あの新選組、局長の近藤勇が着たとされる鎧が発見されたという事です。
凄いと思いませんか?
近年になって歴史的有名人の直筆の手紙が発見されたりするニュースもちらほらありますが、このような何百年前のものがいきなり発見されるって何なのだろうと思ってしまいます。
そのようなものがどうして今まで発見されなかったのだろうと考えますが、人の寿命は大して長くありませんから、若い人などでも興味がなければその物に価値を見出せないのだろうなとも思います。
そのせいで、貴重なものが今もどこかで眠り続けているのかもしれないですよね。
今回は近藤勇の鎧が見つかりましたが、現物はとても綺麗で保存状態もよろしいようです。
近藤勇が着た鎧
上記の写真がその近藤勇が身に付けた鎧と云われています。
結構綺麗ですよね。
近藤勇は鎧を付けるのが嫌いだったようで、実際には1度しか身に付けなかったようです。
重いですからね。動きが鈍くなるだろうし、戦国の世ではありませんから、鎧自体幕末に付ける人もいなかったんですよね。
幕末には、西洋文化の服なども入ってきていましたから、鎧を着るという習慣がすでになくなっていましたからね。幕末に幕軍が鎧を着て戦っていたようですが、身軽な西洋の服装をした官軍に押されてしまい、最終的には幕軍も西洋の洋装に変えていましたね。
北海道に渡った土方歳三の写真には西洋の服装をした姿が映っていますからね。
この部分は旗頭といって鎧の腰の部分についています。この場所に旗を立てるようなもののようです。
こちらは兜ですね。
とても150年が経過したように見えません。今でも付けられそうですよね。
この兜と鎧は、富山県高岡市のお寺から発見されたという事です。
富山県と近藤のつながりがわかりませんが、誰かが手に入れてたまたま富山のお寺に寄贈されたのでしょうか。どちらにしても貴重な資料というものですね。
新選組とは?
新選組を知らない人もいるでしょうから、軽く説明しておきます。
江戸時代の終わりに黒船が来航したことで、勤王の志士という人たちが現れました。
彼らは長州(山口県)・薩摩(鹿児島県)・土佐(高知県)の武士が多く、有名なところでは、桂小五郎、坂本竜馬などがいますね。勤労の志士は皆、外様大名の支配下の人たちが多く、徳川に遺恨を持っていたとも云われています。
関ヶ原の戦いで徳川に負けた方の武士たちは外様大名と云われていました。積年の恨みを晴らしたのが幕末の戦いだったようにも思われます。
その中で徳川方についていたのが新選組です。彼らは江戸に近い多摩の出身で農家の出でした。武士に憧れた少年たちが幕末の機運に乗って新選組を結成したのです。
局長は近藤勇、副長は土方歳三になります。この新選組の中の1番隊長をしていたのが沖田総司になりますね。彼らは徳川を守るために勤労の志士と対立することになります。
池田屋事件
近藤といえば有名なのが池田屋事件です。
長州、土佐藩の尊王攘夷派志士を襲撃した事件のことです。
この時代、尊王攘夷派が京都で人を斬ったりしていました。そのため、京との治安を守るために結成されたのが新選組だったわけです。
尊王攘夷の志士たちが京の町に火を放つという情報が新選組に届きます。
その場所が池田屋だったわけです。
襲撃した新選組は尊王攘夷の志士を捕縛して、彼らの計画を阻止することが出来ます。
この池田屋事件で新選組の名前が有名になったと云われています。
近藤勇という人物
近藤勇は小さな道場の主でした。小さなころから武士に憧れ、やがて京都に向かい新選組の局長になります。近藤勇の写真が残っています。
近藤の有名な逸話でげんこつが口に入るというものがあります。
写真を見る限り、本当にげんこつが口に入りそうですよね。
最期は処刑されて罪人扱いされてしまいますが、彼は幕末の武士の一人だったのではないでしょうか。忠義を尽くすことが武士なら、最後まで徳川を守ろうとした生き方が伺えますね。
そんな近藤勇が着た鎧、着ている姿を見てみたかった気もしますね。
時代を駆け抜けた最後の武士の遺品の発見、どんな気持ちでこの鎧を身に付けていたのでしょう。