古代のお墓といわれている穴のほうには見学料を払えば見ることが出来ます。結構、見学者がいますよ。見学料、安いですからね。興味がある方は一度見に来るといいかも。この吉見という町、意外に歴史的な遺跡があちこちに点在しているので、一日史跡めぐりをしても良いところですよ。この百穴以外にも近くに横穴群があるのですが、こちらは全くの手つかずのために観光するような形態はしていません。穴自体は結構大きいのでぱっと見、ちょっと不気味ですよね。
百穴の歴史
1887年(明治17年)に東京大学の坪井正五郎という人が発掘を行っています。その当時の百穴は半分土に埋まった状態で、穴にも土が入り込んでいました。土などを取り除き無数の穴が岩山に開いていることから、横穴の住居跡ではないかと坪井氏は考えました。
坪井氏の考えは以下の通りです。
- 住居の設備・構造を有している。
- 日本人の住居にしてはサイズが小さいので、コロボックルのような先住民が住んでいたのではないか。
この坪井氏の考えに異論を唱えた人がいます。白井幸太郎氏です。白井氏の意見は以下の通りです。
- 住居とするだけの十分な証拠がない。
- コロボックルの存在は証明されていない。
- 台座上の構造や副葬品、壁画など古墳の石室と同様の特徴がある。
- 薄葬令が出された時期と穴建設が盛んになった時期がおおむね一致する。
- この横穴は最初から住居ではなく墓として作られたのではないか。
この論争は明治から坪井氏の亡くなる大正まで続いたようです。その後、住居ではなく集合墓という説が定着しています。昭和の中頃までは、住居説もまだ残っていましたね。小学校の頃、百穴は古代人の住居と聞いたことがあります。
穴の中はどうなっているの?
何回かここにはいったことがありますが、確かに古墳時代の墳墓のような感じを受けます。壁画なのか落書きなのか、何やら書いてあるのは記憶しています。穴の大きさは人が腰を少し曲げないと入れませんし、奥行きはほとんどないんです。確かに住居としては狭い気がしますね。石の代のようなものがあって、そこに遺体を置いたのか、副葬品を置いたのかわかりませんが、部屋には石の台があるものとない物に分かれています。
岩山の横に無数の横穴があるのですが、結構、急な斜面にあるので階段を昇るのも大変です。こんな急斜面に穴を掘ったこと自体がすごいことで、硬い岩盤を何個もくりぬいた人達ってどんな人なんでしょうね。日本には奴隷はいなかったと言われていますから、この時代に墓堀りを生業にしている人でもいたのでしょうか。横穴の数を数えても何年もかかって作り上げているように思うのですがね。
この横穴群の百穴のてっぺんには、松山城の城跡もあるんです。豊臣の時代に落城していますね。その時の落城の様子を昔、本で読んだことがあります。歴史の上に歴史の跡が残っている遺跡なんですよね。
軍需工場跡
横穴群の下に、大きな穴がいくつか開いています。これは太平洋戦争の時に作られた軍需工場跡になります。こちらの穴は高さも広さも奥行きも深いです。危険なので途中は鉄作が設けてあり進むことはできません。夏は天然のクーラーが効いていてすごく涼しいです。奥深くの鉄作の先をじっと見ていると、なんか出てきそうでちょっと怖いですね。
この場所、呪いのビデオで有名になったんですよね。岩から人が浮き出てくるってやつです。でも、幽霊の噂なんか聞いたことないので、これは作り物かな?とも思っています。他にも戦隊ものの撮影場所にも使われていたりするんです。
この軍需工場は実際は機能しませんでした。出来上がる前に戦争が終わってしまったからです。おかげでここの場所は標的にされないで済みましたけどね。この軍需工場はたくさんの朝鮮人の方が動員されていたと言われています。そのせいで朝鮮人が壁に埋まっているなんて話をする人がいますが、実際はそのようなことはなかったようです。この場に働いていた人の証言がいくつか残っており、朝鮮人と日本人は一緒に働く感じではなく、話もほとんどしなかったとか。
逆にほかの場所の労働がきつくて、この作業場に逃げてきた朝鮮人が多かったようです。その時期だけ朝鮮人宿舎などが出来、たくさんの朝鮮人で町はあふれていたようですが、戦争が終わったとたんほとんどの朝鮮人は帰国したり、別の場所に移ってしまったみたいです。当時の町の人口統計の記録に残っています。
3つの歴史がつながる場所
この岩山には、古墳時代の横穴が無数中腹にあり、一番上に戦国時代のお城跡があり、一番下に太平洋戦争時代の軍需工場跡があるという長い歴史の跡が刻まれています。そう考えると不思議な気持ちになりますね。
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