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2020年05月06日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤枝宿〜岡部宿)




 今回は岡部宿を目指します。一里二十九丁(約5.5Km)の道のりです。



 岡部宿、西の入り口ですが市役所の岡部支所の近くにある桝形跡辺りかと思われます。
 藤枝宿と岡部宿の間には、須賀神社、鬼島一里塚、横内橋、慈眼寺、岡部の松並木、五智如来、などが有ります。



 藤枝宿を出発し少し行くと、須賀神社です。境内には、樹齢500年とも言われる大楠が有ります。根回り15.2ⅿ樹高23.7ⅿと言う大きさで県の天然記念物との事です。
 須賀神社を過ぎて行くと、鬼島一里塚に差し掛かります。民家の前に標識だけがある様です。
 その先、少し行くと横内橋が有ります。横内橋は朝比奈川に架かる橋ですが、この地域は文禄年間豊臣家家臣池田孫次郎輝利が村人に河川改修を指導し白髭神社を祀り開村した地域だそうです。
 その先には、慈眼寺が有ります。西了山 慈眼寺は慶長年間、横内村が開村したのを機に、先祖の菩提供養の為に新寺を建立する機運が高まり開創された寺院だそうです。
 慈眼寺から少し行くと、松並木に差し掛かります。岡部の松並木と言われ、大事にされているとの事です。
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 その先に、五智如来が有ります。元は、寛永年間に開山したといわれる誓願寺に安置されていたそうですが、それを現在の場所に移し,公園として整備されています。五智如来像は田中城主が誓願寺に病気平癒の祈願をしたところ成就し、そのお礼として寄進されたとの事です。五智如来は5体で1組ですが、もう1組明治の中頃に作られています。
 直ぐに桝形跡に到着です。此処が岡部宿の入り口にあたります。



 江戸から21番目の岡部宿は、五十三次が整備されて、一年遅れで設立された規模の小さな宿場でしたが、寛永年間に参勤が制度化されたことにより宿場業務が増大し隣接する内谷村新町が加宿されました。
 岡部宿には、問屋場跡、姿見の橋、高札場跡、岡部宿内野本陣跡、旅籠柏屋などの史跡が有ります。



 宿場に入り進むと、街道には問屋場跡、高札場跡、本陣跡などの碑が点在しています。
 問屋場跡と高札場跡の間に有るのが、姿見の橋です。この橋は小野小町が景色を眺めていて、下を見ると水に映った自分の顔に老いの身を嘆いたという橋だそうです。確か「丹後LEGEND of sevens Princess」では、丹後で亡くなったはずですが、小町伝説は至る処に有ります。こちらの伝説はどういった言い伝えが有るのでしょうか?
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 本陣跡を過ぎると、旅籠柏屋になります。柏屋は岡部宿を代表する旅籠でした。1998年に国の登録有形文化財に登録されたとの事で現在、建設当時の姿が再現され歴史資料館となっているそうです。この先岡部川辺りが東の入り口らしいです。



 さて、岡部宿での御馳走を探したのですが、ご当地グルメとなるものは見つかりませんでした。
 次は、鞠子宿を目指します。距離にして一里二十九丁(約8.5Km)の道のりです。



2020年05月04日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 島田宿〜藤枝宿)




 島田宿から藤枝宿二里八丁(約10.6Km)を目指します。



 藤枝宿の、西の入り口は、瀬戸川に架かる勝草橋辺りが入り口の様です。
 島田宿と藤枝宿の間には、栃山橋、上青島一里塚、染飯茶屋蹟碑、千貫堤、東海道追分、六地蔵堂、田中藩領傍示石、志田一里塚、などの史跡が有ります。



 島田宿を出て、少しすると、栃山橋を渡ります。此処から藤枝市に入ります。旧道の松並木を進んで行くと、上青島一里塚に差し掛かります。江戸から51番目の一里塚ですが碑のみとなっています。
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 一里塚の先には、染飯茶屋蹟が有ります。染飯というのは、くちなしで黄色く染めたおこわで、瀬戸(藤枝)の名物として旅人に提供されていたそうです。現在染飯を頂く事は出来るのでしょうか?
 染飯茶屋の側には千貫堤が有り、寛永年間大井川の氾濫から守るための大堤防です。その費用が千貫だったという事で、その名が付いたという事です。
 千貫堤の先は、東海道追分です。大井川の氾濫はこの辺り迄被害が及んでいた様で、古東海道は北側の尾根伝いに来ていた様です。
 追分を過ぎると、六地蔵堂があります。六地蔵堂がある鏡が池に龍が住んでおり旅人を悩ませていたのを鬼岩寺二世静照上人により退治され、鏡池堂が立てられ六地蔵が祀られたという事です。
 六地蔵堂から少し進むと田中藩領傍示石に差し掛かります。染飯茶屋の手前にも田中藩領傍示石が有り、この辺りは田中藩領と掛川藩領が入り組む地域で、藩鏡に境界を示す傍石が建てられたという事です。
 田中藩領傍示石を過ぎて進むと、志田一里塚です、すぐそばに、勝草橋が架かっています。勝草橋を渡ると藤枝宿です。



 江戸から22番目の宿場である藤枝宿は、城下町としても、塩の産地であった田沼街道分岐点としても、更に商業地としても栄えた宿場です。又、藤枝ダルマや桐ダンスなどの伝統工芸も有名との事です。
 藤枝宿には、正定寺、問屋場跡、上本陣、下本陣、大慶寺、蓮生寺、白子由来記、東海道藤枝宿左車町、田中城、などが有ります。



 勝草橋を渡ると、正定寺が有ります。境内には、享保年間、当時の田中城城主が、報恩謝徳として寄進したという「本願の松」が植えられています。傘型の姿が特徴的で延命の松とも言われているそうで、市の天然記念物との事です。
 正定寺を過ぎると問屋場跡、上本陣、下本陣が続きますが、碑ではなく歩道にタイルが埋め込まれているそうです。
 その先を行くと大慶寺に差し掛かります。大慶寺は日蓮宗の寺院で山号は延妙山大慶寺となります。建長年間比叡山に遊学していた日蓮聖人が藤枝に立ち寄った時、若き日蓮の説法に教化された夫婦が持仏堂として建立した法華堂が起源だそうで、その後田中城の祈願所となり栄えたとの事です。境内には、当時の日蓮聖人が自ら植えたと伝わる黒松が有り県の天然記念物だそうです。
 大慶寺の先は蓮生寺です。蓮生寺は浄土真宗大谷派の寺院で熊谷山蓮生寺と言い建久年間蓮正(熊谷直実)開山となり創建されたという言い伝えです。享保年間駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となったそうです。境内には、市指定の天然記念物イブキが植えられているとの事です。
 蓮生寺の近くに、白木由来記の碑が有るとの事です。本能寺の変の時、徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三が家康の恩賞を受けこの地に移り住んだという事です。
 その先に東海道藤枝宿左車町が有ります。鎌倉6代将軍源宗尊が京から鎌倉に下る時乗っていた車の左車輪が折れてここに埋めた事から着いた地名だそうです。江戸時代はこの辺りが東木戸だった様で東の入り口と言う事です。
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 そこから街道を1Km程南下すると、田中城に着きます。田中城の歴代城主の殆どが幕閣入りを果たしており、田中藩主、城主になる事は幕政に参加する登竜門であった様で、天文年間今川氏により築城され、天正年間徳川の攻撃により開城し慶長年間徳川の酒井忠利が入城したとの事です。城は、平城で天守閣は無かった様です。現在周辺は田中城下屋敷として整備されています。



 さて、藤枝宿で頂かなければいけない物は?と言うと、当然、朝ラーですね!ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や、所さんお届けモノです!でも紹介されています。元は茶業関係者の食文化で、収穫や取引が早朝から行われるため早朝から来客が多く有るため朝ラーの文化が始まったそうです。本来の中華そばの温と、甘めのスープにわさび・生姜を添えられた冷の2種類を1セットで頂くものです。もう一つ気になっているのが、染飯ですが、こちらは藤枝駅前のお弁当屋さんで販売されているとの事です。
 この後、岡部宿へ一里二十九丁(約5.5Km)の道のりを行きます。



2020年05月01日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 島田宿〜藤枝宿)




 島田宿から藤枝宿二里八丁(約10.6Km)を目指します。



 藤枝宿の、西の入り口は、瀬戸川に架かる勝草橋辺りが入り口の様です。
 島田宿と藤枝宿の間には、栃山橋、上青島一里塚、染飯茶屋蹟碑、千貫堤、東海道追分、六地蔵堂、田中藩領傍示石、志田一里塚、などの史跡が有ります。



 島田宿を出て、少しすると、栃山橋を渡ります。此処から藤枝市に入ります。旧道の松並木を進んで行くと、上青島一里塚に差し掛かります。江戸から51番目の一里塚ですが碑のみとなっています。
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 一里塚の先には、染飯茶屋蹟が有ります。染飯というのは、くちなしで黄色く染めたおこわで、瀬戸(藤枝)の名物として旅人に提供されていたそうです。現在染飯を頂く事は出来るのでしょうか?
 染飯茶屋の側には千貫堤が有り、寛永年間大井川の氾濫から守るための大堤防です。その費用が千貫だったという事で、その名が付いたという事です。
 千貫堤の先は、東海道追分です。大井川の氾濫はこの辺り迄被害が及んでいた様で、古東海道は北側の尾根伝いに来ていた様です。
 追分を過ぎると、六地蔵堂があります。六地蔵堂がある鏡が池に龍が住んでおり旅人を悩ませていたのを鬼岩寺二世静照上人により退治され、鏡池堂が立てられ六地蔵が祀られたという事です。
 六地蔵堂から少し進むと田中藩領傍示石に差し掛かります。染飯茶屋の手前にも田中藩領傍示石が有り、この辺りは田中藩領と掛川藩領が入り組む地域で、藩鏡に境界を示す傍石が建てられたという事です。
 田中藩領傍示石を過ぎて進むと、志田一里塚です、すぐそばに、勝草橋が架かっています。勝草橋を渡ると藤枝宿です。



 江戸から22番目の宿場である藤枝宿は、城下町としても、塩の産地であった田沼街道分岐点としても、更に商業地としても栄えた宿場です。又、藤枝ダルマや桐ダンスなどの伝統工芸も有名との事です。
 藤枝宿には、正定寺、問屋場跡、上本陣、下本陣、大慶寺、蓮生寺、白子由来記、東海道藤枝宿左車町、田中城、などが有ります。



 勝草橋を渡ると、正定寺が有ります。境内には、享保年間、当時の田中城城主が、報恩謝徳として寄進したという「本願の松」が植えられています。傘型の姿が特徴的で延命の松とも言われているそうで、市の天然記念物との事です。
 正定寺を過ぎると問屋場跡、上本陣、下本陣が続きますが、碑ではなく歩道にタイルが埋め込まれているそうです。
 その先を行くと大慶寺に差し掛かります。大慶寺は日蓮宗の寺院で山号は延妙山大慶寺となります。建長年間比叡山に遊学していた日蓮聖人が藤枝に立ち寄った時、若き日蓮の説法に教化された夫婦が持仏堂として建立した法華堂が起源だそうで、その後田中城の祈願所となり栄えたとの事です。境内には、当時の日蓮聖人が自ら植えたと伝わる黒松が有り県の天然記念物だそうです。
 大慶寺の先は蓮生寺です。蓮生寺は浄土真宗大谷派の寺院で熊谷山蓮生寺と言い建久年間蓮正(熊谷直実)開山となり創建されたという言い伝えです。享保年間駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となったそうです。境内には、市指定の天然記念物イブキが植えられているとの事です。
 蓮生寺の近くに、白木由来記の碑が有るとの事です。本能寺の変の時、徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三が家康の恩賞を受けこの地に移り住んだという事です。
 その先に東海道藤枝宿左車町が有ります。鎌倉6代将軍源宗尊が京から鎌倉に下る時乗っていた車の左車輪が折れてここに埋めた事から着いた地名だそうです。江戸時代はこの辺りが東木戸だった様で東の入り口と言う事です。
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 そこから街道を1Km程南下すると、田中城に着きます。田中城の歴代城主の殆どが幕閣入りを果たしており、田中藩主、城主になる事は幕政に参加する登竜門であった様で、天文年間今川氏により築城され、天正年間徳川の攻撃により開城し慶長年間徳川の酒井忠利が入城したとの事です。城は、平城で天守閣は無かった様です。現在周辺は田中城下屋敷として整備されています。



 さて、藤枝宿で頂かなければいけない物は?と言うと、当然、朝ラーですね!ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や、所さんお届けモノです!でも紹介されています。元は茶業関係者の食文化で、収穫や取引が早朝から行われるため早朝から来客が多く有るため朝ラーの文化が始まったそうです。本来の中華そばの温と、甘めのスープにわさび・生姜を添えられた冷の2種類を1セットで頂くものです。もう一つ気になっているのが、染飯ですが、こちらは藤枝駅前のお弁当屋さんで販売されているとの事です。
 この後、岡部宿へ一里二十九丁(約5.5Km)の道のりを行きます。



2020年04月30日

オッサンのブラリ一人旅(姫路城)




 これは、2019年6月に他サイトで公開したものです。



 平成最後の日、Twitterで後日姫路城をブログに公開すると呟いて1ヶ月以上が経ってしまいました。
 かなり時間が建ってしまい、記憶が色あせてしまっています。



 車を、お城から少し離れた駐車場に停めお城に向かいます。
 姫路城に行こうと思ったのは、どうもオッサンの行くところは、あまり知られていないマイナーな神社や仏閣が多く偶にはメジャー処に行かねばと思い連休を利用して、行くことにしました。
 大手前通りを通り、お城前にやって来ると、人力車が待機しています。お城の周りを案内するのでしょう。
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 道路を渡ると、大手門です。
 大手門前の内堀に桜門橋が架かっています。発掘調査で出土した遺構を基に2007年復元されました。堀には船も浮かんでいます。
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 現在の大手門と呼ばれている門は、高麗門です。1938年に完成したものですが、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。
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 大手門をくぐると、三の丸広場が広がります。そして、姫路城の姿が飛び込んできます。
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 三の丸広場を右手に、進んでいくと、入城口です。
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 入城口を通り、菱の門を抜けいの門に行くと、天守閣への順路です。
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 いの門からの天守です。
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 いの門に入ってみると、ご覧の行列です。待ち時間も1時間以上掛かると言う事でした。
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 此処は一旦諦めて、本丸を目指すことにします。
 ぬの門を抜けたすぐ横には、明治、昭和、平成の鯱が展示されていました。
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 少し行くと、お菊井戸があります。播州皿屋敷のお菊さんが投げ込まれたとされる井戸です。
 一般的には、番町皿屋敷と云われますが、関西、中でも兵庫県、特に姫路の人にとっては、播州皿屋敷が本家だと信じています。お菊さんの事は、3年前に紹介していますのでもう一度、ご覧下さい。
 お菊井戸です。
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 りの門を過ぎると、こんな階段が有りました。此処から帯郭櫓に続くようですが、行き止まりになっていました。帯郭櫓は別名腹切り丸とも呼ばれていますが、建物の形状や薄暗い雰囲気から切腹を連想し、腹切り丸と呼ばれているという説があり、通常では城外に処刑場が有り、城内で処刑が行われることは考えにくいとされます。
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 いよいよ、備前丸(本丸)へやって来ました。
 備前丸は元々池田輝政の御殿が有った所ですが、本田忠政が城主に就いた時に移されました。
 備前丸からでも姫路市内を一望することが出来ます。
 外国人観光客の親子が、着物姿で・・・
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 姫路城の石垣は扇の勾配と呼ばれ、石垣の上へ行くほど反り上がり、扇を広げた曲線に似ていることから扇の勾配と言われています。
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 この後、引き返し、西の丸を散策します。


2020年04月29日

オッサンのブラリ一人旅(姫路熊野神社)




 これは、2019年5月に他サイトで公開したものです。



 特別意識している訳ではなかったのですが、平成最後の日、何処に出掛けようか?といろいろ考え、姫路へ行くことに・・・。



 目的は、以前から気になっていた、熊野神社と偶にはメジャー処へと姫路城を回りました。
 先ず、訪れたのが熊野神社です。行く前から事前調査をとネットで調べたのですが、どうも社務所も無いような神社です。姫路の熊野神社に関する記述は殆ど出て来ません。御朱印は行く前から諦める事に・・・
 姫路熊野神社は国道372号沿い、小原バス亭の近くにあります。田んぼの中に参道が続いています。
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 鳥居の側に車を停めて参拝します。此処からは未だ使い方がよく理解できていないウェアラブルカメラを装着します。動画はちゃんと編集できるようになってから公開したいと思います。
 石段を登っていきます。
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 長いのかと思いきや、直ぐに境内に到着です。
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 姫路熊野神社は、創立年は不明ですが江戸中期には創立されていた様です。明治時代に村社になったようです。祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊、速玉男神、事解男神となっています。
 熊野神社自体、全国各地に分布している神社ですが、姫路熊野神社との関係は不明です。速玉男神が熊野三山全てに祀られており、事解男神が本宮大社に祀られていますが伊弉諾尊、伊弉册尊の名前は出て来ていません。
 拝殿です。
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 本殿の隣にも石段が有りその先には境内社が有りました。何を祀っているのか?分かりません。
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 境内には天満宮とご神木らしきものが有りました。
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 境内から石段を見下ろします。
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 案内看板や、御朱印を頂く方法は掲げて欲しかったです。


2020年04月24日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 金谷宿〜島田宿)




 金谷宿から大井川を越えて島田宿へ入ります。1里(約4.5Km)の道のりです。



 島田宿、西の入り口ですが、川越遺跡町並が始まる川会所辺りかと思われます。
 金谷宿と島田宿の間には、大井橋、朝顔の松公園、川会所、が有ります。



 金谷宿を出て、大井川沿いを少し進むと、大井橋を渡ることになります。「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と歌われた川で東海道最大の難所です。江戸時代防衛上の理由で橋を架けるのを許さなかったそうです。
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 大井川を越えると、駿河国に入ります。橋を渡り街道に戻るため、県道342に入ります。
 街道に戻ると、朝顔の松公園が有ります。浄瑠璃や歌舞伎伝説の松が生えているとの事で、公園に整備されている様です。朝顔の松の由来などは、いろんなサイトで紹介されています。向かいには、島田市博物館もあり、大井川屋島田宿の様子が展示されているそうです。
 その先に川会所が復元されています。この建物は安政年間に建てられたもので、明治以降に一時移転されましたが、その後元の位置に復元されたとの事です。川越業務の管理運営を行っていた処で、国の指定史跡だそうです。



 いよいよ島田宿です。江戸から23番目の宿場で、大井川の左岸に有るため、右岸に有る金谷宿同様、大井川の増水で川越が禁止されると大そうな賑わいを見せたという事です。
 その島田宿には、川越遺跡町並み、関川庵、大井神社、問屋場跡、刀匠顕彰碑、島田一里塚、



 川会から川越遺跡町並に入ります。遺跡は1970年に復元されたものです。普通の民家と混同している様ですが昔の雰囲気が現れているそうです。
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 途中、関川庵の標柱が有り街道を逸れると、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「八百屋お七」の、お七の恋人の墓が有るそうです。
 関川庵から暫く行くと、大井神社鳥居が有り、その奥は大井神社です。創建不詳ですが貞観年間には存在していた様です。祭神は彌都波能売神、波邇夜須比売神、天照大神という事で、安産や女性、子供の神様として信仰されているそうで、神社の帯祭りは日本三大奇祭の一つとの事です。
 大井神社の先には問屋場跡と刀匠顕彰碑が有ります。共に碑だけですがこの辺りは室町時代から多くの刀工が軒を連ね今川、武田、徳川氏から評価されていたとの事です。
 問屋場跡を過ぎると、島田一里塚です碑のみですが、先には島田宿の道標が有りこの辺りが江戸からの入り口になる様です。



 島田宿の美味しい物ですが、和菓子になります。小饅頭というお饅頭で皮に特徴があるそうです。米麴を使った皮でお酒に似た香りでふっくらしているそうです。臭いはお酒でも、アルコールは無くなっているそうです。
 この後、藤枝宿2里八丁(約10.6Km)を目指します。



2020年04月17日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 日坂宿〜金谷宿)




 遠江国最後の宿場、金谷宿へ向かいます一里二十四丁(約8.1Km)の距離です。



 金谷宿、西の入り口は金谷一里塚跡辺りになる様です。
 日坂宿と金谷宿の間には二の曲がり、夜泣き石跡、涼み松、鎧塚、佐夜鹿一里塚跡、扇屋、久延寺、菊川の里、石畳の菊川坂、諏訪原城址、金屋石畳、すべらず地蔵、鶏頭塚・庚申堂、石畳茶屋、旧東海道石畳道入り口、金谷一里塚跡など多くの史跡が有ります。



 日坂宿を出て、国道1号を横切ると急な登坂に差し掛かります。二の曲がりと言われる難所で小夜の中山峠を越える旅人を悩ませていました。この辺りは沓掛という土地で、峠に差し掛かったところで沓を履き替え古い沓を水に掛け旅の安全を祈願したそうです。
 途中、夜泣き石跡があります。夜泣き石自体は現在別の場所にある様です。すぐ手前には歌川広重の絵碑が有るとの事で旅人と夜泣き石を描いているそうです。
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 夜泣き石跡から少し行くと、涼み松に到着です。旅人に木陰を提供してくれる大きな松が有ったという事で、これを歌った芭蕉の句碑もあります。向かいには、藤原良政の娘小石姫が自害し、ここに葬られたそうで、小石姫が身重であった事から妊婦の墓と言われています。
 涼み松のから少し進むと鎧塚が有ります。建武年間北条時行の一族名越太郎邦時が中先代の乱で京に上る途中、足利一族の今川頼国と戦い命を落とした場所で頼国によって葬られたそうです。
 鎧塚を過ぎると佐夜鹿一里塚です。江戸から54番目の一里塚で、当時は両脇に有ったそうで、道幅も三間有ったとの事です。
 その先には、子育て飴で知られる扇屋が有ります。この峠で妊婦が山賊に殺され、その時に生まれた子を水飴で育てたという伝説が有り、その水飴を売っているそうです。昔は同じような店が複数有ったようですが今はここだけらしいです。
 扇屋の直ぐ近くには久延寺が、山之内一豊が関ヶ原に向かう家康を接待した場所で、茶亭跡もあります。夜泣き石もここにあるそうです。どうも夜泣き石伝説の妊婦が小石姫ではないかと思わせるような感じです。それと、怪談噺の飴屋の幽霊とは関係が有るのでしょうか?
 久延寺の辺りが、峠の頂上らしいです。



 中山峠を降りると、菊川の里です旧東海道の宿場でしたが、江戸時代間の宿になりました。間の宿は宿場間に発展した休憩用の町場で宿は無かったそうです。その手前には、菊川の里会館があります。
 菊川の里を過ぎると直ぐに、登坂になる様です。石畳の菊川坂と言われる坂は江戸時代後期のものらしく現在は長さ161m、最大幅4.3ⅿが残っているとの事です。
 坂を登り切り少し行くと、諏訪原城址へ行く標識に差し掛かります。諏訪原城は天正年間、武田勝頼の命で築城された山城で建築物は残っていませんが堀、曲輪、馬出などの遺構が残っていて国の指定文化財となっているそうです。
 諏訪原城址への標識を過ぎると、下り坂です。金屋石畳になります。430ⅿ程の石畳ですが町民がボランティアとして石を運び復元されたとの事です。途中に有るのが、滑らず地蔵、鶏頭塚・庚申堂です。
金屋石畳.png

 すべらず地蔵は六角地蔵尊とも言われ、こちらが正式名称の様です。すべらず地蔵は此処の石畳が滑らない事から来ているそうで、受験生に御利益が有るとの事です。
 鶏頭塚は俳人六々庵巴静の「曙も夕ぐれもなしけ鶏頭華」と呼んだ句碑が有る事から鶏頭塚と呼ばれたそうです。鶏頭塚の裏に庚申堂が有り、日本左衛門はここで夜働きの着替えをしたとの事です。
 石畳を下り切る手前に、石畳茶屋があります。茶屋の奥は展示室になっており、広間は休憩所で軽食やお茶が飲める様です。
 石畳を下ると旧東海道石畳道入り口になります。下ってくると出口ですが、江戸側から見ると入り口です。
 石畳が終わっても坂道は続く様です。その坂を下り踏切を渡ると、金谷一里塚跡で、いよいよ、金谷宿に入ります。



 金谷宿は遠江国最東端の宿場で、大井川が増水などで渡れなくなり足止めされると大そうにぎわったそうで、本陣が3軒有ったそうで1軒は書店として残っているとの事です。
 金谷宿には、柏屋本陣、佐塚本陣、八軒屋橋があります。



 金谷一里塚跡から進むと、柏屋本陣に差し掛かります。柵に囲まれた植え込みに表示が有るとの事です。
 その先に、佐塚書店が有りここが佐塚本陣だったそうです。後の1軒は今のところ不明です。少し行くと八軒屋橋でここが東の入り口の様です。



 さて、日坂宿・金谷宿間の美味しい物ですが、一つは当然扇屋の子育て飴が有ります。もち米と大麦を原料にした水飴で口に入れると、優しい甘みが広がるそうです。
 もう一つが、金谷宿の郷土料理で菜飯田楽です。昆布の出汁で焚いたご飯に大根の葉を振りかけた物に豆腐の田楽を添えたものです。
 次は、金谷宿から島田宿へ入ります。距離は、一里(約4.5Km)です。



2020年04月16日

オッサンのブラリ一人旅(生田神社)

 


 これは、2019年5月に他サイトで公開したものです。



 4月28日、春の天皇賞が行われた日、馬券を購入するためにウィンズ神戸に来ていました。
 レース後肩を落としながら、このまま帰るのも・・・と思いやって来たのが生田神社です。考えてみれば、レース前にお参りすべきでした。



 生田神社へは、JRと阪急の高架沿いから、東急ハンズを目指して北上しました。
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 参道を進んで行きます。楼門を抜けると境内です。
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 いよいよ境内に入ります。
 生田神社は、旧社格間弊中社で廣田神社、長田神社と共に神功皇后以来の歴史が有る神社です。更に長田神社、湊川神社と並んで神戸を代表する神社です。
 祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)で、天照大神の幼名とも妹とも云われています。
 社殿は、神戸大水害、神戸大空襲、阪神大震災で倒壊しましたが、その度に復興されました。その事から「蘇る神」と崇められているようです。
 生田神社です。
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 生田神社と言えば、縁結びの神様で知られています。
 また、神戸という地名は生田神社から始まったと云われています。神社のある神戸市中央区の旧生田区の辺り一帯が社領で生田神社を世話し護る神戸(かんべ)が設けられそれが訛りこうべとなったようです。
 拝殿と本殿です。
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 社殿の右側を進んでいきます。
 すぐに摂末社を3社まとめた祠が有ります。祀られていたのが塞神社、雷大臣神社、人丸神社です。
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 こちらは、包丁塚です。料理人達の包丁に感謝し、食文化の向上を願い1993年建立されました。
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 楠の神木です。神戸大空襲で焼けただれましたが蘇り、再生、再起、合格、復活、復興の象徴とされています。
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 奥には、稲荷社があります。
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 当然稲荷神社は保食神が祀られています。稲荷神社です
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 社殿の真裏に、生田の森があります(鎮守の森のことです)。散歩には丁度いい所です。
 この森は、源平合戦の戦場でもあったそうです。須磨の一の谷からこの辺りまでが戦場となっていたようです。
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 歩いていると、生田森坐社があります、祭神は神功皇后です。隣には此処が蒲鉾発祥の地であるという碑が有りました。
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 市杵島神社、御祭神は市杵島姫命と蛭子神社、御祭神は蛭子尊です。
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 松尾神社(祭神は大山咋命)と大海神社(祭神は猿田彦命)です。
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 一通り回り、社務所で御朱印をいただきましたが。日付は、4月28日という中途半端な日になってしまいました。
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 後で、判ったのですが、境内社が他にも結構あるようでした。どうやら、見落としているようです。
 神戸市内には一宮から八の宮迄の神社が有るそうですが神戸の一宮は他の地域で云う一宮とは違うようです。





2020年04月14日

オッサンのブラリ一人旅(但東チューリップ祭り 但東ダム)




 これは、2016年4月に他サイトで公開したものです。



 チューリップ祭りの駐車場から、山の方に道が続いていました。祭りを見物し、戻って来た時、係員の方にこの上には何があるのか?聞いてみたところ、小さなダムが有り休日には、バスフィッシャーが訪れるとの話、一応駐車場もあるとも事。
 ならば、行ってみましょう。と言う事で行ってきました。但東ダムです。
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 但東ダムは、2006年に作られた、比較的新しいダムです。円山水系横谷川にある貯水ダムです。
 ダム湖の横谷湖です。
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 ダムからは、集落が見えます。画面の左にチューリップ祭りの会場が有ります。管理事務所もしまっています。
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 下の、遊歩道にも行ってみたかったのですが、階段を閉鎖されていて行く事が出来ませんでした。


2020年04月13日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 掛川宿〜日坂宿)




 今回は掛川宿から日坂宿へ向かいます。一里十九丁(約6.9Km)の道のりです。



 日坂宿の、西の入り口は西側の下木戸高札場であろうと思われます。
 掛川宿と日坂宿の間には、葛川一里塚、伊達方一里塚、事任八幡宮、などがあります。



 掛川宿、東の七曲りを出て少し行くと葛川一里塚と馬喰橋に差し掛かります。馬喰橋は橋の親柱が馬の顔だから馬喰橋だそうですが、東海道膝栗毛の弥次喜多が座頭をからかい川に落とされた場所らしいです。
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 馬喰橋を渡り4Km程進むと伊達方一里塚です。こちらの一里塚は史跡として整備されてはいるそうです。
 伊達方一里塚から暫く行くと、事任八幡宮があります。ことのまま八幡宮とよみます。この神社は807年坂上田村麻呂が東征の際、再興したという事で、武家社会になると八幡宮信仰が栄え、源頼義が石清水を勧請し事任神社が八幡宮を併称するようになったとの事です。昔から「必ず願いごとのままに叶う」神社として朝廷や全国から崇敬され、枕草子にも記されているそうです。境内には樹齢千年と言われる杉の巨木が立っています。
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 事任八幡宮から少し進むと下木戸高札場です。此処が日坂宿西の入り口になります。



 日坂宿は、江戸から25番目の宿場で、坂下宿、由比宿、に次いで3番目に小さい宿場との事です。東海道の3代難所の一つ小夜の中山の西麓に位置し、入坂、西坂、新坂などと記され日坂宿と読まれたりもしていた様です。
 その、日坂宿には、下木戸高札場、旅籠川阪屋、脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋,などが有ります。東の入り口は県道415号を横切る交差点辺りになる様です。



 下木戸高札場は江戸時代宿場の治安を守るため木戸が設けられていましたが、規模の小さい日坂宿では川が門の役割を果たしていたそうで、高札場と隣接していた為下木戸の高札場とも言われていたそうです。
 この先、旅籠川阪屋、脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋の史跡が続きます。
 旅籠川阪屋は、脇本陣などの肩書はありませんが身分の高い武家や、公家も宿泊した格の高い旅籠だった様で現在は資料館になっているそうです。
 日坂宿で最後の脇本陣を務めたのが、黒田屋との事です。残念ながら脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋は看板のみの掲示となっている様です。



 日坂宿で頂かなければいけない物は無いか?探した所、掛川宿と日坂宿の間掛川寄りに約二百年茶店を営んでおられる所が有り、そこの名物が振袖餅というお餅だそうです。着物の振袖の形に似ていた事から振袖餅と言ったそうです。
 この後、遠江国最後の宿場金谷宿を目指します。距離は一里二十四丁(約8.1Km)となります。



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