小学校6年生になる長女が、道徳の教科書にエルトゥールル号の話が
掲載されているので現地に予習に行きたいと言ってきました
串本に住んでいた者であれば知らない人はいないであろうこのお話
大阪、ましてや小学生、知らなくて当然です
この物語を教科書で取り上げてくれたこと
長女が故郷の歴史を知りたいといってくれたことが
正直、うれしかったです
1890年9月、トルコの親善訪日使節団は職務を無事終え
軍艦エルトゥールル号で横浜港を出港、帰路についた
不運にも和歌山県串本町沖を航海中に大型の台風に遭遇
猛烈な高波と強風のために岩礁に激突、エンジンが爆発を起こし
エルトゥールル号は沈没
海軍将校・兵士と乗組員587名が殉職するという大海難事故となりました
生存者はわずか69名だったそうです
串本町大島 樫野崎沖 エルトゥールル号が激突したのは このあたりの岩礁です |
この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護
また殉難者の遺体捜索、引き上げに尽力しました
日本全国からも多くの支援物資が寄せられました
69名の生存者は治療を受けた後、日本海軍の軍艦により帰国の途につき
翌年、無事イスタンブールに入港、トルコの人たちに心から感謝されました
時は流れて1985年
イラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領が
「48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました
イランに住んでいた日本人は、出国を試みましたが
どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした
世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが
日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ
空港にいた日本人は半ば諦めていました
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国です
トルコの救援機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました
当時、テヘランには多くのトルコ人がいましたが
救援機を日本人に提供し、トルコ人は陸路を数日かけて避難しました
日本人を優先的に避難させたのですが、トルコ人は誰もそのことを咎めなかったそうです
なぜトルコの航空機が来てくれたのか
後に駐日トルコ大使が次のように語られました
「日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません
私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」
遭難現場である岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に建てられた慰霊碑です
今も5年ごとにトルコ政府と串本町による合同慰霊祭が行われています
また串本の姉妹都市であるトルコのメルシン市にも同じ碑が建てられています
エルトゥールル号から始まったトルコとの絆は、現在もこの地で大切にされ、育まれています
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