると、實に高天原より八重棚雲を排し分けて、我が日向の高千穂ノ峯に天降り給ひき傳へらるるなり。
凡そ祖先の天上より降れりとの傳説を有するもの、東方諸民族間に其の例多し。
朝鮮の始祖桓雄が大白山頂~壇の樹下に降り、辰韓六村の長たる李氏の祖が瓢ー峯に降り、鄭氏の祖が兄山に降り、孫氏の祖が伊山に降り、崔氏の祖が花山に降り、裴氏の祖が明活山に降り、薜氏の祖が金剛金剛山に降り、又金首露以下六加耶王の祖が龜旨峯に降れりと稱するが如き、皆是なり。
琉球の始祖阿麻美久、亦天より阿麻美嶽に降れりと傳へらるるなり。
此の外夫餘、高勾麗、百済等の祖が、天帝の子と稱せられ、蒙古、満州等、亦類似の傳説を有するもの多く、天を崇祭するの俗は濊、馬韓、其の他にも廣く行はれたり。
蓋し皆天を以て其の祖國となし、太祖天上に在りとの思想に基づくものなるべし。
我が皇祖亦高天原より高千穂の峯に降臨し給ひ、天ツ~の依ざし給へるままに、ここに天壌無窮の皇基を創め給ふ。
其の形迹稍傍近の諸民族傳ふる所と類似するものあるは、其の間相因縁するものあるに似たりと雖、而も其の依ざしの國を安國と定め給ひて、ここに天~の使命を全うし、萬世一系の天皇長しなへに榮えますもの、ひとり我が國に於てのみ之を見る。
天孫の人事的解釋
既に之を天降と云ふ。
其の遺蹟を天に最も近き高山の頂に求めんとするは自然の勢なりとす。
事もとより~聖に屬し、其の説幽幻にして、猥りに人事を以て忖度し得べきにあらず。
然りと雖、假りに之を地上の事蹟と解し、民族遷移の傍例を以て觀んに、天孫の降臨とは、我が皇室の御先祖が高天原と稱する或る祖國より、多くの臣民を率ひて此の島國に遷り給ひ、從來統率なく、保護なく、塗炭の苦に惱みたりし先住の民衆を綏撫し、不逞の徒を征服して、之を安國と治(し)ろし給ひしものと解すべし。
斯くの如くにして先住の民衆は、從來の苦患より脱離するを得、天孫に隨從し奉りて渡來せし民族と相依り相結びて、我が日本民族を構成し、相共に上に萬世一系の天皇を奉戴して、ここに光輝赫々たる大日本帝国は成立せしものなりと解すべし。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
私按二、天孫降臨の年代
古傳に見ゆる年代
天孫瓊瓊杵尊が高千穂ノ峯に降臨し給ひしは、今より如何ばかりの古へにてありけん、もとより人意を以て測定し得べきにあらず。
日本紀には神武天皇の御語を録して、「天祖の降跡(あまくだり)ましてより、今にいたりて一百七十九萬二千四百七十餘歳」とあり。
然らば今より、百七十九萬五千餘年の昔に當れるなり。
此の數古書傳ふる所他にも多かりしものと見えて、弘仁歴運記には、「本紀等の諸書を案ずるに」として、同じ數を記したり。
更に倭姫命世紀には、瓊瓊杵尊の御代を三十一萬八千五百四十三年、彦火火出見尊の御代を六十三萬七千八百九十二年、鸕鷀草葦不合尊の御代を八十三萬六千四十二年、通計百七十九萬二千四百七十七年となし、帝王編年記には百七十九萬二千四百七十六年、又天~祇王代記には百七十九萬二千四百七十九年に作る。
此の他~代巻口訣、~皇正統記などの記する所小差なきにあらねど、其の基づく所皆同じきが如し。
然るに古事記には、彦火火出見尊高千穂ノ宮にましますこと五百八十歳とありて、前記倭姫尊世紀等の分割の數に合はざること甚だ遠し。
年数に關する本居、平田兩氏の解釋
ここに於て本居宣長は、瓊瓊杵尊が石長姫(いはながひめ)を娶(め)し給はずして木花開耶姫(このはなさくやひめ)と婚(みあひ)まししかば、父~の咀によりて、御子彦火火出見尊以下は御壽短くなりませるものにて、百七十九萬二千歳の大部分は、瓊瓊杵尊の御世なりしなるべく、倭姫命世紀等の説は、後人古事記の記事に心付かずして、妄りに分配せしものなりと論じたり。
更に平田篤胤は、其の弘仁歴運記考に、~の夢想によりたりとて、初めの百七十九萬の大數を捨てて、單に末の二千四百七十餘年の數のみを取り、其の天孫降臨の年の干支を、神武天皇卽位前二千四百年の辛酉革命の年と定めて、天皇崩御の丙子までを、二千四百七十六年と數へ、其の數が帝王編年記の百七十九萬二千四百七十六年とある。
千位以下の數に合へりとなし、又綏靖天皇卽位の前年なる己卯までを、二千四百七十九年と數へて、其の數が亦天~祇王代記の、末の數に合へるを見れば、日本紀等に云ふ所の數は、其の實天孫降臨より、~武天皇の御代を籠めたる數にして、初の「百七十九萬」の大數は、後の攙入なりと論定せり。
人事的推測
本居、平田兩氏の所説は、古書の數字を全部其のままに信ずると、一部に改竄を加へて採用するとの差あれども、孰れも其の年數に於て、正しき古傳ありしものなることを豫斷したる上にての論なり。
固より平田氏の言へる如く、~道の事はおしてはかり難し。
ただ斯くの如き古傳ありと云ふを知りて滿足せんのみ。
されど試みに人事を以て之を度るに、文字の記録なき時代に於て、かほどの大數の、人爲によりて到底正しく語り傳へ得べきにあらざるは言ふまでもなし。
何れは陰陽五行等の説より推歩せしものなるべけんも、今其の由來を考ふる能はざるなり。
されば、暫く是等の數とは全く無關係に、年代學、考古學、人類學、土俗學、言語學、及び世界文化の撥達史、特に東亞に於ける古代文化の研究等の結果より之を論ぜんに、ほぼ我が日本民族の祖先が、皇室の御先祖御統率の下に此の島國に渡來せし年代、卽ち所謂天孫降臨の時代を、測定し得るの希望なきにしもあらず。
天孫は天照大~の授け給へる三種の~器を奉戴して、此の國に天降り給へりと傳へらるるなり。
而して鏡鑑を鑄造し、刀劒を鍛冶し、珠玉を琢磨するの技術は、既に高天原に於て撥達せりと傳へらるるなり。
若し是等の所傳を一切信憑せずと云はんには論なし。
苟も之を信じ、當時既に金属器使用の時代にありきとせんには、世界に於ける冶金鑄鍛の技術の撥達史の上よりして、又特に我が石器時代の研究よりして、ほぼ其の最高極限の年代を定め得べけんなり。
言語學上よりの所説
論者或は、邦語が近隣諸民族の言語と距離甚だ多きの理由を以て、我が日本民族の祖先は、極めて悠久の古へに於て此の島國に渡來し、ここに獨特の撥達をなしたるべきことを云ふものあり。
年代學上よりの所説
或は年代學の研究の上より、日本紀の紀年を論究し、ほぼ~武天皇御卽位の年代を考定して、之に加ふるに、人壽の平均數によりて算出せる神代三世の年數を以てせんとするものあり。
前者は我が日本民族の渡來を、極めて古き時代に求めんとし、後者は之を甚だしく近き年代に定めとするなり。
兩學説對する批評
されど前者は、我が國語が必ずしも祖國の言語を忠實に其のまま保存せるものにあらずして、土着民族の融合同化と共に、少なからず其の言語を交へたるものあるべく、又隣邦諸民族渡來、其の文化の輸入等によりて、其の言語の移入されたるもの亦多かるべく、而も一方には隣邦諸民族の言語にも、古今著しき相違を生じて、爲に兩者の間隔の甚だ多くなりたるべきことに對する注意を缺けるの嫌なきにあらず。
又後者は、傳説上に於ける~聖の御行事を度るに、強ひて人事を以てし、古傳説を解釋するに、正しく史實を語れるものなりと豫定するものにして、根本に重大なる錯誤あり。
其の從ふべからざる言ふまでもなし。
考古學上よりの所説と其の批評
論者或は又、我が石器時代の遺物遺蹟を調査して、其の或る物を以て我等日本民族の先祖の遺せるものなりとし、爲に其の渡來を悠遠の時代に求めんとするものなきにあらず。
然れども、こは所謂石器時代の狀態にありし先住民族が、天孫民族と融合して、日本民族構成の一要素をなせることの觀察を閑却せるものにして、ただに天孫降臨の傳説を破壊するのみならず、我が社會狀態の上にあらはれたる諸現象の事實にも抵觸して、到底從ふべからざるものなりとす。
要するに我が古傳説に所謂天孫降臨の年代は、將來ますます人類學、考古學、言語學等の調査の撥達を待ちて、我が古代民族の種類、及び其の分布移動の次第を詳かにし、我が所謂天孫民族と、日本民族との關係を明にし、我が島國に存在する古代の遺物遺蹟が如何なる狀態に分布し、其の示す文化が如何なる程度にあるやを研究し、之を傍近諸民族の遺物遺蹟と比較し、文化の撥達變遷の次第に參考して、我が島國が如何なる時代より人類住居の地となりしか、如何なる時代より金屬使用の狀態に移りしか、其の民族關係は如何等の各般の事情を知りて後、始めて決し得べき問題なりとす。
今に於てはただ、今日の人智を以て知るを得ざる悠遠の時代より、天孫跡を此の國土に垂れ給へりと信ずるに滿足せんのみ。
第三章 天孫降臨
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
高千穂峯の所在の關する諸説
天孫瓊瓊杵尊の降臨し給へりと傳へらるる高千穂峯に就きては、古來數説あり。
或は之を日向にありとし、或は之を豊前にありとし、或は之を薩摩にありとす。
又同じく日向國にありとする説に就いても、或は諸縣郡なる霧島山を以て之に擬し、或は臼杵郡なる高千穂地方を以て之に當つ。
其の豊前と云ひ、薩摩と云ふものは、殆ど文獻の徴すべきなきのみならず、古事記、日本紀等、古書の記事とも矛盾する所あり、今や之を唱道するもの多からざれば論及せず。
之を諸縣郡の霧島山なりといひ、臼杵郡の高千穂なりとするものは、共に頗る徴證ありて、古來學者の取捨に迷ふ所なりとす。
されば鴨祐之の如きは、其の大八洲記に、「襲は今大隅國の郡名囎唹に作る。千穂は地名、日向國臼杵郡にあり。智保に作る」と云ひて、地理の實際に拘らず此の兩説を保存し、又本居宣長は其の古事記傳に於て、「何(いづ)れを其れと一方には決(さだ)め難し」として、
斯くて平田篤胤に至りては、其の古史成文に、直ちに古文を改めて、初め臼杵の高千穂ノ二山峯天降り給ひ、既にして襲之高千穂ノ槵日ノ二上峯に移り幸(いで)ましきとさへ記述するに至れり。
乃ち聊か左に其の兩説の據る所を詳にして、孰れが果して古傳説地なるべきかを辨ぜん。
霧島山説
霧島山は日向の諸縣郡と、大隅の囎唹郡とに跨れる高山にして、其の峯東西の二つに分る。
其の位置と形勢と、實に襲の高千穂の二上峯といふに相當る。
高千穂峯は一に槵觸峯(くしぶるのみね)、又槵日峯(くしびのみね)ともあり。
解するもの曰く、クシブル又クシビは奇異(くし)の轉なりと。
或は曰く奇火(くしび)の義なりと。
此の解孰れを取るとするも、霧島山が一の大火山にして、噴火の狀態の奇異なるに適當す。
更に續日本紀には、霧島山を囎唹郡會之峯となす。
是れ亦襲の高千穂峯なることの徴證とすべきに似たり。
殊に鎌倉時代編纂の塵袋所引日向風土記といふものに、
長門本平家物語の俊寛成經等鬼界島に移る事」の條にも、
日本最初の峯
とあり。
日本最初の峯とは、必ずしも天孫降臨の地と云ふ次第にあらざるべきも、此の山が特殊の~蹟として、古くより傳稱せられたりし證とはなすべし。
又宇佐託宣集には、
是れ亦天孫降臨をいへるにあらねど、以て此の山の~蹟たるを云ふ説の古きを觀るべし。
天ノ逆鉾
今も其の西峯を韓國ノ嶽と稱するは、亦縁ありげなり。
殊に其の山頂には天ノ逆鋒と稱するものありて、其の制奇古、實に~代の遺物なりと稱せらる。
説をなすもの曰く、天孫降臨に際に建て給ひし標柱なりと。
或は曰く、伊弉諾、伊弉冉二~の滄溟(あをうなばら)を探り給ひし天ノ瓊矛(ぬほこ)なりと。
此の後説は蓋し、盛衰記に日本最初の峯といふに相當るなり。
霧島山説批評
此の外にも霧島山説を主張するもの、其の説明頗る委曲に渉るものあれども、要は~代の~蹟此の地方に多しとの思想に基づけるものにして、其の説の主とする所は、右の中日向風土記の文と、襲の地名と、槵日又は槵觸の名と、二上峰の形勢と、天ノ逆鉾の存在となりとす。
此の説頗る有力にして、新井白石以下、徳川時代の學者等多く之を信じ、前記の如く本居、平田の兩人すらも、之を捨てかねて、臼杵、霧島の兩説を保存せる程なりき。
斯くて明治の學界に至りては、霧島山説を採るもの殊に多く、故飯田武ク氏の日本書紀通釋を始めとして、今もなほ此の説を主張する者少なからず。
かくて坊間行はるる歴史地圖はもとより、現代地圖にまで、霧島山に標するに高千穂ノ峯の名を以てするものすらあるに至れり。
然れども是のみによりて、古傳説言ふ所の高千穂山の問題を決すべきか。
「襲」の地名
古傳説謂ふ所の「襲(そ)」の地が、後の大隅國囎唹郡なりといふ事は、霧島山説に取りて最も有力なる理由に一なりとす。
然れども「ソ」の名必ずしも囎唹郡のみなりとは限るべからず。
天安元年には、肥後國從五位上會男~(そをのかみ)に從五位下を授け奉るの事あり。
其の他「ソ」を名とする地名各地に多し。
そは後(第二編第五章)に説くべし。
塵袋引風土記は偽書
次に塵袋引く所の風土記逸文なるものは、古文の徴證として常に引用せられ、霧島説に取りて亦有力なる論據をなすものなりとす。
而して史家或は之を以て、和銅年間奏上の古風土記の逸文なりとなす。
然れども、つらつら其の内容を檢するに、こは恐らく中世の記述にして、奈良朝古風土記の文にあらず。
以て證とするに足らざるの感なきにあらず。
同じく鎌倉時代に編纂せられたる釋日本紀別に本國風土記の文を引き、西臼杵郡の高千穂を以て天孫降臨の地となす。
塵袋所引の文は是と事實に於て矛盾せるのみならず、其の文字の用例亦彼此甚しく相容れず。
到底同一風土記中の文なりとしては解し難きものなりとす。
ここに於て論者或は言ふ、風土記の成る必ずしも奈良初のみにあらず。
醍醐天皇の延長年間にも、復風土記の貢進を催促せられしことあるにあらずや。
蓋し釋日本紀引く所は是れ延長年間編纂の新風土記にして、後の所傳を録するものにはあらざるかと。
然れども、延長の風土記なるものは其の實存在せず。
史家往々にして延長年間風土記催促の太政官符の趣意を誤解し、此の際別に新風土記の編纂を命ぜられたるものとなす。
而も此の官符の趣意は、當時官庫所蔵の風土記散逸して存せざるが爲に、新に之を諸國府所蔵の書に求めんとするにあるのみ。
敢て新に編纂を命じたるにあらざるなり。
故に曰く、「諸國風土記の文あるべし」と。
ここに諸國とは、言ふまでもなく諸國の國府を指せるなり。
若し國府に其の文なくば、周ねく部内に求めて提出せよと命ぜるなり。
されど假りに一歩を譲りて、延長にも亦風土記編纂のことありとするも、此の塵袋引く所は決して和銅のものにあらず、叉延長のものにもあらず、到底日向國司撰録の書にあらざるなり。
本書既に「日向國囎唹郡といふ。
囎唹郡を日向より分ちて、他の三郡と共に大隅國を建てたるは、實に和銅六年四月の事なり、されば本書若し日向國司の撰ならんには、必ず其の以前のものなりとせざるべからず。
然るに元明天皇が詔して諸國の風土記を撰録せしめ給へるは、大隅分立の翌五月なり。
而して國司其の命により、各郡に命じて部内の地理、沿革、古傳等を調査せしめ、是が編纂に著手す。
然らば其の書の成りて奏上せられたるは、必ずや其れよりも數年の後なりけんことを疑はず。
然るになんぞ日向國司の撰として、當時大隅なる囎唹を以て、なほ依然「日向國」と書することのあるべけんや。
論者或は又謂はん。
古へ日、隅、薩の三國は、共に日向の域内なりしかば、~代の事を記するに當りては、其の舊によりて、囎唹郡に冠するに日向の名を以てする、敢えて異とするに足らざらんと。
地理にも暗く、年代にも無頓着なる中央都人士の筆になれるものならば、或はさる事もありなん。
平安朝京師學者の手になれる日本紀私記に、襲國を解して、「今日向國に囎唹郡あり」などとある。
以て例とすべし。
然れども風土記は、各其の國の國司が命を奉じて、現代の地理に就きて撰録せる書なり。
如何ぞさる粗忽なる誤謬ありとせんや。
されど假りに事~代に屬するが故に、當時大隅の域内なる囎唹郡の地に冠するにも、なほ舊稱によりて日向の名を以てしたりきとせんか。
宜しく古語のままに「日向の襲の高千穂」といふべく、「日向國囎唹郡」とは書くべからざるにあらざるや。
況んや他方には當時の行政區劃によりて、明かに薩摩國閼馳郡の名を標出するに於てをや。
思ふに本書は地理の實際に暗き中央人士が、私記に囎唹郡を今も日向の中なりと思へるが如き漠然たる思想よりして、輕卒に記述せしものならんなり。
霧島山を日本最初の峯といふ事
霧島山を以て日本最初の峯なりとする説は、すでに平家物語にあり。
~武天皇天より還幸し給へりとの説は、宇佐託宣集にあり。
共に古く此の山の尊嚴を示す説の存在を示すものなり。
然れども是等は、其の實高千穂降臨傳説と交渉する所なく、自から別途のものなりと謂はざるべからず。
ただ此の山が古くより特殊の神蹟として傳稱せられたりしが故に、遂には其の頂の東西相對して二上峰云ふに相當し、殊に其の地がたまたま囎唹郡なることなどに合せ考へて、そこに天孫降臨地の傳説も生じたるものなるべし。
而も其の説はすでに明かに鎌倉時代に於て、塵袋の著者其の所傳を該書中に引用せし程なれば、むげに後世の誤解なりとして輕々しく排斥すべきにあらざるなり。
すべからく先づ其の説の由って來りし所を尋ね、更に之を他の説に比較考究して、後に始めて斷を爲すべきものなりとすべし。
槵觸の解
論者或はクシフルを奇火(くしび)と解して、火山なるべしといひ、天ノ逆矛なるものを以て、~代の遺物となし、是によりて天孫降臨の地の證とせんとす。
共に一往の理なきにあらず。
火山活動の現象は、直ちに古代人士をして其の山を崇敬するの念を起さしむ。
然れどもクシフルの名實は未だ其の義を明かにかせず。
或は日向の別名なる豊久士比泥別に縁あるにあらざるかとのことは、さきに既に之を言へり。
霧島火山の崇拝
霧島火山の崇拝せらるる其の由來を詳にせねど、恐らくは奈良朝以來の、役行者一派の山嶽佛教の所爲に起因するものならん。
傳ふる所によれば、此の山欣明天皇の朝に、僧慶胤なるもの始めて之を開けりとあり。
是れ固より徴證すべきなく、信ずべき限りにあらず。
延暦七年三月此の山爆破す。
續日本紀に曰く、
かくの如き異變ありてより、一層崇敬の度を深めしものあらん。
後年僧性空あり。
廬を此の山に結び苦行する事四年、元亨釋書に曰く、
此の事亦花山法皇御撰書寫山上人傳に見ゆ。
性空年八十、寛弘四年に寂す。
然らば其の三十六歳は、村上天皇應和三年なり。
釋書謂ふ所の奇蹟は、固より必ずしも信ずべきにあらざらんも、此の頃既に此の靈山が、佛徒信仰の標的たりしは之を認むべし。
斯くて登山の行者漸く多く、遂には日本最初の峰と云ひ、神武天皇帝釋宮より此の峰に還幸し給ひきとの説も出で、はては天孫降臨の傳説も、唱え出さるるに至りしにあらざるか。
所謂天逆矛の説
而して是等行者の中に銅製の三叉矛を携へて之を山頂に樹てしもの、亦これありしならんか。
今存する逆矛と稱するものは、實に其の三叉の鋒刄を缺き、ただ銅製の柄をのみ存するものなり。
後人之を解せず、其の鋒なきを見て逆に之を山頂に突き樹てしものなりと誤信し、爲に天逆矛の名を命ぜしものか。
從來之を記するもの、或は長さ數丈と云ひ、或は八丈許などと云ふ。
今存するもの長さ四尺二寸、周八寸に過ぎず。
上端に近く鼻の高き人面二個、相背きて鑄出されたり。
其の三叉の鋒は、もと鐔の如き臺より分れ出でたりしもののして、中央に大なるもの一個、左右に小なるもの各一個ありしものなるも、今は皆之を缺く。
去る大正三年、狂人あり之を携へて山を降り、暫時霧島東神社の社殿に安置しありて、幸に熟覧調査するの機を得たり。
其の柄の石突に當る部分は、片そぎとなりて地中に挿入するに便にし、固より逆に樹つべきものにあらず。
其の鋒の失はれたる痕は甚明なり。
而して其の鉾先は、文政十一年記述「天逆鉾由來」と題する書に、都城安永村明觀寺荒嶽權現御~體圖として、之が冩生圖を掲げ、「霧島絶頂鉾折先」と記し、附するに其の折れ目の拓影を以てす。
而して曰く、「此の折目、絶頂の鉾の折目に相違す。此間今一折可✓有✓之歟」と。
鹿兒藩名勝考亦記して曰く、
されば古人も既に所謂逆鉾なるものが、鉾先を失ひたる鉾の柄なることを了解せしものなりと見ゆ。
天逆矛の名~皇正統記にあり。
諾冉二尊が天浮橋に立ちて、滄溟を探り給ひしといふ天瓊矛(あめのぬぼこ)に注して、「此の矛又は天の逆矛とも、天魔返矛とも、とも云へり」と見ゆ。
されば南北朝時代には、すでにかかる名稱も傳へられたりしなり。
されどこはもとより霧島山なるそれを言ふにあらず。
同書に曰く、
斯く親房此の矛に就きて種々の俗説を掲げ、之が批評を下したれども、一言霧島山上の物に及ぶことなし。
其のこれを逆矛といふは、鋒先を下にして滄溟を探り給ひしが爲の名なるべければ、もとより霧島山頂現存の矛の如く、鋒を上にして立てたるものについて稱したるにあらざるべし。
天之逆鉾の名亦釋日本紀引播磨風土記の逸文にもあり。
而も是れ木製の鉾にして、もとより右に比すべきものにはあらず。
蓋し後人此の山に日本最初の峰の説あるより、正統記などの所傳によりて唱へ出すに至りたるものならん。
而も逆矛の名が、此の矛の鋒を失ひたる後の誤解より出でたるものならんには、其の説の起れる時代は更に新しかるべきなり。
霧島~と高千穂~
霧島山を以て高千穂峯なりとするの説は既に明かに鎌倉時代に存す。
然れども平安朝にありては、むしろ兩者を別視せしものに似たり。
延喜式内日向國諸縣郡霧島~社一座あり。
承和四年官社に列さられ、天安二年從四位下を授けらる。
而して此の~とは別に高智保皇~あり。
承和十年從五位下を授けられ、次で天安二年には、霧島~が從四位下を授けらるると同時に、從四位上を授けられたり。
勿論是によりて、霧島山が所謂高千穂峯にあらじとの反證となすには足らざらんも、此の山のみを以て直ちに天孫降臨の古傳説地なりとなさんは、更に攻究の餘地ありと謂はざるべからず。
臼杵郡高千穂説
然らば高千穂ノ峯を以て、臼杵郡に在りと爲す説の由來は如何。
釋日本紀引日向風土記逸文に曰く、
此の文仙覺の萬葉抄にも引きて、明かに鎌倉時代に存せし風土記の古文なり。
論者或は言はん、風土記録する所の天孫投稻の故事、嘗て記、紀等の言はざる所、蓋し類似の地名に基づき、史實を之に附會せるもにて、信ずるに足らざるべしと。
或は然らん。
其の千穂の語の起源を解する如きは、固より必ずしも信ずべきにあらず。
然れども、天孫降臨の際天地暗く、土蜘蛛の奏に基づき稻千穂を散じ給ひし故事が、史實として信じ難しとするも、少くも此の記事ある風土記の編纂奏上せられし時代に於ては、日向の民衆が古傳説上の天孫降臨の故地を以て、此の臼杵郡なる智鋪クなりとなすの説を有せしものにして、國郡の當局者が之を採用せし事實、亦最も明白なりと謂はざるべからず。
叉平安朝に於て、霧島~と高千穂~と別個に存在して、位階を授けられ、更に鎌倉時代に於て、日本紀天孫降臨の條を説明すべく、釋日本紀及び萬葉抄の著者が、風土記の此の文を引用せしことなどを合せ考ふれば、少くも當時京師の當局者、又は學者間に於て、臼杵高千穂説が認められたりしことは疑を容れざるなり。
之を智鋪といふは、高千穂を略せるなり。
和同の制、國郡ク里の名必ず漢字二字たるべしと定めらる。
ここに於て近淡海(ちかつあふみ)國を縮めて近江國とし、都ク(とのがう)を延ばして都於ク(とおのがう)となす。
高千穂の智舗と成る亦此の例なり。
さればク名には之を智保と稱するも、其の他の場合には依然として「高」字を添ふるを例とせり。
前記高智保皇~の如きは更なり、中世に此の地方一の莊園となり、なほ高智尾の號を稱せしこと、鎌倉時代以後の記録、文書に往々散見して、周ねく世の知る所なり。
高智尾莊は西臼杵郡高千穂の地方より、廣く肥後、豊後の境上に及ぶ。
石清水社所藏寶龜四年豊前國司文書に、八幡大~の託宣を記したる中にも、
此の書固より寶龜の公文書として疑問なきにあらねど、亦以て古く此等の地方に、高千穂の稱ありしことを知るに足るべし。
高千穂は日向豊後肥後に跨る
高千穂の域實に肥後、豊後に跨る。肥後阿蘇郡に亦知保クあり。
蓋し日向臼杵郡の智舗クと相連續して、もと一域をなせしものなるべく、後に國界を定むるに當りて、兩分せられしものならんか。
今も肥後阿蘇郡草部(くさかべ)村に千穂野あり。
智保クの古名を存するものなるべし。
ここに草部~社あり、~八井耳命を祭る。
社記に之を高千穂大明~とありといふ。
其の名蓋し地名によれるものか。
同郡南ク谷の南、上u城郡渉りて亦高千穂の名あり。
蓋し阿蘇の地嘗て高千穂の古傳説を傳へ、今なほ其の古名を存するなり。
而して其の阿蘇の名、亦實に「襲」の舊號を傳ふるものの如し。
「阿」は發語の添辭にして、其の本名蓋し「蘇」なるべきか。
釋日本紀に「襲」字を解して「山襲重の義なり」となす。
蓋し漢字の字義に拘泥せるものにして、信ずべからず。
「ソ」は「背」の義なるべく、人の背をソビラ(背平))と云ひ、山陰をソトモ(背面)といふ。
「ソ」は蓋し山の背に當れるが如き高地の稱なるべし。
されば古語に襲の高千穂といふもの、之を阿蘇の高千穂の義と解して、意亦通ずべきなり。
祖母山と久住山
今西臼杵郡高千穂の北に、祖母(そぼ)の高峯あり、豊後に跨る。
其の北方の廣野、亦所謂高千穂野の一部なるべく、北に久住(くじふ)山の高く聳ゆるあり。
高千穂峯の名、日本紀所引の一書に、高千穂の添(そほり)山とも叉、高千穂の槵觸(くしふる)ノ峯、又は槵日(くしひ)ノ峯ともあり。
「祖母」は蓋し「添(そほり)」の古名を傳へ、「久住(くじふ)」は「槵觸(くしふる)」、若くは「槵日(くしひ)」の舊稱を存するものにあらざるか。
天孫高千穂の地の降臨し給ひきとの古傳説に就きて、之を考ふるに、既に天降と稱する以上、後の之を解するもの、成るべく天に近き高山の頂を求めて、之に擬せんとし、爲に或は之を祖母山なりとし、或は之を久住山なりとし、遂には天孫降臨の高千穂山の傳説に存する添(そほり)山、或は槵觸峯、槵日峯の名を取りて、之に附するに至りしにはあらざるか。
祖母と久住と、巽乾相對し、其の間に當りて廣き高原あり。
寶龜の豊後国司文書と稱するものに見ゆる高千穂卽ち是ならんには、豊後にても、嘗てここに高千穂の名を傳へしものなるべし。
既に祖母と久住と兩説あり。
更に後の之を解するもの、其の兩説を並存し、ここに高千穂の二上峰に降臨し給へりとの説起れるか。
二山峯の義
釋日本紀には、「二上の號未だ詳ならざるか」とあり。
鎌倉時代い於て、之に關する定説なかりしものにてもあるべし。
高千穂の名もと單一なる山岳の稱にあらず。
「ホ」は山の「秀(ほ)」にして、高峯の屹立せるものを意味す。
高千穂とは、蓋し數多の高峯の重疊せる地方の義なるべく、古く「襲」を解して、山岳襲重の貌となすもの其の字義信ずべからずとするも、地形の實際には相當るなり。
中にも祖母山は海抜五千八百尺に達し、實に九州第一の高峯の一なりと稱せらる。
其の山頂に上りて四方を望視すれば、九州各地は固より、四国、中國、亦之を下瞰すべく、西北遠く朝鮮をも一眸の中に收むるの感あり。
久住亦ほぼ之に相如く。
されば天孫の高千穂峯に降り給ひし時に、「此の地は韓國に向ひ、笠狭(かささ)の岬に眞來通(まきとほ)りて、朝日の直刺國(たださすくに)、夕日の日照(ひてる)國」と詔し給ひきと傳へらるるものを以て、これに當てんとする亦其の故なきにあらず。
嫗嶽と高千穂
祖母山豊後にありては之を嫗(うば)が嶽と稱す。
蓋し「祖母」の文字に泥みて、後に訛れるものなるべし。
山に嫗ケ嶽明~あり。
豊後緒方氏の祖先に關する巨蛇の傳説を有し、平家物語に之を高智尾明~なりとなす。
當時なほ此の山に高千穂の稱ありしことを知るべし。
由りて思ふに、彼の承和十年に於て高智保皇~授位の事あるや、續日本後紀之を記して豊後國となすもの、必ずしも捨て難きが如し。
從來學者の此の文を解する、皆之を以て日向國の誤りなりとなす。
固より當に然るべし。
然れども、高千穂の域既に豊後、日向に跨り、豊後の地亦其の祠あるに於ては、爲に或は此の混同を生ずるに至れる、其の故なきにあらず。
而も平家物語一本には、右の高智尾明~を以て、「件の大蛇は日向の國に崇られ給へる高智尾の明~是なり」とありて、之を本國に係けたり。
以て混同の久しきを知るべし。
之を要するに、天孫降臨のこと其の説幽玄にして、固より人事を以て忖度すべきにあらず、後人之を地理上に求めて、或は祖母山となし、或は久住山となし、或は之を霧島山なりとす。
今にして其の確證を得んことは到底之を望むべきにあらず。
ただ之を、幸にして今日に存する文献に徴するに、臼杵郡の高千穂を以て之に當てんとするの説は、すでに奈良朝に存し霧島山を以て之に當てんとするの説は、鎌倉時代以前に遡る能はざるを知るに満足せんのみ。
第三章 天孫降臨
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
私按、高千穂地方に於ける數多の~蹟と稱するものに就きて
高千穂地方の~蹟と稱するもの
今の西臼杵郡なる高千穂の地には、數多の~蹟と稱するものを傳ふ。
曰く高天原、曰く天の岩戸、曰く天の眞名井、曰く天の香久山、曰く天の浮橋、曰く何、曰く何と。
殆ど記紀~代巻に見ゆるあらゆる~蹟を具備せざるなし。
斯くの如きは、思ふに皆近き世の唱道にかかるものならんか。
彼の一宮巡詣記には、
其の謂ふところ一も高天原の~蹟に關するものなし。
千々の岩屋を言ひて、天の岩戸を言はず、~代の井の名ありて、天の眞名井の名を説かず、以て他を想像すべきなり。
之を單に常識に訴ふるも、既に天孫高天原より此の地に降臨し給へりといふ以上、高天原は此の地ならざるは明かなり。
其の之を高天原なりといふは勿論、天の眞名井、天の香久山等、等、所謂高天原に於ける~蹟の此の地に存すべからざるは言ふまでもなし。
蓋し高千穂の域、天孫降臨の古傳説あるが故に、延寶以前既に種々の~蹟を附會したるものあり、其の後更に附會を重ねて、~書に傳ふる高天原の~蹟をも唱道するに至りしものなるべし。
されど斯くの如きは、畢竟此の古傳説地を一層~聖ならしめんとして、却って自ら己れを害ふものなりと謂はざるべからず。
或はいふ天孫高天原より此の地に降臨し給ひ、其の祖國を偲び給うあまりに、其の名蹟を此の地に摸(うつ)し給へるならんと。
彼の上代歴世帝都の地たりし大和平和に於て、種々高天原に於ける~蹟と同様の地名を存する、以て例とすべし。
然れども此の地~蹟と稱するもの餘りに多く、殆ど送迎に遑なき程なるが爲に、却って識者の心證を害し、世人をして其の眞の古傳説地たることをすらも否認せしめんとするに至る。
惜まざるべんや。
第三章 天孫降臨
第四節 高天原の所在に關する諸説
史家千古の疑問
天孫高天原より我が高千穂峯に降臨し給ひきとの古傳は、毫も疑ふべきにあらず。
而も天~が出雲の大國主~に説きて、其の國を譲らしめ給ひ、叉大國主~並びに御子~等が、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護りとして、大和の各地に鎭座し給ひきと傳ふるものあるに拘はらず、天孫何が爲に其の出雲又は大和の地を措きて、斯くの如き僻遠なる日向高千穂の地に降臨し給ひきとなすか。
是れ古來史家が千古の疑問とする所なり。
ここに於てか、論者或は天孫の高千穂降臨説を疑ひ、はては~武天皇の東征傳説をすら否認せむとするものあり。
されば天孫降臨の傳説を研究せんには、須らく先ず所謂高天原なる祖國より、如何なる道筋によりて此の日向なる高千穂峯に降臨し給ひきと信ぜられたりしかを詳にするの要あり。
而して其のここに降臨し給ひし道筋を明かにせんには、須らく先づ其の祖國たる高天原の所在に就きて一考せざるべからざるなり。
高天原は大和なりとの説
高天原は古傳之を天上の國なりと説く。
之を本居宣長等一派の國學者の如く、其の文字通りに高く虚空にありと解せんには論なし。
然れども、苟も人事を以て之を觀んには、其處には山あり、河あり、田園あり、市場あり、禽獸、草木生存し、農耕、紡織、冶鑄、建築等の技術も頗る發達して、宛然地球表面上の某處なるべき狀態を示せるなり。
ここに於てか先輩既に其の在所を地上に尋ねて、或は常陸に其の處ありとし、或は之を大和に求め、或は豊前、豊後等の地方に之を擬し、或は遠く海外に之を探らんとす。
之を常陸なりと云ひ、豊前、豊後等にありといふ説の如きは、近時の學者もはや殆ど之を顧るものなければ、今説かず。
之を大和に在りとするの説は、其の地に後世なほ高天原と稱する地あり、天の香久山、高市などと稱する名もありて、其の説頗る據る所なきにあらず。
殊に此の大和説は、「天孫若し海外より渡來し給ひしものとならんには、是れ剽掠却奪の下に、此の皇基を肇めさせ給へることとなりて、我が尊嚴なる國體を冒瀆するの甚だしきものなり」との、一種の尊皇愛國の念より頗る世の歡迎する所となれるものなり。
よりて聊か之を瓣ぜん。
右の説の批評
高天原を以て大和なりとする事は、其の據るところ主として大和に存する地名にあり。
然れども、民族其の居を遷して新に國を創むるに當り、先住地の名をとりて新來の地に附することは、世間普通に見る所なり。
又本居氏も既に言へる如く、古傳説によりて新に舊蹟を作り設くる事も、世間其の例少きにあらず。
されば後に天孫民族の蕃延せる大和に於て、祖國に存する古傳説上の地名ありとも、必ずしも之を以て、其の地なりとの確證とはなし難かるべし。
若し古書の傳ふる古傳説を以て、毫も採るに足らざるとする論者ならんには卽ち巳まん。
苟も我が古傳説を信じ、若くは其の古傳説によりて、古代人士の思想を探らんとする論者ならんには、大和を以て高天原なる祖國とするの説は、到底成立すべからざるなり。
之を古傳説に徴するに、天孫は此の豊葦原の瑞穂國を、安國と定むべき使命を帯びて、此の土に降臨し給ひしなり。
而して~武天皇は此の使命を完うし、天業を恢弘して天下に光宅し給はんが爲に、西偏日向の地を去りて、遠く六合の中心たる大和に向ひ給ひしなり。
然るに其の大和にして、果して祖國高天原と同一ならんには、何故に天孫此の六合の中心たる大和を去りて、遠く西陲僻遠の地に降臨し給ふことのあるべけんや。
叉同じく天~の御子と稱せらるる饒速日命は、夙に天の磐船に乗りて、大和に降り給へりとさへ傳へらるるなり。
若し大和にして是れ直ちに高天原ならんには、如何ぞ其の祖國なる高天原より、更に同じ高天原なる大和に降り給へりと言はんや。
されば古傳説謂ふ所のものが、果して歴史上の事實なりや否やは別問題なりとするも、少くも此の傳説を語り傳へたる古代の人民が信ぜし高天原は、決して大和にてはあらざりしなり。
況や天孫の爲に國を避け奉りし大國主~が、皇孫尊(すめみまのみこと)の鎭まりまさん大倭(やまと)の國と申して、其の和魂を大三輪の~奈備に坐(ま)させ、其の他の御子~等の御魂をも、それそれに大和各地の~奈備に坐させて、皇孫の近き守りの~と奉れりとの、出雲國造の所傳もこれあるをや。
古傳説上の高天原は、決して大和にてはあるべからず。
南洋説
然らばこれを海外に求むべきか。
或る論者は、人種學、土俗學等の研究の結果として、邦人中には容貌、骨骼が南洋諸島の住民に酷似せるもの多く、風俗、習慣等、彼我の間亦時に著しき類似を見ること少からざるが故に、或は兩者同一源に出づるものならんかと解し、随って天孫の祖國なる高天原を、南洋方面に想像せんとするものあり。
殊に古傳説に於て、天孫が此の南洋に面せる日向の地方に降臨し給へりと傳ふるは、是れ嘗て我等の祖先が黒潮の流に乗じて、ここに到着せるを語れるものなりとし、其の古傳説中に熱地の特産なる鰐魚(わに)の説話多きを以て、其の祖國當時の~話の其のままに傳はれるものならんと解せんとするなり。
右の説の批評
高天原なる祖國を南洋方面に求めんとするの説は、一見頗る科學的にして、單に古傳説にのみ拘泥して論をなすものとは、甚だしく其の撰を異にするが故に、往々人をして之を傾聽せしめ、識者の之を信ずるもの亦少からざるが如し。
然れども、さらに之を熟考するに、本邦人の容貌、骨相、風俗、習慣等の、南洋諸島の住民の其れに類似せるものありとの事は、是に依りて邦人の中に、彼等と同一系統の血液の混在せる事實を示せるものなりと、解するの理由とはなるべからん。
而も未だ之を以て、我が天孫民族の祖國が南洋方面にありきとの證となすには足らざるなり。
容貌、骨相の事は暫く擱き、本邦人の風俗習慣中、一方に於て南洋系統のものと相容れざるもの少なからざるは、亦之を認めざるべからず。
例えば黥面、文身の俗の如し。
こは南方に於て廣く行はれ、本邦の古代、叉此の風あるもの多かりしも、而も之れ異族若しくは賤者の俗として、天孫民族の敢て爲さざる所なりしなり。
叉南方系の者多く漁業に從事するに反し、我が古傳説には、天孫が山幸彦(やまさちびこ)として、海幸彦(うみさちびこ)と相争ひ給ひしことを傳ふるあるにあらずや。
其の天孫が、南洋に面せる日向の地に降臨し給へりと言ふが如きは、一見此の方面に深き關係あるが如く思はしむるものありと雖、而も其の降臨地として傳へらるる所は、扁舟の寄るべき海岸にはあらずして、所謂襲の高千穂たる山嶽重疊の高地なりしなり。
若し夫れ鰐魚(わに)に關する古傳説の如きは、是によりて毫も南洋との間に關係を認むべきにあらず。
「わに」は鰐魚にあらず
故傳説に所謂「わに」を以て、熱地の特産たる鰐魚(クロコダイル)なりと解するが爲にこそ、此の疑問もあれ、邦語の「わに」は其の實鱶(ふか)若くは鮫の類の巨魚にして、決して文字の示せる鰐魚其の物にはあらざるなり。
こは出雲風土記を始めとして、中古の物語等に、出雲の中海、駿河の沿岸、或は新羅の近海に於て、現實に「わに」の生息せの説話を傳ふることあるによりても知らるるなり。
中にも出雲風土記には、該書編纂の時を距る僅か六十年前に於て、安來ク比賣崎に於て少女の和爾(わに)の爲に害せられたる事を記し、其の中海所産の魚類を列記する中には、明かに「和爾」の名をも録するなり。
ただに遠き古へのみならず、今もなほ伯耆、出雲、石見、隱岐等、山陰方面の地方には、鱶、鮫の類を「わに」と稱し、古名録の記する所によれば、紀伊牟婁郡にてもイラキザメと稱する魚を、「わに」と呼びきと言はるるなり。
然るに古人漢字を飜譯するに當り、誤って鰐魚に宛つる邦語の「わに」を以てす。
これが爲に種々の誤解を生ぜしものあらんも、「わに」の傳説もとより何等南洋に關係あるものにあらず。
更に其の容貌、骨相問題の如きに至りては、邦人中南洋系統に近きものの存在すると同時に、他方には亦其の然らざるものの頗る多きを忘るべからず。
何ぞ直ちに之を以て、我が祖國の南洋にありし證とせんや。
考古學上よりの觀察
更に之を考古學上の研究に徴するに、我が邦に發見せらるる石器時代の遺物の或る種のものが、或は薹灣に於て撥見せられ、或は南洋土人の土俗品に似たるものあり。
これによりて、人或は我が日本民族の祖國を、南洋に求めんとするものなきにあらず。
然れども、斯くの如きの遺物は朝鮮及び滿洲等にも發見せらるるものにして、或は未だ技術の多く發達せざる民族の手工にあらはれたる、偶然の類似とも謂ふべく、或はもと志那本部に住せし原住民が、漢人に其の地を讓りて、南洋にも、滿洲、朝鮮にも移住し、はては我が邦に渡來せりとも解すべきものならんか。
而も事や石器時代にあり、玉を帯び、太刀を佩き、鏡を捧持し給へる天孫降臨傳説の關する所にあらず。
されば此の事は、日本民族を構成する一要素として、南洋現住の民族と源を一にするものの存することを認め、随って日本民族の容貌、骨相が、時に南洋人に近似し、或は風俗、習慣等の、時に南洋のそれに類似するものあることの説明とはなるべからんも、是に由りて、我が天孫降臨の古傳説を説明し得べきにあらざるなり。
されば我が天孫民族の祖國として信ぜらるる高天原を以て、之を南洋方面に求めんとするの説は、亦未だ定説となすべからざるものとす。
大陸説
或る論者は高天原を以て、之を大陸に求めんとす。
是れ亦容貌、風俗、習慣等の類似と、特に~話、古傳説、及び國語が、朝鮮、滿洲の方面に深き關係を有すること多きに基づけるものなりとす。
右の説の批評
此の説亦現今の研究の程度に於ては、未だ以て確定の事實として、他をして必ず之を信ぜしむる程の權威なしと雖、さりとて亦之を否定すべきの論據もなく、之を東亞に於ける民族南下の趨勢に鑑み、其の然るにあらざるかを思はしむるものなきにあらず。
殊に我が國語の語系が、南方若くは西隣の民の使用する所と全然異にして、西北、特に朝鮮、滿洲の方面に密接なる關係の認めらるるは、其の~話の彼是相類するもの多きの事實と相俟って、少くも我が國民の上位に立ちて、指導統治の任に當りし民族が、此の方面に深き因縁を有せしものなることは、到底否定し難きに似たり。
然れども斯の如きは、單に之を以て大陸方面なるべしと謂ふを得るのみにして、固より世界地圖上に於て、所謂高天原の地點を指示し得べきにあらず。
其の決定は將來ますます人種學、考古學、土俗學、言語學等の研究の功を積み、其の發達の後に俟つべきものなりとす。
之を要するに、今日の學界の狀態に於ては、天孫瓊瓊杵尊は、高天原の名を以て傳へらるる或る祖國より、群~を率ゐて豊葦原ノ瑞穂ノ國を安國と平らけく治(し)ろしめし給はんとて、先づ我が日向國高千穂峯に降り給へりと謂ふを以て滿足せざるべからず。
第三章 天孫降臨
第四節 高天原の所在に關する諸説
私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて
若し夫れ我が祖國を海外の或る地上に求め、天孫海を渡りて我が大八洲國に渡來し給ひたりとせんには、是れ他の國を剽掠刧奪したるものなりて、金甌無缺の我が國體を傷つくる甚だしきものなりとの一種の愛國論の如きは、其の情頗る敬慕すべきに似たりと雖、是れ蓋し杞憂に属するなり。
高天原を以て虚空にありとし、~聖の事人意を以て忖度すべからずと謂はば則ち己まん。
苟も解するに人事を以てし、祖國を地球の表面に求めんとせんには、此の島國に於て、世界の他の人類と何等の關係なき特殊の人類が、偶然ここに化生したりと主張するにあらずんば、如何ぞ其の祖先が他より渡來したりとの説を拒否するを得んや。
而して既に其の渡來を認めんには、其れが空漠無人の境に對して行はれたりと假定するにあらずんば、論者の憂は永久に絶えざらんなり。
然れども乞ふ安んぜよ、我が天孫は決して他國を剽掠刧奪し給へるにあらざるなり。
既に言へる如く當時我が國土には蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)多く、すべての民衆塗炭の苦に惱みき。
是に於てか天孫之を安國と定め給ふべく、ここに降臨し給ひきと傳へらるるなり。
其の出雲の大國主~の如きは、すでに有力なる國家を形成せしが如く傳へらるると雖、もと是れ天ツ~の依ざし給へるところにあらず。
又未だ以て我が瑞穂國を統一して、之を安國となすに及ばざりしなり。
況や他の所謂荒振~達なるものをや。
ここに於て皇孫尊は之を併合し給ひ、以て其の民を安んじ給ひしなり。
日本紀に曰く、「大巳貴神(大國主~)報へて曰く、天ツ~の勅教慇懃、此くの如し。
敢て命に從はざらんや。
吾が治らす顯露(あらは)の事は、皇孫當に治むべし。
吾は當さに退いて幽事を治めん」と。
之を今日の語を以て云へば、其の民の統治權を天孫に委ね奉れるものにして、近く韓國の併合にも比すべきものなり。
されば其の大國主~の御舎(みあらか)は、天ツ~の御子の天津日繼(あまつひつぎ)知ろしめす宮殿の如く莊嚴に之を造り、其の御魂は天照大~と共に之を宮中に祭り奉り、神武、綏靖、安寧の御三代まで、常に皇后を其の後裔に求め給ふなど、之に對して尊重の限りをつくし給ひきと傳へらるるなり。
天孫何ぞ人の國を奪ひ給ふものなりと謂はんや。
【私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて】 から次の頁に續く
日向の古代史は實に我が日本帝國の建國史として、叉日本民族の發達史として、關渉する所頗る多く、一般地方史を以て目すべかざるものあり。
されば余の該書を編纂するや、特に重きを其の古代史の部に置き、親しく實地を踏査して之を遺物遺蹟に徴し、更に之を廣く傍例に求めて、其の沿革する所を明にせんことを務めたり。
かくて其の成果は、貧弱ながらも余が日本古代史に關する、抱負と研究との一斑を披瀝し得たるを信ず。
余多年京都及び東北兩帝國大學に於て日本古代史を講義し、同好者の之に關する著書を公にせんことを慫慂する者頗る多し。
而も余が研究未だ完からず、余をして自ら滿足せしむるの域に達せず、心ならずも之に背くや久し。
今次日向國史を公にするに當り、縣の諒解を得て特に其の古代史の部を分冊發行せしむるものは、是によりて余が日本古代史に關する研究の一斑を學界に提示し、熱心なる同好者の希望に副はんが爲のみ。(著者識)
序
日向國史が喜田君によりて公表せらるるに方り、自分は最初より之に関係を有するを以て、同君の嘱に応じ、一言を寄せて其の来歴を叙べ、併せて序に代ふる所あらんとす。
回顧すれば、明治四十四年の三月と覚ゆ、自分が宮崎縣知事を拝命せる際、赴任に先立ち、参内して 天機並 御機嫌を奏伺したりしが、退出の際香川皇后宮大夫にも新任の挨拶をなせるに、同太夫は、其の時容を正して、「宮崎縣知事とあらば是非御聞き申したい事があります。それは霊峯と知られた高千穂の峯は高い山でありますか、低い山でありますか。」と、いとも熱心に問はれたり。
もとより突然のことなれば、其の場は、「赴任の後委曲を調査して何づれ申上げん。」とて、此の對話は簡単に打切りたるが、自分の心琴には一種の高鳴を覺えざるを得ざりき。
實は、皇祖発祥の聖地たる宮崎縣は、自分も一度任官したき希望を有せし處にして、曾って一木内務次官にまで其の旨を申出でたることありしに、このたび宿望を達し、將に任に赴かんとして心操の新なるに際し、場所は宮中、しかも純情その儘なる香川老大夫より、靈境に就いて話しかけられては、遠く~代に心の馳するを禁ぜざりしなり。
かかれば着任後常に念頭を去る能はず、聖迹その他史蹟に就き調査を進め、やがて縣史公刊の準備ともなさんとしたりしが、諸説紛々として明かならず、ここに於て十分に之を檢討し、的確たる典據を得ることは、同縣のまさに努むべき處にして、叉同縣が帝國並びに全國民に對する責務の一部なることを痛感し、是が事業の進捗を講ぜんとしたりき。
然るに、當時既に園山前知事時代に縣史編纂を企畫し、中村文學博士に囑して執筆せるもあり。
就いて之を熟讀するに、研鑽燕ラ其の勞效の頗る大なるものあり。
然れども唯往々獨自の見を加へたる處あるを以て、若し夫れ私人の著作なりせば、或は世の好評を博すべきも、公署の公刊物としては、學界の定説にして、信憑するに足るべきものをと望むや切なりき。
茲に於て是が改訂を圖り、之を我史學界の碩學喜田博士に委囑せしは大正二年の春なりしと記憶す。
爾来同君は鋭意材料の蒐集檢討に從事し、遠近實地踏査を試むること前後幾囘なるを知らず。
博引旁索大いに努め、之に加ふるに多數篤學同好の士の熱誠なる援助を得て、著しく進捗を期しつつありたり。
然るに、自分は大正四年八月同縣を去り、爾来本事業と關係を絶ちたりしも、是が竣成は心潜かに翹望して止まず。
常に間接に其の消息を傳承しつつ、公表の日を待つこと久しかりしが、其の大成せるを今次宮崎縣との交渉の結果、喜田君の手に依りて世に問はるることとなりたるを聞き、衷心欣快の念を禁ずる能はざるなり。
是れ自分は本書に對し、前述の因縁を有すると共に、本史が一般地方史と異なり、其の古代の記録は帝國の建國史にして、叉同時に我日本民族の發達史たるを想ふが故なり。
殊に斯學の權威喜田君が前後十數年攷覆討究餘薀なきを期せられたるは、學界の珍とする處なると共に、廣く一般に裨益する處も亦大なるべし。
仍て自分は茲に往年着手せる事業の完結せるを悦び、宮崎縣が終始克く其の完結に意を注ぎ、喜田君が其の他の援助者と共に之を大成せしめたる甚大なる勞效に對し、滿腔の敬意を表して遏まざるなり。
昭和四年晩秋
有吉忠一識
「日向國史」の編纂と發行とに就きて
大正二年余の日向に遊ぶや、當時の長官有吉忠一君、「宮崎縣史稿本」と題する一書を余に示して曰く、本書はかって縣に於て委員を命じ編纂せしものなり。
而もなほ再調を要するものありて、其の發行遅延し今日に及ぶ。
請ふ縣の爲に是に適當なる改訂を加へよと。
余もと有吉君と同窓の舊友たり。
拒否すべきにあらず。
當時余公私頗る多忙にして、多くの時日を之に割くは事情の許さざるものありしも、縣の希望する所は、單に机上朱を加ふるの程度を以て、よく其の需に應ずるに足るべきを豫想し、輕卒に之を承諾したり。
然るに受けて之を精讀し、之を實地に徴するに及びて、其の豫想の如くなる能はざることを發見せり。
何となれば、本稿は遠く明治三十三年より、三十八年に渉りて編纂せられたるものにして、爾来既に八年餘の歳月を經過し、編者が特に其の力を用ひられたりと思はるる古代の研究に關しては、爾後の學界の進歩頗る著しきものあるが上に、其の中世以後の事蹟に關しても、編者が其の完成を急ぎたりしが爲にや、時に材料の蒐集及び整理の上に於て不備の憾あるもの亦尠きにあらざるを感知したればなり。
されば余は更に之が研究を新にするの方針を執り、縣の諒解の下に、平安朝時代以前の部は余親ら是に當り、鎌倉時代以後の部は縣出身の文學士日高重孝君の執筆を煩はし、全部其の稿を新にして、大正七年三月に至り、漸く之が完成を見るに至れり。
然るに當時有吉知事既に他に榮轉し、後繼の當局者更に愼重なる審査を之に加へて、該書古代史の部が事往々~蹟に渉り、皇室及び國民の祖先に關するものありて、而も之を徴すべき文献乏しく、随って時に一己の私見に出づるもの少からざる嫌あり、之を個人の著として世に問はんは可ならんも、縣の出版として之を公にせんには、更に考慮すべきものあるべきことを指摘し、余に對して再考を求められたり。
然れども本書はもと既成縣史稿本編者の方針を尊重し、日本建國史として、叉日本民族史としての、日向國史の地位を闡明ならしむるの抱負を以て編纂したる物なれば、之を普通一般の地方史の體に改めんには、殆ど全部其の太古上古の部を改刪して、本史本來の趣意を没却するの結果とならざるを得ず。
是れ實に余に於て忍びざる所なりとす。
是が爲に荏苒時日を經過するうちに、不幸にして余が宿痾再發し、藥餌に親むこと歳餘、之に加ふるに家族其の他にも種々の故障續發して、爲に委囑に背くこと滿二年の久しきに及べり。
而も官廰の事徒に私事を以て遷延すべきにあらず。
乃ち其の後の學界の進歩に徴し、當局の憂慮せらるる所に鑑み、大要原書の體裁を存し、余が學術的良心の許す範圍に於て是が改訂を了し、大正十年三月に至りて再び之を縣に致したり。
而も其の後の縣當局者の更迭頻繁にして、親しく是が審査を爲すに遑あらざるの事情あり、荏苒發行を遷延すること更に七年の久しきに及べり。
昭和二年有吉實君本縣内務部長に任ぜらる。
君は實に余に本書の編纂を委囑せられたる有吉忠一君の令弟にして、余夙に親交あり。
乃ち之を機として本書の公表の實行を慫慂し、當時の長官古宇田晶君亦之に同意せられ、ここに漸く之が發行の計畫を見るに至り、後任の當局者之を踏襲して、今夏いよいよ之が印刷に着手せり。
然るに間もなく復當局者の更迭あり、現長官石田馨君任に赴かれて、更に愼重なる審査を之に加へられんとす。
是れ洵に用意周到なる縣當局として、當に然るべき所なれども、斯くては再び既往の經過を繰り返すの結果となる虞あるのみならず、既に印刷に着手して其の業著々進行し、今に於て根本的修正を之に加ふるの餘裕なし。
乃ち既定計畫の一部を變更し、縣の諒解を得て暫く余の名を以て之を公にすることとせり。
言ふまでもなく日向は~祖發祥の聖地として、其の古代史は實に我日本帝國の建設史、日本民族の成立史とも謂ふべく、普通の地方史を以て目すべからず。
縣史稿本の編者深くここに見る所あり。
主として重きを太古上古の史に置き、之を和漢古代の史籍に徴し、之を遺物遺蹟の實際に考へ、從來殆ど學界未拓の原野とも謂ふべかりし日向古代の事情につきて、闡明頗る努められたり。
而も其の論斷頗る鋭利にして、爲に當時の縣當局者をして、之が發行を躊躇せしめたるものなりきと解せらる。
而して余が日向國史亦其の方針を踏襲し、再び當局者をして危惧の念を生ぜしむるに至る。
顧みて忸怩たるものありと雖、事情洵に已む能はざりしなり。
余の本書編纂の事に當るや、努めて空論を避け、正確なる史料に基づいて是が推論を得んことを期せり。
而も日向は其の地南陬に僻在して、~祖發祥の聖地たるに拘らず、大和奠都後に於ける中央歴史との交渉極めて少く、随って特に其の古代の事蹟に關しては、僅に記紀の熊襲征伐に關する古傳説を収録するの外、文献上の史料絶無なりと謂ふも敢て誇大の言にあらず。
叉其の遺物遺蹟に關しても、從來學界の調査を經たるもの頗る少きの狀態にありき。
ここに於てか余は先づ以て是が考古學的考察を加ふるの必要を認め、親しく縣下に出張して實地を調査するの外、別に助力を本縣考古學者たる故三浦敏君に委囑せり。
かくて同君は從來有せられたる知識の上に、更に親しく西北兩諸縣郡及び薩隅二國の實地を踏査して、大いに余が研究の上に貢献すべく期待せられたりしが、不幸にして其の結果を報告するに及ばざる中に、病を獲て溘焉長逝せられたり。
是れ啻に同君の不幸たりしのみならず、本書に取りても亦一大不幸にして、本書完成期の遷延せる理由一は實にここにありき。
茲に於て余は更に屢々實地に臨み、故縣書記田村正一君、教育會書記若山甲藏君、京都帝國大學教務囑託梅原末治君等の援助を得、ともかくも其古代遺物遺蹟の概要に通曉することを得たり。
かくて其の貧弱なる知識の上に、更に幾多の考案を重ね、廣く之を傍例に求めて、尠からざる臆説を試み、漸くにして其の古代史に關する部分の稿を畢ふるを得たりしなり。
されば其の記する所、自から一の考證的史論集のごときものなり、所論往々一己の私見に出でて、未だ悉く學界の定説とのみ謂ふべからざるものなりきにあらず。
蓋し已むを得ざるに出づる所なりとはいへども、是が爲に屢々縣當局者の考慮を煩はして、久しく發行を遷延せしむるに至りしこと、洵に其の故なきにあらざるなり。
其の記述する所頗る既成縣史稿本と所見を異にするものあり、爲に該書編者の勞を空しうし、其の功を没するの嫌なきにあらずといへども、稿本記述の諸研究は、實は其の後編者が私著として公にせられたる日本開闢史に於て詳悉せられたれば、讀者若し是を知らんと欲せば、請ふ該書に就いて之を見られんことを。
鎌倉時代以後の史に就きては、余が監督の下に専ら日高文學士の執筆せるものなること既記の如し。
而して是が史料の供給と、研究の指導とに就きては、故東京帝國大學文科大學史料編纂官文學士藤田明君を煩はす所頗る多かりき。
然るに不幸にして同君亦業未だ央ならざるに卒去せられて、ここに進行上一頓挫を致せしが、日高文學士の熱心なる、周ねく史料を東京帝國大學圖書館、同史料編纂所、其の他諸方の秘庫に探り、特に藩制の事に關しては、大藏省所藏の藩制録の披閲を求め、博引旁策終によく其の業を卒ふるを得たり。
思ふに鎌倉時代以後の日向に關する史籍としては、日向記、延陵世鑑、日向纂記等、其の他の少許の俗書あるも、固より史學上の批判の下に於て、信據し難きもの少きにあらず。
ここに於て日高學士は、主として材料を正確なる古文書古記録に取り、傍ら島津家編纂の島津國史等に參照し、更に之を實地に徴して俗説の誤れるを正し、幾多の困難を排して其の事に當られたり。
かくて其の引用古文書以外は、煩を避けて多くは其の出典の記載を省略したりと雖、孰れも信憑すべき典據の下に之を記述せられたるは勿論なりとす。
されば同君執筆の部分に關しては、余は名義上其の監督の任にありきと雖、實は單に大體の方針を協定したるに止まるものにして、之に關する責任は余自ら之を負ふべきも、其の功績は擧げて同君に歸せざるべからず。
殊に本書の編纂がもと單に既成稿本を修正するの程度を以て成さるべしとの豫想の下に着手せられたりしものなれば、おのづから物質的には其の酬ゐらるる所極めて僅少なりしに拘らず、君が其のク國の事蹟を明にせんとの熱誠を以て終始事に當られ、終によく此の大編を了するに至られたることは、余の特に同君に對して感謝する所なりとす。
本書の成るや、其の着手より發行に至るまで、實に前後十七年の歳月を經過せり。
其の間縣長官の更迭せるもの十一名、縣吏員にして事に關與せられたる者其の數亦多かりしが、或は夙に職を他に轉じ、或は既に物故せられて、終始變らざりしものは縣屬深見和彦君ただ一人あるのみ。
深見君の熱心なる、常に余を獎勵し、余を慰撫し、陰に、陽に、本書の發行の爲めに盡力せられたる所甚多く、今日漸く是が發表を見るを得るに至りしもの、實に君が熱誠に負う所少からざるなり。
是れ亦ここに特記して甚深なる感謝の意を表す。
本書別に地圖及び冩眞等を収めたる附圖を添ふ。
而も發行の都合上、本年度に於ては先づ本文のみを公にし、附圖は追って更に印刷せんとす。
本書の脱稿すでに遠く大正七年の交にありて、爾後の學界の進歩頗る著しきものあり、新に發見せられたる遺物遺蹟亦少きにあらず。
随って今次其の發行に際して、多少の修正を加へたる所ありと雖、固より到底十分なる能はず、遺憾頗る多しと雖、今に於ては之を如何ともするを得ざるなり。
されば其の誤謬及び遺漏は、出來得る限り該附圖發行の際、其の附録として訂正摯竄試みんと欲す。
讀者若し是等の諸點につきて心付き給ふ所あらんには、謂ふ猶豫なく教示を賜はらんことを。
至囑至囑。
昭和四年十二月
文學博士 喜田貞吉識
日向國史 上
第一編 太古史
第一章 國土の發生に關する古傳説
日向の國名
日向は九州島の東南隅にありて、西と北とに山を負ひ、東と南とは海に臨み、直ちに日の出づる方に向ふ。故に日向の名ありと稱せらるる。
筑紫島の産成
傳へ言ふ。太古伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神、此の漂へる國を修理固(つくりかため)成(な)せとの天神(あまつかみ)の命を奉じて、高天原より降り、我が大八洲(おおやしま)の諸島を生み給ふ。
中に筑紫島(つくしのしま)あり。
筑紫島は即ち九州島なり。
此の島身一つにして面四つあり。
筑紫國を白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊國(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を速日別(はやひわけ)と謂ひ、日向國を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)と謂ひ、熊襲國を建日別(たけひわけ)と謂ふと。
或は言ふ。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)と謂ひ、熊曾國を建日別と謂ふと。是れ我が日向の名の古書に見ゆる初なり。
日向の名に關する故事
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。
筑紫四面の疑問
筑紫四面の事は古事記及び舊事本紀に見ゆ。
古事記諸本異同あり。
所謂筑紫等の四面を解して、前記の如く、或は筑紫、豊、肥、日向、熊襲の五國となすものあり。
未だ其の是非を詳にせず。
而も四面にして五國ありと謂ふは、其の孰れかに於て誤謬あるを承認せざるべからず。
ここに於てか本居宣長は、古訓古事記を著はして四國説を採用し、平田篤胤は五國説に従ひて、古史成文に「面五つ」と改めたり。
古訓本の四國説によれば、日向の北部半國ばかりは、もとは肥の國の中なりしを、やや後に分れて一國となれるなりと解し、其の南半を以て大隅及び薩摩と共に、もと熊襲の一部を成したりとするものの如し。
然れども、肥前、肥後と共に、日向の北部を通じて筑紫島の一面とせんは、もとより地理の實際に副はざるなり。
又古史成文の五國説に従ふも、日向の南半と薩、隅二國とを以て熊襲國となし、後の日向の北半のみを以て、日向の一國なりきと解するなり。
而も日向を二分することの、地理自然の状態に副はざるは前説と同一なるのみならず、古へ熊襲族居住の地と傳へられたりし境域が、必ずしも後の日向南部以南に限られざることに於て、此の兩説ともに妥當なりと謂ふべからず。
固より國土産成の事如きは、其の説幽玄にして、強ひて人事を以て論ずるを要せず。
ただ古事記が成りし奈良朝初に於て、我等の先祖が語部(かたりべ)の傳へによりて、なほ斯くの如きの説を有したりしを信ずるを以て満足せんのみ。
隼人族と熊襲國
今奈良朝初期の形勢を按ずるに、大隅、薩摩の両國地方には、當時異族として認められたりし隼人族ここに占據したるの事實あり。
養老年中に薩摩、大隅二國の隼人亂を為し、皇軍の大征討を要するに至れるなり。
後人或は此の際の叛亂を以て、日向、大隅二國の隼人の所為なりきと云ひ、當時なほ我が日向にも、隼人族として認められたりし民族の住居せしことを傳へたり。
更に遡りては景行天皇及び日本武尊の熊襲御征討が、主として日向の域内に於て行はれたりしが如く傳へらるるあり。
されば其の日向の域を以て、大隅、薩摩と共に嘗って異民族占據の堺なりとし、隼人即ち熊襲なりとの見解のもとに、之を以て熊襲國と稱したりとなさんは、頗る其の理由あるに似たり。
日向は筑紫の四面の一
而も又一方より之を觀れば、日向は其の域山によりて他の地方と隔離し、殊に古く神祖發祥、天孫降臨の傳説を有する地方なれば、之を以て異族熊襲の國なりと謂はんは、妥當ならざるの感なき能わず。
況や日向國の名は古くより存し、歴史時代に於て現實に隼人族の占據せし薩、隅二國は、却って行政上漠然と其の域内に含まれたりしの事實すらあるをや。
筑紫島内の諸國の一として、日向の名は到底之を逸すべからざるなり。
而も我が古傳説は、明かに我が南陬に於て太古異族占據の國ありし事を傳ふるなり。
ここに於て奈良朝初の人士、所謂大八洲國(おおやしまぐに)の島々を數ふるに當り、九州島に於て熟知の筑紫、豊、肥、日向の四國ありとし、其の四國以外に、別に漠然と古傳説によりて、此の異族の國の存在を認めんは、亦其の理由なきにあらず。
大八洲の説
元來大八洲國とは群島國の義にして、必ずしも八個の大島ありとのみ、狭義に解釋すべきにあらず。
「や」は數の多きを謂ふなり。
然るに奈良朝初の人士此の義に暗く、「や」の假字として用ひられたる「八」なる文字の意義に泥みて、強ひて著名なる八島を數へんとせしが為に、遂には日本紀の本文及び其の引用せる多數の一書に見るが如く、種々雜多の異りたる説を生ずるに至りしなり。
古事記には、淡路、四國、隠岐、九州、壹岐,對馬、佐渡及び本州の八大島を、大八洲と數へて、吉備兒島(きびのこじま)、小豆島(あづきのしま)、大島、女島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、及び兩兒島(ふたごじま)を、其の以外に置き、又日本紀本文には、本州、四國、九州、隠岐、佐渡、越洲(こしのしま)、大洲(おほしま)及び吉備子洲(きびのこじま)を以て大八洲と數へ、淡路を別に置き、其の以外の對馬、壹岐、並びに諸々の小島は、諾冉二尊の生み給へるにはあらずして、潮沫(しほのあわ)の自然に凝りて成れるものなりとなせるが如き、皆此の思想に基づけるなり。
其の他、日本紀引用の多數の一書、又それぞれに大八洲の島々に就きて、異なりたる數へ方を爲せるなり。
斯くの如きは畢竟數多の島嶼の中より、特に八個の大島を擇ばんとせし結果にして、固より是れ古意にあらず。
本來の古傳説には、必ずしも八個の大島とのみは限らず、我が群島悉く大八洲の中なりしものなるべし。
されば蝦夷の國を之に數ふるも可なり。
熊襲の國
熊襲の國を之に數ふるも亦不可なきなり。
論者或は謂はん、熊襲國は筑紫島以外別に島を成すにあらず、之を一島と數ふべきにあらずと。
復謂はん、熊襲は古事記之を特に國といひ、島とはいはざるを如何にと、然れども古代都人士の僻遠の地理に暗き、必ずしも其の實地を踏査せしにあらねば、深く是が言辭の末に拘泥すべきにあらず。
彼の越洲(こしのしま)の如き、名義は越(こし)人即ちアイヌ族占據の地の謂にして、漠然と今の北陸兩羽地方を指せしものなるべく、固より本州の一部にして、別に一島を成すにあらずと雖、而も其の地がもと越人(こしびと)占據の地方として、自ら別個の國の如く考へられたりしかば、之を特に越ノ洲として、日本紀には大八洲の一にしも數ふるなり。
而して熊襲の場合亦之を以て類推すべからずや。
尚言はば、當時薩南海中にも島嶼の存在することは、之を熟知したるべければ、之を以て熊襲占據の島と想像し、之を別個に數ふること、亦これなしと謂ふべからず。
其の之を國と云ひて島と謂はざるは、上に筑紫四國の名を擧げたるによりて紛れたるものか、或は熊襲征討の古傳説によりて、熊襲國の名人口に膾炙せしより生ぜし誤りならんも知るべからず。
舊事本紀の筑紫四面に關する記事
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
筑紫島身一つにして面四つあり、面毎に名あり。とあり。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を速日別と謂ひ、日向國を豊久士比泥別と謂ふ。
次に熊襲国を建日別と謂ふ一に謂ふ佐渡島と
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。
舊事本紀の價値
元來舊事本記は僞書として、従來多くの學者の排斥する所なれども、そは本書を以て聖徳太子御撰の書なりと稱するが為にして、其の記事の内容、必ずしも悉く捨つべきもののみにあらず。
本書はもと日本紀、古事記、其の他の古書の章句を抄録して、編を成せるものなれば、中には重複もあり、矛盾もあり、一編の著書として整備せるものにはあらず。
随って其の記事が抄録せられたる原書以上に、史料としての價値なきは勿論なれども、而も編次は少なくも平安朝當時にして、恐らくは延喜以前にありきと認めらるるほどの古書なれば、中には其の抄録せられたる原本の、全く後世に失はれてもはや見るべからざるもの少なからず。
又其の存するものと雖、本書によりて後に傳冩の失より生じたる魯魚焉馬の誤謬を訂正すべきものなきにあらず。
而して此の熊襲國の記事の如き、亦實に其の一例とすべきに似たり。
即ち當初の古事記は、舊事本紀之を轉載するが如く、漠然九州東南部の地方を日向の域とし、筑紫筑前筑後、豊豊前豊後、肥肥前肥後、の三國とともに之を筑紫四國と數へ、別に熊襲島を其の次に置きしものにして、所謂大八洲中にはもと佐渡を脱せしものにてはあらざりしか。
されど日本紀編纂せられて、此の書世間に流布し、景行天皇西征の際の熊襲の位置が、日向の南部に當るが如く世人に解せらるるに至りてより、後には日向を以て熊襲國と同一視し、遂に此の誤謬を生ずるに至りしにてもあるべし。
今古事記の諸本を取りて之を閲するに、本居宣長古訓古事記に於て、筑紫四面に日向國を除くの説を採りてより、世人多く是に見慣れたれども、寛永の版本、渡會延佳の〇頭古事記を始めとして、元々集所引古事記等、皆日向を四面の一に數へ、其の説もと一般に行はれたりしを知る。
然るに古事記傳には、
此ノ處舊印本及延佳本、又一本などには、肥國謂二速日別一、日向國謂二豊久士比泥別一と作(あ)り。
されど如此(かく)ては、上に有二面四一云々とある數に合はざれば、日向ノ國の無き方ぞ古本なるべき。
然るに右の如く日向ノ國の加はりたる本は、舊事紀に依って後人のさかしらに改めたるものとこそ思はれる。
と云ひて、上の「面四つ」といふことに重きを置き、又舊事本紀の記事を引きて、
舊事紀に右の如くあるなり。
其は此の記を取って記すとて、日向のなきを疑ひて、彼の日向日とある亦ノ名を其(それ)として、下の日ノ字をを國に改め、其の下に謂ノ字を補ひて、豊久士比泥別を其の日向ノ國の亦ノ名とし、又然為(しかす)る時は、肥ノ國の亦ノ名建一字になりて足(たら)ざる故に、次の熊襲の國の亦ノ名に效(なら)ひて、日別ケの二字を加へ、又さては熊襲のと全ク同じき故に、建を速に改めつるものなり。
凡て彼の書はかくさまのさかしらいと多し。
されど上の有二面四一とあるには心づかで、其(それ)をば改めずて、偽りの顕はれたるぞをかしき。
然るを後ノ人此ノ舊事紀のさかしらなる事を得曉らで、日向ノ國の有(ある)を宜(うべ)なりとして、遂に此ノ記をさへに然(しか)改めつる、其の本の世には流布れるなりけり。
とて、甚しき臆説をさへ加へたり。
されど熊襲を舊事紀の如く筑紫四面の外に置かんには、面四つといふに何等の支障を生ずべからず。
況や肥の國の別名を建日向日豊久士比泥別としては、此の名のみ特に長くて、他と權衡を失するのみならず、一方には日向の名を東方に向ふの義と解しながら、主として西海に面する肥の國の別名に、日向日の語あることも如何と思はれ、又西肥の域より九州脊梁山脈を越えて、遠く東海岸にまで渉り、之を通じて肥國として、筑紫四面の一に置かんこと、地理上到底首肯すべからざるあるをや。
本居氏の説蓋し千慮の一失なるべし。
熊襲國の位置に關する思想
熊襲のことは後に詳説すべきも、もと是れ或る民族の名稱にして、定まりたる一國の名にあらず。
又日本紀の傳ふる所によるも、其の域必ずしも日向、大隅、薩摩の地方と一致すべきにあらざるなり。
仲哀天皇朝の熊襲征討が、筑前香椎宮を根據として行はれ、其の陣中賊矢に當り給へりと言はるる同天皇が、痛身(いたづき)の翌日香椎宮にて崩じ給ひきと傳へらるるが如き、又其の後神功皇后神教のままに、吉備臣の祖鴨別を遣して討たしめ給ひし熊襲國が、浹辰(しばらく)を経ずして自ら服せりと稱せらるるが如き、又皇后自ら兵を用ひ給ひし範圍が、筑前、筑後の外に出でたりとは見えざるが如き、偶々(たまたま)以て古への熊襲の國が、筑前香椎を距る甚だしく遠からざりし地方にも存したりと信ぜられたりし證とすべし。
されば日隅薩地方と熊襲とを一國とし、之を以て筑紫四面の一とせんは、之を孰れの方面より論ずるも到底容るべきにあらざるなり。
古事記に所謂熊襲國は、實は古傳説に存する異族熊襲占據の國を、漠然と然か呼稱せるものにして、天孫降臨三代神都の地と信ぜられたる日向國と同視すべきにあらざるなり。
後に隼人の國として認められたる薩、隅二國が、行政上漠然日向の域内に編入せられたりしは當時の地方に於ける異民族が多く夙に邦人に同化し、是と融合して其の蹟を邦人中に没せし後の事にして、なほ平安朝に於て本州北端の蝦夷の國が、漠然陸奥、出羽の中なりと認められたりしと同一の現象なりとすべし。
されば此の形勢を以て、必ずしも太古の傳説を律すべきにあらず。
奥羽の南部も嘗ては蝦夷の國たり。更に遡りては關東地方も、又其の西の地方も、同じく蝦夷の國たりし時代のありしことを考へ合すべきなり。
豊久士比泥別の名と日向
更に思ふに「豊久士比泥別(とよくしひねわけ)」の名、既に日向に縁故あるが如し。
「豊」は美稱にして「別」は男子の別稱なれば、暫く其の名より之を除き、其の中間なる「久士比泥」の語に就いて考ふるに、其の音蓋しクシフル、又はクシヒといふに近し。
天孫降臨の地を日向の高千穂の久士布流(くしふる)の嶽といひ、或は槵日(くしひ)の高千穂の峰と云ふ。
國音往々良好と奈良と相轉ず。
日本紀に武夷鳥(たけひなとり)命とある神を、古事記に武比良鳥(たけひらとり)命と云ひ、越前の角賀(つぬが)を後世ツルガ(敦賀)と呼び當國財部(たからべ)を後にタカナベ(高鍋)と稱し、周防の束荷(つかに)をツカリと呼び、信濃の小谷(おだに)をヲダリといひ、近江の男鬼(ををに)をヲヲリと讀み、又「稲荷」と書きてイナリと訓ずるの類皆是なり。クシヒネとクシフルと、其の語源を一にすと解する、其の理由なしと謂ふべからず。
而して其のクシヒと謂ふは、或は其の末音を略したるものにてもあるべきか。
果して然らば、豊久士比泥別の名を以て、肥國の別名なりとせんよりは、之を日向の別名なりとするを當れりとせん。
此の事亦以て、筑紫四国を筑、豊、肥、日の四国となす古傳説の傍證となすべからんか。
而もなほ疑ひなきにあらず。
試みに記して後の考を俟たん。
若し夫れ熊襲の事、並びに其の隼人との關係に就きては、更に第二編第三章景行天皇西征の條以下の諸章に詳説すべし。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現
黄泉國
伊弉諾、伊弉冉の二尊は、大八洲國を始めとして、多くの神々を生み給ひしが、最後に火の神なる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生み給ふ事によりて、伊弉冉尊火傷して崩じ給ひ、黄泉國(よもつぐに)に入り給ひき。
黄泉國は即ち根國(ねのくに)なり。
伊弉諾尊之を悲しみ給ひ、追ひて其の國に到り給ひしに、伊弉冉尊の御肉體腐爛して、極めてあさましき御態(おんさま)にてましまししかば、見畏(みかしこ)みて逃れ還り給ふ。
乃ち黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引の石を引さ塞へ給ひ、是より我が現國(うつしぐに)と、黄泉國との交通は絶へたりといふ。
其の所謂黄泉比良坂は、出雲國の伊賦夜坂(いふやさか)なりと古事記に見ゆ。
今同國八束郡に揖屋村(いやむら)あり、延喜式内に揖夜(いふや)神社あり。
蓋し其の古傳説地の名を傳ふるなり。
伊弉諾尊黄泉國に到り、其の穢れに觸れ給ひしかば御身を清め給はんが為に、粟門(あはと)と速吸名門(はやすひなと)とに到り給ふ。
兩所共に潮流急なり。
乃ち更に轉じて筑紫日向の橘の小戸の檍原(あはきはら)に到り、ここに海水に浴して禊祓(みそぎはらひ)し給へり。
これ禊祓行事の濫觴なり。
天照大~以下の諸~日向に生れ給ふ
此の時八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)、伊豆能賣神(いづのめのかみ)、底津少童神(そこつわだつみのかみ)、中津少(なかづわだ)童神(つみのかみ)、表津少童神(うはつわだつみのかみ)、底筒男神(そこづつをのかみ)、中筒男神(なかつつをのかみ)、表筒男神(うわづつをのかみ)の諸神、御身を濯ぎ給ふ事によりて生じ、最後に左の眼を洗ひ給ふ事によりて天照(あまてらす)大神(おほみかみ)生じ、右の眼を洗ひ給ふ事によりて月讀尊生じ、鼻を洗ひ給ふ事によりて素戔鳴尊生じ給ひきと言ふ。
此の中、底筒男、中筒男、表筒男の三神は、即ち住吉大神(すみのえのおほかみ)にして、底津少童、中津少童、表津少童の三神は、是れ阿曇連等(あづみのむらじ)が齋(いつ)き祭れる筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)なりとあり。
或は云、衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)、道之長乳歯神(ながちはのかみ)、時置師神(ときおかしのかみ)、和豆良比能宇斯能神(わずらひのうしのかみ)、道(ち)俟神(またのかみ)、飽咋之宇斯能神(あきくひのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那藝佐毘古神(おきつなぎきびこのかみ)、奥津甲斐辨(おきつかひべ)羅神(らのかみ)、邊疎神(へさかるのかみ)、邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)等、また此の時に生ずと。或は又云ふ、磐土命(いはつちのみこと)、底土命(そこつちのみこと)、大綾津日神(おほあやつひのかみ)、赤土命(あかつちのみこと)、及び大地(おほつち)、海原(うなばら)の諸神生ずと。
古書の傳ふる所其の説一ならず。
天照大神等の御出現に就きても異説多し。
年代悠遠、所傳簡古にして、今より其の詳細を知るを得ず。
されど天照大神、月讀尊、素戔鳴尊の三貴神を始めとして、住吉神、綿津見神(海神少童神と云ふに同じ)等の諸神が、日向の地に生れ出て給ふとの古傳説は、此の國が天孫降臨以前、既に我が大日本國發祥の縁由を有せし地なりとして、古人によりて語り傳へられたることを示せるものなりと謂はざるべからず。
天照大神靈徳あり、光華明彩六合の内に照徹し給ふ。
伊弉諾尊乃ち之を天に上(のぼ)して、高天原を治めしめ給ひ、月讀尊光彩之に亞(つ)ぎ給へるを以て、亦天に送りて之に配せしめ給ふ。
かくて素戔鳴尊は天が下を治らすべく定められ給ひしが、此の神勇悍にして粗暴の御行為多くまししかば、伊弉諾尊遂に之を根ノ國に逐(お)ひ給ふ。
或は云ふ、尊高天原にありて、天照大神に對し奉り、粗暴の御行為多かりしかば、諸神相議して科するに千座置戸(ちくらおきど)の祓(はらひ)を以てし、之を根ノ國に逐ひ奉ると。
根ノ國は即ち伊弉冉尊のまします黄泉國なり。
ここに於て大八洲國未だ定まれる君を得ず。
或は云ふ、月讀尊夜食國(よるのおすくに)を治らすと。
又曰く、滄海原(あをうなばら)を治らすと。
三神分治に就きても異説多く、今之を詳にすべからず。
私按一、 禊祓(みそぎはらひ)の意義
清潔を尚ぶの習俗
伊弉諾尊が日向の檍原にて禊祓し給ひしことは、尊が黄泉國に到りて其の穢に觸れ給ひしかば、之を清め給はんとてなり。
禊は身滌(みそそぎ)なり。
祓は拂(はらひ)なり。
水に浴して身を滌ぎ、穢れを拂ふなり。
邦俗清潔を尚(たっと)びて死穢血穢を忌むこと甚だしく、或は海岸河畔等に産小屋、月小屋を設けて、婦人一定の期間ここに移り住み、産穢の期間を経過し、或は終りて、水に浴して身の穢を去りたる後にあらざれば決して自宅に歸らず、神に近づかざるの習慣は、後の世までもなほ處々の海岸部落に遺れり。
維新後教育の普及と共に、古俗舊慣の廢せらるるもの多く、禊祓の遺風の如きも僅に神事にのみ存して、一般には之を見る少なきに至れるも、なほ越前敦賀彎西岸地方の如き、或は特殊の地方には、嚴に其の俗を保存せるあり。
なほ此の事は第八章産屋の條下に詳説すべし。
海水浴の習慣
禊祓を行ふは、或は之を海に於てし、或は之を川に於てすること、其の地の便に従ふが如きも、本來海水に浴するを以て其の本體とせしよしは、今に至ってなほ盬祓と稱し、食盬を蒔き散らして穢を除くの習慣あるによりても知らるべし。
延喜式祝詞の大祓ノ詞にも、天津罪、國津罪を速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津媛といふ神、大海原(おほうなばら)に持ち出で、荒盬の盬の八百道(やほぢ)の八盬道の、盬の八百會(やをあひ)に坐す速開都媛(はやあきつひめ)といふ神、之をカカと呑み、氣吹戸(いぶきど)にます氣吹戸主(いぶきどぬし)といふ神、之を根ノ國、底ノ國に氣吹(いぶ)き放ち、根ノ國、底ノ國に坐す速佐須良媛(はやさすらひめ)と云ふ神をさすらひ失ひ、かくて罪と云ふ罪はあらじと、祓ひ清むるの行作を述べたるを思ふに、海水は一切の罪悪汚穢を収容して、之を根ノ國の送達するものなりとして信ぜられたりしものの如し。
而して其の禊祓のことは、既に此の伊弉諾尊が我が日向の檍原に於て行ひ給ひしと傳へらるるなり。
以て我が古俗を見るべし。
尊が御身を穢し給へりとのことは、古事記に、黄泉國に伊弉冉尊を訪(とぶら)ひ給ひし時の狀(かたち)を記して、
伊弉諾尊の黄泉國訪問
左の御髻(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆづつまぐし)の男柱一個を取り闕きて、一つ火點(とも)して入り見ます時に蛆集(うじたか)れ盪(とろろ)ぎて、頭には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷(くろいかづち)居り、陰には拆雷(さくいかづち)居り、左手には若(わか)雷(いかづち)居り、右手には土雷(つちいかづち)居り、左足には鳴雷(なるいかづち)居り、右足には伏(ふし)雷(いかづち)居り、併せて八雷神成り居りき。とあるによりて知らる。
ここに伊弉諾尊、見畏みて逃げ還ります時に、其の妹(いも)伊弉冉尊、吾に辱(はぢ)見せ給ひつと申し給ひて、即ち黄泉醜女(よもつしこめ)を遣はして追はしめ給ひき。
爾(かれ)伊弉諾尊黒御鬘(くろみかづら)を取りて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち蒲子生(えびかづらのみな)りき。
これを〇食(ひりは)む間に逃げ出でますを、猶追ひしかば、又その右の御髻(みみづら)に刺せる湯津瓜櫛を引き闕きて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち笋生(たかむらな)りき。
こを抜食(ぬきは)む間に、逃げ出でましき。
且(また)後には、かの八雷神に千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副へて追はしめき。
爾御佩(かれみは)かせる十拳劔(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)にふきつつ逃げ來ませるを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到るときに、其の坂本なる桃子(もものみ)を三箇取りて、待ち撃ちたまひしかば悉く逃げ返りき云云。
蓋し古俗觸穢を以て罪悪の一となしたりなり。
されば伊弉諾尊は、千引の磐石を以て黄泉比良坂を塞ぎ、黄泉國との交通を絶ちて、我が日向の檍原に來り、茲に禊祓し給ひきと傳へらるるなり。
私按二、黄泉國の辨
根國と出雲地方
黄泉國は、伊弉冉尊が崩じて後入り給ひし暗黒の國にして、尊の御形骸はそこに腐爛の状を呈し、恰も墳墓の壙内なるかの如く、極めて忌はしき穢れたる處として傳へられたり。
而も現國(うつしくに)より此の國に通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、古事記に之を出雲國の伊賦夜坂(いふやざか)なりといへり。
蓋し古へ黄泉國即ち根ノ國を以て、出雲地方、若しくは其の方角にありとし、此所よりして其の國へ交通せしものなりと信ぜられたりし事を示せり。
出雲風土記に闇見(くらみ)ノ國あり。
夜見ノ島あり。
闇見(くらみ)ノ國は今は八束郡の内なる、もとの島根郡の地にして、延喜式には同郡久良彌(くらみ)神社といふもあり。
出雲風土記には椋見(くらみ)社に作る。
又夜見島は、今は砂嘴(さし)之を連ねて、伯耆の夜見ガ濱となれり。
黄泉國は一に夜見ノ國とも、又根ノ國ともいふ。
暗黒の國として信ぜられたれば、其の夜見と云ひ、闇見と云ふも、名義に於て互に縁由ありげに見ゆるなり。
されば是等の地も、嘗ては夜見ノ國に關する傳説を有し、若しくは其の一部として信ぜられたりしものか。
出雲風土記には、別に出雲郡宇賀郷の條下に、
磯より西の方に窟戸あり。
高さ廣さ各六尺許(ばかり)。
窟の内に穴あり、人入るを得ず。
深浅を知らず。
夢に此の磯の窟の邊に至る者は、必ず死す。
故に俗人、古より今に至るまで、號して黄泉(よみ)ノ坂、黄泉(よみ)ノ穴と云ふなり。
とありて、黄泉國を出雲の海岸より通ずる地下の國として信ぜし狀(かたち)を示せり。
尚言はば、黄泉國に入り坐せる伊弉冉尊を、古事記には黄泉津(よもつ)大神と云ひ、出雲國と伯伎國との境なる比婆ノ山に葬るともあれば、此の地方亦黄泉國の中として信ぜられたりしものか。
ともかくもこの國が、出雲地方若しくはその方角にありとして信ぜられたりしことは明なりとす。
かく黄泉國の位置に就きては、種々の古傳説ありといへども、ともかくも其の國はもと出雲系統の諸神の祖國として信ぜられたりしなり。
而してそこには、伊弉冉尊の長(とこ)しへに鎭(しずま)りませるなり。
されば古事記には、素戔鳴尊の御語(ことば)を録して、「妣國(ははのくに)の根之堅洲國(ねのかたすくに)に罷(まか)らんと欲す」と云ひ、日本紀には、「母に根ノ國に従はんと欲す」とも見ゆるなり。
根國と朝鮮地方
而も其の根ノ國に就き給へる須戔鳴尊は、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅國に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居ますと、日本紀にあり。或は韓ク(からくに)の島より、其の御子神たちを紀伊國に渡し給ひて後、熊成峯(くまなりのたけ)にましますとも云へり。
熊成と熊野
熊成は日本紀雄略天皇條引日本舊記に見ゆる久麻那利の地にして、任那國下哆呼利(あるしたこり)縣の別邑なりとあり。
須戔鳴尊はここに鎭まりましきと傳へられたるなり。
出雲に國幣大社熊野神社あり。
此の神を祭り奉る。
熊野は蓋し熊成と同語の轉訛なり。
紀伊の熊野亦此の系統の神々に縁あり。
出雲系統の諸神と紀伊
尊の御子神達は多く紀伊に鎭まり給ひ、又日本紀の一書には、其の妣神(ははがみ)とます伊弉冉尊を、紀伊の熊野の有馬村に葬り奉るともあるなり。
紀伊の熊野の名も、亦此の熊成及び熊野の大神に縁あるを否定すべからず。
更に其の御子五十猛神(いたけるのかみ)の事を、延喜式には、韓國伊太氏神(からくにのいだてのかみ)ともあり。
出雲各地に鎭まり給ふ。
而して此の神亦日本紀に、大屋津姫、抓津姫(つまつひめ)など、素戔鳴尊の他の御子神達と共に、韓國より渡りて樹種を傳へ給ひきと傳へられ、共に紀伊國に祭られ給へるなり。
今是等の諸説を合せ考ふれば、根ノ國とは、或は朝鮮地方の國なりとして信ぜられたりしものなりとも解せられざるにあらず。
而して素戔鳴尊の御子神として、八十神達を従へて、もと我が國を領し給ひし大國主神は、後に出雲の大社に鎭まり給ひしも、其の魂は大物主神として、大和の三輪山に鎭まり給ひ、其の三柱の御子神達も、亦大和各所に鎭まり給ひて、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護り神となり給ひきと傳へらるるなり。
蓋し出雲の神の系統に属する民族は、もと朝鮮方面と特殊の關係を有し、大和平野を中心として、紀伊其の他、廣く大八洲國に繁延せしが、後漸次大和民族に同化融合して、其の民族的獨立を失ひし後までも、出雲及び紀伊の地方には、久しく其の系統の民族が維持せられ、ここに其の祖神を祭り、祖神の陵(みささぎ)を傳へ、祖神の傳説を保存せしものなるべし。
殊に大國主神は、國を天孫に譲り奉りて後、出雲なる杵築大社に鎭まり給ふと傳へられて、此の系統の諸神の御事蹟に關しては、出雲地方に於て最も濃厚に保存せらるるものか。
根國と黄泉國
而も其の祖國たる根ノ國が、死後の黄泉國の思想と合體するに及びて、或は暗黒の國なるが如く、或は地下の國なるが如く、或は墳墓の壙内なるが如くにも傳へられ、伊弉諾尊の千引の岩を置き給ふことによりて、現國(うつしくに)との交通の絶えたることを言ふに至れるものならん。
されば日本紀の一書には、伊弉冉尊の入り給ひし黄泉國を以て、「殯歛(ひんかん)の處」なりとし、他の一書には、「所謂黄泉比良坂は復別に處あるにあらず、ただ臨死氣絶の際を謂ふか」とも解せるなり。
こは自ら別問題なれども、ともかくも伊弉諾尊は、黄泉國にて其の穢に觸れ給ひ、之を清め給はんとて、粟門、速吸名門を過ぎ、遠く我が日向の檍原に來り給へりとは、古く語り傳へられたりしところなりとす。
私按三、粟門と速吸名門との所在
粟門
粟門は従来、學者多く解して阿波の鳴戸となす。
其の潮流の急なりといふに恰當す。
或は云ふ、紀淡海峽なる友が島を古へ淡島(あはしま)と稱し、もと紀伊加太(かだ)なる淡島明神の鎭座せしところにして、其の海峽卽ち所謂由良の門は潮流の頗る急なれば、アハ門或は此の海峽ならんかと。
速吸名門
次に速吸名門は、神武天皇東征の時國ツ神珍彦(うづひこ)を得て海路の嚮導(きょうどう)となし給ひし處にして、古事記には、之を吉備と難波との間に叙す。
卽ち明石海峽なり。
亦潮流急なりと云ふに相當たる。
然るに日本紀には、其の速吸名門を日向と宇佐との間に叙し、之を佐賀ノ關海峽に當つ。
此の地亦潮流急なるのみならず、延喜式に豊後海部郡早吸日女(はやすひひめ)神社の、其の古地名を傳ふるあれば、是を以て之に擬するもの多し。
蓋し速吸名門とは、早吸(はやすひ)の門(と)と卽ち海水を速く吸ひ込むが如き潮流の急なる瀬戸の義にして、もと普通名詞なるべければ、必ずしも一所とのみ限るべきにあらず。
同一の事件を數所の速吸名門に就きて、各自地方的に語り傳へしこともあるべし。
而して伊弉諾尊が、此の粟門と速吸名門とを過ぎて、最後に我が日向の地に到り給へりとせんには、之を鳴戸と解し、由良の門と解し、又明石海峽となし、佐賀ノ關海峽となす。
何れにても通ずべし。
私按四、檍原出現の諸神に就きて
天津神と國津神
我が古傳説に見ゆる諸神は、之を大別して天津神、國津神の二系統となす。
傳ふる所一ならずして、其の區別頗る困難なるも、之を槪説すれば、天津神とは高天原の諸神にして、國津神とは、天孫降臨以前より此の國土にます諸神なり。
卽ち高天原より來れりと傳へらるる民族の祖神として祭る神と、其の以前より此の國土に住する民族の祖神として祭る神との別を云ふなり。
而して其の國津神と呼ばるるもの多き中にも、出雲の大國主神の系統の諸神と、伊弉諾尊の檍原に於ける禊祓の時に出現せる諸神との二大流派あり。
海神
住吉大神(すみのえのおほかみ)、筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)の如きは、此の後者中の重なるものとす。
大寶令の古記に住吉大神を天津神となす。
こは同じく此の禊祓によりて出現し給へりと傳へらるる天照大神以下の三貴神を、天津神と稱するにより、其の關係にて同じく天津神の中に収め奉れるものならんも、新撰姓氏録には、海神の系に属する諸家を、地祇、卽ち國津神の系に列したり。
三貴神降誕の御事は、別の傳へには冉尊の黄泉國に入り給ふ前にありて、諾冉二尊の御間に生まれ給ひし御子ともありて、殊に尊き神にませば、自ら區別あるべし。住吉神、斯我神は、山神の山を守り給ふと同じく、此の國土にありて海を守り給ふ神として信ぜられ、主として漁業航海に從事せし海人等の齊(いつ)き奉る神にますなり。
而して是等の神々が、檍原の禊祓によりて出現せりと傳へらるるは、自から海人系統の民族の祖先を語れるものに似たり。
道祖神
船戸神(ふなどのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)等、俗に道祖神(さいのかみ)として祭らるる神々の、此の禊祓の際に出現せりと傳へらるることも、亦古く此等の神々を祭れる民族の、同じ系統に属することを語れるものと解すべし。
なほ是等の事は第五章に於て詳説する所あるべし。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現
私按五、三貴神分治の説
天照大神以下三貴神の出現に就いて種々の異傳あるが如く、其の治(し)らし給ふ所に就いても亦種々の異説あり。
三神分治の異説
天照大神が日の神たる最貴の神として、高天原に君とます御事には論なきも、月讀尊は或は高天原にありて日の神に配し給うと云ひ、或は夜食國(よるのおすくに)を治らし給ふとも云ふ。
又素戔鳴尊は海原(うなばら)を治らすべしとし、或はもと天が下を治らすべく定められ給ひしも、粗暴の行為おはししにより、妣(はは)の國として伊弉冉尊のます根ノ國へ遣はされ給ひきとも傳へらるるなり。
月讀尊が夜の食國を治らし給ふと云ひ、日の神に配し給ふといふは、日月共に天空に懸れるに擬したる説なるべきも、其の海原を治らし給ふとは、蓋し素戔鳴尊と混同したる結果なるが如し。
月の神と素戔鳴尊との混同
日本紀には此の神保食神(うけもちのかみ)の許に使して、其の無體を怒り、之を斬り給へるの傳説あり。
此の事は古事記に、素戔鳴尊が大氣都比賣(おほげつひめ)の許に使して、之を斬り給へると同一の説話なりとす。
以て兩神の混同せらるるものあるを見るべし。
海原
海原(うなばら)は滄海の事にして、漁撈航海を業とする民の以て生活する所。
我が海國にありては、もと海の幸(さち)によりて生活するもの頗る多く、海は陸と共に人生上必要なる場所たりしを知るべし。
而も一方には韓ク(からくに)を海表の國と云ひ、神武天皇の皇兄稻飯尊、妣(はは)の國として海原(うなばら)に入り給ひしことを傳へ、而も後に新羅の國主となり給ひ、後裔新良貴(しらぎ)氏となれりといふを思ふに、素戔鳴尊が朝鮮と深き關係を有し給ふことと、海原を領し給ふといふことと、互に相關係する所あるが如し。
須戔鳴尊が一旦天が下の君たるべく定められ給ひきといふことは、其の御子大國主神が其の御名の如く大國の主となり給ひ、後に其の國を天孫に譲り奉りて、大地主神として大倭神社(おほやまとじんじゃ)に祭られ給ふといふと同じ筋の説話にして、此の系統の神はもと我が國を領し給ふべき尊き神にてましまししが、故ありてそれを去り給ひきとのことを語れるものと解すべし。
斯(か)く高天原を治らし給へる日ノ神も、之に次ぎて日ノ神に配し給へる月ノの神も、又一旦天が下を領すべく定められ、其の御子に大國主神を有し給へる須戔鳴尊も、共に我が日向の橘の小戸の檍原にて、出現し給へる神として語り傳へらるるなり。
第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
第二節 檍原の古傳説地
檍原の所在に關する諸説
諾尊禊祓の地なる檍原が、我が日向の域内なるべく古人によりて信ぜられたりしことは、其の地名に「筑紫日向」の名を冠する事のみによりても徴證甚だ明なりとす。
而も之に關して古來亦頗る異説なきにあらず。
或は之を以て長門の赤間關附近にありし、或は之を以て、筑前に其の所ありとするものあるなり。
之を長門なりとするの説の如きは、今日に於て特に之を辨ずるの價値を認めざれば擱(お)く。
之を筑前なりとする説は先輩の間に頗る有力にして、亦多少の據なきにあらず。
よりて聊(いささ)か之を辨ぜん。
筑前説
本居宣長の著古事記傳には、
「日向は」二つの義あるべし。とあり。
一つには比牟加比乃(ひむかひの)と訓(よ)みて、日の向ふ地と云へるなり。
此の考に依るときは、筑紫とは筑前、筑後の域を云へるにもあるべし。
今一つには比牟加乃と訓みて、卽ち日向ノ國のことなるべし。
此の考に依るときは、筑紫とは九國の總名なり。
右の二つの考何れよけむ、決(さだ)めかねたれど、書紀神功巻に、此を日向ノ國の橘ノ小門とあるにすがりて、姑(しばら)く國名の方に就きて、比牟加とは訓めり。
橘ノ小門。
書紀火折尊(ほをりのみこと)の段にも、此地名見えたり。
同處なるべし。
さて日向ノ國に、此地名物に見えず。
古へは大隅、薩摩の地までかけて日向と云へるを、其國々にもすべて物に見えず。
今も聞ゆる事なし(但し日向國に、今現に此舊蹟はたしかにありと云へり。
然れども、古書によりて舊蹟を設け作ること、世に多ければ、かるがるしくはうけがたし。)されば日向とある、日向國のことならば、後に此の地名は失せつるなるべし。
又日の向ふ地を云へるならば、九國の地にて尋ぬべし。
未だ斷定を與へたるにはあらざれども、其の日向なる舊蹟と云ふを後の附會と疑ひ、更に貝原篤信の説を引きて、
筑前國糟屋郡に立花と云ふ處あり。
又席田郡にも、早良郡にも、青木村と云ふもありて、海邊なりと云へり。
信(まこと)に此の禊になりませる墨江大神(すみのえのおほかみ)、又志加海神(しかのあまのかみ)の鎭座も、皆彼の國なれば、由ありて覺ゆ。
かの青木村のあたりに、小戸と云ふものありと、貝原氏は云へり。
筑前説の批評
とて、頗る筑前説に傾けり。此の説今なほ有力にして、學者往々之を唱道するものなきにあらず。
如何にも其の地が筑紫の國の中にありて、地名を橘と稱し、附近に青木、又小戸の名もありて、諾尊禊祓の際に出現し給へる、住吉、斯我の二神の鎭座せることなどの事實を綜合すれば、數多の材料殆どここに具備して、古傳説と符節を合すが如き觀あり。
其の説の有力なる故なきにあらず。
然れども、更に飜(ひるがえ)りて考ふるに、筑紫とはただに兩筑地方にのみ限らざるなり。
之を廣く九州全島の意義に用ふる事、四面を合せて筑紫の島と云へる古事記の傳説は更に言はず、後世までもなほ其の例多し。
令集解引古民部省式の如き、明かに西海道諸國を總括して筑紫國となし、又古くは之を管する大宰駐剳(ちゅうさつ)の府を、筑紫ノ大宰府としも言へるなり。
又タチバナの地名の如きも、必ずしも此の筑前の地にのみ限るべからず。
續日本紀寶龜九年條には、肥前國松浦郡橘浦あり、阿波國那賀郡にも亦現に橘浦の名を存し、其の他武藏國に橘樹(たちばな)郡橘樹(たちばな)郷あり、山城、大和、河内、伊勢、遠江、駿河、上總、下總、常陸、美濃、上野、陸中、加賀、越後等の諸國にも、皆それぞれにタチバナの地名を存するなり。
されば其の名義の由來は如何にもあれ、或る共通せる地形に就いて、若しくは何等かの關係に依りて、各地に同一なる此の名は起りたるものなりと見るべく、ひとり筑前にのみ之を求むべしとするを要せざるなり。
又彼の青木、小戸等の名の其の、附近に存するに至りては、所謂「古書によりて設け作られたる舊蹟」としても解し得べきものか。
殊に其の筑前なる住吉大神の鎭座の事の如きに至りては、古事記、日本紀に於て、明かに神功皇后の征韓の際、皇軍を護り給ふべく此の地に顯れ給ひしを記したることによりて解すべく、必ずしも以て此の神發生の地たるの證とはなし難かるべし。
若し夫れ綿津見ノ神なる斯我ノ神の鎭座の事は、此の神を奉祀する阿曇連が、海人(あま)の長として此の地方に勢力を有したりしが爲ならんのみ。
又其の「日向」の二字を以て、國名にあらずして日の向へる地の形容に用ひたりとなすが如きは、是れ古傳の眞意にあらず。
「日向」は國名
其の國名として用ひられたりしものなることは、古事記傳にもすでに引けるが如く、日本紀神功皇后條に、住吉三神の託宣を記して、
日向國の橘の小戸の水底(みなそこ)に居て、水葉(みなは)も稚(わか)やかに出で居る神、名は表筒男、中筒男、底筒男の~あり。とあるによりても知るを得べし。
諾尊禊祓の筑紫ノ日向ノ橘ノ小門の地名に見ゆる日向は、是れ直に我が日向の國にして、所謂橘の小門が其の域内の地なりと信ぜられたりしことは、毫末(ごうまつ)の疑を容れざるなり。
橘小門は日向の地名
尚更に言はんに、同じ日本紀神代巻の一書に、火折尊(ほをりのみこと)卽ち彦火火出見尊を海神宮に導き奉りし八尋鰐(やひろわに)の事を記して、
海神の乗る所の駿馬は、八尋の鰐なり。とあり。
是れ其の鰭(ひれ)背をたてて、橘の小戸にあり。
古傳説によるに、彦火火出見尊の御事蹟は、常に我が日向地方に於て演ぜられたるものとして信ぜられたり。
然るに如何ぞ遠く筑前に八尋鰐を尋ねて、是に海神宮の嚮導(きょうどう)を求めたりと語り傳へんや。
古へに所謂橘の小門が、古代人士によりて、我が日向の域なりと信ぜられたりしこと疑あるべからず。
芥屋大門説
更に一説には、同じ筑前の中にも、糸島郡なる芥屋(けや)の大門(おほと)を以て、橘の小門に擬せんとするものあり。
而も是れただ玄武岩より成れる自然の一大岩洞のみ。
大門(おほと)と小門(をと)と名の稍(やや)似寄りたりと云ふの外、深く據(よ)るべきものあるにあらず。
固(もと)より以て辨ずるまでもなかるべし。
橘小門檍原の義
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。
檍原は宮崎附近の地
之を宮崎地方の海岸にありとする説に就いても、亦本居翁が巳に指摘せるが如く、古書に其の徴證あるを見ず。
然れども、由來日向の地西陲(すい)に僻在して、中央との交渉甚だ少かりしが故に、ただに檍原の事のみならず、他の事件に就いても、其の古書に見ゆる極めて少なく、奈良朝の古風土記、亦僅に一二節を存するに過ぎざる程なれば、古書に見る所なきの故を以て、直に之を排斥すべきにあらず。
少なくも往時に於て宮崎郡の海岸地方に、小戸ノ渡、住吉神社などの存せしことは明かにして、當時之を以て檍原の地なりと解したりしものなるは、推測するに難からず。
之を近き代の文献に求むるに、伊東義祐が永禄五年の飫肥紀行と云ふものに、
飫肥紀行の檍原
急ぎける程に、檍が原の波間より露はれ出でし住吉の里の近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る。玉鉾の道の行衞に見渡せば、人王の始、宮崎の京、神武天皇の御前近き所にて、辱さに泪落ちけりと云ひし古事まで、思ひ合せられて通りけるに、其の里人に事問へば、平家の一門景清の御墓もありと聞くままに、六字一編手向して行けば、程なく小戸の渡に至りぬ。神道の秘密數々に思ひ出づるとて、とあり。
神代より其の名は今もたちばなや、小戸の渡りの舟の行く末。
とよみ侍りぬ。
此の書義祐の作として、果して信ずべくば、少なくも戰國時代の頃、此の地に此の説のありしことを認むべし。
一ノ宮巡詣記檍原
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
十六日江田の御社へ參り、それよりあをきが原の住吉に詣でて、とも見ゆるなり。
尋ね來て聞けば心も住吉の、松はあをきが原の松原。
此の海邊に伊弉諾尊の身そぎし給ふ、上中下の三つの瀬ありと傳へし。
十七日、鵜戸山法花嶽へ參りたる山伏を、花が島より案内に頼み、うどの岩屋へ赴き、上別府を通り、赤江川舟あり。此の處を小戸の渡りと云ふ。此にも三つの瀬あり。古歌に、
日向なる小戸の渡りの鹽せみに、顯れ出でし~ぞまします。
此の鹽せみとは、北山大明~立ち給ふ上の瀬を云ふと聞きて、
あなたふと、詣でぬる身の心まで、あらふあかゐの北の~垣。
此の三つの瀬より諸人は初まりけり。
日向なる、小戸の瀬の浦こそは、人草の初めなりけれ。
と賤しき渡守の古歌を語りければ、所がらやさしくぞ思ひける。
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。
住吉~社
義祐が、「住吉の里近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る」と云ひし筒男の三~を祭れりと稱せらるるなり。
人或は云ふ、此の~延喜式内に列せられず、國史に著はれず、何ぞさる由緒ある古社なりとせんやと。
然れども、卽に云へる如く、日向は僻遠の國なれば、古代に於て中央と交渉極て少く、~祖發祥の地として信ぜられたる古國にてありながら、なほ且式内の~社僅に四社を數ふるに過ぎざる程なれば、此の住吉社の所見なき、必ずしも怪しむを要せざるなり。
小戸~社
又宮崎市上野町なる小戸~社は、もと大淀河口下別府にありしが、寛文二年九月十九日の地震に海岸陥没し、社地亦其の難に罹りしかば、ここに移轉せるものにて、傳へて伊弉諾尊を祭るといふ。
亦以て小戸の地名の古く存せし一傍證とすべきか。
之を要するに、諾尊禊祓の~蹟と稱する橘の小戸の檍原が、我が日向の域内にありきと信ぜられ、其の地が古く宮崎附近なりきと認められたりしことは疑を容れず。
或は思ふ、此の地大淀川西北より來りて海に朝す、流れ緩やかに、水淀むを以て大淀川の名を得たり。
而して後世其の河口に近く小戸の名あるは、蓋し大淀の轉訛より新に言ひ出だせしものにはあらざるかと。
されば現今傳ふる宮崎附近の遺蹟が、たとひ古書によりて後より設け作られたるものなりとするも、小戸の名の存する卽に戰國時代にありて、勿論近時の附會にあらず。
而して日向一國内他に之を傳ふる有力なる候補地なきに於ては、暫く之を以て諾尊禊祓、三貴~出現の古傳説地と定るを至當とせんか。
第三章 天孫降臨
第一節 大國主~の國土奉献
大國主~の國土經營
素戔鳴尊の逐はれて根ノ國に入り給ふや、途出雲を過ぎて簛の川上に八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稻田(くしいなだ)姫を娶りて、大已貴~(おほなむちのかみ)を生み給ふ。
大已貴~一に大國主~、又大物主~と云ふ。
少彦名命と力を戳せ、心を一にして、天下を經營し、廣矛を提げて服(まつろ)はぬ荒振~等(あらぶるかみたち)を從へ、遂に所謂大國の主となり給ふ。
後少彦名命は去りて常世(とこよ)ノ國に行き、大國主、~止まりて出雲にあり。
然れども、もと是れ天~の依(よ)ざし給ふ所にあらず。
以て此の國の主たるべからず。
乃ち天照大~は、御子天忍穂耳尊を下して葦原ノ中ツ國の主となし給はんとす。
然るに其の地には、蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)、蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)多(さは)にありて、草木又皆物言ふの狀態なりき。
大國主~國土を天孫に奉る
ここに於て天照大~は、高皇産靈~と共に、八百萬~を天安河の河原に會して衆議を徴し、之を鎭定せしめ給はんが爲に、大國主~の許に使者を遣はし給ふこと三度に及びき。
而も彼等は孰れも皆其の目的を達せず。
最後に經津主(ふつぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給ふに及びて、大國主~は其の子事代主~と共に、謹んで天ツ~の命を奉じ、身を避けて潔く國土を奉る。
時に事代主~の弟建御名方~あり、ひとり之を拒む。
乃ち之を追ひて信濃の諏訪に至り、遂に之を服せしめ、更に他の服(まつろ)はぬ荒振~等をも平らげて、高天原に復命し奉る。
第三章 天孫降臨
私按一、大國主~の國土經營
天孫降臨以前の大八洲國の狀態
天孫降臨以前に於ける我が大八洲國の狀態は、古事記に天照大~の~誥(こう)を記して、
此の葦原ノ中ツ國は、我が御子の知らさらん國と言依(ことよ)ざし給へる國なり。かれ此の國に速振荒振國~(はやぶるあらぶるくにつかみ)等多(さは)にありとなもおもほす。とあり。
又日本紀には前文引けるが如く、
彼の地には多く蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)、及び蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)あり、復草木咸能く物言ふ。と云ひ、又
葦原ノ中ツ國には、磐根(いはね)、木株(このもと)、草葉(くさのかきは)も、なほ能く物言ふ。夜は熛火(もころ)の如く喧響(おとな)ひ、晝は五月蠅(さばへ)なす沸騰(わきあが)る。などあるによりて、其の先住土着の民族の酋長等各地に割據し、殆ど統一する所なかりしと信ぜられたりし狀を察すべし。
ここに於てか之を安國(やすくに)と定め給ふべく、天孫降臨の要はありしなり。
されど其の統一なかりきと云ふが中にも、出雲を根據とせりと傳へらるる大國主~の如きは、夙に多くの多くの荒振~等を從へて、所謂大國の主となり、ここに有力なる政治上の一勢力を形成せしものなりと信ぜられき。
大國主~は素戔鳴尊の御子なりとも、又其の六世孫なりとも傳へられる。
素戔鳴尊既に簛ノ川上に於て高志(ごし)の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し給ふ。
高志は越(こし)にして、越人(こしびと)は卽ち日本海方面に占據せし蝦夷族の人民なりしならんか。
「蝦夷」正しくは之を「カイ」と讀むべし。
蓋し現に北海道、樺太等に住めるアイヌ族と、其の系統を同じくするものなり。
之を「アイヌ」といふは、蓋し「カイナ」の轉なり。
北海道及び樺太のアイヌ、嘗て己が族を「カイ」、又は「カイナ」と呼びき。
「ナ」は美稱の添辭にして、「カイ」蓋し其の本語なり。
されば樺太アイヌの事を、漢土の書に往々「苦夷」といひ。今も同島に住するオロツコ族、ニクブン族などより、之を「クエ」など呼ぶなり。
クイ、クエ、共にカイの轉なるべし。又同じアイヌ族にして、千島に住するもの、之を「クシ」といふ。
是れ亦もとクイと同語なるべく、コシ蓋し是と原を同じうする語なるべし。
越洲は蝦夷の島
日本紀に越洲(こしのしま)あり、大八洲の一に數ふ。
蓋し亦蝦夷の國の義なるべきか。而して其の「高志」を名に負へる八岐大蛇(やまたのおろち)とは、蓋し蝦夷族の數多の酋長の義なるべし。
素戔鳴尊此等の蝦夷族をも從へて、遺業を大國主~に附與し、根ノ國に入り給ふ。
大國主~は地主~
大國主~は、既記の如く一に大巳貴~、又大物主~などと云ひ、或は大國魂~、顯國魂(うつしくにだま)~、八千矛(やちほこ)~等の別名あり。
實にもと我が大八洲國を領せし國津~の首なるものにして、其の八千矛とは、蓋し武勇勝れたりしことを示せる美稱なるべし。
古事記に素戔鳴尊の此の~に告げ給ひし語を録して曰く、
汝(いまし)が持たる生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)を以て、汝が庶兄弟を、坂の御尾に追ひ伏せ、又河の瀬に追ひ撥ひて、おれ、大國主~となり、又現國魂~(うつしくにだまのかみ)となりて、我が女須世理毘賣(すせりびめ)を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷椽(ひぎ)高知りて居れ。とあり。
大国主~には庶兄弟八十~(やそかみ)ましきといふ。
八十~とは多數の~の義なり。
是等の八十~悉く此の~に從ひきとの傳説は、大國~が、所謂八千矛を提げて、多數の土着の豪族等を從へたりし事蹟を語れるものなりと解すべし。
而して其の從へられたる土豪等の中には、高志(こし)の八岐大蛇(やまたのおろち)等と同じく、越人卽ち蝦夷の族もあるべく、又奇稻田姫の親、手摩乳、足摩乳等と同じく、古くより出雲其の他の地方に住せし山~系統の民族もあるべし。
手摩乳~、足摩乳~等は、傳へて大山祇~の後稱せらるる。
大山祇~の事は後に説くべし。
この~の族はなほ海~の族たる海人(あま)が、海(うみ)の幸(さち)によりて生活する如く、山の幸によりて生活する部族なりしなるべし。
此の族もと廣く九州より、中國地方にまで蕃延せしが、其の中には一時越人(こしびと)の脅すところとなりしこと、彼の奇稻田姫傳説の示すが如きものありしならん。
而して素戔鳴尊が八岐大蛇を退治して、其の難を救ひ給ひきと傳ふるは、出雲の~が越人の壓迫より是等の民を救ひ給ひしことを傳ふるものならんなり。
大國主~既に庶兄弟八十~を從へ、又越の八國(やくに)を平げて大國の主となり、高志の國の沼河毘賣(ぬながはびめ)を婚(よば)ひて妃となし給ふ。
ただに幾多の土豪のみならず、越人の國をも從へ、又之を懐柔し、同化し給へるを云へるなり。
夷~三郎殿
後世或は此の~を夷(えびす)~(かみ)として崇敬す。
其の社は延喜式内攝津國菟原郡大國主西ノ~社にして、所謂西宮夷是なり。
もと其の攝社に三郎殿ありき。
或は夷三郎殿と稱す。
古事記に大國主~の御子を列記する中の、第三の男子に當れる事代主~を祭れるなり。
一説に三郎殿を蛭子(ひるこ)~なりと稱するも、毫も徴證を得ず。
中世以後此の西ノ宮の分靈所々に祭られて、大國主~は其の字音大黒に通ずるより、つひに印度の~たる大黒天に附會せられ、三郎殿専ら夷~の名を有し、大黒、夷、相並びて~と仰がるることとなれり。
大黒像の袋を負へるは、古事記に、大國主~が負袋者としてとして、庶兄弟なる八十~に從ひ行けりとある傳説に基づけるものにして、其の袋に代ふるに魚を以てしたる夷~像は、是れ即ち古への三郎殿の像なりしなり。
三郎殿の魚を持てるは、同書に、事代主~が出雲三穂が崎にて魚を釣れりとある傳説に基づけるものなり。
かくて其の大黒天と夷~とは、後世には共に破顔微笑の~として祭らるるも、古への夷~と三郎~とは、むしろ勇猛なる武~として信ぜられき。
古書の本地を云ふもの、夷~を毘沙門天となし、三郎殿を不動明王となす。
大黒天の古~像の今に存するもの、往々忿怒の形相を呈する少からず。
而して是れ實に大國主~と、事代主~とが、勇猛なる素戔鳴尊の後に出で、武を以て國土平定し、先住土着の諸民族を服從せしめたりし由来を語れるものなりと謂はざるべからず。
中世武士をエビスといふ。
エビス~蓋し武士~の義か。
此の~もと主として漁業航海を守る~として、海岸住民の尊崇する所なりき。
海邊人亦古くエビスと呼ばれき。
エビス~或は海邊人の~の義か。
後に我が商業が多く航海業者におりて撥達せしより、夷~つひに商家の祭る~となり、財b授け給ふの~となりしものならむ。
第三章 天孫降臨
私按二、大國主~の隱退
大國主~の招諭
大國主~既に勇猛なる武~にして、先住土着の民を從へて大國の主たり。
されば天~の之に臨む亦頗る愼重にして、國土の授受決して平和談笑の間にのみ行はれたるにはあらざりき。
之を古事記及び日本紀の記事に見るに、初め高皇産靈~及び天照大~、八百萬~を天ノ安ノ河原に會して、之を如何にすべきかを議り給ふ。
乃ち思金~(おもひがねのかみ)、八百萬~と議して天穂日命(あめのほひのみこと)を遣はし、國土を天孫に奉るべき命を大國主~に傳へしむ。
天穂日命は天忍穂耳尊などと共に、素戔鳴尊が天照大~と高天原に於て誓約し給ひし際に生れ出で給ひし~にして、實に出雲國造、土師臣(はじのをみ)等の祖にます。
然るに大國主~、勢威強大にして、穂日命使命を完うする能はず、却って大國主~に媚びつきて、三年を經るも復命せず。
乃ち更に其の子武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣はし給ひしが、是れ亦父に從ひて歸らず、よりて更に天稚彦(あめのわかひこ)に授くるに天鹿兒弓(あめのかごゆめ)と天波々矢(あめのはばや)とを以てし、之を遣はし給ひき。
されど稚彦、亦大國主~の女下照姫(したてるひめ)を娶りて、其の國を得んとし、八年に至るも復命せず、爲に高皇産靈~の矢に中りて命を落と殞すに至り、最後に天津~は、更に武甕槌(たけみかづち)~に天鳥船~を副へて遣はし給ひき。
日本紀には、之れを經津(ふつ)主(ぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給へりとなす。
二~降りて出雲の五十田狭(いたさ)の小濱(をばま)に到り、十握劒を抜きて浪の穂の上に逆しまに立て、其の劒の前に跌座し、天ツ~の命を傳へて此の國土を奉るべきか否かを問ふ。
大國主~の服命
大國主~の御子事代主~、謹しみて命を奉じ、身を避け奉る。
別に大國主~の御子建御名方(たけみなかた)~あり。
ひとり之に抗す。
武甕槌~乃ち追ひて信濃の諏訪に到り、遂に之を服す。
建御名方~は卽ち諏訪大~なり。
ここに於て大國主~奏して曰く、「我が子二~卽に命を奉ず、我れ何んぞ違はんや、此の葦原ノ中ツ國は命のままに献らん。
我れもし禦がましかば、國内の諸~必ずまさに同じく禦ぎなん。
今我れ避け奉る。
誰か亦敢て順(まつろ)はざるものあらん」と。
乃ち國を平げし時に杖つきし廣矛を以て二~に授けて曰く、「我れ此の矛を以て卒(つひ)に功をなせり。
天孫若し此の矛を以て國を治め給はば、必ず當に平ぎなん」と。
是より二~諸の順(まつろ)はぬ鬼~等を誅して復命す。
其の大國主~は出雲の杵築大社に、事代主~は同國三穂~社に、又經津主~は下總の香取~宮に、武甕槌~は常陸の鹿島~宮に祭らるるなり。
武甕槌、經津主二~の此の行、大國主、事代主二~を從へたるを以て、功の最なるものとす。
故に日本紀の一書に曰く、「此の時歸順せる首渠は、大物主~(大國主~の別名)及び事代主~なり」と。
二~の勢盛なりし狀觀るべきなり。
大國主~の崇敬
大國主~既に國を譲り奉る。天津~乃ち厚く之を遇し給ひて、委ぬるに~事(かんごと)を以てし、其の鎭まります杵築ノ宮の宮造りは、底津磐根に宮柱太知り、高天原に千木高知りて、天津~の御子天津日嗣知ろしめす瑞(みづ)の御舍(みあらか)の如くに造り給ひき。
蓋し此の國譲りは、近く韓國の併合にも比すべきものにして、是が爲に、自他共に其のwを増進すること甚多く、從來「いたく騒ぎてありけり」と言はれたりし此の葦原ノ中ツ國も、天孫の御稜威によりて、安國と知ろしめることとなりしなり。
されば近くもとの韓國皇帝を遇するに、特に皇族の尊貴を以てし給ふが如く、大國主~に對するにも、天皇に對し奉るとほぼ相當する程の尊敬を以てし給ひしなり。
其の現露(あらは)の事は天孫自ら之を統治し給ひ、大國主~に委するに~事(かんごと)を以てし給ひしは、大化の改新に際して國造の政權を朝廷に収め給ひ、爾後國造は専ら祭祀を掌ることとなりしにも比すべきものならんか。
第三章 天孫降臨
私按三、地主~の崇敬
大國主~は地主~
右の古傳説は、天孫降臨以前既に大八洲國には數多の住民あり、互いに割據して國を成せるが中にも、大國主~の領するところ最も大にして、後までも此の~が、我が帝國の大地主(おほとこつかさ)の~として崇敬せらるる所以を語れるものなりとす。
出雲の~は皇家の外戚
~武天皇東征の後、事代主~の大女媛鞱鞴(ひめたたらい)五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を立てて皇后と爲し給ふ。
古事記には、三輪大物主~の女比賣多多良伊須氣余理(ひめたたらいすけより)比賣(ひめ)となす。
三輪の大物主~は卽ち大國主~の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)にして、延喜式なる出雲國造~賀詞に、此の~の和魂(にぎみたま)を八咫鏡に取りつけて、此の山に鎭めますとある是なり。
尋いで綏靖天皇の皇后は、事代主~の小女五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)にまし、安寧天皇の皇后は、事代主~の孫鴨王の女、渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)にましきと傳へらるる。
斯くの如きは是れ皆大國主~の系統に屬する出雲の~裔が、代々我が皇家の外戚となり、我が皇室の起原が、天津~の系たる天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御後と、國津~の系たる大國主~の御後と、相依り相合して成れることを語れるものなりと解すべきに似たり。
ただに皇室の御上のみならず、我が國民亦實に高天原より天降れる天~系統のものと、先住土着の國~系統のものと、相依り相合して成立せるなり。
天照大~と倭大國魂~
されば太古天皇の宮中には、代々天照大~と、倭大國魂~(やまとのおほくにみたまのかみ)を並べ祭り奉りき。
倭大國魂~、一に大地主(おほとこつかさ)~と云ひ、實に大國主~と同~にますといはるるなり。
かく皇室の御先祖たる天照大~と、地主~としての此の大國魂~とを、共に太古以來宮中に並べ祭り奉りしことは、此の兩~に對する崇敬の、特に他~にも揩オて厚かりしを示すものと謂ふべし。
此の大國魂~は、今の官幣大社大倭~社(おほやまとじんじゃ)に祭れる~なり。
大倭~社注進狀に
大倭~社、大和國山邊郡大倭邑に在り。とあり。
蓋し出雲の杵築大社の別宮なり。
傳へ聞く、大國魂~は、大巳貴~の荒魂なり。
和魂と力を戮し、心を一にして、天下の地を經營し、大造の績を建て得、大倭豊秋津國にありて國家を守る。
因りて以て號して倭大國魂~といふ。亦大地主~といふ。
八尺瓊を以て~體となし齋き奉る。
其の傳ふる所以て觀るべし。
然るに崇~天皇の御代に至り、天皇特に敬~の念篤くおはししかば、かく~祇と同じく大殿の中に住み給ふことは、~威を瀆し奉るを虞ありとなし、天照大~を皇女豊(とよ)鍬入姫命(すきいりひめのみこと)に託して、倭の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭らしめ奉り、又倭大國魂~は、皇女渟名城入姫命(ぬなぎいりひめのみこと)に託して、別の地に之を祭らしめ給ひしが、渟名城入姫命、髪落ち、體瘠せて祭ること能はず。
乃ち更に~託によりて、市磯長尾市(いちしのながをいち)なるものをして、代りて之を祭らしめる奉るとあり。
卽ち今の大倭~社なり。
三輪大物主~
崇~天皇は、斯く大國主~の荒魂を倭大國魂~として、齋き祭り給ふ外、別に同じ神の和魂を、大物主~として、其の~裔なる大田田根子を求めて、三諸山に祭らしめ給ひき。
官幣大社大三輪~社是なり。
初め大國主~の國を避け奉るや、高皇産靈尊特に勅してのたまはく、「汝若し國ツ~を以て妻ととせば、なほ汝に疎き心ありと謂はん。
故に今我が女三穂津姫を以て、汝に配して妻と爲ん。宜しく八十萬~を領(ひき)ゐて、永く皇孫(すめみま)の爲に護り奉れ」と。
大國主~天孫を護り奉る
されば大國主~は、其の御子~等と共に大和の各地に鎭座して、皇孫尊の守護に任じ奉る。
延喜式所収出雲國造~賀詞に、
大穴持~(大国主~に同じ)の申し給はく、皇御孫命(すめみまのみこと)の静まりまさん大倭(やまと)の國と申して、己が命を和魂を、八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉(くしみかたま)の命と名を稱へて、大御和(おほみわ)の~奈備(かんなび)に坐(ま)させ、己が命の御子阿遅須伎高孫根(あぢすきたかひこね)の命の御魂を、葛木の鴨の~奈備に坐させ、事代主の命の御魂を、宇奈提に坐させ、賀夜奈流美(かやなるみ)の命の御魂を、飛鳥の~奈備に坐させて、皇御孫命の近き守りの~と奉り置きて、八百丹杵築(やほにきづき)宮(のみや)に静まりましき。とあり。
以て國土授受の業の容易ならざりし事と、大國主~我が國家に對する關係とを見るべきなり。
此の~の後裔に大三輪君賀茂君等あり。
前記大田田根子は大三輪の祖なり。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
天孫日向に降り給ふ
天忍穂耳尊高天原に在りて、高皇産靈尊の女栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津(あまつ)彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)を生み給ふ。
天照大~乃ち瓊瓊杵尊に、八咫鏡、八坂瓊曲玉、草薙劒の三種の~寶を授け賜ひ、又中臣連の祖天兒屋命(あめのこやねみこと)、忌部首の祖太玉命(ふとだまのみこと)、猨女君(さるめのきみ)の祖天鈿女命(あめのうづめのみこと)、鏡作連の祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖玉祖命、すべて五部の~を以て配侍せしめ給ふ。
よりて詔してのたまはく、「葦原千五百秋瑞穂國(あしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
宜しく爾皇孫就(ゆ)いて治(し)らしむべし。
寶祚(みくらゐ)の隆(さか)えまさんこと、天壌(あめつち)と窮(きはま)りなかるべし」と。
ここに於て尊は天の磐座(いはくら)を放ち、天の八重雲を排し分け、稜威(いづ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂の峯に天降り給ふ。
大伴連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命、天之石靭(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の劒を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挟み、御前に立ちて仕へ奉る。
高千穂ノ峯一に高千穂ノ槵觸(くしふる)之峯とも、槵日(くしひの)高千穂之峯とも、高千穂之槵日ノ二上峯とも、或は日向の襲の高千穂ノ添山峯(そほりのやまのたけ)ともあり。
其の傳ふる所一ならず。
天孫降臨の狀を叙するもの古書の記事亦頗る異説なきにあらず。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
私按一、天孫降臨の意義
祖先天降の説
天孫瓊瓊杵尊は、畏くも我が皇室の御先祖として、我が國土に後を垂れ給ひし最初の~にまします。
古傳説の示す所によると、實に高天原より八重棚雲を排し分けて、我が日向の高千穂ノ峯に天降り給ひき傳へらるるなり。
凡そ祖先の天上より降れりとの傳説を有するもの、東方諸民族間に其の例多し。
朝鮮の始祖桓雄が大白山頂~壇の樹下に降り、辰韓六村の長たる李氏の祖が瓢ー峯に降り、鄭氏の祖が兄山に降り、孫氏の祖が伊山に降り、崔氏の祖が花山に降り、裴氏の祖が明活山に降り、薜氏の祖が金剛金剛山に降り、又金首露以下六加耶王の祖が龜旨峯に降れりと稱するが如き、皆是なり。
琉球の始祖阿麻美久、亦天より阿麻美嶽に降れりと傳へらるるなり。
此の外夫餘、高勾麗、百済等の祖が、天帝の子と稱せられ、蒙古、満州等、亦類似の傳説を有するもの多く、天を崇祭するの俗は濊、馬韓、其の他にも廣く行はれたり。
蓋し皆天を以て其の祖國となし、太祖天上に在りとの思想に基づくものなるべし。
我が皇祖亦高天原より高千穂の峯に降臨し給ひ、天ツ~の依ざし給へるままに、ここに天壌無窮の皇基を創め給ふ。
其の形迹稍傍近の諸民族傳ふる所と類似するものあるは、其の間相因縁するものあるに似たりと雖、而も其の依ざしの國を安國と定め給ひて、ここに天~の使命を全うし、萬世一系の天皇長しなへに榮えますもの、ひとり我が國に於てのみ之を見る。
天孫の人事的解釋
既に之を天降と云ふ。
其の遺蹟を天に最も近き高山の頂に求めんとするは自然の勢なりとす。
事もとより~聖に屬し、其の説幽幻にして、猥りに人事を以て忖度し得べきにあらず。
然りと雖、假りに之を地上の事蹟と解し、民族遷移の傍例を以て觀んに、天孫の降臨とは、我が皇室の御先祖が高天原と稱する或る祖國より、多くの臣民を率ひて此の島國に遷り給ひ、從來統率なく、保護なく、塗炭の苦に惱みたりし先住の民衆を綏撫し、不逞の徒を征服して、之を安國と治(し)ろし給ひしものと解すべし。
斯くの如くにして先住の民衆は、從來の苦患より脱離するを得、天孫に隨從し奉りて渡來せし民族と相依り相結びて、我が日本民族を構成し、相共に上に萬世一系の天皇を奉戴して、ここに光輝赫々たる大日本帝国は成立せしものなりと解すべし。
第三章 天孫降臨
第二節 天孫の高千穂降臨
私按二、天孫降臨の年代
古傳に見ゆる年代
天孫瓊瓊杵尊が高千穂ノ峯に降臨し給ひしは、今より如何ばかりの古へにてありけん、もとより人意を以て測定し得べきにあらず。
日本紀には神武天皇の御語を録して、「天祖の降跡(あまくだり)ましてより、今にいたりて一百七十九萬二千四百七十餘歳」とあり。
然らば今より、百七十九萬五千餘年の昔に當れるなり。
此の數古書傳ふる所他にも多かりしものと見えて、弘仁歴運記には、「本紀等の諸書を案ずるに」として、同じ數を記したり。
更に倭姫命世紀には、瓊瓊杵尊の御代を三十一萬八千五百四十三年、彦火火出見尊の御代を六十三萬七千八百九十二年、鸕鷀草葦不合尊の御代を八十三萬六千四十二年、通計百七十九萬二千四百七十七年となし、帝王編年記には百七十九萬二千四百七十六年、又天~祇王代記には百七十九萬二千四百七十九年に作る。
此の他~代巻口訣、~皇正統記などの記する所小差なきにあらねど、其の基づく所皆同じきが如し。
然るに古事記には、彦火火出見尊高千穂ノ宮にましますこと五百八十歳とありて、前記倭姫尊世紀等の分割の數に合はざること甚だ遠し。
年数に關する本居、平田兩氏の解釋
ここに於て本居宣長は、瓊瓊杵尊が石長姫(いはながひめ)を娶(め)し給はずして木花開耶姫(このはなさくやひめ)と婚(みあひ)まししかば、父~の咀によりて、御子彦火火出見尊以下は御壽短くなりませるものにて、百七十九萬二千歳の大部分は、瓊瓊杵尊の御世なりしなるべく、倭姫命世紀等の説は、後人古事記の記事に心付かずして、妄りに分配せしものなりと論じたり。
更に平田篤胤は、其の弘仁歴運記考に、~の夢想によりたりとて、初めの百七十九萬の大數を捨てて、單に末の二千四百七十餘年の數のみを取り、其の天孫降臨の年の干支を、神武天皇卽位前二千四百年の辛酉革命の年と定めて、天皇崩御の丙子までを、二千四百七十六年と數へ、其の數が帝王編年記の百七十九萬二千四百七十六年とある。
千位以下の數に合へりとなし、又綏靖天皇卽位の前年なる己卯までを、二千四百七十九年と數へて、其の數が亦天~祇王代記の、末の數に合へるを見れば、日本紀等に云ふ所の數は、其の實天孫降臨より、~武天皇の御代を籠めたる數にして、初の「百七十九萬」の大數は、後の攙入なりと論定せり。
人事的推測
本居、平田兩氏の所説は、古書の數字を全部其のままに信ずると、一部に改竄を加へて採用するとの差あれども、孰れも其の年數に於て、正しき古傳ありしものなることを豫斷したる上にての論なり。
固より平田氏の言へる如く、~道の事はおしてはかり難し。
ただ斯くの如き古傳ありと云ふを知りて滿足せんのみ。
されど試みに人事を以て之を度るに、文字の記録なき時代に於て、かほどの大數の、人爲によりて到底正しく語り傳へ得べきにあらざるは言ふまでもなし。
何れは陰陽五行等の説より推歩せしものなるべけんも、今其の由來を考ふる能はざるなり。
されば、暫く是等の數とは全く無關係に、年代學、考古學、人類學、土俗學、言語學、及び世界文化の撥達史、特に東亞に於ける古代文化の研究等の結果より之を論ぜんに、ほぼ我が日本民族の祖先が、皇室の御先祖御統率の下に此の島國に渡來せし年代、卽ち所謂天孫降臨の時代を、測定し得るの希望なきにしもあらず。
天孫は天照大~の授け給へる三種の~器を奉戴して、此の國に天降り給へりと傳へらるるなり。
而して鏡鑑を鑄造し、刀劒を鍛冶し、珠玉を琢磨するの技術は、既に高天原に於て撥達せりと傳へらるるなり。
若し是等の所傳を一切信憑せずと云はんには論なし。
苟も之を信じ、當時既に金属器使用の時代にありきとせんには、世界に於ける冶金鑄鍛の技術の撥達史の上よりして、又特に我が石器時代の研究よりして、ほぼ其の最高極限の年代を定め得べけんなり。
言語學上よりの所説
論者或は、邦語が近隣諸民族の言語と距離甚だ多きの理由を以て、我が日本民族の祖先は、極めて悠久の古へに於て此の島國に渡來し、ここに獨特の撥達をなしたるべきことを云ふものあり。
年代學上よりの所説
或は年代學の研究の上より、日本紀の紀年を論究し、ほぼ~武天皇御卽位の年代を考定して、之に加ふるに、人壽の平均數によりて算出せる神代三世の年數を以てせんとするものあり。
前者は我が日本民族の渡來を、極めて古き時代に求めんとし、後者は之を甚だしく近き年代に定めとするなり。
兩學説對する批評
されど前者は、我が國語が必ずしも祖國の言語を忠實に其のまま保存せるものにあらずして、土着民族の融合同化と共に、少なからず其の言語を交へたるものあるべく、又隣邦諸民族渡來、其の文化の輸入等によりて、其の言語の移入されたるもの亦多かるべく、而も一方には隣邦諸民族の言語にも、古今著しき相違を生じて、爲に兩者の間隔の甚だ多くなりたるべきことに對する注意を缺けるの嫌なきにあらず。
又後者は、傳説上に於ける~聖の御行事を度るに、強ひて人事を以てし、古傳説を解釋するに、正しく史實を語れるものなりと豫定するものにして、根本に重大なる錯誤あり。
其の從ふべからざる言ふまでもなし。
考古學上よりの所説と其の批評
論者或は又、我が石器時代の遺物遺蹟を調査して、其の或る物を以て我等日本民族の先祖の遺せるものなりとし、爲に其の渡來を悠遠の時代に求めんとするものなきにあらず。
然れども、こは所謂石器時代の狀態にありし先住民族が、天孫民族と融合して、日本民族構成の一要素をなせることの觀察を閑却せるものにして、ただに天孫降臨の傳説を破壊するのみならず、我が社會狀態の上にあらはれたる諸現象の事實にも抵觸して、到底從ふべからざるものなりとす。
要するに我が古傳説に所謂天孫降臨の年代は、將來ますます人類學、考古學、言語學等の調査の撥達を待ちて、我が古代民族の種類、及び其の分布移動の次第を詳かにし、我が所謂天孫民族と、日本民族との關係を明にし、我が島國に存在する古代の遺物遺蹟が如何なる狀態に分布し、其の示す文化が如何なる程度にあるやを研究し、之を傍近諸民族の遺物遺蹟と比較し、文化の撥達變遷の次第に參考して、我が島國が如何なる時代より人類住居の地となりしか、如何なる時代より金屬使用の狀態に移りしか、其の民族關係は如何等の各般の事情を知りて後、始めて決し得べき問題なりとす。
今に於てはただ、今日の人智を以て知るを得ざる悠遠の時代より、天孫跡を此の國土に垂れ給へりと信ずるに滿足せんのみ。
第三章 天孫降臨
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
高千穂峯の所在の關する諸説
天孫瓊瓊杵尊の降臨し給へりと傳へらるる高千穂峯に就きては、古來數説あり。
或は之を日向にありとし、或は之を豊前にありとし、或は之を薩摩にありとす。
又同じく日向國にありとする説に就いても、或は諸縣郡なる霧島山を以て之に擬し、或は臼杵郡なる高千穂地方を以て之に當つ。
其の豊前と云ひ、薩摩と云ふものは、殆ど文獻の徴すべきなきのみならず、古事記、日本紀等、古書の記事とも矛盾する所あり、今や之を唱道するもの多からざれば論及せず。
之を諸縣郡の霧島山なりといひ、臼杵郡の高千穂なりとするものは、共に頗る徴證ありて、古來學者の取捨に迷ふ所なりとす。
されば鴨祐之の如きは、其の大八洲記に、「襲は今大隅國の郡名囎唹に作る。千穂は地名、日向國臼杵郡にあり。智保に作る」と云ひて、地理の實際に拘らず此の兩説を保存し、又本居宣長は其の古事記傳に於て、「何(いづ)れを其れと一方には決(さだ)め難し」として、
つらつら思ふに、~代の御典に高千穂峯とあるは二處にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧島山も、共に其の山なるべし。とするの窮説を述べたり。
其は皇孫命初めて天降(あもり)坐(ま)しし時、先づ二つの内の一方の高千穂峯に下り着き賜ひて、それより今一方の高千穂に移幸(うつりいで)まししなるべし。
其の次序(ついで)は何れが先、何れが後なりけん、知るべきにあらざれど、終に笠沙御崎(かささのみさき)に留り賜へりし路次を以て思へば、初めに先づ降り着き賜ひしは臼杵郡なる高千穂山にて、それより霧島山に遷りまして、さて其の山を下りて空國(からくに)を行去(とほり)て、笠沙御崎には到り坐ししなるべし。
斯くて平田篤胤に至りては、其の古史成文に、直ちに古文を改めて、初め臼杵の高千穂ノ二山峯天降り給ひ、既にして襲之高千穂ノ槵日ノ二上峯に移り幸(いで)ましきとさへ記述するに至れり。
乃ち聊か左に其の兩説の據る所を詳にして、孰れが果して古傳説地なるべきかを辨ぜん。
霧島山説
霧島山は日向の諸縣郡と、大隅の囎唹郡とに跨れる高山にして、其の峯東西の二つに分る。
其の位置と形勢と、實に襲の高千穂の二上峯といふに相當る。
高千穂峯は一に槵觸峯(くしぶるのみね)、又槵日峯(くしびのみね)ともあり。
解するもの曰く、クシブル又クシビは奇異(くし)の轉なりと。
或は曰く奇火(くしび)の義なりと。
此の解孰れを取るとするも、霧島山が一の大火山にして、噴火の狀態の奇異なるに適當す。
更に續日本紀には、霧島山を囎唹郡會之峯となす。
是れ亦襲の高千穂峯なることの徴證とすべきに似たり。
殊に鎌倉時代編纂の塵袋所引日向風土記といふものに、
皇祖裒能忍耆命(ほのににぎのみこと)、日向國囎唹郡高千穂槵生(たかちほのくしふの)峯にあまくだりまして、是より薩摩國閼馳(あた)郡竹尾村にうつり玉ひて、土人竹尾守が女をめして、其の腹に二人の男子をまうけ玉ひけるときに、かの所の竹を刀に作りて、臍緒を切り玉ひたりけり。とあるは、明かに囎唹郡なる霧島山を指せるものならざるべからず。
其の竹は今もありと云へり。
長門本平家物語の俊寛成經等鬼界島に移る事」の條にも、
室野、船引、大山と云ひて、月影日影もささぬ深山の蛾々たる石巖を越して、日向國西方島津庄に著き給ふ。
彼の庄内に朝倉野と云ふ所に、一つの峯高く聳えて、煙絶えせぬ所あり。
日本最初の峯霧島の嶽と號す。
日本最初の峯
とあり。
日本最初の峯とは、必ずしも天孫降臨の地と云ふ次第にあらざるべきも、此の山が特殊の~蹟として、古くより傳稱せられたりし證とはなすべし。
又宇佐託宣集には、
人皇第一主~日本磐余彦(かんやまといはれひこ)(~武天皇)御年十四歳の時、帝釋宮に昇りて印鎰を受け執り、日州辛國城(からくにのき)、蘇於峯(そおのみね)に還り來る是なり。とあり。
蘇於峯とは霧島山の別名なり。
是れ亦天孫降臨をいへるにあらねど、以て此の山の~蹟たるを云ふ説の古きを觀るべし。
天ノ逆鉾
今も其の西峯を韓國ノ嶽と稱するは、亦縁ありげなり。
殊に其の山頂には天ノ逆鋒と稱するものありて、其の制奇古、實に~代の遺物なりと稱せらる。
説をなすもの曰く、天孫降臨に際に建て給ひし標柱なりと。
或は曰く、伊弉諾、伊弉冉二~の滄溟(あをうなばら)を探り給ひし天ノ瓊矛(ぬほこ)なりと。
此の後説は蓋し、盛衰記に日本最初の峯といふに相當るなり。
霧島山説批評
此の外にも霧島山説を主張するもの、其の説明頗る委曲に渉るものあれども、要は~代の~蹟此の地方に多しとの思想に基づけるものにして、其の説の主とする所は、右の中日向風土記の文と、襲の地名と、槵日又は槵觸の名と、二上峰の形勢と、天ノ逆鉾の存在となりとす。
此の説頗る有力にして、新井白石以下、徳川時代の學者等多く之を信じ、前記の如く本居、平田の兩人すらも、之を捨てかねて、臼杵、霧島の兩説を保存せる程なりき。
斯くて明治の學界に至りては、霧島山説を採るもの殊に多く、故飯田武ク氏の日本書紀通釋を始めとして、今もなほ此の説を主張する者少なからず。
かくて坊間行はるる歴史地圖はもとより、現代地圖にまで、霧島山に標するに高千穂ノ峯の名を以てするものすらあるに至れり。
然れども是のみによりて、古傳説言ふ所の高千穂山の問題を決すべきか。
「襲」の地名
古傳説謂ふ所の「襲(そ)」の地が、後の大隅國囎唹郡なりといふ事は、霧島山説に取りて最も有力なる理由に一なりとす。
然れども「ソ」の名必ずしも囎唹郡のみなりとは限るべからず。
天安元年には、肥後國從五位上會男~(そをのかみ)に從五位下を授け奉るの事あり。
其の他「ソ」を名とする地名各地に多し。
そは後(第二編第五章)に説くべし。
塵袋引風土記は偽書
次に塵袋引く所の風土記逸文なるものは、古文の徴證として常に引用せられ、霧島説に取りて亦有力なる論據をなすものなりとす。
而して史家或は之を以て、和銅年間奏上の古風土記の逸文なりとなす。
然れども、つらつら其の内容を檢するに、こは恐らく中世の記述にして、奈良朝古風土記の文にあらず。
以て證とするに足らざるの感なきにあらず。
同じく鎌倉時代に編纂せられたる釋日本紀別に本國風土記の文を引き、西臼杵郡の高千穂を以て天孫降臨の地となす。
塵袋所引の文は是と事實に於て矛盾せるのみならず、其の文字の用例亦彼此甚しく相容れず。
到底同一風土記中の文なりとしては解し難きものなりとす。
ここに於て論者或は言ふ、風土記の成る必ずしも奈良初のみにあらず。
醍醐天皇の延長年間にも、復風土記の貢進を催促せられしことあるにあらずや。
蓋し釋日本紀引く所は是れ延長年間編纂の新風土記にして、後の所傳を録するものにはあらざるかと。
然れども、延長の風土記なるものは其の實存在せず。
史家往々にして延長年間風土記催促の太政官符の趣意を誤解し、此の際別に新風土記の編纂を命ぜられたるものとなす。
而も此の官符の趣意は、當時官庫所蔵の風土記散逸して存せざるが爲に、新に之を諸國府所蔵の書に求めんとするにあるのみ。
敢て新に編纂を命じたるにあらざるなり。
故に曰く、「諸國風土記の文あるべし」と。
ここに諸國とは、言ふまでもなく諸國の國府を指せるなり。
若し國府に其の文なくば、周ねく部内に求めて提出せよと命ぜるなり。
されど假りに一歩を譲りて、延長にも亦風土記編纂のことありとするも、此の塵袋引く所は決して和銅のものにあらず、叉延長のものにもあらず、到底日向國司撰録の書にあらざるなり。
本書既に「日向國囎唹郡といふ。
囎唹郡を日向より分ちて、他の三郡と共に大隅國を建てたるは、實に和銅六年四月の事なり、されば本書若し日向國司の撰ならんには、必ず其の以前のものなりとせざるべからず。
然るに元明天皇が詔して諸國の風土記を撰録せしめ給へるは、大隅分立の翌五月なり。
而して國司其の命により、各郡に命じて部内の地理、沿革、古傳等を調査せしめ、是が編纂に著手す。
然らば其の書の成りて奏上せられたるは、必ずや其れよりも數年の後なりけんことを疑はず。
然るになんぞ日向國司の撰として、當時大隅なる囎唹を以て、なほ依然「日向國」と書することのあるべけんや。
論者或は又謂はん。
古へ日、隅、薩の三國は、共に日向の域内なりしかば、~代の事を記するに當りては、其の舊によりて、囎唹郡に冠するに日向の名を以てする、敢えて異とするに足らざらんと。
地理にも暗く、年代にも無頓着なる中央都人士の筆になれるものならば、或はさる事もありなん。
平安朝京師學者の手になれる日本紀私記に、襲國を解して、「今日向國に囎唹郡あり」などとある。
以て例とすべし。
然れども風土記は、各其の國の國司が命を奉じて、現代の地理に就きて撰録せる書なり。
如何ぞさる粗忽なる誤謬ありとせんや。
されど假りに事~代に屬するが故に、當時大隅の域内なる囎唹郡の地に冠するにも、なほ舊稱によりて日向の名を以てしたりきとせんか。
宜しく古語のままに「日向の襲の高千穂」といふべく、「日向國囎唹郡」とは書くべからざるにあらざるや。
況んや他方には當時の行政區劃によりて、明かに薩摩國閼馳郡の名を標出するに於てをや。
思ふに本書は地理の實際に暗き中央人士が、私記に囎唹郡を今も日向の中なりと思へるが如き漠然たる思想よりして、輕卒に記述せしものならんなり。
霧島山を日本最初の峯といふ事
霧島山を以て日本最初の峯なりとする説は、すでに平家物語にあり。
~武天皇天より還幸し給へりとの説は、宇佐託宣集にあり。
共に古く此の山の尊嚴を示す説の存在を示すものなり。
然れども是等は、其の實高千穂降臨傳説と交渉する所なく、自から別途のものなりと謂はざるべからず。
ただ此の山が古くより特殊の神蹟として傳稱せられたりしが故に、遂には其の頂の東西相對して二上峰云ふに相當し、殊に其の地がたまたま囎唹郡なることなどに合せ考へて、そこに天孫降臨地の傳説も生じたるものなるべし。
而も其の説はすでに明かに鎌倉時代に於て、塵袋の著者其の所傳を該書中に引用せし程なれば、むげに後世の誤解なりとして輕々しく排斥すべきにあらざるなり。
すべからく先づ其の説の由って來りし所を尋ね、更に之を他の説に比較考究して、後に始めて斷を爲すべきものなりとすべし。
槵觸の解
論者或はクシフルを奇火(くしび)と解して、火山なるべしといひ、天ノ逆矛なるものを以て、~代の遺物となし、是によりて天孫降臨の地の證とせんとす。
共に一往の理なきにあらず。
火山活動の現象は、直ちに古代人士をして其の山を崇敬するの念を起さしむ。
然れどもクシフルの名實は未だ其の義を明かにかせず。
或は日向の別名なる豊久士比泥別に縁あるにあらざるかとのことは、さきに既に之を言へり。
霧島火山の崇拝
霧島火山の崇拝せらるる其の由來を詳にせねど、恐らくは奈良朝以來の、役行者一派の山嶽佛教の所爲に起因するものならん。
傳ふる所によれば、此の山欣明天皇の朝に、僧慶胤なるもの始めて之を開けりとあり。
是れ固より徴證すべきなく、信ずべき限りにあらず。
延暦七年三月此の山爆破す。
續日本紀に曰く、
七月巳酉大宰府言す。と。
去る三月四日戌時、大隅國囎唹郡會之峯に當りて火炎大に熾にして、響雷の如く動(どよ)む。
亥時に及びて、火光稍止み、ただ黒烟を見る。
後砂を峰下五六里に雨らす。
砂石委積すること二尺ばかり、其色黒し。
かくの如き異變ありてより、一層崇敬の度を深めしものあらん。
後年僧性空あり。
廬を此の山に結び苦行する事四年、元亨釋書に曰く、
性空は平安城の人、云云。と。
年三十六にして主家し、人跡至らず、鳥音聞えざるの深山を尋ねて、乃ち日州霧島に往き、廬を結びて居る。
或は數日を隔てて食し、或は食せずして旬を磿たり。
或は夢中に美膳を得、覚めて後肚裏能く飽く。
餘味口にあり。
或は經巻の中より、忽にして精白の糠迸散し、或は煖餅出づ。
其の味常の比にあらず。
或は夢に人あり餐を送り、覚むれば必ず餽あり。
是を以て苦行絶食すと雖、身體肥え滑にして、光彩人に過ぐ。
或は寒夜弊衣、皮膚氷の如し。
寒を忍びて經を誦すれば、忽ち庵上より綿を垂れて身を覆ふ。
居る事四歳、移りて筑前州背振山に住す。
此の事亦花山法皇御撰書寫山上人傳に見ゆ。
性空年八十、寛弘四年に寂す。
然らば其の三十六歳は、村上天皇應和三年なり。
釋書謂ふ所の奇蹟は、固より必ずしも信ずべきにあらざらんも、此の頃既に此の靈山が、佛徒信仰の標的たりしは之を認むべし。
斯くて登山の行者漸く多く、遂には日本最初の峰と云ひ、神武天皇帝釋宮より此の峰に還幸し給ひきとの説も出で、はては天孫降臨の傳説も、唱え出さるるに至りしにあらざるか。
所謂天逆矛の説
而して是等行者の中に銅製の三叉矛を携へて之を山頂に樹てしもの、亦これありしならんか。
今存する逆矛と稱するものは、實に其の三叉の鋒刄を缺き、ただ銅製の柄をのみ存するものなり。
後人之を解せず、其の鋒なきを見て逆に之を山頂に突き樹てしものなりと誤信し、爲に天逆矛の名を命ぜしものか。
從來之を記するもの、或は長さ數丈と云ひ、或は八丈許などと云ふ。
今存するもの長さ四尺二寸、周八寸に過ぎず。
上端に近く鼻の高き人面二個、相背きて鑄出されたり。
其の三叉の鋒は、もと鐔の如き臺より分れ出でたりしもののして、中央に大なるもの一個、左右に小なるもの各一個ありしものなるも、今は皆之を缺く。
去る大正三年、狂人あり之を携へて山を降り、暫時霧島東神社の社殿に安置しありて、幸に熟覧調査するの機を得たり。
其の柄の石突に當る部分は、片そぎとなりて地中に挿入するに便にし、固より逆に樹つべきものにあらず。
其の鋒の失はれたる痕は甚明なり。
而して其の鉾先は、文政十一年記述「天逆鉾由來」と題する書に、都城安永村明觀寺荒嶽權現御~體圖として、之が冩生圖を掲げ、「霧島絶頂鉾折先」と記し、附するに其の折れ目の拓影を以てす。
而して曰く、「此の折目、絶頂の鉾の折目に相違す。此間今一折可✓有✓之歟」と。
鹿兒藩名勝考亦記して曰く、
其鐔は昔時山頂炎(もえ)たりし時移したりとて、今三里許の山麓に安置し奉りて、荒嶽權現と稱す。と。
鋒の長さ一尺五六寸、鐔の如き所に雲氣の狀を鑄付ぢて見えたり。
或は云、靈矛は純金なりと。
金鉾幹ともに親鑒熟視するに、其の質材何金たることを知り難し。
山頂にあるものは其色縹緑なり。
其の鉾は黝黒色なり。
蓋し露處と密藏との異なるべし。
されば古人も既に所謂逆鉾なるものが、鉾先を失ひたる鉾の柄なることを了解せしものなりと見ゆ。
天逆矛の名~皇正統記にあり。
諾冉二尊が天浮橋に立ちて、滄溟を探り給ひしといふ天瓊矛(あめのぬぼこ)に注して、「此の矛又は天の逆矛とも、天魔返矛とも、とも云へり」と見ゆ。
されば南北朝時代には、すでにかかる名稱も傳へられたりしなり。
されどこはもとより霧島山なるそれを言ふにあらず。
同書に曰く、
此の矛は傳へて、天孫從へて天降り給へりとも云ふ。と。
又垂仁天皇の御字に、大倭姫の皇女、天照大~の御教のままに伊勢國に宮所を求め給ひし時、大田命と云ふ~參り合ひて、五十鈴の河上に實物をまぼりける處を示し申ししに、彼の天の逆矛、五十の金鈴、天宮の圖形ありき。
大倭姫命喜びて、其所を定めて~宮を建てらる。
實物は五十鈴の宮の酒殿に納められきとも云ふ。
又瀧祭りの~と申すは龍~なり。
其の~預りて地中に藏めたりとも云ふ。
一には大倭の龍田姫は、此の瀧祭りと同體にます。
此の~の預り給へるなり。
よりて天柱、國柱とも云ふ御名ありとも云ふ。
むかし磤馭廬島(おのころじま)に持ち降り給ひしことは明かなり。
世に傳ふと云ふことは覺束なし。
天孫の從へ給ふならば、~代より三種の~器の如く傳へ給ふべし。
さし離れて五十鈴の河上にありけんも覺束なし。
但天孫も玉、矛みづから從へ給ふといふことも見えたり。
されど矛も、大汝(おほなむち)の~の奉らるる國を平げし矛もあれば、孰れと云ふ事を知り難し。
寶山に止まりて不動のしるしとなりけん事や正説なるべからん。
龍田も寶山近き所なれば、龍~を天ツ柱、國ツ柱と云へるも、深秘の心あるべきにや。
斯く親房此の矛に就きて種々の俗説を掲げ、之が批評を下したれども、一言霧島山上の物に及ぶことなし。
其のこれを逆矛といふは、鋒先を下にして滄溟を探り給ひしが爲の名なるべければ、もとより霧島山頂現存の矛の如く、鋒を上にして立てたるものについて稱したるにあらざるべし。
天之逆鉾の名亦釋日本紀引播磨風土記の逸文にもあり。
而も是れ木製の鉾にして、もとより右に比すべきものにはあらず。
蓋し後人此の山に日本最初の峰の説あるより、正統記などの所傳によりて唱へ出すに至りたるものならん。
而も逆矛の名が、此の矛の鋒を失ひたる後の誤解より出でたるものならんには、其の説の起れる時代は更に新しかるべきなり。
霧島~と高千穂~
霧島山を以て高千穂峯なりとするの説は既に明かに鎌倉時代に存す。
然れども平安朝にありては、むしろ兩者を別視せしものに似たり。
延喜式内日向國諸縣郡霧島~社一座あり。
承和四年官社に列さられ、天安二年從四位下を授けらる。
而して此の~とは別に高智保皇~あり。
承和十年從五位下を授けられ、次で天安二年には、霧島~が從四位下を授けらるると同時に、從四位上を授けられたり。
勿論是によりて、霧島山が所謂高千穂峯にあらじとの反證となすには足らざらんも、此の山のみを以て直ちに天孫降臨の古傳説地なりとなさんは、更に攻究の餘地ありと謂はざるべからず。
臼杵郡高千穂説
然らば高千穂ノ峯を以て、臼杵郡に在りと爲す説の由來は如何。
釋日本紀引日向風土記逸文に曰く、
臼杵郡内知舗ク。と。
天津彦火瓊瓊杵尊、天の磐座離(いはくらはな)ち、天の八重雲を排(おしわ)けて、稜威(いづ)の道別(ちわ)きに道別(ちわ)きて、日向の高千穂の二上峰に天降りましき。
時に天暗冥にして、晝夜を別たず。
人物道を失ひ、物色別ち難し。
ここに土蜘蛛あり、名を大鉗、小鉗を曰ふ。
二人皇孫尊に奏して言はく、尊の御手を以て稻千穂を抜き、籾となして四方に投げ散らし給はば、必ず開晴を得んと。
時に大鉗等が奏する所の如く、千穂の稻を搓みて、籾となして投げ散らし給ひしかば、卽ち天開け晴れ、日月照り光(かがや)きき。
因りて高千穂の二上峯と曰ふ。
後人改めて智舗と號ふ。
此の文仙覺の萬葉抄にも引きて、明かに鎌倉時代に存せし風土記の古文なり。
論者或は言はん、風土記録する所の天孫投稻の故事、嘗て記、紀等の言はざる所、蓋し類似の地名に基づき、史實を之に附會せるもにて、信ずるに足らざるべしと。
或は然らん。
其の千穂の語の起源を解する如きは、固より必ずしも信ずべきにあらず。
然れども、天孫降臨の際天地暗く、土蜘蛛の奏に基づき稻千穂を散じ給ひし故事が、史實として信じ難しとするも、少くも此の記事ある風土記の編纂奏上せられし時代に於ては、日向の民衆が古傳説上の天孫降臨の故地を以て、此の臼杵郡なる智鋪クなりとなすの説を有せしものにして、國郡の當局者が之を採用せし事實、亦最も明白なりと謂はざるべからず。
叉平安朝に於て、霧島~と高千穂~と別個に存在して、位階を授けられ、更に鎌倉時代に於て、日本紀天孫降臨の條を説明すべく、釋日本紀及び萬葉抄の著者が、風土記の此の文を引用せしことなどを合せ考ふれば、少くも當時京師の當局者、又は學者間に於て、臼杵高千穂説が認められたりしことは疑を容れざるなり。
之を智鋪といふは、高千穂を略せるなり。
和同の制、國郡ク里の名必ず漢字二字たるべしと定めらる。
ここに於て近淡海(ちかつあふみ)國を縮めて近江國とし、都ク(とのがう)を延ばして都於ク(とおのがう)となす。
高千穂の智舗と成る亦此の例なり。
さればク名には之を智保と稱するも、其の他の場合には依然として「高」字を添ふるを例とせり。
前記高智保皇~の如きは更なり、中世に此の地方一の莊園となり、なほ高智尾の號を稱せしこと、鎌倉時代以後の記録、文書に往々散見して、周ねく世の知る所なり。
高智尾莊は西臼杵郡高千穂の地方より、廣く肥後、豊後の境上に及ぶ。
石清水社所藏寶龜四年豊前國司文書に、八幡大~の託宣を記したる中にも、
豊後、日向、肥後三箇國乃中、廣太野在リ。の語あり。
其野ヲ~吾レ點定云云。
件地等、號野ク、北野、高千穂。
此の書固より寶龜の公文書として疑問なきにあらねど、亦以て古く此等の地方に、高千穂の稱ありしことを知るに足るべし。
高千穂は日向豊後肥後に跨る
高千穂の域實に肥後、豊後に跨る。肥後阿蘇郡に亦知保クあり。
蓋し日向臼杵郡の智舗クと相連續して、もと一域をなせしものなるべく、後に國界を定むるに當りて、兩分せられしものならんか。
今も肥後阿蘇郡草部(くさかべ)村に千穂野あり。
智保クの古名を存するものなるべし。
ここに草部~社あり、~八井耳命を祭る。
社記に之を高千穂大明~とありといふ。
其の名蓋し地名によれるものか。
同郡南ク谷の南、上u城郡渉りて亦高千穂の名あり。
蓋し阿蘇の地嘗て高千穂の古傳説を傳へ、今なほ其の古名を存するなり。
而して其の阿蘇の名、亦實に「襲」の舊號を傳ふるものの如し。
「阿」は發語の添辭にして、其の本名蓋し「蘇」なるべきか。
釋日本紀に「襲」字を解して「山襲重の義なり」となす。
蓋し漢字の字義に拘泥せるものにして、信ずべからず。
「ソ」は「背」の義なるべく、人の背をソビラ(背平))と云ひ、山陰をソトモ(背面)といふ。
「ソ」は蓋し山の背に當れるが如き高地の稱なるべし。
されば古語に襲の高千穂といふもの、之を阿蘇の高千穂の義と解して、意亦通ずべきなり。
祖母山と久住山
今西臼杵郡高千穂の北に、祖母(そぼ)の高峯あり、豊後に跨る。
其の北方の廣野、亦所謂高千穂野の一部なるべく、北に久住(くじふ)山の高く聳ゆるあり。
高千穂峯の名、日本紀所引の一書に、高千穂の添(そほり)山とも叉、高千穂の槵觸(くしふる)ノ峯、又は槵日(くしひ)ノ峯ともあり。
「祖母」は蓋し「添(そほり)」の古名を傳へ、「久住(くじふ)」は「槵觸(くしふる)」、若くは「槵日(くしひ)」の舊稱を存するものにあらざるか。
天孫高千穂の地の降臨し給ひきとの古傳説に就きて、之を考ふるに、既に天降と稱する以上、後の之を解するもの、成るべく天に近き高山の頂を求めて、之に擬せんとし、爲に或は之を祖母山なりとし、或は之を久住山なりとし、遂には天孫降臨の高千穂山の傳説に存する添(そほり)山、或は槵觸峯、槵日峯の名を取りて、之に附するに至りしにはあらざるか。
祖母と久住と、巽乾相對し、其の間に當りて廣き高原あり。
寶龜の豊後国司文書と稱するものに見ゆる高千穂卽ち是ならんには、豊後にても、嘗てここに高千穂の名を傳へしものなるべし。
既に祖母と久住と兩説あり。
更に後の之を解するもの、其の兩説を並存し、ここに高千穂の二上峰に降臨し給へりとの説起れるか。
二山峯の義
釋日本紀には、「二上の號未だ詳ならざるか」とあり。
鎌倉時代い於て、之に關する定説なかりしものにてもあるべし。
高千穂の名もと單一なる山岳の稱にあらず。
「ホ」は山の「秀(ほ)」にして、高峯の屹立せるものを意味す。
高千穂とは、蓋し數多の高峯の重疊せる地方の義なるべく、古く「襲」を解して、山岳襲重の貌となすもの其の字義信ずべからずとするも、地形の實際には相當るなり。
中にも祖母山は海抜五千八百尺に達し、實に九州第一の高峯の一なりと稱せらる。
其の山頂に上りて四方を望視すれば、九州各地は固より、四国、中國、亦之を下瞰すべく、西北遠く朝鮮をも一眸の中に收むるの感あり。
久住亦ほぼ之に相如く。
されば天孫の高千穂峯に降り給ひし時に、「此の地は韓國に向ひ、笠狭(かささ)の岬に眞來通(まきとほ)りて、朝日の直刺國(たださすくに)、夕日の日照(ひてる)國」と詔し給ひきと傳へらるるものを以て、これに當てんとする亦其の故なきにあらず。
嫗嶽と高千穂
祖母山豊後にありては之を嫗(うば)が嶽と稱す。
蓋し「祖母」の文字に泥みて、後に訛れるものなるべし。
山に嫗ケ嶽明~あり。
豊後緒方氏の祖先に關する巨蛇の傳説を有し、平家物語に之を高智尾明~なりとなす。
當時なほ此の山に高千穂の稱ありしことを知るべし。
由りて思ふに、彼の承和十年に於て高智保皇~授位の事あるや、續日本後紀之を記して豊後國となすもの、必ずしも捨て難きが如し。
從來學者の此の文を解する、皆之を以て日向國の誤りなりとなす。
固より當に然るべし。
然れども、高千穂の域既に豊後、日向に跨り、豊後の地亦其の祠あるに於ては、爲に或は此の混同を生ずるに至れる、其の故なきにあらず。
而も平家物語一本には、右の高智尾明~を以て、「件の大蛇は日向の國に崇られ給へる高智尾の明~是なり」とありて、之を本國に係けたり。
以て混同の久しきを知るべし。
之を要するに、天孫降臨のこと其の説幽玄にして、固より人事を以て忖度すべきにあらず、後人之を地理上に求めて、或は祖母山となし、或は久住山となし、或は之を霧島山なりとす。
今にして其の確證を得んことは到底之を望むべきにあらず。
ただ之を、幸にして今日に存する文献に徴するに、臼杵郡の高千穂を以て之に當てんとするの説は、すでに奈良朝に存し霧島山を以て之に當てんとするの説は、鎌倉時代以前に遡る能はざるを知るに満足せんのみ。
第三章 天孫降臨
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
私按、高千穂地方に於ける數多の~蹟と稱するものに就きて
高千穂地方の~蹟と稱するもの
今の西臼杵郡なる高千穂の地には、數多の~蹟と稱するものを傳ふ。
曰く高天原、曰く天の岩戸、曰く天の眞名井、曰く天の香久山、曰く天の浮橋、曰く何、曰く何と。
殆ど記紀~代巻に見ゆるあらゆる~蹟を具備せざるなし。
斯くの如きは、思ふに皆近き世の唱道にかかるものならんか。
彼の一宮巡詣記には、
五日(延寶三年九月)高千穂十社大明~へ詣で、三田井(三代)の町に留る。と見えたり。
六日二上山へのぼる。
二~(ふたかみ)大明~を拝み、それよりちぢが岩屋へ至る。
此所は~代の皆二柱の~、子だね生み給ふのよし、所に傳へたる釣針の書と云文に見え侍る。
三代(みだい)村の内槵觸が峯、~代(くましろ)(熊白とも)の井、何れもいはれあるよし。
其の謂ふところ一も高天原の~蹟に關するものなし。
千々の岩屋を言ひて、天の岩戸を言はず、~代の井の名ありて、天の眞名井の名を説かず、以て他を想像すべきなり。
之を單に常識に訴ふるも、既に天孫高天原より此の地に降臨し給へりといふ以上、高天原は此の地ならざるは明かなり。
其の之を高天原なりといふは勿論、天の眞名井、天の香久山等、等、所謂高天原に於ける~蹟の此の地に存すべからざるは言ふまでもなし。
蓋し高千穂の域、天孫降臨の古傳説あるが故に、延寶以前既に種々の~蹟を附會したるものあり、其の後更に附會を重ねて、~書に傳ふる高天原の~蹟をも唱道するに至りしものなるべし。
されど斯くの如きは、畢竟此の古傳説地を一層~聖ならしめんとして、却って自ら己れを害ふものなりと謂はざるべからず。
或はいふ天孫高天原より此の地に降臨し給ひ、其の祖國を偲び給うあまりに、其の名蹟を此の地に摸(うつ)し給へるならんと。
彼の上代歴世帝都の地たりし大和平和に於て、種々高天原に於ける~蹟と同様の地名を存する、以て例とすべし。
然れども此の地~蹟と稱するもの餘りに多く、殆ど送迎に遑なき程なるが爲に、却って識者の心證を害し、世人をして其の眞の古傳説地たることをすらも否認せしめんとするに至る。
惜まざるべんや。
第三章 天孫降臨
第四節 高天原の所在に關する諸説
史家千古の疑問
天孫高天原より我が高千穂峯に降臨し給ひきとの古傳は、毫も疑ふべきにあらず。
而も天~が出雲の大國主~に説きて、其の國を譲らしめ給ひ、叉大國主~並びに御子~等が、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護りとして、大和の各地に鎭座し給ひきと傳ふるものあるに拘はらず、天孫何が爲に其の出雲又は大和の地を措きて、斯くの如き僻遠なる日向高千穂の地に降臨し給ひきとなすか。
是れ古來史家が千古の疑問とする所なり。
ここに於てか、論者或は天孫の高千穂降臨説を疑ひ、はては~武天皇の東征傳説をすら否認せむとするものあり。
されば天孫降臨の傳説を研究せんには、須らく先ず所謂高天原なる祖國より、如何なる道筋によりて此の日向なる高千穂峯に降臨し給ひきと信ぜられたりしかを詳にするの要あり。
而して其のここに降臨し給ひし道筋を明かにせんには、須らく先づ其の祖國たる高天原の所在に就きて一考せざるべからざるなり。
高天原は大和なりとの説
高天原は古傳之を天上の國なりと説く。
之を本居宣長等一派の國學者の如く、其の文字通りに高く虚空にありと解せんには論なし。
然れども、苟も人事を以て之を觀んには、其處には山あり、河あり、田園あり、市場あり、禽獸、草木生存し、農耕、紡織、冶鑄、建築等の技術も頗る發達して、宛然地球表面上の某處なるべき狀態を示せるなり。
ここに於てか先輩既に其の在所を地上に尋ねて、或は常陸に其の處ありとし、或は之を大和に求め、或は豊前、豊後等の地方に之を擬し、或は遠く海外に之を探らんとす。
之を常陸なりと云ひ、豊前、豊後等にありといふ説の如きは、近時の學者もはや殆ど之を顧るものなければ、今説かず。
之を大和に在りとするの説は、其の地に後世なほ高天原と稱する地あり、天の香久山、高市などと稱する名もありて、其の説頗る據る所なきにあらず。
殊に此の大和説は、「天孫若し海外より渡來し給ひしものとならんには、是れ剽掠却奪の下に、此の皇基を肇めさせ給へることとなりて、我が尊嚴なる國體を冒瀆するの甚だしきものなり」との、一種の尊皇愛國の念より頗る世の歡迎する所となれるものなり。
よりて聊か之を瓣ぜん。
右の説の批評
高天原を以て大和なりとする事は、其の據るところ主として大和に存する地名にあり。
然れども、民族其の居を遷して新に國を創むるに當り、先住地の名をとりて新來の地に附することは、世間普通に見る所なり。
又本居氏も既に言へる如く、古傳説によりて新に舊蹟を作り設くる事も、世間其の例少きにあらず。
されば後に天孫民族の蕃延せる大和に於て、祖國に存する古傳説上の地名ありとも、必ずしも之を以て、其の地なりとの確證とはなし難かるべし。
若し古書の傳ふる古傳説を以て、毫も採るに足らざるとする論者ならんには卽ち巳まん。
苟も我が古傳説を信じ、若くは其の古傳説によりて、古代人士の思想を探らんとする論者ならんには、大和を以て高天原なる祖國とするの説は、到底成立すべからざるなり。
之を古傳説に徴するに、天孫は此の豊葦原の瑞穂國を、安國と定むべき使命を帯びて、此の土に降臨し給ひしなり。
而して~武天皇は此の使命を完うし、天業を恢弘して天下に光宅し給はんが爲に、西偏日向の地を去りて、遠く六合の中心たる大和に向ひ給ひしなり。
然るに其の大和にして、果して祖國高天原と同一ならんには、何故に天孫此の六合の中心たる大和を去りて、遠く西陲僻遠の地に降臨し給ふことのあるべけんや。
叉同じく天~の御子と稱せらるる饒速日命は、夙に天の磐船に乗りて、大和に降り給へりとさへ傳へらるるなり。
若し大和にして是れ直ちに高天原ならんには、如何ぞ其の祖國なる高天原より、更に同じ高天原なる大和に降り給へりと言はんや。
されば古傳説謂ふ所のものが、果して歴史上の事實なりや否やは別問題なりとするも、少くも此の傳説を語り傳へたる古代の人民が信ぜし高天原は、決して大和にてはあらざりしなり。
況や天孫の爲に國を避け奉りし大國主~が、皇孫尊(すめみまのみこと)の鎭まりまさん大倭(やまと)の國と申して、其の和魂を大三輪の~奈備に坐(ま)させ、其の他の御子~等の御魂をも、それそれに大和各地の~奈備に坐させて、皇孫の近き守りの~と奉れりとの、出雲國造の所傳もこれあるをや。
古傳説上の高天原は、決して大和にてはあるべからず。
南洋説
然らばこれを海外に求むべきか。
或る論者は、人種學、土俗學等の研究の結果として、邦人中には容貌、骨骼が南洋諸島の住民に酷似せるもの多く、風俗、習慣等、彼我の間亦時に著しき類似を見ること少からざるが故に、或は兩者同一源に出づるものならんかと解し、随って天孫の祖國なる高天原を、南洋方面に想像せんとするものあり。
殊に古傳説に於て、天孫が此の南洋に面せる日向の地方に降臨し給へりと傳ふるは、是れ嘗て我等の祖先が黒潮の流に乗じて、ここに到着せるを語れるものなりとし、其の古傳説中に熱地の特産なる鰐魚(わに)の説話多きを以て、其の祖國當時の~話の其のままに傳はれるものならんと解せんとするなり。
右の説の批評
高天原なる祖國を南洋方面に求めんとするの説は、一見頗る科學的にして、單に古傳説にのみ拘泥して論をなすものとは、甚だしく其の撰を異にするが故に、往々人をして之を傾聽せしめ、識者の之を信ずるもの亦少からざるが如し。
然れども、さらに之を熟考するに、本邦人の容貌、骨相、風俗、習慣等の、南洋諸島の住民の其れに類似せるものありとの事は、是に依りて邦人の中に、彼等と同一系統の血液の混在せる事實を示せるものなりと、解するの理由とはなるべからん。
而も未だ之を以て、我が天孫民族の祖國が南洋方面にありきとの證となすには足らざるなり。
容貌、骨相の事は暫く擱き、本邦人の風俗習慣中、一方に於て南洋系統のものと相容れざるもの少なからざるは、亦之を認めざるべからず。
例えば黥面、文身の俗の如し。
こは南方に於て廣く行はれ、本邦の古代、叉此の風あるもの多かりしも、而も之れ異族若しくは賤者の俗として、天孫民族の敢て爲さざる所なりしなり。
叉南方系の者多く漁業に從事するに反し、我が古傳説には、天孫が山幸彦(やまさちびこ)として、海幸彦(うみさちびこ)と相争ひ給ひしことを傳ふるあるにあらずや。
其の天孫が、南洋に面せる日向の地に降臨し給へりと言ふが如きは、一見此の方面に深き關係あるが如く思はしむるものありと雖、而も其の降臨地として傳へらるる所は、扁舟の寄るべき海岸にはあらずして、所謂襲の高千穂たる山嶽重疊の高地なりしなり。
若し夫れ鰐魚(わに)に關する古傳説の如きは、是によりて毫も南洋との間に關係を認むべきにあらず。
「わに」は鰐魚にあらず
故傳説に所謂「わに」を以て、熱地の特産たる鰐魚(クロコダイル)なりと解するが爲にこそ、此の疑問もあれ、邦語の「わに」は其の實鱶(ふか)若くは鮫の類の巨魚にして、決して文字の示せる鰐魚其の物にはあらざるなり。
こは出雲風土記を始めとして、中古の物語等に、出雲の中海、駿河の沿岸、或は新羅の近海に於て、現實に「わに」の生息せの説話を傳ふることあるによりても知らるるなり。
中にも出雲風土記には、該書編纂の時を距る僅か六十年前に於て、安來ク比賣崎に於て少女の和爾(わに)の爲に害せられたる事を記し、其の中海所産の魚類を列記する中には、明かに「和爾」の名をも録するなり。
ただに遠き古へのみならず、今もなほ伯耆、出雲、石見、隱岐等、山陰方面の地方には、鱶、鮫の類を「わに」と稱し、古名録の記する所によれば、紀伊牟婁郡にてもイラキザメと稱する魚を、「わに」と呼びきと言はるるなり。
然るに古人漢字を飜譯するに當り、誤って鰐魚に宛つる邦語の「わに」を以てす。
これが爲に種々の誤解を生ぜしものあらんも、「わに」の傳説もとより何等南洋に關係あるものにあらず。
更に其の容貌、骨相問題の如きに至りては、邦人中南洋系統に近きものの存在すると同時に、他方には亦其の然らざるものの頗る多きを忘るべからず。
何ぞ直ちに之を以て、我が祖國の南洋にありし證とせんや。
考古學上よりの觀察
更に之を考古學上の研究に徴するに、我が邦に發見せらるる石器時代の遺物の或る種のものが、或は薹灣に於て撥見せられ、或は南洋土人の土俗品に似たるものあり。
これによりて、人或は我が日本民族の祖國を、南洋に求めんとするものなきにあらず。
然れども、斯くの如きの遺物は朝鮮及び滿洲等にも發見せらるるものにして、或は未だ技術の多く發達せざる民族の手工にあらはれたる、偶然の類似とも謂ふべく、或はもと志那本部に住せし原住民が、漢人に其の地を讓りて、南洋にも、滿洲、朝鮮にも移住し、はては我が邦に渡來せりとも解すべきものならんか。
而も事や石器時代にあり、玉を帯び、太刀を佩き、鏡を捧持し給へる天孫降臨傳説の關する所にあらず。
されば此の事は、日本民族を構成する一要素として、南洋現住の民族と源を一にするものの存することを認め、随って日本民族の容貌、骨相が、時に南洋人に近似し、或は風俗、習慣等の、時に南洋のそれに類似するものあることの説明とはなるべからんも、是に由りて、我が天孫降臨の古傳説を説明し得べきにあらざるなり。
されば我が天孫民族の祖國として信ぜらるる高天原を以て、之を南洋方面に求めんとするの説は、亦未だ定説となすべからざるものとす。
大陸説
或る論者は高天原を以て、之を大陸に求めんとす。
是れ亦容貌、風俗、習慣等の類似と、特に~話、古傳説、及び國語が、朝鮮、滿洲の方面に深き關係を有すること多きに基づけるものなりとす。
右の説の批評
此の説亦現今の研究の程度に於ては、未だ以て確定の事實として、他をして必ず之を信ぜしむる程の權威なしと雖、さりとて亦之を否定すべきの論據もなく、之を東亞に於ける民族南下の趨勢に鑑み、其の然るにあらざるかを思はしむるものなきにあらず。
殊に我が國語の語系が、南方若くは西隣の民の使用する所と全然異にして、西北、特に朝鮮、滿洲の方面に密接なる關係の認めらるるは、其の~話の彼是相類するもの多きの事實と相俟って、少くも我が國民の上位に立ちて、指導統治の任に當りし民族が、此の方面に深き因縁を有せしものなることは、到底否定し難きに似たり。
然れども斯の如きは、單に之を以て大陸方面なるべしと謂ふを得るのみにして、固より世界地圖上に於て、所謂高天原の地點を指示し得べきにあらず。
其の決定は將來ますます人種學、考古學、土俗學、言語學等の研究の功を積み、其の發達の後に俟つべきものなりとす。
之を要するに、今日の學界の狀態に於ては、天孫瓊瓊杵尊は、高天原の名を以て傳へらるる或る祖國より、群~を率ゐて豊葦原ノ瑞穂ノ國を安國と平らけく治(し)ろしめし給はんとて、先づ我が日向國高千穂峯に降り給へりと謂ふを以て滿足せざるべからず。
第三章 天孫降臨
第四節 高天原の所在に關する諸説
私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて
若し夫れ我が祖國を海外の或る地上に求め、天孫海を渡りて我が大八洲國に渡來し給ひたりとせんには、是れ他の國を剽掠刧奪したるものなりて、金甌無缺の我が國體を傷つくる甚だしきものなりとの一種の愛國論の如きは、其の情頗る敬慕すべきに似たりと雖、是れ蓋し杞憂に属するなり。
高天原を以て虚空にありとし、~聖の事人意を以て忖度すべからずと謂はば則ち己まん。
苟も解するに人事を以てし、祖國を地球の表面に求めんとせんには、此の島國に於て、世界の他の人類と何等の關係なき特殊の人類が、偶然ここに化生したりと主張するにあらずんば、如何ぞ其の祖先が他より渡來したりとの説を拒否するを得んや。
而して既に其の渡來を認めんには、其れが空漠無人の境に對して行はれたりと假定するにあらずんば、論者の憂は永久に絶えざらんなり。
然れども乞ふ安んぜよ、我が天孫は決して他國を剽掠刧奪し給へるにあらざるなり。
既に言へる如く當時我が國土には蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)多く、すべての民衆塗炭の苦に惱みき。
是に於てか天孫之を安國と定め給ふべく、ここに降臨し給ひきと傳へらるるなり。
其の出雲の大國主~の如きは、すでに有力なる國家を形成せしが如く傳へらるると雖、もと是れ天ツ~の依ざし給へるところにあらず。
又未だ以て我が瑞穂國を統一して、之を安國となすに及ばざりしなり。
況や他の所謂荒振~達なるものをや。
ここに於て皇孫尊は之を併合し給ひ、以て其の民を安んじ給ひしなり。
日本紀に曰く、「大巳貴神(大國主~)報へて曰く、天ツ~の勅教慇懃、此くの如し。
敢て命に從はざらんや。
吾が治らす顯露(あらは)の事は、皇孫當に治むべし。
吾は當さに退いて幽事を治めん」と。
之を今日の語を以て云へば、其の民の統治權を天孫に委ね奉れるものにして、近く韓國の併合にも比すべきものなり。
されば其の大國主~の御舎(みあらか)は、天ツ~の御子の天津日繼(あまつひつぎ)知ろしめす宮殿の如く莊嚴に之を造り、其の御魂は天照大~と共に之を宮中に祭り奉り、神武、綏靖、安寧の御三代まで、常に皇后を其の後裔に求め給ふなど、之に對して尊重の限りをつくし給ひきと傳へらるるなり。
天孫何ぞ人の國を奪ひ給ふものなりと謂はんや。
【私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて】 から次の頁に續く
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