昔のお札に聖徳太子の姿が印刷されていましたが、この姿は実際のところ聖徳太子ではないそうです。
そのために現在では「伝聖徳太子像」といわれています。
また、聖徳太子という名は没後におくられた名であるため、生きていた時の名は「厩戸王」となっているそうです。
東京国立博物館蔵
聖徳太子の逸話
聖徳太子に関しては逸話が多く、聖徳太子没後に起こった聖徳太子信仰とも相まって史料自体も信仰と事実が混在しているために何が信実で何が嘘なのかがわからなくなっているというのが現状です。
1:出生
聖徳太子(厩戸皇子)は、用明天皇の第二皇子であり、欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女を母に持つ。
母の間人皇女の口から胎内に、西方の救世観音菩薩が入り身ごもった。その赤子がのちの聖徳太子である。
また、間人皇女は厩の前で皇子を産んだことで、その子の名を厩戸皇子と呼ぶ。
2:2歳
厩戸皇子が2歳の時、東の方角に向かい合掌して「南無仏」と唱えた。
3:豊聡耳
ある日、厩戸皇子が人々の請願を聞くという機会があり、その場にいた人が我先にと一度に請願の内容を伝えた。その場にいたのは10人とも8人ともいわれる。
厩戸皇子はその10人の言葉を1度で理解し、的確な答えを彼らの返した。これ以降、豊聡耳(とよさとみみ・とよとみみ)とも呼ばれるようになる。
4:飛翔する
推古天皇6年、4月に厩戸王は諸国から集めた良馬を献上させた。その数百の馬から四脚の白い甲斐の黒駒を指し示し、「この馬は神馬である!」と見抜き舎人の調使麿に飼育させた。
同年9月に、厩戸王が試乗すると馬は天高く飛び上がり、厩戸王と調使麿を乗せて東国へ赴き、富士山を超え信濃国まで行ったという。都に戻るまでの期間は三日だったという。
5:四天王
物部氏と蘇我氏の戦いがあり、その戦乱の中厩戸皇子は四天王の像を木彫りで彫った。その四天王があらわれその戦は厩戸皇子のいる蘇我氏に軍配が上がった。
その後、厩戸皇子は四天王を奉る四天王寺を創建した。
信仰の対象になった聖徳太子
奈良 法隆寺蔵
どの逸話も聖徳太子が超人であるかのようなものばかりですね。
なぜ、聖徳太子をこのように表現する必要があったのでしょう?
それはのちに起きた太子信仰にまつわっているもののようです。
太子信仰が広まったのは、奈良時代。
聖徳太子が亡くなってかなり年数が過ぎてからです。
皇族や僧侶の間で始まり、平安時代にはかなり盛んに行われるようになったようです。
一般人に広まったのは中世のころからになります。
聖徳太子を超人にすることで、仏教の信頼性を高め広めることに使われたのではないでしょうか。
キリストが超人のような事をしたという話があるからこそ、キリスト教があれほど世界に広まっていったわけです。どちらも救世主ですよね。
宗教を広めるためには、そこに神がかり的なものが必要なのかもしれません。
それにより、当時の人はその信仰を信じて疑うことがなかったのでしょう。
信仰が広まることで徳をするのは僧侶であるし、皇族出身の聖徳太子であることが皇族にとっても良かったのでしょうね。
聖徳太子は存在しなかったのか?
作り上げられた聖徳太子像、聖徳太子は実在しなかったのか?
実際に、17条の憲法を作っていますし、推古天皇の摂政にもなった記録があります。
また、日出処の〜から始まる遣隋使が渡した手紙の記録もあります。
隋と対等に渡り合えるほどの人物であった厩戸王=聖徳太子という存在はいたといえるでしょう。
魔法のような逸話は嘘だとしても、彼が行った偉業や人物的な大きさを考えれば、すごく頭の良い、行動力のある人物であったことがうかがい知れます。
私たち現代人が日本の偉人として聖徳太子を挙げたとしてもおかしいことではないといえますね。