2018年06月11日
お札の人達 5000円札
5000円札の肖像画はだれか? ?
さっと答えられますか。
樋口一葉です。
千円札、万円札ほど馴染みがないので、
答えられない方も多いのではないかと思います。
続けて、1世代前の5千円札の肖像はだれだったでしょうか。
新渡戸稲造
先の戦争以後は、
聖徳太子や伊藤博文などの政治家や
夏目漱石などの文学者、野口英世などで、
これらの人達が日本のために
どんな貢献をしたためお札になっているか、
おおよそのことは歴史の教科書にあったので知っていました。
しかし、新渡戸稲造は長い間知りませんでした。
5千円札に縁もなかったので。
最近、人の名前を教えて貰おうとしたら(本人にではありません)
「千円札ヨ」と言われ「? ? ・・・」。
改めて確認した次第。
そこで、新渡戸稲造を思い出したというわけです。
新渡戸は、
1900年に「Bushido : The Soul Of Japan」を著し、
自身の名と「武士道」を世界に知らしめました。
その後、国際連盟の事務次長に就任し、
日本が世界の有色人種から期待と喝さいを受けた
「人種差別撤廃」を国際連盟に提案した時、
連盟内で活躍した人物でした。
残念ながら過半数の賛成を得たにも関わらず、
議長を務めた米国のウイルソン大統領の反対のため
採択されませんでした。
米国は賛成できるはずはありません。
黒人差別が当たり前の時代ですから。
ここらへんの事も、先の戦争の遠因ではないでしょうか。
白人国家は人種差別撤廃が
植民地解放につながることを恐れたのだと思います。
在任中の実績の一つ。
1922年バルト海のオーランド諸島の帰属問題を
公平な視点からフィンランドの自治領にすることで、
見事に解決し世界から称賛を浴びることになりました。
相手国スウェーデンに比べ弱小国だったフィンランドの国民は、
新渡戸の国の大小にこだわらず主権を認めた
見事な裁き(新渡戸裁定)に感謝し、
今でも親日です。
新渡戸は、札幌農学校の2期生で、
内村鑑三と同期です。
なかなかの熱血漢で
1年時には意見の食い違いから教授と殴り合いをし、
「アクチーブ」(アクテイブ)と呼ばれたようです。
しかし、2年時には洗礼を受け「パウロ」となってからは、
鑑三から「モンク」(修道士)と仇名されるほどおとなしくなったようです。
北海道庁に勤務した後、
東大に入学したけれど「レベルが低すぎる」という理由で退学し、
1884年「太平洋の架け橋になる」と言って米国へ留学。
帰国後、同郷の後藤新平に乞われて台湾に渡り
「糖業改良意見書」を提出、台湾の農業の発展に寄与しました。
また、米国から帰国後は「教育界」にも多大な貢献をしています。
それにしても、教授と殴り合ったり、
東大を退学したり、米国に行ってクエーカー教徒になり、
クエーカー教徒の女性と結婚したり、
台湾にいったり、
たくさんの学校の設立から運営にかかわったり。
お札の澄ました顔からは想像できないほど熱い男だったのですね。
さっと答えられますか。
樋口一葉です。
千円札、万円札ほど馴染みがないので、
答えられない方も多いのではないかと思います。
続けて、1世代前の5千円札の肖像はだれだったでしょうか。
新渡戸稲造
先の戦争以後は、
聖徳太子や伊藤博文などの政治家や
夏目漱石などの文学者、野口英世などで、
これらの人達が日本のために
どんな貢献をしたためお札になっているか、
おおよそのことは歴史の教科書にあったので知っていました。
しかし、新渡戸稲造は長い間知りませんでした。
5千円札に縁もなかったので。
最近、人の名前を教えて貰おうとしたら(本人にではありません)
「千円札ヨ」と言われ「? ? ・・・」。
改めて確認した次第。
そこで、新渡戸稲造を思い出したというわけです。
新渡戸は、
1900年に「Bushido : The Soul Of Japan」を著し、
自身の名と「武士道」を世界に知らしめました。
その後、国際連盟の事務次長に就任し、
日本が世界の有色人種から期待と喝さいを受けた
「人種差別撤廃」を国際連盟に提案した時、
連盟内で活躍した人物でした。
残念ながら過半数の賛成を得たにも関わらず、
議長を務めた米国のウイルソン大統領の反対のため
採択されませんでした。
米国は賛成できるはずはありません。
黒人差別が当たり前の時代ですから。
ここらへんの事も、先の戦争の遠因ではないでしょうか。
白人国家は人種差別撤廃が
植民地解放につながることを恐れたのだと思います。
在任中の実績の一つ。
1922年バルト海のオーランド諸島の帰属問題を
公平な視点からフィンランドの自治領にすることで、
見事に解決し世界から称賛を浴びることになりました。
相手国スウェーデンに比べ弱小国だったフィンランドの国民は、
新渡戸の国の大小にこだわらず主権を認めた
見事な裁き(新渡戸裁定)に感謝し、
今でも親日です。
新渡戸は、札幌農学校の2期生で、
内村鑑三と同期です。
なかなかの熱血漢で
1年時には意見の食い違いから教授と殴り合いをし、
「アクチーブ」(アクテイブ)と呼ばれたようです。
しかし、2年時には洗礼を受け「パウロ」となってからは、
鑑三から「モンク」(修道士)と仇名されるほどおとなしくなったようです。
北海道庁に勤務した後、
東大に入学したけれど「レベルが低すぎる」という理由で退学し、
1884年「太平洋の架け橋になる」と言って米国へ留学。
帰国後、同郷の後藤新平に乞われて台湾に渡り
「糖業改良意見書」を提出、台湾の農業の発展に寄与しました。
また、米国から帰国後は「教育界」にも多大な貢献をしています。
それにしても、教授と殴り合ったり、
東大を退学したり、米国に行ってクエーカー教徒になり、
クエーカー教徒の女性と結婚したり、
台湾にいったり、
たくさんの学校の設立から運営にかかわったり。
お札の澄ました顔からは想像できないほど熱い男だったのですね。
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