人生において、
『さとり』
は、非常に重要な要素であると、
私は認識しています。
なぜなら、
“悟り” が得られると、
心が穏やかになり、
悩みがなくなり、
本当の自分(真我)が発現するからです。
作家で講演家の小林正観さん(1948-2011)は、著書
『悟りは3秒あればいい』(だいわ文庫)
の中で、
“悟り” について、こう述べています。
「六人の話をします。
一人目。
江戸時代末期のお話。
良寛和尚が、
刈羽郡のある家を訪ねた時に、
そこの主人から次のように言われました。
『私は、地位や財産もこれ以上望んではいません。
心に満たされないこともありません。
けれども、
一つだけどうしても思いどおりにならないことがあります』
良寛和尚が、
『それは何か』
と尋ねると、
『100歳まで生きたいと思うのですが、それだけは思いどおりになりません』
としょんぼりと答えました。
すると、
良寛和尚は、
『それはとても簡単なことです。
今100年生きたと思えば、
それは100年生きたことではありませんか』
とほほえみながら答えました。
(中略)
二人目。
室町時代の臨済宗大徳寺の禅僧、一休和尚のお話。
一休和尚は、
貧しい人々にも禅宗の教えを広めようと町に出ました。
『皆さん、極楽はどこにあると思いますか』
一休和尚が話し始めると、
たくさんの人々が集まってきます。
『西に決まってる。
仏様がいらっしゃる極楽は、
日が沈む方角にあるはずだ』
ある人がそう答えると、
一休和尚は、
『阿弥陀とは、
南にあるを
知らずして
西を拝むは
はかなかりけり』
と歌を詠み、
次のように語りました。
『極楽は、
みなみにあるのですよ。
“みなみ” とは方角の “南” ではなく、
“皆身” 、つまり皆の体のこと。
ですから、
西をおがんでも、
極楽へ行けるわけではないのです』
三人目。
モーリス・メーテルリンクが書いた童話『青い鳥』は、
誰もが一度は読んだことがあるはずです。
貧しい木こりの子どもである、
チルチルとミチルの兄妹が、
クリスマス前夜に夢を見る。
魔法使いの老婆から、
病気の娘のために幸福の象徴である “青い鳥” を探して欲しいと頼まれる夢だった。
二人は、犬や猫、妖精を連れてさまざまな国を訪ね歩くが、
結局、
青い鳥を見つけることができずに帰ってきた。
翌朝、
二人が夢から覚めると、
自分の家で飼っている鳥が青いことに気がついたというお話。
四人目。
ドイツの詩人、カール・ブッセが詠んだ有名な詩があります。
山のあなたの空遠く
『幸』住むと人のいふ。
噫、われひとひと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
『幸』住むと人のいふ。
山のかなたの、
さらに空の向こうに、
『幸い』が住んでいると聞いて、
『幸せ』を探しに行ってみた。
けれども、
行けども行けども『幸せ』というものは見つからず、
失望して泣きながら帰ってきた。
『幸せ』の中に生きる人間には『幸せ』の姿がわからない。
『幸せ』というのは、
どこか遠いところに存在しているのではなくて、
今、
ここで『幸せ』を感じるかどうか、
ということにあるという話。
(中略)
五人目。
般若心経の中に
『照見五蘊皆空 度一切苦厄』
とあります。
『照見五蘊皆空』とは、
『照らし見るには五蘊は皆空なり』
という意味。
『五蘊』とは、
『色、受、想、行、識』
の五つのことを指します。
『色』は物質の存在、
『受』はどう受けとめて、
『想』はどう思ったのか、
『行』はどう行動し、
『識』はどう体験してどう認識したのか、
という五つの感覚のこと。
お釈迦様は、
その五つの感覚レベル、
つまり自分たちが捉えて感じたことは、
『すべて空である』
と言いました。
『空』とは『無』とは違って、
ないのではなくて、
そこに存在するが『性格づけ』されていないということ。
お釈迦様は、
『五蘊すべての感覚レベルは、
性格づけされたものではない。
自分が勝手に性格づけしている。
すべては空』
と教えたのです。
すべては皆『空』であり、
それに対して人間が色づけしているにすぎないと悟ったのがお釈迦様。
六人目。
六人目は、
冗談半分で言うのですが、
小林正観、私です。
私は、『幸』も『不幸』も存在しない。
そう思う心がここにあるだけ、
とずっと言い続けてきました。
この六人が共通して言っていること。
それは、
今、
目の前で起きている現象に対して、
『性格づけ』をしているのは『自分』だということです。
イヤだ、嫌いだ、つらい、悲しい、
とその現象に対して『性格づけ』をするから、
その現象が『悩み』になってしまう。
『現象』はゼロです。
そのゼロの現象に対して、
勝った、負けた、
成功した、失敗した、
などと評価・評論、
つまり『色づけ』をするから、
『苦しみ』になってしまうわけです。
だったら、
そんな性格づけ、
色づけなどせずに、
受け入れてしまえばいい。
受け入れることができたら、
とてもラクになるでしょう。
(中略)
私がいう『悟り』とは、
『受け入れること』。
なにか特別な勉強をしなくても、
何年も修行をしなくても、
受け入れることさえできれば
『悟る』
ことはできるのです。
短ければ最短『三秒で』悟ることができます。
一秒目、
過去のすべてを受け入れること。
今までの自分の身に起きたことは、
すべて自分に必要だった、
と『過去』のすべてを受け入れること。
二秒目、
現在のすべてを受け入れること。
そのすべてが自分にとってプラスだった、
自分を成長させてくれた、
それがなければ今の自分がなかった、
と『現在』のすべてを受け入れること。
三秒目、
未来のすべてを受け入れること。
今までのすべてに感謝し、
これからのすべてに感謝できる、
と『未来』のすべてを受け入れること。
『悟る』ためには、
過去・現在・未来のすべてを受け入れることです。
受け入れるためには三秒あればいい。
そして、
その結果、
『悟った状態』が得られるようになると、
悩みがなくなり、
心が穏やかで、
イライラしなくなり、
にこやかに、
幸せに生きることができる。
と同時に、
流れに身をゆだねる、
不平不満を言わなくなる、
その結果として、
自分の役目や役割も見えてくる、
それを自然とやらされるようにもなり、
何が起きようとも動じない自分になれるのです。」(3頁〜10頁)
『悟り』に対する考え方は、
人それぞれです。
小林正観さんが述べる『悟り』も、
一つの『さとり』だと思います。
私は、
中村天風師や、
ディーパック・チョプラ博士の
『悟り』に対する考え方が好きですが、
小林正観さんの『悟り』に対する考え方も
非常に参考になります。
あなたも、
『悟り』について、
考えてみませんか?
『悟ることが “人生の目的” の一つである』
と私は認識しています。
(推薦図書)
『悟りは3秒あればいい』
(著者 小林正観 だいわ文庫)
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